Vol.13 『帰結』


 視聴覚室に移動すると、視線を寄越して来た全員の軽いどよめきと共に迎えられた。予想以上の反応に、志木は思わず頭部に手をやる。
「髪切っちゃったんだ!」
「…やっぱり変か…?」
「変じゃないよぉ〜カッコイイって! ねぇ?」
「うん。そんなに短くなってるわけじゃないのに印象変わるねえ。ビックリした」
 志木の問い掛けに、仁美は首を横に振って真理に同意を求め、真理は同意の印に2度3度と頷いた。
「ほらみろ」
 仁美と真理の反応を受けて、腕を組んだ明良が得意げに視線を寄越した。
 わけがわからぬうちに鋏を入れられ、上手いこと丸め込まれてあっと言う間にカットされてしまった。視聴覚準備室に鏡がなかったのでどんな頭になっているのか見当も付かず、恐る恐る視聴覚室に出て来たのだ。
「だからかっこよく仕上げてやったと言っただろう」
 言って、明良は自らカットした志木の頭を小突いた。
「またいじめる。自分で見てないんだから不安なのも当たり前でしょ」
「いじめてないって」
 唯子は明の声を無視して、志木の肩を押して鏡の前に進んだ。衣装のチェックのためか、姿見がひとつ置いてある。
 鏡の中に、志木と唯子が映し出された。
 思っていたよりも全然濃くはないメイクだが、つい先刻までとは違う髪型に時代掛かった衣装を身に着けてローブを羽織っているのもあって、鏡の中に自分に似た別の誰かがいるような気が志木にはした。
 髪に関しては、真理の感想が的確のようだ。劇的に短くなったわけではないのだが、額の見える面積が増えて両サイドと後頭部が以前よりスッキリとし、雰囲気が変わっている。
 そこへ、突然ノック音が響いた。
 仁美が返事をすると扉が開き、志木の耳によく慣れた声が室内に投げかけられる。
「まだここにいたのか。そろそろ移動した方がいいんじゃないか?」
 千秋が来たあと職員室へと戻っていた喜多見が、部屋を覗き込んで仁美に告げた。
「わっホントだ!わざわざありがとーございます喜多見先生」
 時刻を確認した仁美が驚きを露にして頭を下げる。喜多見は体を開いて通り道をつくり、急ぐよう仁美に促した。
「ハイ。みんな体育館いくよー」
 喜多見に頷いて、仁美が部員達を振り返る。その視線を何気なく追った喜多見の目が志木を捉え、僅かに見開かれた。
 志木は目を逸らし、小道具の剣を手に取った。他の誰より喜多見の視線が気になり緊張するが、明良と唯子以外に気取られるわけにはいかない。志木は喜多見と視線を合わさずに部員達の最後尾へ続いた。
 そのまま、軽く会釈をして通り過ぎようとしたところ、すれ違いざま後頭部に柔らかな衝撃を感じて志木は振り返った。
「…頑張ってこい」
 半径数10センチ以内でないと聞こえないような小さな声が耳に届く。少しだけ気が楽になり、志木は小さく笑みを返して、その場をあとにした。
 全員が体育館に向かったあとに明良が喜多見に近づいたが、当然志木にはそれを知る由もない。そして、志木の頭に触れた喜多見が僅かに表情を変えたことにも、志木は気付いていなかった。

 上演は定刻通りに始まり、一応は滞りなく終わった。
 騎士役が志木だということに驚いた一部3年生はいたが、他の観客は違和感なく見ていたと、客席を観察していた真理が言っていた。
 しかし志木は、情けなさと気恥ずかしさにいたたまれなかった。
 殺陣はなんとか段取り通りにいっていたのに、最後の最後でミスをした。舞台奥に剣を弾き飛ばすようにするはずが、上に弾き上げてしまったのだ。落ちてくるそれを咄嗟に手で受け止めて客席から拍手も出たが、一瞬頭が真っ白になった。
 そして、たかが「はい、殿下」というだけのひと言は、ことごとく棒読みだった。
「まぁそう落ち込むなって。初めてでぶっつけ本番にしては堂々としてたし上出来だぜ」
「そうそう。殺陣はうまくいったし、女子にウケてたよ〜カッコイイって!」
 中嶋と仁美の労いに、志木は苦笑を返すしかなかった。
 岸田や小田たち悪友にはしばらくの間からかわれそうだが、最初で最後だろう体験ができたということでよしとするか。
 志木は、制服に着替えながら強引に自分を納得させた。
 明良がいたらネタにして遊ばれそうだが、幸いここにはもういない。客席で上演を観た後に視聴覚室に顔を出し労いの言葉を掛けてくれたが、仁美が打ち上げに誘ったものの用事があるらしく、校内をひと回りして帰ると言って出て行った。
