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Vol.7 花の咲うように (1)
白い漆喰の壁に囲まれた細い路地の出口で、居並ぶ黒服の集団が一斉に頭を下げた。
黒服とはいっても、クラブやバーの店員ではない。どの顔も物騒な目付きを隠し切れず、さらに傷跡に飾られている顔もある。
「ご苦労様です」
路地の奥から数人を引き連れて出て来た長身の男に、黒服の中で最も年長と思しき男がもう一度深々と頭を下げた。男の左顎には、古い傷跡が刻まれている。
頭を下げられたダークグレーのスーツを着た男は、傷の男に軽く頷き返して黒服の集団を抜け、横付けされた黒いセダンの後部座席に乗り込んだ。
引き連れていた男達のうちの1人が助手席に乗り込むと同時にセダンはなめらかに動き出し、残りの男達の乗った2台の車を引き連れて、頭を下げて見送る黒服の集団を後にした。
「お疲れ様です、若頭」
「ああ」
シートに身を沈めた神之倉は、ハンドルを握る部下に低く答えた。
「まあ――ひとまずは平穏無事だ。関東には飛び火はしないだろう」
「そうですか」
部下の声に、わずかに安堵の響きが混じる。
神之倉は今日、関東最大の会派である荻生会の総本部長に呼び出された。あの漆喰の壁の向こうは、そうは見えないが料亭なのである。荻生会の息が掛かっており、よく会派の会合に使われる。
荻生会派に属するいくつかの組の幹部クラスが居並ぶ中、昨年代替わりをした関西最大組織・山陽会に関わる不穏な動きについての話を聞いた。
簡単にいえば、荒れている。トップが替わって3ヶ月経つが、水面下での腹の探り合いと勢力争いはいまだ続いているらしい。
だがそれはあくまで関西を出ない。山陽会としても、組織の面子にかけて膝元で決着を付けたいだろう。
古賀沢にも、関西で懇意にしている組がある。仁義をきって頼られれば、全面的にとはいかなくとも手を貸してやらねばならない。
しかし、いまの古賀沢は足元をより強固に固めなくてはならない時期だ。代替わりに際して揺らいだ土台が先代組長存命中と同等の状態にあと一歩というところまで来ている。本拠地でない土地の抗争に首を突っ込んでいる場合ではない。
「いつまで続くんでしょうか?」
「わからんな。だが、伊庭の若頭(かしら)がいる限りは燃え続くということはないだろう。荻生の山辺さんも同意見だ」
伊庭は、新たな会長の右腕というだけでなく、先の会長である山城組先代組長の懐刀でもあった男だ。伊庭の目が光っているから末端の小競り合いで済んでいるといえる。予想より長引いてはいるが、やがて終息に向かうだろう。いま現在、伊庭の失脚を目論める力を持つ者はいないのだ。
今日の会合では、それを踏まえた上で情報の整理と手出し無用という方針の統一化が図られた。
神之倉はスーツの内ポケットから煙草を取り出し、車外に目をやった。スモークが貼られているため、窓から臨める景色はモノクロームだ。
「……」
「…若頭?」
煙草を銜えかけてふと動きを止めた神之倉に、助手席の佐伯が声を掛けた。
「――いや」
神之倉は視線を車内に戻し、煙草に火を点けた。
その物憂げな様子が気になった佐伯だったが、いまは訊く時ではない気がしてあえて声はかけなかった。そして、スーツの内ポケットから取り出した黒革の手帳に視線を落とし、この後のスケジュールを確認した。
相変わらずびっしりと埋まったカレンダーに神之倉の体調を案じたが、何もかも投げ出して休むような男ではないと知っている。
佐伯は手帳を閉じ、せめて心だけでも安らげてくれる人がいればよいのだが――と、神之倉に気付かれぬよう小さくため息をついた。
乾いた音が、雑居ビルの屋上に響き渡った。
強烈な平手打ちを食らった男はよろけて尻餅をつき、戸惑いの表情で自分を打った若い男を見る。
細身で整った容貌の20代後半と思しき若い男は、片眉をつり上げて言い放った。
