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Vol.7 花の咲うように (5)
10年前。
古賀沢組三代目組長・古賀沢竜彦の傍らには、常に2人の若い男がついていた。
まだ20代前半の彼らを、竜彦は毎日のように連れ歩いた。2人はことさらでしゃばることなく竜彦も他の組員と分け隔てなく扱っていたが、古賀沢の関係者でもそうでなくとも、古賀沢竜彦が彼らに期待を掛けているのはよくわかった。
彼らが頭角を現し古賀沢の懐刀と称されるようになるまで、そう時間はかからなかった。
そして、より強力な力と頭脳を得た古賀沢組は、荻生会に所属する組織の中でも指折りの充実した組織になっていった。
だが、皮肉にも竜彦自身がその勢いを削ぐことになる。
病が発覚してわずか半年後に古賀沢竜彦は鬼籍の人となり、後継問題で半年ほど揉めた後、竜彦の女房が組を継いだ。
代替わりに際して組員の絶縁騒ぎがあり、それに関連して古賀沢の資金源が打撃を受けたりと、古賀沢竜彦死去の前後1年間で古賀沢組の力は全盛期の半分近くにまで急落した。
古賀沢の懐刀と呼ばれていた若い2人の名が、極道の世界で話題になることが多くなったのは、この前後からだ。
もともと古賀沢竜彦の亡くなる2、3年前から名が知られ始めていた2人だが、いつしか“敵に回したくない存在”として名が挙がるようになった。噂では、四代目の後継候補にも推挙されたという。
屋台骨の揺らいだ組をわずか数年でほぼ元の状態にまで立て直せたのは、2人の力が大きいというのが同業者たちの大方の意見だ。
その2人のうちの1人がいま、桐野の前にいる。
有利に運びたい交渉事や手打ちでは、決して引っ張り出してはならないといわれる男――
「…うちの組員をどこへやった? 返答次第ではただではすまさんぞ」
目の前に座する氷上宏一に向かって尋ねた桐野は、その様子を観察した。
名前は知っているが、直接的な面識はさほど深くない。軽く挨拶を交わしたことがある程度なので、じっと座って対面するのはほとんど初めてだ。
外見はインテリ風でまさに今時の経済ヤクザといった男は、感情の読めない声で桐野に答えた。
「別の部屋で眠っていただいているだけですのでご心配なく。それより――聞こえませんでしたか? 私は、ご子息はどこにいるのかと尋ねているんですが」
探るようでもなく、射るようでもなく、風も波もない水面のような眼が桐野を見る。
「……何故そんなことを尋ねる?」
「ご子息がうちの四代目を連れ去ったからですよ」
桐野は、思いのほか乾いて掠れた己の声に驚き、そして氷上の返答に愕然とした。
古賀沢組とは同じ荻生会に属している。繋がりが深いわけでも友好関係というわけでもないが、敵対もしていない。
「――理由は神之倉か…?」
「そうでしょうね」
淡々と返って来た答えに、桐野は表情を変えないまでも強い焦燥を感じた。
古賀沢の先代が死ぬ少し前のことだ。長男の充洋が「神之倉が欲しい」と言い出した時、桐野はまず無理だと笑った。他の組の組長の盃を受けている者を、そう簡単に手に入れられるわけがないからだ。しかも神之倉には、金や女で動かせる隙が見出だせない。
そうこうしているうちに古賀沢竜彦が亡くなり、神之倉は若くして若頭という地位についた。だが充洋は諦めず、会合に便乗しては神之倉との接触を図ろうとしていた。
桐野としても、噂に高い古賀沢の“力”を手に入れることができれば、桐野組にとって有益だと思わなくもなかった。
先代の頃よりも勢力を広げ、荻生会での地位も上がったが、荻生傘下のひとつの組で終わるつもりはなかった。いつかは荻生会の中でのし上がり、10や20の組を従えるほどの組織に育てたいと思っていた。
充洋はそんな父親と同じく桐野組を大きく成長させることを望み、そのためには神之倉のような男が必要だと言って譲らなかった。
そうして桐野は、息子の要望を受け入れた。
代替わりのごたごたで疲弊した古賀沢が勢いを盛り返したのは、神之倉だけではなく古賀沢の“頭脳”と称される氷上の手腕によるところが大きいとも聞いていたが、それは充洋がいれば問題ない。我が子ながら頭の良さと指揮力には驚かされることもしばしばあるほどだ。
