Vol.7 花の咲うように (6)


「…るく……格くん、起きて――」
 頭上から降って来る囁くような声に、格は閉じた記憶のないまぶたを薄く開いた。
 視界が90度回転している。
「……う、…ん…?」
「格くん?」
「…――ッ」
 今度ははっきりと聞こえた蒔麻の声に、一気に意識が覚醒した。
 目を開けた格は、いつの間にか枕にしてしまっていた蒔麻の柔らかい大腿部から慌てて身を起こす。
「ごめ…ッ俺いつ寝た!?」
「時間はわからないけど、話してるうちにね」
「ごめん…」
 格はうなだれて謝った。いつまた誰が襲って来るかわからないので寝ずの番をしようと思っていたのに、眠ってしまうとは情けない。しかも蒔麻を枕にしてしまうとは。
「そんなに謝らなくていいわよ。眠れてよかったわ。睡眠とっておかないと後で響くから」
 蒔麻は気にした様子を全く見せずに微笑んだ。
「…足、大丈夫? 痺れてない?」
「大丈夫よ。格くんこそ、どこか痛いところとかおかしなところとかない?」
 放り投げられた時にぶつけていたのか打ち身のような痛みを感じる箇所はあるが、その他に痛みのある場所はない。強いて言うなら手足の感覚が少し鈍いくらいだが、それは縛られているせいだろう。
 格が首を振ると、蒔麻は柔らかい笑みで頷いてからドアの方へと視線を移した。
「空気が変ったわ」
「…え…?」
「聞こえない?」
 問われて格は耳を澄ました。目を閉じて耳に神経を集中させると、かすかなざわめきが聞こえてくる。
「……なんか騒がしい、ような――まさか…?」
 騒がしくなる原因に思い当たり、格は半信半疑で蒔麻を見た。
 蒔麻の唇に確信の笑みが浮かぶ。
「ホントに? 来てんの…?」
 神之倉が、ここに。
「さっきね、突然騒がしくなったのよ。何人かで走り回る足音もしたわ。味方が来たのなら、こんな風に緊張した空気にはならない」
 部屋の外のことなので格にはよくわからなかったが、蒔麻の過去の経験と通ずる特有の雰囲気があるのかもしれない。
「今がチャンスね」
「え?」
「もう来ているなら、神之倉があいつと決着つけるまで何時間もかからないだろうし」
「…って、どーすんの?」
「とりあえずここから出ましょ。ここでおとなしく待ってたら、おバカボンにいいように使われちゃうから。屋外に出られそうならそれでもいいし、無理ならどこか別の場所に隠れて神之倉を待つわ」
「出るって、だって――」
 格は眉を寄せて自分の首から下を見下ろした。放り投げられても解けることがなかった手足の戒めを解かなければ立ち上がることも困難だ。
 仮に立てたとしても抵抗できないこの有様では、見つかってしまえばそれまでである。
 だが蒔麻はふっと笑って「大丈夫」と言い放った。そして、
「脱がされたのが右足じゃなくて良かったわ」
 言うなり、前方に投げ出していた足のうちブーツを履いている右足だけを上げ、その踵をコンクリートの床に強く叩き付けた。
 するとブーツの踵が取れ、中から光る物が覗いた。
「それ――」
「ほんとにこれを使う日が来るとは思わなかったわ」
 苦笑した蒔麻は体の向きを変えて、指先でその光る物をつまみ取る。そして動かすことのできる指先と手首を曲げ、それをロープに押し当てた。
「カミソリの刃…?」
「うん、そう。氷上がね、何かあった時のためにって、スパイみたいで面白いでしょって言って仕込んでくれたんだけど――」
「じゃあピンヒールの靴は履かないんだ?」
「全部に仕込んでるわけじゃないのよ。でも動き回る時に大変だから、フォーマルな格好の時以外はあんまりヒールの華奢すぎるのは履かないわね」
 話しながらも蒔麻は指先を動かし続ける。そしてややあって、蒔麻の手首からその手を戒めていたロープがばらりと落ちた。
 蒔麻はすぐさま格の足の戒めを解きにかかり、そして背後に回って手のロープを取り去った。