「誰が撃てと言った?」
「…撃ってませんよ」
「トリガーに指を掛けただろう? 見えてるんだよ」
「――すみませ…」
冷たく言い放った若い男は、謝罪の言葉を聞き終わる前に再度目の前の男に蹴りを放った。爪先が腹部にめり込んで蹴られた男が上体を折ったが、若い男はそれにかまわず続け様に男の体を蹴りつける。
「――充洋さん」
しばらくして、その場の最年長と思しき無精髭の男――とはいっても30代半ばか――が若い男に向かって静かに呼ばわった。
充洋と呼ばれた若い男はやっと蹴るのを止め、声を掛けた無精髭の男に向かって一瞥を放ち、やがて不機嫌そうに鼻を鳴らして歩き出した。
無精髭の男はすぐ近くにいた白いスーツにアロハシャツの1人に目配せし、離れて立っていたチンピラ風の2人を引き連れて充洋の後を追い、屋上からビル内に戻るドアの向こうへと消えた。
目配せされた白スーツは、それ自体の重みでゆっくりと戻っていくビルの扉が完全に閉まるまで待って、コンクリートの上に腹を抱えて転がっている男に手を伸ばした。
「撃ちごろの距離だったから色気が出たんだろーけどさ、ありゃ最高強度の防弾ガラスだぜ。当たりゃしねえよ」
憮然とした表情の男に、白スーツは溜め息をついた。
年齢は白スーツのほうが5歳ほど下だが、最近になって充洋についた男より白スーツのほうが充洋についてのキャリアは断然上だ。しかも、男は半年前に北からやって来て、つてを頼って組に入ったばかりだ。
「いま古賀沢と喧嘩(でいり)になんのはウチの組にゃプラスにならねえ。大体、ヤツのタマ取るためにここにいたんじゃねえんだ」
「――じゃあなんでライフルのスコープで様子を窺ったりするんだ?」
「…強いて言うなら――シュミ、かな」
「ああ?」
「車ン中で話してやるよ。とりあえず急いで降りて追いつかねえと、また充洋サンにぶん殴られるぜ」
白スーツはそう言って、まだ痛そうに腹を抱えている男を促した。
追いつけなければ自分まで充洋に殴られる。巻き添えは御免だった。
ふいに首筋の辺りに悪寒が走り、口許を押さえて立て続けにくしゃみをふたつした。
寒くもだるくもないので風邪ではなさそうだ。誰か良くない噂話でもしているのかと思いかけて、神之倉は渋面を作った。ろくでもない顔ばかり浮かびそうだったからだ。
最近鳴りを潜めていたが、また何か言って来るのかと思うと鬱陶しいことこの上ない。出来ることなら忘れていたい顔だ。
しかし否応なしに頭の中に浮かんできかけ、追い払おうと軽く頭を振った神之倉の視界に、見慣れた姿が飛び込んで来た。
「おかえり、士朗」
神之倉の部屋の前に立っていた格は、満面の笑みで部屋の主を迎えた。
「風邪?」
くしゃみが聞こえたのか、近付いた神之倉を見上げて格が尋ねる。
「いや、大丈夫だ。それよりお前、どうして中で待ってないんだ」
迷彩柄のフード付きパーカーコートをしっかり着込んだ格に、神之倉は問い掛けた。格には合鍵を渡してあり、待つのなら部屋の中で待つようにと言ってある。
「今朝寝坊して、家の鍵と一緒に忘れてきた」
格は、神之倉の部屋の隣りの、自分の部屋のドアを振り返って答えた。どうやら、母親の出勤時間までに帰宅できなかったようだ。
「ずっとここで待ってたのか?」
「ううん、友達んちにいた。士朗、今日早く帰れるって言ってたから――えっと、30分くらいかな」
3月に入ったとはいえ、夜はまだ冷える日も多い。神之倉は、冷たい格の肩を導くようにドアの方へと押しやりつつ、部屋の鍵を取り出した。
「珍しいな、お前が寝坊するなんて」
「ゆうべ遅くまでビデオ見てたから」
「映画か?」
「テコンドー入門」
答えた格は、鍵の開いた神之倉の部屋に勝手知ったるといったふうに上がり込んだ。
まっすぐリビングを目指す格の背を見送って、神之倉は手前の部屋のドアを開けた。寝室にしている部屋だ。
