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Vol.15 『分岐点』
違和感。
志木からそれを感じ始めたのは、新学期が始まったばかりの頃だった。
見るからに挙動が不審というわけではない。しかし、遊び回っているようでもないのに連絡がつかないことが間々ある。
冬休みが明けるまでは喜多見に対して電話を寄越していたし、喜多見の家に泊まることもあった。だが新学期が始まった途端、それがぱったりと途絶えた。
喜多見は当初、忙しい自分に志木が気を使っているのだろうと思っていた。3年生を受け持っている喜多見は、受験シーズン真っ直中の今、残業続きの上に週末も出勤している。
だが、1月も残り数日となって、そうではないのかもしれないと喜多見は思い始めた。
傍らで眠っている志木を静かに見下ろした。約半月ぶりに目したその顔は、出会った当初と比べるとずいぶんと精悍さを増しているが、年の始めからはさして変わったところはない。
だが、目が違った。迷いと決意が綯い交ぜになって僅かな憂いを帯びたまなざしは、これまで喜多見が見たことのないものだ。
良くも悪くも一直線な志木の感情の動きは手にとるように判る。だが、今日の志木はどこか違った。どう違うのか明確に言葉に出来ないことがもどかしさを生んでいる。
喜多見は軽く息を吐いて、時計を仰ぎ見て時刻を確認した。
午前5時。冬の空が白むまではまだ間がある。
夜半にやってきてから数時間、志木は休む間もなく喜多見を求め続けた。二十日ぶりの行為ではあったが、溜まったものを吐き出すような求め方ではない。何かもっと切実なものが志木の胸にある。
「何を考えているんだか…」
ポツリと呟いて喜多見は手を伸ばし、外気に晒されている志木の裸の肩を包むようにして掛布を引き上げた。
そして手を引き戻そうとした瞬間、志木がぽっかりと目を開けた。
「…きたみ……?」
「ああ。寝ていていいぞ」
「ん…」
くすぐるように頬を撫でると、志木は気持ち良さそうに目を閉じた。だが伸びて来た手が喜多見の手首を掴み、巻き込むように押し倒して組み敷いた。
「こら、志――ん、う…」
諫めようとした唇が塞がれる。するりと舌が滑り込み、口腔を弄った。重ねた下肢に志木の昂りを感じて、喜多見は志木が口づけの角度を変えようと唇を離した隙に肘をついて上体を起こした。
「まだ足りないのか、おまえは?」
呆れて問い掛けた喜多見の腰を志木の腕が抱く。
「…ん、足んない……」
言うなり志木はもぞもぞと体勢を変えて喜多見の脚の間に移動した。そして両足を肩に担ぎ上げるようにして潜り込み、腿の内側を柔く啄んでさらに上へと舌を滑らす。同時に手指が双丘を押し開き、指先がその奥をゆるゆると撫でた。
「…ッ」
差し挿れられた指先に思わず息を飲んだ。数時間の情交で受け入れやすくなっているとはいえ、感覚が鈍くなっているわけではない。むしろ先刻までの熱さを思い出し、探る指先や滑る舌先に鋭敏になっている。
志木は手早くローションを塗り込めてゆっくりと押し入って来た。
瞬間の圧迫感としばしの異物感を乗り越え、ずいぶんと慣れたものだと思いながら喜多見は志木の背に腕を回した。どうすればいいのか分からないと困っていた初々しさが懐かしい。
志木より長い期間付き合った人間はいる。けれど、志木より深く付き合った人間はいない。相手の成長を見守るような付き合い方をするとは思ってもみなかった。
しかし、少しずつ大人びていく志木を見ているのは面白い。昔から、我ながら淡泊にすぎると思う付き合い方しかして来なかったというのに、変われば変わるものだ。
最も感じる場所を擦るようにして突き上げられ、背中に回した手の指先に力を込めた。それを逃さず、志木は捉えたその場所を繰り返し刺激する。
「…ッ、んっあ…志木…っ」
抑えようとしても声が零れた。志木は、それを残らず拾おうとするかのように唇を寄せた。
「喜多見――」
重ねた唇の隙間から、どちらのものかわからない荒く熱い吐息があふれた。何度も深く打ち込まれて跳ねる体を、志木の腕がしっかりと抱きしめる。
「…れが、…に……っても――」
「ぅ、あ…志、木…ッ?」
