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Vol.6 『副作用』
すっかり夏めいた色合いの樹々が、雨に打たれている午後。
目の前に広げた紙片に視線を落とし、腕を組んでじっと考え込んでいた喜多見は、長い黙考の果てに顔を上げて窓外を見遣った。
五月晴れの言葉が陰暦五月の梅雨の晴れ間を指すとおり、そもそも気持ちよく晴れる初夏の日は多くはない。梅雨入りを目前にしたここ数日も雨続きで、雨がやんでいても雲が立ちこめていて晴れ間の見えない毎日だった。
そして、そんなすっきりしない天候の中おこなわれた1学期の中間テストの結果が、いま喜多見の目の前にある。
正確には、生徒のうちの1人の成績の写しだ。
しばらく雨の落ちる様を眺めていた喜多見は、窓の外から紙片に視線を戻し、書き写した全科目の点数を再度見つめた。
書き記された数字の羅列は、各教科の平均点と追試の基準点、そして志木がこの度の中間テストで叩き出した点数だった。
喜多見が、古文の答案の採点を終えたのは昨夜。今日は授業が3限にひとクラスあるだけだったので、朝のうちに平均点を算出した。
すると、志木の取った点数が平均点を7点上回っていることに気が付いた。
正直、驚いた。昨夏から授業外で勉強を見てやるようになって、赤点の基準ラインは昨年の冬前から超えるようにはなったが、平均点以上を取ったことはまだ一度もなかったのだ。
さらに驚きに追い打ちをかけたのが、昼前に職員室に寄った際に志木のクラスの数学を担当している杉下から聞いた、今回のテストでの志木の点数だった。理数系が苦手で、数学だけはどんなに教えても赤点を免れなかった志木が、今回は赤点ラインより10点も上だったらしい。
二人して驚いていると、通りかかった英語科の新川が、英語もいつもより少し良かったと教えてくれた。
そして喜多見は、残る教科の点数も言葉巧みに聞いて回り、今回のテストでの志木の成績を確認した。
なんと、赤点がない。
もちろん誇れるほどの良い成績ではなく赤点ギリギリの科目もあったのだが、進級できるか否かで慌てていたのはつい3ヶ月前のことだというのに、たいした進歩である。
しかしこの3ヶ月、授業態度もこれまでと変わりなく、喜多見がこれまで以上に力を入れて勉強を見てやったわけでもない。一体、何があったというのか。
いつも志木は、試験が終わり採点も済んだ頃に国語科準備室を訪ねてくる。おそらく、今日あたり顔を出すだろう。
聞き出さなくては、と思った。
不正の可能性を考えているわけではない。志木は、そういうタイプではない。
しかし、特に何もしていないのに突然成績を上げられては、これまで教えてきた自分の何かがいけなかったのではないかと考えざるを得ない。喜多見は、自分の教え方は下手なほうではないと思っていた。本当に教え方に問題があったのだとしたら、喜多見の教師としてのプライドに関わる。
そして、喜多見以外の誰かに教えを乞うているのだとすれば、志木は喜多見にそれを黙っていたことになる。驚かそうとしてのことならばまだいいが、あえて秘していたのなら何故なのか問い質す必要があった。
嫉妬という感情は薄い喜多見だが、後ろめたさで隠し事をされるのは気持ちのいいものではない。たとえどんなに淡泊に見えても、喜多見は彼なりに志木に執着している。
そうは見えないのが、喜多見の厄介なところではあるのだが。特に、志木にとっては。
「バイト変えたからじゃねえかなあ?」
喜多見の問いに、志木はそう答えた。
昼間、国語科準備室で今夜自宅に来るようにとそっと告げられた志木は、素直にアルバイトが終わったあとに喜多見の家を訪ねてきた。霧雨の中を自転車でやってきたせいで、頭髪がしっとりと濡れている。
志木は、手にしていた麦茶を飲み干して、グラスを座卓に戻した。