コートとスーツの上着を脱いで出ていたハンガーに掛け、ネクタイを引き抜いてベッドの上に放り投げる。ワイシャツのボタンを上からふたつほど外しながらリビングに向かうと、カウンターに隔てられたキッチンから格がひょいと顔を出した。
「酒? コーヒー? お茶?」
「コーヒー」
「了解」
脱いだパーカーコートをカウンターに備え付けられたスツールに置いて、早速やかんやらミネラルウォーターやらを出し揃えていた格に答え、神之倉はソファの定位置に腰を下ろす。
やがてキッチンから、コーヒー豆を挽くいい香りが漂って来た。
氷上から貰ったはいいがしまいっ放しにしていたコーヒーミルを格が引っ張り出してから半年以上経つ。自分では面倒臭くてやらないが、格が神之倉の部屋でコーヒーを淹れてくれる時は大抵豆を挽いてサイフォンを使う。氷上が選んだ豆だけあって、確かに美味しい。
「はい、コーヒー」
やがて格がカップをふたつ手にしてやって来た。
神之倉はブラック、格は砂糖少々の牛乳たっぷりだ。
挽き立てのいい豆で淹れたコーヒーに濃い牛乳という組み合わせが好きな格のために、最近の神之倉の部屋の冷蔵庫には牛乳が常備してある。背を伸ばしたいらしく、牛乳だけ飲んでいることも多い。
「合気に空手に柔道――テコンドーまで始める気か?」
格がソファに座りコーヒーを飲んでひと息つくのを待ってから神之倉は訊ねた。
合気道から始まった格の格闘技修行は、興味の向く先が果てしないようで、今年に入ってから柔道の基礎も教わり始めたらしい。
「俺、足技好きだから面白そうだなって思って。今は柔道も面白いからどっかに習いに行く気はないけど」
知識として技のいくつかを知っていそうではあるが、さすがの氷上もテコンドーまでは拾得していない。
「しかし、なんだって急に柔道なんだ? 最初はお前、空手をやりたかったんだろう?」
「うん。そうなんだけど――肩凝ってんの? マッサージしよっか?」
会話を中断して、ふと格が問いかけた。話しながら肩に触った神之倉を目に留めたようだ。
確かに肩が張っている。このところ、よけいな緊張を強いられているせいだ。
しかし、氷上にすら気付かれなかったというのに、ほんの少し肩に触れたくらいでよくわかるものだ。
なぜ判ったのかと尋ねると、格は笑って立ち上がった。
「そりゃあ士朗のこと好きだから。わかるよ」
さらりとそう言って、格は足取り軽くリビングを出て行く。
残された神之倉は、どことなく気恥ずかしいのとなんとはなしに嬉しいのとで、複雑な表情でコーヒーをすすった。向けられる思いと言葉の真っ直ぐさが、微笑ましくてくすぐったい。
年齢が無理ならせめて心で少しでも神之倉に近付くために、その言動を聞き逃すまい、見逃すまいとしている。
そのひたむきな健気さがかわいいと思う。そして、そういう風に思ってしまうことに呆れている自分もいる。
12歳の小学生に振り回されている。そんな自分が可笑しい。
「…まったく、いい年してな――」
「なにがー?」
苦笑と共に放ったひと言に、戻ってきた格が問い掛けた。
神之倉は、いや…と曖昧に答えて格のすることを見つめた。
脱衣所の棚から持って来たらしいバスタオルを絨毯の上に広げ、その一端にソファのクッションをひとつ置いた。そして敷いたタオルの脇に膝をついて神之倉を手招く。
「ほんとにやるのか」
腰を上げながら問う神之倉に、格が得意げに胸を張る。
「まあ任してよ。俺うまいよ」
神之倉は指示されるまま、ソファのクッションを枕にバスタオルの上に俯せになった。
「床でゴメンな。でもベッドだとちょっと柔らかいからさ」
言いながら、格の指先が神之倉の首筋に触れた。
探るように僅かに上下して、指先に力が込められる。初めはごく軽く、そして徐々に強く。
本当に上手い。
神之倉は胸の内で感嘆した。豪語するだけのことはある。力加減も申し分ない。
「痛くない?」
「ああ。丁度いいよ」
「すごく張ってんね、肩。この辺ガチガチ」
張りを感じている場所を格の手のひらが覆い、ゆっくりと押した。
