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Vol.3 『賭け事』
緑の匂いの立ちこめる庭が、月光を照り返して密やかに息づいている。
そして壁一枚を隔てた夜具の上で、同じ月光をうっすらと汗の浮いた肩や背中に受け、志木が長い溜め息をついた。
喜多見の中に打ち込だ己を包む圧迫感と快感に、僅かに顔を歪ませている。喜多見は、そんな志木の首に腕を伸ばして引き寄せ、唇に舌を這わせた。志木はすぐにそれに応えて、喜多見の唇を深く塞いで舌を滑り込ませる。
絡み合う舌と共に志木の体がより喜多見へと密着し、一層深くなった繋がりに、唇と唇の隙間から吐息が溢れた。
「喜多見……」
熱に浮かされたような掠れた囁きと共に、志木が腰を動かし始める。ゆるく首に回されていた喜多見の両腕が解かれ、志木の手で敷布に押し付けられた。
志木の熱いものが内壁を擦り、突き上げ、首筋を辿る舌から、耳朶を掠める吐息から、喜多見の体に熱が伝播していく。
「……ぁ、あ…ッ」
時折緩急をつけて深く捻り込まれ、自然と声が零れた。
行き場のないもどかしさにも似た悦楽に、徐々に引き込まれていく。
たまらなくなって、手首から手のひらを辿って喜多見の指先を探り当てて来た志木の指を、絡め取るようにして固く握りしめた。
「きた、み……好きだ――」
荒い息遣いの合間に、譫言のように志木が告げる。喜多見は繋いでいた左手を解いて、志木の頬に触れた。
乱れた呼吸に耐えて微笑んでやると、志木はいつも泣き笑いのような表情を浮かべる。聞いたところによると、嬉しくて涙が出そうになるらしい。そんな素直さを、喜多見は気に入っている。
自由になった志木の右手が、喜多見のものに添えられた。先走りの雫を掬い取った手指で撫でられ、扱かれて、前後同時にもたらされる刺激に目が眩む。
「ん、ぁ…し、き……ッ」
頬から肩へ滑らせた左手に力を込め、喜多見は大きく喘いだ。志木はさらに強く突き上げて、喜多見を揺さぶる。
「あ! あ、ぁ」
喜多見の背が撓り、左手の指が志木の右上腕にグッと食い込んだ。
「志木、もう、ぁ――」
「喜多見……ッ」
切なげに名を呼ばれると同時に志木の手のひらの中に白濁を放ち、数拍遅れて達した志木の脈動を己の内に感じながら、喜多見は目を閉じた。
「喜多見? 大丈夫か?」
片手の甲で目元を覆い、仰臥したまま息を整えていた喜多見に、志木が気遣わしげに声をかけた。
喜多見は手をどけて小さく微笑んで見せ、自分を見下ろす志木の顎を犬や猫にするような仕草で撫でた。
「よかったか?」
「――すげーよかった」
喜多見の問いに志木は素直に頷き、身を屈めて口づけを落とす。
「もう1回するか?」
疲れた素振りも見せない志木に、喜多見は訊いた。
3月末に3週間ぶりのセックスをして、その1週間後の始業式に喧嘩をし(喜多見にしてみれば喧嘩というほどではないのだが)、なんだかんだと新年度の忙しなさに追い立てられて4月も半ばを過ぎた。
またも3週間ぶりの逢瀬だ。志木には、一度では足りないだろう。
「喜多見が平気なら」
遠慮がちだが、しないと言わないあたりが志木らしい。
「少し休ませろ」
喜多見は笑って、乱れた夜具の上でゆっくりと身を起こした。
「なんか飲む?」
「ああ」
頷いた喜多見に、志木はトランクスだけを身につけて立ち上がった。
日々の労働で高校生にしてはしっかりと肉の付いた体に、昨夏よりは幾分色が落ちたが健康的に陽に焼けた肌がよく似合う。
背が高く、顔も男っぽい作りで、大層な美形というわけではないが悪くはない。明るい性格で、運動神経がいい。成績が悪いとはいっても“勉強”が苦手なだけで、決して愚鈍なわけではない。
