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番外編 『指先』
7月も半ばを過ぎ、見知らぬ土地の生活にもすっかり慣れた。
基礎から家具づくりを教わり、基本技術を磨く日々はさして起伏のないものだが、志木は飽くことを知らず毎日を送っている。
白い髭を鼻の下と顎に蓄えた老師匠は、体の衰えはあるものの臥せることもなく元気だ。
志木のことは孫のように思ってくれているようで、修行については厳しいながらも日々の暮らしは実に和気藹々としている。
昼食と夕食の仕度は近所に住む主婦がしてくれるが、朝食をつくるのは志木の仕事だった。
米の炊き方と味噌汁の作り方は祖母に教わってきたものの他には魚を焼くぐらいしかできなかった志木だが、それも次第に慣れてきて、今では見た目が多少悪くとも食べられるものが作れるようになっている。
体が衰えると共に家具の受注を中断していた老師匠だが、志木という人手を得て修繕に限りいくつかの注文を受けた。
大きなものは引き受けておらず、1年を目処に受注した数も10年前と比べると遥かに少ないということだったが、それでも志木には得難い経験になる。
搬入などの力仕事は全て受け持ち、志木は常に老師匠のそばでその技に目を凝らし続けた。
そんな充実した日々だったが、足りないものもあった。
喜多見の存在だ。
覚悟はしていたが、声だけというのがこれほど淋しいものだと思わなかった。
3、4日に一度は連絡をしているが、会話をする時間はほんの数分だった。もともとさして会話がなくても苦ではなかっただが、電話口でずっと黙っているわけにもいかない。だが共通する話題が特にないので、近況と世間話で終わってしまう。
盆には帰れと老師匠に言われており、地元に戻れば顔も見ることができ直接触れられるのだからと思っていた志木だったが、それも叶わぬこととなった。
今年から志木の出身校――つまり喜多見の勤務校の夏期講習の期間が延長になったからだ。今年度も3年生の古文を受け持っている喜多見は当然それに掛かりきりになる。
ゆっくり会っている時間はなさそうで、志木もそれならばこの夏は帰らず修行に精を出そうと決めたのだ。
決めたはいいが、平気なわけではない。
電話で声が聴けても、離れていることに変わりはない。
志木を撫でてくれる手も、あるかなしかの微笑とともに名を呼んでくれる声も、今は遠い。
「会いてえなあ…」
志木はため息混じりに、小さく小さく呟いた。
敷きのべた布団の上に大の字に横になっていた志木は、枕元に置いた携帯電話を取り上げる。時刻は午後11時になろうとしているところだった。
何事もなければ喜多見はもう帰宅しているはずだ。それほど早寝ではないが、明日は金曜日なので過分な夜更かしはしないだろう。
志木は少し考えて大丈夫だと判断し、空で言えるほどしっかりと覚えている喜多見の自宅の電話番号を打ち込んだ。携帯電話のアドレス帳にはあえて喜多見の携帯番号しか入れていない。
コール音の間に声を聞きたくて逸る自分を落ち着かせる。深呼吸をすると、胸の高まりが少し治まった。
そして5回目のコールの途中で、耳に慣れた声が応答した。
『もしもし』
「――喜多見?」
『志木か。どうした?』
たったひと言で志木の声を聞き分けてくれたことが嬉しくて自然と口許が弛む。
「声、聞きたくてさ」
『ああ――すまないがいまはちょっと…』
「え…っごめん、忙しかったか!?」
返って来たまったく甘くない言葉に志木ははっとして問い返した。弛んだ頬がみるみる強張り、背中が緊張する。
『期末考査の採点の最中でな』
「あ…――そんな時期か」
そういえば去年のこの時期も喜多見は忙しくしていた。志木は、すっかり忘れていた自分の学習能力のなさにがっくりと肩を落とす。
『明日の朝はいつもより早いのか?』
「え? や、いつもと同じ6時」
『採点が終ったら掛け直すから、少し待っていなさい』
「でもあんた明日ガッコ――」
『あとでな』
落胆を振り切って喜多見の都合を慮った志木に、喜多見は小さく笑って告げ、電話を切った。
志木はしばらく携帯電話を見つめていたが、待てと言うならとりあえず待っていようと、昨日買ったまま開いていなかったバイク雑誌を手に取った。
喜多見からもらった腕時計で時刻を確認すること数度目。
最後まで目を通し終えた雑誌から手を離した頃には、午前0時をいくらか回っていた。
しばらく睨むように時計を見つめていた志木だが、やがて大きく息を吐いて布団に突っ伏した。
