Vol.7 花の咲うように (3)


「遅いな……珍しい」
 駅のロータリーに車を停めた神之倉は、腕時計に目をやってぽつりと呟いた。格との約束の時間は、もう15分過ぎている。
 珍しいと言い切れるほど何度も2人で待ち合わせたことがあるわけではないが、合い鍵を持っている神之倉の部屋にも行って良いかどうか事前に確認を取って来るくらいだ。間に合いそうになければ、電話やメールの1本でも寄越すだろう。
 連絡もなく20分が過ぎたところで、神之倉は携帯電話を手にし、格に電話を掛けた。事故にでも遭ってやしないかと心配になったのだ。
 コール音が鳴る。しかし、5コール過ぎても、10コール過ぎても格は出ない。それどころか、一向に留守番電話にもならない。
 20コール目まで待って、首を傾げつつ電話を切った。
 待たされるのはかまわなかった。今日はもう、事務所に戻る予定もない。
 神之倉は煙草を銜えて火をつけると、窓を少し開けてシートに身を預けた。
 しばらくして、夕飯に何を食べたいのか格の希望を聞いていなかったことに気づく。氷上ならば食べたいというものを耳にすればすぐに何軒かの店名を挙げそうだが、神之倉はそれほど飲食店に詳しくはない。
 さてどうしようかと思い巡らせていたところで、助手席に置いておいた携帯電話が鳴った。
 格かと思い手に取ると、外側の液晶画面には2時間ほど前に別れて事務所に戻った佐伯の名が表示されている。
 神之倉は銜えた煙草を右手の指に挟み、左手で携帯電話を取り上げた。
「…どうした?」
『若頭! 今すぐ戻ってください…ッ!』
 電話に出るなり耳に飛び込んできた緊迫した声に、神之倉は眉間にしわを寄せて電話に意識を集中させる。
「何があった?」
『四代目が――四代目が、連れ去られました』
「…な…んだと?!」
 予想外の答えに、神之倉は煙草を取り落としそうになった。
「どこのどいつにだ!」
『まだ分かりません。本部長から電話で指示を受けまして、該当車種とナンバーで捜索中です』
 佐伯の説明を聞きながら、神之倉はエンジンを掛けて車を発進させた。携帯電話を耳にあてたまま片手でハンドルを操って、半ば強引に道行く車を追い越していく。
 その間佐伯は、氷上から電話で聞いた内容を神之倉に伝えた。
「それで氷上は?」
 3台の車に尾行され、相手が銃を使って車を停めにかかったというところまで黙って聞き、神之倉は訊ねた。
 今日の蒔麻はオフで、氷上が一緒にいたはずだ。氷上がついていたのなら、余程のことがなければ簡単に連れ去られはしないだろう。
『乗られていた車は、タイヤに被弾した上に右フロントを破損して動かすのは無理だそうで、怪我もされてるようなんで何人か向かわせました』
「…わかった。何かあったらまたかけろ。すぐに戻る」
 どうやら出せる指示は全ては氷上が出したようだと判断し、神之倉は電話を切った。
 そして、もう一度格の携帯電話に掛けてみる。どうやら今日の約束は果たせそうにない。
 しかし格は、やはり電話には出なかった。延々鳴り続けるコール音だけが耳に響く。
 電話を切った神之倉は、険しい視線を前方に向けてアクセルを踏み込んだ。

 神之倉が事務所に戻ると、事務所の窓から通りを見ていたのか、佐伯が階下で出迎えた。
 若い組員が、すぐに乗れるようにと待たせていたエレベーターに乗り込んで、佐伯から状況の説明を受ける。
 氷上から告げられた3台に該当する車両は、いまだ発見されていないらしい。
 だが、スモークを貼った黒白のセダンといういかにもな車なので目撃されてはいた。いまはその点を線で繋いで追跡中だという。
 2階の詰め所に入った神之倉は、点を穿たれた地図を見据えて、網を張る場所の追加を指示した。
 そうこうしていると、階下にいた若い組員が氷上が戻ったことを告げに来た。その表情と口調から、無事とは言い難いのだと察しがついたが、神之倉は何も問わずに氷上がやって来るのを待った。
 やがて、支えようとする組員の手を払い除けるようにして氷上が現れた。
 ワイシャツの襟は乱れ、スーツは汚れ、眼鏡もない。見える場所にあるのは擦過傷などの軽傷だが、顔色が著しく良くない。