これで神之倉がいれば――桐野は本気でそう考えた。だから充洋の望むまま、神之倉を譲ってくれるよう古賀沢の四代目に談判しさえした。
だが、今度のことは知らない。断じて知らない。
「何度問わせる気ですか。ご子息は――」
「し、知らん!」
桐野は皆まで言わせず首を振った。
古賀沢の四代目を“鎌倉の御大”が気に入っていると、桐野は知っている。それなのに、攫おうなどとと考えつくはずもなかった。
鎌倉の御大――神宮寺茂生だけは敵に回せない。手を出してはいけない存在というものが、この世にはあるのだ。
「神之倉が欲しいとまた言っている事も、古賀沢の四代目をさらうなんてことをしでかしたのも、俺は知らん。何も聞いていない」
「質問を理解できませんか。知っているとかいないとか、そんなことを聞いているんじゃないんですよ。こちらは、ご子息の居所をお尋ねしてるんです」
あくまで穏やかな声で氷上は言ったが、桐野はその内容の辛辣さに恰幅のよい体を硬くした。
自分の息子とそう変わらない年齢の男の言葉に翻弄される自分を忌々しく思う一方で、誤った対処をしたら危険だという警報が頭の中でガンガン鳴り響く。
まるで匕首を携えて命のやり取りをしているかのような緊張が、桐野の後退した額に汗を滲ませた。
「――わ…わからん…。この2日ほど事務所に顔を出さん。あれはいまマンションで一人暮らしだから自宅にもおらんし」
「愛人宅に入り浸りでご自宅に戻られない貴方に、ご子息が一人暮らしかどうかなど関係ないでしょう」
「――っ」
思わず声を上げかけて、桐野は必死に堪えた。
たしかに最近の桐野は若い愛人のところにいることが多い。だがそれを知っているのは、当の愛人と桐野の側近だけのはずだ。自宅にいる妻にはいつも適当な理由でごまかしている。
そんなことを、何故知っているのだ。
桐野は訝しげに氷上を見つめた。
「何故こんなことを知っているのかお聞きになりたいですか?」
そう言って、氷上は薄く笑った。
ゾクリ、とした。暗く底知れない穴か、深く奥の見えない湖面を覗き込んだかのような気分だ。
漆黒ではなくグレー掛かった色の瞳は、金属のような冷たさと硬質さを連想させた。それでいて、口調はあくまで丁寧で穏やかだ。
数瞬の間。息継ぎひとつするあいだにも、氷上の言葉はするすると近付いて距離を詰め、桐野の喉元に刃を突き付ける。いつの間にか、会話のペースを完全に支配されてしまっていた。
「あ――あれは、いくつか拠点を持っている。そのどこかだと――思う」
「個人的なものだけでなく、しのぎに用いているものも全て答えていただけますね」
いただけますか、という問い掛けではない。いただきます、という断定的な命令でもない。
まさか答えないとは言わないでしょうね…という、柔らかだが決して抜けない刺を持つ脅しだ。
桐野は喘ぐように深く呼吸をして、息子の住んでいるマンションの場所や息子に任せている仕事に関連する場所を口にした。
段々と次の場所を口にする間隔が長くなり、十ヶ所ほどを挙げて言葉を切った桐野に、氷上は短く尋ねる。
「他には?」
「…俺が知っているのはこれだけだ」
「そうですか」
メモも取らずにそれだけを言って、氷上はゆっくりと腰を上げた。
それをのろのろと目で追った桐野は、歩きだそうとしていた氷上に向かって問い掛ける。
「……本当なのか…? 本当に充洋が、古賀沢の四代目を…?」
「嘘をついても、うちには何の得にもなりません」
「たしかにそうだ。そうだが、しかし――」
桐野は言い淀んで俯いた。
促されるまま聞かれたことにも答えたが、どうにも信じられない。利口だと思っていた息子が、後先を考えもせずに本当にそんな無謀なことをやらかしたというのか。
考え込む桐野に視線を向けていた氷上の体がゆらりと動いた。
襖の脇に立っていた男たちがはっとして視線を向けたが止める間もなく、氷上は桐野との距離を詰め、その胸倉を引っ掴んだ。そして、氷上ほど身長はないが横幅と脂肪は倍ほどもありそうな桐野を、軽々かつ無造作に壁に向かって放り投げる。
砂壁にしたたかに背中をぶつけて咳き込んだ桐野の顔のすぐ右脇を、何かが襲った。
衝撃音に続いてみしみしと不穏な音が耳元で響いた。
反射的に音の発生源を見遣った目が驚愕に見開かれる。