「あんたは――」
「何――あ…ッ」
荒い息の合間にうわ言のように放たれた言葉の内容を尋ねようと唇を開いたが、問いはうわずった声に変わってしまう。絶頂を間近にして早められた律動が、通常に会話することを許さない。
「…芳秋――っ」
「は、ぁ…あっ瑞……ッ」
限界を感じて、喜多見は志木の頭を双腕で掻き抱いた。
その時、再度耳元で何事かをささやかれたが、吐息だけのそれは声になることなく、荒い息遣いと共に宙に拡散した。
やはり何かおかしい。
そう思いつつ日々に忙殺されて、再び志木と会えない毎日が続いている。
メールは送って来るようになったが、忙しい喜多見を気遣う言葉ばかりで思い悩んでいる素振りは見せない。
志木の親しい友達に尋ねようにも、いまは担任でもない喜多見が訊くのは少々不自然だ。代わりに現在の担任である岩崎にそれとなく尋ねてみたが、特に変わりはないという。違和感を感じているのは自分1人だけなのだろうか。
いつものように、職員室ではなく国語科準備室で授業の資料を広げていた喜多見は、コーヒーをひと口飲んで立ち上がった。
コートに身を包んだ生徒達がぞろぞろと帰って行く。寒風吹きすさぶ校庭で部活動に精を出している生徒達の中に、3年生の姿はない。
高校教師であるからには毎年体験する受験シーズン特有の張り詰めた空気が、喜多見はあまり好きではなかった。季節柄、空は重く風は冷たく、生徒達は受験勉強ばかりに追われて余裕をなくしている。
もちろん生徒には教師として出来る限りのバックアップをしたい。多少の苦労と不自由さは若いうちに経験しておけとも思う。だが、生徒よりもその親がやる気に勝り、そして生徒よりも教師が落ち着かないことに違和感を感じるのだ。
違和感――思えば、昔から“なじめなさ”を感じることは多かったかもしれない。他人(ひと)より淡泊で感情の起伏があまりないのも原因しているのか、協調性がないわけではないが一人でいることが多かった。だが、それが苦になったことはない。
志木とは正反対だ。陽性で、賑やかで、正直で、相対する人間を構えさせない鷹揚さと人懐こさがあり、志木の周りには自然と人の輪が出来る。
2人で会うのは、大抵がこの国語科準備室か喜多見の自宅だ。その時周囲に第三者がいることはあまりない。2人きりでも志木が明るいことに変わりはなく、正直なのも同じだった。しかしいま彼は、何かを胸に秘めている。
「ああ、そうか――」
この“なんだかわからない感じ”を、これまで経験したことがないのだ。ましてや解らないことに漠然と不安を感じるような恋愛もしてこなかった。他人であるからには理解できないこともあるのが当然だと、誰しもテリトリーがあってそこは他人が踏み込むべきではないと、いつも一定の距離を開けていた気がする。
どうやら、志木に対してはそうではないらしい。
「たわいないな、私も」
喜多見は苦笑を浮かべ、窓から離れて自席へと戻った。…と、そこへ携帯電話の着信音が聞こえてきた。相手によって着信音を変えるといった面倒なことはしていないので、液晶画面を見るまで誰からかは判らない。
鞄の中から携帯電話を探り出し、畳んだ状態のまま小さな液晶に目を落とす。「公衆電話」という文字に首を捻り、喜多見は通話ボタンを押した。
「はい?」
『あ、喜多見?』
名乗らずとも、それが誰の声なのかはすぐに判った。駅前にでもいるのか、バスらしきものが通り過ぎる音や通り過ぎる人の声が頻繁に聞こえてくる。
「どうした? 自分の携帯電話は手元にないのか?」
『ああ、うん、荷物の中。――えっとさ』
「ん?」
『えっと、その――あの〜…――』
志木は、何をどう切り出していいのかわからないといった風情で口ごもり、なかなか用件を告げようとしない。喜多見は先を促さず、志木から言い出すまで黙って待った。
『えっとさ、俺、結構あんたに大事にされてるって思っていいかな?』
「なんなんだ、突然?」
口ごもる様に何か大事な用事なのかと思っていた喜多見は、拍子抜けして脱力した。
『俺がどこにいても、あんたは俺を好きでいてくれるか?』
「…何を言い出すのかと思えば――」
これでは、特に用はないといって電話を掛けてきて「好きって言って」とねだるようなものだ。