 唯子に改めて話を聞かせてくれた礼を言えなかったのが、志木には少し心残りだ。
 数分前に文化祭終了の校内放送が流れたので、各クラスは今ごろ撤収の最中だ。あと10分もすれば後夜祭が始まる。
 後夜祭では、この2日間でもっとも良い催し物を展開したクラスまたは部が選ばれ、バンド演奏を経てダンスパーティになり、花火を打ち上げて華々しく終了する。
「志木せんぱい、後夜祭で踊ってくださいね」
「あ、私も!」
 視聴覚準備室から出ると、更衣室代わりの衝立の向こうから顔を出した1年生の女子部員が声を掛けて来た。
「俺?」
 問い返したが、身支度を終えた部員たちは手を振って出ていってしまう。仁美に疑問を込めた視線を送ると、苦笑して肩をすくめた。
「だから言ってるじゃない。カッコイイってウケてたんだってば」
「……どこが?」
 理解に苦しんで、志木は仁美に訊ねた。着慣れない服で、たったひと言のセリフを棒読みで通した男のどこがカッコイイというのか。
「騎士って役柄でストイックな感じでキリッとして見えるし、殺陣もすごい良かったし。クールで頼りがいのある男に弱い女の子は多いもんね」
「俺のどこがクールなんだよ」
 自分で言うのもなんだが、感情が顔や言動に出やすくクールとはほど遠い。楽しいことで騒ぐのは好きだし、静かに過ごすよりは友達とワイワイやる方を選んでしまう。
「ま、いいじゃん、モテモテなのは。ほかにも後夜祭で誘われるかもよ。ちゃんと踊ってあげなよね」
 笑って肩を叩いた仁美の言葉に、志木は苦笑して首を捻った。1年の時も2年の時も、個人的に誘われて踊ったことはなかったのだ。
 だが、後夜祭では仁美の言った通り、演劇部から何人か、そして他にもクラスメートや見知った女子が踊ろうと誘いに来た。
 いわゆるフォークダンスというもので、高校生にもなるとどうにも照れくさいシロモノだが、いわば祭りの夜なので勢いで踊れてしまう。しかし、改まって踊ってくださいと頼んで来られると、逆に志木の方が恥ずかしくなってくる。
 一緒にいた悪友達に背中を押されるようにして踊りはしたが、どうにも気詰まりだった。
「なんなんだ、一体……」
 曲が一段落ついて休憩時間に入ったので、そそくさと脇に退いて休んでいると、不意に肩を叩かれた。
「しーき。お疲れ」
「――岡本」
 振り向くと、そこに岡本可南子が立っていた。
「見てたけど、なんかモテモテだねえ」
「…ワケわかんねえ」
 ニヤニヤとして肘で脇腹をつついてくる可南子に、志木はため息をついて正直な思いを口にした。
「あたしはなんとなくわかるけどな」
 可南子は笑いながら、バスケットボールで鍛えた指先で志木の肩を労うように揉んだ。
「演劇部のヤツ観てたけど、かっこよかったよ。“同級生”とか“同じ学校の先輩”っていうのに“男”って認識が追加されたんじゃない?」
「それ、どう違うんだ?」
「恋愛対象になるかならないかって事かな。異性を意識するっていうの?」
「おまえもか?」
「志木が結構イケてんのは、あたしはずっと前から知ってたもん」
「…ああ…そ――」
 志木はどう答えていいのかわからず口ごもった。
 聞くまでもなかった。男として意識されていたから、かつて可南子は告白してきたのだ。
 後悔はしていないが、自分が断ったことで可南子が良い思いをしているはずはないので、この話題になるとどうしても気が引けてしまう。
 しかし可南子は明るく笑って、志木の両肩を勢いよく叩いた。
「ま、今は戦友ってゆーか、同志って感じ? あたしとも踊ってよ――広くんの代わりに」
「代わりかよ」
 小さな声で付け足した可南子に、志木は声を上げて笑った。だが身替わりでも怒りはない。可南子の密かな恋人の存在を知っているのは志木だけなのだ。
 そして可南子だけが、志木と喜多見の関係を知っている。この夏には、互いの背を押し合った。確かに、戦友のような、同志のような間柄かもしれない。
「……あ、ちょい待って」
 後夜祭の司会担当による休憩終了のアナウンスと共に歩き出そうとしたところで、尻ポケットに入れていた携帯電話が震えた。短い振動でメールだとわかる。
 見てみると喜多見からで、“裏の駐車場”とだけ書いてあった。
