Vol.6 冬の向日葵


 吹く風も冷たさを増してきた12月の初め。
 寒空の下で陽が傾くまでサッカーに興じ、寒さを紛らわすために走って帰宅した格を、出勤準備の最中の東子が出迎えた。
「ほっぺた冷た! コート厚めがよさそう?」
 おかえりと言って格を抱きしめ両頬を手のひらで包んだ東子が尋ねる。
「ん、夜はもっと冷えそうだよ」
 通学用に使っているデイパックを背から下ろし、マフラーを解きながら格は答えた。ぐっと身長が伸びて窮屈になってしまい、ランドセルを使わなくなって1年以上になる。
 ハグが日常茶飯事の榎本家だが、同級生の家庭ではこれほどの接触はない。小学6年生にもなると女親とべたべたするのは恥ずかしいようだ。たしかに友達の前だったなら多少の恥ずかしさもあるだろうと格も思うが、抱きしめられる行為そのものを嫌だと思ったことはなかった。
「ピンクのスエードと白のもふもふが付いたヤツ、どっちがいいと思うー?」
 リビングに戻った東子は、化粧道具を片付けながら格に話しかけた。
 デイパックを自分の部屋に置いてきて冷蔵庫を覗き込んでいた格は、取り出した牛乳をグラスに注ぎながら東子の挙げた2着のコートを思い浮かべた。渋い桜色のスエードのトレンチコートと、袖の部分にファーをあしらった白いウールのロングコートのことだろう。
 今日の東子は胸元の大きく開いた黒の上下を着ている。玄関にロングブーツが出ていたので、それを履くつもりのようだ。
「同伴相手が若いならピンクかな」
「そう? じゃあピンクにするわ」
「取ってこようか?」
「うん、ありがと」
 アクセサリーを着けている背中に問い掛け、返答を待ってから格は東子の部屋のドアを開けた。
 リビングに面したベランダ側の部屋が主寝室で東子が使っている。格の部屋はリビングから廊下に出た左側だ。廊下といっても3LDKのマンションなのでそう長いものではない。リビングから見て右手に水廻り、左手に格の使っている6畳と4畳半の洋室が並んでいるだけだ。玄関側にある4畳半は物置代わりに使われている。
 格はクローゼットからコートを取り出し、ベッドの上に置いた。そしてふと、リビングとは逆側の壁に視線を遣る。
 壁の向こうは、神之倉の部屋のリビングになる。間取りが少し違い、神之倉の部屋はひと部屋が広めの2LDKだった。
 格はベランダに出て、身を乗り出して隣りを覗き込んだ。ベランダの境目に目隠しの衝立があるためよくは見えない。だが、部屋の主がいないことを格は知っている。
 神之倉が自宅に戻らなくなって1週間が過ぎていた。戻らないどころか、いまこの地に神之倉はいない。蒔麻の名代としての重要な仕事があるらしく、大阪に行っているのだ。
 1ヶ月間は戻らないと突然聞かされ、直後に発ってしまったので、別れを惜しむ時間も急すぎることを怒る時間もなかった。
 電話をすると言って優しいキスをくれたのは嬉しかったが、よくよく考えてみれば、神之倉の誕生日も、クリスマスさえも一緒には過ごせない。これまでも何日か会えないことはあり、イベント事もそれほど重要視していない格だが、さすがにひと月というのは淋しすぎた。
 さらに、忙しくて掛ける時間がないのか、電話は3日前に一度あったきりだ。
「声、聞きたいなあ…」
 神之倉の低く響く声に思いを馳せて呟き、格はベランダの手摺に置いた腕に顎を乗せた。すっかり暗くなり、宵闇に眼下の街灯の明かりが浮かんで見える。
 仕事の邪魔はしないと決めているので、自分からはなかなか掛けられない。9時に始まり5時に終わる仕事ならその時間を外して電話をすればいいのだが、そうではないのでいつ掛ければいいか判らないのだ。
 神之倉が格の想いを受け入れてくれるより前なら、何日も会えないことなどざらだった。声すら滅多に聞けなかったので、偶さかの会話が嬉しくてたまらなかった。それなのに今は、声が聞けないことがこんなにも辛い。
「欲張りめ」
 自分自身に悪態をついて、格は深く嘆息した。
 ふいにそこへ、背後から声が飛んできた。
「そうでもないと思うけどなあ」
「えっ? はっ東子!?」
 あわてて振り返ったそこには東子が立っていて、腕を組んで首を捻っている。
「時間かかってるから見つからないのかなーと思って」
