Vol.7 花の咲うように (7)


  地下1階にも、何人かの桐野の者達が駆け付けて来た。
 彼らは通さないために攻撃を仕掛けて来るのではなく、やはり捕まえようとする素振りを見せた。そして、何かを気にするような様子で執拗に食い下がった。
 神之倉はここでもさしたる苦労もなく全員をのしたが、その必死さが引っ掛かる。
 捕らえろと命令をしたのは恐らく充洋だ。そして捕らえた場合には報償が、または捕らえられなかった場合にはペナルティがあるとすれば、組員たちの必死さにも納得がいく。充洋の人望と考えるには、神之倉の中の充洋のイメージは悪すぎた。
 この場所で神之倉を捕まえようと必死になる理由は幾つもない。単純に考えるならば、これより先に進まれると捕らえる機会がなくなるからだろう。
 この先へ通してしまうと、捕まえて連れていくより先に充洋本人と神之倉とが顔を合わせてしまうと考えるのがもっとも自然だろうか。
 神之倉は足を早めて地下2階を目指した。
 嫌な予感がする。
 階下には、人の気配がなかった。蒔麻が格と別れたという部屋を覗いてみたが、やはり誰かがいる様子はない。
「……格?」
 小声で呼び掛けてみたが、呼吸音ひとつ耳には届かなかった。
 音を立てないようドアを閉め、再び廊下を奥へと進む。廊下の右側には幾つかの扉。左側は右側よりも間隔を広げて鉄のドアが嵌まっていた。
 神之倉が来るまで隠れていると、格は蒔麻に言ったらしい。問題は、誰にも見つからずに今もまだ隠れているかどうかだった。
 神之倉は足音を消すことをやめた。日常歩く速度を意識して、あえて靴音をさせて廊下を進む。
 格がそれに気付いて出て来てくれることを祈ったが、それより先に複数の気配を感じて神之倉は足を止めた。
 左手の鉄の扉。中からの殺気はない。
 神之倉は左手に下げた長ドスを右手に持ち替え、ドアノブに手を掛けた。
 そして――
「会いたかったよ、神之倉」
 充洋は、薄い唇に笑みを浮かべて神之倉を出迎えた。
 荷箱らしきものの上に腰を下ろしている充洋の左手には、白いスーツに派手なシャツを着た若い男と黒いスーツの男。右手には、無精髭を生やした男と3人の組員らしき男たち。
 無精髭の男の前には、後ろ手に腕を捉えられている格。
 神之倉の姿を認めて身動ぎをした格を、無精髭の男が押さえ付ける。
「…し――」
 名を呼びかけて格は口を噤んだ。関わりが深いことを悟られまいとしたのだろう。殴られたのか、唇の端が切れている。
 申し訳なさそうに歪む表情とじっと見つめて来る真っ直ぐな瞳が、言葉よりも饒舌に神之倉に訴えかけてくる。目でひたすらに詫びる格に、謝ることはないという思いを込めた視線をほんの一瞬だけ投げた神之倉は、数メートル離れて充洋と向かい合った。
「今日こそ色良い返事を聞かせてくれないか?」
「話を始める前にそいつを離せ」
「それは出来ないな。一応人質だ」
「いまさら人質が必要か?」
「必要だ。お前が相手だからな」
 充洋は譲らなかった。薄笑いを浮かべたまま、神之倉を凝視している。
 格は歯がみする思いでぎゅっと目を閉じた。こんなはずではなかったという後悔と、神之倉の足を引っ張ってしまうという悔しさと恐ろしさが、息苦しくなるほど全身を埋め尽くす。
 蒔麻と別れてから最初の危機を、格はどうにか凌いでいた。何者かが部屋を覗き込んだが、荷物の隙間に潜り込んで息を殺し、やり過ごすことに成功した。このまま動かずに隠れていようと思ったが、明かりを点け荷物をいくつかどけられてしまえば容易に見つかってしまう。
 どこにどう隠れようか考えた末、格は部屋に入った時に壁の上部に大きめの通気口が見えたことを思い出した。
 廊下を行く足音が遠ざかるのを見計らい、通気口の下に移動してみた。這ってでも通れるだけの広さがダクトにあれば、隠れ場所としてよいかもしれない。
 だが、その目論見はあっさりと崩れ去った。
 通気口の蓋はなんとか開いて、中もその大きさのまま先へと続いていたが、いざ入ろうとすると体がつかえてしまったのだ。肩が入り切らない。
 ドラマや映画のようにはうまくいかないものなのだと自分を納得させ、結局格は元いた部屋に戻ることにした。
 一度探した部屋を再び探すまで、少し間が開くはずだ。元いた部屋ならば、広い分奥行きがあって隠れ場所もいくつか思い付く。
 そうして無事に元の部屋に移動した格だったが、そこから予定が狂った。思ったよりも早く、何者かが部屋に戻って来たのだ。
 どこかに隠れればまたやり過ごせるかもしれない。だが見つかって逃げ場を失うことの方を格は懸念した。この部屋にドアはひとつしかない。
 それならばいっそ打って出よう。足音が1人分だけだったことで格は思い切った。
 近くの物陰に身を潜ませ、足音の主を待つ。
 ドアの開閉音、ゆっくりとした靴音、微かな衣擦れの音。
 格は神経を集中させてタイミングを計り、物陰から飛び出した。
 正面に出て、見覚えのある白いスーツの上の顔を確認する。ケンジだ。
 迷うな!
