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Vol.12 『事情』
「…明良さん」
夏に1度だけ顔を合わせたことがあるその人の名を、志木は口にした。思いがけない人物の登場に、それ以上言葉が続かない。
細身の黒いパンツに黒いシャツ、スエード素材のジャケットを着た、どう見ても“美形のおにいさん”にしか見えない喜多見の妹である明良は、立ち尽くす志木にかまわず唯子の隣の席に腰を下ろした。
「唯子たすけてくれたんだって? サンキュ」
志木を見上げて明良が礼を言った。
「って…なんで知ってんですか?」
問い掛けた志木に、明良が携帯電話の液晶画面を見せる。
『しつこいナンパされた(怒)明良の話してたおっきいワンちゃんに助けてもらったよ。』――とあった。
「おまえだろ?」
言って、明良がニッと笑った。
どうやら、喜多見の前以外でも明良からは犬扱いされているらしい。その明良に、唯子が身を乗り出した。
「ここまで来て他の子が名前を呼んだので確信持てたんだけど、どうして明良がわんころって呼ぶのかもなんとなくわかったわ」
「犬っぽいだろ?」
「うん。守ると決めたらとことん守ってくれそうなとことか、人が好さそうなとことか」
「癒されるかどうかは好き好きだろうけど、まあ和み系の犬かな」
「――俺は誉められてるんすか? 貶されてるんすか?」
「誉めてんじゃん」
「…誉められてる気がしねえんだけど」
志木は渋面で呟いた。しかし明良は志木のぼやきをほっといて、唯子に顔を寄せる。
「それより唯子、自分で撃退できただろ? どうしてしなかった?」
「撃退しようかなーと思ったら志木くんが助けてくれたのよ」
3人の男を相手に“撃退”という言葉がすんなり出てきた。どうやら、ふんわりとした見た目と裏腹に相当強いらしいと知り、志木は瞠目する。
「明良のお兄さんの気持ちわかるな、わたし。志木くんてカッコカワイイの」
「私の目の前で誉めるか」
「だって、腕組まれて困った顔してるのに、人混みの中を自然に歩きやすい方へ誘導してくれるのよ」
「…へえ、腕まで組んだんだ」
にっこりと笑った明良が志木を見た。その笑顔に効果音として吹雪の音が流れているような気がして、志木は一歩後退る。
だが明良がさらに何かを言うより先に、伸びてきた唯子の手がぺちんと明良の頬を叩いて注意をテーブルに引き戻した。
「凄まないの。わたしから組んだのよ。それより注文はないの?」
まさか叩くとは思わなかった志木が驚いて見守る中、見せられたメニューにザッと目を通した明良は、コーヒーを注文した。
志木は型どおりに返答し、オーダーを伝票に書き込んで踵を返した。それを追うように、2人の会話が耳に飛び込んでくる。
「紅茶のほうが好きでしょう? 頼めばいいのに。おいしいわよ」
「唯子の淹れた紅茶しか飲まないって決めてんの」
「ふうん」
ちらりと振り返ってみたが、互いの目を見もしないでの会話だったようだ。だが、先ほどの叱責が尾を引いている様子は全くなかった。明良の唇は柔らかな甘い笑みを湛え、気がない素振りの唯子の返事も冷たく聞こえない。
そして厨房側に戻った志木は、今度は女子だけに囲まれ質問責めにされるはめになった。
「川端、コーヒーひとつ――」
「志木!」
「いま話してたよね? あれ誰!?」
「どこの人? 知り合い? 名前は?」
矢継ぎ早に質問され、あっという間に壁際に追い込まれた。一流サッカー選手も顔負けの素早い寄せに、志木は呆れ顔でため息をつく。
「おまえら……あの2人カップルだぞ?」
「そうみたいね」
「人様のもんの情報集めてどうすんだよ」
「他人(ひと)の彼氏でもイイ男ならどこの誰か知りたいじゃない〜」
「どっかのお店の店員さんならそのお店行ったりできるし」
「見るのは自由でしょ」
女子は口々にそう言って志木ににじり寄った。
