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『君とどこまでも』
左手に背広を、右手に旅行バッグを持って、瀧川は駅のコンコースの雑踏を小走りに抜けた。
走りながら、左手の指で挟んだ乗車券に視線を落として出発時間を確認する。
10番ホーム、22時発。
左の肘を上げて反動で背広をスライドさせ、顔を出した腕時計の指し示す時刻は21時52分。
目指す10番ホームはもうすぐだ。なんとか間に合いそうである。
遅れてくどくど文句を言われてはたまったものではないので、瀧川は足を速めた。
エスカレーターまで回り込む余裕はないので、一番近い階段を一段とばしに駆け上がる。すでに三十路に突入している体には少々こたえるが、ほんの数十段の辛抱だ。
ホームに出ると、そこにはもう乗り込む予定の列車が止まっていた。切符と車体を交互に見比べ、指定の車両に向かう。
幸い、使用した階段は切符に記載されている車両と近かった。時間もないのですぐに乗り込み、座席を捜した。
「おう、遅かったな」
窓に面した座席に腰掛け、上村が瀧川を迎えた。
「これでも…走ってきたんだ、よ…」
まだ整えきらない息のまま瀧川は言い返した。
3連休を前に急ぎの仕事が入り、この2日間で必死に書類を仕上げたのだ。ギリギリまでキーボードを叩き、プリントアウトして綴じ、上司に提出して職場を駆け出た。
出勤時に乗換駅のロッカーに入れておいた荷物と仕事用のカバンを入れ換え、着替えもせずに駆けてきたのだ。間に合ったのだから、文句を言われる筋合いはない。
「まあ座れよ。ほれ、烏龍茶」
上村は向かいの席を指し示し、瀧川にペットボトルのお茶を差し出した。
労いの言葉ひとつなく素っ気ない答えを返した上村に言ってやりたいことはいくつもあったが、ひと息つきたいのはたしかなので瀧川はそれに従った。
旅行バッグと背広を置き、ペットボトルを受け取って、ネクタイを緩めながら腰を下ろす。
車体ががくんと揺れ、電車がゆっくりと走り出した。
冷たいお茶を嚥下する瀧川を見届けてから上村が立ち上がり、瀧川が放り投げた背広を備え付けてあったハンガーに掛けた。
短くした髪に口数の少ない性格がいかにも体育会系という上村だが、これでけっこうマメで世話好きだ。愛想が悪そうなのに、職場での営業成績はいいらしい。
思えば大学の頃から、上村は瀧川の世話を焼いていた。
現在企業の企画部にいるとおり、瀧川は何かをするときに事細かに計画を立てる方なのだが、自分のこととなるととたんに大雑把になる。上村は計画性はあまりなく行き当たりばったりなので、大抵は瀧川の立てた計画に付き合い、瀧川自身の大雑把なところだけをカバーしてきた。
そして、大学を出て別の会社に勤めだしてからも何となく付き合いがあり、そのうち何故かなし崩し的に友人以上の付き合いをするようになった。
どうしてこいつなのだろうと、瀧川はこれまで何度となく考えた。
何かあると言い合いになる。顔が好みというわけではないし、抱き心地だって良くはない。一緒に暮らそうという話も出ない。
それなのに、もう5年も続いている。
「その様子じゃあ晩飯食ってねえだろ。なんか食うか?」
自分を凝視する瀧川の視線の意味を問いもせず、席に戻った上村は瀧川に問い掛けた。
「なにがあんの?」
「おまえ、夜はあんまり食わねえから――握り飯と、つまみと、日本酒と、冷凍蜜柑と…」
「あ、おれ冷凍蜜柑好き。くれ」
上村の手にしてビニール袋の中を覗き込みながら瀧川は言った。心得たもので、おにぎりの具からつまみの種類までしっかり瀧川の好きなものを揃えている。
瀧川が差し出した手に、上村はひんやりと冷たい冷凍蜜柑をひとつ載せた。
「――って、なんだよコレ。固くて食えねえじゃんか」
ガチガチに凍った冷凍蜜柑は、かぶりつくのも無理そうだ。
「ホームで買ったからな。少し置いとけば食えるだろ。こっち食いな」
上村は、瀧川の手から冷凍蜜柑を取り戻し、代わりにスナック菓子と乾き物を差し出した。のり塩味のポテトチップスと、イカの薫製。どちらも瀧川の好きなメーカーのものだ。
「酒は?」
「ほれ」
ポテトチップスの袋を開けながら尋ねた瀧川に、上村はビニール袋の中から取り出した酒を座席の脇の小さなテーブルの上に置いた。
「……ワンカップかよ……」
透明なビンにアルミの蓋のそれを見て、瀧川はがっくりと肩を落とした。
「酒は酒だろうが。それの他には缶ビールか缶酎ハイしか見あたらなかったんだよ」
たしかに、駅のホームでは小洒落たものなど売っていない。日本酒党の瀧川のためにこれを選択したのもわかっている。だが、あまりにも色気がない。