 格は強く念じて床を蹴った。
 鍛えずに拳を使ってはいけない、鍛えなくても強い箇所は掌底、肘、膝――そんな氷上の教えに忠実に、ケンジの腹に右肘を叩き込む。
 何かが弾けるような、そして軋むような音が鈍い音がした。
 通っている空手道場も氷上に教わる時も直接打撃
(フルコンタクト)だが、稽古や仕合いでの打撃とダメージを与えるための攻撃とは違う。
 格は初めて経験する肉体へダメージを与えた感触と音に怯みそうになる自分を叱咤した。
「こ…っの、ガキ……ッ」
 膝をつき脇腹を押さえたケンジが、怒りと驚きに彩られた目を格へと向けた。だが、ダメージが強かったようでなかなか立ち上がってこない。
 ここで引くべきだと判断した格は身を翻した。今の状態のケンジ相手なら追いつかれない自信がある。
 しかし、格はすぐに立ち止まる羽目になった。扉をふさぐようにして、崎谷と浦部が立っていたからだ。
 そこから先は呆気ないものだった。
 立ちすくんだ格に追いついたケンジに強かに殴られて床に叩き付けられ、朦朧としているところを崎谷に捕らえられて、現在に至る。
 一瞬だけ向けられた神之倉の優しいまなざしに、格は泣きたくなった。
 来てくれたことに対する嬉しさと安堵なのか、足手まといになっていることへの申し訳なさなのか、色々な感情が混ざりあっていてはっきりしない。
 ただ、神之倉がここにいて蒔麻のことを何も尋ねないということは、蒔麻が無事に助け出されたということだ。そのことについての喜びが込み上げる。
 格は、あふれそうになる涙をこらえて神之倉を見た。
 いつも通りの静かなまなざしが充洋に向けられている。いつもと違うのは、全身からじわじわと溢れ出す怒気だ。
「桐野に来い、神之倉」
 充洋があらためて口にした。
「…この10日ほど俺を見ていたのは桐野の者だな」
「なんだ。最初から気付いていたのか。それは嬉しいな」
「――殺す気だったか?」
「ああ、それは…」
 充洋はくすりと笑った。
「殺す気で見てるとお前が振り向くんで、つい…な」
 悪びれもせずに答えた充洋は、その時の神之倉の油断のない目と緊張した肩がいいなどと言い出す。
 格は唖然とし、神之倉は呆れたように小さく吐息を洩らした。
「俺の元に来い。俺の右腕として、お前の力を使え」
 充洋は懲りることなくまたも言い放つ。どこまでも居丈高に、座ったままでだ。
 神之倉は「断る」と即答した。
 だが、それで簡単に引き下がるような充洋ではない。
「俺は桐野をでかくしたい。関東でのし上がり、いくつもの組を喰らって、いつか荻生を頂点から引きずりおろす。そのためにはお前が必要だ、神之倉」
「……なぜ俺なんだ?」
「お前にそれだけの力があるからさ」
 充洋は足を組み、膝の上に手を載せた。細身で長身、容貌も良いので様になるが、醸し出す尊大さが鼻につく。
「初めてお前を目にした時にわかった。お前には他者をねじ伏せられる“力”があるってな。それから古賀沢の動向を見ていたが、いまの古賀沢はお前なしではあり得なかった」
「俺だけが何かをしたわけじゃない」
 先代が亡くなり、代替わりに際して勢力が衰えたとき、古賀沢組の縄張りは消滅の危機にあった。荻生のトップから、荻生直下の組織への縄張りの譲渡を考えるよう打診を受けたのだ。
 利権が絡み思惑が入り乱れる都市の裏側を押さえるためには、ある程度の資金と力が必要だ。
 三代目の頃の勢力を維持していればさしたる問題はなかったのだが、その力ががくんと落ちた。それはすなわち、裏の押さえのゆるみに繋がる。
 関東全域を勢力下に置く荻生にとって、貿易港があり、米軍が駐屯し、華僑の街もあり、さまざまな人種の人間が入り乱れる古賀沢の縄張りは、重要な箇所のひとつだった。古賀沢の衰退が荒れる原因になるならばその根を断たねばならない。
 だが、三代にわたり保持し続けてきた縄張りをあっさりと失うわけにはいかなった。
 蒔麻は荻生の本部に出向き、早急な立て直しを条件に荻生の打診を退けた。古参幹部を縄張り内の守りと押さえとして固め、広範囲に動かなくてはならない前線に神之倉が出た。氷上は資金源と情報網と組織内を整え、組の土台を強固なものにしていった。
 神之倉だけではない。蒔麻が欠けても、氷上が欠けても、瀬尾が欠けても――いまの古賀沢はあり得なかった。
「俺は古賀沢の手であり足でもある。胴体を離れる気はない」
「それじゃあ俺を新しい胴体にすればいい」
 充洋はあっさりと言い返した。安易な移植は拒絶反応を引き起こすという発想は、充洋にはないらしい。
「――ひとつ聞くが」
 それまで静かに充洋を見ていた目を神之倉が伏せた。それが許容の様に見えたのか、組んでいた足を解いた充洋がわずかに身を乗り出す。
 神之倉は、ゆっくりと視線を戻して充洋に尋ねた。
「組と組員――組長と組員の結びつきとはなんだと思う?」
 蒔麻が充洋にしたのと同じような質問だと格は思った。そして充洋もそれを思い出したようで、途端に不機嫌な顔になる。だがすぐに表情を戻し、唇に薄い笑いを浮かべた。
「恐怖と評価だ。組員は上に立つ者に恐怖で従い、その強者に評価されることによって働く。力と恐怖がヤクザのすべてだ」
 蒔麻に答えた時と同じように、これが唯一無二の正解だとでも言うように、自信に満ちた声と表情で充洋は言い放った。そして、神之倉に向かって手を差し伸べる。
「俺と来い、神之倉。俺とお前とで、でかいことをしよう」
 腰をおろしたまま尊大に手を差し出す充洋と、立ったまま微動だにしない神之倉とを、組員たちが固唾を呑んで見つめていた。