 何十時間ぶりかの自由に、自然と安堵のため息が洩れる。
「指先冷たくなっちゃってるね。握ったり開いたりして少し動かしてみて」
 格の手指に触れた蒔麻が、その手をさすりながら促した。
 言われるまま何度か手のひらの開閉を繰り返していると、手首から指先へじんわりと熱が伝っていくような気がした。体が思うように動かせることのありがたみを感じながら、格はもう一度深く息を吐く。
「…ごめんね。もっと早く解いてあげられれば良かったんだけど」
 ここがどこなのか、相手がどれくらいの人数なのか、ここを出たところで逃げ切れるのか――それらが把握できないうちは動かない方が賢明だと蒔麻は思った。
 誰にも見つからずにうまく表に出られても、そこが見知らぬ山中や海上だったならどうしようもない。それならば、助けが来た時点で動いた方が確実だ。うまく動けば陽動にもなる。
「早いうちに動いて逃げられればいいけど、捕まっちゃえば監視も厳しくなるし、手足を縛られるだけじゃ済まなくなるかと思って…」
 ワイヤーや手錠を使われたら、カミソリ一枚ではさすがに無理だ。
「…苦しかったでしょ? ごめんなさい」
「蒔麻さんが正しいと思う。だからいいよ、謝ったりしないで」
 ひとりだったなら、もっと暴れたり逆らったりしていただろうと格は思う。そして、どうにかして抜け出そうとしたに違いない。
 いま蒔麻に言われるまで、逃げ切れなかった場合にはより厳しい監視下におかれるという可能性にも思い至らなかった。そうなれば、神之倉や古賀沢にさらに迷惑をかけることになったかもしれない。
 だから、蒔麻が謝る必要はないのだ。
「…足音しなくなったね。行こっか」
「あっ、ちょっと待って」
 ヒールを元の状態に戻して、放置されていた左足のブーツを拾いあげて履き、扉の方へと歩き出そうとした蒔麻を格が止めた。そして、着ていたパーカーコートを脱いで蒔麻に差し出す。
「これ着て。そのコートよりは足隠れると思うから」
 蒔麻のコートの丈は腿の上部のあたりまでで、裂けたスカートの半分以上が露出してしまう。
「ありがとう…でも格くん、寒くない? ずいぶん汚れちゃったけどこっち着る?」
 蒔麻は自分が来ていたコートを指し示した。きれいな白銀色だったコートは、汚れて黒くなってしまっている。
 格は首を振って大丈夫だからと笑い、自分のコートを蒔麻に手渡した。
「あのおバカボンには見られちゃったけどさ、他のやつらに見せたくないし」
「どうして?」
「もったいないし、イヤでしょ? 蒔麻さんが見られてもいいって思う奴にしか見せちゃダメ」
 格はまじめな顔でそう言い放った。
 蒔麻は一瞬驚いた顔をしたが、やがて笑み崩れた。
 こんなことくらい何でもない。丸裸というわけではないので、恥ずかしくてたまらないというわけでもない。
 だが、全く平気かといえばそうではなかった。裂かれた服も、剥き出しの脚も、不特定多数の目に晒さずに済むならそのほうがいい。
 ――ほんと、いい男よね。
 蒔麻は心の中で呟いて、素直に着ていたコートを脱いで格のコートを羽織った。
 2人でそっと部屋を抜け出すと、そこに人の気配はなかった。白い蛍光灯が煌々とともり、簡素で無機質な廊下が左右に続いている。
 今までいた部屋の床はドアから階段10段分下がっていたので、おそらくここは地下の最下層だろう。
 耳を澄ますと、乱れた足音が上方からかすかに聞こえてくる。あちこちで鳴っているので、どちらが安全か判断しがたい。
「出口、どっちかな?」
「とりあえず右に行ってみようか。上にのぼる階段を探してくれる?」
「ん、わかった」
 格は頷いて、ゆっくりと足を踏み出した。蒔麻も、ブーツの踵が響かないよう注意深く歩き出す。
 並ぶドアは無視して突き当たりに目を遣る。暗い廊下の前方に、壁が途切れている箇所があった。近付いて角を左に折れると、上へと続く階段が姿を見せた。
「蒔麻さん、階段」