受け持っている授業の数やテストの日程によって、時には徹夜して採点をしていることを志木は知っている。そうでなくとも、喜多見は休日前の夜でない限り大抵1時前には寝てしまう。
もしかしたら今夜は駄目かもしれないと覚悟して、そうなったら明日また電話をすればいいと自分を納得させ、志木は目を閉じた。
だがどうにも目が冴えて、右へ左へと寝返りを打ってみるが、どちらを向いても落ち着かない。しかも、しきりに喜多見のことが思い出されてならなかった。
やがて、喜多見の後ろ姿がふと脳裏に浮かんだ。
すっと伸びた背中。常に短くしているので、後ろ髪に邪魔されることなく襟足とワイシャツとの間に首筋が覗いている。
いつもしっかりとネクタイを締め崩れることのないその襟元をくつろげられるのは、喜多見本人と志木だけだ。
志木だけが、その素肌に触れられる。
白いシャツを押し広げて首筋から鎖骨にかけてを啄むと、喜多見はいつも志木の頭をくしゃりとかき回すようにして撫で、微かな吐息を洩らした。
「……やべ……」
志木は小さく口にして、そろそろと股間に右手を伸ばした。
止まらない記憶の再生が先へ先へと進んで行くにつれ、志木のそこも否応なしに反応を顕していく。
そもそも一緒に暮らしていたわけではないので独り寝のわびしさというものはない。
ただ、静まり返った夜半にふと恋しさが募り、喜多見の肌の温度や感触を思い出した時、何とも言えない切なさを覚える。そして、欲情もした。
まだ若い志木にとって、それは至極当然なことではあった。惚れた相手の体を思い出して何も感じないほど枯れてはいない。
その度にいつも自分で紛らわせて来たが、このところ空しさと物足りなさが増してきていた。どうしても、自分の手と喜多見の手の感触が重ならないからだ。
喜多見の手は、志木の手ほど熱くない。指も、華奢ではないが志木よりは細い。そして何より、その指先は志木自身よりも志木の何もかもを知っているかのように巧みに動く。
トランクスから導き出した己を右手で慰めながら、志木は体に刻み込むようにして記憶している喜多見を思い浮かべた。
少し低い体温。だが、息が上がりうっすらと汗を浮かべ始める頃には、吐息は熱く変じている。
憎らしいほど動じず、唇に薄く笑みを浮かべて伸ばされる手。頬や頭を撫でていくその心地よさに、いつも陶然とした。
激しい声はあげないが、抑えた声に、志木の耳元で小さく囁かれるひと言に、より情欲が募った。
「喜多見…っ」
硬く勃ち上がりつつあるものを扱きながら、小さく名を呼んだ。
だが、そばに喜多見はいない。そして、触れる手指も喜多見のものではない。
もどかしさと寂しさに、志木は堅く目を閉じた。
――刹那。
唐突に、枕元の携帯電話がぶるぶると震えた。
夜間はマナーモードにしているのだが、よりによってこんなタイミングで電話がかかって来るとは思ってもみなかったので、志木は大袈裟なほどにびくりと肩を震わせて、思わず声を上げそうになった口許を左の手のひらで覆い隠した。
小さな液晶画面には、喜多見の家の番号が表示されている。
志木はためらいがちに電話へと手を伸ばした。今夜はあきらめることも覚悟したので喜多見の声を聞けるのは嬉しいが、あまりにもタイミングが微妙だ。
だが、せっかくかけ直してきてくれたのだ。出ずにはいられない。
「――もしもし」
『…待たせたな』
落ち着いた声が耳に飛び込んで来た。聞いた途端に嬉しさが胸に満ちる。
しかし、非常に中途半端で、そして間抜けな状態であることに変わりはない。
志木は笑みを抑えて喜多見に尋ねた。
「採点終わったのか?」
『ああ。――呼んだか?』
「…は?」
『今し方、おまえに呼ばれた気がしたんだが』
「え…」
志木は絶句して体を起こし、周囲を見回した。
たしかに電話がかかって来る直前、志木は喜多見の名を口にした。だが、喜多見にそれが聞こえるはずがない。
『呼んだのか?』
「いや、あの――」
口ごもりながら着ていたTシャツの裾を引っ張って股間を隠す。
見えるわけがないのだが、猛烈に恥ずかしくて後ろめたい。
そして“駄目だ”という思いで思考が満たされる。
何食わぬ調子で、呼んでないと答えればよかった。そして「幻聴を聞くくらい俺に会いたいのか」とでも言ってみればいいのだ。
だが出来なかった。
駄目だ。きっと気付かれる。
はたして喜多見は数秒の沈黙の後に言った。
『…すまない。邪魔をしたようだな』
「じゃ…っ邪魔なんかじゃない、けど」
『続けていいぞ』
