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『数センチ』
新緑の匂いが、開け放った窓から微風とともに漂って来る。植物も風もそして空も、春の盛りを過ぎて初夏のものへと変わり始めていた。
何もかもが賑やかなこの季節を、久坂は嫌いではない。いつも校舎の隅の研究室に籠ってばかりだが、壁一枚向こうの華やぎを静かな部屋の中で感じる時、むしろ贅沢だと感じる。
久坂は、人の気配のほとんどない廊下を進み、目指す部屋のドアを開けた。
部屋の大きさは10畳ほどあるが、一見してはそれほどあるように見えない。
ドアを開けて飛び込んで来るのは、2人の人間がどうにかすれ違えるほどの間隔で置いてある飽和状態の書架で、天井までびっしりと本で埋まっている。
久坂はドアのすぐ左脇、書架の一番手前にある60センチほどの隙間から奥へと進んだ。
ドアから見て左の書架と背中合わせに、同じ書架がもうひとつ。それが間仕切りのようになって、部屋の左側にもうひとつ空間を作っていた。
ドア側の壁にはコート掛けと、コーヒーメーカーの乗った胸の高さほどの棚と、小さな冷蔵庫。
間仕切り代わりの書架の対面の壁にはやはり天井までの棚があり、資料のファイルやスクラップブックなどがぎっしりと詰め込まれている。その間に挟まれているのが久坂のデスクだ。
そして窓の前の、両脇に資料を積み上げたデスクに突っ伏すようにして居眠りをしているのが、この研究室の主の高田である。
久坂は、右手に持っていたぎっしりと本の入った二枚重ねの紙袋から音を立てないように本を取り出して、部屋の真ん中にある縦長のテーブルに積み重ねた。そしてその隣りに、軽食の入ったコンビニエンスストアのビニール袋をそっと置いた。
コーヒーメーカーから、コーヒーの香りが漂って来る。
年代物のせいか、保温プレートが熱くなりすぎるため1時間ほど放っておくと煮詰まってしまうのだが、そういった匂いではないので、高田が久坂の戻る時間を大まかに見計らって寝入ってしまう前に準備しておいてくれたのだろう。
久坂は唇に小さな笑みを浮かべて、テーブルと平行に並んで書架を背にしている、来客用にと昨年購入した2人掛けのカウチの背に乗せてあったカーディガンを手に窓際へ移動した。
暖かい日和とはいえ、窓際の日だまりと部屋の中とでは温度差がある。背中が冷えてしまわないよう、高田の肩にそっとカーディガンを掛けた。
久坂がこの大学に入学した時、高田は助教授だった。高田のゼミで4年間を過ごし、さらに大学院まで進み、そのまま助手になって10年。その間に高田は教授になり、久坂はその研究をサポートし続けている。
4年で大学を卒業してサラリーマンになるつもりでいた久坂だったが、高田の研究は大層面白かった。さして目標もなくなんとなく選んだ学部とゼミでここまで嵌まるとは思ってもみなかった。
研究も高田の補佐もやり甲斐がある。自分の選んだこの道に後悔など何もない。
ただひとつ悔いていることがあるとすれば、高田に想いを告げる機会を逸したことだろう。
第一印象は“変な人”だった。なんとなく興味を引かれてゼミに入り、それが好感へと変わった。
その後は研究に夢中になって日々が過ぎて行き、気がつけば高田を慕わしく思う自分がいた。
しかし気付いた頃にはすでに高田は結婚していて、しかも夫人は病の床についていた。
やがて彼女は他界したが、結婚してわずか1年半で妻を亡くした高田に告白など出来ようはずがない。気落ちしている高田を助手として支える事しか、久坂には出来なかった。
あの時、弱っているところに付け込む事になっても好きだと告げておけば――そう思ったこともある。ずっとそばにいたのに、あの時しか機会はなかった。
だが、それも巡り合わせなのだろう。
誰より理解しているという自負がある。誰よりも長い時間そばにいる。それでよしとしろということなのかもしれない。
久坂は強くなった風を頬に感じて、高田に落としていた視線を上げた。そして、そっとデスクに手をついて、開け放たれた窓に手を伸ばす。
上下にスライドさせる方式の古い窓を3分の2ほど閉じ、起こしてしまっていないか再度視線を高田に戻して、久坂ははっとした。
腕を枕にしている高田の指先が、デスクについた久坂の手からほんの数センチの距離にある。
わずか指の関節ひとつほどずらせば、久坂の指が高田に触れる。
その数センチのなんと遠いことか――
「高田さん……」
久坂は、ぽつりと呟いてゆっくりと手を引き戻した。
高田に目覚める気配はない。
デスクから離れる久坂の唇にはわずかに笑みがあった。
それが安堵の笑みなのか、それとも自嘲の笑みなのか、久坂には解らなかった。
* * *
コーヒーの強い香りに誘われるように高田は目を開けた。
良い香りというよりは、煮詰まってしまった濃い香りだ。
顔を上げると空はすっかり夕暮れに染まっており、3分の1ほど開いている窓から少し冷たくなった風が吹き込んでいる。
たしか全開にしていたはずだが、誰がいつ閉めたのか――高田は部屋の中を振り返ってカウチで視線をとめた。
久坂が、文庫本を持ったままの手を膝に乗せ、眠りこけている。
たまにしか来ない客でも椅子くらいなくてはと、久坂がリサイクルショップで格安で手に入れて来たカウチは、そのとおり来客用に、そして仮眠用にと大活躍だ。部屋は狭くなったが、高田はこの狭さが気に入っている。
