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Vol.5 幸福論 (後編)
1時5分前に学校に戻ると、ちょうど昼前に場を離れた親たちのUターンラッシュに出くわした。
蒔麻と東子は連れだってするすると人の波を掻い潜り、今度は観覧席の後方にしつらえられた雛段の中段に陣取った。
午後の競技は引き気味の方が見えやすいのだと東子は言う。撮影ポイントの下調べは完璧だ。
東子が絶好のカメラポジションを確保すると、持っていたバッグから蒔麻が黒い合皮のケースを取り出した。そしてその中から、小振りのオペラグラスを引き出す。倍率8〜10倍の、スポーツ観戦などで使うタイプだ。
「そんなもんまで持ってきたんですか」
あまりの用意の良さに、神之倉は呆れて声を上げた。
「だって良く見えたほうがいいじゃない?」
蒔麻は叱られた子供のように身を引きつつ、小首を傾げて神之倉を見上げる。
「まったく……」
神之倉は微苦笑を浮かべて腕を組んだ。
格と出会ってから、蒔麻の精神状態はすこぶる良い。先代の死から半年も経たずに四代目を継ぎ、組を立て直すために常に気を張っていた。安定と共に一気にぶり返しが来るのではないかと密かに危ぶんでいたが、格といると気が休まるようで、うまい具合に力が抜けている。神之倉個人としても組にとっても、蒔麻が沈んでいるよりずっといい。
格が聞き分けてくれるのをいいことに遊びに連れ出してもやれない神之倉より、蒔麻のほうが何倍も格を大事にしているように見える。
妬くどころか、自分に対して失笑を禁じ得なかった。少し放っておきすぎたかもしれないと、改めて反省する。
だからといって、傍にいられる時間もそうは増やせない。せめて、あれが欲しいここに行きたいという我が儘を口にしない代わりに年齢差を超えようと果敢に挑んで来る格の要望へのハードルを、もう少しだけ下げてやるべきなのだろうか。
生徒達が徐々に集まり始め、やがて午後の部開始のアナウンスが流れた。
それと同時に、同じ色のハチマキをして同系統の衣装を身に着けた20人ほどの生徒達が走り出て来る。
「…大人っぽくて派手よねえ。こういうとこが昔とは違うわ」
始まった応援合戦を見ながら、蒔麻が感心して呟いた。
ヒップホップダンスを主体にした赤組もチアリーディング中心の青組も、誰が考えるのかかなり派手な演出だ。生徒達もキャーキャーと歓声を上げている。
そして赤青のふた組のあと、格の属する白組の順番になり――これまで置いてあるだけで誰も打ち鳴らさなかった大きな太鼓がドォンと鳴り響いた。
太鼓の音と共に、黒白のコントラストも鮮やかな一団が校庭の中央に進み出た。
学ランに襷、ハチマキは長いものに変わり、風に靡いている。よく見ると、太鼓の前に陣取っている少年は上半身裸でサラシを巻いていた。
一団は校舎を背に逆三角形を作って並んだ。最前列の生徒は上級生のようだが、次の2人は幾分幼く、そこから徐々に背が高くなっていき、最後列の左端に格の姿があった。
どうやら応援団長らしい最前列中央の少年が、両手を背後で組んだまま声を張り上げて号令を下す。それに続いて打ち鳴らされた一拍子の太鼓のリズムに合わせ、全員が腕を突き出した。空手でいう正拳突きだ。
二拍子、三拍子とリズムは変わっていくが、振りがどれも武道的で寸分の狂いもなくとはいかないがかなり揃っている。
目立って上手い生徒が数人いて、中でも格は溜めも止めも重心の置き方も良い。夏以降稽古を見に行ってやれなかった神之倉は氷上から話だけは聞いていたが、着実に上達しているようだ。
続いて前のふた組でもあったお決まりのエールの交換をしたあと、一団は並びを変えた。団長を中心に、Vの字を作る。そのV字の中に、格ともうひとりが進み出た。
向かい合って一礼し、重心を落とす。格と相対していた少年が裂帛の気合いを発し、それを合図に太鼓が鳴った。
三三七拍子のリズムに乗って、組み手が繰り広げられる。格だけでなくもうひとりも武道経験者のようで、リズムからも型からも外れることなく流れるような動きだ。
ラストは全員で発した気合いと同時に太鼓が打ち鳴らされて、見ていた生徒達から拍手と歓声が沸き起こった。
全体としては子供らしい拙さもあったが、それがかえって微笑ましい。あえて古風にまとめたところが、前ふた組よりいっそ個性的に見えた。
