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Vol.7 花の咲うように (2)
授業が終わり帰りの会も済ませると、格は猛スピードで身支度をして教室を出た。
教室のある3階から一段飛ばしに階段を駆け下りて、靴紐を結ぶのももどかしく靴を履いて昇降口からピロティに走り出る。
デイパックを右肩に校門に向かって走る格に、背後から声が飛んだ。
「おーい、エノ! 混ざってけよ!」
振り返ると、クラスの違う友達がサッカーボールを足下に手を振っていた。格のクラスよりも早く終わったらしく、すでにミニサッカーが始まっている。
「わり! 用事あるんだ」
「なんだよー。最近つきあい悪ぃぞー?」
「また今度な」
つれない即答に不満げな表情を浮かべた友達に向かって両手をあわせて拝んで見せて、格は校門へと急いだ。
「……?」
校門の手前までやってきて、格は首をかしげた。
門を抜ける生徒たちの様子がどこかおかしい。何かを遠巻きに見ているような素振りだ。
そして、門を通り抜けながら皆の視線の向く先を何気なく見遣った格の目が、驚きに見開かれた。
「格くん」
注目を集めていた主は、格の姿を発見するなり笑みを浮かべて手を振った。
「蒔麻さん! どうしたの?」
格は躊躇なく駆け寄って、思いがけないところで遭遇した女性を見上げた。
「久しぶりに顔が見たくて来ちゃった」
恋人に対するような甘い笑顔で言った蒔麻は、いつもと雰囲気がまるで違う。
おろした長い髪のサイドを後頭部でまとめ、黒いハイネックのセーターとレザーのミニスカート、足元はチャコールグレーのロングブーツで、あまりくどくどしくは見えない白銀の毛皮のハーフコートを羽織っている。
車も見覚えのない外国車で、古賀沢組四代目組長を連想させるのは傍らに立っている氷上の姿だけだ。だが氷上も、いつもと同じスーツ姿なのに見事にヤクザには見えない。
しかし、2人も車も目立つ分だけ正体がわからず怪しいともいえる。
「乗って」
目を引いているということは自覚しているのか、蒔麻が車の後部座席のドアを開けて格を促した。
素直に乗り込んだ格に蒔麻が続き、ドアを閉めた氷上が運転席に乗り込む。
氷上はギアとハンドルを慣れた調子で操って、滑らかに車を走り出させた。
「今日は買い物に出てたの。事務所に顔出す予定はないから一応オフね」
車が走り出してから、格が疑問を口にするより早く蒔麻が答えてくれた。
休日(オフ)と聞いて納得がいった。事務所にいるときでも洋装でいることはもちろんあり、ジーンズなどの私服姿も幾度か見たことがあるが、膝上丈のスカート姿は初めて目にするのでとても新鮮だ。
「いつもと雰囲気違うからびっくりした」
「がらっと服装を変えると変装にもなるから、街に出るときはこんな格好もけっこうするのよ。――変かな?」
「全然変じゃないよ。すっげえキレイ」
「ありがと」
格の賛辞に蒔麻は照れたように笑った。
実際のところかなりの美人だと格は思う。見た目も若々しく30歳を超えているようには見えない。街中を1人で歩いていたら確実に声を掛けられるだろう。
「氷上と蒔麻さんの2人っきりなの?」
「プライベートな外出だしね。護衛は氷上1人いれば十分だもの」
まるでデートだ。並んだバランスもいいので、2人で歩いていても違和感はないだろう。
一家の組長とそれに準ずる立場の幹部が2人きりで出掛けるなど、ある意味では危険極まりない。それが許されるということは、それだけ氷上が信用されているということと、敵対し警戒しなくてはならない組織が今は特にないということだ。
ここ1ヶ月ほど、古賀沢組の事務所まで合気の手ほどきを受けに行っても、蒔麻とは会えないことが多かった。オフをとって出掛けられるくらい時間の余裕ができたのは、蒔麻のためにも組のためにも喜ばしい。
「あ。なあ、駅で降ろしてもらえる?」
