Vol.9 『心拍数』


 夏の午後のきつい日差しの中、駅から喜多見の家へと向かう歩道を、志木は重たい足を引きずるようにして歩いていた。
 いつもこの道を、弾む心を抑えて歩いた。時には走らずにはいられなかったほど、この道は喜びに満ちていた。
 しかし、体も気も重くて仕方がない。重たいうえに怖い。
 昨日目にした光景が夢ではなく、喜多見の隣りに自分の居場所がすでになかったら――そう思うと怖くて仕方がない。
 どちらにしろ、この道を歩かなくてはならなかったことはたしかだ。昨日、自転車を置き去りにしてしまったからだ。
 茫然自失のまま走り続けた志木は、夕方近くなって我に返った。
 いつからそうしていたのか、自宅の最寄り駅近くにある城址公園のベンチで、ぼんやりとしていたのだ。
 ひとまず自宅に戻り、走って汗だくになった体を洗い流してアルバイト先に向かった。
 出掛けに弟妹が、様子のおかしい志木に何事か話しかけて来たような気もするのだが、何を言われたのか全く覚えていない。
 そして、何とか仕事を終えバイト先を出たところで、一昨日の夜と同じように可南子が待っていた。
「もー! バカッ!」
 バイト先まで様子を見に来た可南子は、志木をひっ捕まえてその後の首尾を聞き出して、開口一番こう叫んだ。
「どーしてその場で問い質さないのよ!」
「……問い質すっつったって…」
「恋人なんだから、その権利はあるはずでしょ」
「…ある……のかな」
「あ〜も〜じれったいなあ! 志木らしくないよッ」
 もごもごと口ごもる志木に、可南子は握り締めた拳を上下に激しく振って声を荒げた。
「俺らしいってどんなん?」
「思い込んだらまっしぐらな猪突猛進型で、馬鹿みたいに明るくて、一見無根拠な自信家」
「……俺ってそんなんなのか……」
 とても褒め言葉には聞こえない可南子のそれに、志木はがっくりと項垂れた。
「真っ直ぐなのも明るいのもあんたの取り柄でしょ」
「“馬鹿みたい”が頭に付くのが取り柄って言われてもな…。それに根拠無しの自信家って取り柄でもなんでもないだろ」
「“一見”だってば。あんたの場合、理屈じゃないんだもの。理屈も計算もなしに間違いないとこを突くんだから始末に悪いのよね」
「……言ってる意味がイマイチよく解らん…」
「つまり、動物的だってこと」
「どーぶつかよ…」
 常々犬のようだと言われているので耐性はあるが、こうもきっぱり言われると力が抜ける。
 可南子は手を伸ばして、志木の頭を子供にするように撫でた。
「そこがいいんだってば。喜多見もそうなんじゃないかな」
「…だから猛進しろって言うのか?」
「何がそんなに怖いの?」
 いきなり核心を突かれて、志木は押し黙った。
 そう、怖いのだ。喜多見の本心を知るのが怖い。
 可南子の恋人には偉そうなことを言ったが、志木も怖れている。手を離されるのが怖くて、怯えているのだ。
「……情けないとは思うんだけどさ…。なくしたくないんだ、どうしても。あの人を離したくない。だから…」
「そんなに好きなのか…。あたしが告ったって振り向いてくれないわけだ」
 可南子は溜め息混じりに、1年近く前のことを持ち出した。可南子に告白された時よりもっと、喜多見への思いは強くなっている。
「だったらなおさら会わなきゃじゃないの? 怖がって目ぇ瞑ってるうちに戻れないとこまで離れちゃうかもしれないじゃない」
 可南子は志木を自信家だと言ったが、そんなことはない。こと喜多見に関しては、自信など全くない。
 喜多見の隣りに立つ自信も、喜多見に見合う人間だという自信もなかった。
 これまで、喜多見が伸ばしてくれる手に懸命に縋ってきただけだ。
 自分でも上手く説明などできない。何がとか、どこがとか、もう言葉では言い表せない。
 ただ、どうしようもなく好きなのだ。