どこそこの店のバイトは美人だとか、あの学校に可愛い子がいるとかいう男どもの会話と同じだということなのだろうか。
だが志木は、明良の素姓を語ることをためらった。
正直に話せば、喜多見の、しかも“妹”だというのでまず驚かれるだろう。その時点ですでに説明は面倒だし、唯子も明良も女であるということで好奇の目に晒すことになってしまう。
そしてなぜ志木が喜多見の妹と知り合いなのかと問われたら、さりげなくうまい誤魔化し方ができるかどうかおぼつかない。曖昧に濁してもその曖昧さを突っ込まれそうだ。
とりあえずこの場は回避しかない。志木は取ってきたオーダー用の小さなバインダを印籠のように翳した。
「あとでな。入口に待ってるお客さんいたぜ。客まわさねえと休憩も取れなくなるぞ?」
休憩は交代制で、各々行きたいクラスや見たい演目、部の催しの当番、友達や彼氏との待ち合わせを考慮に入れてスケジュールを組んでいる。忙しくなれば人手が必要なので休憩も取りづらくなるだろう。
その場しのぎのつもりだったが、思いのほか有効打だったようだ。志木に群がっていた数人は、慌てて戻っていった。
注文されたコーヒーを手に客席に引き返すと、相変わらず周囲の目を引いている2人がいた。
明良の中性的な整った容貌と可憐な唯子とが並んでいると、なんとも雰囲気がある。交わす視線も甘く親しげだが見せつけるようにいちゃついているでもなく、嫌味な印象を受けない。
志木が何より驚いたのは、唯子に向ける明良の笑みの甘やかさだ。夏の盛りに会って以来だが、さっぱりきっぱりとした明良があんなにも甘く柔らかく笑うとは思ってもみなかった。
だが、その意外な甘さが喜多見に似ている気がする。
「何か言いたそうな顔だな、わんころ」
コーヒーを運んで来た志木を見上げて明良が問い掛けた。
「いや…やっぱ兄妹だなあと思って」
志木は小声で答えた。明良が重ねて問い掛けようと口を開く。
そこへ、新たな来訪者が現れた。
「きゃあ可愛い!」
部屋に入るなり声を上げたのは、保健医の千秋だ。
「千秋先生いらっしゃーい」
「たくさん注文してね」
メイド服の面々が千秋の手を引いて空いている席へと案内して行く。
「いやんも〜早く来ればよかったわぁ。めちゃくちゃ可愛い。ギャルソンもいいわ〜一緒に写真撮らせてね」
「撮って撮って!」
千秋は、母性あふれる優しい保健医というよりは、何でも話せるおねえさんタイプの保健医だ。とにかくさばけていて、男女分け隔てなく生徒を受け止める。
藤本千秋という名だが、一部の生真面目な教師や生徒以外には、親しみを込めて下の名前で呼ばれていた。
生徒と盛り上がるのが何より好きで、行事のたびにデジタルカメラ片手に徘徊している。
おかげで怪我人や病人が出た時は校内放送や携帯電話で呼び出さないとつかまらないことがあるという少々困った一面もあった。ただ、呼び出されれば何をおいてもすぐさま駆け付けるので、生徒達からの信頼は変わらない。
その千秋がふと志木たちの方を見た。そして驚きに目を丸くしたかと思うと、ぱっと笑顔を浮かべた。
「唯子!」
千秋は笑顔のまま小走りに近寄ってきて、笑顔で腕を広げて待っていた唯子を抱きしめた。
「久しぶり! 変わってないね唯子!」
「千秋はますます“カッコイイおねえさん”になったね」
唯子も笑いながら千秋を抱き返した。
そこへ、チャンスとばかりにメイド達が近寄ってくる。
「千秋先生のお友達?」
「同級生よ」
「マジ!?」
周囲にいた明良と志木を除く全員が驚きを顕にした。
派手な顔立ちだが27才という年相応の千秋と、女子高生と言っても通る唯子が並んでも、同級生という繋がりは見出だせない。
「5年前の同窓会の時も変わってないと思ったけど、いまだに変わってないとはねえ。やっぱり妖怪?」
「失礼ね、ロミオ」
言われ慣れているのか、唯子は笑って返した。
「ロミオ?」
