Vol.8 『螺旋階段』


 空は夏空で快晴。
 気分と反比例するかのような天気の良さに、志木は半ばヤケクソな気持ちで自宅を出た。
 通い慣れた道を自転車で通り抜け、いつもの駅前の駐輪場に停めて待ち合わせ場所に向かう。
 細かい場所は聞かなかったので、新しい駅舎になってから雰囲気の変わった駅前のロータリーを背にして駅に視線を向けて立った。
 9時50分。この暑さの中、少し早く着きすぎたようだ。
 今日志木を呼び出した張本人・岡本可南子の昨夜の様子を思い出し、物憂い気分が蘇る。しかしすぐに頭を振って、それを追い出した。
 ほとんど寝ずに考えても、可南子の考えていることなど皆目解らなかったのだ。もう、本人に聞くしかない。詳しいことは明日話すと、昨夜可南子は言ったのだ。
 日差しに熱せられたガードレールに腰を下ろし、ぼんやりと行き交う人の群を眺めたいたら、ふと体に影が掛かった。
「早く着いたの? 日陰で待ってればいいのに」
 見上げたそこに、可南子が立っていた。
「ごめんねー。涼しいところで待ち合わせにすればよかったね。……志木?」
 座ったまま黙っている志木に、可南子が訝しげに首を傾げた。
「ああ、いや――そういうかっこう初めて見たから」
 修学旅行の時と、そのほかにも何度か私服を目にする機会はあったはずだが、たいていカジュアルなジーンズ姿だった。
 今日の可南子は、ノースリーブのシノワズリなトップスに、脇の浅いスリット付近に小花の刺繍があしらわれたデニム地のミニスカート、足元はスカートと同色のデニムのサンダルと、カジュアルだがこれまで見たことのないタイプの服装だ。
「おかしい?」
「いや、全然」
「足、あんまり細くないから短いのは滅多に履かないんだけど――」
「太くもないだろ。俺はそんくらいがいいと思うけど」
「……そう?」
「おう。おまえのこーゆーのも初めて見るな。どうなってんの、これ?」
 志木は、ピンであちこち留められている可南子の髪の毛先を指先ですくい上げて尋ねた。
「え? だからこう、ひねってアメピンさして――」
「ふうん。かわいいな」
「――服が? 髪型が?」
「おまえが。…あちィな。ちょっと日陰入ろうぜ」
 さらりと言って、志木は歩き出した。可南子はその背中を見つめて立ち尽くす。
 何歩か歩いて、ついてこない可南子に気付いた志木が振り返った。
「岡本?」
 可南子は困ったような驚いたような微妙な表情を改めて、眉間にグッと力を入れて志木へと駆け寄った。
「なんの計算もなくそういうことをサラッと言えちゃうとこがタチ悪いのよ、あんたって」
「? そういうことって何が?」
 怒っているように見える可南子の言い分が、志木にはよく解らない。
 思っていることを素直に口に出してしまうぶん失敗もするのだが、それが相手にとって誉め言葉になると別の意味で始末が悪い。
 志木を知らない者には単に口が上手いだけに聞こえるだろうが、知っている者には思った通りのことを素直に口にしていると解るので、気恥ずかしいやら照れくさいやら嬉しいやら――
「なんでもない。行こ」
 可南子は笑ってしまいそうになる口許を引き締めて、志木の手首を引いて駅の中へと進んだ。

 定期券で改札をくぐらされてから、いつも通学で使う路線の電車に乗り込んで座席に並んで座るまで、可南子はひと言も口をきかなかった。
 上り列車なので乗客もそれなりに多く、座席は全て埋まっている。
「どこ行くんだ? 学校……じゃねえよな?」
「もうちょっと先まで」
「茅ヶ崎?」
「も少し先」
 可南子の答えは簡潔で、表情はどこか険しい。電車に乗る前の様子から自分が怒らせたのかと思った志木だが、何に怒っているのかよくわからない。
 30分ほどは窓外の景色を眺めて耐えたが、ついに堪えきれなくなって志木は口を開いた。
「あのさ」