 隠し事は少ない親子だった。根ほり葉ほり聞かれはしないが、大抵は東子のほうが察知するので、神之倉との仲の進展度も粗方知られている。むしろガンガンいけと煽られたりもする。
 けれど、完全に独り言のつもりでいたものを聞かれるとやはり恥ずかしい。格は顔を赤くし、東子に背を向けた。
 東子はベランダに出て、そんな格の体を後ろから抱きしめた。
「好きな人と会えなくて声が聞きたくなるなんて当然。そんなのちっとも欲張りじゃないわよ?」
「……うん…」
「どうしたの? 何を気にしてるの?」
「…声が聞けないなんて、去年までは普通のことだったのにな――」
 同性で、恋愛対象になどならないくらい年の差があるのに、神之倉は格の気持ちを受け止めてくれた。それだけでも幸せなのに、それ以上を求めてしまう。
 たしかに誰かを好きになればそれは当然なのだろう。だから、一緒にいるときはわがままも言うし、一向に手を出してきてくれないので自分から迫りもする。
 しかし格には、絶対に越えられないラインがある。
 どうしたって子供でしかない自分には立ち入れない、神之倉の生きている大人の世界に入り込むこと。
 電話一本でも、神之倉の邪魔になるのは嫌だった。疎んじられるのが、厭わしく思われるのが怖い。そしてなにより、神之倉の足手まといになりたくない。
「大丈夫よ」
 格の心中を察したのか、横に回り込んだ東子がふわりと笑って格の頭を引き寄せ、額と額を小突き合わせて断言した。パールオレンジの華奢な指先が、髪を梳くようにしてうなじを優しく撫でる。
「邪魔だなんて思われたりしないわよ」
「でもさ、何時にどこでどうしてるかわかんねーし、朝だと寝てるとこ起こしちゃうかもしんないし……」
 それに、立場上いつ何の連絡が入るかわからないので、電源を切ることやマナーモードにすることは滅多になさそうだ。となると、留守番電話などでなく神之倉本人か、もしかしたら神之倉についていった佐伯が出てしまうかもしれない。
「やっぱり掛かってくるまで待つ。決めたんだ」
「そっか。じゃあ笑って、格」
「…笑う?」
「暗い顔しちゃダメ。笑う門には福が来るのよ」
 真剣な顔をして指先で格の口角をぐっと引き上げた東子に、格は吹き出した。
「なにをばーさんみたいなこと言ってんの」
「あら失礼ね! 効果あるのよ?」
「――うん」
 格は頷いて笑みを浮かべた。
 東子は格に対して哀しい顔を見せたことがほとんどない。夜中にひとりで泣いている様を見たこともあるが、格に向ける表情はいつも笑顔で、その強さと明るさが格を支えてきた。
 嬉しいことがあると一緒に喜んでくれ、理不尽に腹立たしいことがあれば一緒に怒ってくれる。だが、哀しい顔までさせたくない。
「そうそう、笑ってるほうがいい男よ」
「なんだそれ」
 ヨイショに対して笑い声をあげる格を東子が抱きしめた。東子の身長を抜いてしまっている格だが、抱きしめる腕と背を撫でる手のひらから伝わる温もりに安心する。まだまだ東子の方が、自分よりも数段大きく頼もしいと思う。
「それでね、格。士朗さんには正直な気持ちを言いなさいね。淋しいとか会いたいとか、ちゃんと気持ちを伝えることは迷惑じゃないのよ」
「そうなのか?」
「格だって、士朗さんに“会いたい”って言われたら嬉しいでしょ」
 たしかに嬉しい。今まで言われたことがないのもあり、言ってもらえたらものすごく嬉しいだろう。
「もちろんタイミングってあるけど。どうしても帰れない人に向かって“会いたいから今すぐ帰ってこい”って無理言ったら相手も困るものね」
 遠く離れている好きな人が一も二もなく自分の元に駆けつけてくれたら嬉しいが、それも事と次第による。古賀沢の代紋を背負っての仕事を放り出すような神之倉ではないし、だからこそ格は好きになった。
「……うん、わかった。ちゃんと言う。だから心配しないで仕事行っていいよ、東子」
「しごと――うわ!」
 格を抱く手を離して腕時計を見て、東子が声を上げた。覗き込むと、時計の針は6時5分を指していた。
「6時20分発の電車に乗ろうと思ってたんだった〜」
「大丈夫?」
「ん、通りでタクシー拾うから」
