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Vol.10 『時の秒針』
志木の様子がおかしい。
おかしい、というと語弊があるかもしれないが、1年以上近くで見てきた志木が標準だとすれば、このところの志木はおかしいと言わざるを得ない。
「喜多見先生、志木と喧嘩でもしたんですか?」
「…はい?」
数学科の杉下に突然問われて、喜多見の返事が数拍遅れた。
「最近あいつ、先生のとこに来ないじゃないですか。以前はあれ教えてこれも教えてって、他教科のぶんも泣きついて来てたでしょう」
そういうことか。
喜多見はゆっくりと呼吸して、動揺しかけた自分を落ち着かせた。
「少し成績が上がったようですし、就職活動もあって忙しいんでしょう。いい傾向ですよ」
「ああ、びっくりしましたなあ、1学期の中間には」
体力の消耗の激しくないアルバイトに変えてから、志木の成績は格段に上がった。喜多見しか知らない理由でそのバイトを辞め元の生活に戻してからの期末考査も、中間考査からいくらか順位が下がったが、赤点はなく夏の補習は免れている。
もともと志木は、勉強することが嫌いなわけではない。勉学に全く重きを置いていなかったがゆえの成績だっただけなので、少し比重をかけてコツさえ覚えれば成績は上がるだろうと喜多見はふんでいた。
夏休みの後半には仕事の合間に何教科か見てやり、本人も理解できていたようなので、おそらくこの2学期の中間考査も大丈夫だろう。
「まあ何かあったんじゃなくて良かった。あいつは存在が賑やかだから、見かけないと淋しいもんですな」
「そうですね」
喜多見は相づちを打って頷いた。そこにいるだけで目を引く“華やか”というのとは少し違う。たしかに志木は“存在が賑やか”だ。
平均的な高校生より長身で体格もいいので、集団の中で目立つ。そして、志木の周囲はたいてい明るく楽しげだ。1人で場を取り仕切るリーダータイプではないが、中心にいてムードメーカーになっていることが多い。
杉下が同じ数学科の教師に呼ばれてその場を離れると、喜多見は生徒の資料を見るふりをしつつ沈思した。
仕事が立て込んでいてなかなか会う時間がないのはたしかだが、志木と喧嘩をしているわけではない。
だが杉下の言うとおり、志木が喜多見を訪ねてこないのだ。
担任をしていた2年時よりは回数は減ったが、3年生になってからも夏休み前までは、理由を探しては喜多見の前に顔を出していた。
それなのに夏以降、志木は大層おとなしい。夏休み後半は度々喜多見の家を訪れていたので欲求不満が少ないせいかと思っていたのだが、どうも違うらしい。
新学期が始まってひと月経つが、学校では徹底して教師と生徒としての距離を保ち続け、喜多見が段々と進路指導などで忙しくなって会えなくなってきても、文句も愚痴も口にしなかった。
だが、多忙の合間を縫って会った時や、学校内でふと目が合った時の遠慮がちな態度と淋しげな風情から、無理をしているのは明白だった。
忙しい時に手が掛からないのは助かるが、あまりに聞き分けがいいと物足りないような気もするし、だいたい無理をさせたいわけではないのだ。
それに、志木がおかしいのは聞き分けの良さだけではない。何かを隠している節がある。
このひと月あまり、時折探るような目で喜多見を見ていて、視線を向けると慌てて逸らすことがあった。考え込んでいる姿も何度か見掛けた。
喜多見はデスクの上のぬるくなったカップのコーヒーをひと口飲んで立ち上がった。考えごとをするのに人の出入りの激しい職員室は適さない。
授業に必要な資料を取りに行くついでもあったので、校舎の隅の国語科準備室に移動することにした。
