Vol.2 『狡い人』


 4月。新たな場所で、新たな生活が始まる季節。
 志木は、クラス替えの掲示を見上げて深い溜め息をついた。
 嫌いなクラスメートがいたわけでも、苦手な教師が担任になったわけでもない。
 だが、2年生の時とは担任が変わった。志木にはそれが、何よりショックだった。
「どーしたよ、志木。でっけー溜め息ついてさ」
「んー…」
「好きな奴と別のクラスになっちまったとか?」
「あー…」
「マジ? 誰だよ教えろよ」
「うー…」
「志木〜?」
「おー…」
 一緒に掲示を見ていた悪友達が次々に話しかけて来るが、志木の返事は全く答えになっていない。
「おいおい、まだアタマ冬眠中か?」
「春だからって頭ン中に花でも咲いた?」
「変なモン拾い食いしたんじゃねーの?」
 悪友達の軽口の数々もろくに耳に入らず、志木はフラフラとその場をあとにした。

 2年時の担任だった喜多見芳秋は、志木にとって好きでも嫌いでもない存在だった。喜多見の担当教科である古文に全く興味が無かったせいもある。
 ポーカーフェイスで取り乱すことがなく、背は高いがそれほど目立たない男。――ただ、それだけだったのだ。
 だが今は、誰よりも大事な人だ。
 教師と生徒という間柄上、学校では必要以上に親しい素振りはできない。喜多見にも再三言い聞かされているし、公になって責任を問われた時はどうしたって悪者にされるのは喜多見だ。それは、志木にとって最も避けたいことである。
 けれど、アルバイトに明け暮れている志木には、喜多見と会える時間があまりない。少しの時間でもいいからそばにいたい。たとえ教師と生徒としてでも喜多見の近くにいたかった。
 幸い――と言っていいのかどうか――これまでは補習や担任指導として学校内でそばにいられる時間がいくらかあった。それが、今年は無くなってしまう。あまり成績のよくない志木に対する専門教科外の個人授業も、志木がたびたび相談という名目で喜多見の元を訪れるのも、担任だからたいして不審ではなかったのだ。
 教科担当は持ち上がるはずなので、大方の授業は見知った教師が教えるはずだが、喜多見会いたさにせっかく上がってきた古文の成績を下げて補習を受けようものなら、間違いなく喜多見の逆鱗に触れるだろう。
 志木は、今日何度目かの深い溜め息をつき、校舎を見上げた。
 志木達3年生の教室がある東棟の向かい、西棟端の2階の窓。国語科準備室。
 そこにいるはずの喜多見が、ひどく遠い存在に思えた。

「そんなくだらない用件で待っていたのか?」
 放課後の国語科準備室で志木の話を聞いた喜多見は、開口一番そう言い放った。
 ほとんどの教師は移動に便利な職員室のデスクを拠点にしていて、校舎の隅にある各科の準備室を好んで使う教師はあまりいない。国語科では喜多見くらいだ。だが、教材や資料はこの部屋にあるのだから、喜多見以外の国語科の教師がいることも勿論ある。周囲に点在している社会科や英語科の準備室も同様だ。
 そんな場所での“個人的な話”だ。喜多見が怒るだろうことは、志木も当然予想していた。しかし志木は、正直な気持ちを喜多見に知っていてもらいたかった。
「くだらなくねーよ。俺には大事な問題だ」
「そうか」
 素っ気ない物言いにカチンときたが、そこをグッと堪えて踏み止どまる。
「いままでだって学校の外では滅多に会えなかったのに、顔も見れなくなっちまうかもしれねーんだぜ」
「仕方がないだろう。遠く離れた土地にいるわけじゃないんだから良しとしろ」
「近くにいるのに会えないほうがツライことだってあるじゃねーか」
「丁度いい、少しは我慢を覚えたらどうだ?」
「出来るかよ! 俺はあんたが好」
「志木」
 口走りかけた一言を、喜多見が鋭く遮った。言われてハッとした志木は、言葉を飲み込んで俯く。
 そこへ、喜多見がとどめをさした。
「いい加減にしろ。鬱陶しい」
「―――」
 志木は拳を握り締めて、その場に立ち尽くした。何とか気を取り直して喘ぐように口を開けたが、言葉は何ひとつ出てこない。
 志木は、喜多見の顔を見返すことさえできずに、逃げるように国語科準備室を後にした。
 喜多見は、追いかけては来なかった。