「変えた?」
「うん。マスダ屋のほうはまだやってんだけど、ここんとこ週3で入れてた工事現場のバイト、入れんのやめたんだ」
マスダ屋は、先の連休で志木に懸賞で当たった宿を譲ってくれた大学生のいるアルバイト先で、酒や清涼飲料を箱売りする飲料専門のディスカウントショップだ。働き始めて1年になる。
工事現場でのバイトはそれより長く、1年生の頃から時折していたらしい。もっとも、体力を使う仕事だし、現場はあちこち変わるし、夜は遅いしで、家族には無理をするなと度々言われているようだった。それでも志木が続けてきたのは、時給が良かったことと、体力に自信があったからだ。
「家族にやめるよう言われたのか?」
「いや、あらためて言われてやめたワケじゃないけどさ、同じ時給であんまり体力使わないバイトが見つかったからさ」
「初耳だが」
「始めたの、連休のあとからだったから。あんた、試験問題作ったり、他にもいろいろ忙しそうだったろ」
たしかに連休後の喜多見は多忙を極めていて、志木は遠慮してか国語科準備室には来なかったし、電話もかけてこなかった。喜多見の家へは二度ほど来たが、二度ともあまり時間がなくゆっくり話をしていない。
「――なるほどな。それで、成績が上がるとはどんなバイトなんだ?」
「バイトのおかげじゃなくって、遅くまで体使ってバイトしなくなったから、寝る前に少しだけどベンキョー出来るようになったんだよ。前は、ウチ帰ってきてメシ食って風呂入ったらすぐ寝ちまってたからさ。一夜漬け以外のテスト勉強したの、高校入って初めてだぜ」
中学3年生からアルバイトに勤しんでいる志木は、高校に入ってから学校の授業以外では全く“勉強”をしてこなかったという。毎日の復習はしていない生徒も多いかもしれないが、テスト勉強すらもしないのでは、それなりの点しか取れないのも道理だ。
「そういうことか…。それで?」
「って?」
「だから、なんのバイトなんだ?」
「あー…うん」
問われた志木は、曖昧に返して喜多見の視線をかわした。素直すぎるほどに素直な志木にしては、その態度は不審だ。
「志木」
喜多見は、志木を真っ直ぐ見つめて、低い声で呼ばわった。志木の肩が僅かに揺れ、おずおずと喜多見を見る。
「おまえ、まさか水商売――」
「違うって! してねえよ!」
疑惑の眼差しを投げた喜多見に、志木は懸命に首を横に振る。
向き不向きは別として、金を得るためだけなら水商売が最も実入りがいい。もっと端的に稼ぎたいのなら、体を売るのが手っ取り早い。東京ほどではないが、ここらあたりでも街の方ではその手の店がひっそりと存在している。
しかし、教師として生徒が水商売のアルバイトをするのは容認できないし、喜多見個人としても志木が体を売ることをかまわないとは思えない。
もっとも、志木の性格と性質からしてそういった職を選ぶことはないだろう。ホストもボーイも向いていないからだ。
案の定、志木はもう一度否定した。
「いくら金が欲しくてもそれはしねえよ。そういうの全然向いてねえしさ」
「それなら、どうして目を逸らす?」
喜多見は切り込んだ。ここから先が本命の質問だ。
やがて志木は、根負けしたように逸らしていた視線を戻した。
「いや、その――小田がさァ」
「小田?」
2年生の時に喜多見が志木と共に受け持っていた生徒だ。今年も志木と同じクラスで、変わらずよく連んでいる。
「バイト紹介してくれたの、小田なんだよ。正確には、小田の姉ちゃんの紹介なんだけど」
喜多見は、記憶の中から小田の家族構成を引っ張り出した。そういえば、大学生の姉が1人いた。
「そんで小田がさ、カノジョに言ったら怒るか泣くかかもって言うから…。なんか、それ思い出したらさ――そりゃ喜多見はそんなことねえだろうけど」
「だったら答えろ。どんなバイトなんだ」
「――モデル…ってヤツかなあ?」
