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Vol.7 『有刺鉄線』
空梅雨と言ってもよい梅雨が明け、連日茹だるような熱さ――もはや“暑い”ではなく“熱い”だ――の中、学生とそれに関わる人々は夏休みに突入した。
もっとも、学生と違って学校関係者は夏休み中でも仕事はある。
そんな学校関係者の電話番号を携帯電話の液晶画面に表示して、バイト先の控え室で志木は深い溜め息をついた。
番号は当然、喜多見のものだ。しかしその番号にはここ半月ほど電話を掛けていない。否、掛けてはいるのだが、一向に繋がらないのだ。
この1ヶ月、志木はバイトや期末テストや球技大会で、喜多見は3学年の担任をしているため主に進路指導や進学コースの生徒の講習に、互いに多忙を極めていた。
そして、期末テストが終わり夏休み前の球技大会の日。久方ぶりに2人きりで会えた喜びに志木は暴走してしまい、喜多見を大激怒させてしまった。
会うこともままならず、電話で短い会話をするだけで、学校内ですら擦れ違う日々がやっとひと段落し、タガが緩みまくっていたのだろう。
謝りたくて、何度も電話をした。けれど、喜多見が電話に出ることはなく、呼び出し音が空しく響くばかりだった。
全教科ギリギリながらも夏休みの補習を免れた志木は、バイトの合間を縫って何度となく学校に顔を出したのだが、喜多見と会って話をしようにも、休みに入ってから今日まで一度も会えていない。
それなら自宅まで行けばよいのだが、これまで来いと言われるか行っていいかと尋ねるかして訪れていた自宅に、何の前触れもなく突然顔を出すのはなんとはなしに躊躇われた。
最後に聞いた喜多見の声とその表情の醒めた冷ややかさ、そして怒りに満ちた背中が思い出されて、会いに行くことを怯んでいるのもある。
どうしても通話ボタンを押せない指を見つめて、志木はもう一度溜め息をつき、頭を抱えて項垂れた。
1学期の期末考査が終了すると終業式までの間が試験休みになるのだが、志木の通う高校ではテストの翌日に球技大会を行う。
生徒達は試験1週間前まで各出場種目ごとに練習を繰り返し、試験のストレスを全て発散させるかのようにテンションの高い本番を迎える。
今年も例年に洩れず、大層盛り上がった大会になった。
そんな中、志木は忙しく走り回っていた。
体育祭と球技大会は、志木の独壇場と言っていい。
さらに体育祭と違い、球技大会では現在所属している部活動と同じ種目に出てはいけないことになっている。
大抵のスポーツはこなせる運動神経の良さに加えて、帰宅部なので出場競技の制約がないため、志木はあらゆる種目にかり出されていた。
サッカー、バレーボール、テニス、ソフトボール等々を傭兵のように渡り歩き、午後2試合目になるバスケットボールの試合中、それは起こった。
屋外コートだったため、あらゆる競技の音や声援が聞こえてくる。その中に、異質のざわめきが飛び込んで来た。
声援とは異なるそれを訝しく思ったが、試合中なので誰かに尋ねることもできない。だが、妙な胸騒ぎがしてならなかった。
「岸田!」
試合が終わるなり、志木はギャラリーの中から友人を見付け出して駆け寄った。
「おう志木、お疲れー。負けちゃったなあ。まあ、他がド素人ばっかだから仕方ねえけど」
「なあ、さっき騒がしかったけどなんかあったのか?」
「なんだおまえ、鼻だけじゃなくて耳も犬並みか」
「きーしーだー」
低く獰猛に唸った志木をものともせず、岸田は志木がざわめきを聞いた方角に目をやった。
「バレーボールに出てたサッカー部のエースの渾身のスパイクが、喜多見の頭に直撃したんだよ」
「…え……?」
一気に血の気が引いた。
「かぶりつきでキャーキャー言って見てた女子を庇ったらしいんだけど」
「…怪我は――」
「杉下センセの手ぇ借りてたけど、自分で歩いてったから大丈夫じゃないかな?」
「……」
「志木? どした?」
不安に駆られて気も漫ろだった志木を、岸田の声が我に返らせる。
志木は、極力不自然でないように視線を戻し、岸田に問い掛けた。
「俺、次の試合何時からだっけ?」
「次ってサッカーの決勝? 40〜50分は余裕あんじゃねーの」