 部屋に戻り慌ただしくコートを羽織る背中に尋ねた格を振り返り、東子は笑顔で返した。母親が水商売をしていることをあれこれいう人間もいるが、仕事に向かう東子は活力に溢れていてキレイだと格は思う。
「かぼちゃのシチュー作ってあるから温めて食べてね」
「ん、いってらっしゃい」
 ブーツの踵の音を響かせて颯爽と出ていった東子を見送り、格はポケットから取り出した鳴る気配のない携帯電話を見つめた。


「いって……ッ」
 強かに背中を打ちつけた格が、思わず声を上げた。
「す、すまん!」
「集中力欠けてるぞ、格」
 組み手の相手をしていた組員が慌てて謝ったが、氷上は格のほうを叱責して歩み寄った。今日の格はどことなく元気がなく、集中力も散漫気味だ。
「ごめん、受け身し損なった……」
 格は転がったまま組員に手を合わせた。そして、伸ばされた氷上の手を取って体を起こす。
「どこか怪我したか?」
「ん…打っただけ」
「いまいち調子良くないな、お前。今日はここまでにしよう」
「えっ……もう?」
 格が残念そうな表情で顔を上げた。稽古を開始して、まだ30分ほどしか経っていない。
 2ヶ月前から町の空手道場にも通っている格だが、氷上の稽古のほうが性に合っているようで、いまだに氷上に教えを乞いに来る。だが、氷上のスケジュール優先で空き時間に見てやっているため、今日は2週間ぶりの稽古だった。
 しかし氷上は断固として首を振った。
「調子の悪いときに無理して続けても怪我をするだけだぞ。言うこと聞いとけ」
「…はーい……」
 格は肩を落として頷いた。調子が良くないことは自覚しているらしい。
「――で? 原因は神之倉か?」
 着替え終わった格を自室に呼び、向かいのソファに腰を下ろして氷上は尋ねた。
 組長の蒔麻、若頭の神之倉、そして総本部長という肩書きを持っている氷上は、各々事務所内に個室を持っている。部屋の内装はやはり個人の趣味と人間性が出ていて、氷上の部屋はシンプルで機能的だ。
 格はミルクと砂糖入りのコーヒーをひと口すすって上目遣いに氷上を見た。
「……なんで?」
「体調が悪いというより何か思い悩むことがあって集中できないように見えたからな。元気もねえし、となりゃあの馬鹿のことだろう」
「…馬鹿じゃねーもん」
「はいはい。で、お前の愛しの君がどうしたって?」
 改めて問い掛けて、氷上は煙草をくわえて火を点けた。
 格はカップを手にしたまま押し黙る。
 やがて、ゆっくりと紫煙を吐き出した氷上は上体を倒して膝に肘をつき、格を見つめて断定した。
「連絡寄越さねえのか、あの野郎」
「え…っなんでわかんの!?」
「顔に書いてある」
 言って、再び体を起こした氷上は背もたれに身を預けて足を組んだ。格はカップをテーブルに置いて両頬を手で覆い、大きくため息をつく。
「駄目だなあ、俺」
「どうして?」
「どーしてって……」
 問われて答えに詰まり、格は俯いた。
「…士朗に告る前からずっと、仕事の邪魔だけはしないって決めてたんだ。だから、会いたくても淋しくても笑って待ってたいんだけどーー顔にも出ちゃうなんてさ」
「――まったく……」
 悄然と肩を落とす格を見つめていた氷上が呟くように洩らして、ふっと苦笑を浮かべた。そして立ち上がり、向かいのソファまで歩み寄ってその肘掛けに腰を下ろすと、格の頭をくしゃくしゃと掻き回した。
「お前ね、ちょっと物分かり良すぎるぞ」
「そうかなあ?」
「ああ。もっと我が侭言っていいってあいつも言ってるんだろ?」
「言われるけど――でも俺、まだガキだし、男だし、なんの役にも立てねえから……せめて邪魔にはなりたくないじゃん」
「電話の1本や2本で邪魔だなんて思うような奴じゃねえよ」
「でも、仕事中はまずいだろ、やっぱ」
「そうだな…」
 格は今回の神之倉の仕事の厳密な内容を把握しているわけではない。しかし、蒔麻の名代として若頭自らが出向いたということで、重要な仕事だということは分かっているようだ。たしかに今の神之倉は昼も夜もない状態だった。
 先月、関西最大会派のトップが急遽変わった。それ自体は先代の指名によるものなので表だって異議を唱える者はいなかったが、年内に行われることになった幹部の入れ替えは静穏とはいかなかった。