「ああ、10年前の文化祭でロミオとジュリエットやった時のロミオが私。ジュリエットが彼女」
メイド達から、何故か黄色い声が上がった。一方志木は、仁美と交わした会話を思い出す。
「じゃあ千秋先生ってウチの卒業生なのか」
「そうよ〜知らなかった?」
仁美にアルバムを見せてもらった時は唯子の話だけになってしまったが、一緒に写っていたのは千秋だったのか。男役は男が演じているのだとばかり思っていたので、千秋もいたことに志木は気付かなかった。
「演劇部見にきたの? お店休めないって毎年言ってたのに」
「夏にあげた衣装を使ったオリジナル作品だから是非見に来てほしいって今の部長さんが。母校も懐かしかったしね、今日は臨時休業」
「お店やってるんですかぁ?」
会話参加の足掛かりを見つけた女子の1人が問い掛けた。
「紅茶専門の喫茶店をやってるの」
「彼氏さんは?」
「私は美容師だよ」
会話の流れでうまいこと明良の職業を聞き出したメイド達は、ここぞとばかりに目を輝かせた。
「お店どこなんですか?」
「紹介なしでも入れます?」
唯子を前にして物怖じせずに問うあたり、ずいぶんな行動力と精神力だ。気になる女の子に相当な美形の彼氏がいたら、大抵の男は怯んでしまうだろう。
「店は青山だよ。近くに遊びにきた時に時間があったら寄ってね」
手慣れた対応に笑顔を添えて明良が答えた。営業用なのだろうか、唯子に向けていた笑みとは甘さも柔らかさも違うが、人当たりのいい笑顔だ。
客そっちのけで奥のテーブルに集まって来ていた数人のメイド達が明良の店の名前を尋ねようと身を乗り出したところで、
「志木いる!?」
突然飛び込んできたドレス姿の仁美が大音声で呼ばわった。
室内をきょろきょろと見回した彼女は、呼び掛けに志木が答えるより先に志木を見つけ、ドレスの裾を持ち上げ走り寄る。
「千秋先生ここにいたの! 何度も電話してもらったんだよ〜」
志木を呼んだはずの仁美が千秋に気付いて声を上げた。言われて千秋はポケットの携帯電話を確認する。
「え? うわッ着信3件!? ごめん気付かなかったー!」
「なにかあったの?」
焦った様子の仁美に気付いた唯子が椅子から腰を浮かして尋ねた。
質問者に視線を移した仁美が目を見開く。
「鏑木先輩! お久しぶりです」
「挨拶はあとでいいわ。何か緊急事態なんでしょう?」
「あ! はい、そうなんです。一緒に来て!」
言うなり、仁美は志木の腕を取って強く引いた。
「た、高田!?」
「志木借りてくね! 千秋先生も一緒に来て!」
仁美はクラスの誰に対するでもなく宣言し、片手でドレスの裾をたぐり寄せ、もう片方の手で志木の手首をしっかりと握って、志木の返事も聞かずに走り出した。
すぐ後に千秋が続き、唯子も明良の手を取って立ち上がる。
客も、メイドとギャルソン達も、一体何があったのか訳が分からず、ぽかんとして走り去った一団を見送った。
「志木つかまえたよ!」
仁美は志木を連れて、演劇部が稽古場に使っている視聴覚室に飛び込んだ。
中にはほとんどの部員が揃っていて、半数ほどが衣装を着けている。
そこには何故か、喜多見の姿もあった。椅子に座った大柄の男子生徒の前に膝をついている。
「ええと、一体なに?」
息を荒くした千秋が、事情を聞く間もなく連れてこられた志木の心中を代弁した。
「須藤が足を痛めたみたいなの。千秋先生を捜してる時にちょうど喜多見先生と会って、いろいろ手伝ってもらって…」
須藤は演劇部員ではなく、今回の助っ人要員だ。劇中立ち回りがあるので動ける助っ人が必要だったようで、演出の中嶋がラグビー部から引っ張ってきた1年生である。
「藤本先生」
校内で千秋を名字で呼ぶ数少ない1人が千秋を手招いた。
「捻挫のようですが、手当をしないまま無理をしたようでだいぶ腫れがひどい」
傍らにしゃがみ込んだ千秋に、喜多見が簡潔に説明する。
