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其の三『涙ノ理由(わけ)』
釜の蓋を開けるとふんわりと湯気が立ち上ぼり、炊きたての米の香りが鼻孔をついた。
つやつやと輝く米粒に、清太は嬉しげな笑みを浮かべる。食卓に白米を出すのは実に五日ぶりだ。
外泊していた主人の深見慎之介がふらりと戻って来たのは、昨夜遅く。博打で稼いだと言って差し出された金子で、清太は朝一番で米を購ってきた。
深見家は、武家とはいえ禄高もたかが知れている無役の貧乏御家人だ。家人は親の代から仕えている今年で十七歳になる下男の清太と、その七歳年上の当主・慎之介の二人だけだが、食卓が貧しくなることは珍しいことではない。
それでも清太としては、慎之介のためにできる限り充実した食事を用意したい。お前の飯は美味いと言ってくれているからこそ、尚更そう思う。
今日は魚も良いものが手に入った。下拵えは済んでいるので後は焼くだけだ。味噌汁も、慎之介の好みに合わせて大きめに切った大根をすでにだし汁で煮てあるので、あとは味噌を溶けばよい。
清太は熱い茶を用意し、慎之介の部屋へと向かった。
深見家はさほど広くないので、慎之介の居室と寝間は同じ部屋になる。清太は膝を着いて茶を廊下に置くと、襖の前の床板をこつこつと五回ほど拳で叩いた。
清太は生来、声を発することができない。だが、それで困った事はあまりなかった。聴覚には異常はないので他人の言っていることの理解は出来る。
幼い頃、慎之介から読み書きを教わった。そのおかげで、日常生活も身振りや筆談でこなせている。主の慎之介に至っては、口の動きや表情で意を酌み取ってくれる。
慎之介からの返答がないので、清太はそっと襖を開けて部屋の中へと入った。そして、眠っている慎之介の肩を揺する。
数少ない困ったことのうちのひとつがこれだ。慎之介はあまり寝起きがよくないのだが、声の出ない清太には、こうやって体を揺することしかできない。
――慎之介様、朝ですよ!
眠っているのだから唇を読むことは出来ないのだが、それでも昔からの癖で唇を動かしてしまう。
しかし、何度揺すっても慎之介は生返事するばかりで一向に起きる気配がない。
仕方がないので一度手を放し、どうしたものかと思案顔で首を捻った。たしかに寝起きはよくないが、大抵の場合は体を揺すれば起きてくれる。
起きられない理由でもあるのかとふと不安に思ったその時、夜具の向こうに数枚の紙片が落ちているのが見えた。
なんとなしに気に掛かり、落ちていた紙片を拾い上げてみた。どうやら誰かへの文のようだ。
勝手に読んではいけないものだ。そう思って元の位置に戻そうとしたが、とある部分が目に留まりつい注視してしまった。次の刹那、清太の顔が強張り、紙片に皺が寄るほど手に力が込められた。すぐにそれに気付いた清太は、己に対する驚きと動揺で紙片を取り落とす。
慎之介を振り返り、もう一度紙片に視線を戻し、しばらく躊躇った後に恐る恐る拾い上げた。
そして、改めてそこに書かれている文字を目で追った。
逢いたい。お前が愛しい。
読み間違えではなかった。たしかにそう書いてある。
清太は混乱し、困惑し、胸の奥がきゅうっと収縮するのを感じた。
その時。
「清太…?」
突然後方から聞こえてきた声にびくりと身を震わす。驚きすぎて、紙片を持つ手も強張ってしまう。
衣擦れの音と共に慎之介が体を起こす気配がした。清太が振り返れないままでいると、やがて後ろからひょいと覗き込まれる。
「お前、何をやって――ああ、そりゃ失敗作だ。捨てていいぞ。…ってお前、どうしたんだ?」
清太の顔を見た慎之介の眠そうだった目が、一気に眠気が覚めたかのように見開かれた。
何を驚いているのだと首を傾げると、頬の上を何かが伝う。
触れてみて、濡れた指先を目にして初めて自分が泣いているということに気付き、清太は慌ててそれを拭った。
「何を泣く?」
慎之介はそれを見逃さず、強引に清太の顔を自分の方へと向かせた。清太の方が幾分背が高いので座っていても目線が上になるのだが、慎之介はそんなことはものともしない。
「ほら、言ってみろ。何泣いてンだよ」
指先で清太の涙を拭いながら慎之介が囁いた。その声が存外優しくて、また涙が溢れる。
「清太?」
――……わかりません
「何故。理由もなく涙が出るのか?」
清太の唇を読んだ慎之介がさらに問い掛ける。清太は鼻をすすりあげて、主人の問いに答えるべく少し考え込んだ。しかし、明確な答えは出てこない。
――…なんだかとても、淋しくて、悲しくなって……
「何を淋しがることがある」
――慎之介様、が
「俺、が?」
清太は言葉に詰まってしまい、口を噤んだ。上手い言葉が見つからない。
仕方なく、清太は手にしていた紙片を慎之介へと差し出した。悲しくなったのも、淋しくなったのも、これを見たからだ。
「だからこりゃァ書き損じで…――って、お前……」
言葉を切った慎之介の目がきらりと光った。
そして唇が笑みを刻み、紙片を持ったままの清太の手首を掴む。
――え? あ……っ!?