「あら、予定あった?」
「うん。士朗とデート」
言って、格は隠しきれない喜びを笑顔に滲ませた。
知り合ってから1年半――神之倉が格の思いを受け入れてくれてから1年が経つが、2人きりでデートといえるものをしたのは3度しかない。
初めてのドライブは蒔麻がお膳立てをしてくれた。2度目のデートは夏休み中に1日どこかに行きたいと格がせがんだ。3度目は神之倉から誘ってくれ、格はデートだとカウントしてはいるが、実際は初詣に行って帰ってきただけだ。
夕方待ち合わせて、夕飯を食って車で少し足を延ばすか――2日前の夜、神之倉がそう格に囁いた。一緒にいられるだけでも嬉しいのだが、やはりデートに誘ってもらえると特別な日のような気がする。
「そうなの? やだ、ごめんね、知らなかったから」
蒔麻が慌てて謝ってきた。
「いいよ、約束の時間には余裕で間に合うし、蒔麻さんの顔見れて嬉しかったしさ」
格は本心から言ってにっこりと笑った。それに合わせて蒔麻も、格好みの顔に微笑を浮かべる。美人の笑顔は眼福だ。
「――格。時間までに待ち合わせ場所の近くまで送っていくから、もう3、40分付き合ってくれないか」
バックミラー越しに後部座席の格に視線をやって氷上が言った。格はミラーの中の氷上の目を見て瞬きをする。
「うん、いいよ」
暗に、少しでいいから蒔麻の傍にいてやってくれという氷上に、格は気軽に頷いて待ち合わせ場所に程近い駅まで行ってくれるよう頼んだ。
なぜか蒔麻は、格が傍にいると気が休まるらしい。事務所に3度は顔を出したのに一度も会えなかったこのひと月の間に何があったかは神之倉にも詳しく聞いてはいないが、格といることで蒔麻の気持ちが楽になるのなら、可能な限り傍にいたいと思う。
神之倉への思いとは違うが、蒔麻のことはとても好きだ。
「あのさ、女の人が組長ってよくあることなの?」
「そんなに多くはないわよね、氷上?」
「そうですね。いま荻生会派の組には女性の組長は――3人でしたか」
それが多いのか少ないのか、格にはいまいち判断がつかなかった。そもそも、関東最大という荻生会派の総数がわからない。末端の小さな組織まで含めれば相当数あるのだろう。
「大抵は次の代までの繋ぎ役ね。そうでない場合は、幹部以下の組員に力があって体制がしっかりしている組よ」
「そうなんだ?」
「基本的に男社会で、女子供は出しゃばるなというヤツは当然いるから、相当胆力のある人でないと大変だろうな」
格は心配になって傍らの蒔麻を見た。四代目になったことで、何か辛い仕打ちを受けることがあるのだろうか。
視線の意味をすぐに理解した蒔麻は、笑って首を振った。
「大丈夫よ。最初はいろいろ言われたけど、もう慣れたわ。いまではちょっかい出してくる奴もいないしね」
「あの啖呵はある意味強烈でしたからねえ」
運転席から飛んだ笑いを含んだ声に、蒔麻が少しきまりの悪そうな顔をして頬を赤らめた。
「いい加減忘れてよ、氷上」
「忘れられませんよ。先代をひっぱたいて怒鳴りつけたときに次ぐ見事さでしたから」
「やめてってば」
「……いったい何したの?」
心配半分、好奇心半分で、格は蒔麻に問い掛けた。武闘派できこえた古賀沢組の先代組長を初対面で殴り付けたという話は以前耳にした。それに継ぐインパクトを受けるとは、一体何があったというのだろう。
やがて、格の凝視に負けた蒔麻が渋々と口を開いた。
「……四代目を継いで少しした頃、荻生の会合があって――」
極道の世界では季節の行事をよくするが、会合の後が酒席になることも間々ある。
その席に、鎌倉の御大こと神宮寺成生が気紛れに顔を出した。蒔麻は神宮寺に呼ばれるまま酌をしに行き、しばし会話を交わし、すぐに席に戻った。
そして神宮寺が、やってきた時と同じくふらりと帰ってしまったあとに、それは起こった。
会合に参加していた組長の1人が蒔麻を手招き、酌を要求したのだ。