 絶対にその手を取ることなどないと信じている格も、緊張した面持ちで2人を見守る。
 そして数秒の沈黙の果てに、神之倉が軽く首を振って深いため息をついた。
「話にならんな」
「何故だ? 俺ならあの女よりもお前の力を有効に使える。お前がいれば関東一円、いや、全ての極道をひれ伏させることだって」
「無理だな」
 神之倉が低く吐き捨てた。表情は変わらないが、充洋に対して初めてといっていい感情の籠った声だ。だがその声には好意などひとかけらも含まれていない。
「格」
「は、はいっ」
 ふいに名を呼ばれて我に返り、格は慌てて返事をした。
「お前を殴ったのはどいつだ?」
「え? あ…」
 突然の質問に言葉が出てこなかったが、充洋の向こうにいる白と黒のスーツの男たちへと視線を向ける。
「四代目をああいう姿にしたのもか?」
 重ねて尋ねられ、視線を戻した格は黙って頷いた。
 刹那、肩と腕に強い痛みが走る。
「…っあ……ッ」
「余計なことをするな」
 低い恫喝とともに、格の腕を捕らえていた崎谷がその腕をねじり上げる。
 そして崎谷は、格の苦悶の表情を神之倉に見せながら、武器を置くよう促した。
「早くしろ。このガキの腕を折られたいか」
 1階で神之倉と氷上に向けて銃を構えた若者の発した、迫力の足りない恫喝とはまるで違う。低く、確実に言葉通りに実行するという重さのある脅しだ。
 神之倉は、言われたとおりに長ドスを手放した。放り捨てた刀は、神之倉と充洋との中間あたりに転がって停止する。
「銃もだ。持ってるんだろうが」
 格の腕を掴む手にさらに力を込めながら、崎谷は神之倉を急き立てた。
 言われるままに腕を背後に回した神之倉は、ベルトホルスターは使わずに直接ズボンの背中側に差していた銃を手にする。身を屈めて床に置き充洋たちのほうへと滑らせた銃は、長ドスから1メートルほど離れた位置で止まった。
「ケンジ、浦部」
 充洋が左手に立つ黒白のスーツを呼んだ。
「俺の目を楽しませたら褒美をやるよ。丸腰ならハンデになるだろう?」
「はずんでくださいね、充洋サン」
 ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて、白いスーツを着たケンジが出てきた。どこから取り出したのかナイフを手にしている。
 腕の痛みに耐えながら顔を上げた格は、それが蒔麻に突きつけたナイフと同じものだと気付いた。
 ケンジは、ナイフを片手に無造作に神之倉へと向かっていく。
 格の肘打ちで肋骨にひびくらいは入っていそうだが、痛み止めを服用したのか、それとも代わりに麻薬を用いたのか、かばう素振りすら見せない。
 素手でも神之倉が強いことは知っているが、ナイフ相手ならともかく銃でも持ち出されたら無傷では済まないかもしれない。格は腕の痛みも忘れて神之倉の姿を目で追った。
 ナイフを構えたケンジが神之倉との距離を詰め、慣れた様子でナイフを突き出す。鋭い突きだったが、神之倉は体を開きながら簡単に躱して無造作にケンジに迫り、左手を大きく振り上げた。
 右頬に炸裂した平手でケンジは簡単に吹っ飛び、強かに床に体を打ちつける。衝撃で手放されたナイフを蹴って部屋の奥へと飛ばし体を反転させた神之倉は、浦部との距離もあっという間に詰めて、また平手を放った。
 だが浦部の体は床に転がらなかった。浦部が踏ん張ったのではなく、神之倉が倒れさせなかったからだ。
 よろけた浦部の胸倉を左手で掴んで支え、再度その顔に手のひらを振り下ろす。右側から振り下ろした手を左側から戻し、手の甲でもう一発。それを2、3度繰り返す。
 だが神之倉は途中で浦部から手を離し、倒れているケンジの手を思い切り踏みつけた。
「…ぐ…ッ」
 苦痛に呻いたケンジの手からナイフが床に転がった。ダメージが大きいふりをして倒れたまま別のナイフを取り出し、隙を狙っていたのだ。
 神之倉の手がケンジを引き起こし、浦部にしたように手の甲で頬を打った。
 だが神之倉は2発目を打とうとしなかった。揺すり上げて上向かせたケンジの顔に、格や蒔麻には見せなかった感情が浮かんでいる。
 こんなはずではないという困惑と、歯が立たない相手への恐怖。
 いまの一発であふれた鼻血もそのままに顔を引きつらせるケンジに小さくため息をつき、神之倉はケンジの体を乱暴に床へと放り投げた。
 一方浦部は、すでに戦意を失っていた。歩み寄る神之倉に怯えるようにして後退る。殴られた衝撃で歯でも折れたのか、口許を押さえている手指の隙間から血が滲んでいた。
 神之倉がさらに距離を詰めると、浦部は弱々しく首を振ってよろめきながら走り出し、倒れているケンジに蹴躓いて床に転がった。
 戦意のない相手に対して、神之倉はそれ以上何もしなかった。そして、薄ら笑いを浮かべて目の前の光景を眺めていた充洋を見遣る。
 時折喉奥から低い笑い声すら洩らしていた充洋は、神之倉の視線を受けてニヤリと笑って、崎谷の背後に控えていた組員たちを呼んだ。
 屈強で厳つい、階上で神之倉がのして来た者たちとは明らかに腕っ節と経験に差がありそうな男たちだ。
「見ていな、崎谷。これが神之倉の強さだ」
「充洋さん…?」
 崎谷には、充洋の真意がわからなかった。3人はこの倉庫に連れてきた組員たちの中で最も頼りになる腕を持つが、充洋の口振りは彼らでも歯が立たないというかのようだ。
 男たちは無言のまま充洋の前に進み出て、同時に神之倉へと近づいた。
 そして、この場の誰よりも背の高い、2メートルに届くかという大男が神之倉へと蹴りかかった。
 その鋭さに、格は思わず身を固くする。