 失うことを怖れて一歩も動けなくなるほど、好きで好きでたまらない。
「無心で体当りしてきなよ、志木。ぐるぐる考えちゃダメ。当たって砕けたら骨は拾ってあげるから」
 可南子は、明るくそう言って志木の肩を叩いた。
 深刻にならなずにことさら明るく接してくれたのは可南子なりの気遣いだろう。臆病な背中を押してくれる、そんな優しさが嬉しかった。
 その気持ちのためにも、喜多見の家まで行こう。そう決意して自宅を出たのだが――
「……こんなに遠かったっけか……」
 流れる汗を拭い、志木は呟いた。
 志木の家から喜多見の家までは、自転車でも電車でも最短20分で着く。しかし、歩いても歩いても辿り着かないような気分だ。
 それでも、実際の距離に変わりはない。いつもより倍近い時間をかけて、志木は目的の場所に辿り着いた。
 玄関への敷石を踏みかけてためらい、庭へと回る。在宅なら、窓を開け放って風を入れているはずだ。
 そして、往生際悪く生け垣を回って庭先を覗き込んだ志木の目に、見慣れない光景が飛び込んで来た。
 縁側に、浴衣姿の喜多見が座っている。その背後に、昨日喜多見と共にタクシーから降りてきた男が膝立ちになっていた。
 男は銀色に光る鋏を滑らかに繰り、志木が最後に見たときより少しだけ伸びた喜多見の髪をカットしていく。
 カット技術の上手い下手は志木にはよくわからないが、その器用な手先の手慣れた様子とスピードから、男が素人ではないと判る。
 シャキシャキと鋏が小気味よい音を立てる男の手元に目を奪われていると、庭木を眺めていた喜多見の視線が志木を捉えた。
「志木」
 ほぼ4週間ぶりに自分の名を呼ぶ喜多見の声を聞いて、志木は嬉しさと共にひどく緊張した。合わせた視線が逸らせない。蛇に睨まれた蛙のように、脂汗が滲む。
 男が、喜多見の視線を追って志木を一瞥した。すぐに視線は戻されたが、手元を見たまま志木に向かって声を掛ける。
「もうすぐ終わるから、入って待ってれば?」
「でも、邪魔じゃあ――」
 甘いテナーで気安く話しかけられ、緊張も忘れて返答する。
「玄関の鍵は開いているから回っておいで、志木」
 喜多見が、いつもとまったく変わらない調子の声で、志木を促した。
 その声に逆らえるはずもなく、志木はその場を離れて玄関へと向かった。

 客間兼居間で、座卓を挟んで喜多見と向かい合って座る。
 濃鼠色の浴衣の腕を組んで胡座をかいている喜多見はいつものように平静だ。一方志木は、どうしていいかわからず困惑していた。
 言葉を発せず躊躇っていると、黒塗りの盆を手にした男が戻ってきた。
「麦茶でいいか?」
 言いながら、盆の上のグラスを志木の前へと置く。
「ハイ、すんません」
 何者なのだろうかとどぎまぎしながら志木は答えた。
 男は、続いて喜多見の前へグラスを置くと、残るひとつを盆に乗せたまま縁側へと向かった。座敷に右半身を向けて座し、煙草を銜える。
 明るい頭髪が陽の光に透けて、長い睫毛の影が頬に落ちている。女顔だが、仕草が機敏でさっぱりとしていて、細身ですらりとした体格と相まってスマートな美形だ。
 一体何者なのか、喜多見とはどういう関係なのか、知りたいことは山とあるが、どう切り出せばいいのかわからない。しかし、ここで長い沈黙は不自然すぎる。
 志木は意を決して口を開いた。
「あ、あの、喜多見先生にはいつもお世話になっ…」
「下手な芝居はしなくてもいいぞ、志木。こいつは全部知っているから」
「え?」
 グラスを口に運びながら言った喜多見に、言葉の意味を掴みかねた志木が問い返す。
「あきら」
 喜多見はグラスを置いて、縁側で煙草を燻らせていた男に呼びかけた。
「ハイハイ」
 男は手にしていた灰皿で煙草を揉み消して立ち上がった。そして、喜多見の隣に座って、志木に向かって笑いかけた。
「喜多見明良です。よろしく、わんころ」
――は? きたみ?
