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『ミュージック オブ ライフ』
ホールの天井に跳ね返った音の群れが降り注ぐ。
余韻を楽しむかのように上向かせていた顔を戻したドイツ人マエストロが、にっこりと笑って「グレイト!」と拍手をした。
本番を明日に控えてのリハーサルはこれで終了ということだ。
オケのメンバーの表情にも、とりあえずの安堵と本番に向けた緊張が程よく混じり合って浮かんでいる。
河田は小さく息を吐いて立ち上がり、飴色の愛器を手に同僚達と共に控え室へと向かった。
現在この地で行われている『秋の芸術祭』と題した音楽フェスティバル。河田は、その最終日のメインプログラムの演奏を務めるオーケストラに所属するチェリストである。
かつてはソリストを目指すことも考えたが、大学に入る頃には志望はオケに変わっていた。大人数でひとつの音楽を作り上げることに魅力を感じたからだ。
以来、15年。
元々公演数の多い楽団だったが、昨今クラシックのイベントが増えたこともあって、なかなかに忙しい毎日を送っている。
「本郷、晩飯どうする?」
まず愛器を丁寧にケースに納めてから、河田は近くにいた同僚に声を掛けた。
「春日さんや森下くんと牛タン食いに行こうって話してますけど、いいんですか?」
土地の名物の名を挙げた本郷は、不思議そうに首を傾げて逆に河田に問い掛けた。
「何がだ?」
「河田さん、若松さんと飲みに行くんでしょ? 若松さんが客演の時はいつもそうじゃないですか」
「…ああ、いや、うん――?」
河田は眉間にしわを刻んで唸るように曖昧な返答をした。
若松一成は、今回ソリストを務めるヴァイオリニストだ。若くしてヨーロッパで頭角を現し、国内よりもむしろ国外での評価が高い。
現在でも日本にいるより海外にいる時間の方が長い男だが、河田が所属するオーケストラの常任指揮者と懇意で、年に1回は客演として出演している。また逆に、彼の日本でのコンサートの演奏として河田のオケが参加することもあった。
そのため10年ほど前から顔見知りではあり、河田の方は初めて若松の奏でる音を聞いた時からその音に好感を持っていたのだが、親しく話すようになったのはここ三、四年のことである。
声を掛けて来たのは若松からで、練習やリハーサルや本番のあとに河田を飲みに誘うのも若松の方だ。そしていつの間にか、約束などしていない時でも若松と出かけるのだと思われるようになってしまった。
もっとも最近は河田も誘いを断ったことがないので、そう思われても仕方がない部分もある。
そうして今日も、若松の方が河田の前に姿を現した。
オケよりも先にリハーサルを終えていた若松がひょっこりと控え室の入口から中を覗き込み、河田の姿を発見すると手指で「一杯飲ろう」という仕草をしてみせる。
「ほら、ご指名ですよ」
「…そうみたいだな」
本郷の指摘に河田は苦笑した。
30歳を超えて肩も腰も厚みを増した河田よりさらに3歳年上だが、容貌に三十路の男の落ち着きはあっても青年のようなスリムさと若々しい華やぎを保っているのはソリストだからだろうか。
しかし、仕草や発想はむしろ実年齢より老けているのが若松の面白いところだ。
コンサートマスターに明日はよろしくと握手を求めてから、河田の返事を聞きもせずに若松は出ていく。その背中を見送ってから、河田はチェロケースを手にゆっくりと立ち上がった。
廊下に若松の姿はなかったが、気にせずホールの出入り口へと向かう。
行き交う人々と挨拶を交わしながら外へ。
そこに、上着とヴァイオリンケースを手にして空を見上げている若松の姿があった。白いシャツの裾が夕暮れの風にはためいている。
若松は歩み寄る河田に気付くと、あと一歩の距離に近付くまで待ってから歩き出して言った。
「リハお疲れ」
「若松さんも。――店、どこにします?」
「んー…俺の部屋来ないか? どっかで地酒とつまみでも仕入れて、のんびり飲もう」
「……」
「嫌か?」
「嫌じゃないですよ。相変わらずインドアだなと思ってただけです」