「なんか食って来る。腹減った」
「昼飯食ってまだ2時間ちょいじゃん。牛かおまえは」
「いつもより動いてっからエネルギー足んねーんだよ。時間までには戻るから」
志木は、岸田の返事を聞く間も惜しむように身を翻した。
そして、脇目もふらず駆け出したい衝動を懸命に抑え、足早に保健室へと向かった。
「…昇降口から入ってきなさい」
保健室の窓から姿を現した志木を見るなり、喜多見は呆れたようにそう言った。
志木は乗り越えた窓枠の下に脱いだ靴を横倒しに置いて、簡易ベッドに横たわる喜多見に歩み寄る。
見下ろした喜多見の顔はいつもより幾分青い。
「ボール当たったって聞いて……大丈夫なのか? 顔色良くねえけど」
「軽い脳震盪だ。しばらく横になっていれば問題ない」
断言した喜多見に、志木は体を投げ出すようにベッドの脇の丸イスに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「よかった、ひどい怪我じゃなくて――」
安堵のため息を洩らした志木の手を、喜多見の手のひらが柔く叩いた。
その、いつもよりもひんやりとした手を温めたくて両手で包もうとしたが、喜多見の手はするりと逃げてゆく。
蝉の声が響きざわめきは遠く、室内に人の気配はない。
志木は、仰臥している喜多見の顔をじっと見つめた。
常に沈着で隙を見せない喜多見が、志木の前で無防備に目を閉じている。学校でこんな様子を目にするのは初めてだった。
触れたら怒られるだろうか――志木はそっと腰を上げてベッドの上に身を乗り出し、喜多見を覗き込んだ。
「……志木?」
ふっ、と喜多見の目が開いた。
「キスしたい……」
衝動のまま、志木は囁いた。喜多見の瞳が、志木の顔を凝視する。
「ここはどこだ?」
「……学校……」
「わかっているだろう?」
わかってる。
これまでもさんざん言われてきたことだ。
“学校では単なる教師と生徒”――これを崩さないこと。
わかってはいるし、これまでも言われたとおりにしてきたが、キスくらい許してくれてもいいのにと思う。
他に人の気配もなく2人きりで、ベッドの周囲にはカーテンも引いてある。誰かが保健室に入ってきてから離れても、見つからないはずだ。
「わかってるけど――我慢出来ねえよ」
言いながらベッドに乗り上げた。
「誰もいないし、そんな何時間もするもんじゃねえんだし」
「キスだけで済むのか? なんだこれは?」
「あいてッ」
喜多見の膝で幾分乱暴に股間を押され、志木はそのとき初めて自分のものが反応し始めていることに気づいた。焦らされたことで、より興奮してしまったらしい。
「保健室なんて、いつ誰が来るかわからんだろうが。鍵も閉まっていないのに」
「じゃあどっかトイレの個室とかで鍵閉めて」
「馬鹿者」
上体を起こした喜多見の拳骨が容赦なく飛んでくる。
しかし、それくらいではもう止められなかった。
「キスだけでいいから…」
「こらッ……ッ」
志木はさらに膝を進めて喜多見の逃げ場をなくし、押し戻そうとする手をかいくぐるようにして手を伸ばして、無理矢理に眼鏡を外した。
続いて喜多見の片手首をひっつかみ、眼鏡を手にしたまま腕だけで堅く抱きしめて動きを封じ、噛みつくようにして口づけた。
「ん、ぅ…ッ」
重ねた唇の隙間から、苦しげな吐息がこぼれる。
唯一自由になる片手が志木のTシャツを強く引くが、志木は離れるどころか強引に舌を口腔に滑り込ませ、喜多見の上顎を舌で探った。
そして、言い様のない衝動に駆られるまま、手首を掴んでいた手を離して喜多見のジャージのジッパーを引き下ろし、着ていたTシャツの中に手を差し入れた。
「どこがキスだけだ、馬鹿!」
志木が息を継ごうと唇を僅かに離した瞬間に顔を背けることに成功した喜多見が、自由になった手で賢明に抗いながら小声で叱咤する。
だが、十数日ぶりのキスと体の距離に、気分が高揚している。
さらに、素肌の感触を手のひらが思い出してしまった。すでに体ごと喜多見を求めて火照りだしている。
「もう我慢出来ねえって…」
「志木! やめ――ッ」
指の腹で乳首を乱暴にこすられ、喜多見が喉奥で息を呑んだ。抓るようにつまむと、あふれかかった声を押し戻すように手のひらで口を塞ぐ。