 だが、当たったら確実に床に沈められそうな重さを確信させる蹴りは、神之倉の前で空を切る音しか発しなかった。
 神之倉は動いていないように見えるのに、当たらない――見ていた者たちどころか襲いかかった当の本人も不思議そうな顔をしたその時だ。
 つい、と神之倉が1歩踏み出した。
 大男がはっとして体を引く。
 次の瞬間、大男の体は爆破解体されたビルのようにその場に崩れ落ちた。
 あまりにあっさりとした倒れっぷりに、残る2人が呆気にとられる。
 神之倉はただ目の前の大男との距離を詰めただけで、大して動きもしなかった。反動をつけることも、拳や足を振り上げることもない。右手が肘を折った状態で腰のあたりに上げられていたが、その拳は軽く握られているだけだ。
 そして神之倉が左足を踏み出すや、身にまとっていた長いコートがふわりと揺れた。
 残る2人のうち力士のような体型の1人との距離を3歩で詰め、懐に飛び込みざま腹に右膝を叩きつける。
 続いて体を反転させて、中背で痩身だがバネと瞬発力はずば抜けていそうな残る1人と向かい合う。プロボクサー並みのスピードで飛んできた拳をわずかな動きのみで躱し、滑るようにして近づくと、左肘を頬へと打ち当てた。
 一撃を食らった男はまるで人形のように吹っ飛んで、コンクリートの床に落ちた。
 3人を床に沈めるのに費やした時間は十数秒。ケンジと浦部に対してよりもさらに簡単に済んだ。
 合わせて5人を相手にした神之倉だが、呼吸を荒げることもない。
 そして、まだ意識のある数人の唇から苦痛のうめき声が洩れる他はしわぶきひとつ聞こえない中に、拍手の音が響いた。
「最高だ。それでこそ俺の神之倉だ」
「誰がお前のだ」
 手を打ち鳴らしながらうっとりと口にした充洋に、神之倉は低く呟いた。これまで平静だった声に、露骨に苛立ちと怒りの色がある。
 神之倉には、古賀沢から離れる気は全くなかった。だから桐野からの申し入れを断り続けてきたが、たとえこの先古賀沢を出なくてはならなくなったとしても桐野を選ぶことはないだろう。それが充洋ならばなおさらだ。
 部下を単なる駒として扱い、彼らに対する情などかけらもない。己について過大評価に過ぎ、快楽を第一に求め、力のみで全てが解決すると思っている。
 そんな浅はかな男の下につく気などさらさらない。
「お前の力を俺に寄越せ、神之倉」
「断ると言ったはずだ」
「何故だ? 古賀沢で飼い殺されて終わりたいのか?」
 充洋は立ち上がり、神之倉に問いかけた。そして崎谷に捕らえられたままの格に歩み寄り、強引に顔を上向かせる。
「強情を張り続けるなら、人質に手を出さなきゃならないな、神之倉」
 顎を指先で辿られて格は顔をしかめた。一度経験済みではあったが、無遠慮で酷薄な視線を再び受けて同様の嫌悪感を抱く。
「ガキ好みのジジイにでも売り払おうか。それとも、腹の中身にしとくか?」
 平然と言い放った充洋の手が、格の頬をひと撫でする。
 格はその手から逃れるように、無理矢理顔を背けた。肌がざわざわと粟立ち、声が出ない。
 充洋は勝ち誇った顔で格から手を離した。
 蒔麻が手を出すなと怒鳴りつけるほどなら人質として充分有効だとわかった上での挑発だ。
 充洋は、いまこの場での神之倉の恭順など期待してはいない。桐野に来てから陥落させるのでもかまわなかった。桐野の実権をすべて握る日が来た時に、充洋のものになっていればいいのだ。
 静かな眼差しや変わらない表情もいいが、充洋にはもっと欲しいものがある。神之倉の顔を怒りや屈辱に染めて、深い黒瞳に憎しみの色を宿したい。その上で、屈服させ、服従させたい。
 辱めにも苦痛にも屈しない男だからこそ、従わせる楽しみも大きいのだ。
 こんな風に思ったのは、神之倉が初めてだった。
「古賀沢に手を引かせてお前が俺の元に来るなら、このガキは帰してやるよ。どうする、神之倉?」
 完全に足手まといになってしまった格は、悔しさに震え、固く目を閉じて俯いた。屈する神之倉など見たくない。それが自分のためならなおさらだ。
 だが、神之倉は屈しなかった。
「…何度も同じことを言わせるな」
「こいつがどうなってもいいのか?」
「よくはない。だがお前にも、お前の望みにも興味はない。可能だとも思えん」
 冷めた目と声で完全に否定され、充洋の顔に朱が走った。そして、これまでの余裕が嘘のように顔を歪め声を荒げる。
「お前を誰より解っているのはこの俺だ! 桐野に来い、俺のものになれっ! お前がいれば、桐野は、俺は」
「いい加減にしないか」
「神之倉!!」
「くどいッ」
 ヒステリックに叫んだ充洋を、神之倉は短く鋭いひと声で撥ね付けた。神之倉が充洋に対して声を荒げたのはこれが初めてだ。空気が震えるような大喝に、充洋どころか崎谷の肩もびくりと震える。
 2年前、会合の席でいきなり声を掛けられ、うちに来いと熱心に誘われた。力を認めているといった意味での社交辞令にしてはしつこかったが、酒の席での戯れの一種かと思い軽くいなすだけに止どめた。
 会合のあとも折りにふれ声を掛けられたが、神之倉はあくまで形式どおりに断り続けた。相手が桐野組の跡目とされていて、現桐野組長の長男だったからだ。
 荻生クラスになるとまた別だが、単にどこかの組織の組員から同じ誘いを同じようにしつこく受けたならば、それが幹部クラスの人間であっても拳にものをいわせて退けた。しかし、一家のトップ同士が関わって来るとそうもいかない。
 “親”の顔に泥を塗ることはできなかった。力ずくという手段を選んで組を巻き込んだ抗争に発展することも避けたかった。