「私の妹だ。東京で美容師をやっている」
「……………いもうと――――ッ!?」
 喜多見の言葉が脳に達するまでぽかんと口を開けていた志木は、たっぷり数秒かかって言葉の意味に至り、受けた衝撃が正直に口をついて出た。
 男と信じて疑っていなかった。女顔で指先は細く骨格も男にしては華奢だが、あらかじめ性別を明かさなければ、10人が10人男だと思うだろう。それほど、仕草にも佇まいにも女性らしいなよやかさはなかった。
 しかも、喜多見とはまったく似ていない。顔立ちも、雰囲気も、服装も、およそ近しい人には見えなかった。
 だが志木は、身をもって2人の血のつながりを実感した。
「たしかに血縁だわ。そっくり…」
 ゲンコツで殴られた頭を撫でさすりながら小さく呟く。喜多見もよく拳骨で殴りつける。勢いも角度もそっくりだった。
 志木の呟きに、明良は渋い顔をする。
「この仏頂面の地味顔と一緒にすんなよ。こんな美形つかまえて」
「うん、ホントきれいだよな、あんた」
 志木は素直に思うところを口にした。初めて見たときから、きれいな顔だと思っていた。喜多見の妹だと知っても、強かに殴られても、その感想は変わらない。
「…へえ。素直だな。気に入った」
 明良はにっこりと微笑んで座卓の上に身を乗り出して手を伸ばし、志木の頭をかいぐり撫でた。その撫で方が喜多見に少し似ていて、ついされるがままくしゃくしゃに髪をかき乱されるのを許してしまう。
「明良」
「ハイハイ〜っと」
 喜多見に名を呼ばれ、やっと明良は手を離した。
「返事は1回」
「はーい」
 明良は返事をしておいてからさらに身を乗り出して志木に顔を寄せ、声のボリュームを落として問いかける。
「なぁ、おまえ兄貴のどこがいいわけ?」
「どこって――」
「明良」
「ハイ、黙ります」
 音量は同じだが先ほどより低めの声でもう一度名を呼ばれ、明良は慌てて志木から離れた。
 志木は困惑気味に眉を寄せて、見た目はまったく似ていない兄妹を見つめる。
「あの、さ……知ってるってまさか――」
「んん? 兄貴の恋人が男だってのも、それがおまえだってのも知ってるっていう意味だよ」
「……」
 あまりにあっさりと答えられ、志木は言葉が出なかった。平然とした表情の明良に驚きさえ感じる。
 志木自身は、相手が男だろうが女だろうが個人の自由だといまは思っている。しかし、そうは思わない者の方が遙かに多い。肉親ならなおさらだろう。
 それを、両親を亡くしている喜多見にとってはたった1人の家族である妹が、こうも平気な顔をしていていいのだろうか。
 そんな志木の疑問を察したのか、明良は笑みを浮かべた。
「そういうので隠し事はないんだよ、ウチは。私も人のことは言えないしね」
「え?」
「私は女の子大好きだから」
「――……なる、ほど……」
 志木は呆然としつつ深く納得した。明良の隣に男が立っている光景は、相手がどんな男であれ想像し難い。
「小さい頃から男の子と遊ぶ方が好きで、両親が死んでからも、この人がこれで家のこと何でも出来ちゃうし、女の子らしくしろと言われたこともなくってね。おかげで自然体でいられる」
「…喜多見らしいな」
 無表情で言動が堅いのもあって考え方と性格も堅物に見えがちだが、決してそんなことはない。むしろ、自主性を大事にしてくれる。
 明良に問われた答えのひとつがここにあった。ありのままを見てくれる喜多見を、志木は好きになったのだ。
「ま、もともと胸は小さいし背も高いから女の子のかっこうは著しく似合わないんだけど。――で? 兄貴に会いに来たんだろ? 話があったんじゃないのか?」
 座卓に頬杖を突いた明良が志木に訊ねる。志木ははっとして、それまで黙って志木と明良の会話を聞いていた喜多見に視線を移した。
「か、体――! 体は? 大丈夫なのか?」
「ただの気管支炎だからな。もう大丈夫だ」
 喜多見の答えはすぐに返ってきた。平坦な声と変わらぬ表情に、本当に入院していたのかと疑念が浮かぶ。その疑念に答えてくれたのは明良だった。
「ただの、じゃないだろ。喘息一歩手前だったくせに。しかもひっどい夏風邪ひいて。体調悪いときは学校休めっていうのに」
「テスト前で休める時期じゃなかったんだ」
「え……ずっと具合悪かったのか!?」
 テスト前といったら、1ヶ月半も前だ。球技大会の日もあれだけそばに寄ったのに全く気付かなかった。