古賀沢の組長だけでなく荻生における先代のポジションをそのまま継いだとはいえ、自分が弱輩だという自覚が十二分にあったため、蒔麻は素直にそれに従った。
だが蒔麻を呼んだ男は、蒔麻が神宮寺に気に入られて四代目になったお飾り的存在だと思い込んでいた人間だった。さらに男尊女卑の考えの強い男だったため、酔いも手伝って、蒔麻への応対は必然的に嫌みなきついものになった。
セクハラ紛いの発言も接触も受け流していた蒔麻だが、段々と蒔麻を立てた古賀沢を非難し出したのには腹が立った。しかし、それでも挑発には乗らない蒔麻が逆に気に入らなかったのか、特定の組員が男の槍玉に上がり出した。
さすがに言い過ぎだと、近くに座っていた他の組の組長が男を窘めようと腰を上げかけた時。
――蒔麻がキレた。
ふいに腕を延ばし、手にしていた銚子の中身を目の前の男の頭上に注いだのだ。
カッとなった男がすぐさま持っていた猪口の酒をかけ返したが、蒔麻はそれを体をすくめることも逃げることもなく受けた。
「私のことはどうでも、組や組員を悪く言われる謂れはありません。それとも、古賀沢に喧嘩を売っているつもりですか…?」
静かに問い掛けたその声に含まれた意外な凄みに、周囲の人間が息を飲んだ。
「売られた喧嘩は買いますよ」
背筋を伸ばして端座し、男をじっと見据え毅然として言い切った蒔麻に、男は黙り込んだ。
神宮寺が次代の候補として蒔麻の名を上げたのは確かだが、最終的に蒔麻が選ばれたのは古賀沢の総意だ。幹部以下、現在組に属する皆が納得している。古賀沢に売られた喧嘩を組長が買うと言うなら、組員はそれに従うだろう。
男は怯んだ。いくら気に食わないとはいえ、酒の勢いを借りて言い掛かり的になったのは確かだ。それを、周囲の人間は見て聞いて知っている。
「――そのつもりは、ない」
それだけ言うのが精一杯だった。素直に謝ろうとは思えないが、組をあげて喧嘩をするつもりは毛頭ない。
蒔麻は黙って新たな銚子を取り上げて、男に向かって差し出した。酒席で起こったことは酒で手打ちにするためだ。男は黙ってそれを猪口で受け、ひと息に飲み干した。
その後は、何事もなかったかのように宴は続き、何事もなかったかのように終わった。
「静かなだけに逆に迫力あったよ、あのひと言は」
「だってあの人、あなたや神之倉や瀬尾さんたちのことも悪く言ったのよ。腹が立つじゃない」
格にその時の様子を語って聞かせてやった氷上に向かって、蒔麻が当時の怒りを思い出したかのように言った。
「そのあとまた絡まれたりはしなかったの?」
「俺が知る限りはないが――ありましたか?」
「ないわよ。相手はいまだに顔を合わせるとちょっと気まずそうではあるけど」
「あんたのおかげで必要以上に恥をかかずに済んだわけですから、下手に絡んではこないでしょうよ」
だいぶ酒が回ってきた頃に座敷の隅で起こったことなので、蒔麻が声を荒げず静かに応じたこともあり、言い掛かりで絡んでいたと知るのは会話の詳細が聞こえるくらい近くにいた者だけだった。後日誰からも聞いていなければ、神宮寺さえも知らないはずだ。
たとえ蒔麻が関わっていなくても、他の組の内情まで悪しげに挙げ連ねて絡むという狭量さは神宮寺の好むところではないし、神宮寺以外にも彼の行為に対して失笑する者もいるだろう。
蒔麻が声高に騒がなかったことで、件の組長には借りを作らせたことになる。
「キャンキャン吠えて虚勢を張るだけなら簡単だ。ぐっとこらえてはったりをかませるかどうかがチンピラと極道の違いなんだよ。――って前にね、竜彦さんが。私はその言葉通りにしようと思ってるだけよ」
軽く息をついて蒔麻は肩をすくめた。
しかし、言われて出来ることと出来ないことがある。一個人としてだけでなく一家の組長として、同じく一家の頭を張る男相手に静かに凄んで返すなど、それだけの器がないとなかなか出来ないことだろう。