「なに?」
「怒らしたんなら謝るから、何に怒ってんのか教えてくれねえかな」
 突然の志木の質問に、可南子はきょとんとして首を傾げた。
「…怒ってないよ?」
「じゃあどうして眉間にしわ寄せてんの」
「ええ? そんな顔してた?」
「ああ」
「あ〜〜……ごめん。緊張してるんだわ、たぶん」
「なんで?」
 たしかに久しぶりに親しく会話をして、2人きりで出掛けるのは初めてだが、そんなことで可南子が緊張するとは思えない。
「ここじゃちょっと……着いたら話すから」
「詳しく話すって、ゆうべ言ってたことか?」
「うん、そう」
 頷いた可南子は、またそのまま黙ってしまった。
 取り付く島もないその態度に少し苛立ったが、可南子がだんだんと沈痛な面持ちになるに従ってかえって心配になってきた。
 そしてあれこれ考えているうちに、可南子が昨夜少しだけ語った付き合っている人が云々ということを思い出す。その手の話に慣れているほうではないが、なんとなく今日の自分の役割が読めたような気が志木にはした。
 それにしても、沈黙がこんなに落ち着かないものだとは思わなかった。
 喜多見と2人でいるときは、会話はそう多くはない。むしろ少ないくらいだ。それでも志木は、一度も辛いと思ったことがない。
 ――もう、ずいぶん会ってないな……
 ぼんやりと喜多見を思う。
 球技大会の日が、会話を交わした最後だった。終業式の日は姿は見掛けたものの話す機会がなく、翌週は会うどころか電話にも出てもらえなかった。
 志木は溜め息をついて窓の外に広がる空を見た。よく晴れて、憎いくらいに鮮やかだ。
 なんとなくその青さが厭わしく、志木は目を閉じた。
 そんな、端から見たらまるで喧嘩中のカップルのような空気を漂わせた2人は、結局ろくな会話もなく目的地の駅に降り立った。
「何から話せばいいかな」
 改札口に向かって歩きながら、やっと可南子が口を開いた。
「歩きながらでゴメンね。立ち止まって話すと、誰かに聞かれるような気がして」
「かまわねえよ」
 志木は可南子の意図を察して頷いた。
 並んで歩きながらの会話は広範囲には聞こえず、すぐ近くをすれ違っても一瞬しか耳に入らない。電車の座席や喫茶店などで話し込むより、よほど人の耳に入る率は少ないだろう。
「えっと……ゆうべ、付き合ってる人がいるって言ったでしょう?」
「ああ」
「広田さんって言うんだけど――高校の先生なの」
 可南子は、小さな声でぽつりと言った。
「え……って、ウチの教師!?」
「ううん、北高。部活でね、年末に交流試合があって、そのとき好きになって……北高の女バスの顧問の先生なんだ」
 そういう可南子は女子バスケット部のレギュラー選手だ。
「いつから付き合ってンだ?」
「2月の終わりから」
「――で? その人が…?」
「うん。夏休み前にね、距離を取ろうって言ってきたの」
 可南子が言うには、誰にも内緒にしてこっそりと付き合っていたが、それなりにうまくいっていて、喧嘩もしたことがなかったらしい。
 どうして突然そんなことを言われたのか訳が分からず電話を掛けたが、相手はいっこうに出てくれない。それならと北高の近くや自宅で待ち伏せをしたが、上手く逃げられてしまい会うことも出来ない。
 どうもおかしいと、北高に知り合いがいるという友達を通じてそれとなく探ってみたところ、内々で済まされたらしいが期末テスト前に生徒との交際が学校側に露見して処分された教師がいたという。
 きっとそれが原因だ、と可南子は言った。
 志木は、話を聞きながら苦い思いが溢れてくるのを止められなかった。喧嘩は何度かしたが、それ以外のことがいちいち自分と重なって、思いも蘇る。
 なぜ可南子が相談相手に自分を選んだのか、志木はやっと理解した。
「そうか……それでか」