「デートのお誘い?」
「まさか」
 可南子の問いに、志木は笑って首を振った。学校にいるときに喜多見がそんなことをするはずがない。
 だが、好きな人に呼ばれればすぐに駆けつけたくなる。
「悪ィ、俺行って来るわ。踊れなくてゴメンな。岸田達になんか聞かれたら適当に言っといて」
 志木は少し身を屈めて、可南子に小声で告げた。可南子は頷いて、謝罪の意味を込めて拝む形でかざした志木の右手に軽くグータッチをした。
「おっけ、まかせて。楽しんできてね」
「違うって」
 あくまでデート説を推す可南子に苦笑を返して、志木は校舎裏の職員駐車場に向かった。
 人気の絶えた辺りから小走りを駆け足に変えて裏に回り込む。
 後夜祭に出ない生徒はさっさと帰宅し、後夜祭参加者はもちろん校内に残っていないので、校舎内には全く人の気配がない。
 駐車場までたどり着くと、1台の四輪駆動車の横に喜多見が立っていた。
「誰の車?」
「明良のだ」
「へえ」
 一見したところそれほど無骨ではないので気付かなかったが、近寄ってみると悪路走行も可能な車種を生産しているメーカーのものだと解った。軽やかに見えてたくましいところが明良に合っている気がする。
「志木、済まないがちょっと中の荷物を取ってくれないか」
「いいよ。どれ?」
「助手席の――」
 志木は何の疑問も抱かず、喜多見の頼みに素直に従って助手席のドアを開け、中を覗き込んだ。
 次の瞬間、背中に感じた強い衝撃とともに、志木は車内に突き倒された。
 愕然として振り返ると同時にドアが閉められ、訳が分からず周囲を見回している間に喜多見が運転席に乗り込んでくる。
「えっな、なに? 喜多見!?」
 慌てる志木を尻目に、喜多見はさっさとエンジンキーを回し、車を発進させた。
「シートベルトをしなさい」
 混乱真っ最中の志木に、冷静な声が飛んでくる。
「喜多見? この車、明良さんのなんじゃ――」
「その明良から、今夜10時までに返せと鍵を渡されてな」
「10時? いま6時過ぎだから――って、そうじゃなくて! 一体なにを…」
「うちの後夜祭はとにかく騒々しくて慌ただしいからな。教師も生徒も5人や10人いなくなったところで気付かれないだろう」
 たしかにその通りではあった。志木が体験した過去2回も、よくぞ段取り通りいくものだと後々感心してしまうほどの盛り上がりようだったのだ。
 だからといって、校内で私的に呼び出されるだけでも珍しいことなのに、まさか連れ出されるとは夢にも思わなかった。
「うわ! ちょ…っ、あんた運転!」
 角を曲がったと同時に大きく揺れ、志木は思わず声を上げた。
「なんだ?」
「あんたが運転してんの初めて見るけど! 免許持ってたのか!?」
 学校を出てからずっとずいぶんと荒っぽい運転なのだが、わざとやっているようには見えない。どうやら普通に運転していてこの荒さなのだと気づき、志木は思わず問い掛けた。
「無免許で乗るわけがないだろう。10年前から持っている」
「でも車――?」
 そうはいっても喜多見の車を見たことがない。自宅にカースペースはなく、周辺に月極駐車場もなかったはずだ。
「まったく使わないから持っていないがな」
「それってペーパードライバーって言うんじゃないのかー!?」
「それはともかく何なんだおまえはさっきから。騒がしいぞ」
「あんたの運転が荒いんだよ!」
 制限速度以内で走っているようだが、とかく荒っぽい。普段の喜多見からは想像できない運転ぶりだ。
「明良には緊急時以外には乗るなと言われている」
「…いま緊急時なのか?」
「いいや」
 あっさりと返ってきた答えに、志木はそれきり黙り込んだ。いまは理由を話す気はなさそうだと感じたからだ。そして、いつまでも喋っているとそのうち舌を噛みそうだった。
 志木は諦めてシートに身を沈め、喜多見から話し出してくれるのを待つことにした。
 それから40分も走った頃だろうか。ふいに、喜多見が言った。
「どちらがいい?」
「え?」
 いきなり声を掛けられて顔を上げると、進行方向の両脇にネオンに縁取られた看板がふたつ見えた。
 かたや、ホテル・アリス。かたや、ホテル・ニューキャッスル。
 紛う事なきラブホテルだ。
「……な……っ!?」
 どちらといわれてもどっちが――というかこのホテルのどちらかを選べということなのか?