「つまりこの馬鹿兄は、体調悪いのをズルズルと誤魔化し続けてきて、挙げ句に無理をしたのが祟って、とどめに馬鹿の証明をしてぶっ倒れたわけだ」
 明良が志木に視線を遣ったまま親指で喜多見を指し示し、辛辣な言葉で簡潔に事の経緯を説明した。それを聞いた喜多見は、表情を変えずに嘆息する。
「……もっと他に言い様はないのか?」
「しかもそれが愛犬のためだっていうんだから始末に負えないよな」
「あいけん?」
 明良の言に、志木は首を傾げる。この家には飼い犬などいないはずだ。
「愛犬」
 明良はひょいっと志木を指さした。志木は驚いて自分で自分を指さして目を瞬いた。
「犬みたいな奴だって聞いてたからどんなカワイイのが出てくるのかと思ってたら、でかくて立派な成犬だし。たしかにこれまでちっちゃくて可愛い系の恋人は見たことないけど」
「がさつで猛進型だが、これで結構可愛いぞ」
「ハイハイ、ごちそーさま」
 本気でそう思っているのかと問い質したくなるほど平静な表情で惚気る喜多見に、明良は笑って腰を上げた。
「出掛けてくるよ。3時間くらいでいい?」
「……いや、24時間」
「あ?」
 立ち上がりながら喜多見に訊ねた明良は、返ってきた答えに思わず問い返し、そして沈黙した。
 数秒間の静寂のあと――明良は声を上げて笑い出した。
「変われば変わるもんだなあ」
「さっさと行け」
「ハイハイ、どーぞごゆっくり」
 笑いながらしみじみとした声で言った明良に、喜多見が無情に手を振って追い払う仕草を見せる。明良は怒りもせず、座卓を回り込んで志木の後ろで少し屈んだ。
「わんころ、あんまり無理させんなよ?」
 志木の頭を乱暴に撫でて囁いた明良は、そのまま部屋を出ていってしまった。
 廊下を進む音に続いて、玄関の引き戸が開く音がする。
 それきり、室内の音が消えた。
「志木」
 しばしの沈黙の後、喜多見が志木に向かって手を差し延べた。その行為の意味するところはわかったが、志木は素直に従えず戸惑う。
 嬉しくないわけではない。むしろ、喜多見との間にある座卓が邪魔ですらある。だが――志木は不安げな面もちで喜多見の顔色を窺った。
「もう怒っていないから。…おいで」
 手招かれた志木は恐る恐る近寄って、喜多見の腕に誘い込まれるようにして体を寄せた。
 肩口に額を擦り付けるようにした志木の頭を喜多見の片手が緩く抱く。その距離と手のひらの感触に、緊張と戸惑いがすうっと溶けて消えた。
「…入院したって聞いて、びっくりして――」
「すまないな、連絡もしなくて」
「喜多見が謝んなくても……だって怒らせたのは俺なんだし」
「いや、怒っていて連絡できなかったわけではないんだ」
「え?」
 てっきり、ずっと怒っていたから連絡が取れなかったのだと思い込んでいた志木は、驚いて顔を上げた。
「怒っていたのは1週間ほどか。おまえは叱られた後にはちゃんと反省する奴だから、今度も悄気ているだろうと連絡しようとした矢先に風邪を引いてな」
「……そんなに酷かったのか?」
 つい最近まで、本当の意味では納得出来ていなかったとは口が裂けても言えない。しかし、電話もできないほど具合が悪かったのだろうか。
「いや、電話ぐらいは出来たんだが、とにかく咳が止まらなくて――風邪をひいたと知ったらおまえ、看病しに行くと言い出しただろう?」
「あたりまえだろ! あんた1人暮らしなんだし」
「だから……おまえにはアルバイトも就職活動もあるのに、私の自己管理がなってないせいでおまえの時間を無駄には出来ないだろうが」
「…あんたは……ッ」
 断定的に言い放つ喜多見に声を荒げかけた志木はそれを飲み込んで、様々な感情の入り交じった顔を歪めて深い溜め息をついた。
「あんた、甘え下手すぎ……」
「明良にもよく言われる」
 脱力した志木に、喜多見が苦笑を浮かべて返した。
「遠慮しているわけでも甘えたくないわけでもないんだ。これでもかなり好き勝手やっているつもりなんだが、そうは見えないらしい」
 淡泊で、感情の振り幅が小さく、精神的に強い――他人にすがる必要はない人だと思っていた。
 振り回されるのは自分が未熟者なせいだと志木は思っていたが、喜多見にも甘えたいときがあるのか。なにやら新鮮な発見だ。
「そのぶん言葉を増やせと明良にも言われるんだがな、これもまた難しい」