 喜多見と顔を合わさなくなって1週間が過ぎた。
 日中ずっと同じ建物の中にいるというのに、棟が違うというだけで姿すら見掛けない。自分から会いに行かなければ、来週の古文の授業まで顔を合わすことはないかもしれない。
 何も言い返せなかったのが悔しくて、正論ばかりを吐く喜多見が憎らしいのに、会いたくて会いたくてたまらない。恋しくて胸が苦しい。
 志木はそれを紛らわすために、いつも以上にアルバイトに勤しんだ。疲れきってぐっすりと眠ってしまえば、喜多見の夢を見なくてすむからだ。
 だが、かえって喜多見欠乏症は悪化し、ふとした拍子に喜多見を思い出してはそばにいないことを再確認する、そんなことの繰り返しに、体力だけには自信のある志木も消耗している自分を自覚せざるを得なかった。
「岸田、保健室で寝て来るわ」
 次の現国の授業が自習だと聞いた志木は、2年生の時も同じクラスだった悪友の一人に声を掛けた。
 眠くはないが、ひどく頭が重い上に吐き気がする。
「なんだよ、おまえすげー顔色悪いぞ。一人で大丈夫か?」
「ああ、大丈夫」
 志木は、無理やり笑顔を作って答え、ひとり教室を出て行った。

 約1時間後、浅い眠りから醒めた志木は、しばらくの間ぼんやりと天井を眺めていた。
 夢も見ずに眠りたかったが、案の定夢の中で喜多見の気配を感じた。額に触れていった喜多見の手のひらの温度でさえリアルで、己のたくましい想像力に我ながら呆れてしまう。
「重症だなァ…」
 呟いて、志木はゆっくりと体を起こした。
 ――と、手に何かを握り締めていたことに気付く。
「なんだコレ?」
 いつから握っていたのかわからない、小さく畳んで結ばれた紙片。志木は、訝しげに首をひねりながらそれを開いてみる。
 そこに記されている文字を目にした志木は、驚きに目を見開いた。
「志木〜? 具合どうだー?」
 そこへ、簡易ベッドの周りに引いたカーテンを開け、ひょっこりと岸田が顔を出した。志木は咄嗟に紙片を握り締め、その手を布団の中に隠す。
「ちょっとは顔色良くなったみたいだな。あんま無理すんなよ?」
「ああ…」
「さっきの現国さ、代わりに喜多見が来たんだぜ。おまえのことは、具合悪くて保健室行ったってちゃんと言っといたからな。喜多見のヤツ、相変わらず鉄仮面――どうした?」
 俯いて黙っている志木を、岸田が覗き込んだ。
「……知ってる」
「は? 何が?」
 喜多見は来たのだ。ここにも。
 感じた気配も、志木の額に触れた手のひらも、志木の夢でも妄想でもなかったのだ。
 志木の握りしめていた結び文には差出人の名前もなく、たったひとこと記されているだけだったが、それは間違いなく喜多見の筆跡だった。