志木の手が喜多見のTシャツをまくり上げ、外気に晒された胸に志木の舌先が触れた。
「あれ〜誰もいないよー?」
唐突に、女子生徒と思しき声と共に保健室の入り口の引き戸が勢いよく引かれる音がした。
志木の体が、夜道でヘッドライトに照らされた猫のように硬直し、ピタッと停止する。
頭の中が真っ白に吹っ飛んでいた。
落ち着いて身を離して静かにベッドから降り、喜多見のTシャツを元通りに下ろせば誤魔化しようはいくらでもあるのだが、そんなことすら思い浮かばない。
「ホントだ。大会本部のほうにいるのかな? バンソーコだけもらっていこうよ」
連れらしき女子生徒の声が答えた。
1台だけカーテンの引かれているベッドに気づかないのか、単に興味がないのか、2人の会話には奥のベッドについては出てこない。
バタバタと室内を動き回る慌ただしい足音と衣擦れの音。
志木は微動だに出来ず、ただ息を殺して彼女たちが去るのを待った。
やがて2人は奥の喜多見と志木に気づくことなく保健室を出てゆき、志木はやっとの事で身を起こした。
そこへ、
「う、ぐ……ッ!?」
強烈な衝撃が、志木の胃の腑の上に叩き付けられた。
「かは…ッ」
瞬間的に息を詰めた体が酸素を求め、志木の唇がそれに応えて開く。同時にぐらりと揺れ、志木は硬めのベッドに倒れ込んだ。
体を丸め、両腕で腹を抱えて、状況を理解しきっていない志木が喜多見を見上げる。
喜多見は、いつの間にかベッドを降りて、ジャージのジッパーを引き上げながら冷めた目で志木を見下ろした。
そしてひと言も発することなく顔を背け、喜多見はカーテンの向こうに消えた。
ひとり残された志木は、引き戸の開閉する音を聞き、廊下を行くゆっくりとした足音が薄れて消えてからやっと、己の身に起こったことを認識した。
拳で強かに殴られた腹が酷く痛んだ。
鬱々としながらも仕事だけはきっちりこなして定刻であがった志木は、往生際悪く携帯電話を見つめながらバイト先を出た。
アドレス帳を検索するまでもなくリダイアルするだけで喜多見の携帯にかかるのだが、たったそれだけのことがどうしても出来ない。
そんな自分が情けなくてやるせなくて、またしても溜め息がこぼれた。
「なに辛気くさい顔してんのよ」
不意に、背中に声を投げ掛けられた。
振り返ると、ガードレールに腰掛けていた若い女が、セミロングの髪を揺らして志木に向かって片手をあげた。
「おつかれ」
「岡本」
思いも寄らない人物の登場に、志木は目を見張った。
岡本可南子は、去年まで2年間同じクラスで、女子の中でも特に話しやすい1人だった。女子バスケットボール部に所属していて、体育会系らしく明るくて活動的な女だ。
しかし、昨年の秋からなんとなく互いに距離を取ったまま進級し、クラスも別れた今では言葉を交わす機会はほとんどない。
「ちょっと話せない?」
「え? ああ、いーけど…」
バイトの後は、喜多見の家に行くことがなければ大抵はただ自宅に帰るだけなので、話す時間はいくらでもある。
だが、志木に原因があるとはいえ、故意に志木から遠ざかったのは可南子のほうだ。その可南子からわざわざ会いに来たことの訝しさに、つい語尾が曖昧になる。
「取って食いやしないわよ。それとも話しもしたくないほどあたしのこと嫌い?」
「お前を嫌いだと思ったことは一度もねえよ」
間を置かずに志木は答えていた。
本心である。距離を取られても、疎遠になっても、嫌いだとは思えない。
「…あんたのそういうとこが憎たらしいのよ。――嬉しいけど」
苦笑して嘆息すると、可南子は志木を手まねいて歩きだした。
公園のブランコに座った可南子に自販機で買った冷たい缶紅茶を差し出して、志木は傍らの鉄柵に腰を下ろした。
固いのか開け難そうにしているのに気付いて、腕を延ばして缶を取り上げ、プルトップを引き上げて可南子に戻してやる。
礼を言った可南子は、そういうところは全然かわんないのねと呟いた。
「それで? 話ってなんなんだ?」
少しもどかしくなって、志木は可南子を促した。
可南子は志木をじっと見遣って、翳りのある表情で視線を落とす。
「――付き合ってる人が、距離を取ろうって言って来たの」
「――は?」
まったく予想外の言葉に、志木はぽかんと口を開ける。