「……ここをどこだと思っている?」
喜多見は冷めた声で問い返した。勤務時間に掛けてきてそんなことを訊かれるとは思ってもみなかった。
だが志木は、そこでやっと、いま喜多見が学校にいるということに気付いたらしい。即座に謝ってきた。その慌てぶりに、電話ボックスの中で頭を下げているだろう情景が浮かんでくる。
その上で志木は、質問の回答を求めた。どうしていまそんなことを聞きたいのかは掴みかねたが、単に甘い言葉が欲しいだけで電話してきたとも思えないので、喜多見は呆れながらも口を開いた。
「…ああ、そうだな」
30年間で形づくられた考え方が適用されずに、放課後の職場でじっと考え込んでしまうくらいには大きな存在だ。
電話越しに、安堵のため息が聞こえてきた。
『サンキュ。ちょっと行って来る』
「行くってどこへだ?」
『帰ってきたらすぐあんたンちに行くから』
志木は喜多見の問いには答えずに、急いでいる素振りでそう言った。そして電話はそこで切れてしまった。
喜多見は不審げな顔で、耳から離した自身の携帯電話を見つめた。
要領を得ないので、5分待って志木の携帯電話に電話を掛けてみる。しかし聞こえてきたのは志木の声ではなく、電源が入っていないか電波が届かないのでかからないというメッセージだった。
仕方がないので、志木の帰りを待つことにした。ちょっとそこまで、という風な言い方をしていたので、やがて喜多見の自宅に顔を出すだろう。
喜多見は腕時計に視線を落とし、必要な荷物をまとめて国語科準備室を出た。そして、担当しているクラスの生徒数人との面談のため、教室へと向かった。
『浮気でもしてんじゃないか?』
「そういった面での甲斐性はほとんどない奴だぞ」
自宅で夕食をとり終わった後、不意に電話を掛けてきた妹の明良に志木の様子を聞かれた。簡単に近況を話したところ軽い調子で放たれた言葉に、喜多見は志木が聞いたら複雑な顔をするだろう台詞を返す。
一直線な性格もあるし、何より嘘がつけない男だ。好かれることはあるだろうが、こっそり付き合ってしまえと思うような発想はしないだろう。
「まあ、2〜3日中にはわかるだろう。…おまえ、そんな話がしたくて電話をかけてきたのか?」
『いや、唯子がさ、わんころのこと気にしてたから』
「唯子さんが?」
『文化祭の時にね、いろいろ話したらしいんだよ。唯子が役者やめた話とか。で、天職と将来の展望ってのに迷ってるって言ってたけど、まだ悩んでんのかなって言うからさ』
初めて聞く話だった。いろいろ話したとだけは聞いていたが、初対面の唯子に就職についての悩みの相談までしているとは思ってもみなかった。よほど話しやすかったのだろう。
『唯子に聞いた話じゃあ、なんかぐるぐる考えてわかんなくなってる感じだったみたいだけど、その後どうなんだ?』
「――正式には決まっていないな。ただ、いくつかに絞ってはいるようだが。それが何かは聞いていないがな」
『兄貴ってそういうとこ放任だよなあ』
「自分で決めようとしているうちはな。助力を求められればいつでも手を貸すが」
『たくましく育つよ、あいつ』
受話器の向こうで明良が笑った。そこへ、電子音が割り込んできた。キャッチホンの音だ。相手が誰かは判らないが、明良からの電話は緊急の用件ではなかったので改めて掛け直すと断って、割り込んできた電話の方を受けた。
「はい、喜多見です」
『喜多見先生のお宅でございますか…?』
「? はい」
落ち着いた女性の声だ。
どこかで一度聞いたことがあるような気がするのだが、誰だったか思い出せないまま喜多見は応じた。
『夜分申し訳ございません。志木瑞帆の母でございます』
名乗られて、2年生の時の三者面談で聞いた声だと思い出した。同時に、なぜ志木の母親から喜多見の自宅に電話が来るのだという疑問が胸に湧く。
「こんばんは、お久しぶりです」
『ご無沙汰しております。ご自宅まで不躾にすみません。どうしてもお話ししたいことがありまして、学校に問い合わさせていただきました』
不安に揺らぐ声に、喜多見は気付かれぬよう息を飲んだ。どうしても、何を話したいというのだろう。
ただ志木のことなのか? それとも、志木と喜多見の――?