「うん」
 囁く格に頷き返し、蒔麻は少々表情をゆるめてそこを目指した。
 だが、近付きかけて足を止める。
「? 蒔麻さ――」
「しっ」
 訝しげに視線を寄越した格の言葉を遮り、蒔麻は格の手を引っ掴んだ。そしてもと来た方向へ引き返す。
 角を曲がった蒔麻は、一度後ろを振り返ってから素早く周囲を見渡した。
 すぐそばに、扉がひとつ。
 咄嗟に手を伸ばしてドアノブを捻ると、扉は僅かな抵抗を見せただけで開いた。
「入って!」
 言うなり手を引いて、大きくよろめいた格ごと部屋の中に飛び込む。
 蒔麻は扉を閉めて、格の手を握ったままドアを背にしてしゃがみ込んだ。
 数秒の後、扉の向こうの廊下を何者かの足音が響く。
「――今の……」
 格が緊張した面持ちで、吐息だけで問いかけてきた。蒔麻はそれに頷いて、部屋の外に神経を集中させた。足音の主が蒔麻と格のいた部屋へ向かったのなら、2人の姿がないことは当然の事ながら気付かれてしまう。
 鉄の扉が閉まる音がかすかに聞こえた。しばらくして、慌ただしく扉が開き、また開けては閉める音がする。
 廊下に続いていた扉を開け、中を確認しているのだろう。階上の誰かに連絡をされたら、挟み撃ちにされる可能性がある。
 聞こえてきた靴音は2人分だった。しかし、相手がどんな人間なのかわからない。
 単なる下っ端の見張り役ならいいが、それなりに腕の立つ相手なら、また銃や刃物を持っていたら――。
 護身術は氷上に叩き込まれている蒔麻だが、達人というわけではない。ナイフ程度ならまだしも、銃を持つ相手では蒔麻の手に余る。
 少しの猶予はあると思っていた。神之倉が来たのなら、数人では相手にならない。人数を割けば、そのぶん蒔麻たちに向く目も少なくなるからだ。
 どうやら充洋には、神之倉以外のことを考える余裕があったようだ。人間性には問題があるが、頭だけは回る。
 胸の内で毒づいた蒔麻の手を、格がぎゅっと握りしめた。
「蒔麻さん」
「え?」
「あそこ、ドア」
 蒔麻の手をそっと引いて、格は部屋の右手の壁を指差した。
 廊下に面した壁の上部には明かり取りの窓があり、部屋の中はものの形がわかるほどには明るい。
 薄明かりの中、積まれた段ボールの先にドアが見えた。格は蒔麻を導いて、荷物をかき分けてドアの前まで進む。
「これさ、位置からいって角曲がってすぐのドアになるんじゃん?」
 ドアの鍵はつまみを捻って開閉するタイプだ。つまみは縦になっており、鍵は締まっていなかった。
 格は蒔麻を振り返り、じっとその目を見つめる。
「俺は残るから、先に行って」
「何言ってるの…?」
「実はさ、足の感覚がまだちょっと鈍いんだ」
「それじゃあ…さっきゆっくり歩いてたのって…」
「だからさ、蒔麻さんは先に士朗と合流してよ」
「ダメよそんなのっ」
「また捕まっちゃうよりいいだろ」
「格くんをおいていけるわけがないでしょう!」
 蒔麻はつないでいないほうの手で格の肩を掴むようにして首を振った。
 格を無事に返すことが、今の蒔麻の最重要事項だ。自分が危険な目に遭うのはかまわないが、格を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「士朗の一番大事な人は蒔麻さんなんだよ。だから無事に戻らなきゃ」
「格くんのことだって大事に思ってるわよ」
 10年以上にわたり神之倉はそばにいたが、格ほど内側に入れた人間を蒔麻は見たことがなかった。格は神之倉の中の“特別”だと蒔麻は信じて疑っていない。
「うん、大事にしてくれてる。でも士朗は、蒔麻さんと俺が同じ時に危険な目にあってたら、蒔麻さんのほうに行くよ」
「そんなことな…」
「本人がそう言ってた」
「……なんて馬鹿なことを……ッ」
 蒔麻は青ざめた。一途に慕ってくれている者に、それもまだ年若い格に向かって言うことなのか。
 だが格は平然としている。