「うん…。脅すようなまねしてゴメン。でも、あたしのほうから避けるみたいにしてずっと話してなかったのに、相談に乗ってほしいなんて言えなくて――」
 可南子は立ち止まり、申し訳なさそうに目を伏せた。そして改めて志木を見上げて訴える。
「ごめんなさい。志木と喜多見のことは誰にも言ったことないし、言い触らしたりなんかしないから」
「ああ」
 志木は重ねて問い質すこともなく頷いた。可南子の眼差しは真摯で、嘘をついているようには見えない。
「ホントは自分1人でどうにかしたかったけど、もう…どうしていいかわからなくって」
「…うん」
「悔しいけどあっちは大人で、あたしは子供で、理詰めでこられたら勝てるかわかんないし。だから、味方がほしかったの。話もさせてくれなかったら、その――妬かせてやろうと思って」
 怖々と口にした可南子に、志木は苦笑を浮かべて頷いた。電車の中で思い至ったとおり、やはり当て馬としての役目もあったらしい。
「いいよ、わかった。協力してやるよ」
 可南子の気持ちが、痛いほどよくわかる。
 決して越えられない年齢の差や経験の差に、歯がみしてやまない気持ちは、志木とて何度も何度も味わった。些細なことだと何度言われても、忘れたふりをしても、刺さった棘のようにいつまでも気にかかる。
 志木は、可南子の背を軽く押して歩き出した。

 2人連れ立ってやって来た公園では3on3の大会が催されていて、なかなかに盛り上がっているようで賑やかだ。
 可南子の付き合っている男はプライベートでチームを持っていて、この大会に参加しているらしい。
「ここ3日間、電話もメールもしてないの。だから油断してるはず――」
 可南子は呟きながら会場を見渡して恋人の姿を探した。
「いた」
「どれ?」
「あそこ、コートの端。いま背の高いドレッドの人と話してる」
 志木は、可南子の指し示した先を目で追って、その姿を確認した。
 まだ若い。20代半ばくらいで、長身で、明るく、いかにもスポーツが好きなアウトドア派という感じだ。
 しかし、会話が途切れた瞬間や視線が泳いだ時、どこかさみしそうに見えるのは志木の気のせいだろうか。
 そんな広田の視線がふと志木たちに向けられ、その表情が驚きに凝固したかと思うと、音を立てて血が引いたかのようにサーッと青ざめた。
 可南子は広田を睨み付けるように凝視したまま移動を開始した。志木はただその後に続く。
 広田は逃げなかった。逃げられなかったのかもしれない。
「広くん。話があるの」
 可南子が押し殺した声で告げたそれに、広田は黙って頷いた。

 試合が全て終わり、広田はひとり輪の中から外れて、志木と可南子の元へやって来た。
 輪は広田の動向を見届ける事なく、楽しげにざわめきながら公園の出口方向へと移動して行った。
 晴れていた空は、いつの間にか薄暗い雲に覆われている。
 向かい合う可南子と広田から少しだけ離れて、志木は可南子の背中を見つめていた。丸い肩が、ほんの少し震えている。
「……ひさしぶり」
 最初に口を開いたのは広田の方だった。拍子抜けするほどありふれた挨拶に、可南子の眉間が険しく歪む。
「……なによそれ」
「なにって……」
「何の相談もなくいきなり“距離を置こう”なんて、そんな、勝手に決めちゃって…っ! 何度電話しても、メールしても無視し続けて、それがなによ! ひさしぶりって――馬鹿にしてんの!?」
「馬鹿になんてしてない」
「じゃあ遊んでるの…?」
「そんなんじゃない!」
「岡本!」
 取り乱しかけている可南子を見るに見かねて、志木は咄嗟に歩み寄り可南子の両肩を強く掴んだ。
 志木は掴んだ肩をひと揺すりしてから軽く叩き、志木を降り仰いだ可南子に少しだけ険しい顔を見せる。
 可南子の表情がふっと緩んで、僅かに笑みが浮かんだ。
「そうだ。少し落ち着いて話せよ。あんたもな」
