Vol.14 『主導権』


 いまにも白いものが落ちてきそうな鈍色の空が、冬の海の上に広がっている。
 夏ならばちらほらと釣人や近所の子供たちの姿が見られるのだが、この時期にはほとんど人影はない。
 そんな浜を視界の隅に納めながら、喜多見はウインカーを出して車を歩道側に寄せた。
 喜多見の家の最寄りの、浜と同じく人気のない駅前で1人立っていた志木の顔が微妙に歪んでいる。
 鍵を開けてやると、スポーツタイプのバッグを後部座席に放り込んで助手席に乗り込んで来たが、表情はそのままだ。
「どうした?」
 シートベルトを締めたのを確認して車を発進させながら尋ねると、志木はため息をついた。
「…こっちの駅前に来いって言うからおかしいと思ったんだよ。ウチの方が近いのにさ」
「目的地からいっても電車だと誰か知人に会う可能性が高いだろう?」
「で、明良さんから車借りたのか」
「明良のほうから使えと言ってきてな」
「言ってくれれば俺がバイク出したのに」
 志木はもう一度ため息をついて手のひらで顔を覆った。
 3年を超えるバイト暮らしで少しずつコツコツと貯めていたバイク資金は、バイト先の大学生に中古の400ccバイクを譲ってもらったことにより目標額を軽くクリアし、さっそく志木は大型二輪免許を取った。
 体も大きく力もあるので実技には何の問題もなく、学科も滞りなくクリアしたようだ。学校の勉強は好きではないくせに、免許は一発で取ってきたあたりが志木らしい。
「この寒いのにタンデムは御免だぞ。それに雪も降りそうだから無理だろう」
「あんたの運転で雪道走るより全然いいと思うんだけどなー…」
「なんだって?」
「…何でもない」
 ぼそぼそと呟いた言葉がよく聞こえず聞き返したが、志木は諦め顔で首を振った。
「…乗り気がしないのなら行くのをやめるか」
「えっいや、行きたくないわけじゃ…っ」
 突然の中止宣言に、志木は慌てて喜多見を見た。喜多見は前方を見据えたまま問い掛ける。
「行く気はあるのか?」
「行きてえよ! すげえ楽しみにしてたし、今日のために期末の後から休みなしでバイト入れてたし――ただ……あんた、運転荒いの自覚してる?」
「しているが――明良から車を貸してくれたのなら構わないかと思ってな」
「そりゃ助手席に乗るのは明良さんじゃねえもんなあ」
「そんなに荒いか?」
「うん」
「そうか」
 志木の即答に、喜多見は苦笑を浮かべた。
「なるべく荒くならないよう気をつけよう。…それでいいか、瑞帆?」
 赤信号に差し掛かって車を停め、志木に視線を移して喜多見は尋ねた。
 突如名前で呼ばれた志木は照れたように目を逸らして頷いた。普段呼ばれないからとはいえ、名前で呼び出して半年以上も経つのにいつになっても新鮮な反応をする。
「ところでおまえ、道路地図は読めるか?」
「え? ああ」
「ダッシュボードに入っているからナビゲートしてくれ」
「カーナビ付いてねえの?」
「嫌いなんだそうだ」
 サウンドシステムは装備されているが、カーナビゲーションシステムはあえて取り外したのだと明良は言っていた。
 合成音声が好きではないらしい。ちなみに時報は肉声だから問題ないそうだ。
 そう話してやると、地図をめくりながら志木は笑って同意を示した。
「なんかわかる。明良さんて“生好き”って感じ。テレビよりスタジアムとか、メールより電話とかさ」
 直接会ったことは2回しかないはずだが、よく本質を捉えていると喜多見は思った。
 気になる映画はビデオ化やテレビ放送を待たずに必ず映画館まで観に行っていたし、メールと電話については志木の言う通りだ。
 そして、恋人と一緒に暮らし始めたのも、直接顔を見られる距離にいるためだった。昨年、勤めている美容室の新店舗へ店長待遇での異動という話が出た時も、2人で住む家から通うには少々遠いという理由で別の候補に譲ってしまっている。
 地図に視線を落としていた志木が、2つ先の信号を右だと告げて顔を上げた。
「雪だ」
 灰色の空から落ちてきた白い塊がフロントガラスに降りてきて、すぐに溶けて流れ落ちた。


 喜多見のもとに妹の明良から電話がかかって来たのは、12月の始めの週末のことだった。