 そこまで見て取ってソファから立ち上がった神之倉は、通常と変わらぬ歩幅とスピードで歩み寄り、予備動作なしに氷上を殴りつけた。
 拳ではなく平手だったが、張り手と言っていいくらいの衝撃と勢いで氷上は吹っ飛んだ。
 その体を受け止めた佐伯が驚きを顕わにして神之倉を見上げる。
「若頭! なにを…ッ」
 だが、声を荒げかけた佐伯の腕を氷上の手が軽く叩き、続く言葉を押し止めた。
「よせ、佐伯」
「ですが怪我をされているのに――」
「殴られるだけのことをした。どういう経緯であれ、な」
「……はい」
 殴られた当人にきっぱりと言われ、佐伯は頷くしかなかった。
 氷上は佐伯の手も借りずに体勢を整え直し、何事もなかったかのようにソファに戻った神之倉の向かいに腰を下ろした。尻をついた瞬間わずかにその顔が歪んだが、神之倉はあえて見ないふりをしてとおす。
「佐伯からあらかた聞いた。尾行して来た奴等についてもう一度話せ」
 又聞きではなく当事者からの説明を求められ、氷上はその時の状況を話し出した。
 氷上の感覚に狂いがなければ、高台に差し掛かる手前までは尾行されている気配はまったくなかった。蒔麻を迎えにいった時も、ショッピングに付き合っていた時も、おかしな視線は感じなかった。高台の手前で突然追跡車が現れたのだ。
「……偶然見つかったのか、方針が監視から尾行に変わったのか――」
 神之倉は腕を組んで考え込んだ。
 単に監視だけなら、十分に距離を取り人数を揃えて事に当たる。偶然という選択肢をあえて外すなら、動向を見て流動的に打って出たことになる。
 だが、結果的に成功したものの、日中でそれなりに交通量もあった公道で仕掛けるのは無謀だ。
「計画性があるんだかないんだか分からんな――それで、奴等は何か要求してきたのか?」
「いいや。四代目を連れ去ることが目的だったのは確かだが、要求はなかった。連絡があるとしたらこれから、お前宛てに来るだろう」
「…どういうことだ?」
 焦らして要求を叩き付けて来るという可能性は十分考えられるが、組にではなく神之倉個人を指名してと断定する理由がどこにあるのか。
「…相手の中に、桐野の長男についていた若いのがいた」
「桐野――」
「四代目を抱えていった奴の顔はちょうど死角になっていて見えなかったんだが、背格好は桐野の長男に似ていたように思う」
 “桐野”という名に、神之倉の表情が険しくなった。桐野と神之倉とのいきさつを知っている組員たちも俄かに気色ばむ。
 そして神之倉が低い声で呟いた。
「――視線……」
「視線?」
「ここ10日間くらい、妙な視線を感じていたんだが…」
「どんな?」
「殺気の混じった粘着質の視線だ。四代目やお前といる時には感じないから、狙いは俺だろうと思ってはいたんだが――桐野の長男だったのか…?」
 殺意が芽生えてもおかしくないほど袖にし続けてはいたが、果たしてそう単純な話なのだろうかと氷上は思う。神之倉の返答など意に介さないこれまでの様子からしても、そう簡単に諦めるとは思えない。 
 一体どういうつもりなのかと胸の内で呟いた氷上に向かって、神之倉が言った。
「――殴られなきゃいかんのは俺か」
「……殺気を感じていても1人で片をつけようとしてたのはぶん殴ってやりたいところだが、誰より殴られるべきなのは俺とあの馬鹿息子だろう」
 自分ひとりでどうにかしようとしていた事を看破されて、神之倉の口の端にわずかに苦笑が浮いた。
 氷上はそんな神之倉に向かって、甲を上にして手を差し伸べる。そして訝しげに出された神之倉の手のひらに、持っていた携帯電話を乗せた。
 見覚えのある色、形、そして――
「あれ、その携帯ストラップ、格のヤツと同じ……」
 すぐ近くに立っていた組員がふと口に出した。よく格の乱取りに付き合っている男だ。
 一目見て気付いていた神之倉は、じっと氷上を見据えてゆっくりと尋ねる。
「――四代目と一緒にいるんだな?」
「ああ」
 氷上は頷いた。体が思うように動かず、車もなく、追うことは叶わなかったが、蒔麻と同じ車に乗せられたのは見えた。
「…っの外道が……ッ」