 大会派ゆえに傘下の組が多く、同じ会派といえども派閥は存在する。幹部が変われば、派閥の数も変動した。どこに付くか、誰を取り込むか。それを見極めるため、各組が緊張を強いられている状態にあった。
 古賀沢組は関東を本拠地にしており、関西の会派とは深い繋がりはない。しかし、まったくの無関係でもない。関東最大会派・荻生会の幹部組織のひとつとして関東以外にも多少は名が知れており、つき合いのある組も人もある。後手に回らないうちに、動向を見極めておく必要があった。
 大阪へ出向くなら、新会長への就任祝いの挨拶は必要だ。そして出向いた以上、つき合いのある組には顔を出さねばならない。そうなれば、状況が状況だけに各組との会合や懇談があるだろう。そんな場に、責任のない者を行かせるわけにはいかない。
 可能ならば蒔麻自身が、でなければ幹部の誰かが適任だった。そして幹部会の末、若頭である神之倉が行くことに決まったのだ。
 連絡が必ず取れるように、携帯電話の電源は切るなと常に言っている。いつ掛けても通じるはずだ。
 たとえば連絡しなくてはならないことがあり、いま氷上が電話を掛けたとして、大阪の神之倉が接待や会合中だとしても、氷上からの電話なら対応に困ることもないだろう。しかし格からでは、ごく個人的な連絡でしかない。神之倉本人は私的な連絡でも何気なくあしらえるだろうが、格がしていることはごく常識的な配慮だ。間違ってはいない。
「あいつ、携帯は電話にしか使わないからメールアドレス作ってねえしなあ」
「俺がこらえ性がないだけだよ。士朗が大阪行ってまだ10日だし、1回は話せたし、も少し我慢する」
「…健気だねえ、お前は」
 氷上はもう一度格の頭に手を伸ばし、拳で額を小突いた。
 公私の区別をつけることを知っている。そして公なことに関しては、意気消沈していても、それが表に出ていてもなお、愚痴は吐かない。これでこらえ性がないとは言わないだろう。
「――あ、そうだ。氷上に相談があったんだ」
「今のとは別にか?」
「うん、関係はしてるけど…――あのさ、士朗にコートを選んでくれって言われたんだけど、どうすればいいのかと思って」
「選んでやりゃいいじゃねえか。俺に断る必要はないぞ」
「大人のコートって幾らぐらいすんの? 俺の貯金で買えるかな?」
「って、選ぶんだろ? 買ってくれって言われたのか?」
 いくらなんでも小学生に買えとは言わないだろうと思いつつ氷上は尋ねた。
「え、や、言われてないけど、もうすぐ士朗の誕生日だし、それまでにと思ってたら大阪行っちゃったからさ」
「そうさなあ……」
 氷上は少し考え込み、腕時計に視線を落とした。午後5時。店はまだ開いている。
「お前、このあと用事あるか?」
「え? ないよ」
「買いに行くか、コート」
「え…っいいの? え、でも俺、今日は金――」
「いいよ、お前は選ぶだけで。俺が出しといて、あとで奴からもらうから」
 神之倉が帰ってきてから2人で選びに行くほうがいいのだろうが、節目の行事を習慣的に行うヤクザの年始めは何かと忙しい。結局、冬のコートを着るシーズンも終わりの頃になって買いに行くことになりかねなかった。それなら、格に選ばせて買ったものを届けてやれば格の気も済むだろう。
「ホントにいいの? 蒔麻さんもいないのに事務所空けて」
「空けてまずい状況じゃないから大丈夫だ。何かあれば連絡来るしな」
 現在は、大阪での動向を窺っていること以外は何事もなく平穏で、事務所を明けるのは問題ない。
 鎌倉の御大宅に呼ばれている蒔麻はまだ戻ってきていなかった。恐らく夕食も付き合わされての帰宅になるので遅くなるだろう。いない間に格と2人で出掛けては拗ねるかもしれないが、仕方がない、その時は格のいじらしさに絆されたと言い訳をしよう。
 いざという時の方針を決めて、氷上は格を促した。

 助言をもらいながら格が決めたコートに、氷上はまったく異を唱えなかった。
 デパートのレストラン街にあるイタリア料理店で夕食を奢ってもらったあと、駐車場に向かって歩きながら、格は肩に掛けた海外ブランドものの大きな紙袋を覗き込んだ。
 きれいに包まれた大降りの箱の中に、格の選んだコートが入っている。やはりダークカラーだろうと思ったが真っ黒ではなく濃いダークグレーを選んだ。足首近くまで丈のあるロングコートだが、カシミア製なのでかなり軽めだ。