若松は、社交的な性格と見た目のわりに、音楽に関すること以外ではあまり出歩くことを好まない。公演先でリハーサルや取材のないフリーの時間は、ホテルの部屋に籠もっているか、ジョギングか散歩をしている。
体力は演奏家に必要なものなのでジョギング自体はおかしなことではないが、ジムに行くよりパソコンゲームで将棋でも打っている方がいいと言うのを聴いた時には、そのギャップに思わず笑ってしまったものだ。
若松は、その時も今回もまるで怒らなかった。自覚はしているらしい。
河田がホテルで飲むことを承知したからか、他に理由があるのか、若松は鼻歌交じりに歩調を早めた。
河田はあえて追いすがらずに、数歩間隔をあけて若松の背中を追った。
コンビニエンスストアのつまみではさすがに味気なかろうと、駅まで行き土産物屋で土地の名物で肴になりそうなものを購入した。政令指定都市だが観光地でもあるので、その手のものも豊富に揃っている。地酒も売っていたので、冷えたものを買い求めた。
そして若松が宿泊しているセミスイートで、つまみと他愛もない話と音楽談義を肴に日本酒を酌み交わすこと数時間。
良い加減に酔いの回った体に手を伸ばされても、誘うようなキスをされても、河田は避けなかった。部屋に呼ばれた時からこういう展開を予想できていたし、この期に及んで逃げる理由もない。
初めてキスをした時も、セックスをした時も、誘ったのは若松からだった。親しく言葉を交わすようになった公演の、最終日の夜のことだ。
突然で驚いたが、河田はその誘いに自分でも意外なほどすんなりと乗った。
その当時はちょうど恋人はいなかったので後ろめたさもなく、若松が男だということにも抵抗はなく、行為の数々に戸惑いはあっても嫌悪はなかった。
だが、遊ばれたのだろうと思っていたのだ。その時は。
しかし2ヶ月後に別の公演で再会した時、若松はそうすることが自然だとでもいうように、まるで10年来の付き合いであるかのごとく河田に話しかけ、飲みに誘った。飲むだけでは終わらず体を重ねたが、それにも違和感はなかった。
そんなことが度重なって数年。いつでも若松は、躊躇いなどまるで見せずに河田に触れる。
だが、時々わからなくなる。
たまにイレギュラーもあるが、季節に一度会えればいいほうで、日本と欧州とで遠く離れて暮らしていてほとんど電話もしない。
こうやって共に過ごしていても、特別な愛の語らいなどない。
ただ、一緒にいるだけだ。
「…河田さん? どうした?」
思考の渦に巻き込まれそうになった河田の顔を覗き込み、肌を滑らす手を止めた若松が尋ねた。
「……それ、いい加減やめてくださいって」
河田は若松の問いには答えずに懇願した。親しく話すようになってから河田に対して敬語など使わないのに、何故かずっと名前だけはさん付けで呼ばれているのだ。
「もう癖みたいなもんなんだよなー。だって俺、最初おまえの方が年上だと思ってたからさ。元々落ち着いて見えたけど、4、5年前から音にも貫禄が出たし、今でも年下って感じしないんだよ」
「どうせおれは老けてますよ」
「老けてるのと貫禄があるのとは違うだろ。誉めてんだから拗ねるなよ」
そっぽを向いた河田の眦に口づけて、若松は河田の意識を行為へと引き戻す。
そして、強引に上に乗り上げて、河田の体を組み敷いた。
身長は若松の方が高いが、体つきは河田の方がしっかりしている。それを簡単に組み敷けるのだから、文化系に分類される音楽家という存在だがやはり体力がなくてはやっていけないと、少々場違いなことを思いつつ河田は若松を見上げた。
「……おれが下?」
「逆がいい?」
「――いや、明日本番だし……」
どちらかといえば河田が上になることの方が多いが、その場のノリで気の向くまま逆転することもある。
だが本番前日は、ソリストとして長時間舞台に立っていなくてはならない若松に無理をさせられないという気持ちもあり、若松の好きにさせることが多かった。
「そう? じゃ、遠慮なく」
「ちょっとは遠慮してくださいよ? オケだから座ってられるって言ったって…」