 木枯らしで葉を散らされた庭の樹々はすっかり寂しく、吹く風をより冷たく感じさせている。
「どうかしたか?」
『うん、あのさ…年末年始に休みが取れたんだよ』
「珍しいな」
 美容師という職業柄、当然、年末年始は着付けだヘアセットだと勤め先は書き入れ時だ。明良が美容師になって数年経つが、年末年始が休みだと喜多見が聞いたのは初めてだった。
『持ち回りで今年は私の番でさ、せっかくだからどっか行こうと思って』
「よかったじゃないか。唯子さんとゆっくりしてくるといい」
 明良の恋人の唯子は喫茶店を経営している。店の定休日と自分の公休を同じ曜日にしている明良だが、連休がないので泊まりがけでは出掛けられない。
 だから喜んでいると思いきや、明良の声は思いのほか沈んでいた。
「どうした? 何か問題でもあるのか?」
『おお有り。ゆうべ店長が入院してさあ』
 年中人で溢れているような街中にある喫茶店ではないので、唯子の店は年末年始の5日ほどは休みになる。ならば年越しで旅行に行こうと宿の手配まで済ませたのだが、昨夜店長が事故で入院してしまった。全治3週間だったが退院直後に無理はさせられない。結果としてチーフの明良が休むわけにはいかなくなってしまった。
『だからさ、代わりに行ってくんない?』
 突然の依頼に、喜多見は手にした受話器を見つめて眉を寄せた。
「どこへ誰と」
『愛犬とに決まってるじゃん』
 明良は手元にあるらしい宿泊先の資料を読み上げた。
 場所は喜多見の家から電車でさほど遠くない温泉地。古くは外国人避暑地であった有名どころだ。宿はこぢんまりとして、内湯がひとつ、露天がふたつの掛け流し天然温泉。
『露天風呂付きの部屋は取れなかったんだけど内湯は貸し切れるらしいし、駅からはかなり離れてるから静かそうだよ? ちょっと遅いけど誕生日プレゼントってことでさ』
「ぽんとプレゼント出来る金額じゃないだろうが。むしろそんな時期に出かけるのは面倒臭い」
『じじくさいこと言うなよ。わんころは喜ぶと思うぞ?』
 たしかに志木は喜ぶだろう。喜びようまで明確に浮かぶほど想像に難くない。しかし問題もある。
「時給がいい時期だから、あいつはバイトを入れていると思うが」
『まだひと月あるじゃん。訊いてみてよ』
「だがおまえ達ならともかく、私と志木では不審この上ないぞ?」
 ただでさえ連休や盆暮れ正月はすぐに予約で埋まってしまう人気の温泉地だ。そんな場所の小さな宿なら、主な客はカップルか女性か家族連れだろう。
『見るからに年の差あるんだし、兄弟とでも偽っときゃいいじゃん』
「あの大根にそんな芝居をさせるのか」
 嫌そうな喜多見の物言いに、受話器の向こうで明良が吹き出した。文化祭で観た演劇部の舞台を思い出したのだろう。
「ま、たしかにね。だけど春に旅行した時もそうしたんだろ?」
「時期も状況も違うからな」
 あの時は離れという放置状態だったからよかったのだ。いろいろと会話を交わすとなると、志木に芝居が続けられるとは喜多見には思えなかった。
 だが明良は軽い調子で大丈夫と2度繰り返した。
『結構ほっといてくれる宿みたいだし、わんころに応対させなきゃ平気だって。で、感想教えてよ。良さそうだったら今度リベンジするから』
「…私達はリサーチ隊か」
『そりゃ行ってみたくて選んだとこだから気になるし。でも友達じゃなくて兄貴にどうかなって思ったのはリサーチ頼むためじゃないぞ?』
「――わかっている」
 喜多見は軽く息を吐きつつそう返した。
 べったり仲の良い兄妹ではないが、明良なりに兄思いなのも、志木を気に入っているのも判っている。ここ数年喜多見が仕事中心の生活をしていることや、教え子である志木とは学校と自宅以外で会うことがほとんどないということを慮ってくれているのだろう。
 もちろん100%善意というわけではなく、多少のアクシデントも期待してはいるだろうが。
「私の分はありがたく甘えておく。志木の分は私が出そう。――あいつの予定が空いていれば、だがな」
『OK。2〜3日で連絡もらえる?』
「わかった」
 うまく乗せられたなと思いながら電話を切った喜多見は、部屋の時計を仰ぎ見た。18時。志木はバイトの最中だろう。