 志木は、広田に向かって話しかけた。広田のきつい視線が志木に投げかけられる。
「おまえに関係ないだろう。なんなんだ、おまえは? カナの新しい男か?」
「違……ッ!」
 喧嘩腰の広田の言葉に、可南子が慌てて視線を広田に戻した。
 志木は動じず、可南子から手を離しその背を押す。
「俺が新しい男ならあんたと話をしに来るわけないだろ。あんたとのことを相談されたんだよ」
「……男友達にか?」
「俺もガッコの先生と付き合ってるからさ」
「志木!?」
 あっさりと告げた志木を、可南子が顔色を変えて振り返る。志木は肩をすくめて見せて、
「バレちゃ困るのはお互い様だからな、言いふらしゃしねえだろ、先生?」
 広田は黙って頷いた。志木には、その顔が幾分ほっとしているように見える。
「ほら、腹ん中全部ぶちまけろよ」
 志木はもう一度可南子の背を押すように叩いて促し、一歩うしろに下がって再び2人から離れた。 
 可南子は腹の前で両手を組み、目の前の恋人をじっと見つめる。
「……どうして距離を置かなくちゃいけないの…? あたしのこと、嫌いになった?」
「――嫌いじゃない」
 暗くなった空から、雨が落ちてきた。
 大粒の雫の襲来に、可南子も広田も逃げる気配を見せない。志木も、その場を動かずに落ちてくる水滴を体で受け止めた。
「じゃあ、どうして距離を置くなんて言うの?」
「……たとえどんなに真剣に付き合ってたって、教師と高校生は世間には認められないんだよ、カナ」
「わかってるよ。そんなの最初からわかってる」
「わかってない。もし知られてしまったらどうなるか」
「わかってる! 何度も広くんに聞いたし、その手のうわさ話も聞いた。ニュースでも何度か見たよ。そんなの、つきあい始めた時から覚悟してる」
 可南子は引き下がらなかった。強い目で広田を見つめ続けている。しかし広田は、ゆっくりと首を横に振った。
「俺はカナを、そんな目に遭わせたくない。他の男と付き合った方が、カナは幸せになれるよ」
「イヤよ! ろくに会えなくても、デートもできなくても、会えても人のいるところでは付き合ってなんかいないフリしなくちゃでも、それでも広くんが好き……広くんじゃなきゃイヤなの…ッ それだけじゃ駄目なの…?」
「この間処分された先生は、県議員の縁者なんだ。でも俺には何の力もない。気持ちだけじゃ、どうにもならないこともあるんだ」
 可南子の必死な声を、広田は静かに受け止め、そして受け入れずにはね返した。
 雨はますます強さを増し、人影はすっかり消えた。夏の午後の夕立特有の大粒の雨が、立ち尽くす体を強く叩く。
「俺はいいよ。職なくしたって、バイトでも何でも食っていく手段はある。ここにいられなくなっても、別の土地に行けばいい。でもカナは、家族も友達もここにいるだろ。学校だってある。……きっと、辛い」
「……そんなの……」
 譲ろうとしない広田に気圧されて、可南子が弱々しく頭を振った。
「カナが傷つくのは見たくない。誰にも知られていない今ならまだ間に合う。だから――だからもう、さよな――」
 広田は、それ以上言葉を続けられなかった。唇が震え、閉じられる。固く目を閉じて唇をかみしめ、広田は身を翻した。
 呆然と声もなく立ち尽くし、一歩も動けずに男の背を見送る可南子の目から、ほろほろと涙がこぼれ落ちる。
「岡本!」
 志木は可南子の肩を掴んで強く揺さぶった。
「あいつ連れ戻してくるからここで待ってろ! いいな? 絶対に連れてくるからな!」
 可南子の返事を待たずに、志木は男を追って駆け出した。
 バスケットコートを回り込み、両脇に植え込みが並ぶ階段を駆け下りる。
 走り去っていく男に全速力で追いすがり、志木はその上腕をひっつかんだ。
「待てよッ」
「離せ! もうほっといてくれ!」
「あいつが泣いてんのにか!」