「わかってるって。俺だっておまえのいい音背負って弾きたいし」
歌うように囁かれて、河田は言葉に詰まった。そんなことを言われては、何も言い返せない。
言い返せない代わりに、先ほど浮かんでいた疑問が口をついて出てくる。
「……おれら、なんでこんなことしてんでしょうね?」
「恋人だからだろう?」
不思議そうな顔をして、何を当たり前のことを言っているのだというように若松が答える。少し間をおいて「恋人ですか」と河田が返すと、拍子抜けしたといった表情でため息を吐いた。
「なんだよ、そう思ってたの俺だけか? 俺は今おまえ以外にこういう事したい奴はいないし、音楽の次に大事だと思ってんだけどなあ」
若松は脱力したように河田の胸の上に突っ伏した。そして河田の右手をとって、指先を弄ぶ。
「一番じゃないっていうのが原因で別れた奴は何人もいたよ。だけど俺は、恋人が死んでも生きてはいけるけど、音楽なしには生きられない。おまえもだろ?」
なんとも軽い口調だったが、言いたいことが口調ほど軽くはないことはよくわかった。
河田も若松と同じだ。どちらか選べと言われたら、おそらく音楽を取る。
それを酷いという人間はもちろんいるだろう。
けれど、弾けなくなったらと思うとゾッとする。その絶望を想像するだけで恐ろしい。
失う前でこれなのだ、もしそんな日が来たら――
「俺はさ、おまえの音がとても好きなんだよ。しばらく日本に帰れなくて一年ぶりくらいに会ったら、おまえの重厚なのに繊細な音が、前よりもっと深くて、すごくいい音になってて――あの音に惚れたんだよ」
始めて耳にするそれに、河田は全ての疑問が氷解したような気がした。
突然話しかけられたわけも、つかず離れず、だが切れることなくこの関係が続いているわけも。
「おれも好きですよ、あんたの音。明るくて、開放感があって、柔軟なのに強くて」
自分の指に触れていた若松の左手を握り、河田はその指にキスをした。
この指が、この体が、あの音を生み出している。
若松の奏でる音は若松そのもので、河田の奏でる音もまた、河田自身だ。そしてその音は、自分たちが心も体も人生も捧げた『音楽』の中に存在する。
どこにいても一番近くに在るのだ。距離や時間は関係なかった。
いつになく夢中になって貪りあった後、いつの間にか眠ってしまっていたようで、目が覚めると心地よい音が室内を満たしていた。
薄目を開けると、バスローブ姿の若松がヴァイオリンを弾いていた。ブラームスのヴァイオリンソナタだ。
若松は弾けることが嬉しくて楽しくて仕方がないといった恍惚にも似た表情で、上機嫌で奏で続けている。コンサート中にもたまにこういう表情をすることがあった。
その上、先ほどまでの行為のせいか、音や表情のそこかしこになんともいえない艶がある。
最後の一音まで待ってから、河田は声をかけた。
「あれ、起きてたのか。体きつくないか?」
振り向いた若松が驚いたように目を見開く。
「平気。久し振りだったからちょっとクラクラしたけど」
「悦すぎて?」
「何ですか、その自信」
若松は笑ってヴァイオリンをケースに戻した。
残念だという思いが河田の胸を掠める。もう少し聴いていたかったのだ。寝たふりをしておけばよかった。
「悦くなかったのか…。すごくがんばったんだけどなー」
「悪かったなんて言ってないじゃないですか。なんでまたそんなにこだわってんですか」
「今年の秋は河田さんをエロくしようってのがテーマだから」
「はあ?」
一体いつの間にそんなテーマが決まったのだ。唐突な宣言に河田は思いきり顔をしかめて問い返した。
しかし若松は気にもせず、横になったままの河田の上にダイブするように転がる。
「知ってる? セックスした次の日のおまえの音って、すごく色気があんの」
妙に嬉しそうに笑う若松に、どこまで音楽バカなのかと思いかけて河田はそれを打ち消した。
会わなくてもうまくいくはずである。結局、同類なのだ。
河田は苦笑して、受け止めた若松の体を抱きしめた。
−終−
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