「モデル!?」
予想外の単語が出てきて、喜多見にしては珍しいほど露骨に顔をしかめた。志木に向いている仕事は到底思えない。
「歩いてきてポーズ取るとか、写真撮られるとかじゃなくって、なんつったかな、えーと、骨格? 骨…?」
「骨学か?」
「あ、そんなヤツ。骨と筋肉の動きがなんたらって言ってたな。それに関連したデッサンがどーとかで、小田の姉ちゃんが通ってる美大に行ってんだよ」
人体デッサンを必要とするものなのだろうか。骨学というものは、骨そのものについてを学ぶものだと認識していた喜多見は訝しく思ったが、美大の授業について詳しいわけではないのでしかとは言えない。
ただ、骨と筋肉がどう動いたら人体がどうなるかということを学ぶための実物大モデルとしては、志木は向いているだろう。大柄だが極端に太すぎず、骨格がしっかりしていて筋肉もきれいについている。バランスもいい。
「つまり、ヌードモデルなのか?」
「全部は脱がねえよ。海パンみたいなヤツ履いてていいって言うから受けたんだよ。じゃなきゃハズカシイじゃん。俺、露出狂の気(け)ねえし」
「それでどうして“カノジョに言ったら怒るか泣くか”なんだ? 全裸ならともかく、何か履いているのなら海やプールと一緒だろう」
「自分のいないところで、カレシの体を自分以外の女に見せたくないってのもあるんじゃねえの? まぁ、あんたは俺が誰かにハダカ見られるくらいで妬いたりしねえだろうだけどさ」
志木の言う通りではある。無理矢理脱がされて不特定多数の衆目に曝されるのならいろいろな意味で問題はあるが、志木が納得して自分で脱いだのならとやかく言おうとは思わない。
だからといって、どうでもいいというわけではない。問題は、志木よりも志木を見る“目”の真意だ。
「あんたと独占欲って言葉は無縁だよな」
「そうでもないぞ?」
「え?」
喜多見は即座に返し、ぽかんと見返す志木の腕に手を伸ばした。
「たとえば、お前が誰かにこんな風に触られるのは嫌だとは思うがな」
夏の制服の半袖シャツの袖口に指を忍び込ませてそろりと腕を撫で上げると、志木は眉を寄せて僅かに身動いだ。
「…これじゃセクハラじゃねえか」
「ポーズに注文を付けるふりして触られてるんじゃないか?」
「………」
何気なく問い掛けると、志木はじっと考えて、そして黙り込んだ。どうやら、思い当たることがあるらしい。
喜多見には予想できていた反応だった。いま喜多見がやったようにあからさまに仕掛けでもしない限り、その手の思惑に気付かないところがある。これと決めた相手以外は目に入らない質なのだ。
良く言えば一途、有り体に言えば鈍い。それが、見た目は悪くはないのに彼女が出来なかった原因のもっともたるものかもしれない。
「それじゃあ、触られる前に触っておくか」
喜多見は、表情も変えずにしかつめらしく言った。
「なんだそりゃ。予防接種かよ」
「注射を打たれるのは私だがな」
少しだけ照れながら軽口を返した志木に、喜多見は間髪入れずにさらりと言い返した。
数拍間をおいて喜多見の言わんとしていることの意味を理解した志木は、頬のみならず耳朶まで赤くして口ごもった。そして、困ったような嬉しいような、複雑な表情で喜多見に訴える。
「……そーゆーコトを涼しい顔でサラッと言うなよ……」
「気がそがれるか?」
片方の手で赤らんだ頬を撫でて喜多見は尋ねた。志木は両手を喜多見の腰に回し、
「…興奮シマス……」
呟いて、喜多見の体を抱き寄せた。
「正直な奴」
喜多見は薄く微笑んで、志木の首に両腕を回した。
抱きすくめた喜多見もろとも倒れた志木の体のどこかが座卓に当たり、空のグラスが畳に転がり落ちる。喜多見は気にもせず、降ってきた口づけを受け止めた。
3日後の放課後。2日続けて晴れ間を見せていた空が、この日はまた重く灰色の雲に覆われている。