 わけがわからず絶句していると、
「即決!」
 喜多見から、叱咤のような声が飛んだ。
「え! あっ! にゅ、ニューキャッスル!」
「よし」
 反射的に答えた志木に頷いて、喜多見はハンドルを左に切って、煉瓦のような外壁の建物の駐車場へと車を乗り入れた。

 室内はクリーム色の壁に淡い間接照明、丸テーブルと1人掛けソファがふたつ、他にはテレビとカラオケセットが備え付けてあった。“キャッスル”というからには天蓋付きのベッドなり何らかの趣向を凝らしていそうなものだが、部屋の中央のベッドは大きくはあったがいたってありきたりの代物だ。
「名前のわりに普通だな」
「……」
 部屋を見回して冷静に感想を述べる喜多見に対し、志木は呆然としたままだ。
 ひと言もしゃべらない志木を、喜多見が振り返る。
「志木?」
「…初めて入った……」
「そうなのか?」
「あのな……あんたが初めてだったのに、他の誰と入るんだよ?」
 喜多見とは、喜多見の家でしか抱き合ったことはない。唯一の例外が、昨春に行った旅先の宿だ。
「あんたは手慣れてるよな…」
 車を駐車場に入れるときも些かの躊躇いもなく、チェックインもあっさりとこなしていたことを思い出し、志木は小さな声で呟いた。
「どこも同じようなものだからな。昔はホテルしか使ったことがなかった。自宅に入れたのはおまえが初めてだよ」
「……」
 見た目や印象ほど固くないことはもう知っている。それなりの経験をしてきた中で、自宅という私的なテリトリーに入れてもらえたのが自分だけだという事実に、志木はどう返答していいのかわからず口を噤んだ。初めてにして唯一というのは、やはり嬉しいし気分がいい。
「でも、なんで…?」
 どうして突然連れてこられたのか、志木には解らなかった。それも、後夜祭の最中に学校から連れ去られることになろうとは思ってもみなかった。学校内では徹底的に教師と生徒であることを通させる喜多見らしくない。
「――まあ、ちょっとしたやきもちと――」
「ヤキモチ? あんたが!?」
 聞き慣れない単語を聴いて、志木は声を上げた。いったい何に妬いているのだというのだ。
 だが喜多見はそれには答えず、志木を引き寄せて頭を肩に抱いた。そしてその頭をゆっくりと撫でる。
「それとこれ、かな」
「……これ…俺の頭? …が、なに?」
「明良に、私のためにおまえの髪を切ったようなことを言われたが――なるほど、昔飼っていた犬の手触りにそっくりだ」
「……どこまでも犬扱いなのか、俺……」
 喜多見の言い様に、志木はぐったりと脱力した。いつものことではあるのだが、今日は明良にも唯子にも犬だと言われているのだ。
「犬のようではあっても、犬だとは思っていないぞ?」
 何を言っているのだといった口調で喜多見が言い、志木の唇を親指の腹で撫ぜる。そして、鼻先が触れそうなほど近くで囁いた。
「犬に欲情するような性癖はないからな」
「……っちょっとおい! 喜多見…!?」
 いつになっても度肝を抜かれてしまう豹変ぶりに唖然としている隙に簡単にベッドまで追いつめられ、有無を言わさず押し倒される。
「何する気…ッ」
「こういう場所で他に何をするんだ」
 上になった喜多見に平然と言い返され、志木はぽかんと口を開けた。以前から思っていたことだが、何故さらりとこういう台詞が出てくるのだろうか。
「………あんたって、こう…王様っつーか、殿様っつーか……」
「今日のおまえは騎士だろう? ちょうどいいじゃないか」
 あまり思い出してほしくなかったが、そのこと以上に王様と騎士というシチュエーションにホテルの名前があまりにも出来過ぎていることに気づいてまたもや絶句する。
 もう、どうにでもしてくれ。
