Vol.4 『甘い言葉』


 気温は26度、晴天。夏日だと、今朝見たテレビの天気予報では言っていた。
 しかし、志木の隣りの座席で窓の外を眺めている喜多見は、いつも通り涼しい顔をしている。
 志木はというと、喉が渇いてたまらない。気温のせいもあるが、緊張が一番の原因だろう。
 喜多見と二人きりでの、初めての旅行なのだ。
 物の数にいれてもいいのなら、修学旅行には共に行っているのだが、その頃は単なる教師と生徒でしかなく、当然2人きりでこっそり会ったりということもなかった。
 さらに、喜多見の家には何度も訪れているが、夜を明かしたことはまだない。
 付き合い始めてから8ヶ月、すでに互いの体にも馴れたが、やはり初めての経験はいつまでも緊張するものだ。
 喜多見はどうなのだろうと、ちらりと涼しげな姿を盗み見て志木は思う。いつも志木より2枚も3枚も上手の喜多見だが、時には動揺する姿も見てみたい。
「どうした?」
 志木の視線に気付いた喜多見が、窓の外から車内へと視点を戻して志木を見た。
「え、いや…」
 さすがに緊張しているかどうかとは訊けず、志木は視線を逸らした。
 そこへ、車内アナウンスが次の停車駅を告げる。
「ほら、次だぞ。上着忘れるなよ、瑞帆」
「う……ッ」
 普段は口にしない名前をさらりと放った喜多見に、志木は眉間にシワを寄せて低く呻いた。
「こら。いい加減に名前を呼ばれる度に黙り込むのはよせ」
 電車を降り、改札口に向かいながら喜多見が志木の後ろ頭をぺちんと叩く。叩かれた志木は恨めしげに喜多見を振り返った。
「だってよー」
「だってじゃない。賭けは賭けだろう? 観念しろ」
 たしかに志木は、喜多見の身長を抜けるかどうかという賭けに勝てなかった。追いついただけという勝負のつかなかった賭けだが、喜多見が引き分けだから双方の賭けを実行しようと言い出さなければこの旅行もなかったかもしれない。志木は溜め息をついて頷いた。
「わかったよ」
「お前、家族にも名前を呼ばせないのか?」
「俺が名前で呼ばれるのを嫌がり出した頃にはもう弟も妹も生まれてたから、ウチは全員、兄ちゃんとかお兄ちゃんとか…」
 志木のように女性に多いような名前でからかわれた経験がある男は何人もいるだろうが、志木には名前で良い思い出が本当にない。
 小学校にあがった時には初日の出欠取りで担任教師に女の子だと思っていたと言われ、中学生の時には下駄箱に人生初のラブレターが入っていたもののそれは入れる場所を間違えた男からのもので、当然のごとく喧嘩の度に名前をネタにされ、その他にも積もり積もったいろいろなことがあって現在に至っている。
「子供がからかいの材料として名前を使うのはよくあることだが、小学校でのことは確認を怠った教師の職務怠慢、ラブレターの件は相手が間抜けだっただけだ」
 志木の語った過去の苦い思い出を、喜多見はすっぱりと切り捨てた。喜多見の言う通りなのだが、志木本人はそう割り切って忘れることがなかなか出来ない。
 釈然としない顔の志木の頭に喜多見の手が伸び、数度ゆるく叩いて撫でた。
「忘れろとは言わないが、慣れるよう努力するのは無駄なことではないと思うぞ。親がつけてくれた名前だろうが」
「……うん」
 それを言われると弱い。
 不承不承頷いた志木に、喜多見はいつになく優しい微笑を浮かべた。
「それじゃあ行こうか、瑞帆」
 名を口にした途端、優しげな笑みが悪魔の笑みに変わったように思えたのは、志木の気のせいだろうか。

 辺りを少し観光して、夕刻に宿へと向かった。
 宿を確保したのは志木だが、志木本人もどんな旅館なのかよく知らない。
 そもそも、志木が宿を探し始めた時点では、予算内で行けるところはどこも満室で、志木はほとんど諦めていた。しかし連休寸前になって、宿探しのアドバイスをもらっていたアルバイト先の大学生から自分の代わりに行かないかと持ち掛けられたのだ。懸賞で当てたのだが、一緒に行くはずの彼女の都合が悪くなったらしい。彼は、キャンセルするよりはと快く譲ってくれた。
「……本当にここか?」
 宿の前で、喜多見が志木に尋ねた。
「……名前も合ってるし、ここのはずだけど――」