しかし雨の降る気配はまだなく、グラウンドや屋外コートは、ボールの跳ねるリズミカルな音やバッドが硬球を弾き返す快音に満ちていた。
「あれ〜? 志木は?」
「今日は美大のバイトの日」
「ああ、例のな。授業終わってすぐ出ねえと間に合わねえんだっけか」
ふいに耳に飛び込んできた会話に、喜多見は立ち止まった。
中庭に面した1階の廊下の窓から外を見遣ると、すぐ近くのベンチにいつも志木と連んでいる数人がたむろしていた。
「しかし、小田の姉ちゃんもやるよな〜志木をモデルにしたくてデッサン会だかなんだかでっち上げたんだろ」
痩身で長身の伊東が、ひょろ長い手を小柄で童顔の岸田の持つスナック菓子の袋に伸ばしながら言った。問い掛けられた小田は、銜えていたパックのジュースのストローから唇を離した。
「でっち上げたっていうか、いいモデルがいるからって教授に捩じ込んだんだって」
「どう違うんだよ?」
「同じかな…?」
「小田の姉ちゃん格闘技ファンだもんな。しかも、好きな選手って志木みたいなタイプばっかなんだろ?」
「そうそう。マッチョすぎず、デカすぎずってヤツ」
「ガタイはいいからな、あいつ。アタマ悪ィけど」
そういう伊東も志木とどっこいどっこいの成績なのだが、噂の本人がいないせいか自分のことはすっかり棚に上げている。
小田は、穏やかそうな顔を少し曇らせた。
「姉ちゃんけっこう腹黒いから、毒牙に掛かってないといいけど」
「毒牙って」
「先週もさ、胸筋触っちゃった〜二の腕掴んじゃった〜って喜んでたもん。ポーズつけるフリしてあちこち触りまくってるみたい」
「そのうちケツとか撫でられちゃうんじゃねえの?」
「ケツだけじゃ済まないかも?」
「やりかねないかも。姉ちゃんエロオヤジみたいなトコあるから」
伊東と岸田に、我が姉に対して容赦のない人物評をして小田は重々しく頷いた。
「でも志木ニブイからな〜わざと触ってるって気付かねーんじゃん?」
「俺、気付かない方に100円〜」
「オレも気付かない方!」
「俺も……って勝負になんねーじゃん。そんじゃ大穴狙って気付く方に100円でいいや」
第3者に気付かされるに100円――廊下で会話を聞きながら喜多見は心の中で呟いたが、無論賭けに参加できるはずもない。
友人に賭けのネタにされていることも知らず、いまごろ志木はまたいいように触られているのだろうか。
小田の姉もやってくれたものだ。
喜多見は、不敵な笑みを唇に浮かべた。
志木を縛り付けるつもりはないし、志木自身が触られたいというのならかまわないが、無自覚な志木を好き勝手に触って楽しんでいることを知っていて放置するほど心が広い喜多見ではない。触られても見られても減るものではないが、“志木”で楽しむのは自分だけでいいと思う程度の独占欲はある。
さて、どうしたものか――喜多見は、いろいろと思案しながらその場を離れた。
その夜、バイト帰りの志木が喜多見の家を訪ねてきた。
何やら複雑な表情を浮かべた志木は、喜多見の導くまま通い慣れた家に上がり込んだ。
居間にしている座敷に通し、夕食はどうしたと喜多見が尋ねると首を横に振るので、残り物に数品作り足して出してやる。志木は、黙々とそれを平らげた。
「どうかしたのか?」
出された皿をすっかり空にし、茶を飲んでひと息つくのを待って、喜多見は志木に問い掛けた。
志木は、苦虫を噛み潰したような表情で喜多見を見る。
「志木?」
「――バイト辞めてきた」
志木は、ぽつりと答えた。
「モデルのか? どうして?」
「……あんたのせいだよ」
小田たちの話を聞いてからいろいろと考えてはいたが、まだ具体的には何もしていない。それが、どうして喜多見のせいになるのか。
「どうして私のせいなんだ?」
喜多見は、志木の隣に移動して顔を覗き込んで訊ねた。
その志木の顔が、パッと赤くなる。
「あんたが……この間……」