 喜多見は軽く溜め息をついて志木を見つめた。
「おまえとは会話がなくても間がもたないと思ったことがないから、つい話さずに済ませてしまいがちになる」
 沈黙が苦ではないと思っていたのは志木だけではなかったようだ。自分だけではなく喜多見も同じだという事実に嬉しくて体が熱くなる。
「これからはもう少し言葉にするように努めるから、おまえもわからない時は口に出して聞いてくれ」
「……じゃあ、聞いてもいいか?」
「なんだ?」
「いま、どんな気持ち?」
「わからんか?」
 喜多見が首を傾げた。
 瞳は静かで声のトーンもいつも通り、表情は言わずもがなだ。しかも、喜多見に対するなけなしの自信がぐらぐらに揺らいでいる志木にはなおさら判らない。
 喜多見の手が志木の頬に伸びた。ひと撫でして、ゆるゆると柔く叩く。志木の好きな、あやすように宥めるように志木を撫でる喜多見の手。
「久しぶりにおまえと会って嬉しくないとでも?」
「もっと嬉しそうな顔してくれりゃあ俺にもすぐ判るんだけど」
 たしかに、1年近い付き合いで感情の変化が見て取れるようにはなっている。しかしそれはあくまで変化のみで、細かいところまでは読み取りきれないのは相変わらずだ。
 幾分柔らかいまなざしから喜楽のいずれかだろうとの推測はつくが、それがどれくらいの喜びなのかは志木には判らない。
「言葉数はともかく、いまさら表情豊かにはなるのは無理があるな」
「…ごめん、わかってるよ。言ってみただけ」
 喜多見の表情の乏しさは変えようのない性質だ。いまさら豊かな感情表現をされても逆に困ってしまうだろう。
 感情が読めなくて不安なのは、志木に自信がないからだ。一時はそれなりに愛されているだろうほのかな自信があったのだが、日が経つごとにそれは曖昧に拡散していった。
 追いつけない年齢や経験の差を思い知らされるたび、早く喜多見に見合う男になりたいと焦るたび、じわじわと胸の奥に不安の澱が溜まってゆく。
 普段は意識していないそれが、この夏に一気に溢れ出た。一度溢れたそれは止どめようがなく、喜多見を失いたくないあまり臆病になって、会いに来るのにこんなにも時間がかかってしまった。
「――ごめん」
「ん?」
「ごめんなさい」 
 志木は居住まいを正して、畳に手をついて謝った。
 この行為自体、志木の自己満足なのかもしれない。けれど言葉だけでは足りない。言葉以上に謝意を伝える方法を、他に知らない。
「ごめんなさい――」
「頭を上げなさい。…私こそ悪かった」
「なんで? 悪いの俺じゃんか」
「自分本位な腹の立て方をした」
「自分本位? なにが?」
「おまえが止まらなくなるのをわかっていて、はねつけきれなかった私も悪い。それなのに、おまえとの時間を作るために私がどんなに苦労をしていると思っているのかと、そんな考え方をしてしまった。私がそうしたくてやっていることなのに、おまえに責任転嫁して1週間も引きずってしまうとは、私もまだ青いな」
 初めて聞く言葉に、志木は驚きを隠せなかった。
 3年生の担任になって忙しさが増したはずなのに、週末には極力会ってくれていた。言われてみれば、自宅で仕事をする姿を何度か見ている。
 苦労して仕事を調整してくれていたのだと初めて知った。そこまでして何かに執着を見せる喜多見を、志木は知らない。
「……俺のためって、そういうことか――」
 明良の言った“愛犬のため”という言葉が思い出されて、志木は呟いた。
「夏休みはしばらく、休みに入る前以上に忙しくなるとわかっていたからな。出来るだけ試験休み中に時間を作ろうと思ったんだが、少し自分を過信しすぎた。体力には自信はあったんだが」
 喜多見の唇に微苦笑が浮かぶ。
 いつでも余裕綽々で志木より何倍も上手な喜多見のこれまで見えていなかった面に触れて、志木はたまらなくなって喜多見を抱きしめた。
 どうしてひと月近くも喜多見に触れずにいられたのだろう。腕の中の体の質感をいま一度自分の体に覚え込ませようとするかのように、志木は腕に力を込めた。
 喜多見の腕が、志木の背に回される。
「とりあえず、もう少しわかりやすく甘えてみようと思うがいいか?」
「…ん。俺、まだまだ頼りねえけど、それでもよかったら甘えてほしい」
 どちらからともなく腕を緩め、どちらからともなく唇が近づいた。