「どうしました?」
『ええ、あの……息子のことでお伺いしたいことが――』
「担任の岩崎先生ではなく私に、ですか?」
『はい、喜多見先生に』
言い切られて、喜多見はすぐに言葉を返せなかった。
思えばこれまで、それなりに長く付き合ってきたのはさほど年が変わらないか少し年上かのいい大人で、親の顔も見知っている未成年というのは初めてだ。
志木の思いを受け止めたときから、ある種の覚悟はしていた。志木の家族をくだらない風聞に巻き込まないために、露見しないよう配慮もしてきた。そして、志木の家族に言うか言わないかは、志木の判断に任せていた。志木が明かしたいというなら、喜多見なりにきちんと対応するつもりでいる。
しかし担任ではなくなった今、志木の家族から志木を介さずに連絡があるとは思っていなかった。
「…ご希望の日時と場所はありますか?」
『ええと……では、よろしかったらこれから――お時間おありですか?』
努めて冷静を装って尋ねた喜多見に、志木の母は即時面会を申し入れた。もの柔らかな声と丁寧な言葉遣いに反してえらく急な話だ。
喜多見はその申し入れを受けた。
志木も共に来るのか、母親だけなのか、どういった話なのか――どれも定かではなかったが、いまここで聞くよりも直接話した方が早い。
時間と場所を決めて電話を切った喜多見は、部屋着からスーツに着替えるべく自室へと向かった。
指定された喫茶店へ向かうと、志木の母親はすでに来ていて、店に入った喜多見を立ち上がって迎えた。
看護師をしていると志木から聞いている。肩より少し長い髪をひとつにまとめて背中に垂らし、化粧は薄く中背で細身の、全体的にキビキビとした印象の女性だった。職業のせいかもしれないが、受ける印象に優しさと頼もしさが同居している。
志木は父親似らしいが、“瑞帆”という名は母親の瑞枝から一文字もらったのだと聞いたことがある。
1年以上前に会った時とほとんど印象は変わっていないが、今日の彼女の表情には困惑と不安が浮かんでいた。
「お呼び立てしてすみません。本来なら学校にお伺いするのが筋だと思いますが、平日はなかなか――」
「気になさらないでください。志木さんこそ、お仕事の後に大丈夫ですか?」
「はい。頑丈ですから」
瑞枝は少しだけ疲労を滲ませた顔でにっこりと笑った。面差しはそれほど似ていないが、こういうところはそっくりだ。
「それで、どういったご用件でしょうか」
注文を聞きに来たウエイターにコーヒーを2つ注文し、喜多見から話を切りだした。
「はい、あの――息子のことなのですが」
「ええ」
「最近あの子、様子がおかしくて…。塞ぎ込むとまではいかないんですが考え込んでいることが多くて、何かを調べているようでよく出掛けますし――どうも就職のことらしいんですが、先生、何かご存知ではないでしょうか?」
瑞枝は思い詰めた顔で喜多見に尋ねた。問われた喜多見は首を捻る。
「就職のことなら岩崎先生にお尋ねになられた方が」
「電話で伺ってみました。特に何も言ってきてはいないということなんです。喜多見先生には去年まで大変お世話になりましたし、あの子もいちばん信頼しているようですので、何かご存知じゃないかと思いまして――」
なるほど、そういうことか。得心がいった喜多見は、いつの間にか力の入っていた肩の緊張を和らげた。
2年生の夏には、アルバイトに比重がかかりすぎて成績が落ちていた志木の勉強をマンツーマンで見てやった。その後も志木はよく質問に来ていたし、学校での志木と喜多見を言い表すのなら“手の掛かる生徒を相手にする担任”と“担任に懐いている生徒”だ。母親の印象も同じだろう。
しかし、聞いていないことは知る由がない。
「申し訳ありませんが、私も特に何も」
「……そうですか。わざわざご足労願いまして申し訳ありませんでした」
瑞枝は落胆した顔で深々と頭を下げた。そしてバッグを手にして立ち上がろうとする。
喜多見はそれを手で制して、もう一度座るよう促した。そして、ちょうど運ばれてきたコーヒーを瑞枝に示す。
「私でよろしければ少しお話ししましょう。コーヒーも来たことですし」
挽き立ての香ばしいかおりが、瑞枝を引き戻すようにして漂った。恐縮しながらシートに戻った瑞枝は、コーヒーカップを手に取り小さく息をつく。