 値札に並んだゼロの数に思い切り怯んだ格だったが、氷上は平然とゴーサインを出した。曰く、一家の若頭
(かしら)たるものそれくらいのものを着ないといかん――だそうだ。
 結局金を出すのは神之倉なので不安に思った格だが、思えば氷上のオーダーした何着ものスーツを平然と受け取っていたのだ。氷上がいいというなら気にしなくてもいいのかもしれないと思い直した。
 コートは、3日後に大阪に出向く組員に持たせると氷上が請け負ってくれた。会えないのは淋しいが、自分の選んだコートが神之倉の元にあるなら少しは救われる。
「段差あるぞ。気をつけろ」
 立体駐車場に出る通路で、氷上が格の背に手を伸ばした。初めて2人きりで外出して気付いたが、氷上のフォローのタイミングは絶妙だった。ドアを開ける、手を差し伸べる、何かを差し出す――それらがごく自然に繰り出される。リードしつつ入るフォローなので実にスマートだ。
 神之倉とはまた違った安心感があり、蒔麻が信頼しきっている理由が分かった気がした。
「氷上ってすごくモテそうだよな」
「どうした、急に」
 車に向かって歩きながら言い出した格を振り返り、氷上が小さく笑う。
「俺が女の子だったらホレてたかも」
「いいのか、そんなこと言って?」
「男だから、俺」
「そうだな……俺も、お前が16〜7より歳上の女だったら惚れてたかもしれないな」
 氷上は笑いながら格の頭に手を置き、キーを翳して車のドアロックを解除した。
 その直後、誰もいないフロアに携帯電話の着信メロディが響いた。
「お前のか?」
「うんっあれっ? どこ――」
「落ち着いて探せよ」
 着ている服のポケットというポケットを叩いて慌てる格の手から、氷上がコートの入った紙袋をすくい取る。
 格が慌てているのには訳があった。この着信メロディを割り当てているのは1人しかいないからだ。
 やっと見つかった携帯電話の液晶画面を確認もせずに通話ボタンを押した格の耳に、いま最も聴きたいと思う声が飛び込んできた。
『…格?』
「士朗――」
 格は喜色を浮かべて声の主の名を口にし、急いで車の中に入った。落ち着いて、じっくり話がしたかったのだ。
『? いま外か?』
「ん、大丈夫。……元気?」
『ああ。お前は?』
「元気だよ」
『すまなかったな、連絡できなくて』
 声のトーンが変わり、気に掛けてくれていたことが伝わってきて、格は思わず泣き笑いに似た表情を浮かべた。たまらなく嬉しい。
『お前、基本的に電源を切らないだろう? あまり遅いとお前は寝てる時間だろうし、真っ昼間では授業中だろうと思ってな』
 夜間は帰らない東子から緊急に連絡があった時のために、格が寝る時も電源を切らないことを神之倉は知っている。やはり、それで気を遣ってくれていたらしい。
「忙しいんだろ? 仕方ないよ」
『昼間掛けて留守電に何か残しておこうかとも思ったんだが、どうせなら直接話せたほうがいいかと――そうこうしていたらずるずると遅くなった。ごめんな、格』
「うん――」
 聞こえてくる声に、格は目を閉じた。低く心地よい響きが全身に行き渡る。
 そして脳裏に、東子の言った台詞が蘇った。
「……士朗…」
『ん?』
「士朗がいないと淋しい――会いたいよ…」
『…ああ。俺も、お前の顔が見たい』
「士朗も?」
『ああ』
「―――」
 嬉しさに、格は黙り込んだ。たとえ調子を合わせてくれたのだとしても、途轍もなく嬉しい。我ながら単純だと思うが、この言葉だけでしばらく耐えられそうな気がする。
「あのさ、あの、会えないけど、俺の代わりがそっち行くから」
 黙っていてびっくりさせたい気持ちもあったが、伝えたくてたまらなくなってしまった。
 喜んでくれるだろうか? 格は、脈打つリズムを早めた胸を押さえた。
『代わり?』
「前にさ、コートを選んでくれって士朗が言っただろ? それを今日買ってきたんだ。氷上が一緒に来てくれて、お金立て替えてくれて……あとで士朗からもらうって言ってたけど、それでよかった?」
『ああ』
「勝手に選んでゴメンな」
『いいや。頼んだ通り、お前が選んでくれたんだろう? 気にするな』
 淀みない返事に、格はほっと胸をなで下ろす。