 ひさしぶりのキスは、目が眩むほど甘く熱い。
 嬉しさと甘さに酔っていると、喜多見の手が志木のTシャツの中にするりと忍び込んで来た。身を捩って避ける間も与えずに、もう片方の手がズボンの前ボタンを外してジッパーを引き下げる。
「…ってコラ! 病人がなにやってんだよ!」
「もう治ったと言っているだろう。それともするのは嫌か?」
「嫌なわけねえだろ。してえけど、でも」
 志木はちらりと窓外を見遣った。
 まだ真っ昼間で、太陽は燦々と照っている。蝉の声も喧しい。しかも喜多見は病み上がりだ。
 突き放しきれずに躊躇っていると、喜多見が志木の唇を啄むように口づけ、滅多に見せないにこやかな笑顔を見せた。
「甘えていいんだろう?」
 志木の顔が、サッと朱色に染まる。
「ば……ッ――っとタチ悪ィな、あんたは!」
「心外だな」
 耳まで真っ赤にした志木に平然と返す喜多見が憎らしく、その倍も恋しくて、志木は言葉に詰まって黙り込んだ。
「――寝室行って待っててくれ」
 やがて志木は、絞り出すようにそう口にして、喜多見の体を押しやって立ち上がった。
「戸締まりして、バイト先の先輩に口裏会わせてもらって、家にも電話すっから。あと、ここ来るまでに汗かいたから風呂借りるぞ」
「かまわないが――」
「……泊まってくからな。いまさらダメなんて言うなよ?」
 廊下に抜ける襖の前で、背中を向けたまま志木は言った。
「言わないでやるよ」
 部屋を出ていく志木に、喜多見は笑い混じりの声を投げかけた。

 窓を閉め切った冷房もない部屋の中で、汗だくになりながら抱き合った。
「喜多見…? キツくないか…?」
「……っ…いいから続け――」
「ダメ。キツいならやめる」
「…この期に及んで?」
 睨んだ志木に、ちらりと視線を下方に向けた喜多見が返す。そこはもう、触れもしないのに固くなって熱を帯びている。
「…我慢する」
 志木は、精一杯表情を引き締めて断言した。それを聞いた喜多見が苦笑を浮かべる。
「大丈夫だから」
「無理してないか?」
「していない。だからそんなに焦らすな」
「え?」
「ここでやめられたら私も困る」
 喜多見は志木を抱き寄せ、耳元に唇を寄せた。そして、吐息と共に囁く。
「ひと月と8日分…してくれ、瑞帆」
――うわ…ッ
 志木は耳まで真っ赤に染めて、胸の中で叫んだ。
 この手のことを喜多見が言うのは初めてで、しかも唐突に名前で呼ばれてやたらめったら気恥ずかしい。だが、春に泊まりがけで出掛けて以来呼ばれることのなかったそれが妙に嬉しくもある。
 春先までは名前で呼ばれるなど堪え難いことだったのに、喜多見に口にしてもらうとくすぐったくはあるが嫌だとは思わないのは何故だろう。
「…何回?」
 志木は、喜多見の体を抱き返して尋ねた。
「質次第」
「……了解」
 答えて、喜多見の耳を軟骨に沿って舐め上げた。耳朶を甘噛みすると、志木を抱き締めた喜多見の腕に力が籠る。
 体をずらし、顎から首筋へ、首筋から鎖骨へ、鎖骨から胸へと軽く啄むように唇を押しつけ、下方へ移動して行く。腰骨の辺りを少しだけきつめに吸うと、志木の頭部に添えられていた喜多見の手が髪の毛を掻き乱した。
 内腿を撫でていた志木の指が中心へと場所を変え、喜多見のものを捉える。
「……ぁ…ッ」
 双玉を揉みしだきながら先端に口づけると、喜多見の体が小さく跳ねて唇から微かに声が零れた。
 志木は間を置かずに、するりとそれを口に含む。口腔に閉じ込め舌先で弄うと、喜多見の爪先が敷布を滑り、深いしわを作った。
 志木は喜多見のものに舌を這わせながら、空いた片手で自分自身を手荒く扱く。それはさほど待たずに隆と立ち上がり、志木は宥めるようにそれを撫で、心の中でもう少し我慢してくれと頼んだ。
 絶え間なく続くかまびすしい蝉の鳴き声が、違う世界のもののように遠く聞こえる。
 室内に響くのは荒い息遣い、衣擦れの音、舌先の動く濡れた音、時折あがる小さく喘ぐ声。
 睦言さえないが、ひどく甘くせつない。
「…入れていいか…?」
 はち切れそうな情欲を堪えて、その瞬間の喜多見の苦痛が和らぐように指と舌で丹念にほぐしてから志木は尋ねた。
 息の上がった喜多見の唇からは明確な返答はなかったが、伸ばされた手が志木の頭をそっと撫ぜる。
 志木はそれを了解の返事と受け取って身を起こした。