頷いた千秋は床に両膝をつき、須藤の足を慎重に持ち上げて自分の腿の上にそっと下ろした。そして赤く腫れ上がった足首を両手で包み、長指の先でそっと押す。
「い…ッて…!」
「ここは?」
「…そこはさっきのとこよりは平気っす」
「ここはどう?」
「あいててて!」
ひと通りの反応を見てから須藤の足を元に戻し、千秋は須藤を見上げた。
「やったのはいつ?」
「3日前の部活で軽く捻って、全然痛くないんでほっといたんス。で、文化祭の準備で走り回ってたら段々痛くなってきて――」
「手当てしなきゃ悪化するに決まってるじゃないの!」
容赦なく叱り飛ばされ、須藤が首を縮めた。千秋は軽く息をついて立ち上がる。
「とにかく保健室に移動――といってもここからじゃ大変ね。救急箱取りに行って来るわ」
「あの、このあとの舞台は――」
歩き出そうとした千秋を呼び止めるようにして須藤が尋ねた。千秋は仁美のほうを向いて、
「どういう役? 突っ立ってるだけ?」
「騎士役なんで…殺陣が……」
「テーピングしてどうにかなるような状態じゃないわ。無理ね」
足を止めて両腕を組んだ千秋ははっきりとそう告げた。
仁美はそれに頷いて、それまで放っておかれていた志木を勢いよく振り返った。
「…というワケなのよ、志木」
「は? 何が…?」
著しく嫌な予感がして後退ったところへ、つかつかと歩み寄ってきた仁美が志木の両腕を引っ掴む。
「代役、おねがい」
「…ッ無理だよ! できねえって!」
志木は激しく首を横に振った。
もともと、ついた嘘がすぐさまバレるような演技下手だ。芝居などなおさら無理だと自信を持って断言できる。だが仁美は譲らなかった。
「あんた稽古見てたし、一度須藤が来れなかったとき代わりにやってくれたじゃん。身長も同じくらいだし」
「あれは適当に動いただけだろ!」
その日だけ部活が抜けられず来られなかった須藤に代わり、ちょうどセット作りの大詰めでその場にいた志木が駆り出されたのは確かだ。だが、ワンシーンのみ右に左にという中嶋の指示通りに動いただけで、殺陣の振りを完全に写したわけではない。
「志木の運動神経なら大丈夫!」
「無茶言うなよ…セリフはどうすんだよ?」
志木が手伝っていたのは大道具作りなのでどんなシーンにどんな道具を使うのかということはひと通り聞いたが、流れがわかるというだけでセリフまでは覚えていない。
「プロンプターつけるから」
「ぷろんぷたー?」
「陰でセリフ教える人のこと」
「教えられても自信ないぞ俺は」
何としてでも志木にやらせたい仁美と、何としてでも引き受けたくない志木の睨み合いを、部員たちは息を飲んで見守っている。
須藤がよろめきながら立ち上がり、志木に深々と頭を下げた。
「すんません志木先輩! 俺の不注意でこんなことになって、でも何とかお願いします! このままじゃ上演中止に…ッ」
「…っなこと言ってもだな……」
志木は思わず喜多見を見た。どうにかしてくれと目で助けを求める。志木に演技など出来ないことは誰より承知しているはずだ。
しかし喜多見は、僅かに肩を竦めただけで何も言わなかった。目が「あきらめろ」と言っている。
そして、志木にとどめをさしたのは唯子だった。
「これ――騎士の台詞なしでもいけるんじゃないかしら?」
いつの間にか台本を手にしていた唯子は、パラパラとめくりながらそう言った。
「台詞なしって……でも」
「出番が多いわけじゃないし、この騎士は多くは語らないタイプでしょう? 脚本はどの子?」
「はい、私です」
唯子に呼ばれ、真理が手を挙げつつ歩み出た。
「どう?」
「そうですね、寡黙で忠義一徹というタイプです」
「それならいっそ台詞を他に回しましょ」
「でも、黙っているというのがいちばん難しい芝居です。それに、姫を迎えに行った時に国の情勢を語れるのは騎士しかいないんです」
「黙っている芝居を一番それらしく見せるのは目ね」
「目?」
演技面の話になってきて、演出の中嶋が興味深げに会話に加わった。
