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Vol.16 『明日の色』
2月に入って春がまた一歩近付いた。とは言っても寒さはいまだ厳しく、道行く人はコートの襟を立てて足早に通り過ぎて行く。
そんな雑踏を眺めながら、志木は呼び出した岡本可南子に卒業後の進路を明かした。
誰より早く喜多見に報告し、家族に話し、親しい友人にも昨夜電話をした。女友達でこの話をするのは可南子が最初だ。
「そっかあ…淋しくなるなあ」
ダッフルコートの裾を手慰みにいじりながら、可南子がぽつんと言った。
「まあずっと向こうにいるわけじゃねえからさ」
「でもそんなしょっちゅう帰っては来れないでしょ?」
「まあな。だけどここを離れんのは俺だけじゃないだろ。高田や中嶋は東京出るって言ってたし、小田は大阪の大学行くし」
志木があれこれ迷っている間に周囲はこの先のことを続々と決めていた。
進学組の半数は、合格したらこの街を出ると言う。進学先に近い方が便利だということと、ひとり暮らしをしたいという願望もあるのだろう。可南子は地元から短大に通うという残り半数の進学組だ。
「そりゃ卒業すれば遠くに行っちゃう人はいっぱいいるけど、やっぱ志木がいなくなるのは淋しいよ。唯一の同志だもん」
言って、可南子は拳で志木の肩を叩いた。
可南子は昨年末に、ごく親しい友達2人だけに彼氏は他校の教師だと明かしたらしい。
だが、同じく教師と付き合っていて、可南子のことを知っているのは志木だけだ。隠し続ける苦しさや、社会的に認められないもどかしさや、好きな人と思うように会えない淋しさを、互いに知っている。
志木にしても、教師と生徒であることに加えて男同士だということを咎めることなく、時に背中を押してくれる可南子の存在に救われている部分もあった。かつて自分を好きだと言ってくれた初めての他人でもある。
「…まだ卒業まで時間あるからさ、休みの日にみんなでどっか遊び行くか」
「ダメだよ」
淋しげな可南子を励ますつもりで誘ったのだが、可南子は即答で首を振った。
「ダメだよ、志木」
可南子はもう一度繰り返して志木を見上げる。
「ただでさえ喜多見とあんまり会えないんでしょ? あたしと遊んでる時間があるなら喜多見と会わなきゃ」
「会ってるよ。夜、バイトの後とか」
「そんなん今までと変わんないじゃない。1日中一緒にいられる日には一緒にいなきゃ!」
「教習所があるからなあ。1日中ってのは――」
今後必ず必要になるので、現在志木は自動車の普通免許を取得するために教習所に通っている。
それを聞いた可南子の眉が吊り上がった。
「つべこべ言わないでいっぱい会っときなさい! あと1か月ちょっとしかないんだよ?」
卒業後すぐにという話なので、確かにもうふた月もない。だが時間に関しては、正直なところまだ実感が湧かないというのが本音だ。
離れなくてはならないということについての淋しさや辛さは当然ある。決めるまでにも散々悩んだ。だから、会っているときは喜多見が嫌がらない限りはそば近くにいるし、触れもする。
しかし、何をおいても会っておかなくてはという強迫観念はない。
喜多見もこれまでとなんら変わりなく、電話やメールが増えたりもしていない。むしろ、学校で会う機会が減っているので顔を合わせる回数は少なくなっている。
会わなきゃ駄目だと強固に主張する可南子には言えず、志木はただ頷くしかなかった。
「――意外」
ふいにやって来た妹の明良に乞われるまま志木の進路について話した喜多見の背中に、明良がぽつりと投げ掛けた。
コーヒーのおかわりをいれて居間に戻ってから、何が意外なのだと目で尋ねる。
「わんころが兄貴から離れるとは思ってなかったからさ」
志木のことを“わんころ”と呼ぶ――本人は親しみを込めているらしい――明良は、2杯目のコーヒーに口を付けてカップ越しに探るように喜多見を見た。