10月に入ったというのに、残暑の和らぐ気配はない。衣替えして長袖のシャツになった生徒達が、袖をまくり襟元をくつろげた姿で、上着は着ていないもののネクタイまできっちり締めている喜多見を見ては暑くないのかと声を掛けて来る。
立ち止まって言葉を交わしていると、喜多見を発見した担当クラスの生徒が推薦入学についての確認をしに来た。さらに数人が連れ立って、模試について尋ねてくる。
これでは考え事どころではない。喜多見は気持ちを切り替えて、生徒1人1人に丁寧に対応した。
そんな中、生徒の質問に澱みなく答えていた喜多見が、一瞬気を散らした。わずかに間があいた返答に生徒が不思議そうに見上げたが、何食わぬ顔で通す。
このひと月、何度か目にしていた光景だったが、志木に問うたことはまだない。
こちらに気付かずに、渡り廊下の向こうを志木が通り過ぎた。その隣りには、昨年志木と同じクラスだった岡本可南子の姿があった。
『おにいさま……それは惚気? 惚気ですか?』
たまたま妹の明良から小用で電話が来て雑談がてら志木の様子を聞かれたので、このところの話をしたところ、地を這うような声が戻って来た。
「惚気たか?」
『手が掛からなくてケンカもなくラブラブってことだろ? 惚気じゃん』
「……うーん……」
明良の言葉に、喜多見は彼らしくなく言いよどんだ。
「そう我慢がきく奴じゃないんだがなあ」
『じゃれついてもこないわけ?』
「……いや…」
新学期が始まってから、学校の外で会えたのは2度。
うち1回は9月の頭で半日ほど時間があったが、仕事を持って帰ってきていると知ると志木は帰ろうとした。たいした仕事じゃないからと喜多見が言って、やっと手を伸ばしてきた。
あとの1回は9月半ば。1時間も時間がとれなかったので、会って話して終わった。
月の終わりの週末に時間が空いたので来るかどうか訊いてみた時は、他に約束があったらしくやってこなかった。
来なかったことについては、これといって怒りを感じたりもしない。志木には志木の生活があるのだから、先約を破ってまで来いと言う気はない。
兄の沈黙をなんと思ったか、明良は深いため息をついた。
『……おにいさま。明良は今日、お仕事休みなの』
「ああ」
わかっている。仕事があるなら、土曜の真っ昼間に電話を掛けてなどこない。
『夏にそっちに行くのに振り替えた休みなんだけど』
「ああ」
喜多見が入院した時だ。休日を潰した上に何日か仕事を休ませてしまい、すまないことをしたと思っている。
『最近新人が入店してね、教育係りを仰せつかっちゃったから休み返上で毎日忙しくて帰宅も遅んだよ』
「大変だな。体を壊さないよう気をつけろよ」
『でね』
明良の声が、一段低くなった。
『3日前からハニーの店が内装工事中で、今日はすんごい久し振りに二人きりで過ごしてんの』
「それはよかったな」
明良の恋人は、喫茶店を経営している。2人して夜しか顔を合わせられない上に休みの日まで合わないのは嫌だと、明良は恋人の店の定休日である木曜日を公休にしていた。
『だから〜惚気話なんか聞かせて邪魔すんなって言ってんの!』
『明良ッ!』
突然、受話器の向こうから明良以外の人間の声が聞こえ、ゴッという鈍い音が響いた。
『…ッいまカドで殴ったろ!?』
『殴ったが何よ?』
『いくら電話帳の紙は柔らかいつったって、そんな分厚いの、立派な鈍器だろうが!』
『文句を言うのはこの口? さっき、お兄さんに悪態ついてたのもこの口ね?』
『いひゃいいひゃいいひゃい』
タウンページで殴られ、文句を言ったら思い切り頬をつまみ上げられた――見えずともありありと光景が浮かぶ。
もう1人の声は、喜多見も数回会ったことのある明良の恋人の声だ。口の悪い妹だが、その口も彼女には勝てないらしい。