「来週、組の人がそっち行くからコートも持たせてくれるって、氷上が」
『そうか。ありがとうな』
「うん。届いたら感想きかせて」
『わかった。――そうだ、そこにメモはあるか?』
「メモ? えーっと…」
 ふいに問われて見回したが、メモ用紙に出来そうなものも書くものも見あたらない。ないと答えると、それなら携帯電話のメールアドレスを言うよう促された。
「ケータイのメルアド? なんで?」
『メールを送るから』
「って、士朗ってケータイのアドレス作ってないじゃん」
『作った』
「へえ…。――って、ええ!?」
 予想外の返答に、一拍遅れて格は声を上げた。
 必要のないものは持たずにいる傾向の強い男だ。そして、神之倉の生活にメールは必要ない。それなのに、携帯メールのアドレスを作るとは――
「な、なんで?」
『だから、電話できる機会を待っていたらこの通りだからさ。時間を気にせずに連絡できたほうが、お前も気が楽だろう?』
 邪魔になることを恐れて連絡できない格の心中を、神之倉は察してくれていたようだ。たしかに、メールならば受け手の都合のいい時に読め、返信も相手の時間をあまり気にしなくていい。
 直接話せるならばそれに越したことはない。しかし、それがままならず他の手段でコミュニケーションを取るなら、メールというのは有効だ。
『時間が出来たら電話をするから、しばらくメールで我慢してくれないか? ……慣れていないから返信に時間がかかるかもしれないが』
 付け足された言葉に、神之倉に気付かれないように笑みを浮かべた。携帯メールを打つ神之倉の姿など想像できない。だが、それが自分のためだというなら、なんだか嬉しい。
 格は、神之倉の手元にメモがあるかどうかを確認して自分のアドレスを告げた。
『じゃあ、こっちから送る』
「うん、待ってる」
『すまないな、これからまた出なくちゃならんから切るぞ』
「ん。電話ありがと」
『ああ。…おやすみ』
「おやすみなさい」
 電話は、格の返事を待って切れた。
 通話終了を告げる液晶画面をしばし見つめてから、格は携帯電話を胸に抱いた。
 メールだけで繋がっているのは淋しいが、それすらないのはもっと淋しい。離れていて会えない今、文字の羅列だけでも何かを伝えられるのはありがたかった。
 そうして、格が携帯電話を畳むのを待っていたかのように、固いものをコツコツと叩く音が耳に届いた。
 顔を上げ、音のほうを見遣る。
 銜え煙草の氷上が、車の中を覗き込んでいた。
「――あ!」
 ここに至ってやっと氷上の存在をすっかり忘れていたことに気付き、格は慌ててドアに手を伸ばした。
「ご、ごめ…ッ」
 車に閉じ籠もって占領し、持ち主である氷上を閉め出していたのだ。我を忘れるにも程がある。車外に出て、格は勢いよく頭を下げた。
「神之倉からだったんだろ? もういいのか?」
「え、うん、これからまた出掛けるって――」
「そうか。…事務所に顔出した時よりすっきりした顔してるな。少しは気が晴れたか?」
 右手の指に挟んでいた煙草を左手に持ち替え、空いた右手で格の前髪をすくい上げて氷上が尋ねた。
「こめん……入ってきてくれてよかったのに」
 格はドアをロックしてしまったわけではない。ロックしていたとしても、キーを持っていたのは氷上だ。いつでも車内に入れたはずなのに、何故外にいたのだろうか。
「せっかくの語らいを邪魔するなんて野暮だろ?」
 前髪から手を離し、格の鼻をきゅっとつまんで氷上は笑みを浮かべた。


「ご苦労だったな、佐伯」
 駅から事務所に直行し自分の部屋に落ち着いてから、神之倉は佐伯に言った。大阪から共に戻ってきた2人の組員はすでに帰して、事務所内にはもうほとんど人はいない。ついさっき、神之倉が戻るまで待っていてくれた蒔麻を氷上が送っていった。
 新大阪駅を出たのが21時。あと数十分で年が明ける。
「若頭こそお疲れ様でした」
「結局、年末まで伸びちまってすまないな。休みなしだ」
「かまいませんよ、俺は」
 佐伯は笑ったが、その顔には僅かに疲労の影がある。
 神之倉の補佐役として常について回り、神之倉が休んでいる時も諸々の連絡や予定の調整をしていた。自分の時間はほとんどなかっただろう。