「大丈夫なのか?」
「――何がだ」
「だって遠距離だろ?」
「そうだな」
新幹線1本ではすまないので電車で行くと5時間はかかる。車を使っても同様だ。日帰りできなくもないが、修行と老師匠の身の回りの世話という役割柄、そう頻繁に戻っては来られないだろう。
「よく決めたよな、あいつ」
「職自体に魅力を感じていたようだからな」
「だからってなあ……」
明良は言い淀んで宙を仰いだ。
「何がそんなに引っ掛かっているんだ?」
「まずは兄貴の性格、かな」
歯切れの悪い妹に投げ掛けた喜多見の問いに、明良は腕を組んでそう答えた。
「兄貴って淡泊なうえに執着弱いだろ。2年も3年も付き合ったヤツ見たことないし、昔さ、相手が海外転勤かなんかしてそのまんま別れちゃったこともあったよな?」
「……言葉だけ聞くとものすごい遊び人か薄情な人間に聞こえるな」
喜多見は一切否定はせずに苦笑とともに嘆息した。
長続きしないのは相手に飽きてしまうといったことではなく、ことさら燃え上がりも盛り上がりもしないので自然と疎遠になってしまうからだ。
東京の学校に勤務していた時もいま住んでいるこの家から通っていたので、付き合っている相手がいても夜に数時間会う程度で、一緒にいる時間はあまりなかった。喜多見はそれを気にしたことはなかったが、大抵は相手の方が気にするようになり疎遠になる一因になってしまう。
もっとも長く続いた相手とは、相手が海外へ転勤になってそのままあっけなく終わった。
「誰彼かまわずってわけじゃないし、絶えず相手がいたわけでもないから、遊び人じゃないってのは断言できるけど、ある意味では薄情だよな。付き合ってる相手くらい追っかけたらいいのにって思うよ」
明良の言うことももっともだ。しかし、追おうという気になったことは過去一度もなかった。同じ温度を求められても、同じだけの束縛を望まれても、無理に応じようという気にはなれなかった。
我ながら淡泊すぎると思ってはいるが、もうこの性格は直りそうにない。
それだけに、愚直なまでに情を寄せてくる志木の存在は貴重だった。
おそらく自分と同じようなタイプの人間でないと続けていけないだろうと思っていたのに、志木は正反対の性格をしている。
表情の変化に乏しく感情の平坦な喜多見とは違い、感情表現がストレートで、情に篤くて、人懐こくて、おおらかだ。しかも教え子ときた。それだけはないだろうと思っていた要素だらけの相手である。
それなのに、基本的に喜多見の領域を侵さない。ちょっかいを出してくることもあるが、駄目だと言えば渋々でも引き、待てと言えばじっと待つ。ただそばにいて、それぞれ別のことをしていることもある。そんな時の沈黙も苦にならない。
「自分のテリトリーを崩さないからね、兄貴は。内側に入れても最優先にはしないし、あっさり背中向けるだろ。なし崩しに甘やかしたりはしないし。意志が強いっていうか、理性的すぎるっていうか――責めてるんじゃないからな?
そういう性格だと思ってるし」
「…ああ」
「兄貴ってストレートには優しくないから。それが味なんだけど、付き合ってたらやっぱり欲張っちゃうんだよ、相手はさ。自分が他のどんなことよりも1番になりたい、自分1人にだけは優しくしてほしいって」
「そうなんだろうな」
過去、別れ際に同じようなことを言われたことを思い出し、喜多見は苦笑して頷いた。
「でもわんころって、振り向くのをそばでじっと待ってるか、振り返ってくれなくてもそこにいればとりあえず満足できちゃう感じなんだよな。ガツガツしてそうなのに、けっこう忍耐強い感じが犬っぽい」
明良の的確な人物把握に喜多見はふっと笑みを浮かべた。自分の感情に素直なところも、時に浮かれて暴走するところまで犬のようだ。
「生徒が相手だって最初に聞いた時は耳を疑ったけどさ、今ではあいつほど兄貴に合う奴はなかなかいないと思うんだよ。だから――唯一の家族としては、あんたのそばにいてやってほしいなあって思ってさ」