だからこそ、親と子として杯を交わした男の妻だったからというだけでなく四代目としてついていけると、神之倉も氷上もその他の組員たちも思ったからこそ、跡目に迎えることにしたのだ。
昨夏に目にした蒔麻の“組長”としての凛とした顔を思い出し、格はひとり小さく頷いた。
格に向ける柔らかな表情とは違う、何十、何百もの男たちの上に立つ者としての“顔”。
どちらも蒔麻で、どちらもきれいだと格は思う。
「生まれた時から継ぐことが決まってていろんなプレッシャーがあるのも大変だけど、突然継げって言われるのも大変だよね」
いま関西で、代替わりに関連して少々荒れていると断片的にだが聞いている。蒔麻の襲名の時もいろいろとあったらしい。詳しいことは知らないが、やはり上に立つことは簡単なことではないということはわかる。
「そうね。でも必ずしも世襲ってわけじゃないのよ? むしろ実際は世襲じゃないことのほうが多いかもしれないわ」
「え……だって、先代の組長さんも“古賀沢”じゃん」
「竜彦さんは養子に入ったのよ」
「初代の娘婿が二代目で、その二代目の養子に入ったのが三代目なんだよ、格。で、四代目は三代目夫人だから、実は一度も世襲はないんだ」
「でも、それも珍しい方だと思うわ。実子でなければ若頭が次の組長候補になることが多いものね」
擬制の血縁関係で成り立っている極道は、生まれによっての血の濃淡はない。いかに力があり、いかに信頼されているかが血の濃さを決める。
「へえ〜。それじゃあ、兄弟で争ったりとか、そういう跡継ぎのお家騒動なんてのはないんだ?」
「……ないこともないわね」
蒔麻が渋面で呟いた。運転席の氷上が苦笑を浮かべ、バックミラー越しに視線を送ってくる。
「…桐野ですか?」
「ええ」
「きりの?」
「桐野組。いまの二代目は先代の実の息子さんで、この人がまた実力はあるんだけど親バカな人でねえ…。器量は絶対に次男の方があると思うんだけど、次期三代目に指名されてるのは長男のおバカボンなのよねー」
「おばかぼん…」
蒔麻の言い様に、格はつい笑ってしまった。“馬鹿な”“坊(おぼっちゃん)”にご丁寧に“お(御)”まで付けて皮肉って呼んでいるところが、蒔麻から見た評価の全てを表している。
「笑ってる場合じゃないぞ、格。お前たぶん、無関係じゃいられなくなるぜ」
「なんで?」
「神之倉にご執心なんだよ、おバカボン様は」
「士朗に…?」
「3年前、荻生の新年の会合で神之倉を見初めたらしい。初めは本人にモーションかけたようなんだが、あいつがいつまでもどこ吹く風だったからか、四代目に直接ねじ込んできやがってなあ」
「最初はオレにくれって居丈高に言ってきて、それから情に訴えたり、お金でどうにかしようしたり、桐野の二代目まで引っ張り出してきたりね」
「…どう対応したの?」
「もちろん全部! 即答で! 断ったわよッ! …もう何度断ったか覚えてないくらいだわ」
蒔麻はため息混じりに額を押さえた。その様子から、相手方がどれだけしつこいかが判る。
「あのさ、それって……極道としての士朗が欲しいわけ? それとも…」
「両方――だが、おバカボンとしては“それとも”の方もかなりの比重があるかもな。バイでサディストだって裏では有名だ」
「――知らなかった、そんなの」
そんな奴がいることなど、神之倉はひと言だって格に話したことはなかった。もちろんわざわざ言うようなことではないのだろうが、それだけしつこいのなら、格と出会ってからも接触があったはずだ。だか神之倉からは愚痴のひとつもない。
「…お前がなに考えてるかわかるぜ、格。あいつが何も言わなかったのは簡単な理由だ」
「巻き込みたくなかったとか、そういうの?」
「違う。単にあいつの眼中にないんだよ。歯牙にもかけてない。あいつの中に、古賀沢を出るっていう選択肢は皆無だからな」