神之倉の隣の蒔麻が、大きく息を吐き出して肩の力を抜いた。どうやら息を詰めて見つめていたようだ。
「演出凝ってるのねえ。あの学ランどうしたのかしら?」
「友達のお兄ちゃんに借りたんだって。一番前に立ってた団長さんが演出考えて、格ともう1人で振り付けたんだって聞いてるよ」
蒔麻の疑問に東子が答えて寄越した。良い写真が撮れたのか、カメラを膝に下ろした顔は満足げだ。
「もう1人ってあれでしょう、格と最後に組み手をやった奴」
「そうそう。あの子は中国拳法やってるんだって。で、太鼓の子のおじいちゃんが和太鼓奏者」
「ああ…どおりで上手いと思った」
構える姿も様になっていたが、迫力のある良い音をさせていた。格の相手をしていた少年も、気合いといい動きといい本格的だった。いろいろな子供がいるものだと妙な感心をしてしまう。
「上手くいって良かった。格、ここんとこずっと家でも練習してたから」
「すぐ着替えちゃうのかしら? もったいないなあ」
「さすがに借り物で走るわけにはいかんでしょうよ」
「そうよねえ」
神之倉の指摘に蒔麻が残念そうに呟く。
「半年経てばまた見れるよ。あれ、格が行く中学校の制服だもの」
「格くん、中学から学ランなんだ? うわー楽しみ」
蒔麻は手を打って喜んだ。その嬉しげな様子に、神之倉は首を捻る。
「あんたが学ラン好きだとは思いませんでしたよ」
「制服見るのは好きよ。学ランってなんだかストイックな色気があるじゃない」
「…着る側からはよく分かりませんが――そんなもんですか?」
「そんなものよ。男の人から見たって、私服とセーラー服とじゃ多少印象が違うでしょ?」
「あたしセーラー服って憧れるなあ。着たことないから」
「東子ちゃんならまだ似合うかも。私のお古でよかったら今度着てみる?」
「さすがにイメクラっぽくない?」
ひそひそと場違いでマニアックな話をしているうちに、グラウンドでは午後の競技が始まっていた。東子によると、格の出番はしばらくないらしい。
後方の雛段という位置のせいか、だいぶ場違いな感は弱まった。けれどやはり、周囲の夫婦や幼い子供を連れた家族を見ると、何故いま自分がここにいるのだろうとふと思ってしまう。
格と出会わなければ、こういう場所に来ることはなかったろう。たとえ女房子供がいたとしても、顔を出そうとはしなかったはずだ。
今日ここに来てしまったのは、言い出したのが蒔麻だからということもあるが、学校での格を見てみたいという気持ちも少しあったからだ。大人びた面や神之倉に見せる顔だけでなく、年相応の顔も知っておきたかった。
出会ってから1年が過ぎ、顔色だけでもある程度判断はつくようになっている。だが、神之倉の知る面だけを全ての判断基準にしていたら、何かを見誤りそうだった。
午後の部も大きな滞りはなく進み、あと数種目を残すだけとなったところで、神之倉の携帯電話が鳴った。氷上からだ。
少々長くなりそうだと感じた神之倉は、蒔麻にひと言断ってその場を離れた。
足早に校庭を回り込んで体育館の裏手に入り、20コール近く鳴り続けた電話にやっと出る。
「悪い、待たせた」
『おう、格の生足に見惚れでもしてたか?』
「してねえよ」
氷上の軽いジャブに、神之倉は苦笑して返した。
『静かだな?』
「ああ、場所を変えた」
『なんだ。別にいいのに』
「“天国と地獄”をBGMに話したいか?」
憮然として言い返した神之倉に、一瞬の沈黙のあと氷上が吹き出した。
『は…はは…ッ合わねえなあ』
「まったくだ」
しみじみと言う氷上に神之倉もため息混じりに応じ、用件を話すよう促した。
いくつかの確認事項に、答えと指示を出す。差し当たって緊急の用件はなかったが、やはり半日空けると神之倉が目を通さなくてはならないものが出て来る。
「結局こうなるんなら、俺よりお前が来ればよかったのに」
『いいんだよ、電話で済むんだから。それに俺が行ってどうするよ? お前が行くべきだろうが』
「…場違いでいたたまれないんだが」
『同じ年頃の奴らといる格を見といてやっても良いだろうさ。判断鈍るぞ』
言われて、神之倉は返事に詰まった。
なまじ付き合いが長いだけにミリ単位の表情の変化まで読み取られてしまうが、顔を突き合わせていなくても何故か氷上にはわかってしまう。まるで心の中を覗かれたかのようだ。