氷上が蹴りつけた桐野の顔の脇の壁が数センチ陥没し、そこから幾筋かの罅が縦横に走っていた。
「……ッ」
小さく息を飲んだ桐野の上体がぐらりと揺れ、脱力した。畳についた左手が、かろうじて体を支える。
頭上からの明かりで表情が明確には見えない氷上を、桐野が茫然と見上げた。
「――失礼。足が滑りました」
「……いや……」
どう見ても狙いすました蹴りだというのにしゃあしゃあと言ってのけ、左足を下ろした氷上は何事もなかったかのように踵を返した。
思わずごく普通の返答をしてしまった桐野は、今度こそ振り返らずに去っていく氷上の背を見つめる。“敵に回したくない”といわれる所以を図らずも体感して、気力が奮い立たない。
だが桐野も、自分の代で組を一段上に成長させた男だ。このまま帰すのは口惜しいと思うくらいの気持ちは残っていた。ひと言くらい言い返してやらねば気がすまない。怒りが、萎えそうな桐野の背中を押した。
「……このまま俺が、おとなしく黙っているとでも思っているのか?」
精一杯の虚勢を張って、低い声で氷上に尋ねる。
氷上は、脇に控えていた2人によって開け放たれた襖の前で立ち止まり、小さくため息をついた。
そして、眼鏡を外して肩越しにゆっくりと振り返り、僅かに青みが差した濃灰色の瞳を桐野へと向ける。
「そんな愚かな方ではない、と認識しておりましたが…?」
室温が5度も10度も一気に低下したかのような冷たい響きのそれに、桐野のみならず襖の脇に控えた2人も息を呑む。
「万が一、つまらないまねをされた時には――」
ことさらゆっくりと言葉を紡ぐ氷上の口許に、笑みが浮いた。
その凄絶さに気圧された桐野が、無意識に後退る。
氷上は、笑みを浮かべたまま言った。
「消してさしあげますよ、桐野組を。肉片ひとつ残さずに」
今度こそ、桐野からはひと言もなかった。
重たい沈黙と桐野とを残したまま、氷上は何事もなかったかのように涼しげに、部屋から出ていった。
《多岐川》の入口に向かうと、そこには店の女将が待っていた。
「すまない。壁を少々壊してしまった」
目の前で足を止めて、佐伯がそっと渡して寄越した袱紗包みを差し出して氷上は謝った。
どれだけ包めという指示は出していないが、迷惑料と修繕費用としては十分だろう厚さのそれを、初老の女将は黙って受け取る。
「迷惑をかけたな」
「いいえ。またお食事にいらしてくださいませ」
女将は何も問わなかった。
場所柄、政財界の人間の利用が多く、桐野の他にも筋者の利用客はいる。それだけに女将の肝は据わっていた。
氷上は女将に礼を言い、つれて来ていた組員を従えて店を出た。
すでに指示が飛んでいたようで、店の外には車が横付けにされている。
氷上は数人の組員を呼んで念のため桐野組に張り付くよう指示を出すと、彼らを残して車に乗り込んだ。そしてすぐに携帯電話を取り出し、桐野から聞き出したことを組事務所にいる神之倉へと伝えた。
充洋は、決して親馬鹿という理由だけで跡目に指名されているわけではない。性質と性格に難はあるが、跡目に足るだけの力がなければ後継に推されるはずもない。力なき者がトップに立つということは、すなわち組織の瓦解を意味するからだ。
だが、充洋が現時点ですでに父親よりも組を動かす力があるという可能性は捨てる。いかに賢しい男でもあくの強い人格だけに、多くの組員を密かに取り込むのは容易ではない。
人数を揃えるだけなら、準構成員と呼ばれる若い者を使えばすむ。だが弾除けの兵隊にはできても自分の周りを固めるには心許無い。とすれば、潜んでいるところにいるのは充洋の子飼いの連中だ。桐野組の規模から考えて、若い者を含めても多くて20〜30人といったところか。
馬鹿正直に神之倉ひとりだけがやって来るとは、充洋も思っていないはずだ。それなりの人数を揃えておくなら、青山にあるという充洋の住むマンションは可能性が低い。住人ではない数十人が出入りしていれば怪しまれるからだ。
聞き出した場所で氷上が臭いと思ったのは、充洋が仕切っている金融会社の事務所と、東京湾に注ぐ川沿いの倉庫と、伊豆にあるという別荘の3つだった。
だが、人気のない場所を相手に気取られないように捜索するのは骨だ。街中と違って人通りの少ない場所では探っている側が目立って仕方がない。探されている方は動かなければいいだけだが、探す方はそうはいかない。
