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Vol.17 『君へ還る』(前編)
陽炎が立ち上りそうな熱いアスファルトの上できつい陽光に目を細めた志木は、前方に巡らせた視線を固定した。
視線の先に、見知った男の姿がある。この春から担任になった、喜多見芳秋だ。
真夏の日差しの下でも涼しげなたたずまいに、どこか侵しがたい空気を帯びている。だが志木は、それが嫌いではない。生徒達に時に鉄仮面とさえ呼ばれる動じなさが、時折見せてくれる微笑をハッとするほど柔らかく際立てているように思えるのだ。
近寄りがたいという生徒もいたが、話してみると対応は丁寧で、質問にも明確な答えをくれる。授業を受け持ってもらった生徒にはなかなかに好かれている教師だった。
この夏休み、数学の補習に通っている志木は、補習が終わったあとに国語科準備室に立ち寄り、駆け足の補習では理解しきれなかった箇所や喜多見の専門である古文をみてもらっていた。
その間、いろいろな話をした。意外な面も見た。
喜多見はどこか、他の教師とは違った。誰もが無理をするなと、それほど働く必要があるのかと言ったアルバイトも、無茶さえしなければ止めようとしなかった。いくつか誘われていた部活動よりもバイトを優先したいと思っていた志木の気持ちをわかってくれた。
やがて、世の凡例や枠に嵌めることなく志木を志木として見てくれる人だとわかった時に、志木は自分の中で喜多見が特別な位置にいることに気付いた。
隣りにいると落ち着いた。かけられた言葉のひとつひとつが、染み入るように体に溶け込んだ。
いつも、1秒でも長く一緒にいたかった。どんな小さなことでもいい、喜ばせたいと思った。
まっすぐに伸びた背中をぼんやりと見つめていたら、ふと喜多見が振り向いた。その唇に、あるかなしの微笑が浮かぶ。
自分1人だけに向けられたそれに、胸がふるえた。
「志木? どうした?」
呆けたように突っ立っていた志木に近寄って来た喜多見が声を掛けた。志木の顔の前に手のひらを翳して、その意識を目の前のものに引き戻す。
「……おはよーございます…」
「おはよう。どうした? まだ半分寝ているのか?」
「……んー……」
志木は曖昧に返答して目をこすった。
担任教師で、しかも四捨五入したら30になる年齢の男にときめいてしまった事実に驚き、唖然とした。
だがこれで、喜多見に対する自分の気持ちがはっきりした。
好きなのだ。
そばにいたい。触れてみたい。知りたい。
胸の内を、そんな思いが駆け巡る。
「今日で数学の補習は終わりだろう? 休まずよく頑張ったな」
日に日にさぼる生徒が増えていき、これまで皆勤したのは志木をはじめ数人しかいなかった。我ながらよく全日通いとおしたものだと思う。
だが志木は、数学の補習のために休まず通ったわけではなかった。
補習のあとに、他の教科を喜多見がみてくれる。それがなければきっともう通って来てはいない。
喜多見と会うために、倦みもせず通い続けていたのだ。
「先生――」
「なんだ?」
「うん……」
数学の補習が終わって、このまま2学期まで喜多見と会えないのは淋しかった。だからといって、これまで普通に担任教師と生徒でしかなかったのに、学校の外で会いたいとは言い出しづらい。
何より、自分は男で、喜多見も男で、教師と生徒で――この想いをどう告げたらよいのか解らなかった。
だが、逢いたいと願い、知りたいと思う気持ちに変わりはない。
「志木?」
「…あのさ、先生、明日からって何か用事とか予定とか、ある?」
「いや、学校に来るだけだが」
「じゃあさ、明日以降もベンキョーみてくんないかなあ。なんか、わかるようになってきたしさ」
躊躇いがちに頼んできた志木に、喜多見は少し驚いた表情をして首をひねった。
「どういう心境の変化だ?」
「2学期になったらまた予習とか復習とかやれなくなるだろうし、今までわかんなかったとこを教わるなら夏休み中かなって。喜多見の教え方、すげえわかりやすいしさ」
「……“先生”だろう」
「あ、ハイ、先生。喜多見先生」