 古賀沢のため、そして先代を亡くしたばかりの組の立て直しを何より優先するために、あくまで穏便に諦めさせることを選んだ。
 だが、言葉の通じない相手とは会話が成り立たない。噛み合わないやり取りを断続的に2年も続けて来たが、もうこれ以上続ける気はなかった。
 言葉でどうにもならないのなら、頭ではなく心身で納得してもらうしかない。
 神之倉は、それまで向けなかった視線を格に移した。
「格!」
 呼ばわりざまコートの内側に手を入れた神之倉にはっとした格は、次の瞬間、神之倉の手が何か光るものを放ったのを目にした。
 飛んできたそれは、格の腕を捕らえていた崎谷の顔面に見事に命中する。
「ぐあ…ッ」
 格と崎谷の足元に、銀色に光るジッポーが落ちた。
 思わず声を上げた崎谷の手が緩んだ一瞬を、格は逃さなかった。素早く腕を抜いて崎谷から離れ、躊躇うことなく走り出す。
 拘束から脱し一直線に自分の方へと駆けてくる格の姿を確認した神之倉は、格と入れ替わるようにして床を蹴った。
 転がったままだった長ドスを拾いあげ、低い体勢のまま一気に充洋との距離を詰める。
 そして左腰に携えた刀の柄に手が添えられ、神之倉の腰間から鋼色の光が走った。
「……あ……」
 呆然と目を見開いた充洋が乾いた声を発し、その顔と喉を赤いものが伝う。
 為す術もなく立ち尽くしていた崎谷は、充洋に視線を移してぎょっとした。
 充洋のスーツの左胸がワイシャツごと裂け、肌が覗いている。そして、斜めに割れた眉間と一文字に裂けた首筋からは血が流れていた。
 どれも死に至る急所だ。だが何より驚愕したのは、3箇所を斬りつけた太刀筋が目で追えなかったことだ。
「死ぬような傷じゃない。だがこの手を少し動かせば、簡単に頸動脈が斬れる」
 充洋の首の左側面にぴたりと刃を押しつけて、神之倉は淡々と告げた。
 現に額と首の傷はごく浅いものだ。だが、止まらない流血と傷の位置に“その先”を想像させられ、崎谷は青ざめて息を飲んだ。
 崎谷以上の恐怖の中にいたのが、刃を突き付けられている充洋本人だった。カタカタと体が震えだし、血の気が引いた顔には脂汗が浮かんでいる。
 刃は充洋の首にわずかに窪みを作って止まっており、少しでもよろけようものなら表皮を破り肉を切り裂くのは明白だ。
 全身に浴びた強烈な殺気と流れ出て行く血液とが、充洋の感じる痛みと恐怖を何倍にも膨れ上がらせていた。
 神之倉は瞳から感情の色を一切消して、薄ら笑いを浮かべる余裕を失った充洋を眺めた。
 言葉としては聞かなかったが、充洋のために神之倉が手を汚すことを氷上はよしとはせず止めようとしていた。その思いも理由も、聞かずともわかっている。
 だから斬るつもりはない。しかし、斬る覚悟はある。それだけの殺気を込めて、本気で斬りつけた。
 息詰まるような沈黙と緊張が室内を満たす。
 その張り詰めた空気を掻き分けるようにして、神之倉へと手を伸ばした者がいた。
「…を――ドスを退けてくれ、神之倉。頼む…」
 青い顔をした崎谷がかすれた声で訴えた。触れることを恐れたのか、伸ばした手は躊躇いがちに空中で止まり、引き戻される。そして崎谷は神之倉に頭を下げた。
「この通りだ。だから――」
「――お前、こいつの側近だったな。ついて何年だ?」
 神之倉は、崎谷の懇願は聞かずに逆に尋ねて寄越した。面食らった崎谷だが、静かな口調にもかかわらず逆らえないものを感じ、正直に答える。
「……15年だ」
「その間放置していたのか、これを」
「この人は…ッ! ……この人は、俺たちではおよびつかないほど頭が良くて、何人もの人間がこの人の言うままに動いて、現状に甘えずに常に高みを目指して、それで」
「俺からは、小賢しく悪知恵が働いて、跡目としての立場を利用して人を使い、わがままで無謀な願望を抱き続けているだけとしか見えん」
「……ッそん――」
「そんなことはない、と言えるか?」
 ジロリと見遣って神之倉は問い掛けた。崎谷は何か言い返そうとしたが、胸の奥底まで見透かすような視線を受けて続く言葉を飲み込んだ。
「側近として補佐することは甘やかすのとは違うぞ。昔のこいつがお前の言うような人間だったのなら、なぜ今のこいつを止めない」
「…それは……」
「見誤ったか? それとも幻惑されたか」
 図星を指されて崎谷は俯いた。
 肚が読みきれないのはそれだけ充洋の考えにおよびつかないせいで、だから充洋のやることが危うさを秘めていてもそれはやがて目指す道に繋がるのだと思っていた。そう思い込んでいたのだ。
 思えば、今回の件で充洋と綿密に策を打ち合わせたことはなかった。神之倉をこの場所までおびき寄せるところまでは充洋の指図どおりに嵌まったが、神之倉を引き入れることに関しては策はなかったのではないか。
 状況を踏まえて冷静に振り返ってみれば、神之倉は人質には動じず、けしかけた組員もものともせず、充洋はただ駄々をこねる子供のように自分の理屈のみで神之倉に来い来いと繰り返していただけだ。組長を拉致しても無事に帰しさえすれば大丈夫だと何故思えたのだろう。
 いつから道を誤っていたのか――崎谷は無力感に襲われ、呆然と立ちつくした。
「下の者を生かすも殺すも、使う人間の器次第だ。そして下につく側にもそれなりの思いがなけりゃ、極道なんざ成り立たん。力は確かに必要だが、恐怖や金だけで縛っていてはいずれ誰もついて来なくなる」
 極道が擬制の血縁関係を結ぶのは、それが極道として必要だからだ。
 親は子のすべてを背負い、子は親にすべてを預ける。それは、力と恐怖だけでは成立し得ない。