少しでも優位に事を運びたいなら、相手に余裕を与えない方がいい。待ち構えられていることに変わりはないが、突然現れるのと様子を伺っていたのが露見しているのとでは警戒の度合いが違う。
十ヶ所を、こちらの動きを悟られぬよう早急に捜索する。神之倉の掲げた30時間までもう1日もない。
「足は大丈夫ですか?」
おもむろに佐伯が尋ねた。
「あのまま帰られると思っていたんで、止める間もありませんでした」
佐伯が氷上のすることを止めることなど滅多にないが、さすがに今夜は怪我の状態を気にしているようだ。
「どうにも腹が立ってな……呆れたか?」
「いいえ。お見事でした」
苦笑して答えた氷上に、佐伯は首を振って微笑んだ。
桐野から何か言い出さなくとも、氷上は最後になんらかの楔を打ち込んでいくつもりだったが、あまりの親馬鹿ぶりに猛烈に腹が立った。いかに可愛がっている息子のこととはいえ、一家の長たるものとして盲目的に過ぎる。
時に非情であらねば、組をまとめていくことなど出来ない。そして桐野が息子の暴挙に気付いて止めていれば、こんな事にはならなかった。
結果、半ば衝動的に放った一撃が桐野に追い討ちをかけ、去り際のひと言がとどめをさした。
「本部長を見ていると、会話が呼吸ものだというのが良くわかります」
それほど長い会話を交わしたわけではない。だが桐野は、言葉を交わすたびに追い込まれていった。
相手の言葉にどう返したら最も効果的か、会話の流れを読んで言葉を繰り出す。時には会話そのものを望む方向へと誘導もする。
間を取る、畳み掛ける、途中で断ち切る――その呼吸を読むのは、武道の仕合いにも似ている。
「俺ではなかなかああはいきません」
「性質的な向き不向きももちろんあるが、要は場数だ。うちではお前が一番見どころがある」
氷上の言葉に、佐伯は嬉しそうな顔をした。
見どころがあるからこそ神之倉につけた。実際役に立つと思ったし、組の顔である男のそばで場数を踏ませたかったのだ。蓄積された経験が、判断材料として役に立つ。
「桐野組長はどうされるでしょうね」
「さて、な。だが逃げ道は用意してやったからな、そちらを選んでくれれば楽でいいんだが」
桐野伸之は“鎌倉の御大”が荻生会のトップだった頃を知っている人間だ。話にしか知らない世代より、神宮寺茂生という存在に対する畏れは大きい。
神宮寺が蒔麻に関することで怒っても古賀沢組としてはその力を借りる気はないが、桐野はそうは思わないだろう。
氷上は執拗に充洋にだけこだわってみせ、そうすることで暗にこちらの邪魔をしないのなら桐野組には手を出さないということを匂わせた。ただし、邪魔をするのならば容赦はしない、と。
神宮寺という呪縛と古賀沢の覚悟という2つのプレッシャーを抱えた桐野がどちらを取るかだ。
組の体面と安泰か、後継者である息子と若い組員か。
前者ならば、古賀沢としては何の問題もない。後者であっても、宣言を翻す気はない。
「本部長、口を開けてください」
ふいに佐伯が言った。どこからか取り出した錠剤を手にしている。
氷上はそれが鎮痛剤であるとすぐさま察し、佐伯を見つめた。
薬を手にしたまま、佐伯は氷上を待っている。簡単に手渡さないのは、飲んだふりをして捨てられることを避けるためだろう。
「お願いですから飲んでください。殴り付けてでも飲ませろと若頭に言いつけられてるんですよ」
いつのまにそんな話をしていたのか。気付かなかった氷上は内心苦笑を浮かべつつ、挑発するように佐伯に尋ねた。
「殴り付けてみるか?」
「いいえ。殴れるとは思ってませんので、こうしてお願いしています」
いかに氷上が手負いでも、そう簡単に攻撃を食らうような男ではない。
悪びれずに言い放った佐伯に、氷上はため息をついた。
「……言うようになったな」
「ありがとうございます」
氷上は不承不承手を差し出した。
佐伯は、手渡した錠剤を氷上が舌に載せるのを注意深く見守り、ミネラルウォーターのボトルを差し出した。
水を含んでたしかに嚥下するのを見届けて、佐伯はほっと息をついた。
「眠らなくてもいいですから、事務所に着くまででいいので少し休んでください」
こんな局面で眠れと言われても眠りはしないことくらい分かり切っている。だが、少しでも苦痛を和らげたい。