喜多見はなるべくゆったりとした落ち着いた口調で瑞枝に話しかけた。
「就職についてお母さんが聞かれているのはどういったことですか?」
「…はい。まだ決めてないけどいくつか候補はあるからと、その程度です。正式に決まるまでは言わずにいるつもりなんだと……私を心配させたくないんだと思います」
たしかに志木にはそういう思いはあるだろうと、喜多見も思う。
瑞枝はコーヒーカップに視線を落とした。
「亡くなった主人の代わりに家族を支えようという気持ちがとても強い子なんです。バイトを始めた時も1人で考えて1人で決めました。もっと甘えてくれてもいいのに、大黒柱であろうとするんです」
「それが苦ではないようですよ」
子供が親に甘えるのは当然だと思う瑞枝の気持ちも分からないでもないが、志木は甘えたくないわけではないし、いやいや働いているのでもない。
それなりにアルバイトにやり甲斐と楽しみを見出している。頻繁ではないが、友達と遊ぶこともあるようだ。アルバイトで貯めた金で、大型二輪の免許も取った。少々他の同級生より働き過ぎではあるが、志木なりに毎日を楽しんでいる。
「私は、遊びたい盛りにバイトばかりで、就職先まで私たち家族のことを考えているあの子が不憫でたまらないんです」
「そういう風に考えてはいけません」
嘆息した瑞枝に、喜多見はきっぱりと言った。
志木にとってはそれが自然なのだ。働くことを強要されているわけでも、家族を食べさせなくてはという悲壮感を背負っているわけでもない。何が出来るのか、何をすれば家族の助けになるのかと志木が自分で考えて、自分で決めたことだ。
気にしてもいないことを憐れまれる方が辛い。
「不憫に思うより、感謝を示されてはいかがですか?」
「感謝……」
「すまないなと言われるより、ありがとうと言われる方が嬉しいでしょう」
「―――ええ、そうですね。本当に…」
頬に手を当てて瑞枝が呟いた。思い当たる節が山のようにありそうな様子だ。瑞枝は喜多見に向かって苦笑して見せる。
「何かにつけて、ごめんねとか悪いわねって言っていた気がします。そうですよね、謝られても困りますね」
「ですが、何も話してくれないことを辛く思うお気持ちもわかります。明日にでもそれとなく話してみましょう」
喜多見も、志木から何も告げられないことでもどかしい思いをしている。母親ともなれば、心配もひとしおだろう。
「ありがとうございます。どうかお願いします」
瑞枝は笑顔で頭を下げた。やはり、笑った顔が志木を思い出させる。
「今日は瑞帆君はアルバイトですか?」
「いいえ。今夜はシフトが入っていなくて、お友達の家に泊まりに行くと言ってました」
「そうですか」
表情を変えずに答えた喜多見だが、内心では志木が嘘をついて出掛けたという事実に驚いていた。
友達の家に泊まりにいくのに、喜多見にわざわざ報告などしない。「ちょっと行って来る」というひと言にすぐに帰ってくるのだと思っていたが、泊まりだとあらかじめ告げていったということは、遠方に行ったということになる。
一体、何をしているというのか。
志木から言い出すまでは志木の自主性に任せるつもりだった喜多見だが、日に日に増していく違和感に疑念が募る。
何かヒントはないか。他に志木は何を言っただろうか。
喜多見は記憶を辿った。
思えば、今日の電話もおかしかった。これまで、自分を好きかどうかなどわざわざ電話を掛けてまで聞いてきたことはない。
「………」
電話の内容を反芻していた喜多見は、ふと既視感を覚えて顔を上げた。何か、以前にも同じ台詞を聞いたような気がする。
「先生? どうかしました?」
「え? ああ、いえ、なんでも」
声を掛けられてやっと、目の前の瑞枝を放り出して自問自答していたことに気付いた喜多見は、笑みを作って首を振った。
その後、世間話のようなものを少しして、喜多見と瑞枝は席を立った。
頭を下げ合って店の前で別れ、瑞枝とは逆方向へ向かった喜多見は、歩きながら中断していた記憶の検証を再開した。
“…れが、…に……っても――あんたは――”
数日前の、聞き取れなかった睦言が蘇る。もしかしたら、同じなのかもしれない。
コートのポケットから取り出した携帯電話を見つめ、喜多見は今日の電話の内容をもう一度思い浮かべた。
“俺がどこにいても、あんたは俺を好きでいてくれるか?”