言葉遣いを直されて、志木は慌てて言い直した。生徒間では喜多見と呼び捨てにされていることが多いので、ついポロリと出てしまう。
アルバイトに追われて――というのは言い訳だが――授業以外の勉強時間がない。志木自身、それに焦りも心配もなかったため、授業を不真面目に受けていたわけではないのだが、あやふやな箇所をあやふやなまま過ごしてきてしまったので基礎が身についていないのだった。
喜多見はこの数日間、それを踏まえて基礎と応用を順に志木に教え込んだ。
それほど“学校の勉強”が好きではない志木だが、その他大勢向けではなく志木1人に適した教え方をされ、問題が解けていく楽しさを感じ始めていた。
バイトは夜にしっかり入れればいい。昼のあいだ喜多見がみてくれるのなら、勉強に専念してみるのもいいんじゃないか――志木はそう考えた。
もちろん、喜多見と一緒にいられるというのもある。
さすがにそんな思惑までは読み取れなかったか、喜多見は深く考える素振りは見せずに小さな笑みを浮かべて頷いた。
「わかった。ただし、専門外の教科はある程度までしかみてやれないぞ」
「うん、それでいい。ありがとう、喜多見――先生」
またも呼び捨てにしかけた志木に苦笑を浮かべて、喜多見は志木の頭に手を伸ばした。
指がくしゃりと髪を掻き回していったのが、妙に心地よい。
志木は歩き出した喜多見を追いながら、目を閉じてその感触を反芻した。
「――き」
…ん……?
頭の中で再現しているはずなのに、確かな手のひらの温みを感じて訝しく思う。名前まで呼ばれたような気がした。
「志木」
「…あ……?」
明らかに耳元で声を掛けられ、志木は瞼をこじあけた。
「風邪をひくぞ。何か着なさい」
「え…?」
今度の声は少し遠のいた。志木は、声のした方をぼんやりと見上げた。
仰向けに横たわる志木の隣りに座った喜多見が、素肌の上に白いシャツを羽織って志木を見下ろしている。
「――……ゆめ、か……」
一瞬混乱したが、志木の頭はすぐに覚醒して状況を把握した。
喜多見を好きだと自覚した頃の夢を見ていたのだ。
1年半前、2年生の夏だった。
そして今は3年の3学期。卒業式まであと10日だ。
「どうした?」
「うん……思い切って告ってよかったなと思って」
志木は喜多見の問いに答えながらもぞもぞと体勢を変えて、まだボタンが留められていないシャツの隙間から覗く体に抱き付いた。
「こら」
呆れた調子の声が降ってきて、引きはがそうと手が肩に掛かる。
しかし志木は、その手に力が込められるより先に身を乗り出して、敷布の上に喜多見の体を押し倒した。
そのまま首筋に顔を埋めて、跡が付かない程度に口づける。
シャツの中に差し込んだ手で腰骨から脇腹にかけてを撫で上げると、小さく息を吐く音がした気がした。
「日付けが変わるまで、まだ時間あるよな?」
「…今夜は帰るんじゃなかったのか?」
「帰るけど――その前に2ラウンドめってことで」
「ば――」
志木は這い上がって喜多見の唇をキスで塞ぎ、言葉の続きを押し止どめた。
喜多見の体を腕に閉じ込め、舌で舌を絡めとる。
ほんとうは眠りこけてしまう前に2回しているので3ラウンドめになるのだが、回数などどうでもいい。ただ、喜多見が欲しかった。
「…ッ木――ちょ…待…っ」
「待てねえよ」
離した唇から制止の声が洩れたが、志木は拒否して耳朶に舌を這わせた。
「喜多見――」
名を呼んで、肌を手指でたどる。舌先で確かめ、唇で啄み、志木は逸る気持ちを抑えて徐々に組み敷いた体を開いていった。
自分本位にならないよう懸命に自制している志木に気づいたのか、喜多見は抵抗をやめ、志木のするに任せている。
睦言もなく、吐息だけが室内に拡散する。まだ腕に引っかかっている白いシャツが、白いシーツの上で波のようにうねった。
やがて、志木の頭部や背中に添えられていた喜多見の手を、体を起こした志木が掴んだ。
「……いい?」
喜多見は良いとも悪いとも言わなかったが、抗わないのを了解の証しと受け取って、志木はゆっくりと己を埋め込んだ。
この熱い充足感は、初めて体をあわせた時から変わることがない。
「……ど…した…?」
