|
氷上宏一という男。【その3】
氷上宏一、33歳。
常に冷静怜悧。組の頭脳にして、財政を一手に握る古賀沢の中核。
その道では、敵に回したくない男の十指に入るという、噂。
夏休み。
それは、海に、山に、街にと、毎日を満喫する期間。
だが社会人よりも長い休みをとることが出来る学生には、それと引き換えにやらねばならないことがある。
顔を背けることは簡単だが、背けたところで消えてなくなるものではなし、いずれ自分に跳ね返って来るものでもある。
格はそれを前にし、大きなため息をついた。
「だから仕方ねえだろう? 遊んで暮らせるほど世の中甘くねえぞ」
「わかってるよー。わかってるけど、色々あったからさあ」
氷上に諭された格は、それに頷きながらもぐだぐだと言い募りテーブルに突っ伏した。
ここは古賀沢組事務所ビルの氷上の私室であり、久し振りに合気の稽古をつけてもらった直後である。
新学期が始まるまであと3日あった。
「まあ“色々あった”の中に伊庭のお嬢さんのことが入ってんなら、うち絡みではあるけどな」
「それは――別に古賀沢のせいってわけじゃない…と思う」
古賀沢も関わりなくはないが、ルリに取っ捕まったのは格で、すぐに逃れられなかったのも何日も付き合わされたのも、突き放せなかった格のせいだ。だからといってルリを疎ましく思っているわけでもない。
「……で、なんで俺がお前の宿題を見てやらなきゃならねえんだ?」
「だって俺が知ってる中で、氷上が一番頭良さそうだから。士朗は忙しそうだし、ゆうべも疲れてそうだったから言い出しにくくて」
「俺が忙しいのは構わないというんだな?」
この野郎、と氷の眼差しを寄越す氷上に格は両手を打ち鳴らす勢いで手を合わせた。
「頼むよ師匠! この通り!」
母親の東子は宿題と聞いただけで頼む前から逃げるし、友達も写させてもらえる状態まで終わらせている奴がいないのだ。
終わらないまま提出する者や、中にはやりもしない者もいるだろう。
それほど生真面目な質ではない格だが、宿題というものは提出すべきものだろうと思っている。それに、終わらせないことによって課せられるかもしれないペナルティが補習や課題かもしれないのなら、いま死ぬ気で終わらせた方がいい。
それでなくとも短い神之倉と会う時間や、この頃ずいぶんついていけるようになった空手の稽古に行く時間がなくなってしまうのは、どうしても避けたかった。
そんな必死な様子の格に、組んでいた腕を解いた氷上が軽く息をつく。
「ったく…。多少は自力でやったんだろうな?」
それを了承の言葉と受け取った格の顔がパッと輝いた。
「うん、わかり難いのがあって、それを教えてほしいんだ」
「ならいい。何もせずに頼るようなら次はねえぞ。――で? どれだ?」
「えっとじゃあ、まずコレ。お願いします!」
格は1冊の問題集を神への供物のように両手で捧げ持って、深々と頭を下げた。
「もっとスパルタかと思った」
英語の問題集を閉じながら、格は拍子抜けしたように呟いた。
武道の稽古時の氷上の厳しさを身をもって知っているので、勉強にしてもそうなのだろうと多少の身構えをしていたからだ。
「基礎は大体出来てるようだし、理解力も悪かねえからな。厳しくする必要ねえだろうが」
煙草に火を点けて紫煙を吐き出した氷上がそう答える。
言われてみれば確かに、きちんと理解出来ているがたまたま上手くいかなかった技などに対しては厳しい物言いはしない。
「なんか、氷上って教え方うまいのな。ガッコの授業より解りやすかった」
「そりゃお前限定仕様にしたからな。学校じゃそうはいかねえだろ? 30人や40人いれば教え方が合う奴と合わない奴がいるのは仕方ないのさ。その差を出来る限り埋めるスキルがあんのが教師なんだと思うがな」
「はー……そっかあ。そうだよな」
武道の師範も同じかもなのしれない。事務所の地下道場で氷上から受ける稽古は、格ひとりか数人の組員が参加する程度の少人数だ。
しかし、何度か参加させてもらった仁武流空手の本部道場での稽古は、十数から二十数人いることもある。武原の教え方は、明と二人で稽古をするときと本部での稽古とでは違っていたが、どちらも自分に合わないということはなかった。
それにしても、氷上には驚いた。問題を一瞥しただけで、至極わかりやすい解説が滑らかに出てくるのだ。
「なあ、氷上ってどこの大学?」
「行ってねえよ」
「え? そうなの? 意外……」
格は目を丸くして呟いた。見た目のインテリさとその明晰さから、てっきり大学を出ているのだと思っていた。