志木は視線を泳がせて続く言葉を飲み込み、口許を手のひらで覆った。
「志木」
喜多見は両手で強引に志木の顔を自分に向ける。志木は、観念したように手を下ろした。
「……あんたがこの間さんざんエロいこと――」
「何がだ。いつも通りだったろうが」
特に激しかったわけでも、これまでやったことのないことをしたわけでもない。場所のことを言っているのなら、座敷でしたのは初めてではないし、そもそも押し倒してきたのは志木のほうだ。
「そうなんだけど、でもあんなこと言うから…俺、今日触られたときそれ思い出しちまって……あんたの顔とか声とか、やったこと全部浮かんで来て、そんで、その――」
ゴニョゴニョと呟くような志木の声が段々と小さくなっていく。
「おまえまさか、人前で――」
「え!? いや! それはない! ヤバイと思ってすぐにトイレって嘘ついて部屋出たからッ」
志木は慌てて全身で否定した。
「見られたわけではないのに辞めてきたのか?」
たとえ口実でもポーズをつけるという名目で触られている時に股間に反応を顕してしまったのでは、触られたのが直接の原因でないにしても言い訳が出来ない。しかし、いかに志木が嘘をつけない質でも、現にトイレだと言って席を外せたのだから見られていなければなんとでもなるだろう。
しかし志木は、力なく頷いた。
「だってさ、俺があんたのこと忘れられるわけねえじゃん。絶対また思い出しちまうよ。そんなに何度もトイレだって出てくわけにはいかねえだろ」
可愛いことを言うと思ったが、喜多見は口には出さなかった。そしてそれよりも、パブロフの犬がごとき条件反射に笑いがこみ上げる。志木はあの夜“予防接種か”と言ったが、よもやこんな副作用があるとは思いも寄らなかった。
喜多見は耐えきれず、ついに吹き出した。
「笑うなよチクショウ」
志木は苦り切った顔で呟いたが、笑うなというほうが無理だ。喜多見は肩を震わせて喉の奥でひとしきり笑い、それから微笑んで志木の頭をやさしく撫でた。
「さすがにそれは誰にも見せたくはないぞ。トイレが間に合ってよかったな」
「俺だってあんた以外に見られたくねえよ」
言って、志木は喜多見の肩に額を擦り付けた。
喜多見は志木を緩く抱きしめて、あやすようにその背を叩く。
「これがなくても辞めてたかも、俺。せっかく成績上がったけど、やっぱり体動かすバイトの方が性に合ってんなって思ってたから――ゴメン、喜多見」
「謝らなくていい。それより、次のバイトはすぐに見つかりそうか?」
「ん。マスダ屋の店長から入る日増やせないかって言われてるし、いくつかアテもあるし」
「そうか」
「……喜多見」
「ん?」
返事を待って、志木の手が喜多見のシャツの中に入り込んだ。
「こら、志木」
「昼間ムリヤリ我慢したから…もうダメ限界――」
見れば、細められた目は苦しそうでもあり、肩にかかる吐息は熱い。
「あんたが欲しい」
志木は、しがみつくように喜多見を抱きしめて、懇願にも似た口調で囁いた。
何の衒いもない率直さで切なげに求めるその余裕のなさが、喜多見には可愛くてたまらない。時折、無性に甘やかしたくなる。
けれども、むやみに甘やかしては、この体力を持て余している大型犬は際限なく駆け回る。走ってから走りすぎたことに気付くこともしばしばだ。
飴と鞭の使い分けが肝要だ。今この場合は――飴をやってもいいだろう。
「…仕様のない奴だな」
喜多見は微苦笑を刻んだ唇を志木のまなじりに落とした。そして、伸し掛かってくる志木のたくましい体を抱きしめる。
突然、雨音が聞こえてきた。明日は晴れると予報が出ていたので、単なる驟雨だろう。志木が帰る頃にはやむはずだ。
日付が変わるまでには、まだしばらく時がある。
−終−
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