「つ――」
『手伝うか?』
「――…は?」
まったく想像もしていなかったひと言に、志木はぽかんとして応じた。
『手伝おうかと言っている』
「手伝う…って、どう――」
『――瑞帆』
何を言い出すのかと慌てふためいた志木の耳に、ふいに囁くような喜多見の声が飛び込んで来た。
からかうための不意打ちではない。肌と肌が触れる距離でしか聞いたことのない、うっすらと色情を帯びた声だ。
『瑞帆…?』
「……喜多、見…」
喉奥から絞り出した声は掠れていた。
心音が早鐘のように鳴り響く。体温が上昇し、血液が体の中心に向かって急速に集まってゆくような感覚に襲われた。
そして、
「きたみ…」
自分でも驚くほどの甘い声が、何かを懇願するかのように求めてやまない人の名を呼び、志木は再び己のものへと手を伸ばした。
『…片手で触っているのか?』
「携帯、持ってるから……」
志木の携帯電話にはハンズフリー機能は付いていない。
枕に電話を置いてその上に横になるよう言った喜多見に従って横臥し、志木は枕の上の携帯電話に耳をあてた。
『覚えているだろう?』
トーンを落とした声が、志木の耳にするりと忍び込む。
『全部覚えていくからと言ったな?』
「覚えてる――全部」
『それならあとは想像力だ。続けてごらん、瑞帆』
「ん――」
志木は喜多見の手を思い浮かべながら、裏筋をつうっと撫で上げた。触れるか触れないかという微妙な感触に、思わず吐息があふれる。
軽く握ってゆるゆると上下に動かすと、一度引いた熱さもすぐに蘇り、吐き出す息もあっという間に荒くなっていった。
早く強い刺激を与えてのぼりつめたいという衝動を必死に抑え込んで、志木はゆっくりと手を動かした。喜多見ならば、そんな性急なことはしない。
喜多見が余裕をなくすことはあまりなかった。特に互いの体に触れる時は、むしろ喜多見の方に主導権がある。志木の好きにさせてくれても、要所を押さえているのは喜多見なのだ。
『少しだけ力を強くしようか』
「…あ…っ」
言われるまま力を込めると、撫でるようだった指先が雁首を強く擦りあげて思わず声が出た。
そして、電話の向こうからふっと笑う気配が届く。
『あふれてきたな』
「……ば…ッ」
志木は絶句して顔を赤らめた。本当に、どこかで見ているのではないかと思った。
勃ち上がったものの先端からは、たしかに先走りがあふれ出している。
「指を濡らして、滑らすように」
喜多見から指示が続いた。睦言のような密やかさに、唇から熱いため息が洩れる。
志木は言われたとおりに先走りを掬い取り、竿全体に広げるようにして扱いた。
『左手が遊んでいるぞ』
またも志木の姿が見えているかのような言葉だ。携帯電話から手を離してはいるが、左手は所在無さげに敷布の上に投げ出されている。
ここに至って、志木はもう気にしないことにした。
見ているのが喜多見だけなら構わない。そんなことに気をとられるよりも、喜多見の声と指示がもたらす悦楽に浸りたい。
志木はそろそろと左手を伸ばし、双玉に触れた。喜多見のするように柔く揉むと、びくんと腰が跳ねる。
思わずこぼれる声を、次第に荒さを増す呼吸を隠すことなく、志木は携帯電話に頬を押しつけた。
快感が増す度にじわりとあふれてくる先走りが伝って落ち、それを受け止めた手指が上下すると共に小さく濡れた音を立てる。
閉じた瞼の裏には、そんな志木を前にして薄く微笑む喜多見の顔が浮かんだ。
「…はぁ、は…っ…喜多見――」
『…気持ちいいか…?』
「ん…いい……」
耳に直接唇を付けられているかのように声が近い。耳朶に吐息を感じた気がして、答えた声が上擦った。
あれほど違和感のあった手指が、いつしか本当に喜多見のもののように感じられ、指先のもたらす甘い悦楽に下肢が震える。
硬く張りつめたものはもう限界間近だ。
「……っ喜多見、もう…」
『ああ、いっていいぞ。――瑞帆』
低い囁きに、ぞくりと背筋が震えた。そして、触れているその場所 に向かって熱が集まり、何かが腰から背中を駆け上がる。
先端の割れ目を爪で押し開くようにして刺激して強く扱き上げると、その瞬間、閉じた視界に光が閃いた。
「…きた、み……ッ」
志木は掠れた声で名を呼び、それと同時に熱い滾りを手の中へと吐き出した。
『……瑞帆?』
「―――」
ややあって喜多見が志木を呼んだが、志木はすぐには返事ができなかった。
驚いた。自分の手でこれほど気持ちが良かったのは初めてだ。
『…悦かったか?』
「うん……」
志木は半ば惚けたまま素直に答えた。