最後の部分をためらいがちに口にして、明良は喜多見を見やった。喜多見は浮かべた笑みを消し、静かに妹を見据える。
「それを決めるのはおまえじゃない。志木自身だろう。志木の将来は私のためにあるんじゃなく、志木のためのものだ」
「わかってる。わかってるけど――兄貴なりにあいつには執着があるんだろ? 兄貴はいいのか? あいつがいなくなっても」
淡泊な気性なのは自覚しているが、たしかに志木には喜多見なりに執着がある。大事な存在と言えるだろう。
こんな感傷は自分らしくはないのだが、あとふた月も経たずに志木がいなくなるということを思うと、日に日に喪失感に似たものがじわじわと胸の内で大きくなっていく。
それでも、行くなと言う気はまったくない。遠く離れることになっても、志木が決めたことなら止めようとは思わなかった。
「…心配じゃないのか? たしかにわんころは忠犬っぽいけど、話聞くと頻繁にはこっち戻れなさそうじゃん。まだ若いしさ、あっちにだっていろいろ誘惑あるだろうし、奴に惚れる女が出てこないとは限らないし」
「その場合は仕方がない」
「兄貴」
淡々と返されて、明良は呆れたようなため息をついた。そうしてさらに問う。
「よっぽど自信があるのか? それとも諦めてるのか?」
「どちらでもないな」
「――うちの親が早くに死んじゃったから? だから兄貴は誰にも執着しない…?」
ふいに真剣に尋ねられ、喜多見は目を見張った。予想外の問いだ。
喜多見は少し笑って、志木を宥める時のように、まだほんの子供だった頃の明良にしたように、目の前の妹の頭を撫でた。
「それも違う。子供の頃からこの性格だぞ、私は」
「…そうだっけ?」
「昔から、残念だと思っても執着が湧くより先に仕方がないと納得してしまう傾向にあったよ。おまえが模型飛行機を壊したときも、同じものが欲しいとは思わなかった」
「――そういえば…そんなことも……」
“模型飛行機”と聞いてなんのことかすぐに思いだした明良は、決まり悪そうに呟いて身を縮めた。
小学校に入学するときに買ってもらい6年間飾っていた模型飛行機を、幼い明良に壊されたことがある。当時の明良はといえば、女の子の友達もいたが男の子と走り回っているほうが多く、その時も近所のわんぱく盛りの男の子数人と家の中で鬼ごっこをしていたのだ。
明良が物心ついたときからずっと兄の部屋に飾ってあった模型飛行機を友達のひとりが見つけてきて、兄の大事なものだと思っていた明良はそれを取り返そうとし、奪い合いの果てに落として壊してしまった。
よろけた足で踏みつけてご丁寧にとどめを刺してしまった明良は蒼白になって兄に謝ったのだが、肝心の兄はさほど残念そうな顔をせず、家の中では暴れるなと注意した上で正直に謝ったことはいいと誉めてくれた。
怒られなかったことにはホッとした明良だが、壊れた模型飛行機を見てそっとため息をついた兄に、やはり大事なものだったのだと悄げたものだ。
事情を知った母親も父親も同じものを探しに行こうかと言ってくれたのだが、喜多見はそうして欲しいと思わなかった。
「あれはなんで? 買ってもらうの悪いと思った?」
「…いや。気に入ってはいたがなくて困るものではないし、形あるものはいつか壊れるのだから仕方がないと思ってな」
「……可愛くないっつーか…じじむさい子供だなあ……」
「まったくだな」
眉根を寄せた明良に、喜多見は苦笑を浮かべて同意した。
我ながら、本当に可愛くないと思う。けれどいまさら可愛い性格になれるわけもなく、なっても気色が悪いだろう。
「ともかく、志木を止める気はないし、ついていく気ももちろんないぞ。仕事もあるしな」
「…あれだけ忠犬っぽいヤツが自分から離れるって決めたのにも驚いたんだけど――それこそ自信があるのかな、あいつ」
「――さあ…どうだろうな」
“俺がどこにいても、あんたは俺を好きでいてくれるか?”