 それにしても、春の連休といい今回といい、うまい具合に転がり込んで来るものである。今回は春とは違い旅費が掛かるが、通常ならこの時期にはもう年末年始の宿泊予約など取れない。
 顔を合わせるのは学校かこの家か、2人で出掛けたことなど数えるほどしかないというのに、1年で2度も旅行に行くことになろうとは思いも寄らなかった。もっともこの2度目は志木の予定次第ではあるが。
 喜多見は座卓の上に置いてあった携帯電話を引き寄せ、連絡を寄越すよう志木にメールを送った。
 滅多に送ることがないメールの送信履歴には志木のアドレスばかりが並んでいる。だが頻度はまちまちで、1ヶ月ほど空いていたりもする。かといってメールの履歴のない日には電話を掛けているわけでもなく、学校でも毎日顔を合わせているわけではない。
 自分はともかく、よくも志木がこの状況に耐えてきたものだと、喜多見は改めて思った。
 2人でいる時にはもう少し甘やかしてやるかと思い巡らせたところで、手の中の携帯電話が震えた。


「大丈夫か?」
 車から降りて立ち尽くす志木に歩み寄り、喜多見はその顔を覗き込んで尋ねた。
 こんな青ざめた顔を初めて見た。喜多見が知る限り、志木は病気ひとつしたことはない。
「おまえ、三半規管弱かったか?」
「さんはん…なに…?」
「そんなに荒い運転だったか」
「前に乗った時よりは荒くなかった気がするけど、地図見てたから――」
 しかも、いわば山間の温泉地なので道も当然峠道で曲がりくねっている。車に酔う要因は見事に揃っていた。
「とにかくチェックインしよう。部屋に入れば横になれる」
 喜多見はそう励まして志木の背を押した。
 小さな宿だ。4台分の駐車スペースの向こうに門扉があり、格子の引き戸が開け放たれていた。奥の玄関までは数メートル、白い玉砂利に敷石が浮かんでいる。
 玄関まで辿り着き戸を開けると、三和土に2脚の椅子が置いてあった。そのうちの片方に志木を座らせ、喜多見は奥へ向かって呼び掛けた。
 すぐにやって来たのはひと目で女将と知れる貫禄の作務衣姿の中年女性で、ハキハキと愛想良く出迎えてくれた。
「喜多見様ですね。ようこそいらっしゃいませ」
「お世話になります」
「お連れ様、具合でも…?」
「車に酔ったようでして」
「まあ…山道ですからねえ。大丈夫ですか? お部屋は2階になりますが、歩けますか?」
 女将が志木に問い掛けるが、俯いている志木からは返答がない。
「…瑞帆?」
 心配になり肩を揺すって声を掛けると、志木は弾かれたように顔を上げた。
「どうした?」
「――いや、へいき…いまなんだか、気持ち悪いんだけど気持ちよかった」
「なんだそれは?」
 不可解な答えに喜多見は首を傾げた。だが、女将はいまの答えで言わんとしていることを察したようだ。
「心地がいいとよく言っていただくんですよ、その椅子」
「…そういえば、座った時にふっと楽になったような気が――」
「ええ、座っていると和むと仰る方が多いですね」
 椅子自体には特に変わったところはない。天然木を裁断加工せずに使用した肘掛けと脚に特徴があるくらいで、ダイニングチェアよりは低めの単なる椅子だ。
 座るだけで体調が良くなる椅子というと、どこか胡散臭い。だが志木は気に入ったようで、滑らかな椅子の肘掛けをそっと撫でている。
 しかし、いつまでも玄関先にいるわけにはいかない。志木もそれはわかっていたようで、喜多見が声を掛けるより先にゆっくりと立ち上がった。
「2階のお部屋には椅子はないんですが、座卓は同じ方の作品ですよ」
 2人を導きながら、女将が志木に話しかける。
「作品?」
「家具職人さんというんでしょうか? 注文に沿って家具を作ってくださる方がいらっしゃるんですよ」
 数年前に宿を改装する際に発注したのだと女将は言った。
 案内された部屋は2階の角部屋だった。
 和室ふた間が間仕切りなしに続いていて、手前の部屋には座卓と座椅子とテレビ、奥の部屋にはすでに布団が敷いてある。華美でなく、殺風景でもなく、木彫の家具がしっとりとした落ち着きを醸し出していた。
 志木の具合を慮ってか、女将は手短にと言って宿内の説明をしてくれた。