「…瑞帆」
 喜多見の手が志木の頬を撫で、抱き合う時しか呼ばない名を口にする。
 それですぐにその気になってしまう自分も問題だと思いながらも、志木は自ら喜多見を引き寄せて眼鏡を外し、唇を近づけた。
 喜多見の家は和室ばかりの純和風の家屋だ。風呂やトイレこそ使いいいように今風に改修されているが寝具は全て和式なので、大の男2人分の重量にスプリングをきしませるベッドの感触が新鮮だった。体を動かす度にぎしりと音を立てるそれが、妙に淫靡さを醸しだす。
 そのまま衝動に流されそうになったが、志木はあることに気づいて慌てて身を起こした。
「…どうした?」
「ちょっと待っ……俺、フロ入ってくる」
「何を突然」
「だって俺、朝から買い出しで走りっぱなしだったし、そのあとも体動かしたから汗くさいと――」
「――わかった。洗ってやろう」
「えっちょ……っ」
 先にベッドから降りた喜多見は、志木の手を引いてバスルームに移動した。
 互いの裸体など何度も見ているし、一緒に風呂に入るのも初めてではないのだが、なんだか気恥ずかしくてたまらない。しかし、体と髪を洗ってもらうのが快く、ついされるがままになってしまう。
「……あんた、なんでそんなに手慣れてるんだ」
 喜多見の手際の良さに、シャワーでボディソープの泡を流してもらいながら志木は尋ねてみた。
「ああ――そういえば昔、よくこうやって洗ってやったな」
「やっぱり犬か……」
 ――どうりで慣れているはずだ。志木はがっくりと項垂れた。
「だから違うというのに。おまえだって弟や妹が小さい頃は風呂に入れてやったろう? それに私は全裸で犬を洗ったことはないぞ」
 喜多見はシャワーを止めて、志木の手を取って指先をぺろりと舐めた。
「洗ってもらって反応する犬もいないしな」
「え? うわ! これはその――」
 いつの間にか固くなっていた自分の股間に視線を落とし、志木は慌てて喜多見の手をふりほどいた。洗ってもらった時にあちこち触られて反応してしまったようだ。
「ここでするか? ベッドに戻るか?」
 尋ねられて、志木はしばし考えた。
 1年以上も付き合っていながら初めてのベッドの上もいいが、喜多見の家では風呂場でということは滅多にないのでここでというのも捨てがたい。考えあぐねた末、志木は喜多見に視線を戻した。
「…両方っていうのはなし?」
「――まったくおまえは」
 呆れ声ながらも、唇に浮かんだ微苦笑はどこか甘い。
 喜多見はそのまま志木の膝に右手を掛けて上体を屈めると、左手を志木のものに添えて先端に口づけた。
 根元の方から裏筋を舐め上げられ、くびれに舌を這わされて、腰がびくりと震える。包み込むように口腔に含まれてしゃぶられると、たまらず吐息があふれた。
 どこをどうされると悦いのか、もうすべて知られてしまっている。舌と指と唇に確実にその場所を突かれて、志木の息は簡単に上がってしまうのだ。
 シャワーヘッドから落ちる水滴の音と、舌の這う微かな音が混ざり合う。
 志木は爪先に力を入れて、開放を求めて熱く滾るものを懸命に抑えた。
「き、たみ…待…っもうヤバ――」
「…出してもいいぞ」
「……っあんたン中でイキたい…――」
 喜多見の髪をかき乱しながら志木が訴えると、喜多見は体を起こして志木を見つめてきた。荒い息をつきながら見返すと、喜多見の手が伸びてきて志木の濡れた髪を撫でる。
「あまり無茶はするなよ?」
「…ゼンショします」
 返ってきた答えに喜多見は苦笑し、浴室に備え付けてあったローションの容器を手に取った。
 志木はそれを受け取り、喜多見の腕を引いて立ち上がると、壁際に喜多見を立たせて自分の指先にローションを落とした。