そんな佐伯の思いを汲んで、氷上は黙ってシートに背を凭せ掛けた。
古賀沢組事務所は、今にも弾けて飛びそうな緊張感に包まれていた。
だが、表向きはいたって静かだ。どたばたと動き回る者も、声を荒げる者もいない。
触れたら切れそうな緊張の束のすべてを手にしている神之倉が、どっしりと腰を据えていることが大きいのだろう。
指揮する人間の焦りは指揮されている人間に伝染する。神之倉が落ち着いているから、組の者たちも自然と落ち着く。
しかし、氷上にはわかった。
じっと腰を下ろしていても、まるで獲物を前にした虎のように、標的を間合いに入れた瞬間に躍りかかりそうな熱さを秘めている。
「ご苦労だったな、氷上」
詰め所の隣にある応接室のテーブルに地図を広げてあれこれと指示を出している神之倉より先に、瀬尾が氷上に声を掛けた。
四代目が蒔麻に決まる以前は次期組長候補の一番手だった男は、いまでは若頭も退き一幹部であるが、その貫禄は失せていない。神之倉も氷上も、肩書きを無視して最大の敬意を払っていた。
「叔父貴――すみませんでした」
「…落とし前は行動でつけろ」
瀬尾は短く答えて氷上の背を叩く。氷上も言葉では返さずに、ただ小さく頷いた。
「氷上」
指示を出し終わった神之倉が氷上を手招いた。
呼ばれるまま近寄った氷上は、広げられた地図を見下ろした。氷上が桐野から聞き出した場所にマークが付いていて、それを取り囲むように大きな円が描いてある。
「どうなってる?」
「有力な情報が入り次第人数を割くが、取りあえずは様子見だ。一応すべての場所に3、4人ずつ見張りを付けて、別口でその周辺を探らせている。奴等が移動する可能性もあるからな、ケリがつくまで張り付けさせておく」
「人気のない場所での探りと張り込みはてこずりそうだな」
「ああ。無理に突っ込みすぎるなと言ってある」
氷上の抱いていた懸念には、神之倉によって手が打たれているようだ。
血気に逸る者はもちろんいるが、神之倉の指示なら皆間違いなく聞く。よほどのことがなければ、報告なしに独断で乗り込む者はいないだろう。そういう人選もしてあるはずだ。
氷上は、ソファに腰をおろしている神之倉の横顔を黙って見つめた。
叶うなら、この男はすぐにでも飛び出して行くだろう。だがまだ蒔麻と格がどこにいるかは判らない。何より、古賀沢組の若頭として1人で突っ走るわけにはいかない。
そんな思いと桐野充洋に対する怒りや憤りとを押し込めている眼が、地図を静かに見下ろしている。
我を忘れることなど滅多にない男だが、今度ばかりはどうなるかわからなかった。拉致された蒔麻のことも、そういう手段に及んだ充洋のこともあるが、何より格が関わっている。
神之倉の好きに動けるよう手を尽くすのが氷上の役割だが、己の分を知らず極道としての筋も通せない若造ごときのために神之倉の手を汚させられない。神之倉が切れるようなら、体を張ってでも止めなくてはならなかった。
「…わかってるよ」
ふいに神之倉が口にした。
「わかってる」
氷上を見もせず地図に視線を落としたままだったが、神之倉ははっきりと氷上に向かって言った。
「――そうか」
「ああ」
自分の性質も、立場も、いつだって神之倉はわかっている。出会った頃からそうだ。
鉄の自制心は時として少々かわいくない部分でもあるが、だからこそ信頼できることも確かだ。
「それより、桐野の二代目はどうだったんだ?」
「ああ…馬鹿息子のおいたには気付いてもいなかったようだ。信じられないという顔をしてたよ」
「言うまでもないだろうが、楔は打ち込んで来たな?」
「もちろんだ。――少し加減を誤ったかもしれんが」
「……佐伯?」
宙を仰いで付け加えた氷上に訊くことはせず、神之倉は黙って控えていた佐伯に視線をやった。
佐伯は苦笑を浮かべて答える。
「あの時の桐野組長と替われと言われたら、絶対に嫌だと断りますよ、俺は」
「――人のことが言えるのか」
冗談めかしていながらもきっぱり嫌だと言い切られるほどの圧力を桐野に与えて来たらしい氷上に、神之倉は笑いを含んだまなざしを向ける。
「進退窮まって自棄起こすようなことは言ってねえよ」
「ああ」
神之倉はいつものように、会話の内容を聞きもせずに氷上を信じた。