 組員の誰かから低い罵声が漏れた。
 その有り様がより暴力的になってきているとはいっても、今でも盃事という習わしや、義理や筋を重んじる世界だ。特に敵対しているわけでもない組の組長をさらったことだけですでに、極道とはいえ道から外れている。そのうえ、堅気の子供を巻き込んだ。
 桐野から神之倉に対する「組に来てほしい」という再三の申し入れには、神之倉本人も古賀沢組としても、その都度きちんと断りを入れている。
 神之倉は古賀沢の盃を受けた身で、桐野に移る気は欠片もない。古賀沢にも、譲り渡す気もなければ義理もない。それでもなお執心し続けて手を引かないことも、筋が違っているといっていい。
「――とにかく車を探し回ってる奴らの連絡待ちだな。本当に桐野の長男の仕業なら、下のモンを見たというだけじゃシラを切り通すだろう」
 神之倉は軽く息をついて、格の携帯電話をポケットに納めた。
 無謀で強引で無茶なことをしでかすわりに、計算高くて強かな男だ。襲ってきた中に手下
(てか)がいたといっても、自分は関わりないとあっさり差し出すか、知らないととぼけ通すかのどちらかだろう。交渉に持ち込むとしても、強引に奪い返すとしても、情報と証拠は少しでも多く握っていた方がいい。
 それに、万一大きな抗争に発展して荻生会が調停に動いた場合、喧嘩両成敗では割に合わない。どちらが黒かという、確固たる証を用意しておくに越したことはなかった。
「佐伯。瀬尾の兄貴に連絡しろ。ほかの者は待機。――来い、氷上」
 神之倉はソファから腰を上げて周りの者達に指示を出し、戻ってきた時よりさらに顔色の冴えない氷上を指先で招いた。

 氷上の部屋へその主を連れてきた神之倉は、座るようソファを顎で指して氷上に言った。
「脱げ」
「なんだ、急に」
「なんのために移動したと思ってるんだ。とっとと脱げ」
 備え付けの収納に常備してある救急箱を取り出し、氷上と向かい合うようにして応接用のテーブルに腰を下ろした神之倉に強く促され、氷上は渋々汚れた上着を脱いで上半身裸になった。
 無駄肉のついていない脇腹が青黒く変色している。
 神之倉は何も問わず、その場所に手を伸ばした。胸から脇腹にかけてを指先で慎重に辿り、傷の具合を確かめる。
「――3本いってるな。呼吸はできるか?」
「ああ」
 触れられて痛みが走ったのか、氷上の顔が歪んでいる。だが、折れているということは自分でもわかっていたのか、返ってきた声に動揺はない。
「きれいに折れてる。体を大きく反らしたりしなけりゃ腹ん中を傷つけたりはしないだろう。胴体用のバンテージはあったか?」
「さらしでいい」
「アスピリンは?」
「いらねえよ」
 痛みは常にあるが、氷上は鎮痛剤を断った。目の前で蒔麻を連れ去られるなど、状況がどうあれあってはならないことをしでかしたのに、簡単に痛みから逃れる自分は許せない。
 肋骨が肺に刺さろうが血を吐こうが、蒔麻を取り戻す。そう心に決めている。
 氷上のその思いを察し、そして自身も蒔麻を救い出すことが第一だと思っている神之倉も、病院に行けとは言わなかった。
「…手加減するなんてお前らしくもない」
 無臭タイプの湿布を患部に貼り付けて腹にさらしを巻き付ける神之倉に向かって、氷上がふっと笑った。部屋に入るなり殴り付けられたことについてだ。
 予備動作も明らかに拳で殴ろうとすれば、どうしても殴られる側は身構えてしまい体に力が入る。踏ん張ってしまうより殴られた勢いのまま飛んだ方が、傷に対するダメージは少ない。
 神之倉がわざと不意打ちに、そして佐伯がいるほうに倒れるように殴ったということに、氷上は気づいていた。
「顔色見て、どこかやってるだろうってのは判ったからな。いまお前が使い物にならなくなるのは困る」
 平然と神之倉は答えて寄越した。
 簡単に氷上を許しては下の者に示しがつかない。また、許す気もなかった。組長の身を守るのは、組長のそばにいる者の当然の務めだからだ。それが出来なかったのだから、経緯がどうあれ、若頭である神之倉が氷上を殴るのは当然だった。
 だが、連れ去った相手と交渉という事態になれば、誰より頼りになるのは氷上だ。殴って怪我を悪化させるわけにはいかない。