喜多見はどうなのだろうと思ったが、いつもの涼しげな姿しか浮んでこない。声にも呼吸にも乱れはなく、同じ行為をしている風ではなかった。だがそれが喜多見らしいともいえ、志木は逆に安堵した。
しかし、自分ひとりだけ気持ち良くなって満足していては気が引ける。
「…あんたは?」
『私か? 楽しかったよ』
手を拭って丸めたティッシュをゴミ箱に向かって放り投げ、入るのを見届けてから志木は問い返した。
「楽しかった?」
『ああ』
口調はいつものように平静だが柔らかく聞こえた。共に脳裏に浮かぶのは、口許の小さな笑み。
先刻も思い出した、喜多見の手で、その体の中で余裕をなくす志木を見ている時の顔だ。
体を重ねている時の、切羽詰まった志木の顔が良いのだと喜多見は言う。
かつては容易くいいようにされてしまう事への悔しさがあり、今でも多少はそれが残っている。だが、喜多見の中に熱を生み出すことが出来るのは自分だけだという嬉しさも大きかった。
「それならいいけどさ――今度会ったときは俺の番な」
直に触って、抱きしめて、自分の手で喜多見を悦くしたい。志木よりも低い体温が徐々に上がっていくのを感じながら、体を繋げたい。
喜多見は笑いを含んだ声で「わかった」と答えて寄越した。そしてその声が揶揄する調子に変わる。
『あまりやりすぎるなよ? 手でしか満足できなくなるぞ』
「わかってるよ。わかってるし…あんたなしじゃここまで気持ちよくなれねえよ。自分の手よりあんたの手がいいし、手よりもあんたの中がいい」
『…正直な奴だな』
「あんたには嘘つけねえんだよ、俺」
『そうだな』
喜多見にだけは、感情も体も一直線に向かっていく。
そして、他の誰よりも隠せない。強がりを言っても、はぐらかしても、誤魔化しても、結局曝されてしまう。
もっとも、喜多見にとってはそんな志木が好ましいらしい。嘘をつけないと言う志木に小さく笑って答えた喜多見の声は、いつもよりも甘くやさしかった。
そして、唐突に話題が変わる。
『ああ、そうだ。秋にそちらに行くから』
「え? こっちって…ここに?」
『ああ。夏は無理だが、3年生の担任ではないぶん秋の連休には時間が取れそうでな』
「あんたがこっちに来てくれんの…?」
突然の宣告に思わず肘で上体を起こしながら、志木は喜多見に尋ねた。
『おまえは帰ってこられないだろう? まずいか?』
「そんなことねえよ! すっげえ嬉しい!!」
信じられない思いで、喜多見には見えないにも拘わらず志木は懸命に首を振った。
志木が地元に戻らない限り、喜多見に会うことは叶わないと思っていた。盆休みを諦めた時点で、早くとも年の暮れまでは会えないと覚悟を決めていたのだ。
それなのに、喜多見の方から会いに来てくれるという。全く想像もしていなかっただけに驚きも倍増だ。
「でもなんで…? 無理してないか?」
『言っただろう? 今年は教科担当だけだから休みは取れるんだ。ここ数年、旅といえばおまえと出掛けた2回だけだし、飛騨は行ってみたい場所だったしな』
「…旅行のついで?」
『馬鹿だな。おまえだけではないぞ?』
――会いたいと思ってるのは…?
志木は出かかった言葉を飲み込んだ。軽く息を吐いて、返ってきた喜多見の言葉を好意的に受け取ることにする。
表情にも感情にもあまり起伏がない上に淡泊で判りにくい男だが、志木とのことは遊びでも冗談でもなく、喜多見なりに志木を大事に思ってくれている。
たった一度だけだが、言葉にもしてくれた。
『休みが確定したら連絡する』
「ん、わかった。待ってる」
『変わらず6時起きなんだろう? そろそろ寝なさい』
言われて腕時計に目を遣ると、いつの間にかとうに1時を過ぎていた。
もう少し声を聞いていたい気持ちは当然あったが、志木はそれを堪えて喜多見に従うことにする。
「おやすみ。また電話するから」
『ああ、おやすみ』
あっさりとしたひと言を最後に、名残惜しさを顕す間すらなく電話は切れた。
志木は、畳んだ携帯電話を枕元に置いて布団に潜り込んだ。
愛の言葉のひとつもなくても、会いに来てくれるというその一事だけで心は満ち足りている。熱の鎮まった体は落ち着き、ゆるやかな眠気が訪れていた。
甘い指先が思い出されなくもなかったが、秋になれば本物の喜多見の手が志木の髪に、頬に、体に触れてくれるだろう。
再会の時に思いを馳せ、志木はゆっくりと目を閉じた。
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