『だいたいね、あなたから電話したんじゃないの! それを邪魔すんなとはどういうこと?』
『ひょれはころばのあやれ』
『言い訳しない!』
『いひゃいっれ〜!』
さらに抓り上げられたのか、明良の声はもはや悲鳴だ。さすがに可哀相になってきて、喜多見は声を大きくして制裁の打ち止めを願い出た。
『…絶対赤くなってるよ……』
しばらくして、やっとのことで電話口に戻ってきた明良は、深いため息をついて嘆いた。
「悪かったよ」
『…こっちもゴメン』
「やけに殊勝だな?」
『あのひと、理不尽に怒ったりは絶対しないからね。いまのは私が言い過ぎた。だからゴメン』
明良はそう言って、もう一度素直に謝った。恋人に対する信頼の程がわかり、喜多見は小さく微笑む。
「うまくやってるんだな」
『心配してくれてたんだ?』
「兄妹だからな」
『…ふうん』
受話器の向こうから、照れたような呟きが返ってきた。
早くに両親を亡くして2人で生きてきたが、明良は自立心に富んでいて過剰に兄を頼ることはなく、喜多見も妹に甘い兄ではなかった。それでも、肉親として大事に思っていることに変わりはない。
明良が咳払いをひとつして、話を本筋に戻した。
『時期も時期だし、私は心配ないと思うけど。でも、気になるんなら早めに本人に訊きなよ? 兄貴って口に出さなさすぎるとこあるから』
「…そうだな」
たしかに、相手の出方を見るところがある。去る者追わずの淡泊な性質のせいか、察しがついてしまうせいか、別れを切り出されてもその理由を聞いたことがない。
『わんころは兄貴からは逃げらんないから、ガツンといけばいいよ』
たしかに、喜多見が追及すれば逃げられないだろう。そして、嘘をつけばすぐに判る。
その後2〜3言葉を交わし、喜多見は電話を切った。
物思いに耽る顔で受話器に乗せていた手を十数秒経ってやっと離し、喜多見は小さくため息をついた。
明良には黙っていたことがひとつある。岡本可南子の存在だ。
女子生徒と一緒にいたくらいで腹を立てるような喜多見ではない。もともと志木は、男女分け隔てなくよく話している。気安げな様子を見たからといって、いまさら妬いたりはしない。
しかし、相手が岡本可南子の場合は少し違う。喜多見は、かつて可南子が志木を好きだったことを知っている。告白の現場も目撃していた。
だが志木は迷うことなく喜多見を選び、その後の志木と可南子は以前のように親しくに話すこともなく、なんとはなしに気まずい様子で進級と共にクラスも別になった。
それが、夏休み後から明らかに様子が違った。2人ともこの1年あまりの距離感を保とうとしているようだが、志木の前では固かった可南子の表情が軟らかくなっている。言葉を交わしている姿も何度か見掛けた。
志木の浮気を疑っているわけではない。浮気心を起こして何事もないように振る舞えるほど、志木は器用ではなかった。志木の隠している何かが可南子のことだとしたら、志木は喜多見の目さえ見られないだろう。1学期末から数週間会うことができなかった間に、そう簡単にそれが変わるとも思えない。
胸が焼けつくような妬心はないが、2人の間に何があったのかは気になる。それが急に聞き分けがよくなった理由なら、なおさら知りたい。
色恋に対して淡泊だと自認している喜多見だが、志木に対しては喜多見なりの執着と想いがある。
喜多見はしばし黙考して、携帯電話に手を伸ばした。
そして、アルバイト中だろう志木の携帯に、「今夜家に来るように」とだけ記したメールを送信した。
「遅くなってごめん…!」
息せき切って志木がやってきたのは、午後10時半。
今夜のバイトは9時までのはずなので、通常なら9時半にはやってくるはずが1時間のオーバーだ。
「今日1人休んでてさ、残業頼まれて」
「そうか。疲れてないか?」