 そんな計算を働かせているというのに、傷の手当てのために2人だけで氷上の私室に移動したのは、傷ついた姿を晒したくないだろうという配慮からだった。
 非情さと優しさが同居している。
 氷上はそういう神之倉を嫌いではない。冷徹な部分があるからこそ、若頭を任せることができる。
「それに、お前がついていて四代目が連れ去られたってことは、よほど不利な状況だったろうからな。本当にただ何も出来ずにのこのこ無傷で戻ってきたなら、顔の形が変わるまでぶん殴ったさ。……痺れはもうなくなったか?」
「……気付いてたのか」
「携帯を持った手が少し震えてたからな」
 休んでいる場合ではないので隠し通そうとしていたのに簡単に見破られてしまっていたことに、氷上は苦く笑った。
 その顔が曇り、悔恨の表情へと変わる。
「――格のこと、すまなかった」
「……起こってしまった事は仕方ない。視線の主を放っておいた俺にも責任がある」
 言って、神之倉は氷上の顎に手を伸ばした。斜め上を向けさせると、こめかみの傷の下に脱脂綿をあてて消毒液を吹き付ける。切れた傷口はさほど大きくはなく、血もすっかり止まっていた。
「2、3日前になんとなく桐野の長男のことを思い出したのに、視線の主と奴とを結び付けもしなかった。今は特に敵対している組織はないんだ。それなら奴だと、思い付いてもよさそうなもんなのにな」
 傷口の洗浄も兼ねて多めに吹き付けた消毒液を軽く拭い、神之倉は軟膏を傷に擦り込んだ。次に絆創膏に手を伸ばそうとしたが、氷上がそれを遮ったので黙って引き戻す。
「奴は桐野の三代目を継ぐ立場だ。敵対もしていない同じ会派の組の組長に傷を負わせて喧嘩を売るほど馬鹿じゃない」
「たしかに小賢しくて外面が良い男だ、その手の知恵はあるだろうな。問題を起こせば後継もふいになる」
 神之倉の見解に氷上も頷いた。
 いろいろな噂のある男だが、それでもいまだ後継者のままでいられるのは、決定的な事をやらかしていないからだ。本性を隠さなければならない相手には、巧妙に隠し通す。
 神之倉も氷上も、組長に危害を加えられたなら黙っているつもりはない。売られた喧嘩なら正面から堂々と買う。
 桐野の長男の暴挙の大本が神之倉にあるのだとしても、神之倉は常にきちんとした返事をしている。難癖を付けられるいわれはまるでないのだ。
 蒔麻が、喧嘩の原因だと堂々と口に出来ない辱めを受けることだけが懸念されたが、そこは鎌倉の御大の存在がものをいう。他の誰にも真実を知られることなく、御大のただひと言で桐野を潰すことは可能なのだ。“鎌倉の御大”というのは、それだけの力を持っている。
 古賀沢として買った喧嘩に御大の助力を求めることはないが、蒔麻の“組長”としてではない個人的な尊厳に踏み込まれたなら、どんな手を使ってでもその報復は果たす。神之倉も氷上も、その思いは同じだ。
 いかに自己中心的で傍若無人でも、荻生会に属する組の後継者であり小才の利く男が、御大の存在を無視することはないだろう。
 そして蒔麻と一緒だということで、蒔麻を通して格も御大の庇護下にある。蒔麻が格を守ろうとすれば、桐野も手を出せない。
「格が無茶をしなければいいんだがな」
「あいつはガキだがいっぱしの男だから、四代目が殴られでもすれば守ろうとするだろうが、無茶できる状況かそうでないかは分別のつく奴だと思うぞ」
「ああ」
 ここであれこれと気に掛けても詮無いことだった。慌てずに、いま出来ることを迅速にやる。それが奪還への最短の道だ。
 神之倉は立ち上がり、部屋の隅にある入口とは違うドアを開けた。
「どれがいいんだ?」
「…グレーの――たしか右から5番目」
 氷上の言う通りの場所にかかっていたスーツと、クリーニング済みの白いワイシャツを手に、神之倉は戻って来た。蒔麻と同様、氷上も組事務所に何着かの着替えを置いてある。交渉や会談の席では、スーツの色が視覚的に相手に作用することもあるだからだ。
 氷上は神之倉が持ってきたそれらを受け取り、土に汚れたスーツを脱いだ。
 腕を後方にやる際に痛むのか、シャツに腕を通す時に少し目を細めた氷上に神之倉は気付いていたが、手は貸さない。