 濡れた背中に胸を合わせて背後から抱きしめる。双丘の間に滑り込ませたローションに濡れた指先で蕾の周りを撫でると、僅かに肩が震えた。
 首筋を跡がつかない程度に啄みながら、ゆっくりと中指の先で蕾を押し開く。僅かな抵抗を経て迎え入れられたそれで内壁を擦ると、喜多見が小さく息を呑んだ。
「気持ちいい…?」
 同時に前も撫でながら尋ねると、肩越しに視線を寄越した喜多見の唇に小さな笑みが浮かんだ。そして、後ろに回された手が固く張りつめたままの志木のものを軽く弄ぶ。
 先走りのあふれた先端を掠めた指先に刺激され、志木の眉間に皺が寄った。いますぐ突き挿れて掻き回したいという衝動を何とか抑え、指をもう1本追加した。
「…っ」
 反射的に入ってきた指を締め付けた喜多見の、壁についた手がぎゅっと握り締められる。
 志木は蕾を解きほぐしながら再びローションを手にして、目の前の背中に垂らした。
 背筋を伝って降りていくゆったりとした流れが尻の谷間に辿り着き、中を探る志木の手のひらに、そして手のひらから溢れた一部が足を伝い、一部がぽたりと床に落ちる。
 その光景に、思わず喉が鳴った。
「喜多見――」
 たまらなくなって、志木は喜多見の耳元に唇を寄せた。
「入れたい……いい…?」
「……ん…」
 吐息混じりの切羽詰まった訴えに、喜多見の微かな答えが返ってくる。
 志木は指を引き抜いて、代わりに自分のものを押し当てた。先端で撫でるようにすると、いつもより数段使用量の多いローションの滑りがまとわりつく。
 志木は腰を進ませ、固く熱り立ったものを喜多見の中に突き入れた。
「…ぅあ…っ」
 ひと息に貫かれ、たまらず喜多見が声を上げた。
「無茶するな…と言っ……ッ」
「ごめ……でもなんか、すご――」
 中のきつさにため息が洩れた。すぐにでも思うさま突き上げてしまいたいのを、深く呼吸をすることで必死に耐える。
 喜多見の体の強張りが解けるまで待って、志木はゆっくりと腰を引いた。出し入れを繰り返すと、じゅぷじゅぷと濡れた音を立てて繋がった箇所からローションが溢れた。
 扇情的な眺めに目眩がする。
 見ているとなけなしの理性がすべて飛び去ってしまいそうで、志木は喜多見の背中に覆い被さるようにして片手を壁に付いた。もう片方の手で喜多見の腰を支え、奥の一点を擦るように腰を振る。
「あ…ッみず…ほ…ッ」
「きたみ…ッすげ、イイ…」
「――んっ…あぁ、あ…!」
 ずるり、と壁についた喜多見の手が滑った。志木はそれを掬い取るようにして受け止め、指を絡めて握りしめると、握ったまま壁に肘をついた。
 密着した体を抱えるようにして突き上げる。
 抑えきれない声が喉奥から溢れて浴室内に響き出すまで、さほど時間はかからなかった。

 結局、ベッドのシーツを乱すことのないままホテルを出た。
 バスルームで一度だけで済まなかったのが最大の要因だが、身支度の時間を考えると、ベッドに戻らずに出ざるを得なかった。そもそも10時に車を返すには、時間延長という選択肢はなかったのだ。
「――大丈夫か…? つらくねえ?」
 ステアリングを握るいつも通りの涼しい横顔に志木は問い掛けた。
 1度目は少し急いてしまったが、それ以上の無茶はしなかったつもりだ。だが、横になれない分疲れる体勢を強いることになる。合意の上とはいえ浴室だということに甘えてコンドームも使わなかったので、きちんと後始末はしたもののそれも心配だ。
「おまえこそ疲れた顔をしているが大丈夫か?」
「え?」
 言われて初めて、志木はどことなく気怠いことに気付いた。体を重ねた後の、充足感のあるだるさとは違うものだ。
「ああ……体はどこも何ともねえけど、今日1日でいろいろあったからちょっと疲れたかもしんねえ」