「視線を固定させるか、目を閉じてじっとしていればいいの。動くときに開ける。そうすると、何かを考えているけど口には出さないという風に見えるでしょ?」
「あ、なるほど――」
「もちろんこれは小細工だから、主役クラスではあまり使えない手だけど。目を開けるタイミングは、陰で合図してあげればいいわ」
「じゃあ国の情勢についての台詞は――」
「姫に言わせるのね。この姫君の人物設定なら、情勢を読めていても不自然ではないわ。だから例えば――」
唯子は肝心のシーンのページを探し当て、真理と中嶋と一緒にああでもないこうでもないと改稿を始めた。
志木は呆然と事の成り行きを見守るしかなかった。喜多見に匙を投げられ他の全員を向こうに回してはもうどうしようもない。
そして数分後、真理が喜色を浮かべて部長の仁美を振り返った。
「騎士の台詞絞れたよ! いけるわ!」
「よし! 殺陣の流れ教えるからこっち来て、志木」
もはや逃れる術はなかった。
「……どうなったって知らねえぞっ」
志木は小さく呟いて、大きな溜め息をついた。
「…どお? だいたい飲み込めた?」
「だいたいは……」
小道具や衣装に埋もれた視聴覚室では狭いからと廊下に出て40分。
志木は「右、左」とぶつぶつ呟きながら小さく動きを繰り返し、上の空で仁美の問いに答えた。
仁美と中嶋が組んでひと通りの殺陣を演じて見せてくれ、それに沿って何度か繰り返し、須藤から2〜3点のアドバイスを受けた。
動きは飲み込めたので、あとは上がったことのない舞台上で練習通りの間合いが取れるかどうかだ。
「大丈夫?」
「こうなったら何とかするしかねえだろ」
目を閉じたり開けたりの指示は陰から何かでつついてくれるようだし、台詞も姫君の質問に「はい」か「はい、殿下」と答えればいいらしい。それも、言葉が出て来なければ深く頭を下げるだけでいいと言う。
志木が引き受ければ、とにかく上演は出来る。それに、これだけ志木に合わせて変更されていまさら嫌だとは言えなかった。逃げられないのなら腹を括るしかない。
視聴覚室の中では、唯子や明良がヘアセットとメイクに追われている。美容師だからこき使ってくれと言う唯子に異論を唱えず、明良は全員の髪を結い上げる作業を手伝っているようだ。
「じゃあ衣装着けよっか」
仁美が腕時計を一瞥して言った。
その途端、志木の脳裏に1週間前に見たアルバムの記憶が甦る。
「…衣装って、まさか――」
志木は無意識に後退して尋ねた。
アレだけはイヤだ――あの、白いタイツだけは――クラスの奴等どころか、喜多見にだって見られたくない。
「衣装? これだよ」
志木の狼狽に気付かず、仁美は視聴覚室から運んで来た椅子に腰を下ろしている須藤の膝の上を指差した。
「これにロングブーツとローブが付くの。カッコイイっしょ」
先程まで須藤の着ていたスタンドカラーの軍服に似た衣装だ。まごうことなき長ズボンで、志木は胸を撫で下ろした。
「須藤で入るから志木でもサイズに問題ないと思うよ」
「じゃあヘアとメイクやろうか」
背後からの声に振り返ると、ジャケットを脱ぎシャツの腕をまくった明良が立っていた。
「高田先輩〜見て見て!」
明良の後ろから、身支度を済ませた部員達が顔を出す。化粧を済ませ、綺麗に結い上げた髪は素人目で見ても凝った形に結い上げられている。
「うわ〜みんな可愛い!」
「アキラさん、すっごい早くて上手いの! 部長もやってもらいなよ」
「一見凝って見えるけど実はそんなに難しくないんだよ」
言って、明良が仁美と志木を手招いた。
「高田さん、先に髪の毛やってしまおうか。その間に志木はこっちで着替えること」
指し示されたのは視聴覚準備室だった。
非常に嫌な予感がするのだが、わけもなく嫌だとは言えない。志木はそれを押し隠して明良に頷いた。
殺陣の練習で流した汗を拭ってから衣装に袖を通す。着たことのない部類の服だったが、須藤の着ていたのを思い出しながらなんとか身に着け終わった。ローブの着方は解らないので置いておく。