必要最低限の確認はするが、疑問は滅多に投げ掛けない。交渉は氷上の領分だと、踏み込んでこようとはしなかった。
氷上が誤った手を打てば、その分神之倉に負担がかかる。背後の守りを委ねるようなものなのに、神之倉は氷上に全幅の信頼を置いている。
だから氷上も気が抜けない。先駆ける神之倉の後詰めが自分の役目なら、その信頼に応えられる仕事をしなくてはならない。
「…飲んだな?」
「ん? ああ」
鎮痛剤のことだとすぐに思い当たり、氷上は首肯した。
神之倉はそれに軽く頷いて、手に持っていたペンを地図の上に置いて立ち上がった。
「お前にはまだ倒れてもらうわけにはいかないからな。保たせてくれ」
「…わかった」
氷上はスーツの内ポケットから煙草を取り出し、何食わぬ顔で応じた。痛みに変化はないので問題はないが、怒りにまかせて壁を陥没させたことは一応黙っておくことにする。
腕時計に視線を落としていた神之倉も、煙草を銜えて腕を組んだ。
「――長い夜になるな」
眉間に縦じわを刻んで呟いたそれは、古賀沢の全員の胸の内でもあった。
そして蒔麻と格にとってもまた、そうであるに違いない。
夜が明けた。
寝る時間はないと思えと神之倉は組員たちに言ったが、そのとおり誰ひとり一睡もせずに朝を迎え、時間だけが過ぎて行った。入って来るのは定期的な報告のみだ。
応接室に陣取った神之倉や瀬尾は腕を組んでソファに深く腰を下ろし、必要な時以外は口を開かない。組員以外の情報源をあたっていた氷上も同様だ。
詰め所と応接室を行き来していた佐伯や数人の組員たちこそ動いていたが、次第にそれも頻度が減っていった。
状況に変化が現れたのは、昇った陽が西に傾き始めて少し経った頃だった。
桐野から聞き出した十ヶ所周辺の情報収集のために増員した組員のひとりから、チンピラ風の2人の若い男がコンビニエンスストアで大量の食料を買い込んでいるのを目撃したという報告が入った。彼らが乗っていた車は一般的な白い軽自動車だったが、組員は逆にそれが気になったらしい。
単なるチンピラでもヤンキー崩れでも、大抵は車に金を掛ける。改造もしていない普通車に乗っているのも、10人やそこらではなさそうな量の買い物も、慣れていない様子だったという。
「今は? 尾行中か?」
佐伯から電話の子機を受け取った神之倉は、報告してきた組員に問い掛けた。
『ハイ、距離をとってますが見失ってはいません』
「行き先が分かればいい。近付き過ぎるな。――佐伯、奈良崎に連絡をとれ」
神之倉は尾行中の組員に続いて佐伯にも指示を出した。
組員が情報収集をしていたエリアの該当箇所では、近くのビルの屋上に数人を張り込ませている。奈良崎はその数人の組員のうちの1人だ。
佐伯はすぐさま奈良崎の携帯電話を呼び出し、近付く車両がないかどうかを尋ねた。客観的に見られるよう、あえて車種や色は告げない。
『運送会社の倉庫の脇を入りました』
尾行している組員からの報告に、神之倉は広げていた道路地図を確認した。そのまま道なりに直進すれば、東京湾に注ぐ河岸の倉庫が見えて来る。
数分間の沈黙が流れ、やがて、佐伯の耳に奈良崎の声が飛び込んで来た。
『白い軽自動車が来ました。チンピラ風の男が2人乗ってます』
佐伯は神之倉に視線を送り、ひとつ頷いてみせる。神之倉は軽自動車を尾行していた組員に、そこで止まって引き返し目立たない場所で待機するよう伝えた。
佐伯が歩み寄り、自身の携帯電話を神之倉の耳に近付ける。
『でかいビニール袋をいくつか下げて倉庫に向かいました。入り口の前で携帯で電話かけてますね。――中から扉が開きました。2人います』
「……手前の窓は荷物が積まれていて中は見えないと言ってたな? いまの出入りで中の様子は分かるか?」
夜が明けてから入った各所からの報告を思い出して神之倉は尋ねた。
奈良崎らがいる場所は目標から少し距離があるが、全景を見張れるところは近くにはないので双眼鏡等で対応している。
『いえ、中には2人しか見えませんでした。この倉庫、裏側は川に面してて出入り口がなくて倉庫までは一本道なんで出入りはここから全部確認できるんですが、これまで中から出ていった奴はゼロです。入っていったのはいまの2人が初めてですね』
奈良崎の説明に、神之倉はしばし黙り込んだ。
本命なのか、それともダミーなのか。