長いため息をついて内部の熱さを満喫していると、ふと喜多見が声を掛けてきた。
見ると、上がった息を落ち着けるように深く呼吸をしている喜多見の手が、そっと志木の顔に伸びた。
「…なにが?」
「このところ頻繁に欲しがるだろう? 足りないのか?」
「…というか――」
卒業が近づいては来たが、ことさら逢う回数を増やすことなく今日に至っている。3年生を受け持っている喜多見が何かと忙しいせいもあるが、離れることにあまり不安がないというのが一番の理由だろう。
だが、以前は5分間だけ話して別れても気が済んだが、最近はやたらと触れていたいと思う。1時間でも時間があれば体を重ね、泊まっていける夜には何度も求めた。
離れても好きでいる自信が、志木にはある。志木が好きでいれば喜多見はそれを受け止めてくれるだろうという、ぼんやりとした確信もある。
だが、男であれ女であれ、志木以外の誰かが喜多見に惚れないとは限らないのだ。しかも志木はこれから数年の間、そんな時に喜多見のそば近くにいることが出来ない。
誰に好意を持とうとそれは個人の自由だが、そうなれば言葉を交わしたくなるだろうし、肩でも背でも衣服越しでも触れたいと思うだろう。だが、自分以外の人間が愛慾をともなって喜多見に触れるのは嫌だった。しかし、腕や手に触れる程度の不可抗力な接触は避けられるものではない。
「…におい付けとかなきゃなーと思って」
自己満足にすぎないが、触れられて残されるかもしれない好意の残滓を志木の手で消し去ることが出来ないのなら、せめて自分の何かを喜多見の体に刻みつけて残しておきたかった。
「…犬化が進んでいないか?」
「足りないってのもあんのかなあ? でも全然飽きねえよ」
「犬化じゃなくて猿化か」
「サルかよ……」
志木はがっくりとうなだれた。だが、負けるものかと気を取り直して喜多見の体を抱え上げる。
「……ッ」
しばらく動かずにいたところを自身の重みも手伝って深く貫かれ、喜多見が息を飲んだ。
あまり表情に出るタイプではない上に、ただでさえ喜多見は志木の何枚も上手だ。表情や外見から読み取れるよう努力はしているが、いまだ直感やなんとなく肌で感じるもののほうが確実だった。
だが、こういった場面で志木を甘やかすような喜多見ではない。駄目なら駄目だとはっきりと言うはずだ。だから、イヌだサルだと言われていても嫌ではないのだという確信はある。
はたして、喜多見は苦笑を浮かべて志木の頬を緩くつまみ上げた。
「程々にしろよ…? 私の体が保たん」
「ハイ、先生」
「先生と言うな」
「了解」
「…あ……ッ」
大きく揺すり上げられて、喜多見の唇から思わずといった風に声が溢れた。志木はそれをすくい取るようにして唇を寄せ、2度3度と突き上げる。喜多見の両腕が、咄嗟に志木の頭を抱いた。
「……っは…あ、…ッ」
「喜多見――」
髪を指先でかき乱すようにして頭を抱きしめられるのは嫌いではないが、これでは喜多見の顔が見えない。志木は繋がったまま、もう一度喜多見の体を敷布に横たえた。
そして、両腿を脇に抱えるようにして腰を叩きつける。
「し、き…ッ」
「なまえ、よんで」
1年前は、喜多見にも呼ばせなかった名前。
女の子のようで恥ずかしくて、実際、幼い頃はからかいの対象にもなった名前だ。
だが、喜多見に呼ばれるようになってから、親の付けてくれた名前なのだから大事にしろと喜多見に言われてから、呼ばれるのが嫌ではなくなった。
まだ照れくささもあるのだが、むしろ喜多見には呼んでほしいと思う。こうして、抱き合っている時にはなおさらだ。
「……っ――みず…ほ…ッ」
伸ばされた喜多見の両手が、志木の髪をこめかみからかきあげるようにして側頭部から後頭部へと移行する。
志木は熱さと快楽に顔を歪めるようにして微笑んで、喜多見の体を抱きしめた。
「卒業旅行?」
「そう。小田の親戚がペンションやってて、部屋空いたって言うからさ」
待ち合わせ場所のファミリーレストランで、いつもの面子の悪友の集いを前に岸田が言った。どうやら、志木以外のメンバーの参加はすでに決まっているらしい。
「おまえはどうする? 行く?」