「何度言ってきても、どういう手で来ても、神之倉の態度はいつも同じ。古賀沢を出る気は全くないからって、毎回きちんと断ってるの。もちろん私も手放すつもりなんて全くないし。それは相手が御大だって同じよ」
神之倉は、神宮寺にも気に入られている。神宮寺の場合はそれが簡単に出来る立場にいるが、蒔麻から神之倉を無理矢理取り上げようとはしない。
「最近何も言ってこないけど、氷上は神之倉から何か聞いてる? 直接言い寄られてたら、自分で何とかしようとすると思うのよね」
「これといって何も。そういえばここ1年ほどはおとなしいですね」
氷上は大きくハンドルを切って、高台へと続く進路をとった。小高い峠を越えると国道に出て、その途中に格の目的地である駅がある。
「シゲじいといえばさ、ずいぶん親しそうに見えるけど、古賀沢組とどういう関係なの?」
「あら、仲良しなのにそういう話はしないの?」
「うん。改めて聞くのもなーって思ってるうちに聞きそびれて」
格が“シゲじい”と呼ぶ神宮寺とは、夏に知り合って以来ちょくちょくメールを交わす間柄だ。いろいろな話をしてきてはいるのだが、基本的なところを聞き逃したままだった。
格が知っている神宮寺は洒脱で、気が若すぎるほど若いのに無理がなく、格と同じ目線で話をしてくれるのに子供っぽいわけではなく、かと思えば悟りを開いたかのように飄々としていて、それでいてかつて関東最大の組織を率いていたという貫禄をなくしていないという不思議な男だった。
荻生という大きな組織のトップに立っていたほどの男が、蒔麻や神之倉に対する依怙贔屓だけで古賀沢に目をかけているわけではないだろう。
「御大はね、古賀沢の初代と兄弟分なのよ」
「そうなんだ!」
「ええ。初代はね、そりゃあいい男だったそうよ。今でいうハンサムって意味じゃなくってね」
「うん、わかるよ」
女だけでなく、男も惚れる男ぶりだったのだろう。容貌でなく、身にまとった空気や発する言葉で他人を惹きつけるような。
「御大と五分の兄弟杯を交わして――もっとも、荻生会…その頃は荻生組ね。こちらの方が大きな組織だったから、古賀沢の初代は四分六でと譲らなかったらしいわ。それで、荻生の傘下に組み入れられて今に至るの」
「だからシゲじいって古賀沢のこと気にかけてんだ?」
「ええ。初代の残したものを簡単になくしていたら見捨てられていたでしょうけどね」
蒔麻は微笑を浮かべた。
個人として気に入ってもらってはいる。しかし、極道としてまで甘く見てくれるような人では決してない。
「で、その初代の一人娘が見初めて、初代も認めたのが当時の若頭。でも婿入りして二代目を継いだはいいけど、子供ができないまま初代の娘さんは病気で亡くなって――たぶん、古賀沢の名を残したかったのね。二代目は跡目を竜彦さんに指名して、同時に養子にしたの」
そうやって名前と血をつないで、神宮寺が認めた核の部分も受け継ぎながら、古賀沢は蒔麻で四代目を数える。
「初代がどうやって組を守り、育ててきたか、二代目は誰よりよく知ってた。それを二代目から伝えられた竜彦さんも、古賀沢の名と組自体を大事にしてた。だから私も、古賀沢の名ごと、次の代に渡したいんだけど――」
「けど?」
「跡を継ぐのも、私の息子になるのも嫌なんでしょう、氷上?」
蒔麻は運転席を覗き込むようにして氷上に尋ねた。
「氷上が候補なの?」
跡継ぎといえば年下の人間がなるものだと、当たり前のように思っていた格は驚いた。だが考えてみれば不可能ではない。年上とはいってもその差は2つ、10年後でも40代前半だ。跡を継ぐのに何ら支障はない年齢だった。
「氷上か神之倉なら、組の者は誰も文句は言わないわ。私より向いてると思うし。でも2人とも変なとこ堅くって……」
「三代目にあんたを頼むと言われた日から、俺達はあんたを護る者以外の何者でもないんですよ。俺も神之倉もトップにゃ向いてませんしね。組のことを考えれば、どちらにも賛成できません」