「彼女とろくに話しもしてないんじゃないか?」
「メールは入れてましたから。それにあいつ、理解あるんで」
 佐伯の恋人は2歳年下の幼馴染みで、恋人という間柄になったのは中学生の頃というから、もう15年以上の付き合いだ。
 神之倉も数回会ったことがあるが、控え目で楚々とした美人だ。佐伯に言わせると、大人しそうな見た目に反して頑固なところもあるらしい。
「そろそろ女房にしてやったらどうだ? 瀬尾の叔父貴が仲人やってやるって張り切ってんだぜ」
 古賀沢の重鎮である瀬尾は、神之倉と氷上が古賀沢入りした時分に引き回してくれた男の弟分になるので、若頭を退いた今は“叔父貴”と呼んでいる。佐伯は一時期瀬尾の元におり、瀬尾は佐伯をいたく気に入っていた。
「2年経った。もういいだろう」
 そろそろ所帯を持とうかと考えているとだけは以前耳にしていた。だが古賀沢の先代が亡くなり、その話も宙に浮いてしまった。“親”の喪中に盃事をやろうとする者はまずいない。
 しかし、1年が過ぎ、2年が過ぎても佐伯から籍を入れるという話を聞かない。年が明ければ丸3年だ。
「女房をもらったって、浮かれたミスをやらかしさえしなけりゃ問題ない。それに、俺に気兼ねは必要ないぞ。好きで独り身でいるんだ」
 組が再び安定するまでは色恋は二の次でいいと思っていた。もともと、添いたい女がいたわけではない。
 格のことは佐伯には明かしていないが、たとえ格を受け入れていなくても、佐伯が神之倉に付き合う必要はなかった。
「…そうですね。折を見て話してみます」
 佐伯は素直に頷いた。神之倉も頷き返し、時計に視線を遣って立ち上がった。
「――さて、年が明けないうちにさっさと家に帰ってやれ」
「ご自宅までお送りします」
「いや、いい。寄りたいところがある」
「――わかりました。お気をつけて」
 佐伯は数秒考えて頭を下げた。
 以前の佐伯なら、寄りたいところがあると聞いたらそこに車を回すと言い出しただろう。若頭の補佐という重要なポジションに就いたことによる肩の力が抜けて、だんだんと氷上に似てきた。
 あんなのが2人いたらたまらないと思わないでもなかったが、黙っていても意を汲んでくれるのはありがたい。佐伯は、神之倉の補佐役として申し分なかった。
 そうして佐伯が部屋を出ていき、神之倉はスーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。窓から通りを見下ろし銜えた煙草に火を点けて、アドレス帳から目的の宛先を拾い出す。
 発信ボタンを押して1秒、2秒――呼び出し音が途切れ、弾む声が応答した。
 年内には戻ると伝えておいた格は、挨拶もそこそこに尋ねてきた。
『いまどこ? 横浜?』
「ああ。事務所にいる」
『今夜は帰ってこれんの?』
「…なあ、格。お前、これからちょっと出られるか?」
『これから?』
 驚いた声が返ってきた。
「ああ。車を回すから」
 神之倉は、マンションの最寄りの駅から2つ先の駅近くにある神社の名を挙げて、初詣へと誘った。
 年の初めは事始めや挨拶回りなどで忙しくなるので、格を構ってやる時間がない。ひと月会えずにいてなおもすれ違いの生活が続くと判っているので、連れ出せるときに連れ出してやりたかったのだ。
『行く! 行きたい!』
「そうか。じゃあ支度して待ってろ。マンションに着いたら携帯鳴らすから――」
『あ、待って。神社で待ち合わせじゃダメ?』
「神社でって、お前…その辺は夜は危ないだろうが」
 眉間に皺を寄せ、神之倉は腕時計を見下ろした。時刻は23時30分。小学生が1人で出歩くような時間ではない。
 しかし格は電話の向こうで何やら会話をし、すぐに戻ってきて明るく言った。
『東子がタクシーで行けばいいって』
「タクシーって…俺が迎えに行けば済む話だろうが」
『待ち合わせのほうがデートっぽいじゃん』
 返ってきた予想外の答えに、神之倉は苦笑を浮かべて額を押さえた。なるほど、たしかに外で待ち合わせて会ったことは一度もない。
「…ったく……わかったよ」
 神之倉は苦笑しつつ格の希望を受け入れた。1人きりで電車で来られると心配だが、マンションから神社前までタクシーで来るのならいいだろう。