「行く行く。いつ?」
「今週末」
「今週!?」
今日は水曜日なので、3日後ということだ。あまりに急な話で、志木は素頓狂な声をあげた。
「なに驚いてんだよ。おまえ、卒業式の次の日には引っ越しちゃうんだろ? 今週末しかねえじゃん」
たしかに卒業式は来週の金曜で、その翌日には志木は飛騨へと発つ。この街にいるのはあと1週間ほどしかない。
「もしかしてギリギリまでバイト入れてんの?」
「いや、バイトは先月末までだけど…」
キリがいいということで、年が明けてからは2つ掛け持ちしていたアルバイトも2月いっぱいで辞めていた。
だから今週末は、喜多見の家に泊まって丸2日間ゆっくり過ごすことが出来る最後のチャンスだった。
すでに喜多見から泊まってもいいという確約も取っていて、つい3日前の夜に喜多見の家を訪れたばかりだというのに、週末が待ち遠しくて堪らなかったのだ。
「行きたくねえ?」
「いや、そーじゃねえよ。行きたいけど」
「家族とどっか行く予定とか? それともまだ引っ越しの準備終ってねえの?」
「…んー……」
生返事をして志木は思案した。
喜多見といられる時間は何より大切にしたい。しかし、同じ天秤に乗せて比べることは出来ないが、友人達も大事な存在だ。
これから進む道が分かれ、予定も合わせにくくなるだろう。全員揃って出掛けるのはこれが最後になるかもしれない。
「…ちょお電話してくる」
志木は、携帯電話を片手に立ち上がった。
『行って来るといい』
返って来た答えは、志木の予想通りのものだった。
残念さなどかけらも滲まない冷静な声に、少しは独占欲を見せてほしいと叶わないだろう希望を胸に抱く。
「あんたと2人でしっぽり過ごすつもりだったんだけどなー…」
『何がしっぽりだ』
間髪いれずに返された冷ややかな声にがっくりと肩を落とし、志木は街灯のポールにもたれた。
『今この時しかない時間だろう。大事にしなさい』
「あんたとの時間だって大事だよ」
『それじゃあ、皆で共有する思い出におまえだけいなくていいのか?』
「それはちょっと――淋しいけど……」
止めてほしいのか背中を押してほしいのか解らなくなってきて、志木は首をひねった。
「あんたはいいの?」
『かまわんが?』
「即答かよ」
これも半ば予想していた答えとはいえ、こうもあっさりと返ってきては力が抜ける。志木は、ポールに寄りかかったままその場にしゃがみ込んだ。
『行っておいで。友達とのつきあいを疎かにするものじゃないぞ。週末潰れた分は来週時間を作るから』
「でもあんた、この時期は丸1日は休めないだろ?」
『どこに行くわけでなし、ひと晩でもいいだろう。大切なのは長さではなく密度だぞ』
「……うん…」
志木は同意して心を決めた。
密度も長さも両方欲しいところだが、忙しくしている喜多見にそういうわがままは言えない。それに、時間がないのだから仕方がないと突き放すことなく、ひと晩でも志木のために時間を作ろうと言ってくれたことだけで十分に嬉しかった。
電話を切って軽く息をついた志木は、大きく伸びをして辺りを見回した。
見慣れた街のあたりまえの景色が、やけに穏やかで懐かしげに見えるのは、もうすぐここから離れていくことによる感傷だろうか。
そして志木は、ここに至ってやっと背中に突き刺さる視線に気付いた。
背後のファミリーレストランを振り返ると、岸田だけでなく、いつの間にやって来たのか伊東と小田も揃って志木の様子を窺っている。どうやらずっと見られていたらしい。
窓際の席に陣取った悪友どもの元に戻ると、彼らはにやにやと笑みを浮かべて志木を出迎えた。
そして、空いていた岸田の隣に座った志木の脇腹を、岸田が肘で乱暴に突く。
水をひと口含んだところだった志木はその衝撃に激しく噎せ、涙目で岸田を見遣った。
「なにすんだよ!」
「吐いちゃえよ、志木」
「なにを」
「カノジョ、できたんだろ?」
「うわ、直球〜」
岸田の問いに、伊東がすかさず合いの手を入れる。
「いねえよ、そんなん」
「今の電話の相手がカノジョなんじゃねえの?」
「違うよ」