もっとも、昔から察しはよく、古賀沢の先代ですらあいつに隠し事は出来ないと苦笑していたほどだ。
その洞察力があるからこそ卓越した交渉術をもち、同業者から敵に回したくないと思われるに至ったのだろう。
『何かあればまた電話するから、今日は蒔麻さんを送って直帰でいいぜ』
それを最後に、電話はさっさと切れてしまった。
否定も肯定もできなかった神之倉は、耳から離した携帯電話を見つめて軽く息を吐き、それをジャケットコートの内ポケットに戻した。
そこに、いきり立った声が聞こえてきた。何かをがなりたてているのは数人いて、若いというより幼い声だ。それに対応している声に、ひどく聞き覚えがあった。
神之倉は、気配を殺して声のする方へ近付いた。そして、体育館の壁越しにその向こうを窺う。
4人の少年が、樹木を背にした1人を囲んで立っていた。
少年達から発せられる言葉を憶しもせず受け止めているのは、声と同じく覚えのある姿形――格だ。
4対1という状況で、4人の方には明らかな敵意があり喧嘩腰だ。格は4人のように声を荒らげてはいないが、相手に譲ろうという素振りはない。
その格の肩を、4人の中でいちばん体の大きな少年が突然乱暴に突いた。衝撃で、格の体が背後の木の幹に激突する。
だが神之倉は動かなかった。喧嘩の理由がよくわからなかったからだ。理由があってのことならむやみに止められない。
ヤクザだということを抜きにして、喧嘩の経験がないよりはあるほうがいいと思っている。兄弟喧嘩然り、友人・知人との喧嘩然り、争いや諍いの中から学ぶものもあるのだ。そうでないと、力加減や限度を知らないまま成長することになる。
極道と暴力とは切り離せず綺麗事では済まない世界だが、それでも、時と場合により様々だが“ここまで”というラインがある。程度を知らずやりすぎる若い組員は、喧嘩の仕方を知らない者が多い。
4人の少年達が限度を超える前には止めに入るつもりでいた之倉だが、結局その助け手は必要なかった。
肩を突いた少年を別の少年が何やら言って押し止める。そして彼が格に向かって「逃げるなよ」と言ったのを最後に、少年達は何某かの捨て台詞を吐いて、神之倉のいる方とは逆側へと去っていった。
少年達がいなくなると、格はやれやれといった感のため息をつき、肩に乗っていた樹皮の欠片を払い落とした。そして、去っていった少年達とは逆方向へと足を向ける。
神之倉は、格が歩き出すと同時に壁の陰から足を踏み出した。
「……士朗」
格の目が驚きに見開かれる。
「背中と肩は大丈夫か?」
「大丈夫。――見てたんだ?」
さらりと尋ねた神之倉に、格が苦笑を返した。
「止めなくてすまないな」
「ううん、いいよ。止めないでくれてサンキュ。売られたケンカは自分で買わないとさ」
格は首を横に振り、少年達が去った方向を振り返った。
「あの子らと仲が悪いのか?」
「うん、まあ…一方的に敵視されてる感じ」
「一方的に…?」
どうやら昨日今日の仲違いではないと感じ取り、神之倉は格を見つめた。視線を受けた格は、深刻な顔もせずに笑って見せる。
「いじめまでいかないから心配しなくて平気だよ。あんなんカワイイもんだから」
「かわいくないもんの経験でもあるのか?」
「あるよ」
格は事も無げに答える。
意外な気がした。人懐こく物怖じしない格は、取っつきやすくもある。蒔麻や氷上だけでなく、言葉を交わした古賀沢の組員にも好感を持たれているようだ。同じ年代の集団の中でどうなのかはわからないが、だからといって疎外されるようにはとても見えない。
「ドロドロに陰険なのはないけど、シカトされたりコソコソ悪口言われたりあの子と遊んじゃいけませんなんつー感じの――理不尽なありがちなヤツは、あるよ」
少し言葉を濁した歯切れの悪い格に、神之倉はその原因を察した。
東子が原因の一端なのだろう。
若くして子供を産んでいて、職業は水商売。馬鹿馬鹿しいと神之倉は思うが、それが陰口のネタや排斥の理由になることは昔から良くあることだった。
格と同じ年頃に家庭環境が複雑だった神之倉にも、謂われない理由でそれまで普通に話していたクラスメートから距離をとられた覚えがある。
「小学校上がる前と転校した時だけだから、今はもう全然平気なんだけどさ」
過去のことと言いながらも不本意そうなのは、東子が貶められたということが悔しいのと、それが社会の現状だと諦めてしまうほど枯れても荒んでもいないからだろう。厭世的な諦観はまだ早すぎ、なにより格には似合わない。