 志木の怒鳴り声に、広田がびくりと体を震わせた。志木は力任せに広田の腕を引いて自分の方を向かせ、逃げられないようもう片方の肩も掴む。
「あんたの言いたいこともわかるよ。だけどあんた、結果を勝手に決めて逃げてるだけじゃねえか」
「おまえに何が解る!」
「なんであんた1人で決めちまうんだ。思うこと全部あいつに話して、2人で考えて、それでも終わりにしたくなければ、やりようはいくらだってあるだろうが!」
 毎日でも会いたくて、人目も憚らずデートして、この人が自分の恋人なのだと声高に主張したい。けれど、それよりも大事なのはそばにいたいという思いひとつだ。
 会えなくても、誰にも明かせなくても、そばにいられるならどんなことでもする。
 志木の脳裏に喜多見の姿が浮かんだ。
「たしかにいま別れときゃ、あとあと傷つかないかもしれねえよ。だからって、いまあんたが傷つけるのはいいのか?」
「……傷つけたいわけじゃない……傷ついてなんかほしくないから――」
 志木が畳みかける言葉に、頑なだった広田の態度が揺らいだ。
「卒業まで、あと半年じゃねえか。あいつのこと好きなら戻ってやってくれ。終わりを決め付けて、たった半年を怖がって、あいつを泣かせていいのか?」
「――カナが泣くなんて……」
「あいつ気ィ強えけど、こんな時まで平気なふりできるほど強いと思うのか? そんなん、俺よりもずっとあんたのほうが解ってるはずだ」
 広田はついさっき降りてきた階段を見上げた。
 言葉に出来なかった別れの言葉を口に上せた瞬間だけ揺らいだ瞳が、激しい動揺を顕している。
 そして広田は、何かに引き寄せられるようにふらりと足を踏み出し、アスファルトを叩く雨を蹴散らすようにして一目散に階段を駆け上がった。
 志木は、ゆっくりと広田のあとを追った。階段を上り、バスケットコートを回り込むと、2人の姿が視界に入る。
 すがりつく可南子と、その体を堅く抱きしめる男にほっと息をついて、志木はそれ以上近寄らずにバスケットコートの入り口にあるポールに腰を下ろした。
 先ほどからずっと、喜多見の姿が頭から離れない。声のトーンや、斜め後ろから見た顎と肩のライン、触れる指先の温度――そんなものが、頻りに思い出されてならなかった。
 志木は、雨に打たれるまま項垂れた。
 可南子が言ったこと、広田が口にしたこと、そして自分の言葉を反芻する。
 他人に偉そうなことを言える立場では全くない。己で口にした言葉ひとつひとつが志木自身にも突き刺さる。
 これまでずっと解っているつもりでいたことを、全く解っていなかったのだということに打ちのめされた。
 していたつもりの覚悟も、望んでいたことも、すべて上滑りしていた。
 これでは、喜多見が怒るのも無理はない。
 “そんなことで終わらせたくない”――付き合い始めた頃、広田が言ったことと同じような、周囲に露見した時に予想されることを淡々と上げ連ねた喜多見が、そのあとぽつりと言ったひと言だ。
 そのときの周囲の反応も、全ての責任を被らなくてはいけないだろうことも、喜多見にとっては“そんなこと”でしかなかった。
 そんなことで終わらせないために、怯えず、逃げず、避ける努力をしてくれた。すぐに忘れてしまう志木に、何度でも同じことを言い聞かせてくれた。
 それなのに志木は、心底それを理解していなかった。バレたらバレたでどうにかなると、どこかで思っていたのだ。
 どうにかはなるだろう。学校を辞めて働くのもいい。学校は好きだが、学ぶことにそれほどの執着はないし、実入りが増えるならそれでもいいと思う。
 けれど家族も、友達も、これまで暮らしてきた全てはこの地にある。
 心ない言葉は、志木ではなく家族に向けられることもあるかもしれない。そのとき辛いのは志木ではない。その辛さまで自分で引き受けて堪えられるなど、思い上がりだ。