志木は表面上はなんの動揺も見せずに首を振った。本当に“彼女”はいないので、嘘をついているという意識が少なくて済む。
だが向かいのシートの伊東がさらに突っ込んできた。
「それにしてはキョドウフシンだぜ、志木」
「なにが?」
「秋ぐらいから、夜にウチに電話すっといないことあるじゃん。 家の人はバイトの先輩ンちっていうけどさ、ホントは彼女ンちなんじゃねえの?」
「違うって」
正直、ぎくりとした。
月に1、2度あるかどうかだが、喜多見の家に泊まるときは、たいていアルバイト先の先輩の家に泊まるという言い訳を使っている。携帯電話で連絡がつくようになったからこそ可能な言い訳だ。連絡先が訪れている先の家の電話なら、何らかの連絡が来て露見しないとも限らない。
本当に彼の家に泊まったことも何度かある。3歳年上の大学生で、バイクやスポーツのことなど話の合うところも多いのだ。昨年の春に志木に温泉宿の宿泊券を譲ってくれたのが、この彼だった。
「年末年始も臨時でバイト入れたとか言ってたけど、なんのバイトか聞いてねえしさ。実はカノジョと旅行だったりして」
「言ってなかったっけ? 交通整理だよ。赤い棒振るやつ」
またも図星をさされた志木は、都合のいい逃げ道として用意していた答えを口にした。何度かやったことがあるアルバイトで、日常通っているバイト先と違って目撃されにくい。
「俺ら、カノジョの名前も見当ついてんだけどなー」
挑むようにして岸田が言った。その口元が自信に満ちた笑みを浮かべている。
6つの瞳に見つめられ、志木は訝しげな表情を浮かべながらも背中に冷や汗が伝うのを感じていた。
日頃喜多見に鍛えられているおかげで何とか平静を保てているが、突っ込みどころは間違っていない。電話も、外泊も、旅行も、付き合っている相手とであるのは間違いないのだ。
「オカモト、だろ?」
反応を見逃すまいとするかのように志木の顔を覗き込んだ岸田が言った。
「――は?」
「オカモトカナコ。2年の時、同じクラスだった」
「岡本?」
「……あれ? 違うの?」
ぽかんとして聞き返した志木を見て、小田が首を傾げた。向かいの席から長い腕を伸ばした伊東が岸田にデコピンを食らわせる。
「…んだよ! 間違いないって言ったじゃんよ〜」
「だって、マジ、夏休みのあとから仲良かったんだぜ! 2人でいるとこも何度か見たしさ!」
まさか可南子が相手だと思われているとは思ってもみなかった志木は、本気で驚いていた。
たしかに、そう思われても仕方ない部分もある。
進級してしばらくこれといった接触もなかったのに、夏休み明けから学校内でよく話すようになったし、放課後や休日に2人きりで出掛けたことが何度かあった。どれも愚痴を聞いたり買い物に付き合ったりといったものだが、第三者からはデートに見えたかもしれない。
「あいつ、好きなヤツいるぜ。俺じゃなくって」
「え、じゃあ浮気? 二股?」
「違うっつの」
可南子の名誉のために、志木はすぐに否定した。限られた者しか知らないことで、卒業までは隠さなくてはならないので、“付き合っているヤツ”ではなく“好きなヤツ”と濁す。
「相談受けたり、買い物に付き合ったりしてたけど、全部あいつの好きなヤツ絡みなんだよ」
「なんで志木が岡本が好きなヒトのことの相談受けるのさ?」
「あいつの好きなヤツのこと知ってるから」
知ったのは可南子が教師と付き合っていると聞いた後だが、知っていることに変わりはないのでこの答えも間違っていない。
「じゃあ、ホントに彼女いねえの?」
「いねえよ。彼女が出来たらおまえらに言ってるよ」
“彼女”ならばこの3人には話しただろう。“彼氏”であっても、教師という立場でなければ告げたかもしれない。
喜多見は、家族や友人に明かす・明かさないは志木に任せると言った。
だが、どんなに真摯に話したとしても、突然明かされた家族や友人が認めてくれるかどうかはわからない。明良のように理解があるならまだしも、どんな反応が返ってくるのかまるで読めない。幸い可南子は認めてくれたが、皆が皆、肯定できるわけではないだろう。