「そうか? 最近じゃ増えたが大卒のヤクザなんざ全体数からすりゃ少ねえぞ」
「そんじゃあ言葉はどこで習ったんだ? 英語以外にも喋れたよな?」
以前、電話で明らかに日本語と英語以外の言葉を喋っているのを聞いたことがある。神之倉からも、氷上は何カ国語かを話せると聞いたことがあった。
氷上は少し考えて指折り数え出す。
「たいして会話に困らないのは英語、中国語、ロシア語、イタリア語――スペイン語とポルトガル語、あとフランス語は少しだけだな。ま、仕事上必要だったから覚えただけでどこかで習ったわけじゃねえよ」
「……習ってなくて普通そんだけ喋れないと思うけど」
言われてみれば、日常会話はこなせるという4つはたしかに仕事柄関わりあいのある言語なのかもしれない。古賀沢の縄張りは港町なので外国人も多く、格は見たことがないが“本業”では外国の同業者を相手にすることもあるのだろう。
だからといって、独学にしてはこなせる数が多過ぎないだろうか。
「んー…言葉を覚えるのは苦じゃねえし、そもそも好きなんだろうな。それに、母国語じゃねえ言葉で舌先三寸丸め込むのも、こっちは言葉がわからねえと思ってる相手との交渉をまとめるのも面白いしな」
浮かんだ疑問をそのまま表情に出した格に、氷上はにやりと不敵な笑いを浮かべてみせた。
どうやら、切れ味鋭い舌鋒は日本語以外でも顕在らしい。
可哀相に……と氷上と交渉を交わさなくてはならない見知らぬ相手に少々同情しつつ、格はため息をつきながら英語の問題集を教科書の山に重ねた。
「俺、なんか苦手なんだよな〜英語。だいたい、ガッコで習う英語って役に立つの?」
「まったく役に立たねえってことはないと思うぜ?」
「でも、ガッコの英語じゃ通じないっていうじゃん」
「そりゃ発音と語彙の問題だろうな」
「ごい?」
「話せるようになりたいのか?」
「そりゃあ話せたらいいなって思うよ」
問い掛けられた格はそう言いながら頷いた。
将来のことなどまだ何も考えていないが、やはりまったく英語がわからないよりはわかる方がいいのだろう。それに、英語が流暢というのはカッコイイではないか。
「そうだな……お前、音楽とか映画は好きか?」
「うん。結構ジャンルレス」
「それじゃあ、洋楽聴くなり洋画を字幕無しで見るなりして、ネイティブの音と言い回しを耳で覚えるんだな。それから1日2〜3個でもいいから英単語を暗記しな。受験にも役立つし、単語が頭に入ってりゃあとりあえずは通じるもんだ」
「へ〜……氷上もそうやって覚えたの?」
「……いや」
「何その含みのある返事」
深く考えずに尋ねた格への氷上の返答には、氷上らしくない間があった。
訝しげな格に、氷上は慌てた素振りも見せずに微笑を寄越す。
「お前にゃ出来ねえから」
「やってみなきゃわかんないじゃん」
「出来ねえよ。神之倉がいんだろ?」
「士朗? なんで士朗――って、もしかして……」
格は皆まで言わずに言葉を切った。
恋人が外国人だと言葉を覚える、と聞いたことがある。
氷上なら意外でもなんでもない。普段女の影があまりうかがえない男だが、いないようにも見えないのだ。
そういう恋人がいたのがいつのことなのかわからないが、ずいぶんと流暢に話せるようなので、おそらく若い頃のことなのだろう。
「で? これで終わりか?」
あれこれ考えていると、煙草の火を灰皿でもみ消した氷上がもう一本取り出しながら尋ねる。
このくらいで遠慮しておこうと思っていた格だが、尋ねられたのをこれ幸いと、問題集のまだ答えの埋まっていないをページを探した。
「あ、あと国語。旧暦なんだけど、7月ってなんだっけ?」
「何もしないで頼んなっつったろ。辞書を引け。ついでに十二ヶ月全部語源を調べてみな。そうすると忘れねえから」
「わかった。旧暦って古い暦ってことだよな?」
「太陰太陽暦のことだ。日本の場合は、明治5年まで使われてた天保暦を指す。陰暦ともいうな」
続けて尋ねたことにはすぐに答えが返ってきた。問題集の解答でなければ答えてくれるようだ。
「そこまでガッコで習うっけ?」
「出ては来たぞ。今の教科書がどうなってるのかは知らねえがな」
「よく覚えてるなー。ヤクザ業とは関係ないじゃん」
「だな。ま、雑学に無駄ナシってのが俺の持論ってだけだ」
たいしたことではないという風に氷上は嘯いた。
そこでふと、格の中でむくむくと好奇心が頭を擡げた。何を訊いても平然と答えが返ってくるが、一体どこまでなら答えてもらえるのだろうか?