その言葉の意味するところを知るのは志木ひとりだけだった。聞き取れなかったひと言と同じなのかどうかもまた、志木だけが知っている。
携帯電話をポケットに戻し、喜多見は駅へと続く歩道橋へ向かって足を速めた。
志木が喜多見の家にやってきたのは、志木の母親と会ってから2日後のことだった。
その間、喜多見はあえて志木の携帯電話を鳴らそうとしなかった。志木が自分で何かを得ようとしているのなら、それに水を差すのは喜多見の本意ではない。
とにかく直に会って話す。そう決めて、志木からの連絡を待った。
電話連絡を寄越してから数十分後にやってきた志木は、1〜2泊の荷物が入るだろうバッグと土産物屋の紙袋持参で現れた。本当にどこかから帰って来るなりまず喜多見に連絡してきたようだ。
「体を温めて待っていなさい」
志木のダウンジャケットの背中を叩くようにして居間に入れ、喜多見は台所に向かった。
到着するおおまかな時間は志木が伝えてきていたので、それに合わせて湯を沸かしていた。今にも雪が落ちてきそうな寒さに冷えているだろう体のために、紅茶の中に数滴ブランデーを落とす。2、3滴ならば酒に強くない志木でも大丈夫だろう。
喜多見の家にはエアコンがない。石油ストーブの前で体を温めていた志木は、喜多見がカップを手に戻ってくると、いそいそと炬燵へ移動した。
「……冷たいな」
美味そうにカップの中身をすする志木の頬に触れて、喜多見は呟いた。暖かい部屋の中でも低めの喜多見の体温より数段冷たい。
「外すげえ寒ィよ。でもまだマシかも。向こうは氷点下だったし」
「おまえ、一体どこに行ってきたんだ?」
志木から振ってきたので、喜多見は会話の流れのまま志木の行き先を尋ねた。
「高山市。あ、これあんたに土産」
志木が取り出した包みを開けると“朴葉みそ”と書いてある。飛騨の名産品だ。ということは、高山市とは俗に言う岐阜の飛騨高山のことか。
「美味かったからさ。酒の肴にも良さそうだし。飛騨牛はちょっと手が出なかった」
何かを隠しているというのは自分の思い込みで、単なるひとり旅なのだろうか?
どういう反応を見せればいいのかわからずに、喜多見は手にした土産を見下ろした。
「やっぱり牛肉のほうが良かった?」
「いや――」
喜多見は、志木の真意を問うようにその顔を見た。
視線を受けて志木が居住まいを正す。体の正面を喜多見に向けて正座をした志木を、喜多見は訝しげに見つめた。
「…えーと……長らくご心配掛けましたが、就職先が決まりました」
両膝に手を置いて、志木が深々と頭を下げた。
喜多見は黙ってそれを見ていた。あまりに長いこと反応がないのが心配になったのか、志木がそろりと顔を上げる。喜多見は手にしていた土産を座卓の上に置いて、志木と同じように正座をした。
「そのために高山まで行ったのか?」
「ああ」
「それは――就職先が高山ということか?」
俺がどこにいても――ここから離れても、という意味なのか。
「えっと、正しくは違うんだけどさ。全然違うってわけでもないんだ」
「どちらだ」
「んーっと、最初っから順に話すわ。喜多見さ、年末年始に行った宿にあった家具、覚えてるか?」
「ああ、あの手触りの良いやつだろう」
「そう、それ」
志木は、何日経ってもあの家具のことが心に懸かっていたという。
どうやったらあんなに滑らかな感触が出せるのか。触れていると落ち着くのは何故なのか。もともと日曜大工は得意な分野で、木で何かを作るのが好きだったこともあって、そんなことが気になって仕方がなかった。
そして志木は、宿に電話をかけて家具を製作したという職人のことを尋ねた。宿の女将が教えてくれた職人の連絡先は、意外にも志木の住む町からそう遠くはなかった。車かバイクを使えば1時間といったところだ。
志木は直接電話をしてアポイントメントを取り、連絡先だという和家具の製作会社に向かった。
そこは件の職人が代表を務める、伝統和家具の補修と製作、そしてオリジナル家具の製作販売もしている会社だった。従業員は職人の実生活でのパートナーでもあるという女性がひとりで、事務作業の一切を取り仕切っているという小規模の会社だ。