 抱き起こした喜多見の腰の下に少しでも楽なように枕をあてがって再びゆっくりと横たえると、ローションを多めに手に取ってその場所に塗り込める。
 濡れた指を滑り込ませると、志木の肩に添えられていた喜多見の指先が皮膚を噛んだ。
 志木はひとつ深呼吸をすると、両足を抱え込んで腰を進ませ、硬くいきり立ったものに手を添えて、喜多見の中へと慎重に押し込んだ。
 入口の抵抗を抜けると、滑りに飲み込まれるようにひと息に進む。それに促されて急くことのないよう自分を抑え、志木はゆっくりと奥を目指した。
「――悪ィ……なんかブレーキ壊れそう…」
 1ヶ月と8日ぶりの熱さと充足感に、すぐにでもリミッターが外れてしまいそうで、志木は呻くように呟いた。
「暴走しちまったらぶん殴って止めてくれ」
 顔を歪ませて苦く笑う志木に、喜多見は荒い息の合間に小さく笑ってその顎に拳を当てた。
「…今度はここにいくぞ?」
「舌噛まない程度にお願いします…」
 志木は苦笑とともに懇願する。そして、ゆるく腰を振った。
「……っ」
 上腕に添えられているだけだった喜多見の手指が、志木の首に縋るように回される。
 もはや止どめようのない熱に背中を押されるように突き上げ続けると、ひゅっと短く鋭い音を立てて喜多見の喉奥に吐息が飲み込まれた。
 志木は上体を倒して、強く弱く腰を打ち付けた。濡れた音を立てて志木のそれが奥を突くたび、喜多見の息が乱れてゆく。
「んっぁ…瑞、帆…ッ」
「…きたみ……っ」
 堪らない気分に駆られて、志木は喜多見に口づけた。
 肌に触れる吐息も、合わせた唇も、絡めた舌も熱い。
 志木を締め付ける喜多見の中は、ことさらに熱を帯びている。
「…は、あ…瑞…っ熱――」
「あんたも熱い…よ…」
 常に志木より体温の低い喜多見の、いつになく熱く上気した体に覆いかぶさるようにして抱き締めて、志木は吐息混じりに呟いた。
 抱き締めたままより深い場所を目指して最奥を突く。
 腕の中の体が、2度3度と震え、その指先が志木の背に爪を立てた。荒い呼吸の谷間を縫って、とめどなく声があふれる。
「……あッ! ――ぁ…ッみず…ほ……もう…ッ」
 喜多見の中に誘い込まれるようにきつく締め付けられて、志木は眉根を寄せて全てを吐き出してしまいたくなる衝動に耐えた。
 まだ、もう少し――出来るだけ長くこの心地よい切なさの中にいたい。
「あ、あ…ッあ」
「…し、あき……芳秋…――」
 無我夢中で、喜多見の名を呼んだ。
「――あ、…――ッ!」
 声にならない声が志木の耳元で掠れて消え、腕の中に閉じこめた体が小さく痙攣した。
 哀しくもないのに無性に泣けてきて、志木の頬を涙がひとすじ伝って落ちた。
 
 流水にくぐらせて固く絞ったタオルで喜多見の汗を拭い、志木はその頭部を自分の膝上にそっと降ろした。
 喜多見は、志木のやるに任せたままじっとしている。 
 事が済んでひと息ついた途端に激しく咳き込んだ喜多見の大丈夫だと繰り返す主張を、志木は頑なに受け付けず右から左に聞き流した。
 水にさらされて温度を下げた志木の右手が、おとなしく志木の片膝に頭を乗せている喜多見の額に触れる。
「……おまえの手が冷たくて気持ちがいいなんて珍しいな」
「――おい、熱まであるんじゃねえだろうな?」
 喜多見の頭上から覗き込んでいた志木の表情が険しくなる。喜多見は手を伸ばして、志木の頬をぴたぴたと叩いた。
「大丈夫だと何度言えばわかるんだ?」
「だって咳――」
「ちょっと噎せただけだと言ってるだろう」
「……俺は、無理させるためにあんたとしたかったわけじゃねえんだからな」
「…わかってる」
 僅かに微笑んだ喜多見が、志木の左手をとって引き寄せた。そして手のひらにに口づけてもう一度笑みを浮かべる。
「悦
(よ)かったよ」
 不意打ちに、またもや顔に血を上らせて言葉に詰まってしまった志木に、手のひらの影で喜多見がくつくつと笑った。
 当分のあいだ勝てそうにもないと、志木はほろ苦い顔で窓の外に目を遣り息をついた。
 少しだけ開けた窓の隙間から、たそがれ時の風が入り込んでくる。まだまだ外気は熱いが、火照った体には気持ちのいい風だ。蝉の声はだいぶ音量を下げ、どこかで風に揺れている風鈴の音が聞こえてくる。
