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Vol.1 『孵化温』
書き物をしていた手をふと止めて、暖かい春の日差しに満ちた窓の外に目を遣った。
4月中旬並みの暖かさだと朝のニュースの天気予報で言っていたが、たしかに肌寒さは一切なくうららかな陽気だ。
あるかなきかのそよ風に、うっすらと紅く色づいた桜の花びらが揺れている。
遠くから聞こえてくる部活動に励む生徒達の声を聞くとはなしに聞き、窓枠に頬杖をついてぼんやりと景色を眺めていると、視界に見慣れた姿が飛び込んできた。
白いワイシャツを腕まくりし、濃紺のズボンと同色の上着を片手に、真っ直ぐに駆けてくる。2階のこの部屋まで、息遣いが聞こえてきそうな勢いだ。
見つめていると、不意に顔を上げ、視線を寄越してきた。
目が合う。黒髪が陽光を弾き返した。
「喜多見!」
彼は心底嬉しそうに破顔してそう声を上げ、大きく手を振った。
まるで主人を発見した大きな犬のようだと、喜多見は思った。
「喜多見! 進級決まったぜ!」
国語科の準備室に飛び込んでくるなり、満面笑顔の志木は興奮気味に話し出した。
「志木。言葉遣い」
「あ。えーと、喜多見…先生。進級決まりました」
言い直した志木に頷いて、喜多見は右手を出す。
「答案を見せなさい」
志木は握りしめていた紙束を広げて、素直に喜多見へ差し出した。
喜多見は差し出されたそれを一枚一枚確認する。やがて、普段はあまり表情を変えない喜多見の眉間が、険しい皺を刻み始めた。
「志木……なんだこの点数は」
どれもこれもボーダーラインギリギリの点数なのだ。まさに滑り込みセーフというやつである。担当教科である古文の補習に加えて他教科の勉強も見てやっていた喜多見からすると、情けないやら空しいやら。
「……俺なりに頑張ったんです、けど……」
志木はしゅんとして肩を落とした。
平均的な高校生よりたくましく、長身の部類に入る喜多見とさして背丈も変わらない大きな体を縮めてしょげかえっている志木を、喜多見は改めて見返した。
いつもは血色のよい顔色が冴えない。目の下には、うっすらとクマが浮いている。
「――きちんと睡眠をとっているか?」
「体力だけは自信あるから平気ッス」
志木はそう言って笑った。
この家族思いの高校生は、母子家庭の家計を助けるために、少しでも時間が出来ると際限なく働きに出ている。春休みなのでアルバイトの時間も増やしてるはずだ。いくら若くて回復が早いとはいっても、疲労がたまらないわけがない。
喜多見は手を伸ばし、志木の頭を撫でてやった。
「なんすか?」
「褒美。進級おめでとう」
「……ご褒美くれるんなら他のもんがほしいなあ」
ぽつりと洩らした志木に、微かに笑っていた喜多見の目がすうっと細くなる。
「この点数で自ら褒美をねだるとはいい度胸だな、志木」
「……やっぱりいい」
眼鏡越しの視線の圧力に、志木はすごすごと引き下がった。
「いいから言ってみろ」
瞬時に冷淡な空気を笑顔に変えた喜多見に、志木はほっと気を緩めて、
「――キスしてほしい」
正直に要望を口にした。
「この色ボケ小僧が」
にこやかな笑顔のまま辛辣な言葉を吐き捨てた喜多見に、志木は大袈裟なほどに怯えて後退った。
「だ、だって、そりゃベンキョー教えてもらってたから一緒にいられる時間は長かったけど、もう3週間も喜多見に触ってないんだぞ。いい加減、限界――ふが!」
喜多見に思いっきり片頬を抓り上げられた志木が、奇妙な悲鳴を発した。
「ここはどこだ?」
「がっこーれふ」
「学校では?」
「教師と生徒」
「わかっているなら何度も同じことを言わせるな」
手を離して、喜多見は冷たく言い放った。
「春休み中でもダメなのか?」
「駄目だ」
にべもない喜多見に、志木はしょんぼりと項垂れた。
若い志木のやるせなさがわからないわけではない。しかし、学校では教師と生徒という関係を、言葉でも態度でも崩さないと約束させている。それを喜多見から反故にする気はない。それは、志木のためでもあるのだ。
喜多見は、答案用紙を志木に返し、デスクに戻って書きかけの書類を広げた。
「これからバイトに行くんだろう? 何時までだ?」
視線は紙面に落としたまま、喜多見は志木に問いかけた。