 もちろん時に打算や裏切りもある。だが、いまでも盃事を続けているのは、決して形式だけを残しているからではない。
 そして上に立つものには、カリスマ以外のものが必要だった。経験に裏打ちされた自信もそのひとつだ。
 だが、充洋の持つ自信は自己過信である部分が多い。それが過ぎれば過ぎるほど、打ち砕かれたときに脆い。
 神之倉は言葉もなく震える充洋に視線を戻したが、すぐに興味を失ったかのように逸らし、突きつけていた長ドスを引いた。
 そして踵を廻らし、充洋と崎谷から離れて歩き出す。
 俯いて立ちつくしたままの崎谷は、あっさりと向けられた背中を見送ることもできなかった。
「さきや……」
 かすれた声に、崎谷がハッとして顔を上げた。
 呆然として震えていただけだった充洋が、腰が抜けたかのようにその場に座り込んでいた。だが、視線だけは崎谷に向けている。
「充洋さ……」
「何してるんだ…。早く神之倉を捕まえろ…」
 崎谷は怪訝そうな顔をして充洋の血走った目を見た。
 神之倉を拘束するには、こちらが優位に立っていなくてはならない。だが、ここにいる充洋と崎谷以外の組員たちは全員床に伏し、人質には逃げられた。切れるカードは何もない。
「俺のものだ。俺にこそ相応しい力なんだ。俺が…俺の……」
 視線を前方に戻した充洋が力なく呟く。
 背中を向けた神之倉から振り向く気配はまるでない。
 崎谷も動こうとはしなかった。
 そして1人だけ、動いた者がいた。
「……んだよ、それ…? 人をなんだと思ってんだ!? 士朗の意思なんかまるで無視じゃねえか――人間はモノじゃねえぞ! ふざけんなッ!!」
 怒りも顕わに叫んだ格の手が上がり、その手にある物が充洋に向かって向けられた。
 それが床に放置していたままだった銃だと気付いた神之倉が、格の名を呼ばわって床を蹴る。
 だが、神之倉が格の元に辿り着くよりも、格が引き金を引くほうが早かった。
 銃声が轟き、格の手が衝撃で跳ね上がる。
 充洋に向けられていたはずの銃口は手の動きに従って狙いを逸らした。そして、天井に向かって放たれた弾丸は剥き出しの鉄骨に当たって跳ね返り、座った充洋の足の間に着弾する。
 神之倉はそれを確認しながら、銃を手にした格の手を左手で押さえた。
 そして右手が上がり、格の左頬が乾いた音を立てた。
「簡単に人に銃を向けるんじゃないッ」
 平手に続いた低く鋭い叱咤に、格の全身がびくんと跳ねた。
 格の言う通り、人間はモノではない。生きているものに殺傷能力のある武器を向けるなら、それなりの覚悟が必要だ。
 銃は鉄の塊だが、人に向けたその時に人殺しの道具となる。それは、刃物でも同じことだった。それを理解せずに持つものではない。
 格の手を掴んだまま、神之倉は振り返った。そして、充洋と崎谷の様子がおかしいことに気付く。
 体に当たった様子はなかった。ボクサー並みの拳をミリ単位で見切ることができる神之倉の目は、たしかに飛び散ったコンクリートのかけらを目にしていた。
 そして、様子がおかしな理由はすぐに判った。跳弾は、充洋の股間からわずか数センチのところに孔を穿っていたのだ。
 うつろな目で呆然としている充洋の股間から湯気が立ち、黒い染みがコンクリートの床にわずかに広がった。
 比較的充洋たちに近いところに転がっていた浦部が、半身を起こしたまま驚愕に目を見開いている。それに気付いたケンジや何とか体を起こした力士体型の男も、愕然として充洋を見ていた。
「――おい」
「はッはい!」
 神之倉の放った声に崎谷が反応し、裏返った声が返ってきた。
「桐野には行かん。これが最後の返答だ。そう伝えておけ」
「は、はい」
「今度こんな事をやらかしたら、その」
 神之倉の右手がすっと上がり、肩越しに親指で指し示す。指の向く先を見遣った者たちの視線が、充洋の股間の弾痕にたどり着いた。
「数センチ上を撃ち抜いてやろう。なに、死にはしないさ。――たぶんな」
 崎谷は青ざめた。意識を保ち、その言葉を聞いていた者たちも同様だ。
 死にはしないかもしれないが、尋常ではない苦痛であり、男にとっては相当な屈辱だ。
「とっとと消えろ。全員だ」
 素っ気ないが断固とした最後通告に、崎谷は慌てて充洋に手を伸ばした。そして、ケンジの手を借りて背負い上げ、気を失っている者たちを運ぶよう目で促す。
 それぞれダメージを受けているものの、力士体型が大男を、浦部がもう1人を引きずるようにして担ぎ、這々の体で崎谷の後を追った。
 不意をついて何かをしようとする者はいない。そして、誰ひとり振り返ることなく重たい鉄の扉の向こうへ消えた。
 扉が閉まってなおも数秒待ち、神之倉は氷上の携帯電話を呼び出す。
『…終わったか』
「ああ。上の始末は」
『全員ふんじばってそこらの部屋に放り込んどいた。桐野に伝えてやれば、明日にでも誰か来るだろ。…奴は?』
「おそらく桐野組に逃げ帰るだろうから、後を追って確かめさせておいてくれ」
『それでいいのか?』 
「いい。一応の礼はしたしな」
 組員たちは気が済まないかもしれないが、これ以上は抗争に発展しかねない。いくら充洋でも、この期に及んでなお手を出してくるようなことはないだろう。
 それが出来ないよう畏れを植え付け、またそれをさせないよう氷上が桐野組長の元に出向いたのだ。組の安泰を思うなら、いかに父親でもこれ以上充洋の勝手を許してはおけない。
 氷上は神之倉の意を汲んですぐに同意した。
『格は?』
「無事だ。ただ、少し神経が高ぶってるから落ち着かせてから戻る」
『わかった』
 詳しいことは何も聞かずに、氷上はそれだけを言って通話を切った。