高田は久坂が着せかけてくれたらしいカーディガンを手にデスクから離れ、カウチへと近付いた。
ゼミに入って来た当初の久坂は、単位のための授業やレポートをこなしているだけの、必要以上にはやる気の見られない学生だった。
変化が現れたのは秋が深まって来た頃だ。
高田の研究に興味を示すようになり、2年生になってからは次第に高田を手伝うようになった。4年を修了した後も大学に残ってそれは続き、やがて助手として正式に高田をサポートしてくれるようになって、今に至っている。
はじめは気の利く男だと思った。久坂がサポートに入ってくれると、その段取りの良さから研究の捗りもいいのだ。だが、久坂以外のゼミ生とも触れ、また久坂との付き合いが長くなるにつれ、気が利くだけでなく呼吸が合うのだということに気付いた。
神経質そうに見えて実は大雑把な部分も多い久坂が、高田のサポートに関してはきめ細かいフォローをする。指示通りであるのはもちろん、大抵指示以外のことをひとつふたつ付け加える。そのプラスアルファが不必要だと思ったことはいまだかつてない。
研究以外のことでも、こうしてほしいと口に出さなくても何気なくしてくれることが多かった。
ひと回りも年が違う男だが、高田にとってこれほど頼りになる人間はいない。つれあいを亡くした時も、教授になってからも、久坂は誰より頼れる相手だった。
高田は少しだけ身をかがめて久坂の顔を覗き込む。
役者のように特別きれいな顔をしているわけではない。独り者だからか年齢のわりには幾つか若く見えるが、学生時代と比べて随分と落ち着いた。
だが高田は、もはや不惑をとうに過ぎ、死別したとはいえ一度は所帯も持ったというのに、落ち着きなく惑っている。
久坂へ抱く思いに惑わずにはいられない。
いつから久坂をそういう目で見るようになったのか、高田は覚えていない。ある日ふと気付いたのだが、そんな自分に不思議なほど違和感がなかった。
きっと、ずっと以前から特別な存在だったのだろう。
だが、想いを言葉や行動に移したことはいまだかつてない。年齢などへのためらいに加えて、死別した妻のことがあったからだ。
見合い結婚ながら幸いにも相性がよかった妻との結婚生活は、1年半のうち入院が1年以上と実質半年もなかったためか、15年近く経ったいまではもう細かなことは思い出せない。
我ながら薄情だと思うが、そう思うからこそ、後ろめたい気持ちが高田にブレーキをかける。
そして、受け入れてくれるかどうかわからないという不安が高田に行動を起こさせない。
この部屋から、自分のそばから久坂がいなくなるのは嫌だ。それくらいなら、いまのままでいい。
外界から隔離されたようなこの部屋での、時がゆっくりと流れているかのような穏やかさは居心地がいい。焦燥もなく、苛立ちもなく、ただ互いの存在を煩わしさもなく感じていられる。
だが、そんな風に思い定めていても、消えることのない想いに時に惑う。
高田は、持っていたカーディガンを久坂の膝に掛け、左手をそっと頬へと伸ばした。
これ以上は気配で気付かれるだろうほんの数センチの距離で手を止め、久坂に反応がないことを確かめて引き戻す。
「…気付けよ、久坂」
高田は、吐息混じりに小さく呟いて苦く笑い、久坂のそばを離れた。
* * *
香ばしいコーヒーの香りとそれを抽出する音に、久坂は目を覚ましてカウチの背もたれから背中を離した。
その気配に、カップを用意していた高田が振り返る。
「おう、起きたか」
「…ああ、すみません教授。寝るつもりなかったんですけど」
「おれもだ」
「それにしてはしっかり眠ってませんでしたか?」
「この時期は机がぬくまって気持ちいいんだよ」
高田はそう言い訳をして、コーヒーをカップに注いだ。
「新しく落としたんですか?」
「煮詰まっちまったからな」
答えながらカップを両手にコーヒーメーカーの前から離れ、右手のカップを久坂に手渡して自分のデスクへと向かう。
「ありがとうごさいます、教授」
「――久坂くんさ」
「はい?」
自分の椅子に横向きに腰を下ろした高田は、背もたれを肘掛けにして久坂の方を向き、
「おれのゼミに入ってからもう20年近く経つのに、おれを名前で呼んだことは一度もないよな?」
「そりゃあ…教授こそ、僕は部下なんだから呼び捨てにしてくれていいんですよ?」
初めて会った時から高田は“先生”という立場にいて、名前で呼ぶ機会などなかった。機会がなければ不自然な気がして、名を呼びたくても呼べない。
まさか先刻の独白を聞かれていたのだろうかとどぎまぎしながら、久坂は何食わぬ顔で尋ね返した。
「…癖だからなあ」
もしや気付かれていたのかと一瞬言葉に詰まった高田は、動揺を押さえ込んで短く答えた。
人の名前に“さん・くん”を付けて呼ぶのは高田の習い性なのだ。長いことそれを続けているせいもあって、いまさら心の中や小さな独白と同じように呼ぶことは少し気恥ずかしい。
「まあ……今さらか」
「そうですね」
2人はそれぞれ口許に浮かんだ苦笑を隠すようにして手の中のカップに口を付けた。
互いへの距離は、あと数センチ。
−終−
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