そうこうしていると、唯子がひょっこりと姿を現わした。
「…なんか――変じゃないですか?」
あまりにじっと見つめられたので、志木は苦笑して頭を掻いた。着慣れないのでどうも落ち着かない。
だが唯子は首を降って破顔する。
「そんなことないわよ。服に着られてる感じはないし、体格いいから見栄えするわ。舞台の上では背を伸ばして堂々としてること。それで大丈夫」
細かいところを直してくれながら唯子は言った。そして、手近の椅子を引き寄せて志木を座らせると、壁に立てかけてあったパイプ椅子を運んできて広げ、その上に四角い箱のような物を置いた。
「さ、メイクしましょうか」
「えっちょ…っ化粧すんの!?」
「舞台メイクだから女性のお化粧とは違うわよ」
それはそうなのだろうが、小学校での学芸会くらいしか経験のない志木には舞台メイクも未知のものだ。
反射的に逃げようとした志木だったが、唯子の手ががしっと肩を掴んだ。
「ぶっ!?」
何かの液体を含ませたコットンで容赦なく顔を拭われる。華奢な外見に似ない剛力は、志木の肩を押さえて離さない。志木は仕方なく、逃げることを諦めた。
そこからの唯子は手慣れたもので、志木の顎に指先を添えて手早くメイクを進めていく。
男性用化粧品の存在は知っていても一度も使ったことがないので、顔面を滑っていくブラシやスポンジの感覚が妙にくすぐったい。
「――無理言ってごめんね。ホントはやりたくないでしょ?」
「…演技力ゼロっすから……」
ふと謝罪の言葉を口にした唯子に、志木は苦笑を返した。
「あんなに言われちゃ腹括るしか――っていっても演技できないのは変わんないんすけど」
「無理に演技しようと思わないでいいのよ。小さい頃、戦隊ヒーローとかアニメとかでごっこ遊びしたでしょ? その延長」
唯子はそう言って笑った。
事も無げな台詞とその笑顔に、ずっと疑問に思っていたことが口を突く。
「鏑木先輩、どうして役者じゃなくて喫茶店なんですか?」
「唯子でいいわよ。…質問の答えは簡単ね。明良といたかったから」
休まず手を動かしながら、唯子はあっさり答えた。
「この通り体が大きな方じゃないけど、舞台に立てばそのハンデもプラスにできる自信はあったの。お芝居好きだったし」
でも…と言って唯子は手を止めた。そして、やわらかな微苦笑を浮かべる。
「舞台に立ち始めて3年目くらいかな? …明良と会っちゃったのよねえ」
高校卒業後短大を出た唯子は、小劇団に入団して舞台に立っていたのだという。映像作品にエキストラで参加していたりもしたが、今から4年前に明良と知り合い、その1年後に劇団を退団して喫茶店を始めたのだと唯子は語った。
「えーと…明良さんのために役者をやめたってことっすか…?」
「明良のためじゃなくて、わたしのために、よ」
そこが重要なのだとでもいうように、唯子は志木に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「やめろなんて、明良はただの一度も言わなかった。わたしが明良といたいと思ったの。誰よりわたしが、明良のそばにいるべきだとも思ったわ」
「…くさい言い方だけど、その――役者になるのって唯子…さんの夢じゃなかったんですか?」
「そうね」
「それでも?」
「役者って、舞台でも映像でも不規則な生活なのよね。ロケがあれば何日も家に帰れない、舞台があればすべてはそれ中心に回って、それ以外にも台本読んだり役作りしたり稽古したり、土日がお休みってわけじゃないし」
経験から来る唯子の言葉には実感がこもっている。
「そのころ明良はもう美容師やってて――美容師って、長いお休みは取れないし、朝はそんなに早くはないけど夜は遅くまで居残りでカットの練習したりするし、結構忙しいのよ」
「そうなんですか…」