 こういう時の氷上の察しの良さと機転には助かる。待っている者たちにもうまく言ってくれるだろう。
 だが、東子や蒔麻が焦れないうちに戻らなくてはならない。
「……格? 」
 神之倉は、ずっと黙ったままで身動ぎひとつしない格を、そっと覗き込んだ。
 声を掛けられてやっと格の顔が上がり、真っ直ぐな瞳が神之倉を映す。
「……士朗……」
「…殴ってすまなかった」
 格の左頬を右の手のひらで包んで神之倉は謝った。もちろん手加減はしたが、攻撃としての平手打ちではないというだけで、相当な衝撃があったはずだ。
 格はぎゅっと目を閉じて、ぶるぶると首を振った。
「ごめんなさい…ごめ……俺――」
「わかってる」
 頬を包んだ右手を肩に回して格を抱き寄せ、神之倉は低く囁いた。
「わかってるよ。ありがとうな、俺のために怒ってくれて」
 格が激昂したのは、神之倉に対する充洋の理不尽さについてだ。自分に対しての仕打ちに腹を立ててのことではない。
 あのとき神之倉は、直接突き付けた時により効果があるだろうと長ドスを選択した。扱い慣れているということもある。
 あえて放置した銃を格が手にしていたのは、他の誰かに拾われないようにと気を利かせたからだろう。
 ただ手に持っていたから構えた。何も持っていなければ殴りかかっていた。そんな衝動的なものだ。
 だからといって、撃たせたくはなかった。あんな男のために、人を撃ったという重しを背負う必要はない。
「わかってるから」
「…うん……」
 もう一度繰り返した神之倉に頷いて、格は肩の力を抜いた。不安げだった表情が幾分和らぐ。
 だが一箇所だけ力の抜け切らない場所がある。
「…格?」
 神之倉は体を少し離して自分の左手を見下ろした。外れたままだった安全装置は、格を叩いた後に指先で探るようにして掛け直していたので発砲の危険はないが、いつまでも格が持っている必要もない。
 だが格は、銃を握り締める手の力を緩めようとしなかった。
「指……なんか変…」
 格は困惑した顔で自分の手を見た。強張った手はがっちりとグリップを握り締めて動かない。
 極度の緊張と動揺のせいだと察した神之倉は格の指を剥そうと試みたが、なかなか容易にいきそうにはない。
「格、力抜け」
「…ッやってるつもりなんだけど…」
 格は思うようにならない自分の体に焦りと戸惑いを抱いた。手首から先が他人のものであるかのようにいうことを聞かない。
 神之倉は再度左手で銃ごと格の手を包み、また不安げに曇ってしまった顔を上向かせた。神之倉の意図が読めずに困惑を顕わに見つめて来る格の頬を撫で、その手のひらを後頭部に滑らせて身をかがめる。
 そして、唇を塞いだ。
 突然のキスに格の体がびくりと震え、滑り込んだ舌に身動ぎする。
 だが、驚きに見開かれた目はすぐに陶然と閉じられた。
「…ん……」
 舌を絡められやさしく口腔を探られて、格が小さく呻いた。口づけが深くなるとともに強張っていた腕が徐々に弛緩し、握り締める手の力が弱まる。
 やがて、格の指先から完全に力が抜けた。神之倉はそっと銃を取り上げ、己の後ろ腰に戻す。
 自由になった格の両手が持ち上がり、もどかしげに神之倉の背中に回された。神之倉は、すがりつくようにしてコートの布地を握り締める格に、さらに深く唇を重ねる。
「ン…ッ…ふ……」
 酸素を求めて開いた格の唇から吐息と声があふれた。
 やがて、すっかり緊張が解けて力の抜けた格の体を支えながら、神之倉は重ねた唇を離した。くたりとしてもたれかかってくる体を抱きとめ、なだめるように髪を撫でる。
「――格…何故蒔麻さんと一緒に逃げなかった?」
 ややあって、神之倉が格に尋ねた。
 格は両足に力を込めて神之倉にもたれずに立ち、胸に押しつけていた顔を上げた。
「ちょっと足痺れてたし、見つかりそうだったから。蒔麻さん1人なら逃げやすいかなって思って」
「自分の危険は考えなかったのか」
「1時間や2時間なら、隠れてやり過ごせると思ったし……士朗の役に立ちたかったんだ。少しでも、小さなことでもいいから、士朗の力になりたかった。なれるかもって思ったんだけど……でもドジっちゃって…」
 自嘲の笑みを浮かべた格の唇が震え、言葉尻が揺れた。
「――俺、結局足手まといにな…っ」
 皆まで言えず唇に拳を押し当てた格の顔が、悔しげに、そしていまにも泣き出しそうに歪む。
 神之倉は格の頭を胸に引き寄せ、泣き顔を隠すようにして抱いた。
「足手まといなんかじゃない。…怖い思いをさせたな」
 低くやさしい声に、格は首を振った。
 全く怖ろしくなかったわけではない。拉致され、縛られて閉じ込められるという、経験したことのない事態に不安も感じた。緊張も動揺もした。
 だが、蒔麻がそれを和らげてくれた。
 そしてなにより、いつか必ず神之倉が来るという確信が格を支え切った。
 捻り上げられた腕の痛みも、無遠慮で酷薄な充洋の手と言葉から感じた嫌悪も、神之倉の手が簡単に消し去ってくれる。
「俺さ、士朗が来るまでは何があっても頑張れるから。だから大丈夫。これからも」
 格は顔を上げて気丈に笑って見せた。
「これから?」
「前に言ったろ。崖にぶら下がってても、海で溺れてても、士朗が来てくれるまで頑張るって。まだ自力で士朗のところへ戻れる力は無いけどさ、1日でも早く強くなれるように頑張るから――だから、もう少し待ってて」
 ほぼ1年前の会話だった。そのときの格の表情まで、神之倉ははっきりと思い出せる。
 同時に生死の危険に晒されていたら蒔麻の元へ行くと告げた神之倉に、格が言ったのだ。
 その言葉どおり、格は神之倉が来るまで耐えた。そして、さらなる成長を目指している。