「ちょっと待てよ。なんで俺に?」
かつて気安くクラスメートとして接していた仲でも、彼氏・彼女の話をしたことはほとんどない。可南子は友達も多かった。相談する相手ぐらい、志木以外にもいるはずだ。
「志木だから相談しに来たのよ」
「自慢じゃないけど17年間彼女いねーぞ、俺」
「彼氏はいるでしょ?」
「へ?」
「志木の相手が喜多見センセじゃなかったら、相談なんかしないわよ」
志木は呆然と可南子を見つめた。いきなり頭を強かに殴られて、冷凍庫に放り込まれたような気がした。
じっとりと湿気が絡みつき蒸し暑かったというのに、背中を冷たい汗が流れている。
「な…に言って……」
「あ、やっぱり相手は喜多見で間違いないんだ」
「バカ。冗談キツいぞ」
軽くなった可南子の口調に合わせて軽い調子で返したが、微妙に声が震えてしまった。しまったと思ったが、もう遅い。
可南子は真顔で志木を見上げて、肩をすくめてみせた。
「隠しても無駄よ。ほとんど確信持ててんだから。あんたはともかく喜多見はあの鉄仮面ぶりだからイマイチ読めなかったけど」
「なにを根拠にそんな――」
「あのねぇ…。週末に自分をフったばっかの男が、週明けにはこの世の春みたいな顔してガッコ来てんのよ?怪しいことこの上ないじゃない」
憮然した表情で言い返されて、志木は言葉に詰まってしまった。
去年の夏休み明け。志木に人生初の告白をしてくれた女が可南子だった。
可南子のことは嫌いではなかった。むしろ、気がよくて話しやすくて好きだった。しかし、告白されても気のいい女友達以上の“好き”にはならなかった。
気持ちはとても嬉しかったが、その頃にはもう、想いを止めようがないほど喜多見を好きだったのだ。
可南子の知るところではないが、可南子に告白される直前に喜多見に気持ちを伝える決心をしていた。伝えなくてはダメだと思い、その日、喜多見と会う約束も取り付けていた。
その時はまさか喜多見が気持ちに応えてくれるとは、早くもその夜のうちに想いが叶うことになるとは、夢にも思わなかったのだけれど。
自分ではまったく気付かなかったが、浮かれていたと指摘されても否定は出来ない。さすがに可南子の姿を見ると神妙な気持ちになったが、あのころ夜も眠れないほど嬉しくて舞い上がっていたのは確かだ。
「しばらく様子を見てれば、あんたったらスキップでもしそうな浮かれっぷりで国語科準備室に通ってるし。夏休み前までベンキョーなんてしてなかったのに、どうして急に喜多見に勉強みてもらうようになったのかも怪しかったし」
「そりゃ、ダブるわけにはいかなかったから」
たしかに、勉強を見てもらうという名目で国語科準備室に通っていた。実際進級も危うかったりで、勉強を見てもらっていたのは嘘ではない。
言い訳のしようはいくらでもあった。1年近く喜多見と付き合っていれば、それくらいできるようになる。しかし可南子には負い目があるぶん強く出られない。
しばらくの間、ふたり睨み合うように視線を固定して押し黙った。夜だというのにいまだに鳴いている数匹の蝉の声が、ふたりの他には人ひとりいない公園に響いている。
そして、先に視線を外したのは志木のほうだった。
可南子の気の強さと頑固さを、志木は知っている。そしていま目の前の可南子は、まったく引く気を見せない。男同士でそんなわけがあるかと笑い飛ばしたところで、可南子は絶対に納得しないだろう。
志木は、覚悟を決めて肩の力を抜いた。
「…2か月くらい避けられてた気がすんだけど、なんでそれ黙ってたんだ?」
志木も気まずかったが、可南子は志木以上だったようで、言葉を交わすことはあったが以前ほどではなく、秋も終わるころになるまでは露骨によそよそしい空気を漂わせていた。
可南子は不機嫌そうな視線を志木に送って、
「そりゃ最初はムカついて言い触らしてやろうかとも思ったわよ。喜多見のガードは堅そうだけど、あんたを尾行でもしてみれば動かぬ証拠のひとつやふたつ掴めそうだったしね」
断定的な口調で言われ、志木は身を縮めた。女は怖い…。
「でもまあ、そんなコトしてもどうなるってワケじゃないし。それに、喜多見があんたを選ぶとは到底思えなかったのよ。だからずっと、あんたの片思いなのかと思ってた」