「あの子らはそういうものじゃないんだな?」
「あいつは突っ掛かってきてるだけ。他のヤツは付き合いに便乗して調子に乗ってるって感じかな」
格の言う“あいつ”とは、格を突いた1人を止め「逃げるな」と言った少年だろうか。
「理由があるんだろう?」
「あいつ、市の陸上大会でいつも1位とか2位取るくらい足早いんだけど、春の体力測定であいつに勝っちゃったんだよ、俺」
渡瀬という姓の彼とは同じクラスになったことはないが、会話を交わしたことはなくはない程度の関係だったという。
一斉に行われた体力測定の日、欠席者の兼ね合いでたまたま渡瀬と一緒に短距離を走った格は、渡瀬より早くゴールした。それから、渡瀬の敵対視が始まった。
「お前、そんなに足が速かったのか」
「遅くはないけど、めちゃくちゃ速いってわけじゃないんだよ。あの日はたまたま景品があったからさあ」
「景品?」
学校の体力測定で景品が出るものなのだろうか。神之倉は眉を寄せて問い返した。
「新作のバッシュが欲しかったんだよ」
格は、好んでよく身に付けているスポーツブランドの名を挙げた。
その頃発売された新しい限定モデルの靴が欲しかったが高額で、どうしても必要というものではなくかっこいいから欲しいというだけの理由だったので、東子も二つ返事でぽんと金を出したりはしなかった。格に甘く見える東子だが、欲しがる物を何でも買い与えるような甘さはない。
だが諦めきれない格を見て、体力測定の50メートル走で自己記録を更新したらと東子が条件を出した。
「一緒に走る奴が速いと自分もタイム上がったりするじゃん? あん時もそうで、それにバッシュも懸かってたから自己新出たんだ」
「それであいつを抜いちまったのか」
「うん、でも大差ってわけじゃなかったんだぜ。コンマ何秒か」
だが、学校内で一番速いと自負していた渡瀬は納得がいかなかったらしい。自信があっただけに過分に屈辱的に感じたのだろう。
運動神経は抜群だが、リトルリーグやサッカーチームに所属していたり何かの競技で大会に出たりといった目立った活躍のない格が相手だっただけになおさらだ。
「そのあと勝負しろって迫られて、断ったら突っかかってくるようになっちゃってさ。まずったなぁ。勝負しとけばよかった」
「だが、またお前が勝ったら余計に意固地になりそうじゃないか?」
負けたことを認められるなら、そもそも最初から突っかかってきたりはしない。
「あいつに本気出されたら勝てねえよ。速いもん」
「負けるのが判っていたから勝負しなかったのか?」
あっさりと言い切った格に、神之倉が尋ねる。
12歳にしてはものの見方が落ち着いていることは確かだが、勝ち負けを先に断定して投げ出してしまうのは格らしくない。負けるのが確実な氷上相手でも何度でも向かっていくほど負けず嫌いでもあるのだ。
「勝負しろって言われた日に友達ん家に行く約束がなかったら受けてたかもしんないけど。前から約束してたこと蹴ってまでその日じゃなくてもいいだろうって思ったんだよ、そん時は」
しかし、別の日ならという格の答えを、渡瀬は違う意味に取った。
相手にされないという誤解、苛立ち。知った仲なら汲み取れる部分もあっただろうが、ろくに話しもしたことがなかったばかりに裏目に出た。
「もともと相性がいいタイプでもなかったんだろうと思うよ。会話も噛み合わねえし」
苦笑いを浮かべる格の頭を、微苦笑を唇に刻んだ神之倉が撫でた。
どこか僅かでも通ずるところがあるから距離が縮まるのであって、重なるものもない相性の悪さではどうしようもない。誰にでも1人はそんな相手がいるものだ。
「でもまあ、このあとひと勝負あるし、それであいつが納得してくれりゃいいんだけど」
「走るのか?」
「うん、最後のリレーで。各学年から代表出して組別対抗」
学年順に走る必要はなく、各組作戦を練って順番を決めている。格の白組は、5年生がアンカーを務めることになっていた。
「俺が5番手だからあいつも5番目に走るんだって。リレーだから同時にスタートするとは限んないけど、ヤル気満々で宣戦布告に来たんだよ、さっき」
「なるほどな…。しかし、宣戦布告で怒鳴りつけたりど突いたりするものか?」
「あれは――もう奴の難癖とセットみたいなもんかな。俺もハイハイ言うこと聞く気ないし逃げようとも思わないからムカつくんだろ?」