 夕食は18時半から部屋食、朝食は1階広間。ゆっくり静かに過ごしてもらうために、夕食の配膳以外は呼ばない限り部屋には来ないと言う。たしかにいちいちお茶だ、布団の上げ下げだと部屋に来られるのは煩わしくもある。
 内外合わせて3つある風呂は貸し切り制で、風呂場の前のボードの希望する時間の欄に名前を書いておけばいいという手軽さだ。大きな宿になると、フロントで予約を取り鍵の受け渡しをしたりと面倒な段取りがあるが、小さな宿なだけに自由が利く。
 女将は必要最低限の説明だけをし、薬が必要なら声を掛けてくれと言い残して部屋を出て行った。
「大丈夫か、志木?」
「…ん…」
 手を伸ばして頬を包むと、志木より低い喜多見の体温が気持ち良かったのか、志木は目を閉じて頬を手のひらに擦りつけた。
「横になっていなさい」
「喜多見?」
 頭をひと撫でして腰を上げた喜多見を、志木が仰ぎ見る。
「駐車スペースの脇に自動販売機があったから、何か冷たいものでも買ってくる」
 言い置いて、喜多見は部屋を出た。
 15時からチェックイン可能で現在は16時前だが、2階の5部屋のうち2部屋がまだチェックインしていないのか、入口が開いている。戸の閉まっている部屋は、宿泊客がいるのかいないのか判らないほどしんと静まり返っていて、隣室の騒音に悩まされることはなさそうだ。
 無垢材の階段を下り、まず表へ出た。行き掛けに降り出した雪はいまは止み、うっすらとも積もっていない。しかし、雲は重くかなり冷え込んでいるので、これからまた降るのかもしれない。
 缶コーヒーとスポーツドリンクとミネラルウォーターを手に引き返した喜多見は、三和土にあった件の椅子の肘掛けに触れてみた。なだらかな瘤の丘も樹皮も見て取れるのに、百日紅の幹のような滑らかな手触りだ。
「……なるほどな…」
 試しに座ってみて、喜多見は呟いた。たしかに座り心地がいい。見たところは何の変哲もない意匠なのに、尻と背に馴染んでほっと落ち着いた。
 このまましばらく座っていたい気持ちになったが、玄関先でぼうっと座っているわけにも志木を放っておくわけにもいかない。
 喜多見は立ち上がり、今度は1階の奥を目指した。
 女将に説明を受けたとおり、広間と客室の奥に風呂場があった。途中の廊下には、ご自由にどうぞと籠に盛られた蜜柑が置いてある。つるりとして綺麗な橙色のものではなく無農薬の天然物とひと目で知れたが、漂う芳香は甘い。
 風呂の前のホワイトボードにはまだ空欄が多かった。いまは誰も入っていないようなので覗いてみると、それぞれ調度から小物までを和風で統一した脱衣所があり、4人ほどが定員だろうこぢんまりした浴室に続いていた。
 露天風呂のひとつは檜、もうひとつは信楽焼きの浴槽で、露天よりは広めの内湯はオーソドックスな岩風呂仕立てのタイル仕様だ。
 喜多見は少しだけ考えて、檜の風呂の20時台の欄に名前を書き込んだ。
 中心街から離れているところといい、家具から室内まで木を主にした和風の落ち着いた雰囲気といい、隠れ家的で居心地がいい宿だ。今回は明良達には不運だったが、宿自体はいいセレクトだと喜多見は思う。
 風呂場の後はどこにも寄らずに部屋に戻ると、志木が座卓に突っ伏していた。
「横になっていろと言っただろうが」
「いや、ちょっと転がってたんだけどさ、これ気持ち良くって…」
 見れば、たしかに座椅子がよけられ、二つ折りになった座布団が置いてある。
 持っていた飲み物と蜜柑を座卓に置いて、喜多見は座卓の表面に触れてみた。なるほど、階下の椅子の肘掛けと同じくさらさらとして手触りがいい。
「どうしたの、これ?」
 蜜柑をひとつ持ち上げて志木が尋ねる。
「もらって来た。飲み物はどれがいいんだ?」
「んー…これ」
 志木は並んだ缶を順に見て、スポーツドリンクを指差した。喜多見はそのプルトップを開けてやり、志木に手渡す。
「…なに、やさしいじゃん」
「原因は私の運転にあるからな」
 そう言って喜多見は、スポーツドリンクを口に含んだ志木の額に手を伸ばして体温を確かめる。発熱しての体調不良ではないので、部屋を出る前に頬に触れた時にはむしろ血の気が引いていて志木にしては冷たかった。額だけでは判りにくかったので、飲み干すのを待って頬と首筋に触れてみる。