 もらったメモを確認して志木は答えたが、志木にも自信がない。
 えらく立派な宿なのだ。
「合っているなら入るぞ」
 ためらっている志木の背を喜多見が押した。
 譲ってくれたバイトの同僚が宿泊者の変更を伝えてくれているが、当然志木の名前でだ。志木がまごついているわけにはいかない。
 志木は心を決めて、フロントへと向かった。
「志木様ですね。お伺いしております」
 笑顔で出迎えてくれた女性従業員に緊張を解かれ、志木は差し出された宿泊表に必要事項を書き込みながら諸々の手続きをこなした。
「こちらにお連れ様のお名前もお書き願えますか」
 志木が書き終わるのを待ってフロント係員は言ったが、志木の後ろに控えていた喜多見に目を止めて、
「お連れ様は女性の方とお伺いしておりましたが、ご変更ですか?」
 そうにこやかに尋ねた。
 言われて志木ははたと気付く。譲ってくれた男には恋人と行くのかと訊かれそうだと答えたが、何も知らなければそう答えられて相手が男だとは思わないだろう。
「急にダメになって、兄が代わりに」
 志木は咄嗟にそう答えていた。
「ではこちらにお兄様のお名前を」
「あ、はい」
 指し示された場所にペンを走らせた志木は、どことなくこそばゆい思いで名前を書き込む。
 “志木芳秋”と書いたそれに、結婚したみたいだなと、喜多見にはろくでもないと一蹴されそうなことを思い、志木は緩みかけた頬を引き締めた。
 それではと先に立った客室係の女性に続く喜多見の顔を盗み見たが、別段変わったところはない。志木はほっと一息ついて客室係と喜多見の後を追った。
 通された部屋は、なんと露天風呂付きの離れの一室だった。
 離れの宿になど泊まったことのない志木はもとより、離れだと知らなかった喜多見もさすがに驚きを顕にする。
 寝室、居間、食事部屋と3部屋ある離れ内のひと通りの説明をし、夕食は6時に部屋食、朝食は7時から10時の間に食事処でと告げた客室係は、部屋に用意してあった女性用の浴衣を男性用のものと取り替えて出て行った。
 残された2人は、離れの中の居間に当たる一室でしばし立ちつくす。
「……びっくりした……懸賞でこんな部屋が当たるのか…」
「温泉饅頭一箱程度の土産では申し訳ないな」
「そうだよな…」
 志木は大きく息をついて、その場にどっかりと腰を下ろした。
 時刻は5時半、陽もだいぶ傾いて、障子の開け放たれた窓から薄紅に染まりつつある空が見える。離れの周囲は青々とした木立で静かなものだ。
 志木は、寝室へ荷物を置いてきた喜多見が戻ると、さいぜんから気になっていたことを喜多見に尋ねる。
「あの、さ……さっきのまずかったか?」
「兄弟というやつか?」
 座卓の上に用意してあった茶を煎れながら喜多見は応じた。
「おまえにしては無理のない言い訳だったぞ。兄弟なら年が離れていてもおかしくないしな。顔は似ていないが」
 離れまである宿は客の詮索はしないだろうが、曖昧に誤魔化しておくよりはさらりと言い切ってしまったほうがいいだろうと思った志木の判断は間違ってはいなかったようだ。学校内で徹底して単なる教師と生徒を装っている成果か。
「それに、兄弟なら名前で呼ぶ方が自然だしな」
 喜多見はそう付け足してにやりと笑った。
 やっぱり楽しんでやがる――悪魔の笑みは錯覚ではなかったようだ。
「喜多見が自分で1日って言ったんだから、今日だけだぞ!」
 1日名前で呼ばせろと言い出したのは喜多見だ。慣れる努力はするが、今後ずっと呼ばれ続けるのは嫌だ。
「わかったよ。そういう賭けだったしな」
 喜多見はすんなり頷いて、志木のほうへ茶を差し出した。志木は訝りながらも座卓に近付いて茶を手に取った。
「しかし、連休直前に無料で宿泊券と電車の乗車券を譲ってもらえるとはなんとも幸運だな、お前」
「自分でもそう思う」
「しかも、注文どおり壁の厚みを気にしなくていいとはな」
 何気ないひと言に、志木は茶を吹き出して激しく噎せた。学校での喜多見とは人格が違うとしか思えない。
「……あんたなぁ〜」
「したくないか?」
「したいに決まってんだろ!」
 真顔で訊かれて、志木は茶を飲み干した湯飲みを座卓に叩き付けるようにして置いて答えた。