がさつで騒々しいところもあるが人当たりがいいのでそれなりにもてそうなものだが、本人が自分の特性を全く自覚していないので、それらは志木の気の向く方にだけ集中している。志木に気がある誰かがいたとしても、志木自身にまったくその気がなければ一切発展しようがない。
志木の単純一直線な性質は好ましいところでもあるし、浮気の心配もないので、喜多見にとっては何ら困ることはないのだが。
志木は、烏龍茶の2リットルペットボトルとグラスを手に戻ってきた。
「はいよ」
「ああ、ありがとう」
注いで手渡してくれたお茶を受け取って、喜多見は礼を言った。志木はグラス一杯を一気に飲み干して、体を投げ出すように喜多見の傍らに仰向けに転がった。
その姿を見て、喜多見はじっと考え込む。
やがて、視線を感じたのか、志木が喜多見に目を向けた。
「なに?」
「いや……。おまえ、少し太ったか?」
「なんだよ、急に?」
「重くなったような気がしたが」
3週間前には気付かなかったが、先ほどのしかかってきた体は、以前より量感を増していたように思う。
「あのなあ」
志木は、反動もつけずに腹筋だけで上体を起こすと、腹の辺りを指でつまんでみせた。
「腹も出てねえし、無駄肉もついてねえぞ、まだ」
弱冠17歳の勤労学生だ。よく食べるがそれ以上によく動いているので、贅肉が付く間もないだろう。たしかに、太る要素は何もない。
実際、上腕にも厚みのある胸にも弛みなど一切なく、腹直筋はきれいに浮き出ている。筋肉を誇示するために精を出して作られたような大袈裟なものではなく、動くことで自然に隆起した滑らかな筋肉だ。
「だが、重くなったのはたしかだぞ。半年以上も乗っかられていれば、そのくらい体で判る」
それを聞いて、志木が頬を赤らめた。体を重ね合う仲になって7ヶ月になるが、率直に求めてくるわりにはこういう初さがまだ消えない。
喜多見にとってはそこが面白くて可愛いところでもあるのだが、それを口にすれば、志木の反応は困るか怒るかのどちらかだ。
幼少の頃、その可愛らしい名前がからかいの材料になったからだろうか、名前で呼ばれることもひどく嫌がる。
大抵の男は、カワイイと言われるよりはカッコイイと言われたい生き物だ。
「太ったわけではないが重くなったということは――」
「ついに喜多見を抜いたかな?」
言って、志木は喜色を浮かべた。
喜多見のほうが身長が高いということが、名前に並ぶ志木のコンプレックスのひとつだ。年齢や経済力が上なことは、もどかしいながらも仕方がないと思えるようになったようだが、身長だけはどうしても負けたくないらしい。
「どうだろうな? 少し目線の高さが変わったような気もしないでもないが……」
もともと差はたった2cmだ。急激に伸びたとか、しばらく会わなかったとか、第三者が見比べたならともかく、それなりに顔を合わせる機会があると気付きづらい差ではある。
「よし、賭けようぜ!」
「賭け?」
「明日、身体測定あるだろ? 俺が喜多見を抜いてたら、俺の勝ち。抜いてなかったら、喜多見の勝ち」
「……おまえが勝った場合は?」
まだ20歳前の志木なら、2cmくらいすぐに追い越すだろうと喜多見は思っていたので、抜かれたとしてもさして意外なことではない。賭けるようなことではないと思ったが、喜多見はあえて乗ってみた。
「えーと、そんじゃあ――5月の連休、泊まりがけでどっか行こうぜ」
「これから宿が取れるわけがないだろう」
「そっか……じゃあ、宿が取れたら。取れなかったら、ここに泊まっていいか?」
抱き合うときはたいてい喜多見の家だが、これまで志木が泊まっていったことは一度もなかった。喜多見が許さなかったのだ。日付が変わる前には無理やりにでも帰してしまう。