「全然。でもハラ減ったー」
嘆いた志木の腹の虫が泣き喚いた。体力は有り余っている志木だが、腹はいつでも空いている。
喜多見は少し待つように言い、台所へと立った。腹を空かせてくるだろうと思っていたので、夜食になるようなものを作っておいた。
手早く盛りつけて出してやると、志木は喜色を浮かべてそれに飛びついた。
豪快かつ幸せそうな食べっぷりと盛大な食欲には、つくづく感心してしまう。これだけ美味しそうに食べてくれれば作り甲斐もあるというものだ。
食事を作ることは、単に両親のいない家の中での喜多見の担当だっただけで、それほどのこだわりがあるわけではなかった。だが、美味い美味いと言ってそれは嬉しそうに食べる姿を見ていると、次はあれを作ってやろうか、これを作ってみようかという気持ちになる。
少し多めに用意しておいた夜食を、志木はかけらも残さずきれいに平らげた。
食後に出したほうじ茶を飲んでいる志木を見つめていた喜多見は、志木がひと息つくタイミングを計っていた。
ただ食わせるためだけに、志木を呼んだわけじゃない。
「志木」
「んん?」
「私に何か隠していることはないか?」
「…なにが?」
お茶を飲み干して志木は首を傾げたが、問われた瞬間に肩が強張ったのを喜多見は見逃さなかった。
両手を伸ばし、手のひらで頬を包んで引き寄せる。覗き込んだ視線は逃げずに受け止めた志木だが、腰が引けていた。
喜多見はじっと志木の目を覗き込み、直球を投げ込んだ。
「岡本と何があった?」
「へ?」
問い掛けに、予想もしていなかったかのように不意を突かれた顔で志木が声を上げた。まるで“隠していること”とは全く違うものだったようなリアクションだが、喜多見は構わず続ける。
「ずっと距離を取っていたのに、休み明けから1年前と同じような距離感じゃないか?」
「う…ん、その…夏休み中にいろいろあって――」
「お前が急に聞き分けがよくなったことと関係あるのか?」
「! いや、あの…」
本当に嘘のつけない男だ。
喜多見はうろたえている志木にやさしく微笑んでみせた。滅多にみせない満面の笑みの怖ろしさに、つられて笑った志木の頬が引きつる。
「吐け」
「う」
「志木」
「……ぐ…」
肉食獣に射竦められた草食動物のように硬直して、志木は低く呻った。
目は笑わないまま唇にだけ笑みを浮かべてじっと見つめ続けていると、ついに志木が音を上げた。
「わかった! わかりました!」
何かを振り切るように大きな声で繰り返し、肩から力を抜いてぐったりと項垂れる。
そして志木は、ゆっくりと深呼吸をひとつして、喜多見と会えない間に起こった出来事を話し出した。
可南子が付き合っている相手が教師だったがために、気まずいまま開いていた距離が再び近づいたということを、可南子に待ち伏せされたところから順を追って説明する。
最後まで黙って聞いていた喜多見は、胸の内で苦笑した。まさか、昨冬にはすでに感づかれていたとは思ってもみなかった。
たしかに言われてみれば、付き合いだした当初は志木も浮かれていて、学校ではあくまで教師と生徒だと何度言い聞かせたかしれない。喜多見にしても、志木の姿が視界に入れば目を遣ってしまっていた。
じっと観察されていたのであれば、察知されてもおかしくない。
「あんたになら彼氏のこと知られても岡本は怒んないと思うけど、やっぱ積極的に言うようなことじゃねえし、話す機会もなかったし、それに……あんたにさんざん言われてた事をこの夏までちゃんと解ってなかったってのが、すっげー申し訳なくって――」
苦渋の表情で俯いた志木は、意を決したように顔を上げ、胡座の膝を両手で掴んで深々と頭を下げた。
「だから黙ってました。すいませんでした」