「馬鹿じゃないよ。古賀沢組の若頭として当然でしょ? ――それが、俺が好きな神之倉士朗だよ」
 格は翳りも憂いもない笑顔を蒔麻に向けた。誇らし気ですらあるその笑みに胸を衝かれ、蒔麻は思わず肩を掴んでいた手を離してしまう。
「大丈夫、捕まらないから。士朗が来るまで逃げ切ってみせるよ」
「無茶なこと言わないで…」
「平気だって。隠れるとこは山ほどありそうだし」
「でも――」
「早く行って。さっきの奴らがこっち来ちゃうよ」
「格くん…ッ」
「大丈夫」
 格が柔らかく笑って手を伸ばした。
 そして、何をするつもりなのか蒔麻が図りかねた数瞬のうちに、格は握った手をふりほどいてドアを開け放った。
 バランスを崩した蒔麻の体が、廊下側に倒れる。あっと思ったときには、蒔麻の体は廊下に転がり出ていた。
 受け身をとってすぐに体勢を立て直した蒔麻が、扉に向かって手を伸ばす。だが時すでに遅く、扉はぴたりと閉じられてしまっていた。
 蒔麻は廊下の左手へと視線を廻らせた。足音と扉を開閉する音が先ほどよりも近付いている。
 もはや一刻の猶予もなかった。いま蒔麻が再び捕らえられれば抜け出した意味がなく、神之倉にとっても不利になる。
 立ち上がった蒔麻は唇をかみしめた。そして苦渋の決断をする。
 自分が無事に戻ることで神之倉の懸念をひとつ取り除き、格の救出に専念させる――
 蒔麻は閉められた扉に体を寄せ、扉に額をつけて囁いた。
「――無事でいて…ッ」
 扉に置いた手を引き剥がすようにして離れた蒔麻は、身を翻して駆け出し階上を目指した。

 ――今日は厄日だな。
 先を行く神之倉の背中を見ながら、氷上は小さく嘆息した。
 自分達が、ではない。神之倉の相手をしなくてはならない桐野組の組員たちが、だ。
 いつもどおり理性は十分残している神之倉だが、容赦は一切しなかった。
 まず鉄パイプを手に殴りかかって来た髪を脱色した若い男の攻撃を難なく躱し、すり抜けるようにして膝を腹部に叩き込む。蛙の鳴くような声で呻いた男の首筋に、手にしていた長ドスの柄頭を打ち下ろすと、男は簡単に床に沈んだ。
 続いて組み付いて来た二人組を力任せに引き剥がし、足を刈って投げ落とす。受け身を取れなかった者は簡単にひっくり返って脳震盪を起こし、かろうじて受け身を取って立ち上がったほうも、素早く間合いを詰めた神之倉の拳を顎に食らって一撃で昏倒した。
 続いて、大きな雄叫びを上げて筋骨隆々の男が殴りかかって来た。神之倉はその腕を絡め取るようにして脇に抱え込み、ためらいもなく折った。近くにいた誰の耳にも聞えるほどの音に、さすがに取り囲む者たちが怯んで後退る。
「……どうした?」
 逃げ腰の相手に、神之倉は平坦な声で問いかけた。
 さっさと済ませて先へ進みたいのだろう。相手の出方を全く窺うことなく、無造作に歩を進める。
 だが今日の神之倉なら、そしてこの程度の相手なら特に心配はいらない。
 氷上は遠慮なく神之倉の背中を見ていることにした。
 それから数分後。氷上の予想通り、神之倉は自身に毛程の傷もつけることなく立っていた。
 充洋の命令なのか自主的になのか、逃げる者はいなかったが、無事に立っている者もいなかった。全員苦痛の呻きととも跳ね返され、通路を塞いでいた男達はひとり残らず床に倒れ伏した。
「そこそこ数は多いな」
 倒れた男達には興味をなくしたかのように、前方を見据えたまま神之倉が言った。
 多いと口にした割りには、それを苦にしている様子は全くない。携えていた長ドスは、鞘から抜かれもしなかった。
「そうだな。若いのばかりだが」
 氷上は倒れている者たちの面体を確認しながら答えた。数えた限りでは、ここまでで23人。
 これで全員ではないだろう。蒔麻と格を連れ去られた時の面子はまだ現れておらず、充洋が自分の周囲に誰も残さないとは考えにくい。