「そんなことないって言ってるのに」
迷う素振りも見せずに一蹴した氷上に、蒔麻は眉を寄せてみせた。どうやらこの件に関しては、3人の意見は全く合わないらしい。
そのとき格は、ステアリングを操りながら蒔麻に返答する氷上のわずかな変化に気がついた。
ハンドルを握る手も、そこから続く肩も、これまでと変わらずリラックスしているように見える。
だが、気配が違う。格に武道の手ほどきをしてくれている時のように、力を入れているようではないのに隙がない。
――おかしい。
格は視線をあげ、バックミラーに映る氷上の目を見遣った。その小さな枠の中に、少し離れて2台の黒いセダンが映っている。ドライブをしようという雰囲気には見えないその2台に、格は首を捻った。
「振り返るな、格」
不審に思って体勢を変えようとした格を氷上が制した。
「やっぱり尾行されてる…?」
正面を見て座ったまま蒔麻が尋ねた。どうやら、格よりも早く背後の2台の存在に気づいていたらしい。
「どこの誰かしら?」
「スモーク張ったセダンですからね、同じ業界の者なのは確かでしょう。ちらっと見えた先頭の車の運転手の顔には見覚えはないんですが――」
「――巻ける?」
蒔麻が張りつめた表情で問いかけた。
街中ならば他の車に紛れつつ右折左折で振り回せるがここは一本道で、スピードで振り切るには交通量が多い。
「なんとかします。――すまないな、格。ここで下ろすわけにはいかないから少し我慢していてくれ」
「うん、わかってる」
何者なのか判らない相手をつけ回すことは滅多にない。ましてや相手がヤクザならば、古賀沢組の組長と幹部が乗っていると判っているのだろう。そして尾行をしているからには、なんらかの狙いがあるのだ。
ここで格だけが降りても公共の交通手段の使える場所までは歩いて移動するかヒッチハイクするかしかなく、尾行しているのが古賀沢と敵対関係にある何者かなら、彼らに格が古賀沢の関係者だと知られてしまうことになる。格は自分の身に迫るかもしれない危険よりも、足手まといになることの方が怖かった。
二叉に分かれた道にさしかかり、氷上は右へと進路をとった。
どちらに行っても国道には降りられるが、右は迂回路なので左に比べて少し時間がかかる。だが、平日は交通量が少ない。振り切るならば右路だ。
右の道に入って前を行く車が3台だけだと判ると、
「掴まっていてください」
言うなり、氷上は一気にアクセルを踏み込みスピードを上げた。
「うわ!」
前にのめり込んだ格だったが、助手席のシートに手を伸ばしてかろうじて突撃を免れる。
見えていた3台の車を次々にすり抜け続くカーブも難なく曲がったところで、格はサイドミラーに目を遣った。
ついてきていた黒いセダンはまだ後ろにいる。
「狙いはなんなのかしら? 襲撃?」
「白昼堂々街中で襲ってくるような度胸のある組ともめた記憶はないんですがね」
全く人気のない場所になど、昼日中にはあまり行くことはない。だからといって、人目につく場所で襲えば警察沙汰になる。
当事者の身代わりに若い者を差し出せる組や、表沙汰になって組の存亡に関わることになっても襲う理由がある組、そして深く考えずに暴走する者なら時間や場所は考えないだろうが、そうでないなら闇に乗じて仕掛けることを選ぶだろう。
そして夜を待つなら、日が暮れるまでは露骨に尾行したりはしない。監視と尾行は違うのだ。
「このまま国道まで出るつもりなのかしら?」
「…いえ、こちらが気付いているとわかったはずですから、ついてくるからには仕掛ける気だと思うんですが――」
バックミラーで背後を確認しながら氷上が呟いた。対向車も先を行く車もない道路で、しばらくの間猛スピードで移動するだけの時間が続いている。
「――埒があかない。先に仕掛けます」
そう言って、氷上はわずかにアクセルをゆるめた。