しかも相手は、世間により倫理的であることを求められる教師という職に就いている大人で、元担任だ。告白したのが志木からでも、露見して非を問われるのは喜多見であるのは間違いない。
経済力も社会的な地位も立場も何もない若い志木には、黙っていることでしか喜多見を守る術がない。そして、嫌いになったのでも当人同士がどうしようもなくなったのでもないのに、周囲に終わりを決められるのは御免だった。
話してみたら、拍子抜けするほどあっさりと認めてくれるかもしれない。理解があり、抵抗もないかもしれない。
だが、たとえ杞憂であったとしても、せめて高校在学中は誰にも明かさないことに決めていた。家族であろうと、大事な友人であろうと、だ。
誰より好きで大切な人を守れるのなら、偽りを口にする後ろめたさなど何度味わってもかまわない。
「じゃあさっきの電話の相手は誰なんよ?」
「ウチ。週末に引っ越し準備手伝ってくれるって弟が言ってたからさ。まあ、あと3日で何とかするよ」
「なーんだ。つまんねえの〜」
伊東がため息をついて腕組みをした。
「どんな面白いことがあると思ってたんだよ?」
「半年も黙ってるなんて、なんか理由があんだろうなーって思うじゃん?」
「あんまり面白がるなよ、伊東」
「そうだよ。ホントに黙ってたとしたら、深刻な理由かもしれないだろ」
「そっか。そだな。ワリ」
諫めた岸田に続いてもっともなことを小田が口にし、伊東もすぐに謝った。
そんな彼らに、志木は笑みを浮かべた。気のいい奴らだと、心底思う。
「そういうおまえらはどうなんだよ?」
「いねえって知ってて言う?」
問い返した志木を、伊東が唇をとがらせて睨み付けた。
「岸田は?」
「しばらく女はコリゴリ」
ひとつ年下の彼女と昨年末に喧嘩別れしたきりの岸田は、そう言って肩をすくめる。
残る小田には他校に彼女がいたはずだが、眉を寄せて笑う表情は冴えない。
「小田?」
「オレも仲間。先月フラれちゃった」
「ええ? だっておまえら仲良かったじゃん」
穏やかで人当たりのいい小田の隣に小柄で可愛らしい彼女が並んでいる様はなかなかに微笑ましかったのだが、いったい何があったというのか。
「オレ、本命が大阪の大学だったじゃん? でも模試でずっとC判定だったから、東京の大学になるだろうって言ってたんだよ。でも運良く受かったからさ、やっぱ大阪のほうに行くって報告したら遠恋は無理って言われて、その場でサヨナラされちゃった」
「なんだよ、なんでそんなすぐ無理とか言うんだ?」
肩を落として語る小田に、志木は身を乗り出した。
遠距離という面では人事ではなく、不安があったのは志木とて同じだ。しかし、結論を出すまでいろいろと思い悩みはしたが、どの道を選ぶとしても別れるという選択肢はなかった。
それに、小田が大阪の大学を受けたのは、小田が進みたい道で高名な教授がその大学にいたからだ。彼氏に将来の目標があるなら応援したいと、彼女は思わなかったのだろうか。
小田は苦笑してため息をつく。
「そばにいてくれないとダメなんだってさ。ま、仕方ないよな」
「ったく、それで引いちゃうあたりが小田だよな〜」
伊東が大袈裟に嘆いて、小田の頭をよしよしと撫でた。
「でも、会えなくて淋しかったの〜なんつって浮気されるよか、今のうちに別れといて良かったかもな」
「ドライだぞ、岸田」
「るっせ。彼女いない歴18年に言われたかないね」
非難した志木の膝に、岸田の蹴りが入る。
「それは伊東も一緒だろ」
「そんな傷の舐め合いはやーだなー」
「俺だってやだね」
「まあまあ、彼女いないのは全員一緒なんだしさ。それよか旅行の話しようよ」
結局、一番慰められるべき小田が間に入って、話を本筋に戻した。
岸田が口火を切り、伊東が軽口を叩き、志木が反論し、小田が場を収める。いつも通りの役回りだ。
「男4人で卒業旅行か。色気ねえよなあ」
「まぁイイんじゃね? 男くさぁ〜〜〜〜〜〜〜いのも」
「そんなにくさくなくてもいいんじゃないの?」
嘆いた岸田に向かって伊東が返し、それに小田が突っ込んで、志木は声を上げて笑った。
−続−
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