「今日は夜の8時まで」
「終わったらうちに来なさい。夕飯作って待っててやるから」
見なくても判る。雲間から光が差すように沈んだ顔を笑顔に変えて、嬉しげに笑っているだろう。
はたして、
「わかった! ぜってー行く!」
ちぎれんばかりにプルプル振るう尻尾が見えるような弾みまくった声でそう返し、志木は足取り軽く部屋を出ていった。
喜多見は微苦笑を唇に刻んで顔を上げると、志木が出ていった扉へと目を遣り、再び書類へと視線を戻して仕事を再開した。
午後8時30分。
喜多見の自宅に志木がやってきた。
そして、家に上がるなり、志木は喜多見を抱きしめた。
喜多見は抵抗しない。ここは学校でも街中でもないし、いまはもう二親とも他界し、妹も家を出て一人暮らしをしているため、喜多見ひとりのこの家では誰に憚ることもないからだ。
「食事は?」
しばらく抱きしめさせてやってから、喜多見は尋ねた。
「もう我慢できない」
喜多見の首筋に顔を埋めた志木は、固く抱きしめる手を緩めずに答えを返す。
「――ケダモノめ」
溜め息と共に吐き出したその一言に、志木は喜多見を離して困った顔をした。
「健康な男子高校生にそれはひどくねえ?」
その顔が可笑しくて、喜多見は少しだけ口元を綻ばせると、志木に触れるだけのキスをした。そして、再び抱きしめようとした志木の手からするりと逃れ、
「汗くさいぞ。沸かしてあるから風呂に入ってこい。しっかりつかって、ちゃんと洗って来いよ? ――部屋で待ってるから」
肩越しに振り返って、そう告げた。
喜多見が寝室にしている和室からは、庭に一本だけ植わっている桜の木がよく見える。開花の早かった今年は、すでに七分咲きといったところだ。
志木の生乾きの髪を撫でながら、喜多見は桜を見上げた。
素肌を辿る志木の指と唇が喜多見に快感を与えるたびに、眼鏡をしていない視界がさらにぼうっと霞んで、桜がより一層幻想的に見えた。
志木の唇が首筋を滑り、鎖骨を渡り、胸の突起をざらりと舌で舐め上げる。指先が手首を撫で、腰骨を掠め、内腿に降りてゆく。高ぶり始めている股間のものを撫でさすられ、たまらず吐息が漏れた。
3週間ぶりのセックスに、志木はすっかり夢中の体だ。
喜多見は、志木のやりたいようにさせていた。ひたむきさが、時に巧さよりも快いものを生む。志木の手指と唇が、喜多見の躰をゆるゆるとひらいていく。
睦言もなく愛撫を交わしながらどれくらい経ったか、志木の指ですっかり後ろが慣らされると、それまで志木のするに任せていた喜多見が身を起こし、志木の手をそっと押し止めた。
「……喜多見?」
志木が不思議そうに喜多見を見る。
喜多見は愛撫に乱れた呼吸を整えて、志木の肩を強く押した。
不意をつかれた志木が、布団に倒れ込む。かまわず喜多見は、倒れた志木の下腹を跨いだ。
「頑張ったご褒美をあげよう、志木」
言って、喜多見は硬く張りつめていた志木のものに手を添えると、自らその上に腰を落とした。
「ん…っ」
志木の唇から、小さな呻き声が漏れる。
ゆっくりと奥まで挿れて落ち着くのを待って、喜多見は自分から腰を揺らし始めた。
「喜多見……ッ」
「……ん?」
「あんた、昼間と全然態度ちが……ッ」
「――いまは、教師と生徒じゃないからな」
もたらされる快楽に翻弄されている志木に、喜多見は小さく笑ってみせる。
喜多見からも、余裕は消えつつあった。喜多見の中の志木のものが最奥の一点を掠め、腰から背中を電流のように快感が走り抜ける。
年上の矜持も、余裕も、いつもの喜多見のさらりとした冷えた体も、志木の肌と行為そのものの熱さに融け、温度を上げていく。
そして、喜多見の中の何かが孵った。甘さを伴った情欲と渇望が理性の殻を破って顔を出す。
「――ったのは…えだけ……い」
「…きた、み…? いま何て言……ッ」
内壁を締め付けて問い掛けを封じ、喜多見は薄く微笑んだ。
すぐに浮かれるこの単純でかわいい大型犬には、教えてやる気はない。喜多見だけの胸に秘めていればいいのだ。
恋しかったのはおまえだけじゃない、などという一言は。
窓の外。暖かい夜気に包まれて、桜の花びらが微かに揺れていた。
−終−
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