くいっと手前に引かれてよろめいた清太の体を、慎之介はいとも簡単に畳の上に転がし、己の下に組み敷いた。
一見すると細身の慎之介だが、武家の子息らしく少年の頃には剣術道場に通っていた時期もあり、多少は心得がある。長じてからは遊里や賭場に出入りすることが多く、色の道にも鉄火場にも慣れてもいるので、自分よりも大きな清太でも押し倒すのに苦労したことはない。
――慎之介様…!
着物の裾を割ってするりと滑り込んだ手に驚いた清太が顔を真っ赤に染める。
初めて情を交わしてから四か月が過ぎたが、何度肌を合わせても変わらないこの反応を、慎之介は大層気に入っていた。
――慎之介様! 待ってください!
身を捩って逃れようとする清太だが、四肢を巧みに用いて押さえ付ける慎之介の体の下から抜け出すことができない。それどころか、もがく度に衣服がはだけていく。
――駄目です…っ
「明るいうちにするのは初めてじゃァねえだろう?」
――でも……!
しゃあしゃあと言ってのけて腹を撫でる慎之介に、清太は耳まで真っ赤に染めて泣きそうな顔をした。
そんな清太を見て、嬉しそうに慎之介が笑う。笑いながら清太の膝を指で辿り、足を開かせた。
「たかが書き損じに、お前があんまり可愛い反応するからいけねえんだぜ?」
優しく囁きながら無遠慮に股間に差し入れられた手が、反応を示し始めている清太のものに触れた。やわやわとまさぐられ、たまらず眉を寄せて吐息を洩らす。
慎之介に手ずから教え込まれたこの行為がもたらす快楽は、湧き出た清水が絶え間なく川に注いでゆくかのように、涸れることなく清太の体の隅々に行き渡る。
しかも、まるで厭ではないのだ。触れられることに恥ずかしさはあるが、それ以上に気持ち良くてたまらない。
押さえ込まれなくても、もう抗うことなど出来なかった。
「……清太」
耳元で名を呼ばれて、たまらずしがみつく。
もどかしくて、恥ずかしくて、気持ちよくて、しあわせで。
「清太」
――慎之介様
今度は目と目を合わせてもう一度呼ばれたそれに応えるように、清太は慎之介の名を口にした。声にならなくても、慎之介には必ず伝わる。
慎之介は目を細め、清太の額に口づけを落とした。
朝の清々しい空気とは正反対の甘く湿った空気が室内を満たしている。
開け放たれた障子の外は明るく穏やかなのに、まだ陽光が届かない夜具の上は薄暗い。
慎之介は、両手のひらで口を塞ぐように覆っている清太の手首に左手を掛けた。
すぐに慎之介の手に反応し始めた清太だったが、息が荒くなってきた頃からずっと口を覆っている。鼻で呼吸が出来るといっても息苦しいだろうに、どけるように促す慎之介にいやいやと首を振り、涙目で表を見遣るのだ。
慎之介の部屋は通りからは見えない。だが、おとないの声を掛けずに直接部屋を訪ねてくる者もいる。それを気にしているのだろう。
口がきけないので、声が漏れてしまうことはない。それでも、ひっきりなしに零れてしまう濡れた吐息を隠そうとする姿がいじらしくて微笑ましい。
だが慎之介は、時に甘く、時にせつなそうにほろほろと溢れる清太の吐息を大層気に入っていた。口を塞がれてしまっては、楽しみがひとつ減ってしまう。塞ぐのなら、己の手か唇で塞ぎたい。
手指と舌に翻弄されて体を震わせている清太を見つめ、慎之介は口の端に笑みを浮かべた。そして手首から手を離し、その手を胸元に滑らすと、舌でなぶられてぴんと立ち上がっていた乳首を指先でこねるように弄う。同時に、後孔を解していた右手の3本の指を一気に引き抜いた。
清太の体が大きく跳ね、口を覆う手に力が込められる。
慎之介は強い刺激に強張った清太の脚を掴むと、腰が上がるように、その脚を左右に大きく開かせて押し上げた。
何をされるのか経験で覚っている清太の瞳が、不安と期待で揺れる。
慎之介は、そんな清太に微笑んで見せ、己のものをひと息に突き入れた。
――……ッ!