「川の動きはどうだ?」
黙っている神之倉に代わって、そばに来ていた氷上が問いかけた。
『川と倉庫と手分けして両方見るようにしてますが、今のところ怪しい船は通りませんよ』
「…わかった。そのまま見張りを続けろ」
『はい。何かあったらすぐに知らせます』
氷上はとりあえず会話をうち切り、屈めていた腰を伸ばして腕を組んだ。
佐伯が携帯電話を引き戻して通話を切り、神之倉と氷上を順に見遣る。
神之倉はじっと地図を睨み付け、視線はそのままに氷上に尋ねた。
「お前、最初にここが臭いと言っていたな」
「ああ」
“力尽く”という手段が使えないようこちらの動きを封じるなら街のビルの中、逆に騒ぎになってもすぐに警察沙汰になりにくいのは別荘地だ。そして、人気のなさと万が一の移動ルートを考慮するならこの倉庫だと氷上は思った。
外から中の様子が判りにくい立地と建物。倉庫まで続く道が一本だけであるため、中からは表を見張りやすい。船を用意しておけば川からの移動も可能だ。そして倉庫の建ち並ぶ地域だけに、多少の騒ぎも問題なかった。
川と一本道とを押さえられると逃げ道がなくなるが、蒔麻という最大のカードを持っていることで状況が変わってくる。
「…奴に裏をかく気があったかどうか、だな」
「臭い場所でそれらしい様子を見せておいて実際は別の場所にいると?」
「ああ」
「それは今回の場合は除外していいと思うがな」
半ば断定的な口調で言った氷上に、神之倉は訝しげな視線を向けた。氷上は組んでいた腕を解き、肩をすくめる。
「奴の目的がお前だからさ。お前を脅すにしろ、四代目と引き替えに拘束するにしろ、お前が来なけりゃ話にならん」
「それなら回りくどい真似なんざしねえで居場所を伝えてくりゃいいだろうが」
「だから――探してほしいんだろ、お前に」
氷上の言葉に、神之倉は眉を寄せた。不審げなその表情に、氷上は苦笑を浮かべる。
「あいつはお前になんと言った? どこにいるか探してみろと言ったろうが」
「…ああ」
「これまで散々つれなくて見向きもしなかったお前が奴の居所を必死に探すってのは、奴にとっては喜ばしいシチュエーションなんじゃねえか?」
ただ自分の片腕に欲しいというだけの域を超えている執着ぶりに、氷上はどこか倒錯したものを感じていた。充洋が噂どおりのサディストなら、従順さよりも苦しむ姿を一番に望んでも何らおかしくない。
神之倉はますます眉間にしわを寄せ複雑な表情を浮かべた。偏執的な資質のない神之倉には、充洋の度を越したしつこさは理解し難いものだろうと氷上は思う。
「ま、奴のことは気にするな。お前がお前でいりゃあ大丈夫だ」
氷上はそう言って神之倉の肩を軽く叩いた。
決して媚びず、折れず、屈しない、頑固すぎるほど頑固な、いつもの神之倉でいればいい。
蒔麻と格が充洋の手の内にあるのが一番の問題だが、今それを考えても仕方がない。
無言で決断を促す氷上に、神之倉は再度地図に視線を落とした。
「――氷上、20人揃えろ。それから船を2隻、バンを3台用意してくれ」
「了解」
沈黙の果てに神之倉の発した指示に、氷上はすぐさま応じた。そして携帯電話でどこかに連絡を取り始め、話しながら部屋を出て行く。
「佐伯。お前は残って瀬尾の叔父貴の補佐だ。連絡の中継と情報の整理は任せた。各ポイントはそのまま維持、おかしな動きがあれば逐一知らせろ」
「…はい」
佐伯は居残ることに少しだけ残念そうな顔をしたが、力強く頷いた。
そして神之倉は、ソファの瀬尾の正面に回って深く頭を下げる。
「叔父貴、事務所を頼みます」
「おう。必ず四代目と一緒に帰って来い」
「はい」
静かな瞳で真っ直ぐに瀬尾を見て頷いた神之倉は、一礼して踵を返した。
さっそく手配を済ませたのか、部屋を出ていた氷上がダークグレーのコートを羽織って戻ってきた。そして、手にしていた黒いコートを神之倉に向かって放り投げる。神之倉は片手でそれを受け取って、袖を通しながら部屋を出ていった。
「――あいつら2人が先頭に立つ喧嘩は久しぶりだな」
神之倉と氷上の背を見送り、瀬尾がぽつりと口にする。
「……三代目が亡くなってから初めてですね」
佐伯も瀬尾と同じ感慨を抱いた。蒔麻が四代目を継いでから、留守を預かることが多くなった氷上と表立って動くようになった神之倉とが肩を並べて出て行くという姿は滅多に見られなくなった。