そういえば、国家資格試験を受けなくてはいけないと聞いたことがあるし、入店したては見習いから始めるという。言われてみれば確かに忙しい職だ。
スタッフの1人として他人の店に勤めている身ではなおさらなのだと唯子は付け足した。
「美容師と役者じゃあ、生活時間が合わないじゃない? しかも、戻ってくる予定のある遠距離恋愛と違って、同じ仕事を続ける限り同じすれ違いの生活なの」
志木は頷いた。そこまではわかる。わからないのは、何故唯子が役者というものを捨てられたか、だ。
「会える時間が少なくても付き合っていけると思ってた。でも何年か経って振り返った時に、あの頃どんな顔してどんな景色を見てたのかとか、わたしの知らない明良の時間がたくさんあったとしたら、それはもったいないなあって思えてきたのね」
ひと通りのメイクは終わったのか、メイク道具を片付けながら唯子は話を続けた。
隣室から朗らかな笑い声が聞こえてくる。唯子は一度手を止めて視聴覚室へ続くドアへと視線を遣ったが、すぐに元に戻して再び手を動かした。
「何度もすれ違って、声しか聞けなくて、1ヶ月や2ヶ月会えないのはザラで――その頃、自分がどうして役者になったのかよく考えたわ。わたしには、役者になってどうしたいっていうはっきりしたものがなかった。ただ演じることが、舞台っていう空間に立つのが好きだったの」
志木は、唯子の話を聞きながら仁美に見せてもらったアルバムの写真を思い浮かべていた。演じることが好きだという唯子が、確かにあの中にいた。
「おばあちゃんになったって舞台に立ってお芝居は出来る。でも、今の明良のそばにいられるのは今しかないじゃない? 1年先、5年先は今の延長線上にある時間だけど、今と同じ時間ではないもの」
片づけを終えた唯子は、手近のパイプ椅子を引き寄せて志木の前に広げ、腰を下ろして軽く息をついた。
「だからね、いま自分がしたいことを選んだの。役者でなくてもわたしはわたしに変わりないし、紅茶は昔から大好きだったから、いまの仕事も舞台に立つのと同じくらい楽しんでやってるわ」
笑って言った唯子の表情に、翳りは一切ない。
唯子の話を聞き終わり、志木は大きく息をついた。
好きだとか愛しているだとか、そんな言葉は出て来なかった。ただ、唯子の生きる時間の中に明良がいるのが当たり前なのだ。
「――そんなに明良さんがいいのかァ……」
「なんだか波長が合っちゃったのね。一緒にいるのに会話がひとつもなくても居心地がいいの」
「ああ……それはわかります、俺も」
言葉を交わさなくてもただそばにいるだけで心地よくて、沈黙が苦ではない。喜多見といる時には、いつもそう思う。
高校2年のはじめ、喜多見が担任になった当初は、こんな関係になるなど夢にも思わなかった。
だが、ふたりきりで過ごしたほんの数日の夏の日に、一緒にいる心地よさを知ってしまった。
それまで知らなかった顔を見せてくれ、ありのままの自分が受け止められていると感じた時、志木は喜多見を好きだと思う自分に気付いた。そして、そばにいたいと思ったのだ。
「……何か悩んでるの?」
「え?」
「なんで役者をやめたのかってとこに拘ってるみたいだったから」
「―――」
読まれていた――志木は苦く笑って頭を掻いた。そして、正直に告白する。
「天職と将来の展望ってヤツで、ちょっと迷ってて……」
いまアルバイトをしているのは父を失った家族のために働けるなら働いた方がいいと思ったからなので、自分に出来る仕事でそれなりに実入りがあればどんな職でも良かった。だが、同じ理由で卒業後の就職先を選んでいいものなのだろうか。
興味のある職はいくつかあるが、きちんと収入のある仕事になるかどうかわからず、どうしてもこれになりたいという強い拘りはない。仁美のような将来の目標もまだない。
そして、この地を離れる――つまり喜多見から離れなければならない職業を、つい選択肢から外してしまう。