思えば、その問いに対する喜多見の答えが志木の背中を押したのだ。喜多見が返した「そうだな」という味も素っ気もないひと言が、離れても大丈夫だという志木の自信を支えている。単純なのか、それとも強いのか。
志木の思惑がどうあれ、喜多見は自分の中にある思いに従うだけだった。
「今日はありがとね。休みの日なのにほんとゴメン」
会える時に会えとさんざん言っておいて1週間もしないうちに、日曜日の午前中から志木を呼び出した可南子は、両手を合わせて頭を下げた。
妙に女性率の高い駅ビルのコーヒーショップから出て歩き出しながら、申し訳なさそうな可南子に志木は笑顔で返した。
「バイトの時間まで予定もなかったし、特に約束してねえから気にすんな。今日、あの人ガッコだしさ」
喜多見が今日は出勤だということを知っていたので、もともと昼の間は会う予定はなかった。夜、バイト帰りに電話をして、来てもいいと言われたら寄ってみようと思っていたくらいだ。
「出勤なんだ? 忙しいねえ」
「まだ進路決まってないヤツいるからな。俺もつい最近までその1人だったけど」
志木は苦笑して久方ぶりに晴れた空を見上げた。
呼び出されてなにをやらされるのかと思ったら、バレンタインデーに彼氏に贈るオートバイ用のグローブを一緒に選んでほしいという。前日に1人で見に行ったものの、どれを選べばいいのかよくわからなかったらしい。
デパートの地下でチョコレートを吟味する女性の群れに混じるのは勘弁してほしいが、そういったことならと志木は呼び出されるまま自宅最寄り駅からいくつか離れた駅の駅ビルに向かった。可南子には、昨秋に喜多見の誕生日プレゼントを一緒に探してもらった借りもある。
「……志木さ、なんでここを離れるって決められたの?」
「え?」
突然可南子に尋ねられ、志木は視線を地上へと戻した。
「あたしは無理だったから。大学までちょっと遠いけど、学校の近くに部屋借りたら今度はこっちにいる広くんと会うの大変になるもん。離れるなんて出来なかった」
「――そりゃ離れたくはなかったけどな」
「しょっちゅう帰って来れないでしょ? …不安じゃない? もし広くんが遠くに行くことになったら、あたしはいろいろ心配だと思うよ」
「――おまえも同じこと聞くんだな」
「誰と?」
「明良さん」
「あきらさん…て、ああ、喜多見センセの妹さん?」
「電話があってさ」
喜多見から番号を聞いたらしく、わざわざ電話を掛けてきて、この先のことについてあれこれ尋ねられた。明良なりに自分の兄と、曰くその犬とを心配しているらしい。
離れて不安はないのかと問われた。
ないわけがない。底無しかと思うほどの不安があった。
自分の思いに対する自信はある。だが、自分が思うほどに思われているという自信も、喜多見と釣り合うような“大人”である自信もなかったからだ。
ただでさえ喜多見は淡泊だ。
離れても恋しいのは自分だけかもしれない。離れていたら自分は必要でなくなるかもしれない。
そんな後ろ向きな不安にずっと苛まれていた。
だが、シンプルに考えたら光が見えた気がした。
つれないことや手厳しいときも多いが、それは性格であったり志木のためであったりで、ないがしろにされたことは一度もない。たいして執着がないなら、ここまで志木を内側に入れてくれるはずもなかった。ましてや、保身のためではなく終わらせないために、露見しないよう気を配ってくれたりはしないだろう。
志木を撫でる手のひらの優しさや、時折向けてくれる微笑や、ゆるく抱き返してくれる腕には、喜多見なりの思いがある。それを信じていればいい。
どのくらい思われているか、ではない。
志木が、喜多見を好きなのだ。
「全然不安がないって言ったら嘘になるけど――大丈夫だよ」
「志木がそう言うならいいけど…」
やけに自信ありげな顔で答えた志木に、可南子は自分を納得させるように頷いた。
その直後。
「うわ…っなに!?」
甲高い急ブレーキの音に続いて、グシャッという鈍い接触音をすぐ近くに聞いて、可南子は慌てて振り返った。同時に志木も同じ方向に目をやる。