「お前、どこでマッサージなんて覚えたんだ?」
「少し本読んだくらいかな。あとは自己流と経験」
「経験?」
「東子の専属マッサージ師だもん、俺。エステとか本職のマッサージ屋さんでこういうのが気持ちよかったって東子が教えてくれたのをやってみたり」
昨秋、蒔麻とともに格の学校の運動会を見に行った時に、東子が格にマッサージしてもらうのだと嬉しげに話していたが、なるほどこれなら嬉しがるのも解る。
手のひらが触れた場所がほんのり熱い。
「なあ、ちょっとやりづらいとこあるから上に乗ってもいい?」
「ん? ああ」
返事をした時にはすでに腰の辺りを跨がれていた。膝立ちの格の手が肩から背中に向かってさするように撫で下ろされ、両手の親指の先が肩甲骨の上から腰にかけてをぐっぐっと押してゆく。
つい声を洩らしてしまいそうな心地よさに、神之倉は深く長い溜め息を吐いた。
「気持ちいい?」
「……ああ――」
目を閉じて軽く頷きながら返答する。
だが、次の瞬間うしろ首に感じた指ではないものの感触に、閉じていた眼を見開いた。
「おま…っいま――」
「だってあんまり無防備だから、つい」
僅かに上げた上半身を腕で支えて振り向いた神之倉に、格は可愛らしく小首を傾げて見せた。そして、ニッコリと笑って上体を倒し、神之倉の起き上がり掛けた体を押し潰す。
「大丈夫、大丈夫。スーツ着ちゃえば全然見えない位置だから」
ということは、やはり跡がついたということか。やられた、と思った。まったく、油断も隙もない。
うなじから背骨に沿って真下へ、ちょうど俯くと骨が出て見える位置だ。確かにワイシャツを着てネクタイを締めていれば見えることはない。
神之倉は、キスマークをつけられた首筋を手のひらで覆って体を起こそうと試みたが、背中の上部に体重を掛けられているため体が返せない。格は逃がさないとばかりに神之倉を抱きしめて、その頬に唇を寄せた。
「マッサージより気持ちいいこと、しよ?」
頬を啄んで、耳元で囁いた唇から覗いた舌先が、ぺろりと神之倉の耳朶を舐め上げる。
「…ッこの――」
神之倉は低く唸って強引に体を捻った。
自由になる足を交差させ腰に力を込めて、乗っかっている格ごとひっくり返す勢いで腰を反転させる。思わず転がりかけた格だったが、今日の格はそこから攻勢に出た。
仰向いた神之倉の体の右脇に着地し、上体に胸を重ねるようにしてのし掛かる。左手で神之倉のワイシャツの後ろ襟を鷲掴み、右手で左の腿裏あたりのズボン生地をしっかりと掴んだ。
「お、まえ――ッこのために柔道始めたのか!?」
流れるような横四方固めに、神之倉が声を上げた。
「これだけのためじゃないけど……役に立つね、寝技って」
しれっと言い放って、格が不敵に微笑んだ。
「士朗がしてくれないんなら俺が襲う。覚悟はいい?」
「おい、こら――」
「やさしくするからな」
「ちょ…っ! 格、お前っ目がマジ――ッ」
本格的に柔道を拾得したいのなら不可欠だが、護身術としてなら寝技は必要ない。そんなことはわかっているはずなのに、それでも請われるまま教えたのだ、氷上は。
あの野郎―――
声には出さず心の中で獰猛に吐き捨てて、神之倉は格の腰に手を伸ばした。
足のほうに回された手は本来後ろ帯を掴むのだが、体格差があるためか掴むに至っていない。横四方は安定感のある寝技だが、完全に決まっていなければ返しようはある。
神之倉は、格のはいているズボンのベルト部分を右手で掴み、上体を少し上げて格の右腕の下に左上腕をねじ込んだ。そしてその左腕を自分の胸に引き寄せるようにして力を込め、同時にベルトを掴んだ手を押し上げて、格とは逆方向へと体を捻る。
神之倉のズボンを掴んでいた格の手が緩み、ほんの少し腰が浮いた。それを逃さず、安定感の欠けた下半身を自分の右腰に乗せるようにして、反動を利用してくるりと仰向けに転がした。