思わず目を見開いて息を詰める清太に構わずぐいぐいと腰を進ませて、猛り起ったそれを奥まで収める。きつく締め付けられて痛いくらいだが、熱い内部が気持ちいい。
脚から手を離して敷布に手をつき、清太の目の端からこぼれ落ちた涙を舌で掬い取る。
頭を撫でてやると、涙に濡れた目で慎之介を見上げてきた。
子犬のようにひたと見つめてくる眼差しに目を細め、眉間に口づける。
すると、強張っていた清太の体からふっと力が抜けた。
慎之介はその隙を逃さなかった。未だ口を覆い隠していた両手を、手首をひっつかんで引き剥がし、軽く腰を引いて突き上げる。
清太の喉がひゅっと音を立てた。
掴んだ手首をそのまま敷布に縫いつけるようにして押し付ける。顔が見たくて、腰を動かしながら清太を見下ろした。
――…あ…っは、ぅあ…しんのすけ、さま…っ
唇がぱくぱくと動いて、音もなく慎之介の名を呼ぶ。
まだ僅かに辛そうではあったが、潤んだその目は陶然と蕩けていて、慎之介だけを映している。
その表情だけで、ひどく興奮した。
いい顔をするようになった――慎之介は微笑みを浮かべ、清太の手首から手を離してその体を抱き上げた。
腰に手を回し、繋がっている清太ごと体を起こす。
――ひ、ぁ、ああ…ッ!
自身の体重でより深く慎之介の男茎が沈み込み、深い位置で揺さぶられた清太はたまらず慎之介の首に腕を回してすがりつく。
「しっかり掴まっていろ」
慎之介は、清太の耳に直接声を吹き込むようにして告げた。
清太は、声と共に耳に触れる吐息の熱さと感触にぞくぞくと身を震わせながら、荒い息づかいを隠すことなく何度もこくこくと頷いた。
息苦しさや痛みが、快感に包み込まれて溶けるように消えていく。
「…心配すンな。お前が悲しく思うようなことは何ひとつねえから」
慎之介の放った小さく甘い囁きは、次々と唇から零れる熱い吐息に掻き消され、清太の耳には切れ切れにしか届かなかった。
だが、あとからあとから溢れ出て幾筋も頬を伝う涙は、もう悲しみのそれではなくなっていた。
「そう悄気るな。これでも美味いって」
すっかり冷めてしまった白米を口に運びながら、慎之介は清太に言った。
一度は駄目だと慎之介を押し止めたのも炊きたての飯のことがあったからなのだが、結局冷たくなった飯を食わせることになってしまったことに清太は落ち込んでいた。
しかし、冷や飯を食っている主人の方は気にしている素振りは露ほどもない。
飯以外は、焼きたての魚に作りたての味噌汁、切り立ての漬け物。どれも慎之介好みの味で美味く、さらに食事の前には清太自身まで味わえた。
文句などあろうはずがない。
「そうそう、あの文な」
――…はい
やはり気になっていたのか、清太が俯いていた顔をすぐさま上げる。
「あれは確かに恋文だが、俺のじゃァねえんだ」
――え…?
「まあ、いわゆる内職だな」
先月のことだ。飲みに行った先で意気投合した男に、恋文の代筆を頼まれた。その場で書いてやったところ後にめでたく成就し、それを伝え聞いた男の知人から数日前に新たに頼まれたのだ。
文面を考えるのが面倒といえば面倒だが、散々遊び尽くしてきた慎之介なので、口説き文句も駆け引きも苦手ではない。これ以上引き受けるつもりはないが、なかなか面白かったし、最初の男が商家の倅で謝礼も弾んでくれたので、良い臨時収入にもなった。それを元手に博打で増やしたのが、昨夜清太に渡した金だ。
清太に自覚はないようだが、この恋文のおかげで、悋気のような、独占欲のような、そんな様子も見ることが出来た。今も、ほっと安堵したような表情を浮かべている。
「こんなに可愛い奴だったとは、餓鬼の頃には思いも寄らなかったなァ」
感慨深げに慎之介は呟いた。
小さな声だったので内容まではわからなかったようだが、何か口にしたのはわかったようで、清太が慎之介を見る。
慎之介は「なんでもない」と軽く首を振って、茶をくれと告げた。
−終−
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