言えずにいた志木の気持ちも分からなくはなかった。喜多見に後ろめたいという思いがあったにしても、可南子が志木にだけ打ち明けた秘密だからというのが志木らしい。義理堅くて口も堅いのだ。
「…なるほどな。それでその後も相談を受けていたのか」
「まあうまくいってるみたいで、この頃は報告とか愚痴とか……最近相談してたのは俺のほうで――」
志木は言葉尻を濁し、少し悩んでから持ってきていたデイバッグをあさって小さい包みを取り出した。
「当日かっこよく手渡したかったけど、隠しててもバレちまいそうだから渡しとく。すげえ迷ったんだけど――これ」
「なんだ?」
「誕生日プレゼント。もうすぐだろ」
「…え?」
まったく予想もしていなかった単語に、喜多見は目を見開いた。それを見た志木が、苦笑して小さくため息をつく。
「…やっぱ忘れてたか。何か隠してるだろって訊かれた時は、てっきりこっちがバレたのかと思ったけど、あんた自分の事はあんまり気にする人じゃねえもんな」
「30にもなる男が自分の誕生日に浮かれてもな……開けていいのか?」
「いいよ」
志木の返答を待って包みを解くと木箱が出てきた。蓋を開けると、真っ白な綿にくるまれた金色で縁取られた丸いものが姿を現した。
「――懐中時計…」
喜多見の呟きに志木は頷いて、時計の鎖を指先ですくい上げると、喜多見の手を取ってその手のひらにそっと乗せた。
生成り色の文字盤も、金の光り具合も、新品ではなく年を重ねた色をしている。しかし、その落ち着いた風合いがいい。
「あんたの欲しいものがわかんなくてさ、でも突然渡してビックリさせたかったからあんたには訊けなくて。俺たぶん、それとなく聞き出すって出来ねえから」
たしかに、訊かれていたら気付いたろう。すぐに顔に出るのだ。
「明良さんに訊こうかと思ったんだけど連絡先知らねえし。だから、俺と喜多見のことを知ってる岡本に相談したんだよ」
「それでよく一緒にいたのか」
「うん。そんで、骨董とか好きそうだっつー話になって、日曜に2人で探しに行って」
「うちに来なかったあの日か?」
「です、はい…」
なるほど、全てが繋がった。そして腑に落ちた。
昼間の電話で、明良に志木の最近の様子を話した時には、明良には志木が何を隠しているか判っていたのだろう。だから心配ないと言ったのだ。
喜多見は、明良の言った「時期も時期だし」のひと言を“忙しい時期だから”というふうに解釈したが、そうではなく、誕生日が間近だということを意味していたのだろう。
「しかし――これは高かったんじゃないか?」
見たところ、後年に補修されたような様子はない。本体も鎖も同じ風合いをしている。つまり、つくられた当時のままということだ。
派手な装飾はなく地味な作りなのだが、文字盤のデザインも裏側に施された精緻な彫りにも品がある。それほど詳しいわけではないが、戦前のものなのは確かだろう。
「免許取ってバイク買おうと貯めてた金があったから予算は結構取ってたんだ。アンティークって高いんだろうなと思って」
「…これのためにバイクを諦めたのか?」
「諦めてねえよ。バイト先の店長からバイク譲ってもらえる事になったから、バイク代分浮いたんだ」
貯めていたとはいうが、志木はバイト代の8割を家に入れている。それほど懐具合に余裕があるわけではないだろう。
しかし喜多見が何か言うより先に、志木はきちんと言い訳をした。そういうことなら、無理をするなとは怒れない。
「だが、それでも結構な額なんじゃないか? プレゼントだからといって、高価なものにする必要はないんだぞ?」
「そんなん気にすんなって格好良く言いたいところだけど、実は店仕舞いセールの骨董屋で売ってた動かない時計だったから、そんなに高かったわけじゃないんだ」