交差点の真ん中に、白い乗用車と赤い乗用車があった。白い車の右側面に赤い車が頭から突っ込んでいる。
白い車の車体は深く陥没し、赤い車のリアウィンドウは粉々に砕けていた。
「やだ…中のひと大丈夫…!?」
「岡本、119番」
志木は自分の携帯電話を可南子に渡してそう指示し、交差点へと向かって走り出した。可南子はそれを目で追ってからハッとし、言われるまま志木の電話を開いた。
車の中を覗き込んだ志木は、どちらの運転手にも息のあることを確認して安堵の息をついた。だが安心はできないので、運転手たちに声が聞こえるかと問い掛ける。弱々しいながらも双方の返答を耳にした志木は、車の周囲を見回した。ガソリンが漏れている様子はないので引火の心配はなさそうだ。
そこに、再度叫ぶようなブレーキ音が響いた。
音のする方角を志木が振り返るのと、電話を終えた可南子が顔を上げたのとは同時だった。
そして可南子の目は、接触したまま止まっている2台の乗用車とその傍らの志木に向かって、新たな白いバンが突っ込む様を捉えた。
「―――ッ志…っ」
突っ込んだ白いバンが白と赤の車を弾き飛ばし、歩道の人垣がざわめいた。
そして3台の乗用車が動きを止めて一瞬の静寂の後、可南子の唇から雑踏のざわめきをかき消すような悲鳴が迸った。
晴れた日曜日とはいえ、ちょうど昼食時に差し掛かる時間だからか、表に人の気配はない。
午前中、室内に空気を入れるため開け放していた窓をすべて閉めて戸締まりを済ませた喜多見は、白いワイシャツに濃茶色のネクタイを締め、チャコールグレーの冬物のスーツに袖を通した。
ハンカチや定期券など出勤に必要な物を鞄やポケットに納め、机の上の腕時計を取り上げる。
時計を左手首にはめようとしたところで、時計のバンドの止め具の一部が欠損していることに気付いた。前日は気付かなかったが、バンドごと取り替えなくてはならないようだ。
喜多見は時計店に修理に出すため時計を鞄にしまい、文机の引き出しを開けた。
しまってあった白木の箱には、昨年志木からもらった懐中時計が入っている。手に馴染む重さや手触りも、年経た風合いも気に入っているが、ふだんはあまり出すことがない。
日常使えなくもないのだが、授業をするにも時刻を確認するにも、腕を少し上げれば見られる腕時計の方が何かと楽だ。だが道具は使ってこそだと思うので、時折持ち出してはいる。
箱から時計を取り出した喜多見は、何気なく文字盤に目をやった。その目が心持ち細められる。
時計の秒針が止まっていた。
捩子を巻いてみるが動く気配がない。壊すような真似はしていないのだが、古い物だからだろうか。
動かないものは仕方がないのでまとめて修理に出すことにし、スーツの内ポケットにしまおうと右手に持ち替えた。すると、時計の金鎖がぽとりと足下に落ちた。
「―――」
訝しくそれを見下ろし、喜多見は身を屈めて落ちた鎖へと手を伸ばす。
拾いあげた瞬間、携帯電話が鳴った。
見ると、表示されていた番号は志木のものだった。午後から出勤だと知っているはずなのに掛けて来るなど珍しい。
喜多見は玄関へ向かいながら電話を耳に当てた。
「もしもし?」
「…喜多見……ッ!?」
一拍間を置いて耳に飛び込んで来た声に、喜多見は目を見張った。
志木の声とは似ても似つかない、明らかな若い女の声だ。
だがその声に聞き覚えがあった。受け持ったことのある生徒の声だ。これまで受け持った生徒の顔と名前は全て覚えている。近年ならば声も思い出せた。
「岡本か? 何かあったのか?」
「喜多見せんせえ…ッ」
電話の向こうの岡本可南子の声は始めから涙声だったのだが、喜多見の返答に泣き声に変わった。
「どうした?」
「…っき、しき、が」
嗚咽の間に可南子が声を絞り出す。
志木の携帯電話を使って掛けて来た時点で、志木絡みなのだろうと思っていた。しかし、可南子が喜多見と志木との関係を知っているとは聞いていても、これまで一度も可南子自身とそのことについて話をしたことはない。
「…志木、が?」
だが、可南子の取り乱しぶりにただならぬものを感じた喜多見は、玄関先で立ち止まって電話の向こうの可南子に問い掛けた。