 神之倉は、一緒に行くと口々に言う組員たちを倉庫の前で待機させて来た。中から外へと逃げ出して来た者は逃がさぬよう指示を出し、1時間経っても誰も出てこない場合か神之倉から連絡をした場合のみ中に入ってこいと言ってある。
 皆一様に不満げな顔を見せたが、神之倉は譲らなかった。
 充洋の目的が神之倉であり、神之倉としても決着を付けてしまいたかったこともある。そして、蒔麻の状態がわからないというのも理由のひとつだった。
 充洋は指一本触れないと言ったが、それを完全に信じることはできない。充洋にまつわるいくつかの噂が真実なら、人目に晒せない姿であるかもしれなかった。
 氷上がついて来たことは何も言わなかった神之倉だが、それは蒔麻と格の身柄を先に確保できた場合に2人を任せるためだと氷上は理解している。連れ去られた借りを返せという意味合いもあるのだろう。
「上か、下か……」
 階段を発見し、神之倉が呟いた。そして氷上を振り返る。
「この倉庫、2階建てだったな」
「外から見た限りではな。出入りを考えれば地下に隠るって事はないと思うが、逆に誰かを閉じ込めておくなら――」
「地下か」
 下へ向かう階段に目を遣って頷き、神之倉はふと視線を上げた。その表情が瞬時に険しく変わり、咄嗟に床を蹴る。
 氷上の真横を駆け抜けざま首を刈るようにして体を攫い、諸共に物陰に飛び込んだ。銃声が轟き、2人が元いたあたりに着弾する。
「……お、まえ…ッなにもラリアート食らわせるこたァねえだろうが」
「抱き上げてほしかったか?」
「そんなわけあるか阿呆」
 軽口なのか本気でボケているのかわからない返しを切り捨てて、氷上は体を起こした。
「傷は?」
 乱暴に扱った上に起きあがるのに手を貸す素振りも見せなかったが、気にかけていないわけではないらしい。
「問題ない。…銃の腕はそれほど良くないな」
 氷上は壁に背を付けて様子を窺う神之倉の横に並び、続く銃撃に対する感想を述べた。銃声は神之倉と氷上を牽制するように断続的に続いている。腕が良ければむやみやたらと連射して弾を無駄遣いするようなまねはしない。
「口径は大きくはないな。9ミリか?」
「だろうな。だが1人じゃないな」
 9ミリパラべラム弾を使用するオートマチック銃なら弾倉に入る弾数も多いが、それ以上の銃声を耳にした。重なって聞えた銃声もある。
 確認するために氷上がギリギリまで顔を出し、数瞬だけ壁の向こうを視界に納めた。
 見えるところには男が2人。どちらも銃を構えている。
「出てこい神之倉ァ!」
 2人いたうちの1人が声を張り上げた。声の若さからして20代半ばほどだろう。
「こっちにはハジキがあるんだ! 大人しく出てこいオラァ!」
 恫喝はどこか迫力が足りない。ガラは悪いが凄みがないのだ。そもそも離れた場所からやたらと撃ちまくっての脅しなど、物理的にはともかく心理的な脅しにはなり得ない。
「単なる足止めじゃなかったのか」
「生かして連れて来いとでも言われてるんじゃないか?」
「この程度の銃の腕で脅そうとは無謀だがな」
 神之倉と氷上は暢気と言ってもいい会話を交わす。神之倉が軽く息を吐いた。
「付き合ってられないな。さっさと片付けよう」
「ああ。どうする?」
「俺が出る。あとは任せた」
「わかった」
 頷くとともにコートの懐に手を差し入れた氷上を見届けて、なんの打ち合わせもせずに神之倉は飛び出した。
 低い姿勢で廊下に駆け出た神之倉に、銃を構えた男たちが慌てて狙いをつける。
 5発の銃声。
 弾は標的である神之倉を大きく外れて、壁に穴を穿った。
 次の瞬間、身を隠していた物陰から廊下に出た氷上が2人の男を狙い撃った。
 2発。それ以上撃たずに、氷上は腕を下ろした。
 廊下の先では、銃を取り落とした男たちがそれぞれ手首と腕を抑えて蹲っている。
 神之倉はそんな2人に歩み寄り、恐怖と痛みに引きつった顔を上げた2人の首筋に長ドスを振るった。蠅を払うかのような大雑把さだったが、1人ひと振りで彼らは床に昏倒した。