「オヤジじゃねえんだから」
「もうオヤジだろ」
「なにおう! おれはまだまだ若いぞ!」
「体力落ちてんじゃねえか」
「走って来りゃ息ぐらい上がるんだよ! だいたいなんで寝台車なんだ」
瀧川は憮然とした表情で腕を組んだ。大の男が2人、狭い寝台列車で窮屈そうに座って旅をするなど暑苦しいことこの上ない。忙しさのあまり旅行の段取りを任せたらこれだ。
「たまにはいいじゃねえか。旅情そのものを味わうんでも」
「おれはせっかちなんだよ」
「知ってる」
「窮屈なとこは嫌いなんだよ」
「そうだが……そんなに狭くもないだろう?」
「狭いって。ろくに動けもしねえ」
「おまえが俺の上に乗ってくれれば大して問題ねえだろ」
「ふざけんな。おまえが乗れ」
「潰れるぞ、おまえ」
上村の軽口に言い返したら、さらにそれを返されて、瀧川はぐっと言葉に詰まった。
たしかに上村のほうが体格がいいし力もある。自分が貧弱だとは思わないが、腕相撲をしても上村に勝てたことがないのはたしかだ。
上村は、上体を前に倒して瀧川へ手を伸ばした。
温かい手のひらが、瀧川の頬へそっと触れる。
「痩せたな。体重落ちたろう? ここんとこ忙しすぎだぞ、おまえ」
瀧川は黙って上村の手を押し退けた。
体重が落ちたのはたしかだ。忙しすぎるというのも間違いではない。だが、そう窶れているとは思っていなかったので、簡単に見抜かれて少し腹が立つ。
「残業も休日出勤も多かったし、たまにはゆっくりすんのもいいだろう。おまえときたら、目的地に着くとすぐ観光に出たがるからな」
「――それで寝台車?」
「ああ」
頷いた上村に、瀧川はそれ以上言い返せなかった。
珍しく「次の旅行は俺に任せろ」と言ったと思ったら、そういうことだったのか。
昔からそうだ。素っ気なく無愛想な上村だが、瀧川のことにはよく気がつく。
「向こうに着いたら好きな酒買ってやる。とりあえずそれ飲んどけ」
「…えらそーに……」
呟いて、瀧川は酒の蓋を開けてひと口あおった。そして窮屈な革靴を脱いで、向かいに座る上村の膝の上にひょいと足を乗せる。
「おまえ……これ、今日1日はいた靴下じゃねえのか」
「それがどうした。おれの足がくさかったことがあったか」
「……ないけどな」
「じゃあ文句言うな」
上村は軽く息をつき、あやすようにぽんぽんと瀧川の臑を叩いて、窓縁に肘をついて窓の外に視線を移した。
建物から漏れる明かりだけが流れていき、景色は見えない。
しばらくして、上村が冷凍蜜柑を手に取った。大きな手で器用に皮を剥き、剥き終わったそれを丸ごと瀧川に手渡す。
瀧川は持っていた酒を小さなテーブルに置き、蜜柑を受け取った。
「……なあ」
「…ん?」
「この列車、どこ行きなんだ?」
「出雲」
「いずも!?」
寝台列車なので遠方だとは思っていたが、思ったよりも遠くて驚いた。そんな瀧川を、上村が呆れたように見遣る。
「切符に書いてあったろうが?」
「だっておまえから切符受け取ったの3日前じゃねえか。めちゃくちゃ忙しかったから、とりあえず出発ホームと時間だけ確認して――」
「普通は行き先も確認するだろう?」
「そ……だよな。なんで見落としてたんだ、おれ」
「俺が知るかよ」
首を捻って上村を見た瀧川の視線を受け流して、上村はため息をついた。その呆れた響きに、瀧川はムッとして言い返す。
「おまえだって、おれが出掛ける計画たてる時はどこに行くか判ってないことあるじゃねえか」
「そりゃ……」
「そりゃなんだよ?」
「おまえとなら、どこへ行くんでもかまわねえからさ」
「――――」
瀧川は返ってきた答えに目を見張り、そして黙り込んだ。上村も言葉を続けようとせず、瀧川の膝の上の乾き物の袋に手を伸ばす。それに引きずられるように、瀧川は蜜柑を口に運び始めた。
そうだったのか。
自分のおかしな行動にふと答えが出て、妙に納得してしまった。
どこへ行くのでもいいと思ったのだ、瀧川も。それはたぶん、相手が上村だからだ。
なぜ上村なのかはやはりよくわからない。
けれど、どこへ行っても、どこまで行っても、たわいもない話をし、ひと眠りして、そしてまたいつものように、なんでもない会話を交わし些細なことで言い合う朝を、こうして向かい合って迎えるのだろう。
「出雲に着いたらどこに行こうか」
「やっぱ出雲大社だろ」
「ほんと観光好きな、おまえ」
「んだよ、基本だろ。それにおまえ、寺とか神社とか好きじゃん」
「…基本だな」
上村は笑って、瀧川が寄越した幾房かの蜜柑を受け取った。
−終−
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