「志木が、事故に…ッ」
「事故…?」
「…しよう……どうしよう、先生…っ」
「岡本。落ち着いて、病院の場所と名前を答えなさい。すぐに行くから」
喜多見はゆっくりと言い聞かせるようにして可南子を促した。
可南子が切れ切れにやっと口にした病院名と場所を復唱して確認し、応じる声を待って電話を切る。
そして喜多見は、電話をスーツのポケットに戻すなり、鞄を玄関に置き去りにして慌ただしく鍵を掛け、家を飛び出した。
家々の立ち並ぶ一角から車の行き交う通りに出る。電車を使うより車のほうがはるかに早い。しかし、タクシーが一台も通らない。普段は静かでいい地域だが、それがマイナスに作用した。
喜多見は珍しく苛々して車道を見渡した。自家用車があればこんな時に困ることもない。乗らなくても買っておけばよかった。
目まぐるしく様々なことを考えながら最寄りの駅前までやって来て、喜多見はやっと見つけたタクシーに向かって手を上げた。
行き先を告げ、申し訳ないが急いでほしいと付け足して、喜多見はシートに身を沈めて深いため息をつく。
いつもより鼓動が早いのが判る。ドクドクと体内を巡る血液の音が聞こえてきそうだ。
内側から燃え広がり、内臓も血肉も骨も焼け尽くしそうな焦燥。
それでいて、体はひんやりと冷たい。
可南子の様子から、現時点では最悪の事態は免れているというのは判った。しかし、どの程度の怪我なのか、いまどんな様子なのか、今後どうなるのかは、取り乱していた可南子からは聞くことが出来なかった。
気ばかりが急いて仕方がない。
「志木――」
堅く指を組んだ手の上に額を押しつけ、喜多見は小さな声で呟いた。
病院に到着し、受付で聞き出した病室に駆け込んだ喜多見を出迎えたのは、鼻の頭と目を真っ赤にして止まらない涙と格闘している可南子と、ベッドの上に体を起こして驚きに満ちた目を喜多見に向けた志木の姿だった。
「喜多見? どうして…」
硬い表情で息を整える喜多見に向かって、拍子抜けするほどいつも通りの志木が首を傾げる。
見たところ、包帯や絆創膏などの治療を受けた形跡がない。顔色も良かった。
しかし、可南子の電話がいたずらだとは思えない。いったいどういうことなのか。
「無事、だったのか……」
「え? うん、うまく受け身取れたから無傷。ただ、転がった拍子に頭ぶつけたんで念のため検査したけど、異常なさそうだって言ってたぜ。すぐ結果出るからしばらく空いてる病室で休んでてって看護師さんが――って、おまえどういうふうに連絡したんだよ?」
いつにない喜多見の様子を訝しく思ったのか、志木は傍らの可南子に問いかけた。
「だってすごい怪我だと思ったんだもん! 車のガラス全部割れてたし、ぶつかった街灯も曲がってたし、ブレーキの音も跡もすごくて…ッ」
「わかったわかった」
赤くした目から再び涙をこぼれさせ、可南子は握り拳で訴えた。どうやら、志木の検査中に独断で喜多見に連絡してきたようだ。いまだ青い顔をしているところを見ると、相当怖かったのだろう。
しかし喜多見には、可南子を慰めて安心させてやる余裕がなかった。目の前の志木を観察するようにじっと見つめる。
可南子の主観が入っているにしても、ガラスが割れていたとか街灯が曲がっていたとかいうのは見たままの情景描写だ。乗用車のガラスが割れるほどの勢いの事故に巻き込まれて、本当に無傷なのだろうか。
目の前にいるのは、確かに志木なのか。
「あ、あたし、顔洗ってくる! ついでになんか飲み物でも買ってくるね」
微妙な沈黙に気づいた可南子が、涙を拭いながら立ち上がった。
出ていく可南子の背を見送って、たっぷりと十数秒経ってから、喜多見はやっとベッドの志木に向かって足を踏み出した。
ゆっくりと近づき、見上げるその顔の質感を確かめるように触れる。
ひんやりと冷たく微かに震える指先に、志木は驚いて唇を開いた。
だが、発しようとした言葉は喜多見の胸元に消えた。志木の頭を胸に抱き寄せた喜多見が、深く長いため息をつく。
「血が…凍るかと思った――」
「……喜多見――」