 その時だ。
 地下へ続く階段から何かが倒れる音が聞こえ、男のものにしては華奢な靴音が響く。
 そして、階段から靴音の主が現れた。
「四代目!」
「氷上! 神之倉!」
 喜色と緊張の入り交じった表情で、蒔麻が駆け寄ってくる。
 距離的に近い位置にいた氷上がその手を取り、自分の背後にかばった。一方、倒れた2人から取り上げ弾倉を抜いた銃を投げ捨てた神之倉が、階段へと詰めて階下の様子を窺う。
 踊り場で股間を押さえて倒れている男の他に気配がないのを確認して、神之倉は一旦上へと引き返した。
 蒔麻は、見上げた氷上の顔色があまり良くないことにすぐに気付いて表情を曇らせたが、開きかけた口を噤んで目を伏せる。
「あんたも容赦ないですね」
 戻って来た神之倉が苦笑とともに軽い調子で声をかけた。
「まあ、効果的な手だとは思いますが。怪我はないですか?」
「私は大丈夫だから、早く地下に」
 蒔麻は神之倉を見上げて訴えた。その顔は強張り、焦りと不安が見え、青ざめてもいる。そして、
「……ごめんなさい…っ」
 蒔麻の顔が、泣き出しそうに歪んだ。
「あの子、私に先に逃げろって――ずっと縛られたままだったから足が…、でもそんなのダメだって言ったんだけど、私……ッごめんなさい、神之倉…!」
 両手を固く組んで言葉を絞り出す蒔麻の目から、ほろほろと涙がこぼれ落ちる。
 苦渋に満ちた表情には、悔恨の色がありありと浮かぶ。蒔麻が格を可愛がっていることは、神之倉も氷上も良く知っている。望んでおいて来たのではないことくらいわかっていた。
 神之倉は何も言わずに蒔麻を見つめた。
 剥き出しになった足と乱れた髪、そして見覚えのある格のコート。それだけで、何事もなくただ閉じ込められていただけではないということは明白だ。そんな中でも、格を無事に帰すことを第一に考えていただろう。
 蒔麻を責めようとは、神之倉は欠片も思わなかった。
「まだ地下にいるんですね?」
「あなたが来るまで隠れているからって。地下2階の、階段を降りて左に折れてすぐのところにある部屋で別れたわ」
「別れてからどのくらいです?」
「時計がないからわからないけど……20分も経っていないと思う」
 返ってきた答えに、神之倉はひとつ頷いた。そして蒔麻の顔に手を伸ばす。
 止まらない涙を指先ですくい少女にするように髪を撫でると、小さく笑みを浮かべた。
「大丈夫。格は、俺が必ず連れて帰ります」
 笑って「こうする」と宣言した神之倉がそれを違えたことは、過去一度もない。蒔麻はまたひとすじ流れ落ちた涙を拭って頷いた。
 それを見届けて顔を上げ、神之倉が氷上を見る。
「…後は頼む」
「任せろ」
 何をどうしろとは言われなかったが、氷上は全てを心得て頷いた。
 後はもう、神之倉から何か言ってくるまで充洋とのことに直接手を出す気はない。外で待つ組員たちをまとめ、すぐに動ける状態にしておくのが自分の仕事だ。
 もう一度だけ蒔麻に笑いかけ、神之倉は地下への階段へと向かった。
 振り返らずに降りていく背中を見送って、ようやく蒔麻が固く組んだ指を解く。この先蒔麻にできることは、信じて待つことだけだった。
「……氷上」
「はい?」
 自分を見下ろした顔を、蒔麻はじっと見上げた。
 やはり顔色が悪い。取られた手もひやりとして冷たかった。
 だが氷上は、蒔麻の予想通り辛そうな顔などかけらも見せず、微笑を浮かべた。
「大丈夫ですよ」
 嘘だということはわかっている。だが蒔麻は、泣きたくなるのをぐっと堪えてその嘘を受け入れた。たとえ命令だと言っても、いま自分の仕事を放り出して病院に行くことなど絶対にない。そういう男だ。
「怪我はありませんか?」
「手に少し…」
 見せられた手を取って傷の具合を確かめ、氷上はポケットから取り出したハンカチで傷が広範囲にわたっていた右手を丁寧に覆った。