それを言われると、志木も困ってしまう。何故喜多見が志木に応えてくれたのか、いまだに解らないのだ。
可南子は記憶を探るような目をして宙を見上げる。
「でも3年になって、4月の半ばだったかな……現国の先生に用事があって国語科準備室に行ったら喜多見しかいなくて、あの人、窓の外眺めてたのね。その背中が淋しそうだったのよ」
「……淋しそう…?」
「気のせいかなって思ったんだけど、今ならわかるわ」
4月の半ばといえば、ちょうど喧嘩をしていた時期――といっても志木が一方的に怒っていただけだが――で、喜多見から携帯電話をもらった頃だ。
淋しいだろう、と喜多見は言った。誰が、とは言わなかったが――
「決定打はアレね。球技大会の日」
「え?」
意味ありげな可南子の視線に心臓が跳ねた。志木は動揺を顕すまいと、手にしていたコーラを口に含んで心を落ち着かせる。
可南子は判決を下す裁判官のようにハッキリと言った。
「あんた、保健室で喜多見に殴られたでしょう」
「ぶ!」
まさか…と思いつつ、そんな馬鹿な…と打ち消したズバリそのものを口にされ、志木は飲みかけていたコーラを喉奥につまらせた。
「お…まえ……」
鼻のほうにまで炭酸が入り込んでしまい、げっほげっほと激しく噎せながら可南子の顔色を窺う。そんな志木を見て、可南子はにやりと笑った。
「見ちゃった」
「のぞいてたのかよ!?」
手の甲で口元を拭いつつ、志木は顔を赤くして可南子に問い質す。
「人聞きの悪いこと言わないでよー。保健室の外を通りかかったら、殴られたトコが窓から見えただけよ」
「なんでそんなとこ通り掛かるんだ!」
「あたし突き指して保健室行こうとしただけだもん」
喜多見の言うとおりだ。いつどこで誰が見ているかわからない。いまさらながら自分の脳天気さと間抜けさに腹が立つ。
志木は、焦燥感と苛立ちを胸に、額を覆うようにして前髪を掻き乱した。
「ま、気持ちわかるけど。好きだったら一緒にいたいもの。キスしたいし、手も繋ぎたいし、デートだってしたいよね」
「岡本……?」
妙にしんみりとした口調に、志木は顔を上げた。
可南子は紅茶缶を弄びながら少し先の地面を見つめてブランコをゆらゆらと揺らしている。
「ねえ、志木。黙っててほしいわよね?」
「あたりまえだろ」
ちらりと志木を見た可南子に、志木は即答した。なんとしてでも、どんなことをしてでも可南子に黙っていてもらわなくてはならない。
可南子はブランコから立ち上がり、志木に背を向けて残っていた紅茶を飲み干すと、フリースローの要領で3メートルほど先にあるくずかごに向かって空き缶を放り投げた。
缶は見事にカゴに飛び込んで乾いた音を立て、可南子はその音と共にくるりと志木へと向き直り、
「じゃあさ、明日あたしとデートしてよ」
にっこりと笑ってそう言った。
「ああ? デートっておまえ」
「詳しいことは明日話すから。10時に駅前でね」
「ちょッ! 岡本!? 待てってオイッ!!」
可南子は公園の出口へと歩き出しながら時間と場所を告げると、志木の静止も聞かずにあっと言う間に走り去ってしまった。
ひとり残された志木は、可南子の去った先から足元へと視線を移し、
「だって、付き合ってる人がいるって、おまえ――」
呆然と、聞く人のいない呟きを放った。
「なんなんだよ、一体……」
可南子の考えていることがさっぱり解らない。喜多見のことだけでいっぱいいっぱいだというのに、考えることがさらに増えて、志木は途方に暮れた。
混乱の中、自分のしたことは返って来るのだとつくづく思った。
いまそれが、行く手を阻む有刺鉄線のように志木の四方八方を囲んでいる。
手を伸ばせば遮られ、冷たい刺が指先を刺す。
徐々に迫りつつあるそれに、いつの日かがんじがらめにされ、身動きひとつ取れなくなるような気がした。
動けなくなるより先に、刺を恐れず乗り越えればいい――志木は携帯電話を取り出し、喜多見の携帯番号を表示させた。
しかし、やはり指先は動かなかった。刺の痛みを覚えている体が、思考についていかない。
志木は無意識のうちに腹を押さえ、その場に立ち尽くした。
−続−
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