表情は伺えないが、密接した胸から感じ取れるいつもより早く脈打つ心音に、首筋と耳元にかかる指先の冷たさに、どれだけ心配をかけたかを志木は知った。
申し訳なさと嬉しさが綯い交ぜになって胸に湧く。志木に非のある心配のかけ方なら、喜多見は容赦なく志木を叱る。いつも憎いほど冷静で、志木を案じ息を切らして駆けてくる様など見たことがない。
「――これが……」
ふと呟くように言って、喜多見が体を離した。名残惜しいが不承不承その手に従った志木に、喜多見がスーツのポケットから取り出した懐中時計を見せる。
「俺があげた時計? あれ、止まって……鎖も取れちゃったのか?」
「出掛けに止まっていることに気付いて、鎖が落ちて――そうしたら、岡本から電話が来た」
その手のことをことさら盲信しているわけではないが、虫が知らせるということはなくはないと思っている。時計が止まり鎖が切れた直後に事故にあったと聞き、それらが何かの予兆のような気がしてどこか据わりの悪いような妙な感じがした。だから、ここに来るまでひどく落ち着かなかった。
だが当人の志木は、なんてことはないといった風に笑って喜多見の肩を軽く叩く。
「大丈夫だよ。止まったのは岡本のじいちゃんに見てもらえばいいし、鎖はすぐ直せるから」
鎖の状態を確かめながら志木は言った。おそらく、繋がっていた部分が緩んでいただけだろう。鎖の長さが若干短くなる程度で直せるはずだ。
「気にしてんのか? あんたらしくもない。事故っていってもたまたま巻き込まれただけだし、この通り俺はどこもなんともねえから」
「……ああ…そうだったな」
喜多見はやっと、硬い表情を崩した。
運動神経の良さは並ではない。古い学校で天井が低いとはいえ、校舎の2階から軽々飛び降りるのを見たこともある。
たまたま今日、引き出しから出したので気づいただけで、時計が止まったのは昨日かもしれないし、一昨日かもしれない。なにぶん年代物なので、鎖も元々弱っていたのだろう。
偶発的に起こったことで必要以上に揺れることはない。運が良かったなと笑って済ませればいい。
どうやら、やがて来る一時的な別離に対して喪失感のようなものを感じるだけでなく、無意識のうちに過敏に、そして不安定になっていたのかもしれない。未体験の感覚なので気がつかなかった。本当にらしくもない。
「そういえばさ、明良さんに俺の携帯番号教えた?」
「ああ」
「……心配してくれるのはありがたいんだけどさ、なんでみんな揃って俺とあんたを危うくさせたがるんかなあ?」
困ったように眉を寄せて志木はぼやいた。
「みんな?」
「岡本にもさ、もうすぐ離れなきゃなんないんだから今のうちにたくさん会っとけって言われてさ」
数日前に交わした会話を思い浮かべて志木は宙に向けていた視線を喜多見に移した。
「そりゃいつだって会いたいけど、それが出来れば前からしてる。無理に押し掛けてあんたの邪魔はしたくねえし」
3年生の担任をしている喜多見が春まで多忙だということを志木は判っている。だから、喜多見から来てもいいと言われない限り自宅へは行かない。もともと、喜多見の家を突然訪れたことは数えるほどしかなかった。
志木には、喜多見に邪魔だと思われることが一番こたえる。好意も愛情も全開で示してくれる人ではないので、側に置いてくれるかくれないかは志木にとって重要だ。
「もうすぐ離れなきゃなんないのは確かなんだけどさ、だからって焦って会うのはなんか違う気がするし」
「そうだな」
頻繁に会わなくとも、これまで共にすごした時間が減るわけではない。会えばそれは増えるが、慌ただしい逢瀬を重ねても慌ただしさが強く残るだけだ。焦れば焦るほど、離れることに関しても過敏になりそうだ。
「明良さんに訊かれたけどさ、離れてたら身近にいる奴になびくとか、今のうちに別れたほうがいいとか、そんなん俺、全然思ったことも――」
志木がふと言葉を止めた。
喜多見は表情を変えずにその視線を受け止める。しかし、胸の奥を見透かされたかのようで、ぎくりとした。志木とは一度もそれについて話したことはない。