 袖を少し上げて手首についた縄の痕を確認した氷上は、そっと元に戻して、袖の上から手のひらで包んだ。
「痛みは?」
「平気」
「……いいですよ」
「…え?」
「誰も見てませんから。今のうちに吐き出してください」
 言葉の意味が分からず顔を上げた蒔麻をじっと見下ろして氷上が言った。
 傷の痛みのことではない、もっと別のものだと察した蒔麻は数秒のあいだ黙っていたが、促すでもなく誘導もせずただ蒔麻が口を開くのを待っている氷上の眼差しに、張っていた気が少し緩むのを感じた。
 吐き出してしまえと言われた、心の奥底に押し隠した思いが顔を出す。
「――悔しい」
 蒔麻は、柔らかく包まれたままの右手で氷上のコートの左袖をきゅっと掴んで、小さな声で思いを吐露した。
「ふともも触られて、胸つかまれた。一発くらい殴ってやりたかったわ」
「…充洋ですか?」
「いいえ。奴の部下の若いのよ」
 氷上のコートを掴む拳にぐっと力を込めた。服を破られ体を触られたくらいで屈しはしないが、何とも思わないわけではない。
 氷上は蒔麻の右手をそっと袖から外すと、自分のコートを脱いで格のコートの上から蒔麻に着せかけた。そして、足首までコートに隠れた蒔麻の体を抱きしめる。
 なだめるような、いたわるような緩い抱擁。慰めの言葉も何もない。だが、体を包む腕の確かさと、受け止める胸の広さと温かさに安堵感が胸を満たす。
「…たいしたことじゃないわ。悔しいだけよ」
「神之倉があんたの分もぶん殴ってきてくれますよ」
「そうね」
「あんたが望むんなら、俺も行ってきますが」
「神之倉に任せるわ。2人そろって暴れ出したら、誰があなた達を止めるの」
「猛獣ですか、俺らは?」
 心外だといった響きの声に蒔麻は吹き出して、クスクスと笑った。リミッターが外れると常人の手に負えないという意味ではまさしく猛獣だ。
「ありがとう、もう大丈夫」
 笑いを納めた蒔麻は、礼を言って氷上から離れた。緩く添えているだけだった氷上の手は簡単に解け、蒔麻のしたいようにさせてくれる。
 吐き出してしまったら少しすっきりした。口惜しさも体に残る嫌悪感もだいぶ薄れている。
 氷上の持つ人の心の動きへの敏さは、敵に回った者にとっては厄介な代物なのだろうが、蒔麻にとっては時に救いだった。
 神之倉も氷上も蒔麻を組長として扱うが、蒔麻個人として気にかけてくれてもいる。接するときはあくまで組長と組員としてでも、自分を解ってくれているということが心強い。
 目を閉じ深呼吸をひとつして、再び瞼を開いた蒔麻の瞳は、古賀沢組組長のそれに戻っていた。
 乱れた髪を手ぐしで直し終わるのを待って差し出された手に蒔麻が指先を載せると、氷上はその手を導いて歩き出した。
 累々と横たわる桐野組の若い者たちで、鮮明な意識を保っている者はなく、立ち上がって行く手を阻もうとする者もいない。
 2人で建物の外に出ると、神之倉の言いつけ通りに待機していた組員たちが歓声を上げて蒔麻を出迎えた。
 蒔麻は、組員たちに向かって笑みを浮かべて見せる。
「四代目!」
「組長、ご無事でよかった」
「みんな、来てくれてありがとう。心配かけてごめんなさいね」
「なに言ってんですか! 四代目は悪くないですよ!」
 礼を言ってから謝った蒔麻に、組員たちは憤然として首を振る。そして組員たちは、蒔麻の無事を喜ぶ言葉と桐野への怒りの言葉を口々に繰り返した。
 徐々に怒りの声が大きくなり、組員たちのボルテージも上がってくる。
「おら、まだ終わったわけじゃねえぞ。落ち着け」
 そこで、頃合いを見計らった氷上が組員たちを鎮めた。ひと声ですぐに表情を引き締めた組員たちを見渡し、矢継ぎ早に指示を出す。
「中で転がってる奴らを縛り上げて、手近の部屋に押し込めておけ。入るのは10人、残りは待機だ。しばらくは立ち上がれる奴はいないと思うが、気を抜くな。それから、俺が指示を出すまで地下2階には下りなくていい」