 したくないわけがない。いつだって抱きしめたい。触れたい。
 だが、頻繁に触れ合えない分、触れた瞬間にタガが外れそうになることがある。けれども、一方的に暴走するようなことはしたくない。
 それを分かっているだろう喜多見がこんなことを口にするのは、志木の反応を楽しむためだ。いざとなれば志木は簡単にあしらわれてしまう。
 この余裕が忌々しく憎らしい。
 志木は、座卓を回り込んで喜多見の隣りに移動した。
「あんまり遊ぶなよ。経験値足りねえんだから」
 格好付けても仕方がないので、志木は正直に頼んだ。
 志木の顔を見返していた喜多見の手が伸び、志木の頬をかすめて首筋に触れる。そして、うなじに掛けた指に力を入れて志木の顔を引き寄せ、そっとくちづけた。
「すまない。少し浮かれすぎた」
 重ねただけの唇を離した喜多見が、そう言って苦笑する。
 志木は、ぽかんと喜多見を見つめた。
「浮かれたって、あんたが? なんで?」
「なんでって……」
「だって」
「あのな、何か誤解をしているようだが」
 喜多見は、不思議そうな表情の志木と体ごと向き合った。
「私は嫌々ここに来たわけじゃないぞ」
「渋々?」
「違う。強いて言えば――ウキウキ、か」
「…ええぇッ!?」
 予想だにしない語句が出て来て、志木はそれこそ飛び上がらんばかりに驚いた。そんな志木の頭を、呆れ顔の喜多見が拳で軽く小突く。
「恋人と初めての旅行で浮かれて何がおかしい」
「おかしくなんか――……恋人って俺?」
「他にいてほしいのか?」
 志木は慌てて、懸命に首を横に振った。
 日中顔を合わせても、あくまで教師と生徒という関係を崩さない。
 喜多見の仕事と志木のアルバイトの兼ね合いから、ゆっくり逢える時間はなかなかない。
 それでも付き合い始めた頃と変わらず志木は喜多見だけが好きだし、喜多見にも志木だけであってほしい。
 志木が調子に乗り過ぎた時は容赦なく怒る喜多見だが、時には甘やかしてくれる。だが、こうもはっきりと“恋人”と言ってくれたのは初めてかもしれない。しかも、ウキウキときた。
「喜多見……あんた今日ちょっと変だぞ。それに、俺のこと甘やかし過ぎ」
 堪らない気分になって、志木は喜多見の肩に額を擦り付けた。
「たまにはいいだろう」
「たまにかよ」
 不満げに吐き捨てながらも、志木は嬉しかった。そして、衝動のままに喜多見の首筋にくちづける。
 背中に手を添えて体で押すと、喜多見は抵抗もなく志木の手に身を委ねて上体を倒した。志木は、喜多見の耳朶と顎に順にキスをし、唇を軽く啄んでから深く重ねた。
 伸し掛かって口腔を舌で探りながら、志木は喜多見のシャツをたくしあげ脇腹を撫で上げた手を胸に這わせる。喜多見がぴくりと身動ぎして、両手が志木の肩のあたりを掴んだ。
「……瑞帆、ちょっと待て」
「待てねえよ」
「時間、が…」
「時間?」
 チェックアウトの時間も電車の時間も今日は気にする必要はないではないか。志木は肘で上体を支えて、訝しげに喜多見を見下ろした。
 と、静寂に満ちていた部屋に呼び鈴の音が鳴り響いた。
「うわ、は、はい!?」
 突然のことに驚いて身を起こし、志木は慌てて着ていたTシャツの裾を引っ張って、早くも反応し始めていた股間を隠した。
 喜多見はというと、いつの間にか乱れた着衣を整えて立ち上がっている。
「だから待てと言ったろう。6時に夕食の支度に来ると仲居さんが言っていたのを聞いてなかったのか?」
「………」
 聞いていた。しかし、喜多見を抱きしめて吹っ飛んだ。
「…あんた、ワザと誘ったろ……」
「人聞きの悪いことを…」
 疑惑の眼差しで見上げる志木に溜め息をついて、喜多見は身を屈め志木の耳元に唇を寄せた。
「あとでゆっくりな、瑞帆」
 吐息混じりの、睦言のような甘い囁きを残して、喜多見はさっさと隣室の食事部屋へと消えた。
 その背中を見送って、
「絶対ワザとだ……」
 苦々しく呟いた志木は、復讐の決意新たに拳を握り締めた。

 部屋と同じく申し分のない――といっても志木が口にしたことのないような豪華な夕食に舌鼓を打ち、こちらから呼ばない限り誰も来ない離れに2人きりになって、露天風呂に入ってみようと志木から言い出した。