「……まさかあんたまで――」
「――考えたことはある」
「喜多見!」
手を離そうと思ったことはある。若くて未来(さき)のある高校生を、10歳以上も年上で同性の教師に縛り付けておくことはない、と。
だが志木は揺れなかった。喧嘩をしても、叱られても、会えずにいても、それでも喜多見を望んだ。
だから決めた。自分からは手を離さずにいよう――と。
志木が別れると言い出す日まで、喜多見のことを必要ないと言う時までは。
「私はもうこの年だし、こんな性格だからいい。だがおまえはまだ若い。そばにいる誰かに惹かれるなら、それは仕方のないことだと思」
喜多見の声が途切れた。最後まで口に出来なかった言葉は立ち上がった志木の両腕に体もろとも閉じ込められ、痛いほどきつく抱き締められる。
「…志木?」
「芳秋」
突然、志木が喜多見を名前で呼んだ。体を合わせているとき以外に口にすることは滅多にない。
しかし、いま志木は明確な意思を込めてその名を口にした。
「淋しいからって浮気できるんたらとっくにしてる。淋しくても、ヤりたくても、俺はあんたがいいんだ。あんたでなきゃ嫌だ」
耳に直接吹き込むように告げられるその響きは、どこか睦言に似ている。
志木が腕を解き、喜多見の両肩を手のひらで包んで体を離した。そして、至近距離からじっと睨み付けるようにして喜多見の目を覗き込む。
「俺を見くびるなよ。たかが電車で5、6時間……たかが2年か3年――あんただけ想ってる自信はたっぷりあるんだ」
きっぱりと断言されて、喜多見は目を丸くした。
「あんたはない? 離れたらもう、俺はいらない?」
「――いいや」
離れても、そばにいても、志木は志木だ。喜多見がいいと志木が言うのなら、喜多見に否やはない。
射るように見つめてきていた志木の目がふっと細められた。そして、両手のひらが柔らかく喜多見のうなじを包み、唇に微笑が浮かぶ。
「あんたが好きだ。離れても絶対変わらねえから。すげえ好きだから」
「……“絶対”なんてものはないぞ」
形あるものはいつか変容する。
物と人とは違うが、人の想いを月日が変えることは間々あることだ。移ろう時を止めることは出来ない。
だが、冷淡とも取れる喜多見の言葉に、志木は頷いてみせた。
「そうかもな。俺はまだガキだから、これは奇麗事なのかもしれない。でもさ、もともと明日のことなんて、今日どういうこと言ってどういうことするかで変わってくもんだろ」
出来事には縁や運が介在する。何か人知を越えるものがもたらすものがあったとしても、数分、数時間先の縁を得るのも運を掴むのも行動と意志が必要だ。
未来が無色透明なものならば、どんな色にでも染められる。絵の具を選ぶのは自分自身だ。
「だからいつもあんたを想うよ。あんたを選ぶ。いままでだって会えない時はそうだった。同じだろ?」
「そうか――」
好きだと告げてきたのも欲しいと言ったのも志木だ。
志木が、喜多見を選んだ。
「それにさ、離れてても、俺はあんたの犬なんだろ?」
再びベッドに腰を下ろして上目遣いに見上げて尋ね、志木は鼻面を押しつける犬のように喜多見の胴に腕を回した。
「犬にとっての“いちばん”のポジションって簡単には崩れねえんだよ。それに、犬には帰主本能があるんだぜ?」
「帰主本能?」
「そ。どんなに離れても、必ず主人を感じ取れる」
実際、見知らぬ土地に転居した主人の元に、遠く隔たった場所からたどり着いた犬の事例がある。
動物が自分の住処や巣あるいは生まれた場所へ帰ってくる性質や能力を“帰巣性”というが、住処でも生まれた場所でもなく主の元に戻るのなら“帰主”か。
「…たいした忠犬だな」
喜多見は呟いて志木の髪を撫でた。志木が気持ち良さそうに目を閉じる。
病室の扉の外に、人の気配がした。中に入るに入れないでいる可南子だと気づいていたが、いまはこの手に馴染んだ感触を楽しむわがままを通させてもらうことにして、喜多見はいつもよりも柔らかい微笑を浮かべた。
−終−
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