「だいぶ顔色が良くなったな」
「喜多見…」
「ん?」
「ひざ貸して」
 唐突に切り出し、喜多見の返事を待たずに志木は横になった。否定も肯定も出来ずに、喜多見の脚は枕と化す。
「こら」
「ダメか?」
「あとから聞くな」
 喜多見は軽く息をついて志木の額をぺちんと叩いた。
 少し甘やかしてやろうとは思っていたし、これで具合が良くなるのなら膝くらいいくらでも貸してやっていい。しかし、寝るのならまだ座布団のほうが寝心地がよいだろうにと思わないでもない。
 結局好きにさせつつ、喜多見は志木の頭に手を置いた。
 手のひらで感じる髪の感触が、喜多見にとっては座卓の手触り以上に手に馴染む。
 髪を切って以来男っぽさが際立って見えるのか、文化祭後に出回った写真が目を引いたのか、志木に興味を持ちはじめた女生徒がいるようだった。1、2年時の担任を調べたのか、いま受け持っている2年生からどんな人かと尋ねられたこともある。
 髪型ひとつでずいぶんと扱いが違うが、そもそも全校で噂になるような派手なタイプではないし部活動もしていないので、同学年以外にはさほど知られていなかったのだ。
 志木の得意分野の体育祭や球技大会では個人が突出して目立つということはあまりなく、目立っても見ているほうは自分のチームやクラスの応援で盛り上がってしまうので、特別に意識するより仲間意識や連帯感のほうが勝ってしまう。
 愚直なまでに一直線な性質の、移り気という言葉とは遠い男だ。直接的に好意を告げられるか接触されるかしない限り、見られていても探られていても気にしないだろう。
 だが、喜多見としては少々複雑な気分だった。喜多見なりにではあるが、志木に対して執着も独占欲もある。
 現在の髪の手触りを楽しむ自分がいるので苦笑するしかないのだが、切った明良もここまで考えてはいなかったろう。
「……何をしている」
 ふいにもぞもぞと体の向きを変えた志木を見下ろして、喜多見は尋ねた。
 しかし俯せになった志木は答えず、喜多見の着ていた黒いタートルネックのセーターをたくしあげ、ズボンのジッパーを咥えて引き下ろす。
「志木」
「ん?」
「何をしているんだと訊いている」
「いまバックル外してる」
 冷ややかに問い掛けた喜多見に素直に答えて、志木はベルトを引き抜いた。
「何を急にさかっているんだ」
「あんたに撫でられると気持ち良くってさ」
「では撫でられておけばいいだろう」
「他のところも撫でてほしくなった」
「馬鹿者」
 呆れてため息をついた唇を体を起こした志木が軽く啄んで、喜多見を引き寄せた。ひとまずされるがまま近づいたその体を、志木が頬をすり寄せるようにして抱きしめる。
「晩メシ6時半だっていうからまだ時間あるしさ……嫌か?」
 どうやら、春の連休の時に食事の準備をしにきた仲居に水を差された教訓は忘れていなかったらしい。たしかに今日は十分に時間はある。
 緩く回された志木の腕をそのままに胸を押して体を離し、喜多見は志木の顔を覗き込んだ。
「具合は? 良くなったのか?」
「吐き気はもうなくなった。ちょっとふらふらしてる気がするけど大したことねえよ」
「ふらふらしてるなら無理だろうが」
「うん、だからさ、あんたが乗ってよ」
「……」
「してるうちにもっと元気出ると思うんだけど」
「下半身だけ元気になってどうする」
「気持ちも元気になるってば。うれしくて」
 そう言って志木は笑った。付き合い始めた当初は闇雲に求めてくることが多かったが、いつの間にやら誘うのが上手くなったものだ。
 喜多見は潔く志木の誘いに乗ることにした。

 手順とペースを志木に委ねて、その手の導くまま唇を重ねる。セーターの中に滑り込んだ手指で脇腹を撫で上げられて、角度を変えた唇から吐息が洩れた。
 1年前と比べて、口づけながら素肌をたどるのも服を剥いでいくのも、流れの中で自然にやってのけるようになっている。俗な言い方をすれば仕込んだのは喜多見なのだが、指先が掠める場所がいちいちツボにはまり、さほど時間はかからずに息が上がってきた。
「…ッ……」
「……ここ? イイ…?」
「――ふ…っ」