「ネクタイはどれだ?」
「一番左端の濃紺のやつ」
 神之倉は20本ほど掛けてあるネクタイの中から言われた通りのものを探し出すと、すでにワイシャツとズボンを身に着けた氷上の元に取って返した。
 ネクタイを締め、ベストを着て、上着に袖を通す。そして、眼鏡を掛ける。
 クールカラーのスーツのためか、青白い顔色が少しは目立たなくなった。むしろ、表情次第では怜悧な印象がぐっと増す。
 刹那、部屋の電話が鳴った。外線ではなく、内線の音だ。
『若頭、お電話です』
 受話器を取り上げた神之倉の耳に、佐伯の張りつめた声が飛び込んできた。


 誰かの声が聞こえたような気がして、格はうっすらと目を開けた。
 何か固いものの上にいるようだ。そして、体が不自然に強張っている。
 ここはどこだろう――格はぼんやりと記憶を辿った。
 神之倉とデートの約束をしていた。それははっきりと覚えている。待ち合わせ場所に向かおうとしたら、学校の前に蒔麻と氷上がいた。
 車に乗せてもらい、あれこれと会話をしながら待ち合わせ場所の近くまで送ってもらって――否。送り届けてもらってはいない。途中で尾行してくる車があり、そして――
「……っ」
 格は朦朧としていた意識を覚醒させ、目を見開いた。
 薄汚れたコンクリートが目の前にある。どうやら右側面を下にして寝かされているらしい。腕は背中側に回され、ロープか何かで縛り付けられていて動かない。
 格は視線を床から上方に廻らせた。
 そして視界に、同じように床に転がされている蒔麻の姿を見つけた。首筋に衝撃を感じて気を失う直前、蒔麻が何者かに拘束されていたことを思い出し、無事を確認しようと口を開く。
 すると、伏せていた瞼を開けて格に視線を送った蒔麻の唇がゆっくりと、しずかに――と動いた。
 意識はある――格は安堵すると同時に、慌てて出かかった声を飲み込んだ。そして、再び瞼を伏せた蒔麻に倣って目を瞑る。
 視覚を遮断すると、遠く聞こえていた声の詳細が耳に届くようになった。
 案外近くにいるようだ。会話の内容も聞き取れる。格は聞こえてくる声に集中した。
「何者なんですかねー、このガキ?」
 ホストのような白いスーツを着た若い男が、倒れ伏している蒔麻と格を見下ろす無精髭の男に向かって問い掛けた。
「組長と組のナンバー3が乗る車に同乗してたんだ、古賀沢の関係者であることは間違いないだろう」
 無精髭の男はあごを撫でながら、四十路には達していないだろう顔を蒔麻と格に向けたまま答えた。そしてやっと視線を外し、白スーツの顔を見る。
「それで? 古賀沢はどうだったって?」
「組員の動きはありますけど、事務所のほうはあんまり慌てた様子はないそうですよ。本部長は自分の足で歩いて戻ってきたそうです」
「……おい、スタンガン2回食らわせたんだよな? 結局何人やられたんだ?」
 その問い掛けに、大袈裟にため息をついて白スーツは腕を組んだ。
「最初の3人は速攻KOっすよ。今もまだ目ぇ回してブッ倒れたままっす。あと、意識はあっても立ち上がれなかったのが、こいつともう1人」
 白スーツは、隣に立っていた黒いスーツで30歳前後の男を指し示した。男はあからさまに不機嫌な顔をしたが、白スーツのほうが立場が上なのか性格なのか、それを完全に無視する。
 話を聞いていた格は、気づかれぬようにホッと息をついた。
 あのときバチバチと音を発したのがなんなのか、そして氷上がどうなったのか気になっていたのだ。どうやら氷上の命に別状はないらしい。
「2回食らっても立とうとしましたからねー。痺れてモーローとしてたみてえだけど、ブラックアウトはしてなかったっす。バケモノっすよ」
「それで、まったく無傷のお前は相変わらずうまいこと逃げ回ってたわけか、ケンジ?」
「やだなあ。実力っすよー」
 わざとらしくそう言って笑う男の白いスーツには、ズボンの裾に至るまでひとつの汚れもない。
「……やれやれ、数を揃えていって正解だったな」
「でも崎谷さん、どうして殺っちまわなかったんすか? この女タテにすりゃ殺れたでしょう」