志木のことだ。遅くなってもいいと許してしまうと、遅くまでバイトをしたあとにも、多少無理をしてでも喜多見に会いに来る。それに、外泊が増えれば家族が心配するだろう。
冬休みと春休みは、この春に妹が中学校に上がるとかで志木がバイトの数を増やしたこともあり、お互いの時間がなかなか合わず、数時間会っては別れるということが数回あっただけだった。
「わかった。泊まっていいぞ」
志木が無理をすることなく一緒に過ごすことが可能なら、断る理由はない。喜多見にとって面白くない内容ではないので賭の戦利品としてはどうかと思うが、結果が出る前からすでに胸躍らせている風の志木に水を差す気はないし、わざわざ教えて嬉しがらせてやることもない。
「あんたが勝ったらどうしたい?」
「そうだな――」
問われて、喜多見はしばし考えた。
賭けるのなら、自分が楽しくて、相手に不利な方が面白い。
「1日、名前で呼ばせてもらおうか」
「なまえ? 名前って――」
「もちろん、おまえの名前。みず――」
「ストップ!」
言いかけた喜多見の口を、志木の手のひらが慌てて塞いだ。
「他のことじゃダメか?」
「嫌なら賭は無しだな」
「……わかったよ」
よほど“お泊まり”に未練があったのか、口を塞がれたままはねつけた喜多見に、不承不承ながら志木は頷いた。
項垂れて溜め息をつく志木を前に、どちらに転んでも自分に不都合のない条件で賭を受けた喜多見は、僅かに目を細めた。そして、いまだ口を塞いでいる志木の手のひらをぺろりを舐め上げる。
「! 喜多見ッ」
不意打ちに驚いた志木の手を捕らえ、喜多見は微笑んだ。
「もう1回するんだろう?」
「――する」
志木は、言うなり喜多見を抱きしめて押し倒し、今度は手ではなく唇で喜多見の口を封じた。
丹念に舌で口腔を愛撫し、荒い息で唇を離すと、志木は喜多見の体に指を這わせながら耳元で囁いた。
「ぜってー越えてやるからな」
喜多見は答えず笑みを浮かべて、志木の背に手を回した。
翌日。
全校一斉の身体測定と体力測定に駆り出され、年に3度しか袖を通さないジャージに身を包んだ喜多見を、男子生徒が廊下で呼び止めた。
「喜多見センセ〜」
呼ばれて振り返ると、昨年度受け持っていた数人の生徒が廊下の向こうから歩いてくるのが目に入った。志木の姿もある。
「あれ、センセのジャージ去年と同じ?」
「体育祭と球技大会しか着ないからな。新調するまでもないだろう」
「センセはどこの担当なんすか?」
「視力検査だよ。いま交代してきたところだ。おまえ達、次はどこなんだ?」
測定はクラス毎に測定科目をずらして移動するが、終わった者はどんどん次に進んでよいので、たいていはグループで移動している生徒が多い。
「俺達、次の身長と体重で最後っすよ」
「そうか」
肝心の測定が、大トリだったようだ。
ちらりと志木に視線を送ると、それに気付いた志木が自信ありげに笑った。
「体力測定はどうだったんだ?」
「またこいつが新記録連発」
小柄な岸田が、親指で志木を指さして答える。そのとなりで、細身の伊東が偉そうに腕を組んで、
「ま、そんくらい取り柄がねえとかわいそーだもんな、志木」
「たいして成績かわらねえだろ」
「オレは春の補習免れたもん」
「でも、あと1点足んなかったらヤバかったんだよね」
「あ。バラすか、小田!」
「はい、終了」
パン!とひとつ手を叩いて、喜多見は会話を止めた。たいてい一緒に行動しているだけあって抜群の呼吸のじゃれあいだが、内容が不毛だ。
「さっさと測定を済ませてきなさい。もう、購買部にパンが届いていたぞ。いまなら限定品が買えるんじゃないか?」