 朝から走り回り、思いがけない人と再会し、わけがわからぬまま仁美に拉致され、短時間で殺陣を叩き込まれ、立ったことのない舞台に立たされ――体力には自信のある志木でもさすがに気疲れする。
 赤信号に差し掛かり車を停めた喜多見は、僅かに笑みを浮かべて志木の顎に手を伸ばし、くすぐるように撫でた。
「頑張ったな。本番も観ていたが結構よかったぞ、騎士役」
「思い出さなくていいってば、それは……」
 快楽に夢中になっていてすっかり忘れていたことを思い出してしまい、志木は渋面でため息をついた。そして、恨めしげに喜多見を見遣る。
「だいたい、なんで止めてくれなかったんだよ?」
「止めたらあいつらも困っただろう? 文化祭での上演というのは、翌年の新入部員の数に少なからず影響する」
 受験を控えた中学生は、志望校や受験候補の学校の文化祭を見学に行くことが多い。その時に見た部に入るために志望校を決めるケースも多いのだ。
「そうだけど、でも」
「いいじゃないか、それなりにうまくいったんだから」
「俺はよくない…」
 志木は憮然として呟いた。納得したつもりでいたが、時間が経てば経つほど恥ずかしさが募ってきて、顔から火が出そうだ。
「忘れたくても当分は無理だろうな。文化祭は後々写真が売り出されるし、藤本先生も演劇部員も撮りまくっていたようだし」
 体育祭や文化祭の後に各実行委員会主導で撮った写真が張り出されるのは恒例だ。
 さらに、保健医の千秋の撮った写真は素の表情や凝ったシチュエーションでの写真も多く、生徒間でよく出回っている。営利目的ではなく実費でやり取りされているので学校側もうるさく言うことはない。
「あああ〜〜〜それがあったか――!」
 志木は天を仰いで顔を覆った。
 これはもうどうしようもない。志木は長いため息をつき、今度こそネタにされる覚悟を決めた。
 そしてふと、答えをもらっていない問い掛けがあったことを思い出す。
「なあ」
「ん?」
「ヤキモチってなに?」
「…ああ」
 志木の問いに、前方を見つめたまま喜多見は薄く笑った。
「ずいぶんもてていたろう、後夜祭で」
「! 見てたのか」
「あれを見るまでは、この車を使う気はなかったんだがな」
「あれは、その――ああいうのって断れねえじゃんか」
「ついでに、午前中に大層な美少女と腕を組んで歩いていたという噂も聞いたが?」
「え! もう噂になってんのか!?」
 一応あとで弁解しておこうとは思っていたが、すでに喜多見の耳に入っているとは思いもよらず、志木は慌てて運転席側へ体を捻った。
「あれは違…ッ相手は唯子さんだし、タチ悪いのにナンパされてた後だったから、その――」
 志木は懸命に状況説明を試みた。しかし結局言葉に詰まってしまい、くしゃくしゃと頭を掻き回す。
 おそらく、本気で妬いているわけではないだろう。本心から疑って怒っているなら、志木は釈明する余裕すら与えてもらえないはずだ。喜多見はただ、志木の反応を楽しんでいるに過ぎない。
 嫉妬のあまり平静さを失うような喜多見ではないから、連れ出されたのも、今夜なら気付かれることはないという確信があったからだ。
 つまるところ、辿り着くのはここなのだ。所詮、手のひらの上。
 そして、それをわかっていながら術中に嵌ってしまう自分に、志木は苦笑した。
「――わかってんだろ? 俺が浮気できるわけねえじゃん」
 こんなに好きなのに。
「知っている」
 志木の飲み込んだ言葉が聞こえたかのように、喜多見が笑みと共に答えを返した。



−終−



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