 まだなお、実感として理解できているわけではない。けれど、かつての自分が腹立たしく思えるほど、見えなかった何かが見えてきた。
 志木は、自嘲気味に唇を歪めた。
 会いたい――。
 狂おしい激情で胸を満たし、志木は目を閉じた。
 どれくらいそうしていたか――人の気配を感じて、目を開けて顔を上げる。
 いつの間にか雨はやみ、可南子がすぐそこまで歩み寄っていた。
 その背後に目を遣ると、広田の姿はまだある。志木は安堵して、視線を可南子に戻した。
「ずぶぬれだね、お互い」
「ああ」
「でも気持ちいい」
 可南子の顔には僅かに笑みがある。
「話、ついたか?」
「これから広くんの家に行って、もっといろんなこと話してくる。そばにいられるように頑張るわ。会えない分たくさん話せばよかったのに、お互い遠慮しすぎてすれ違っちゃってたみたい」
「そうか」
 志木はただ頷いた。可南子の言いたいことがよくわかる。
 喜多見とはもともと会話は多くないが、仕事中かもしれないと電話を掛けかけてやめたことが何度かある。遠慮とは違うのだろうが、喜多見もアルバイトに明け暮れている志木に頻繁には連絡してこない。
「いまさらだけど、広くんって呼んでんだな」
「先生って呼ぶの嫌がるんだもん」
「…ああ」
 言われてみれば喜多見もそうだ。
 志木や可南子が、相手が教師で年上で大人だということに引け目を感じるように、喜多見や広田にも、相手が生徒で年下だということへの葛藤があるのかもしれない。
 可南子が、志木に向かって頭を下げた。
「……ありがとね。無理言ってゴメン」
「いいよ」
「今日、バイトは?」
「夜だから大丈夫」
「喜多見と会う約束あったりしたんじゃない?」
 茶化すように可南子が言った。その途端、冷めた目で自分を見下ろす喜多見の姿が思い出される。
「……あ〜…」
「……志木?」
 歯切れの悪い志木に、可南子が首を傾げた。
 志木は、可南子に見られた保健室で殴られて以降の経緯を大まかに語った。聞いていくうちに、可南子の顔つきが固くなっていく。
 そして全て聞き終わった可南子は、
「ばかじゃないの!?」
「バカって…」
「あたしのことに構ってる場合じゃないじゃん!」
「な…っおまえがバラされたくなかったら付き合えって言ったんだろ!」
「言ったけど、でも、それって――ヤバくない…?」
 恐る恐る可南子が問い掛ける。改めて言葉にされて、不安が倍増した。
「……ヤバいのか?」
「だって2〜3日とか1週間とかじゃないんでしょ? 1ヶ月なんでしょ?」
「うん、まあ――でも3週間以上ろくに会えないってのは初めてじゃないし」
「ばか!」
 可南子が、ひときわ大きな声で怒声を放った。
「連呼すんなよ」
「だって会えないだけじゃなくて向こうから連絡もないんでしょ? 携帯にかけてんなら着信履歴が残るから、あんたから電話あったのわかってるはずじゃない」
「まだ怒ってるんだと…」
「だったらなおさら家まで行ってきなさいよ! 喜多見の家、知ってるんでしょ?」
「ああ…だけど」
「も〜ッ煮え切らないな! 喧嘩したまま連絡も取れないで何週間も経ってるだなんて、自然消滅で破局まっしぐらだよ!?」
 一番考えたくなかったことを可南子にはっきりと言われて、志木は冷たくなった首筋を無意識に手のひらで覆った。
 会いたくてたまらず、胸が熱い。けれど、寒くもないのに、体は無性に冷たかった。


 翌日、志木は可南子からの電話で叩き起こされた。
 時刻は午前9時。
 アルバイトから帰って来てから明け方まであれこれ考え事をしていた志木は、中途半端な睡眠時間で起こされて不機嫌に受話器を取った。
「もしもし?」
『志木! あんた知らなかったの!?』
「って、いきなりなんなんだよ!?」
 唐突に頭ごなしに怒鳴りつけられて、志木の声も荒くなる。