転がった格の上になった神之倉は、格の首に間髪入れずに右腕を回し、右手の袖を取って左脇に抱え込んで、上体の右側面で格の上半身をしっかりと押さえる。
あっという間に返されて逆に押さえ込まれてしまった格はぽかんとして、それから2、3度瞬きをしてから、みるみる悔しそうな表情を浮かべた。
「なんだよもう! 今度こそイケると思ったのにーッ」
さも残念そうに嘆いた格の左の拳が、無念の思いを神之倉の背中にぶつける。
「ウエイトと体格の差だな。技の入り方は良かったぞ」
気付かれないようほっと息をつきながら神之倉は言った。逆に、ウエイトと体格が今ほど違わなければ危うかったとも言えるが、それは口にしないでおく。
格は落胆のため息をついて全身の力を抜いた。
「……氷上がなーんか意味ありげに笑ってたと思ったら――士朗も柔道やってたのか?」
「いいや?」
「じゃあなんで寝技できんの? これって袈裟固めだろ?」
ふくれっ面で問い質す格に苦笑を浮かべて見せて、神之倉は格を解放して体を起こした。差し伸べた手に素直に従って起きあがった格を覗き込み、問いに答えてやる。
「剣術をやっていたと前に言ったな?」
「うん…去年の夏に聞いた」
「刀を使う以外にも体術の型がある流派で、それがまあ、柔術のようなもんだったんだよ」
「柔術って、柔道の元になったやつだよね?」
「ああ」
「刀の流派なのに、なんで体術なんてやんの?」
「古流だからな」
「なんで古流だと体術もやんの?」
「古い、実戦のための流派だからだ。刀だけ振り回して済むようなきれいな戦いってのはないだろう?」
「――そ…っか……」
やっと腑に落ちたように格が呟いた。
創始時の柔道にも蹴り技があったくらいだ。実戦的な武道であればあるほど、決まった道具だけ用いる型ばかりではない。
しかし、神之倉が寝技を使える理由は納得したようだが、キスより先に進めないことに対してはやはり納得がいかないらしい。
拗ねた様子で俯いている格を見て、神之倉は我ながら狡いなと思いつつ格を抱き寄せて膝に乗せた。
後ろから抱きしめてすっぽりと腕に納めてやると、不本意そうではあるが表情がゆるんだ。そして、心地よさげに腕に頬をすり寄せてくる。
単なる抱擁や軽いキスのひとつでも格は嬉しがる。それをわかっていてなだめる手段に用いるのは卑怯だとは思う。
しかし、背が伸びても面差しが大人びても、神之倉からしてみればまだまだ華奢な子供の体だ。格の望むまま、いま無理をして抱こうとは思わない。
格が本当に何も知らない子供でただ仲の進展だけを求めているならまだしも、何を為すのかをわかっていてそれを望んでいるならなおさら手は出せない。
理性では御しがたい本能を伴う行為だからこそ、勢いで突き進んでしまうわけにはいかなかった。
「……ずるいよ、士朗」
神之倉の心中を知ってか知らずか、格がぽつりと呟いた。
「…ああ」
言葉の真意はわからぬまま神之倉は首肯する。
いまこの時の誤魔化しの行為のことだろうと、年齢差と同じく経験値の差があることへの悔しさだろうと、格の気持ちも望みもわかっていてかわし続けているのは確かだ。“狡い大人”の誹りは甘んじて受ける。
だが、落胆した顔を見たいわけではない。笑ってくれるのが一番いい。
「――格。明後日の金曜、学校が終わってから予定はあるか?」
「ないけど?」
「じゃあ――」
神之倉は腕の中の格の耳元で何事かを囁いた。
格の表情がみるみる明るくなる。やはり、笑顔がいい。
「それってデート? デートだよな?」
「ああ、そうだな」
「やった!」
格は体を捻って体勢を変え、嬉しげに神之倉の首に抱き付いた。
連れ出してやるのは、初詣での時以来だ。しかも、知り合って以降デートと言えるものは3度しかない。
勢いよく体を預けてきた格を抱き返し、神之倉は自分に対しての苦笑を浮かべた。
−続−
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