 黒スーツが物騒な台詞を吐いた。髭の男は平手で黒スーツの頭を叩き、隣の白スーツがやれやれといった目でそれを見遣る。
「馬鹿野郎。抗争に持ち込む気はさらさらないんだ。古賀沢を怒らせてどうする」
「いまさらでしょう。組長をさらえば十分怒ると思いますけど」
「さらった上に幹部を殺ったら火に油注ぐどころじゃねえだろうが。それに、こっちが最初から殺すつもりでかかってたら、奴はたぶん違う対処をしたぞ」
「そんなもんですかねえ?」
 黒スーツは首を捻った。
 そこへ、整った顔をした細身の男がやってきた。白スーツよりは年長で、髭の男よりは年下に見えるが、佇まいは遙かに尊大だ。
 黒スーツが緊張の面もちで背筋をのばした。
「目を覚ましたか、崎谷?」
「いえ、まだ。――神之倉はなんと?」
「わかった、ってさ」
「それだけですか」
「それだけ聞いて電話切ったからな。どれくらいの時間でここを探し当ててくるか……楽しみだ」
 男は唇に薄笑いを浮かべた。それは心底楽しそうであり、そして半ば恍惚とした笑みでもあった。
「充洋サン、こいつらどうするんですか?」
「ここにいれときゃいい。見張りもいらん」
「見張りもいいんですか」
「いい。しばらく放っておけ。どうせ逃げられん」
 冷え冷えとした声で言い捨てて、男はあっさりと背を向けた。
 まるで興味がない様子で立ち去った男の背中を見送り、白スーツが残念そうにため息をつく。
「おこぼれに預かれるかもと思ったのになあ。充洋サン面食いなのに、この女には何もしないんすね」
「この女の後ろには厄介なお人がついてるし、嬲ったところでそう簡単に泣いて許しを請うような女じゃないからな」
「あ〜…そりゃ充洋サンの好みじゃないっすね」
 だんだんと声が遠ざかっていく。同時に、3人分の足音も遠くなっていった。
 会話も聞き取りにくくなり、ドアを開閉する音がし、鍵の閉まる音が響く。その後はすぐに話し声も認識できなくなった。
 なんの音も耳に届かなくなるまで待って、蒔麻が体を仰向けた。
 後ろ手に縛られているので完全に仰臥はできないが、同じく縛られている足を少し浮かせ、反動をつけて体を起こす。
 格もそれに続き、腹に力を込めてコンクリートの床から上体を浮かした。
 どうにか姿勢を整えた格に、蒔麻がにじり寄って来た。
「大丈夫? どこか痛いところない?」
「平気。蒔麻さんこそ怪我してない? 変なことされなかった?」
 自分が意識をなくしている間に無体なことをされなかったかどうか気になって格は尋ねた。
 先程の会話を聞く限りセクハラまがいのことはされていないようだが、どさくさに紛れてあちこち触る不埒者がいないとも限らない。
「私も縛られてから気がついたから――でも大丈夫よ。そのあとは何もされてないし」
「……ごめん、蒔麻さん」
「なんで格くんが謝るの」
「だって俺、何もできなかった」
 蒔麻が何者かに羽交い締めにされた時、何ひとつ出来なかった事が情けなくて仕方なかった。
 足手まといになってしまう――それが、悔しくて悲しくて恐ろしい。
「少しは強くなった気がしてた。なのに俺――武道習ってたって、使えなきゃ何の意味もないのに」
「意味がなくなんてないわ。私を助けようと、立ち向かおうとしてくれたじゃない」
「でも」
「誰だってはじめは真っ白だわ。腕力や握力は生まれつきもあるけど、経験や習練を重ねて強くなるのよ。氷上だって、神之倉だって、積み重ねて来たものがあるから強いのよ」
 諭すように蒔麻が格に語りかける。
 格は悔しさを抱えたまま頷いた。たしかに蒔麻の言うとおりではある。
 合気道を始めて7ヶ月、空手は6ヶ月。柔道にいたっては習い始めたばかりだ。どれも、たかだか数ヶ月で強くなれるほど簡単なものではない。
 この悔しさを忘れずに稽古を積んでいこうと思った。この先、こんな悔しい思いをしないために。
「やっぱり強いよな、氷上。3人倒すの、あっと言う間だったもん」
「そうね」
 普段は荒ごとに縁のなさそうなインテリ然とした男だというのに、恐ろしく強い。合気の稽古をつけてもらっている時もまるで歯が立たないが、実戦だとまた違う。蒔麻と格を守りつつ8人を相手に怯みもしない背中が頼もしかった。