 そして、鳥居の下で待ち合わせることにし、神之倉は電話を切った。

 組事務所を出る頃に落ちて来た雪は、ゆっくりとではあったが量を増していた。
 だが、さらさらとした質のそれは、衣服を濡らすことなく薄く降り積もる。参道をゆく人々もことさら足を早めたりはしていなかった。
 集まって来る人の数はなかなかに多い。近くに学校が点在しているせいか、10代後半から20代前半の若者の姿が目立った。
 神之倉は拝殿と鳥居を背にして立ち、格を待っていた。あと5分ほどで新年だ。
 吐く息も白い雪の中で誰かを待つというのは初めてかもしれない。年の瀬にこんな場所にいることもなかった。我ながら、らしくないことをしている。
 神之倉は、唇から零れた白い息を追うように参道の向こうに視線を移した。
 その視界の中に、参道を走る待ち人の姿が飛び込んで来た。
 日頃好んで着ているスポーツブランドのミドルコートにマフラーをぐるぐると巻き付けた格が、神之倉目掛けて一直線に駆け寄って来る。
 そこだけ明るく見えてしまう自分に対して微苦笑を浮かべ、一歩踏み出して格を待った。
「おかえり、士朗」
 足を止めると同時に格が言った。
「ただいま」
「…このコート――」
「ああ」
 神之倉は頷いた。着ていたのは格の選んだコートだ。
 丈は長めだが、手触りといい軽さといい申し分なかった。気温の低い日が続いた12月の後半はほとんどこのコートを着ていたといっていい。
 とても気に入ったと伝えてはいたが、実際に着ているところを見るとまた違うらしい。格は嬉しげに笑って、神之倉から2〜3歩離れて全身を視界に収めた。
「よかった。似合ってる」
「そうか」
「うん、カッコイイ」
 言って、格は神之倉の手を取った。
「冷てっ。手袋ねえの?」
「忘れた。お前こそどうした?」
「忘れた」
 同じ答えに笑う格の手をひいて、神之倉は鳥居をくぐった。
 驚いた風に神之倉を見上げた格だが、すぐに照れたように微笑んで隣りに並ぶ。
 夏に親子と間違われた時は不機嫌になっていたが、親子と思わせておけば堂々とくっついていられると判ってからは、それを嫌がらなくなった。
 むしろ、堂々と手を繋げるのも今のうちだという思いもあるのだろう。ただでさえ実年齢より大人びて見える格がさらに成長すれば、男親と手を繋いで歩く子供には見えなくなる。
 0時を過ぎ、参拝の列が動き出した。列のゆっくりとした流れに乗って15分ほどで賽銭箱の前まで辿り着き、小銭を放り込んで暫し拝む。そして、御神籤を引き御守りの類を見てというお決まりのコースを経て、神社をあとにする人の流れに乗った。
 鳥居を出て、2人は流れから外れた。大抵は駅へ向かうのだが、神之倉が乗って来た車は駅とは反対の神社の裏側に駐車してある。
 粒は小さくなったが、雪はいまだ降り続けていた。すぐそこが境内だというのに、雪の夜特有の静けさが、人のいない砂利道をゆく足音を響かせている。
「…なあ」
「ん?」
 黙っていた格にふいにコートの袖を引かれ、神之倉は格を見下ろした。襟を掴まれて引き寄せられ身を屈めたと同時に、タイミング良く格が唇を寄せる。
「こら…っ」
「誰も見てないって」
 まんまと唇を啄んで離れた格の屈託のない笑顔に、神之倉は軽く息を吐いて苦笑した。幾分乱暴に頭を撫でると、声を上げて笑って手から逃れていく。
 格は数歩離れたところから、あらためて神之倉を見上げた。
「今年もよろしく」
「ああ」
 神之倉は頷いて応じ、格の持っている破魔矢と御守りの入った袋に目を遣った。
「今年の年末も一緒に来るか」
「……来年も一緒に来たいな」
「そうだな――来年も」
「…再来年も?」
「再来年も」
 じっと目を見て答えると、格の顔に花開くように笑みが広がった。満面の、嬉しげな笑顔。真夏の向日葵のような鮮やかな明るさに、思わず目を細める。
 神之倉は小さく笑い返し、コートのポケットに入れたまま右手を上げた。その広げられたコートの中に、格が飛び込んで来る。
 胴に腕を回した格の肩を神之倉がコートで包むようにして抱き、2人は揃って歩き出した。


−終−



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