「あいつらが揃って出張った喧嘩で負けたことはない。お前が古賀沢に入る前から、ずっとだ」
「はい」
力強い瀬尾の言葉に、佐伯は少しだけ肩の力を抜いた。
夜の闇がより深く暗くなってきた。時刻は午後9時を回っている。
充洋は、事務所として使っている一室で、倉庫の正面を映す監視カメラ用のモニターに次々に飛び込んできた黒や白の車の群を見ていた。
3台のバンから数人ずつ、そして4台のセダンからも一見して堅気ではないと判る者たちが降り立つ。
そして、黒のセダンから黒いコートをまとって現れた男の姿を目にした充洋の唇が笑みを刻んだ。
「来たか…」
48時間と期限を切ったところを10時間以上も早く見つけ出されたことに、充洋は喜びを感じた。それでこそ、なんとしてでも片腕にと望んだ男だ。
そしてこの場所を探す間、神之倉の頭の中から自分が消えたことはないだろうことが、充洋の機嫌をさらに良くしていた。
「若頭と本部長が揃ってお越しとは必死だな」
「そりゃあ女とはいえ一応組長だからだろ」
若い組員の1人が笑い、その隣の組員が応じる。
充洋の後ろに立っていた崎谷は、舌打ちしたいのを堪えて腕を組んだ。
モニターの中に神之倉と氷上の姿がある。
一家の大幹部が直々に出向いて来たということの意味を、いま背後にいる10人ほどの組員たちの何人が理解しているだろう。
「どうしますか、充洋さん」
「…電話」
短い要望に応えて、崎谷は充洋に携帯電話を差し出した。
充洋は口の端に笑みを浮かべたまま電話をかけ始める。
「――早かったな、神之倉」
電話の相手への充洋の第一声に、崎谷は驚いてモニターを見た。画面の中の神之倉は、たしかに携帯電話を耳にあてている。
いつ直通の番号を調べ当てたのか、崎谷は全く知らなかった。
充洋の恐いところはこういうところだ。側近の崎谷も充洋がどこで何をしているかわからないことがあった。そして、その真意が計り知れない時もある。
「軽いジャブだが一応サプライズのつもりだったんだ。少しは驚けよ」
『連れ去った2人を返してもらおう』
神之倉は、素っ気ない口調で単刀直入に切り込んだ。
相手にする気もないといったその返事に、充洋が切れると慌てた崎谷だが、予想に反して充洋は小さく笑った。
「取り返しに来いと言ったろう? 歓迎してやるよ。――心から」
『……わかった』
会話はそこで途切れた。
モニターの中の神之倉はさっさと携帯電話をしまい、斜め後ろの氷上に向かって何事か話しかけている。単なる監視カメラなので音声までは拾えない。
充洋はいまだ笑みを浮かべたまま、モニターに視線を固定している。
神之倉の右手が、無造作に上がった。
その手にあるものが銃だと崎谷が認識した瞬間、画面が大きくぶれてノイズが入り、ぷつんと小さな音を立ててブラックアウトした。
倉庫の正面を映せるカメラは、入り口上部に取り付けてあったこの1台しかなく、後は建物内の数台のみだ。
「――おもしろい」
ククッと喉奥で笑った充洋が呟く。
「そう簡単に手に入ってもつまらないからな…」
充洋の口調が陶然とし、口許の笑みが酷薄なものに変わる。そして振り返り、
「全員で出迎えてこい。手段も武器(えもの)も好きにしろ」
顎でドアを指し示して、室内にいた組員たちに言った。
「手荒な歓迎をしても傷を付けても構わんが殺すな。捕まえて俺のところに連れて来た奴には賞金を出してやる」
組員たちの目の色が変わった。充洋は金に関しては気前が良い。その充洋の出す賞金ならばかなりの額が期待出来ると思ったのだ。
だが、万が一にも致命傷を与えるようなことがあれば、賞金どころか海の藻屑か山の養分になるはめになる。
それを考えもしないのか、思い付かなかったのか、部屋にいた組員たちは我先にと飛び出していった。
「崎谷、見張りの奴らも全員動かせ。それから、あの女とガキをここへ」
「はい」
指示し終わった充洋は再びモニターに向き直り、何も映していない黒い画面を見つめた。
その唇が笑みを湛えたままであることに幾許かの不安と期待を同時に抱いて、崎谷は部屋を出た。
−続−
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