悟られない程度にゆっくりと、徐々にスピードを落としていく。カーブも最短距離のライン上を外して走り、わざと差を詰まらせた。
次第に近づいてくる2台に、格は焦燥感を募らせた。
仕掛けると氷上は言った。追いつかせて何をするつもりなのだろう。
「――舌を噛むから口を閉じて歯を食いしばっていてください。何かに掴まって離さないように」
後ろの車との距離を測りながら氷上は言った。
格は言われたとおりに掴まれる場所に手を伸ばし、息と声を飲み込む。
氷上は左手をハンドルに添え、右手をサイドブレーキに伸ばした。落としたスピードを上げ、追跡車との車間を少し空ける。
そしてタイミングを計り、ハンドルを切りながらサイドブレーキを引き上げた。
タイヤが路面をこする、悲鳴のような甲高い音が響き渡る。
突然の方向転換に対応できなかった2台の追跡車の間を、180度回転した車体がすり抜けた。そして、急ブレーキをかけて慌ててUターンする2台をみるみる引き離す。
「す…っげえ! なに今の!? めちゃくちゃかっけーッ!!」
ややあって、遠心力でドア側に押しつけられた格が身を起こして助手席にすがり、目を輝かせて運転席の氷上を覗き込んだ。
「スピンターンだ。他に車が走ってたら使えない手だったな。あぶねえから真似すんなよ」
「車運転できないんだから真似しようがないじゃん」
「機会があったらやりかねないから言ってるんだ。舌噛まなかったか?」
「うん、大丈――」
「! 伏せろッ!」
唐突に、氷上の鋭い声が飛んだ。
指示とともに前方に白っぽいセダンが見えたと思った瞬間、格は力いっぱい腕を引かれてシートに押し倒された。前後して、フロントガラスに白い円が出来、細かいひび割れが走る。
3ヶ所の白円を中心に放射状に広がったひびで視界が遮られ、氷上が鋭く舌打ちした。
「氷上!」
「伏せていてください!」
格を腕の中におさめてその頭をかばうようにシートに伏せた蒔麻が、顔を上げて氷上を呼ばわる。氷上はハンドルを握ったまま答え、ひびの隙間から前方に目を凝らし、次に後方を確認した。
刹那、車体が大きく揺れて右側に傾いた。
不自然に揺れながら、車は車道を飛び出して林の中に突っ込む。
氷上は懸命にハンドルを切ったが、右前輪は完全に使い物にならなくなっているようで、車はかろうじて正面衝突を避ける形で右前を木の幹にぶつけて止まった。
衝撃でエアバックが飛び出したが運転席だけは何も出ない。氷上はすぐさまドアを開けて車外に出た。ぶつかったのが右前方だったため、ひしゃげることのなかったドアは難なく開く。
「格くん」
体を起こした蒔麻が、格の腕を引いた。すでに後部座席の左のドアは開いていて、氷上が手を差し伸べている。
氷上の手を借りて蒔麻が、次に格が車を降りた。2人を背後にかばいながら、氷上が車道を振り返った。
「氷上、エアバック出てなかったけど、どっかぶつけたり――」
「あれはいざこういうときに身動きがとれなくなるから、運転席は外してある」
平然と答えを寄越した氷上を見上げた格は、その顔を見て驚愕した。何かの破片で切ったのか、こめかみから顎へ血が伝っている。だがそれ以上に驚いたのはその顔色だ。
表情は平静だが、血の気が引いている。表面上はこめかみ以外の傷はうかがえないが、隠れているところに怪我をしているのかもしれない。
格と同時に蒔麻もそれに気づいたようで、青ざめた顔で氷上を見上げている。
車道に3台の車が止まった。
それぞれの車から2、3人が降り立ち、ゆっくりと林の中に入ってくる。全部で8人だ。
氷上は視線を彼らに向けたまま蒔麻に言った。
「俺が注意を惹きつけますから、合図をしたら格をつれて車道まで走って奴らの車を奪って逃げてください」
「氷上…っ」
「振り返っちゃ駄目ですよ。足も止めないこと」
「でも8人も相手に――」
明らかに様子のおかしい氷上を慮って、蒔麻が躊躇った。