 朱色に変わりつつある空をぼんやりと眺めていたら、喜多見の手が顎の下に伸びてきて、指先が志木の顔を喜多見のほうへと引き戻した。
「言い忘れていたが、連絡できなかったのはもうひとつ理由があるんだ」
「え?」
「私が出歩けないのをいいことに、明良がおまえにちょっかい出しそうだったから」
「明良…さんが?」
「あいつにかかったらおまえ、恰好の遊び甲斐のあるオモチャだぞ」
「……たしかにそんなような気がするよ…」
 志木は少し考えて、苦笑を浮かべた。喜多見よりも数段表情は豊かだが、言動に似ているところがある。喜多見にもこれだけ振り回されているのだ。明良にも上手く遊ばれそうである。
「あーもー馬鹿みてえ…」
 志木は、片手で顔を覆って、続いて髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。
「何がだ?」
 何度も電話をしたが拒絶されるのが怖くて留守電も入れられなかったこと、約束も確認もなしにこの家に来たことがなかったので尻込みしていたこと、決死の覚悟で来てみれば若い色男がいて完全にフラれたと思って逃げ帰ってしまったこと――志木は、情けないことは百も承知で、このひと月のことを素直にぶちまけた。
「明良を男と間違えるのはわかるが、ふられたなんて、なんだってそんな勘違いをしたんだ?」
「だって兄妹だなんてわかんねえよ。似てねえしさ」
「私は父似で、明良は完全に母似だからな。だがおまえ、仏間の写真を見たこともあるだろうに」
「顔をじっくり確認する余裕なんかなかったんだよ。抱き合ってたし」
「あまり無理なさらないでね、お兄様」
「は?」
「おまえが見たというその時、あいつが私に言った台詞だ。言うまでもなく皮肉だがな」
 喜多見は溜め息をついて、志木の顔を見上げた。
「その場で確認すればいいものを、こんなクマまで作って――」
 手を伸ばして目の下を撫でる。よくよく鏡で顔を確認してこなかったが、たしかに寝不足続きでひどい顔をしているかもしれない。
「……あんな思いっきり殴られたら、こりゃもー嫌われたって思うだろ」
「股間を蹴り上げられなかっただけいいと思うが」
「あんたなぁ〜あの後どんくらい立ち上がれなかったと思うんだよ!」
 吐かなかったのが奇跡だと思うほどの衝撃だった。10分以上は立ち上がれず、サッカーの試合にもギリギリで間に合ったのだ。
「そりゃ俺が悪いんだけどさ…」
 喜多見が意外に手が早いと知っていて怒られそうなことをやったのだ。仕方がないとも言える。あの勢いで股間を蹴り上げられていたらと思うと、少しゾッとした。
「まあ、間に合ってよかった」
「何が?」
「明日だろう? おまえの誕生日」
「――あ」
 すっかり忘れていた。
 喜多見との距離が近づいたのは昨年の誕生日の直後だったため、2人で迎える誕生日は初めてだ。
 家族はプレゼントをくれるが、もう小さな子供の頃のように人を集めてささやかなパーティなど開くようなこともない。
 それなのに、好きな人に祝ってもらえると思うとなんだか嬉しい。
「何か欲しいものはあるか?」
 喜多見が尋ねた。考えてはみたが、これといって欲しいものはすぐには思い浮かばない。
「じゃあ……また泊まりに来てもいいか?」
「――わかった。だが明日の夜は帰れよ?」
 父親が亡くなってからほとんど外泊をしたことはなく、付き合っている人がいることも家族は知らない。突然2日も続けて家に帰らなければ、不審に思うだろうし心配もするだろう。
 喜多見の言わんとすることをすぐに察して、志木は頷いた。
 これまでどんなに言っても泊めてはくれなかったので、了承してくれただけでも嬉しい。それなりに愛されているだろうというほのかな自信も復活した。
 しかしそれに浮かれてしまわないよう、志木は自分で自分の心の手綱を引き締めた。
 もう、繰り返したくない。
 志木は喜多見の手をとり指を絡めた。そしてそれを口許に運んで指先に口づける。
「…あ」
「……ん?」
「――心臓の音、が」
 つないだ指の合わせた箇所から、トクトクと鼓動が伝わって来る。
 肌に伝わるぬくもりも、体に感じる重みも確かなものなのだという証しのような気がして、志木は小さく微笑んだ。

−終−



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