 瞳に、強い決意の色があった。
「強くなるなとは言わん。だが、焦らなくていい。急ぐこともない」
 神之倉は言い聞かせるようにゆっくりと言って、格の頬を両手で包んだ。
 1年前のあの日、強くあたたかな光を放つ陽のかけらのようだと思った。
 アスファルトに咲かんとする花のように強く、湿地にあっても上を向いて立っている葦のようにしなやかだとも。
 時期が来れば蕾は開き、花を咲かせる。
 格の花も、やがて必ず咲くだろう。大きく、伸びやかに――色鮮やかに。
「待ってるよ」
 笑みを浮かべた神之倉に、格の口許もほころんだ。
 そして、神之倉の腕を伸ばして首に抱きつこうとした格の腹が盛大に鳴り響く。
 あまりにはっきりと聞えた大きな音に驚いて動きを止めた格は、伸ばした手を引き戻して腹を押さえ、照れくさそうに笑った。
「腹減っちゃったよ」
 丸一日飲まず食わずだったのだ。無理もない。
 神之倉は笑って格に手を差し伸べ、扉の方へと足を踏み出した。
「帰ろう」
「…うん」
 格は頷いて神之倉の手を取り、しっかりと握りしめた。



「今年の花は早いわね」
 氷上と共に鎌倉から戻り折よく事務所にいた神之倉に出迎えられた蒔麻は、窓から見える空に目を向けて言った。
 青い空は郊外ほど澄んではいないが、冬の重たい色はもはやとどめていない。
「暖かいですか、外は」
「ええ。御大のところの桜も、もう三分から四分咲きってところだったわよ」
 鎌倉にある神宮寺邸の庭には見事な桜が数本あり、毎年春には花見の席に招かれる。
 ここ数日暖かい日が続いているので、開くのも早いのだろう。週末には見頃になっているかもしれない。
 蒔麻と格が連れ去られたあの日から、3週間以上が過ぎていた。
 組事務所に戻った後、古賀沢組からは何の働きかけもしなかった。ただ、河岸の倉庫に桐野組の組員が二十数人いるということを知らせただけだ。
 桐野組長と桐野組若頭が揃ってやってきたのは、翌日の午後のことだった。
 桐野は、崎谷のものだという小指と、相当額の現金を持参した。休日で銀行は開いてないので、かき集めた金だろう。
 充洋の跡目相続を白紙に戻すこと、二度目は絶対にないということを桐野は誓った。そのうえでこれらを納めてほしいと言う。
 だが蒔麻はどちらも受け取らなかった。極道なりのけじめも始末に困ると一蹴し、二度となければそれでいいと、淡々と対応した。
 その平静ぶりが、逆に恐ろしかった。すでに氷上が楔を深く打ち込んでいる。脅し文句のひとつもなくとも、桐野には十分なプレッシャーになった。
 結局、桐野は謝罪をするだけで帰るしかなかった。
 そして何事もなかったかのように日々は過ぎ、以前と変わったところはさほどない。
 神之倉の見立て通り肋骨を3本骨折していた氷上は、入院2週間・全治1ヶ月半の診断を受けたにもかかわらず1週間で退院し、いつも通りに仕事をしている。
 蒔麻は今でも氷上だけを連れて外出し、格も組事務所まで合気と空手の手ほどきを受けに来ていた。
 変わったことはといえば、格が小学生でなくなったことくらいだ。
 昨日卒業式を済ませた格は、今日も稽古をしに来るという。
「最近ずいぶんと熱心よね、格くん」
「前からですよ」
「いや、確実に回数が増えてるし、気合いも入ってる。――お前、あいつに何か言ったろう?」
「…なにも」
 突然矛先を向けられてどきりとしたが、神之倉は何食わぬ顔で答えた。だが氷上は、神之倉のスーツの襟を掴んで首を抱くようにして引き寄せる。
「なんだ今の間は。このむっつり助平」
「誰がむっつりだ」
「お前がに決まってんだろう」
 断言する氷上の腕はがっちりと神之倉の首を抱え込んでいる。骨折が完治しているわけではないので、無理矢理引き剥がすことはできなかった。
 あの日地下であったことは、大まかにしか話していない。格の決意も、神之倉が格に感じたものも、口にはしなかった。
 特別隠すことでもないが、わざわざ公言することもない。
 さてどうしたものかと考えていると、氷上の携帯電話が震えた。
 氷上はあっさりと神之倉を解放して携帯電話を手に窓際まで歩み寄り、耳に当てたまま階下を見下ろす。
「――ああ、そのまま道場
(した)に降りてろ。すぐに行くから」
「格くんから?」
 尋ねて立ち上がった蒔麻が氷上のそばに歩み寄り、同じように階下を見下ろして小さく手を振った。どうやらいま事務所の前にいるようだ。
 このところそれほど多忙ではないので、自宅に戻れば会うのは容易い。今朝も顔を合わせていたので、神之倉は氷上と蒔麻には加わらなかった。
「さて、しごいてくるかな」
 電話をスーツの内ポケットに戻した氷上は、そう言って左の手のひらに右の拳を打ち付けた。格の上達ぶりがいいのか、氷上もどことなく楽しそうだ。前々から言っているとおり、教え甲斐があるのだろう。
「時間あるなら見に来てやれよ」
 横をすり抜けざま神之倉の胸を拳で軽く突き、稽古着に着替えるために氷上は自室へと戻っていった。
 氷上の背中を見送ってから、神之倉は蒔麻の確認が必要な書類を取り出す。それが済めば急ぐ仕事はなかった。頑張っている格を見に行ってやるのもいいかもしれない。
「……思ったより早く咲くかもしれないな――」
「そうね。週末はお花見にしましょうか。格くんや東子ちゃんも呼んで」
 小さく呟いた神之倉の独白を耳にした蒔麻が、笑顔でそう言った。


−終−



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