働かせてもらえないかと、単刀直入に志木は訊ねた。触れた感触が、座った心持ちが忘れられないのだと。
職人は志木に、鉋掛けや木材の断裁などを試みさせた。幸いそれは、プロ並みとまではいかなくとも慣れた作業で、職人の評価も高く志木にも手応えがあった。
「正直言えば、人手が増えるのは嬉しいんだ」
40代半ばだという職人は、つなぎの作業服にバンダナ代わりのタオルを頭に巻くという和家具職人らしくない姿で、缶コーヒーを片手に志木に言った。
「いま、製作も納品も俺1人でやってるから、なかなか数がこなせなくってな。作ってみたい家具はたくさんあるんだが、アレもコレもってのは難しくてさ。おまえは道具の扱いも悪かねえしやる気もあるし、俺も彼女もおまえのこと気に入ったし」
聞いていた志木は喜色を浮かべたが、職人は「だけどな」と言葉を続けた。
「独立させてもらった今は創作家具もやってるけど、俺はもともと伝統家具作りの修行から初めてんだ。だからできれば、ウチに入ってくれるんなら同じ修行をしてほしいんだよ」
職人は飛騨の出身で、中学校を卒業して飛騨の家具造りの修行を始めたという。15年間修行し若年ながら高齢の師匠の跡を継ぎ、さらに5年後に独立して関東に出てきて、創作家具作製会社を立ち上げた。それから10年を経て、今に至っている。
職人の師匠は現在90歳を超える高齢だがいまだ存命だという。自分の元で働きたいのなら、高山で師匠の指導を受けてくれと職人は言った。
ただし師匠の年齢的に10年も20年も指導が出来るわけではない。元気ではあるが、体はめっきり衰えた。
「だから2〜3年向こうに行って基礎を教わる気はないか? 一応俺が跡を継いでるんで俺がイチから見てやるんでもいいんだが、やっぱり先人の経験ってのを直に知っとくのはプラスになると思うんだよ」
「……あの、うちは親父がいないんで、いくらか実家に金を入れたいんです。修行中にバイトって出来るもんですか?」
「バイトは無理だろうなあ。でも、いま頼んでる通いのヘルパーさんの代わりに、住み込みで師匠の身の回りの世話をしてくれるんなら給料出すよ。そんな高額は無理だけどさ」
聞けば15〜6万円は出せるという。それだけあれば、と志木は思った。修行をするなら遊び回る時間はない。住み込みならば家賃もかからない。ちょっとした小遣いと実家に送る分を差し引いても、足りないということはないだろう。
「ちゃんと基礎を身に着けて帰ってきてここで働くようになったら、最低でもその倍は出すぞ。どうだ? やってみるか?」
志木は即答しなかった。出来なかったと言っていい。
卒業まで3ヶ月を切っても就職先が決まらず心配を掛けている家族に、早く正式に決めて安心をさせたかった。家族の反対はたぶんないだろうと思った。志木がやりたいといえば、母親は笑って送り出してくれるだろう。
だが、喜多見がいる。もちろん喜多見なら、志木の選択を否定することはないはずだ。高山に行くといっても反対しないだろうと思う。問題は、志木自身の気持ちだ。
喜多見と離れたくなかった。一緒にいたかった。いられると思っていたし、離れることなど考えたこともなかった。
答えに詰まった志木に、職人は返答は待つと言ってくれた。おかげで、期限は区切られたものの考える時間を得た。
そうしてしばらく思い悩んでいたのが、喜多見が志木に違和感を感じ始めた頃のことだ。
「それで一昨日、あんな事を訊いたのか」
志木の説明を聞き終わり、喜多見は嘆息して言った。
「うん。で、実際に高山まで行ってみて考えてきた」
「――決めたんだな」
「ああ」
頷いた志木の目に迷いはない。喜多見が訝しく思っていた憂いの色も消えている。
「2年か3年、あんたと離れなきゃならなくなる。でも、離れてても俺にはきっと、あんたの見る景色も過ごす時間もわかるから――だから決めた」
かつて喜多見の妹・明良の恋人である唯子が語ったこととは逆の結論を志木は出した。