志木はそう言って決まり悪そうに小さく笑った。言われて視線を手のひらの上の時計に移したが、秒針は規則的に動き正しい時を刻んでいる。
「…動いているが」
「買ったあと直したんだよ。どうしてもこれがよかったから迷ってたらさ、岡本のじいちゃんが時計技師だっていうから店の帰りに習いに行って」
「習いにって…お前が直したのか?」
「開けてもらったらそんなにひどい故障じゃないって言うから。プロじゃなきゃ無理なとこだけはじいちゃんにお願いしたから問題なく動くはずだぜ」
なんて事ないといった調子で志木は言ったが、古い時計の修理など素人では手が出せない代物のように思える。いくら本職の人間に指導を受けても、精密な手作業だ。大きく男っぽい志木の手指は、存外器用に動くらしい。
「…どうしてこれに決めたんだ?」
「直感、かな。これ見た時、あんたのもんだって思った」
根拠のない理由だったが、あながち間違いではないかもしれない。
たしかにこの手のものが好きだ。ひと目みて惹きつけられた。手にすると、感触や重さが初めて触れたとは思えないほどしっくりと手に馴染んだ。
黙って時計を見つめていると、志木がおずおずと切り出した。
「…これでもう隠してる事はないんだけど……」
「――まったく…この馬鹿……」
喜多見は深いため息をついてから顔を上げ、微苦笑を浮かべた。そして、志木の胸倉をひっ掴んで引き寄せ、唇を重ねる。
面食らいはしたようだが、数秒触れて離した唇に角度を変えて再度唇を寄せてきたのは志木のほうだった。
滑り込む舌を簡単に受け容れると、志木はすぐに夢中になった。喜多見の肩を抱き、うなじに手を添えて、深く口づけてくる。
しかし、息を継ぐために少しだけ唇を離した志木は、部屋の柱の上部に目を留めて喜多見から体を離した。
「……喜多見、12時――」
振り返ると、時計の針が11時半を指していた。
これまで喜多見は、どんなに遅くても11時40分には志木を帰らせていた。12時までに自宅に戻らせるためだ。それは、外泊に慣れて歯止めがきかなくなりそうな志木のためであり、連日のアルバイトに加えて午前様では心配するだろう志木の家族のためでもあった。
しかし志木の家族は、夏休み中に何日か外泊した志木に喜んだらしい。母親は、友達の家に泊まるくらい普通のことなのに、それもせず毎日アルバイトに明け暮れている志木が、付き合いが悪いと言われていやしないかと逆に心配だったようだ。
だから喜多見は、入り浸らないよう抑えておけば逆に外泊も良いだろうと思い始めていたのだが、今夜は別の意味でいますぐには志木を帰せそうにない。
「このままでは帰れないだろう」
言って、視認できるほど反応を露わにしている股間を撫でると、志木の顔が真っ赤になった。グッと言葉に詰まり、やっとのことでそれを吐き出す。
「……ッこれは、その、いまみたいなキスすんの1ヶ月ぶりだから、あの――」
「出来もしない我慢をしているからだろう」
「で、き…っ…そりゃあんまり我慢強くはないけど――って喜多見!」
志木が慌てて後退るのもかまわず、喜多見は志木のジーンズのジッパーを下ろした。押し広げて下着の中に手を入れ、固くなりつつある志木のものを緩く握る。指を輪にして軽く扱くと、それは如実に反応を返して熱さを増した。
「喜多見! ダメだって…ッ」
「このままでどうする気だ」
「え、とっ、トイレでする…から――」
「馬鹿者」
ひと言で切り捨てて、喜多見は手の中のものを強く握りしめた。喜多見の体を押し返そうとしていた志木の手に瞬時に力が籠もる。
裏筋を指で辿り、双玉をやんわりと弄うと、眉を寄せていた志木の唇から切なげな吐息が洩れた。先端の割れ目を指先で押し開くようにすると、先走りが溢れ出て喜多見の手指を濡らしていく。