 新たに探り当てた場所を忘れまいとするかのように再度確かめられ、小さく声が零れる。指先で刺激され、志木の手の中の喜多見のものが固さを増した。同時に喜多見が触れていた志木自身は、すでに隆と勃ち上がっている。
「こっち」
 短い言葉とともに肘を引かれ、膝立ちになった。志木の首に腕を回して呼吸を整えていると、いつの間に荷物から取り出したのか、濡らされた指先が後ろに滑り込んだ。潤滑剤のひやりとした感触と指が入り込む異物感に一瞬背が強張るが、すぐにそれは熱さに変わる。
 交わす言葉もなく、吐息を絡めるようにキスをし、体の質感を確かめるように手指を滑らせ、受け入れられるようになるのを待つ。
 しばらくして、喜多見は志木の手を押し止どめた。
 それを合図に仰向けに倒した体を肘で支えながら志木が手にしたコンドームを、喜多見の指先が取り上げる。袋の片端を銜え封を開けて志木に着けてやり、足の位置をずらして下肢を跨いだ。
「あんた今日、サービス良すぎ」
「乗れといったのはおまえだろう?」
 言い返して、ゆっくりと身を沈めた。
 中のきつさに、志木の顔が歪む。悦楽と苦痛の入り交じったその顔を目にして微かに笑みを浮かべ、喜多見はさらに腰を落とした。
「……っ」
「喜多、見……苦しいなら…――」
 心配そうな顔で志木の手が伸ばされたが、肩に触れた手をそのままに出来る限り深いところまで志木のものを受け容れ、喜多見は長く深いため息をついた。
 ゆっくりと呼吸を繰り返しどうにか落ち着いたところで、志木が体を起こした。喜多見の手を自分の肩に導いて掴まらせ、ふっと笑みを浮かべる。
「どうした…?」
「ん? うん、初めての時もこの目線だったなあと思って」
「ああ」
 志木の言葉を受けて、喜多見も小さく笑った。
 たしかに初めて体を重ねた日は、経験のなさから戸惑い気味だった志木を終始喜多見がリードしていた。
「動き出してから秒殺だったよな、おまえ」
「しょーがねえだろ、経験値が圧倒的に違ったんだから。瞬殺じゃなかっただけいいじゃねえか。1分近くは頑張ったんだぜ」
「そうだったな」
「でもあの頃よりは多少成長してると思うんだけど」
「ああ」
 喜多見は否定せずに志木の頬を撫でた。ひたむきさが好ましいのは変わっていないが、もう猛進するだけの子犬ではない。
 志木は、喜多見の手を頬からすくい取り、指先に口づけた。そして、顔を近づけて囁きかける。
「声、抑えて」
 続けて大きく揺すり上げられて、志木の肩に添えていた喜多見の指先に力が籠もった。揺さぶられ、重さと引力とで体が沈むたび、呼吸が乱れ早くなっていく。
 揺れる体を支えようと、喜多見の両腕が志木の首に回された。
 零れた吐息を捕らえるように唇を寄せられ、溢れかかった声は重ねた唇の中へと消えた。

「初詣にでも行くか?」
 山菜と魚がメインだが品数が多くボリュームたっぷりの夕食をとり、貸し切りの予約をしておいた露天風呂に入り、その後のんびりとテレビを見ている最中に、喜多見がぽつりと尋ねた。
「初詣?」
「近くに寺があると、女将が言っていたろう?」
 料理は最初に全てが並ぶ方式ではなく数品ずつ出てきた。最後のデザートを運んできた時に女将が、初詣に行かれるならと徒歩圏内に寺があることを教えてくれた。
「そういえば言ってたな。でも知り合いがいたりし――ないか」
「地元の人間が多いと言っていたしな。絶対にいないとは限らないが」
「…あんたがいいって言うなら行きたいな」
 そう言って喜多見を見た志木の表情には、期待と諦めが半々に浮いている。喜多見は表情を和らげて志木に手を伸ばし、その頭をなだめるように撫でて、「行くか」と促して腰を上げた。
 そして、念のための小細工をして、2人は連れ立って宿を出た。
 志木はニット帽をかぶり、喜多見は眼鏡を外してコートのフードをかぶっただけだが、ちらほらと雪が降っているため違和感はなく、夜半で暗いのも相俟って遠目では個人の特定は難しい。
 志木は眼鏡がないことを心配したが、外しても物の形がわからないほど見えないわけではない。人の顔はぼやけるが、隣にいる志木の判別が付きさえすれば困ることはないし、万が一人出が多くはぐれでもしたら志木の方が見つけてくれればいいのだ。