「あれ、スタンガンだったんだね。よかった、撃たれたんじゃなくて」
「ええ。よかっ…――」
 言いかけて、蒔麻が言葉に詰まった。眦に浮かんだ涙がほろりとこぼれ、頬を滑り落ちる。
「――…よかった……」
 小さく呟いて微笑を浮かべた蒔麻の瞳から、またひとすじ涙が伝った。
「…心配だった?」
 聞くまでもないと思いながらも、格は問い掛けていた。
「氷上が膝をつくなんて滅多にないから――ホッとしたら涙腺ゆるんじゃったわ」
 蒔麻は照れたように笑った。そして肩をすくめてみせる。
「大丈夫だってわかってるの。信じてもいるけど、それでも心配はしちゃうのよ。こればっかりは仕方ないわよね」
「うん」
 格は頷いて同意を示した。格もまた、神之倉を信じてはいるが、心配せずにはいられない。できることなら怪我などしてほしくないからだ。
 特に蒔麻は、強くそう思っていることだろう。氷上や神之倉は、蒔麻と古賀沢のために傷を負うことを躊躇わない。
「蒔麻さん、俺の肩でよければハンカチがわりに使ってよ」
 縛られているので涙を拭くものを差し出すことができない。格は体の側面を蒔麻に向けて言った。
「ありがと。もう止まったから大丈夫よ。それより格くん、携帯持ってる?」
「ケータイ――…あ、車の中だ……」
 格はしばらく考えて、がくりと肩を落とした。車外に出るときに慌てていたのか、携帯電話はデイパックごと車の中に置いてきてしまった。
「蒔麻さんのは?」
「私のはこれ」
 ため息と共に蒔麻が視線をやった先には、踏みつぶされたと思しき携帯電話の残骸が転がっている。
「……せっかくこの部屋、監視カメラもなさそうなのに」
 見張りの付いていない今が連絡を取るチャンスだったが、部屋からは出られそうになく携帯電話もないのではどうしようもない。
 意識がなかったためどこに連れてこられたのかは判らなかったが、せめて無事だということを神之倉や氷上に伝えられれば、ここを探す彼らの気も少しは楽になるだろう。
 格は部屋の中をぐるりと見回した。
 広めの部屋だ。床も壁もコンクリートの打ち放しで、様々な木箱やドラム缶が積んである。どこかの倉庫のように見えた。
 部屋の出入り口は1カ所。壁に沿って10段ほどの階段があり、その先に鉄の扉がある。
 男達の会話からは、どうやら古賀沢にはこの場所は知られていないようだった。
 どのくらいでここを探し当てるかと、あとからやってきた男は口にした。笑いを含んだ声で、楽しみだと言った。
 甘い響きさえ滲んでいたあの声は、もしかして――
「あの、さ……あの、もしかしてさっきの偉そうな男って――」
「…ええ、そうよ。あれが桐野充洋。神之倉にご執心の、桐野組の跡取り息子よ」
 忌ま忌ましげな声で返ってきた答えに、格はごくんと生唾を飲み込んだ。
 蒔麻を取り戻すために、古賀沢は必ずここを見つけ出すだろう。そしてきっと、神之倉がやって来る。
 あの酷く冷たい声の主と対峙したとき蒔麻を盾にされたら、神之倉はどうするのだろうか。
 たとえ蒔麻のためでも、屈する神之倉など見たくない。だが、蒔麻には無事でいてほしい。そのために、自分は何が出来るだろう。
 格は自分の事より何より、神之倉と蒔麻の身を案じた。


 神之倉は、電話をまわすと言う佐伯を止めて、氷上と共に部屋を移動した。
 組員の詰め所で受話器を取った神之倉は、スピーカーボタンを押しその場の全員に会話が聞こえる状態にしてから、点滅している外線ボタンを押した。
『ずいぶん待たせるじゃないか、神之倉。相変わらず焦らすのがうまい奴だな』
「…お久しぶりです」
 名乗りもしないで叩かれた軽口に、神之倉はひと言だけ返した。
 桐野充洋はそれを気にすることなく会話を続ける。
『もう気付いてると思うが、古賀沢の四代目にお越しいただいてるから』
「どちらに?」
『ただで教えると思うか?』
「いいえ」
 即答した神之倉に、受話器の向こうの声が笑った。
『…48時間だ。その間、古賀沢組長には指一本触れないで待っててやるよ。俺がどこにいるか探してみな。お前が取り返しに来い、神之倉』
「――わかった」