何度となく通った喜多見の自宅も、室内から望める庭も、電車から眺めた家々の隙間で陽光を照り返す海も、学校の校庭、廊下、教室、そして国語科準備室から見える景色も――志木は全て見て、覚えている。だから。
「やってみたいと思ったんだ。いつかこれで飯が食えるように頑張ってみたい。――行ってもいいか?」
「…おまえが自分で選んで決めたことを、どうして私が反対するというんだ」
真剣な目で告げ、続いて問い掛けた志木に、喜多見は微笑んで見せた。
志木の表情が安堵に和らぎ、腕が喜多見へと伸びる。
引き寄せられるまま、喜多見は志木に体を寄せた。きつく抱き締めてくる志木の背中に回した手で、喜多見はその背をあやすように撫ぜる。
やがて、少し胸を押すようにして体を離し、志木の頬に両手を添えた。指先で輪郭を辿る喜多見に、志木が顔を近づける。
そして喜多見の指先が、志木の頬をつまんで力任せに左右に引いた。
「い――ッ」
「…意外と伸びるな」
若い肌の弾力に冷静に感想を述べて、喜多見は指先を緩めた。そして今度は、広げた手のひらで思い切り打ち挟む。
「あにすンらよッ!」
大層小気味良い音を立てた頬を両手で覆って、涙目で志木が訴えた。喜多見は謝りもせず腕を組んで志木を見据える。
「今のは私の分、その前のはおまえの母親の分だ。きちんと決まるまでという気持ちはわからなくもない。自分で決めたかったというのもわかる。だがな、黙っていればいるだけ周りに心配をかけることも覚えておきなさい」
「――ごめん……」
志木は悄然として項垂れた。
喜多見は黙って志木の肩に手を乗せる。叩いたことへの謝罪はしないが、心から反省している相手をさらに叱咤するようなこともしない。大切なのは、繰り返さないよう努めることだ。
「とにかく志木、家に帰って親御さんに報告しなさい。心配されていたぞ」
「心配…? って、え…?」
「何か知らないかと、私に訊いて来られたよ」
「え…なんで? 岩ちゃんじゃなくて?」
志木の現在の担任の岩崎は穏やかな初老の物理教師で、生徒達からは“岩じい”または“がんちゃん”と呼ばれて親しまれている。喜多見の“鉄仮面”と比べたら何とも微笑ましい愛称だ。
「岩崎先生の後に私にお鉢が回って来てな」
「そっか…。そんなに心配かけてたなんてまだまだガキだなあ、俺」
「誰だってひと息には大人になりきれないものだ。――さあ、遅くなるとまた心配かけるぞ」
「あ、うん」
促された志木は、名残惜しげに腰を浮かせた。
ダウンジャケットを着込み、荷物を抱えて居間を出る。喜多見はそのあとに続いて、玄関まで見送りに出た。
「――明日の夜、来てもいいか? 忙しい?」
「明後日ならいいぞ」
「わかった」
頷いて、志木は喜多見を抱きしめた。先ほどの力強い抱擁とは違いゆるく腕を回しただけだったが、何故かきつく抱きしめられるより力強さを感じる。
以前から腕力はあったが、その腕に安心感を覚え始めたのはいつからだったろう。志木が気にし続けていた身長も、もうすっかり喜多見を抜いている。
時折、大人の顔をするようにもなった。いまだ若い青さがあるのは確かだが、道に迷わぬよう手を引いてやらねばならないような子供でも、降りかかるものから庇護しなくてはならないほど幼くもない。もうすぐ“生徒”でもなくなる。
「俺、いい男になるからさ。あんたに頼ってもらえるような大人の男になるから、もうちょっと待っててくれよな」
喜多見は志木の頭に右手を伸ばし、手のひらに馴染むその髪を撫でた。それに微笑んで寄越した志木の顔は、いつもよりも少し男っぽく見えた。
玄関先まで出て志木を見送った後、喜多見はしばらくその場から動かなかった。
一抹の淋しさと不安が胸をよぎる。何を物悲しく思うのか、何を気にかけ恐れているのか、自分でもよくわからなかった。
遠く離れることをなのか、それとも手を離すことをなのか――。
落ちてきた雪片を、右の手のひらで受ける。喜多見は、不明瞭な感情を確かめるようにしてその手を握りしめ、そっと左手を重ねた。
志木のぬくもりが、右手に残っているような気がした。
−終−
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