 そう言ったのが原因か、不自然になるギリギリの距離から志木は離れようとしなかった。まるでボディーガードよろしく主人に寄り添う犬のようで、笑いがこみ上げる。
 寺までは15分ほどで辿り着いた。道中すれ違う人はなく、近くに住んでいると思しき家族連れが同じ方向へと向かっているだけだった。
 境内では数ヶ所に松明が灯り、広場のようなところで大きな焚き火が燃やされ、甘酒が配られていた。寺に向かう道すがらすでに聞こえてきていたが、除夜の鐘を撞くための列が出来ている。どうやら参拝者も撞かせてもらえるようで、待っているのは20〜30人ほどだったので2人して並んでみた。
 やはり、見たところ近隣の住人がほとんどで、観光客らしき姿はごく僅かだ。
「俺、除夜の鐘つくの初めてだ」
 喜多見の顔を覗き込んで、志木が嬉しそうに笑った。
「そういえば私も初めてだな」
 自宅には音だけがどこかからか聞こえるが、実際に撞いたことはない。
 列はゆっくりと進み、新年を迎える頃には前にいるのは数人になっていた。時計を見つつ顔を見合わせたが、視線を交わしたのみで済ませ、まずは鐘を撞いてしまうことにする。
 やがて順番が回ってきた。喜多見が先に撞き、そして志木が続く。
 見ていてコツを掴んだのか、志木の撞いた鐘はなかなかに良い音で鳴り、低く深く山に響き渡った。
 そして、満足顔で喜多見の待つ鐘楼の下におりてきた志木の肩を、寺の僧侶らしき中年の男が叩いた。
「おめでとう、108つ目だ」
「え?」
「福男だな」
「え、え?」
 男は驚いた顔の志木に手を出させて蜜柑を積み上げ、最後にプラスチックのパックに入った白と黄と黒の物体を置いた。
「良いことがあるぞ、今年は」
 男はにこやかに笑い、列に並んでいた老婆からよかったわねえと声がかかる。それへ笑顔を返してから喜多見の元に戻り、志木は首を傾げた。
「なんかいっぱいもらっちゃったよ」
「餅か。黄粉と餡だな。よかったな、夜食が手に入ったじゃないか」
「えっと…なんで?」
「108つ目と言っていたから、108回目の鐘を撞いたんだろうな」
「……福引き当てたみたいなもん?」
「“108回目”は1人しか撞けないわけだからな」
「え。あ、そっか! ラッキー」
「だから“福男”なんだろう」
 喜多見は志木の背を叩いて幸運を祝して、甘酒を配っているテントにいた中年女性に声を掛けた。尋ねてみたところ快く差し出してくれたビニール袋に、志木がもらった蜜柑と餅を入れる。
 そして拝殿に移動し、列の最後尾についた。この列も20〜30人程だが、2列に並んでいるので鐘よりも進みが早い。
 2人は揃って参拝を済ませ、寺をあとにした。
 鐘は108つを越えても撞き続けられるようで、寺を離れてからも一定の間隔で鳴り響いている。
 5分も歩いた頃には寺へ向かう住人の姿も絶え、雪が静かに落ちる中を歩くのは2人だけになった。
 雪は落ちたそばから溶けて消えていく。積もることはなさそうだ。
「なあ、お参りした時なに祈願した?」
「そういうおまえはどうなんだ?」
「俺? 俺は――家内安全と、ばーちゃんの長寿と、妹の高校合格祈願と、早いとこ就職が決まるようにってのと……今年もあんたといられますように、って」
 指折り数えて挙げていった志木は、最後だけ幾分照れくさげに口にして喜多見の表情を窺った。
「あんたは?」
「ん? ああ…おまえの就職祈願と、あとは、おまえが健やかであるように、とな」
「……それだけ?」
「ああ」
「…自分の事は?」
「おまえが納得のいく職に就くことができて、怪我や病気をせずにいてくれればそれでいい」
 喜多見には、祈ってまで得たいものは今はない。強いて言うなら気掛かりは志木のことくらいだ。健康はともかく職は願い祈って得られるものではないが、きっかけくらいは見つかるかもしれない。
 あえて何も聞いてはいないが、志木なりにいろいろと思うところがあるのは知っている。
 興味のある職種はあるようなのだが、受験生を抱えている家族の事もあり、決めかねているようだ。いま働いているバイト先から、うちに来ないかと誘われてもいるらしい。
 志木から助力を求められればいつでも手を貸すが、志木が自分で道を選ぼうとしているうちは何もする気はない。