 その夜、アルバイトを終えた志木は、自転車で指定された場所へと急いだ。
 結び文には“今夜10時 裏の社”とだけしか書かれていなかったが、志木にはそれがどこだかすぐに判った。
 喜多見の家と志木の家の中間地に、わりと大きい神社がある。その神社の裏にもうひとつ小さな社があった。私有地のような階段の奥にあるので人気がなく、地元の人間にもあまり知られていない。
 最近は足が遠のいていたが、かつてそこを裏の社と呼び、幾度か喜多見との待ち合わせに使ったことがある。
 志木は、大きな方の神社に到着すると自転車を降りて裏へ回り、暗い階段を一段飛ばしに二段ずつ駆け上がった。
 小さな社の前は頭上の木々が空に向かってぽっかりと開いていて、月の出ている晩は思いの外明るい。冴えた月夜の今夜も、そこは月明かりで仄明るく、社の前に立っている人影もはっきりと認識できた。
「喜多見」
 荒い息のまま、志木は彼の人の名を呼んだ。
「早かったな」
 振り返った喜多見は、春物のブルゾンのポケットに手を突っ込んだまま志木に歩み寄る。
 そして、両膝に手を突いて屈んで息を整えている志木の正面で立ち止まると、持っていた小振りの紙袋を志木へと差し出した。
「おまえのだ。うちへ取りに寄ってもらってもよかったんだが、おまえのバイト先からは、うちとおまえの家とは逆方向になるからと思ってな」
「俺は、どこでも大丈――」
 答えながら紙袋の中を覗き込んだ志木は、その中身に驚いて、途中で言葉を切って喜多見を見上げた。
 紙袋の中には、真新しい携帯電話の箱が入っていた。
「プリペイド式だ。カードはこれだからな」
 喜多見は、袋の中から新品の1万円のカードを取り出して志木に見せる。
 志木はそんな喜多見をポカンと見つめた。驚きすぎて声が出ない。こんな事をするなんて、およそ喜多見らしくない。
「私の携帯電話と自宅の電話番号は登録してある。ただし、授業中にかけて来たら即取り上げるぞ。それから、浮気相手の名前と番号が登録されていたら取り上げるだけじゃ済まないからな?」
 表情は変わらないが、最後のは冗談だ。しかし志木にはいま、その冗談に切り返す余裕がない。
「……オレのこと、鬱陶しいんじゃなかったのか?」
「鬱陶しいが、そこがおまえのかわいいところだからな」
 さらりと言われて面食らい、志木は顔を真っ赤にして押し黙った。
 教え子達に鉄面皮と言われるほど滅多に表情を変えないくせに、突然こんな事を言い出すところが狡い。こんな狡さに、経験値の少ない志木が勝てるわけがない。
「だけどこんな……もらえねーよ」
 志木は、やっとのことでそう言った。
 バイト代のほとんどは家に入れている。小遣いでは携帯電話を持てる余裕がないから、今まで持っていなかったのだ。
「カードがなくなったら私が新しく買うから問題ないだろう」
「! 問題なくねえよッ」
 喜多見の言葉が、自分でも過剰だと思うほど胸を突き、志木は声を上げた。
 現実的な年の差はどうやっても縮まらないモノだから仕方がないとは思う。けれど、その“差”が突き付けられるとき、自分の不甲斐なさが悔しくて情けなくてたまらない。
 そんな志木の心情を察してか、喜多見はいつになくやさしく志木の頬に触れた。
「まだ学生なのに家族を養っているおまえと、社会人で独り身の私なら、甲斐性があるのはおまえのほうだと思うがな?」
「……」
「そのままでいいぞ、志木。なにも無理して変わることはないし、変える必要もない」
「喜多見……」
 悔しくて情けないけれど、嬉しかった。不甲斐なくて子供な自分でもいいと受け入れてくれることが嬉しい。
 我ながら現金で単純だとは思うが、素直に喜んでしまうことにする。
 志木は頷いて、喜多見を抱きしめた。
「このカード、使い切ったら次のは自分で買うから」
「わかった」
「あんたの番号しか登録しないよ。あんたにだけしか電話しない」
「おまえにやったんだから、おまえのものだ。好きに使えばいい」
「いつでも声が聞きたい人はあんただけしかいないから、あんただけでいい」
「――そうか」
「そうだよ。それから、浮気なんてしねえから余計な心配いらねえぞ」
「そうか」
 耳元で、笑う気配がした。
「なあ」
「なんだ?」
「キスしていいか?」
「――いいぞ」
 了解を取ってから、志木はいったん腕を緩めて、喜多見の眼鏡を外して唇を重ねた。
 喜多見はなんの抵抗もなしに志木を受け入れる。深く重ねても、舌を滑り込ませても、逃げることはない。学校での彼とは、本当に別人のようだ。
 これが素なのか、それとも志木を好きでいてくれているからなのか、それはまだ志木には判らない。だが、こんな姿を見せてくれるのは志木にだけだ。志木だけが、いつもの表情の向こう側の喜多見を知っている。
 志木は、角度を変えてもう一度深く口づけて、喜多見の体を固く抱きしめた。

「――なあ」
「ん?」
「コレくれたの、俺が駄々こねたからか?」
 自転車のカゴに乗せた携帯電話の箱の入った紙袋に視線を遣り、志木はとなりを歩いている喜多見に尋ねた。
「駄々だっていう自覚はあったのか」
 笑う喜多見に、志木は決まり悪げに目を逸らす。
「あるよ。だって喜多見の言うことは正しいし。オレのはわがままだってわかってる」
 わかっていても、抑制が利かなかったのだ。喜多見が言ったように、遠く離れているよりいいのだということも、これまであまり我慢せずに済んでいたということも、本当はわかっていた。だが、冷静な喜多見に対して、自分だけが右往左往しているのが悔しかった。
「クラス編成が済んだときから考えてはいたんだがな。用意する前におまえが拗ねてしまって、渡す機会がなかった」
「――お見通しかよ……。カッコ悪……」
「そうじゃない」
「え?」
「淋しいだろう?」
 ――誰が? 俺が? それとも――
 立ち止まって喜多見を見つめる志木に、喜多見は僅かに微笑みを返しただけで志木を置いて歩いていく。
 志木は慌ててその後を追いかけて、喜多見の横に並んだ。
「喜多見! 俺はバカだから、ちゃんと言ってくんねーと自惚れるぞ?」
「自惚れ、という言葉は知っていたのか」
「知ってるよ、そのくらい――じゃなくて!」
「おやすみ、志木」
 喜多見は何も答えず、志木の頭をくしゃりと撫でて、分岐路で志木に背を向けた。
 志木はその場に突っ立って、去っていく喜多見の背中を見送る。
 その姿が視界から消えてやっと、息をついて肩の力を抜いた。そうして、大きく伸びをして天を仰ぐ。
「……ったく……ずるいんだよ」
 見上げるそこには中天の月。新緑の匂いが辺りに満ちている。
「自惚れてやる」
 志木はポツリと呟いて、自転車を漕ぎ出した。

−終−



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