氷上が僅かに蒔麻に視線を向ける。その唇に、柔らかな微笑が浮いた。
微笑まれて、蒔麻がぐっと言葉に詰まる。笑みを浮かべながらも、ほかの手段を選ぶ気は全くないといった目をしている。
その目を見つめて蒔麻は考えた。
自分がとどまって共に戦っても、強力な戦力にはなれない。戦うことに集中しては、格をひとり放り出すことになる。
それは出来ない。巻き込んでしまったのは自分たちだ。格の身は、なんとしてでも守り通さなくてはならない。
蒔麻は氷上のスーツの背に手のひらを当てることで、氷上の言葉に同意を示した。
「…格。車に乗れたら神之倉に連絡しろ」
「――わかった」
何も出来ない自分が歯痒かった。だが、足手まといになるわけにはいかない。歯痒さも悔しさも飲み込んで、格は小さな声で答えた。
フロントガラスのひびも、突如おかしくなった前輪も、銃によるものだろうと格にも想像がつく。
拳銃を持っているヤクザ相手に、いまの格が出来ることはごく僅かだ。最も邪魔にならないのは氷上の言う通りにすることだろう。
前には敵、左右と後方は林。
逃げ場をなくした3人に、見るからに筋者と思しき男たちが輪を狭めるようにしてゆっくりと近づいてくる。
「その女、渡してもらおうか」
男たちの中の1人が、氷上に向かって話しかけた。
「……嫌だと言ったら?」
「言えなくしてやるよ」
圧倒的に有利な状況に余裕の笑みを浮かべて、男たちはさらに3人に近づいた。
格と蒔麻を背後にかばったまま、氷上は男たちの動きに合わせて一歩右に動く。
逃げようとしない様子を諦めととったのか、男たちは注意深く間合いをとることもせずさらに3人との距離を詰めた。
次の瞬間、氷上の体が素早く動き、あっという間に正面の男の懐に飛び込んだ。
胸元からすり上げるように放たれた肘打ちが男の顎を捉え、よろめく男を盾に右に踏み出した氷上は、バックステップから左足を一閃させて右側にいた若い男の横っ面に回し蹴りを叩き込む。さらに右に回り込み、1人の顔にバックブローを食らわせた。
「行けっ」
氷上の声に、蒔麻は格の手を取って走り出す。
「! ちくしょうッ」
「追え!」
すぐに男たちは二手に分かれて蒔麻と格を追おうとしたが、彼らの前に氷上が立ち塞がった。追えと言うからには蒔麻に対する銃の使用はないと判断し、追えなくすることを第一目的として接近戦に持ち込む。
一方蒔麻は、格の手を引いて真っ直ぐに一番右の白い車を目指した。
だが、もう少しでたどり着くというところで、背後からバチバチという何かが弾けるような音が聞こえ、蒔麻と格は思わず振り向いてしまった。
肩越しに振り返った蒔麻の視線の先に、何か黒いものを手にした男と膝をつく氷上の姿がある。
男の持つものがスタンガンだと判った蒔麻は完全に足を止め、元いた方へよろめくように足を踏み出した。
「ひか…――ッ!?」
「蒔麻さ…!」
だが、戻ることは叶わなかった。
ふいに背後から伸びた手が蒔麻を羽交い締めにし、それを救うため地を蹴ろうとした格の背後にも、30絡みの無精髭を生やした男が1人近付いた。そして男は、格の首筋に手刀を落とす。
格の体ががくりと崩れ、蒔麻がそれに向かって手を伸ばした。だが、その手は背後に立つ細身の男にすくい取られ、背中に捻り上げられる。
「あなた――ッ」
男を振り仰いだ蒔麻が驚愕と怒りの入り交じった表情を浮かべた。
だが蒔麻は、それ以上言葉を続けられなかった。
男の顔に気を取られた蒔麻の口許を白い布が覆う。布に染みた、甘い香りが鼻をついた。
それが何であるかに気付いた時には、蒔麻の意識は遠のきかけていた。スタンガンの音が再度耳に届き、懸命にこらした眼が地に臥した氷上の姿を写す。
声は出ず、男の手を振りほどくことも出来ず、蒔麻はその場に昏倒した。
−続−
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