 何もできないことに少しのもどかしさがなくもないが、このスタンスを崩すつもりはなかった。だが、祈願くらいはしてもいいだろう。そう思い、手を合わせた。
 そもそも初詣の参拝は七夕の短冊と違い、ただ実利的な事柄を願うよりは、決意表明をして助力を願ったり一年の無事を感謝するものだという。だが、福男になら多少の福がくるかもしれない。
「…喜多見」
 声が後ろから飛んできた。振り返ると、立ち止まった志木が喜多見を見つめている。
「志木?」
「喜多見――」
 もう一度呼ばわった志木が、喜多見に手を伸ばして引き寄せた。そして2、3歩後退した喜多見を後ろから抱きしめる。
 立ち止まって話しているだけならまだしも抱き合っていては明らかに怪しい二人連れだ。幸い周囲に人影はないが、喜多見はきつく抱きしめてくる志木の腕をいなすように叩いた。
「こら。ひっつきたいなら宿に戻るまで我慢しろ」
「喜多見」
「なんだ?」
「…芳秋……」
「――どうした、突然?」
 不意に名前で呼ばれ、喜多見は目を見張った。ずっと姓で呼び続けていたため気恥ずかしいのか、いまだ口走る以外で名を呼ばれたことはほとんどないのだ。
「わかんねえ。なんか…呼びたくなった」
「…そうか」
「――好きだ」
 低く囁いて、志木が腕に力を込める。肩越しに届くその声は真摯そのものだ。
「あんたが好きだ」
「…ああ」
「――したい」
「ああ?」
 同じ口調で続いた言葉に、思わず顔を顰めて喜多見は問い返した。何をしたいかなど問わずともわかったが、路上でいきなり言い出されたのは初めてだ。
 だが志木は怯まず、いったん喜多見の体を離して正面に回り込むと、真剣な眼差しで言い放った。
「すげえしたい。早く帰ってやろう」
「夕方しただろうが。108つ目の鐘を撞いても煩悩だらけだな」
「だってさ、好きだなーと思ったら、なんかこう…」
「なんなんだその条件反射は」
 夕刻から一転してストレート過ぎる誘い文句に、喜多見は呆れ顔で腕を組んだ。
 色恋に関して淡泊な喜多見は、事に至るまでに甘美なムードがなくては嫌だというタイプではない。だが、少しは上手く誘うようになったと思ったのにこれだ。もっとも、猛進しがちで有り体な志木も、喜多見にとって好ましくあるのだが。
「あれは仕納めってことで、年も明けたし姫はじ――って、あんた姫ってガラじゃねえし……王様…だと語呂が悪ィから――殿初め?」
「馬鹿か」
 真面目な顔をして首を捻った志木の鼻先を指先で思い切り弾き、喜多見はため息をつきながら苦笑した。そして、志木の顎を指先で撫ぜるようにしてついと持ち上げる。
「私が“殿”なら食われるのはおまえだぞ?」
「へ?」
「若い肉体が主君の餌食になるのがお約束だ」
「……その言い方エロい……」
「おまえが言い出したんだろうが」
 志木の頭を軽くはたいて、喜多見は宿の方へと歩き出した。いつの間にか雪はやみ、吐く息だけが夜の闇に白く飛散する。
「瑞帆」
 歩きながら振り返り、志木に向かって手を伸ばした。そして、薄く浮かべた笑みで促す。
「さっさと帰るんだろう?」 
 それを合図に志木が駆け寄って、差し伸べられた手を取った。
 耳を倒し尻尾を振るがごとき笑顔を向けられて絆されてしまう自分が、喜多見は嫌いではない。
「ああそうだ……」
 新年の挨拶を後回しにしていたことを思い出し、喜多見が歩を止めた。
「明けましておめでとう」
「え、あ、うん、明けましておめでとうございます」
 同じく立ち止まった志木が、律儀に頭を下げる。
 1年前の年末年始は予定が合わず会うこともなかったので、顔を合わせてのこんな挨拶がなにか新鮮な気分だ。
「えーと…今年もヨロシクお願いします」
「…ああ」
 少し考えて型どおりの文句を放った志木の含むところを理解して、喜多見は微笑んで返した。
 春には志木は卒業し、教師と生徒ではなくなる。まだ決まってはいないが、就職すれば生活も変わるだろう。それでも、喜多見から志木を手放す気はない。
 指を絡めるように繋がれた手を、喜多見は振りほどかなかった。



−終−



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