 焦らすだけ焦らしたあとだ。当然ただ入って出て来るだけでは終わらないと喜多見もわかっていたはずだが、あっさりと志木の誘いに頷いた。
 居間から続く引き戸を開けると、板敷きの短い廊下が延びている。その先には洗面台を備えた内風呂には広すぎるほどの脱衣所があり、内湯は檜作りの湯船に並々と湯を湛えていた。内湯と露天風呂は大きな一枚ガラスの窓で仕切られていて、露天風呂の方が岩風呂仕立てだ。
 どちらも小振りの造りではあるが、一部屋専用の風呂なのだから豪華なものだ。
「湯も掛け流しじゃないか。おまえ、今年の幸運はこれが最初で最後じゃないのか?」
 内湯を満喫してから露天に移り、乳白色の湯に体を沈めて喜多見が言った。
 志木もそう思わないでもないのだが、ここで終わらせるつもりはない。とりあえず、今夜の勝運が欲しい。
 志木は喜多見に体を寄せて、喜多見を抱きしめた。喜多見は僅かに身動ぎしたが、志木の腕から逃がれようとはしなかった。
「……ふ、…」
 やがて、微かな甘い吐息が零れ出し、水音に混じって融けた。
 片腕でしっかりと喜多見の体を抱きしめた志木は、湯煙に霞む上気した首筋に舌を這わせ、空いている片手で志木の知る限りの喜多見が感じる場所を辿る。
「あ……ッ」
 下肢を滑る指先に、首を反らした喜多見の唇から声が溢れる。志木はその唇をキスで塞いで、鼻先が触れる距離で囁いた。
「あんまり大きな声出すと、隣りの離れの風呂に聞こえるかもしれないぜ?」
 案内された時に見た様子では、各離れは近すぎず遠すぎずといったところだ。しかし、離れの周囲を巡っているらしい遊歩道に人がいないとは限らないし、日中よりさらに静まり返った木立ちは吸い込んだ物音を気紛れに吐き出しそうではある。
「……これで仕返しのつもりか?」
 喜多見の唇が微笑を刻んだ。
 負けるかよ。胸の内で呟いて、志木も喜多見へ笑って見せる。
「まだまだこれからだろ、夜は」
「言うようになったじゃ――ぅ、あ…っ」
 志木は皆まで言わせず、喜多見のものを手荒く扱いた。続けて、舌で絡めとるように口に含んだ胸の突起をきつく吸い上げる。
「……ッ」
 のけ反った喜多見の体をしっかりと押さえ付けて口に含んだままのそれを舌で転がすと、志木の背中に回されていた喜多見の指先が張りのある肌にグッとめり込んだ。
 志木は構わず指に力を込めて、喜多見のものを扱き続けた。喜多見の体が震え、堪えている声が溢れ出るたびに息が上がっていく。
「……んっ…瑞帆、もう離せ――」
「いいよ。イッちゃって」
 志木は喜多見には応えず、その唇を塞いで手指を動かし続けた。
「ふ――ッ…」
 重ねた唇の隙間から喜多見の声が零れ、志木にすがる腕に力が籠る。角度を変え深く重ねられた唇に、溢れた熱い吐息と声を飲み込まれ、喜多見は声もなく達した。
「――喜多見…大丈夫か?」
 唇を離し、喜多見を片腕で抱えたまま志木は尋ねた。喜多見は志木の肩に額を押しつけ、呼吸を整えながら小さく頷く。
 志木は、風呂を囲んでいる岩の中から滑らかな表面のものを選んでそこに喜多見を座らせて、
「じゃあ俺、先に上がるから」
 囁いて、唇に軽くキスをしてさっさと内湯に引き返した。
 こんな風に子供じみた焦らし方はどうかと思ったが、喜多見のように巧妙にはいかないのだから仕方がない。
 しかし、内湯で湯を浴びても、脱衣所に出ても、部屋に戻っても喜多見は追ってこなかった。
 倒れでもしてないかと心配にはなったが、これも喜多見の手だと思い直して、志木は風呂場には戻らずに寝室の布団の上に転がった。
 自宅の布団よりも数段柔らかくて肌触りのいいそれに、志木はうっとりと目を閉じる。そして、耳を澄まして喜多見が出てくるのを待った。
 それからどれくらいが過ぎたか――背中に衝撃を感じて、志木は目を開けた。いつの間にか眠っていたらしい。
 半身を起こして背後を振り返ると、そこに浴衣姿で立っている喜多見の姿があった。

−続−



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