『喜多見よ! 入院したって――』
 耳に飛び込んできた予想もしなかったひと言に、志木は愕然として立ち尽くした。
「にゅういん…? そ――んな、嘘だろ……?」
『こんなん嘘ついてなんになるって言うのよ!』
 学生時代に10年間弓道を続けていた喜多見は、長身なこともあって華奢な感じはなく、見た目にひ弱さを感じさせることはない。
 担任だった頃も、昨秋付き合いだしてからも、喜多見が病欠したことは一度もなかった。
 青い顔をして横たわる喜多見など、先月の球技大会の日に始めて目にしたくらいだ。
 しかし、焦燥と動揺を滲ませた可南子の声が、それは嘘ではないと志木に認識させる。
『女バスに喜多見のクラスで進学コースの子がいるから、今日の朝練の時にどんな様子か訊いてみたの。そしたら、夏休み入って何日かして入院しちゃったんだって』
「……俺、そんなん全然…知らなかっ…」
 志木は蒼白になって、辛うじてそれだけを呟いた。
『しっかりしなさいよ、志木。よく聞いて。大丈夫だから』
「大丈夫って――」
『今日、退院なんだって。その子、杉下センセからそう聞いたって』
「……」
 “退院”という単語にほっとして、詰めていた息を解放した。
 しかし、何の病気で入院したのかがわからない。退院して元気な姿をこの目で見たわけでもない。不安は完全には消えなかった。
『行って来なさいよ』
 受話器の向こうで、可南子が強く促した。
『喧嘩したまま会えなくて、病気して心細いときもあんたはいなくて、このままじゃあホントに終わっちゃうよ?』
「――」
『いい? 絶対行きなよ?』
「……ああ。電話サンキュ」
 今度は自分の番だとでも言うように、可南子が声だけで志木の背を押す。志木は、意識して強い声を絞り出し、受話器を置いた。
 電話を切るなり、志木は身を翻して部屋へと駆け込んだ。
 同じ部屋を半分に仕切って使っている弟が寝ぼけ眼で起き出して何があったのかと声を掛けてきた。電話を取り次いでくれた妹も訝しげにどうかしたのかと尋ねたが、それに答える余裕などない。
 志木は大急ぎで身支度をし、出掛けてくるとだけ言い置いて家を飛び出した。
 通い慣れた道を自転車で飛ばす。
 雪崩のような不安に押しつぶされる前に、喜多見の顔が見たかった。
 たとえ冷たい視線を向けられても、言葉ひとつ交わせなくても、変わりない姿をこの目で見たい。
 車道の車をものともせず、ほぼノーブレーキで駆け抜けて、志木はいつものように喜多見の家の最寄りの公園に自転車を止め、走って喜多見の自宅を目指した。
 もどかしい気持ちでいくつかの角を曲がる。この道を、こんな気持ちで走ったことは未だかつてない。
 最後の角を曲がると、喜多見の家の前にタクシーが止まっているのが見えた。
 降りてきたのが喜多見だと認識した途端、安堵が胸を満たす。
 しかし志木は、咄嗟に物陰に身を隠した。喜多見に続いて、見知らぬ男がタクシーから降りたからだ。
 喜多見より5〜6センチ背が低いが、細身で頭身のバランスが頗る良く、大層な美形だ。肩より長い金茶色の髪を、盆の窪でひとつに結わえている。
 タクシーは走り去り、男と喜多見は二言三言会話を交わした。
 その気安げな様子に、胸が騒いだ。しかし体は動かず、声も出ない。
 刹那、男が喜多見を抱きしめた。男が何かを告げ、喜多見が苦笑を浮かべてその背を柔らかくあやすように叩く。
 そこまで目にして、志木は踵を返した。
 頭は混乱し、思考が纏まらない。胸の中は千々に乱れ、言い様のない感情が去来しては嵐のようにそこら中を掻き乱していく。
 ただひたすらに足は地面を蹴り続ける。どこへ向かうと心にあるわけでもなく、志木はただ駆け続けた。

−続−



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