それでいいのか、働くというのはそういうものなのか、あまりに漠然と生きてやしないかと、自分で自分がわからなくなってしまった。
まだそれほど焦りはないのだが、考え出すと迷いが募る。
この頃はなるべく気にしないようにしているが、喜多見が安定した収入のある大人だということも迷う原因のひとつだ。
1日も早く喜多見に頼ってもらえる大人の男になりたいと思う。では頼れる男とはなんだろう。人格か、外見か、収入か――その全部なのか。考え始めるときりがない。
「早く頼り甲斐のある男になりたいんですよ、俺。でも考えてるうちに、何をどーすりゃいいのかよくわかんなくなって……って、俺がいま言ってることもよく分かんないっすね」
思いのすべてを上手く口にすることはできず、志木は困惑顔で首を傾げた。
だが唯子は志木の思いを察したのか、首を横に振ってやさしい微笑を浮かべた。
「焦らなくていいのよ。子供の頃に見つけてしまう人もいれば、いい大人になってから辿り着く人もいるわ。そっぽ向いて逃げてるわけじゃないから大丈夫」
立ち上がった唯子の肩から、細い髪が滑り落ちる。微笑みを納めた唯子が、静かな眼差しを志木に向けた。
「後悔したことは一度もないけど、わたしの出した答えが万人にとっての正解というわけではないのよ。君にとっての正解は、君のここで決めなさい」
唯子の右手の人差し指が、志木の胸の中央を押した。
突き放しても、目を逸らすわけではない。否定をしない。見守る瞳はあたたかい。
いまはここにいない涼しげな横顔を思い出し、志木は笑みを浮かべた。
「…唯子さんて、ちょっと喜多見に似てるかも」
「あら。じゃあ明良ってブラコン?」
「誰がなんだって?」
出し抜けに背後から声が飛んできて、志木は慌てて振り向いた。いつの間にかそこに、明良が立っていた。
「あっ、明良さん! いつからいたんすかっ」
「焦らなくていいのよってあたりからかな。なんの話だか知らないけどずいぶん打ち解けたんだなぁ、わんころ」
そばまでやって来て志木の頭を撫でながら、明良がにっこりと笑う。きれいな笑顔だが、裏がありそうで怖い。
「おまえ、人懐こいのもいいけど、尻尾の振り過ぎは怪我の元だぞ?」
「いじめないの! ヤキモチ焼かれるようなことは何もしてませんっ」
明良の手の甲で、ピシャリと小気味よい音が鳴った。
見た目は明良よりずいぶん年下に見える唯子だが、こういうところは明らかに年上だ。
「メイクどう? 薄すぎ?」
「…いや、いいんじゃないかな。薄すぎず、濃すぎず。さすが上手いね、唯子」
口論になるのではと志木は危ぶんだが、2人はすんなりと別の話題に移行した。
背後に回り込んだ明良が、志木の髪を指に取る。
「若干硬めか。――なあ…これ、上げて固めちゃうよりは――」
両手で志木の前髪を撫で上げて見せながら、明良が唯子に尋ねた。
「そう――ね。でもいいの?」
明良は皆まで言わなかったが、唯子はすぐに察して頷いた。その上で明良に尋ねる。
唯子の言葉を受けて、明良が志木の顔を覗き込んだ。
「わんころ、髪に願掛けてたりする?」
「願掛け? 別に何も…?」
2人の会話の内容が全く理解できなかった志木だが、とりあえず今の質問はわかったので正直に答えた。
「OK。唯子、新聞紙とゴミ袋調達してきてくれるかな」
「了解」
明良の指示に、唯子はすぐさま隣室へと向かった。
「顔作るより前にやったほうが良かったろうけど、まあいいか」
志木の頭をぐりぐりと撫でながら呟く明良に何か不穏なものを感じて、志木は腰を浮かそうとした。だがそれは果たせず、両肩を押さえられて再び椅子に座らされる。
「じっとしておいで、わんころ。すぐ済むから」
「…な、なんなんだよ…?」
首を捻って見上げた先で、志木を見下ろした明良がにやりと笑った。
−続−
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