「……氷上ってどういうコトまで知ってんの?」
「わかることは答えてやるぞ?」
「えーと、じゃあ……」
格はきょろきょろと周りを見回して、ふと目に入った社会科の教科書を手に取りぱらぱらとめくった。
「1億円とか1兆円とかいうけど、その上っていくらになんの?」
「数の単位としては下から順に兆・京・垓・抒・穣・溝・澗・正・載・極・恒河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量大数――だな。ちなみに小数点以下は、分・厘・毛・糸・忽・微・繊・沙・塵・埃・渺・莫・模糊・逡巡・須臾・瞬息・弾指・刹那・六徳・空虚・清浄」
よどみなくすらすらと出てくる聞いたこともない言葉の羅列に、格はぽかんと口を開けた。
ついでに手近にあった紙片に書き連ねられたそれらに、感嘆のため息を洩らす。小さくなればなるほど、なんだかきれいだ。
だが気を取り直して、またそこらにあった冊子を引き寄せた。歴史の教科書だった。
これは簡単かなと思いつつ、簡単だからこそ答えられないこともあるかもしれないと試しに問い掛ける。
「ええーと……「人間」の正式な学名は?」
「分類上では霊長目真猿亜目狭鼻猿下目ヒトニザル上科ヒト属ヒト。“ヒト属ヒト”のところが学名で“ホモ・サピエンス”」
またしても流暢に答えられ、引くに引けなくなる。
次は国語辞典を適当に開いて、目に入った一文を読み上げた。
「かぜがふけばおけやがもうかる…」
「思わぬ結果が生じる、あるいは、あてにならない期待をすることの喩えだな。風が吹く、砂ぼこりが舞う、盲人が増える、盲人が使う三味線の需要があがる、三味線の皮に使用する為に猫が減る、ネズミがのさばる、大量の桶がかじられる、桶を新しく作りなおす、桶屋が儲かる、っつー連鎖なんだが、たしかにあてにならねえなあ」
今度も簡単に解答されてなんだか悔しくなった格は、なんとかして氷上の答えられなさそうな質問はないかと脳をフル回転させた。
そこそこマニアックで、だが氷上は興味がなさそうな、そんな――
「――落語「じゅげむ」に出てくる長助のフルネームは?」
これならいけるかもしれなかった。落語と氷上とは、まるでイメージが繋がらない。
勝ち誇った笑みが格の唇を掠める。
だがそれもほんの一瞬で、氷上はすぐに口を開いた。
「寿限無寿限無、五劫のすり切れ、海砂利水魚の水行末、雲行末、風来末、食う寝る所に住む所、やぶら小路ぶら小路、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助」
「……」
「ちなみに長助の名字は“杉田”っつー説があるな」
「…………」
ついに格は反撃を放棄した。
勝てる気がしない。
この顔で、その人となりで、平然と言い放たれた内容の破壊力が大きすぎた。
そして、逆にどうでもよくなった。
「終わりか? じゃ、メシでも食いに行くか」
「…うん、行く」
誘うように腰を上げた氷上に続いて格も立ち上がる。
氷上のおかげで目処が付いた宿題の残りは、家に帰ってから片付けることにした。
−終−
Series index ←前/次→
アンケェトフォーム→ 
Copyright(c)2007.09.21- Haruka
Sumeragi Rights Reserved.
|