快さに歪む志木の表情に、喜多見の中の熱もかき立てられる。この熱は、志木にしか静められない。
「家に連絡しなさい」
「…え?」
「無断外泊はするなよ」
本当なら嘘の外泊理由も問題だが、それはひとまず勘弁しておいてもらおう。
自分の甘さを胸の内で嗤って、喜多見は志木の熱い滾りを手のひらで受け止めた。
奉仕と言っていいほど丹念な前戯の末に、志木は限界近くまで張りつめて固く勃ちあがったものをゆっくりと喜多見の中に押し込んだ。
十分に慣らし、ローションも使っているため痛みは少ないが、この圧迫感と息苦しさはいつになっても変わらない。
そして今夜はそれに、少しの戸惑いも加わっている。
それほど久しぶりの行為ではないのに、今夜は何故かいたるところが鋭敏になっていて、志木の触れた部分から痺れるような感覚が生まれ続けている。受け入れた志木のものも、ゴムの皮膜越しだというのにひどく熱い。
「…喜多見……」
後ろから回した手で喜多見のものを撫でさすりながら志木が呟いた。そして、柔く刺激を与えながら奥をひと突きする。
「あ! あ、…し、き」
きゅっと締め付けられて顔をしかめ、志木は喜多見を抱きしめた。体が密着し、打ち込まれた楔がさらに奥に入り込む。唇から、苦しげな吐息があふれた。
「もっと奥…入りてえ……」
「…っも…無理……」
吐き出すように答えて、喜多見は敷布を握りしめる手指に力を込めた。
「もうちょっと力抜いて…動けねえよ」
上体の崩れ落ちた体を背後から抱えて宥めるように囁く志木に促され、喜多見は強張りを解こうと息を吐いた。なんとか力は抜けたが膝が萎えて踏ん張りがきかない。
志木は自分の足の置き場を変えて上半身を起こすと、喜多見の崩れそうな左足の内側に片手をかけて、すくうようにして持ち上げた。
「……ッ! は…っ」
繋がった部分を軸に体を90度回転させられ、たまらず喜多見が大きく喘いだ。
その体勢のまま軽くひと突きされて、たっぷりと塗り込まれたローションがくちゅりと音を立てる。
「このまま動いていい? すっげえ奥までいけそう……」
「…や、め…」
「じゃあ、後ろと前どっちがいい?」
「――え……」
「わかった」
荒い呼吸の合間に喘ぐように吐き出された言葉を聞き取って、志木は頷いた。
少し腰を引き、楔が抜けないように慎重に喜多見の体を上向ける。
両脚の間に収まると、上体を倒して喜多見の体を両腕で掻き抱き、再度ゆっくりと奥まで押し入れた。
「苦しくねえ?」
「……ッ…、いいから早…く」
乱れた呼吸を続ける喜多見の側頭部を撫でながら言った志木に小さな声で告げて、喜多見は顔を背けて手の甲で口を覆った。
感覚という感覚が敏感になりすぎている。
気遣う言葉や態度とは裏腹にいますぐにでも爆発してしまいそうな志木のものが、どうしようもなく熱くてたまらない。
繋がった箇所から喜多見にも伝染し、全身を走り抜け腰のあたりに集まってくる熱を、早く解放してしまいたかった。
「喜多見……」
志木の手が、喜多見の頬に添えられた。手のひらに導かれるまま従うと、志木の唇が降ってくる。
深く甘い口づけに、目眩がする。
「……も、限界…。名前呼んで――」
甘く囁いてねだった志木が、そろそろと動き出した。濡れた音と共に出入りを繰り返すそれを、意識するまもなく条件反射のように締め付けてしまう。
そんな時、窮屈さと悦楽に歪みつつ嬉しげに微笑む志木の顔を見るのが好きだった。しかし、それを楽しむ余裕すらない。
喜多見の戸惑いも理性も、快楽の波に飲み込まれていく。
「あ! う、ぁっあ……ッみ、ずほ…!」
「もっと呼んで……」
「ンッ、ア…ッみず――」
「呼んで…っ」
激しく突き上げながら懇願し続ける志木に懸命にすがりながら、喜多見は願い通りにその名を呼んだ。しかし、もたらされる痺れるような快感と息苦しさに声がかすれ、濡れた音にかき消される。