「若頭はまだ中ですか?」
「ああ。桐野の馬鹿息子と格は奴に任せておけ。手を出すな」
 氷上はそれ以上言葉を重ねなかった。指示としてこうしろと、またはするなと命じたことに安易に背く者はここにはいない。だが、指示の範囲内でいかようにも応用の利く者たちだけを集めてある。
 組員たちはすぐに指示に従って、バンに積んできたロープや木刀などを手に倉庫へと向かった。
 氷上は蒔麻を促し、後方に停めてあるバンの1台に歩み寄る。
 スモークの貼ってある黒い窓ガラスを小さく4回ノックすると、ドアのロックが外され、中から女がひとり顔を出した。
「東子ちゃん!?」
「蒔麻さん!」
 氷上の隣に蒔麻の姿を見つけた東子が、喜色を浮かべて車を降りてきた。そして、蒔麻を固く抱きしめる。
 東子の唇から、安堵のため息が洩れた。
「良かった、無事で…」
「東子ちゃ…」
「格は?」
「…あ……」
 ここに東子がいるということは、格が蒔麻と共にいたということも現在の状況も説明を受けているということだ。当然の問いかけに、蒔麻は答えに詰まった。
「神之倉が行った」
 答えられない蒔麻に、後ろから氷上のフォローが入る。
 東子は腕の中の蒔麻から氷上へと視線を移し、その目を見つめた。
「大丈夫だ。あいつが、格を連れて帰る」
「……」
 強く、はっきりと断言され、東子は無言で深く頷いた。その目に疑念の色はない。
「東子ちゃん、すまないがこの人の手の傷の手当をしてやってくれないか。あと着替えを。車の中にひと通り揃ってるから」
「ん、わかった」
 氷上の頼みに応じて、東子は蒔麻の背中を押して車の中へと導いた。
 外で待っているという氷上を残し、車内に入る。ライトは点けてあり中は明るかった。
 東子はまず、ハンカチの巻いてある蒔麻の右手を取って傷の具合を確かめた。そして、治療と着替えのためにコートを脱ぐよう促す。
 コートの中から現れた足を目にし、切り裂かれたタイツとスカートに眉を寄せたが、東子は何も聞かなかった。
 だが、されるがままの蒔麻の手が小刻みに震えだしたのに気付き、その顔を仰ぎ見る。
「……東子ちゃん、ごめん――あの子、私のために…」
 沈痛な顔で蒔麻が言葉を探す。
 東子は、座席の足下に用意してあった救急箱を開けて、必要なものを取り出しながら明るく尋ねた。
「あの子のことだから、先に逃げろって言ったんでしょ?」
 蒔麻は頷いて、それから首を横に振った。東子の言った通りなのだが、だからといって残してきてかまわないというわけではない。
 だが東子は不安な顔は見せずに、蒔麻の手首に残る縄の痕をそっと撫でた。
「あの子、蒔麻さんに迷惑かけた?」
「そんなこと一度も! 守ろうとしてくれたわ、一生懸命。それなのに、私――」
「よかった。あの子にはきっとそれが一番イヤだろうから」
「でも」
「大丈夫よ。士朗さんが行ってくれたなら大丈夫。そうでしょ?」
 じっと蒔麻の目を見て、そして自分自身にも言い聞かせるようにして東子が問いかけた。
「心配じゃないって言ったら嘘になるけど、でも……士朗さんを信じてる。格のこともね」
「東子ちゃん……」
 神之倉ははっきりと「必ず連れて帰る」と言った。蒔麻はそれを信じ、神之倉に任せた。
 東子も、蒔麻と同じく信じて待つことを選んだのだ。
「自分が悪いなんて思わないでね? 氷上さんにも謝ってもらったけど、蒔麻さんや氷上さんのせいじゃないから」
 東子はそう言いきって蒔麻の手を取り、傷に障らぬようにそっと握った。
 触れた場所から優しさといたわりと強さを感じ、蒔麻はその温かい手を握り返した。そして、東子の手首にはめられている腕時計を見遣る。
 時計の針は午後10時を指そうとしていた。


−続−



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