 一度こうと決めてしまったら譲ることはない男だとここにいる誰より分かっている神之倉は、ただそれだけを返した。
 そして、神之倉の返事を聞き届けて一応の気がすんだのか、ぷつりと小さな音を立てて通話は一方的に断ち切られた。
 短い通話だったが、為すべき事は明白になった。
 48時間以内に居場所を突き止め、神之倉がそこに向かう。
 問題は、どうやってその場所を突き止めるか、だ。
「――48時間か……何様のつもりだ」
「ふざけやがって…。必ず見つけてやる」
 会話を聞いていた組員たちが、渋面で吐き捨てる。神之倉は腕時計に視線を落とし、時刻を確認した。
 午後5時半を数分過ぎたところだ。
 皆が神之倉の指示を待って、緊張した面持ちで待っている。
 時計の文字盤から視線を外し、数秒間沈思した神之倉が顔を上げた。
「30時間以内に探し出すぞ。寝る暇はないと思え」
 神之倉は、48時間という時間を保証された時間だとは思わなかった。桐野充洋は、それほど人のいい男ではない。
 充洋の狙いが神之倉の命なのか、それともこの数年何度も何度も持ちかけられた神之倉の桐野入りなのかは判らないが、狙いが神之倉だからといって蒔麻がまったく無事でいられるとは限らないのだ。
 後者ならば、神之倉に何かを命じることの出来る立場にいる蒔麻にイエスと言わせにかかるかもしれない。だが蒔麻は、これまで何度も桐野からの申し出を断っている。用いる手段は、単なる口頭での説得ではないだろう。
 そして、どこに拘束されているかにもよるが、簡単に取り戻せるとは限らない。正攻法が使えない可能性も考慮して、夜陰に乗じることができる時間的余裕をもっていたほうがいい。そのための“30時間”だった。
 神之倉はそれらすべてを口にはしなかったが、組員達は言われずとも理解したようで、異口同音に応じて頷いた。
 その時、佐伯の携帯電話が鳴った。
 すぐに応答し、二言三言ことばを交わした佐伯の表情に、喜色と落胆が交互に浮かぶ。佐伯はすぐにかけ直すから待つように告げると、電話を切って神之倉を見た。
「車が見つかりました。大型スーパーの立体駐車場に放置されていたそうです」
「そこで車を変えたな」
 予想の範囲内の結果に、神之倉は軽く息をついた。
 氷上の言うとおり、桐野充洋は知恵はある。簡単に見つかるようなまねはしないだろう。
「……桐野の二代目をあたるか」
 神之倉は、危険を承知で正面からの強行突破を選んだ。
 充洋の居場所を尋ねるなら、誰より近しい立場で、桐野で最も権限のある者に直接聞くのが手っ取り早い。
 氷上が、ソファからゆっくりと立ち上がった。
「…わかってるな?」
「ああ。それが俺の仕事だ」
 氷上のほうを見もせずに問いかけた神之倉に、氷上も視線を合わすことなく応じる。
「しかし若頭、本部長はお怪我を――」
 軽くない怪我だと察していた佐伯が止めにかかった。
 だが、当の氷上はすでに歩き出しており、止めようとした佐伯にもついてくるよう言った。
「それから藤井、木暮、服部。もう2、3人ついてこい」
 組員を呼ぶ声も、表情も、いつもの氷上と変わりない。佐伯は戸惑い気味に神之倉を一度振り返ったが、足を止めない氷上の背を追って、部屋を出ていった。
「いいんですか、若頭?」
 佐伯と同じく、氷上の怪我の重さに気づいていた組員が、神之倉のそばに寄ってきてそっと問いかける。
「これがあいつの仕事だからな」
 神之倉は取り合わなかった。
 たとえどんな重傷を負っていても氷上は行くと言うだろうし、神之倉も止めずに送り出す。
 誰より適任なのが氷上であり、そして、これが氷上の為すべき仕事だからだ。
 そこへ若い組員が、瀬尾が到着したと伝えに来た。神之倉と氷上が同時に動かなくてはならない時、組事務所を預かるに最も適しているのが、先の若頭の瀬尾だ。一家の長老として、現況を耳に入れておく必要もある。
 神之倉は、瀬尾を出迎えるために立ち上がった。
 そして、ポケットの中の格の携帯電話を、固く握りしめた。


−続−



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