昼休みの購買部は常に混雑しているが、特に人気が高いのが入荷数の少ない“限定品”の惣菜パンだ。生徒達はいつも、授業終了と同時に教室を走り出てそれを買いに行く。4限が自習だったり早く終わったりすると、当然フライングする者もいるから、かなりのレア商品だ。実は、授業のない教師が先に手に入れていたりもする。
岸田らも弁当持参組ではなく購買部組だと覚えていたので、喜多見は“情報”を優先して教えてやった。
「え! マジ!? おい、急ごうぜ」
「サンキュ、先生」
生徒達は口々に礼を言って、廊下を走りだす。志木も、岸田に引っ張られて一緒に駆け出したが、去り際に喜多見を振り返り、“あとで”と唇を動かした。喜多見はほんの僅かに口角を上げてそれに応じ、駆けていく生徒達の背を見送ってから、踵を返して歩き出した。
志木が喜多見に連絡を寄越したのは、その日の夜だった。
休憩中のアルバイト先から携帯電話で連絡してきた彼は、名乗ったあと困ったように何かを言いあぐねて沈黙した。
「志木? どうした?」
この勝負、自分の勝ちだったかと思いながら、喜多見は静かに問いかける。
「“賭け”のことだろう? どうだったんだ?」
『うん……。あの、さ』
「ん?」
『喜多見の身長って、179cmだったよな?』
「ああ」
『だよなー……』
「だから、おまえはどうだったんだ、今日?」
『……ひゃくななじゅーきゅう』
「え?」
『だから、179cm。喜多見と同じだったんだよ』
困惑した声が、受話器の向こうから返ってくる。
『引き分けの場合って決めてなかったよな? この賭け、無効ってことか?』
落胆しきった声で、志木がいかに勝利を望んでいたかがありありと解って、喜多見はついつい吹き出しそうになった。
目の前に志木がいなくてよかった。声だけなら、笑っているのがバレない自信はある。
「そんなに身長を抜きたかったか? それとも、名前で呼ばれるのが嫌か?」
『それもあるけど、それより――』
言い淀む志木に、喜多見は微笑んだ。志木にとって“お泊まり”は大層魅惑的だったようだ。
喜多見にとってはどちらが勝ってもよかったのだが、こういう結果だったのなら――
「無効じゃなくてもいいんじゃないか?」
『え? だって同じじゃ勝負つかないぜ』
「だから、引き分けということで両方実行――でどうだ?」
『えっ、いいの!?』
「ただし、私も呼ぶぞ?」
『う……ッ』
志木は呻いて、沈黙した。喜多見は黙って志木から話し出すのを待つ。
だがその沈黙は、長くは続かなかった。
『わかった。両方実行な』
受話器の向こうから雑音だけが流れてきたのはたった数秒。志木は、あっさりと“お泊まり”の魅力に負けたらしい。
喜多見はどうにか笑いを堪えて、受話器に向かって囁いた。
「志木」
『ン?』
「宿は、壁の厚いところを探せよ?」
『あ?』
志木はきょとんとした声を返し、数秒経ってから、
『――ッ喜多見! あんたホントに、も……ッ』
喜多見の言わんとしていることに気付いた志木の声が、しどろもどろに揺れる。
もちろん志木の反応が見たくてわざと口にしたことだが、どっちにしろ、壁は厚いに越したことはないだろう。2人きりで泊まりがけの旅をして、何もないわけがない。
またも笑いを堪えていると、志木の盛大な溜め息が聞こえてきた。
『……あんたが俺を嬉しがらせる時って、なんか企んでる気がすんだよなー』
「失礼な。無効にするか?」
『え!? いや! もう言いません!』
「よし」
声だけは平静に、だが笑みを浮かべたまま喜多見は言った。
面白い連休になりそうだ――傍らの壁に掛かっていたカレンダーを見上げて、心の中でそう呟いて、喜多見は受話器を置いた。
−終−
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