喜多見は志木の頭を引き寄せて耳朶を甘噛みし、唇で触れたまま耳の中に熱い吐息を吹き込むように志木の名を呼んだ。
志木の背筋が震え、小さく息をのんだ。そして、最奥をひと突きし、微かなうめき声を洩らす。
喜多見は志木の後を追うように熱の全てを解き放って、意識を手放した。
「ごめん、無理さして…」
「無理はしてないが……どうした、しゅんとして」
心配そうな眼差しを頭上から受けて喜多見は尋ねた。表情を曇らせた志木は、躊躇いがちに尋ね返す。
「だって気ィ失うほどキツかったんだろ?」
たしかに数秒間意識が飛んで、慌てた志木に揺すり起こされたが、きつくて気をやってしまったわけではない。むしろ逆だ。
喜多見は微苦笑を浮かべて、上体を起こして喜多見を見下ろしている志木の顔に手を伸ばした。
「ばか、違う」
「え…?」
伸ばした手の指先で緩く頬をつままれて、志木は困惑気味に眉を寄せた。
「うまくなったな。降参だ、今夜は」
セックスで意識が飛んだのは初めてだ。いつもどこか客観的な自分がいて、のめり込むほどの執着がわかなかった。
だが志木の若さがそうさせるのか、自分で思っているより溺れてしまっているのか、志木相手だと自分を客観視できない。だが、それを嫌だという思いはなかった。
微笑を浮かべた喜多見を、志木はぽかんとした顔で見返した。そしてやがて、照れたような苦笑を浮かべる。
「…自分じゃよくわかんねえけど、そうだとしたらあんたの教え方がうまいからだよ、センセイ」
「先生と言うな」
「あいれ! いらいっれきたうぃ…ッ」
強くつまみあげられて、志木が悲鳴を上げる。喜多見は指先を離すとそのまま首の後ろに手を滑らせ、もう片方の手も伸ばして力任せに志木の首を引いた。
「うわっ」
バランスを崩した志木が倒れ込み、咄嗟に肘をついて体を支える。喜多見に激突する寸前で止まったその体を、喜多見は回した両腕で抱き寄せた。
導く腕に逆らわずゆっくりとのし掛かる体の重さと暖かさが心地いい。
「……志木」
「…ん?」
「学校で無茶をしなくなったことはいい。だがな、無理に避ける必要はないし、こうして会っている時まで我慢しなくてもいいんだぞ?」
「……」
「前にも言ったな? 素直なのがおまえの取り柄だろう。私がいいと言っている時まで、無理するんじゃない」
「…無理してるように見えた?」
「散歩に行きたくてたまらないのにリードを見ないようにして我慢している犬のようだったな」
「――丸出しか…カッコ悪ィったらねえな…」
喜多見の耳元で、志木が力なくぼやいた。
「…ごめん、いつまでたっても成長しないガキで。あんたが俺を必要だと思った時に、自然にそこにいるような男になりてえんだけどな…」
嘆息した志木だが、成長していないわけではない。
志木は気付いていないようだが、身長はとうに越えられている。1年前に比べたら体の線もより男らしくなっていて、邪気のない明るさは変わらないが面差しが大人びた。
学生時代の弓道経験から腕力はあるほうだと自負している喜多見だが、志木に全力を出されたら振りほどくことは出来ないだろう。
時間は確実に進んでいる。
喜多見の中にこれまでなかった熱が生まれたように、志木もさらに変わっていくのだろう。
秒針が時を刻むように、急くことなく、無理をすることなく成長していけばいい。
「…志木」
「…なに?」
「時計、ありがとうな」
「――ん」
照れくささを滲ませた、嬉しげな笑顔。
まだ見ぬすっかり大人の男になった志木にも、こんな表情は変わらずにあってくれればいいと、喜多見は思った。
−終−
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