そう言って、格は不敵な笑みを浮かべた。ここまではというラインを超えることがあれば即座に反撃し返す覚悟を秘めた笑みだ。
諾々と従うでもなく向けた敵意を受け止められては、仕掛けた方は苛立って手も出るだろう。当事者ではなく周りの人間がより苛立つのは大人の世界でもよくあることだ。
「しかしリレーか。それこそ勝負は時の運だな」
誰か1人が突出して速かったところで、他のメンバー次第で最下位も有り得る。バトンを落とす可能性もなくはない。
「うん。でも、今日のは優勝かかってるから負けるわけにはいかないんだよな。やるからには勝ちたいし」
格は真顔で呟き、右手の肘を左腕ですくい上げてグッと伸ばした。
最終競技のリレーは各組2チームずつの計6チームで競うため、揃って上位に入れば大逆転もあり得る。神之倉が席を外すまでは、白組は総得点で2位につけていた。
「勝算はあるのか?」
「うーん…」
神之倉の問いに、格は低く唸って宙を見上げた。そして、ふと神之倉を見る。
「――なあ、勝ったらご褒美くれる?」
「褒美? 何をだ?」
珍しく思い、神之倉は尋ねた。これまで格が神之倉に対して何かが欲しいと物をねだったことはあまりない。
「えーっと、そうだなあ……――じゃあ、すっごいキス」
「…なんだって?」
「…うん、勝ったらすっごいキスしてよ、士朗。オトナなヤツ」
「……おまえなあ」
やはりそちらの方面か。
格が唯一ねだるのが体の接触なのだが、いまこの場でこの台詞が出て来るとは思わなかった。
渋面で嘆息した神之倉に怯むことなく格は距離を詰めて、胴に腕を回して抱き付いた。そして、まっすぐに見上げてくる。
「ダメ?」
「…わかったよ」
さして間を置かずに応じて、神之倉はあやすように格の背を叩いて両腕でゆるく抱いた。
爽快な秋晴れだが、日差しのない体育館裏はいささか肌寒い。格の体がいつも以上にあたたかく感じる。
格は驚いた顔で瞬きをし、食い入るように神之倉を見つめた。
「どうした? 不満か?」
「全然! でもさ、いいの? いつも駄目だって言うじゃん」
「勝ちたいんだろう?」
「うん」
「これで勝てると言うなら、鼻面の先の人参にくらいなってやるよ」
「…でっけーニンジン」
神之倉の言い様に格はクスクスと笑って、
「味見さして?」
じっと見つめて甘く囁いた。
「却下」
即答で退けた神之倉は、容赦なく格を引きはがす。
第一ここは学校内なのだ。そして昼日中、学校行事の真っ最中だ。倫理道徳を振りかざせる立場ではないが、さすがに場所柄も日柄も悪すぎる。
「お前、戻らなくていいのか?」
そういえば長いことこの場所にいると思い至り、神之倉は問い掛けた。問われた格もハッとして神之倉の腕を引っ掴み腕時計を覗き込む。
「やっべ。次に出るヤツ始まっちまう」
「急げ」
「うん」
促して背を押した神之倉に頷いて格は駆け出した。そして、数歩先で立ち止まって振り返る。
「さっきのこと、内緒な」
渡瀬のことだとすぐに察した神之倉は「わかってる」と短く返した。
いくら格自身が気にしていなくても、絡まれていることに変わりはない。東子や蒔麻に心配をかけたくないのだろう。
格は少し笑って手を振って、その場を後にした。
神之倉が蒔麻と東子の元に戻ると、格が次に出るはずだった競技はすでに始まっていて、格の順番も終わってしまっていた。どうやら、何とか間に合ったらしい。
「何か重要な用件だったの?」
蒔麻が小さな声でそっと尋ねた。真顔で問う蒔麻にただの連絡だと笑って見せ、神之倉はグラウンドに目を遣った。
「ホントに?」
「あんたに嘘言ってどうするんです。重要なことなら必ず知らせますよ」
些細なことなら蒔麻に負担を掛けないよう末端で処理することもあるが、それでも必ず報告はする。また、蒔麻の裁量が必要なことなら必ず蒔麻を通す。古賀沢にとって蒔麻はお飾りではない。
「ほら、次の競技始まりますよ」
「えっもう? 次で最後なのよ」
「最後…リレーですか?」
「あら、知ってたの?」
「ああ――プログラムに書いてあったんで」
体育館裏で格と会ったことを隠すためにした言い訳だが、蒔麻はそのままそれを信じたようだ。深く問いつめず、グラウンドへと意識を戻した。カメラを準備する東子と会話を交わし、すでに石灰で線の引かれたトラック内の自分のスタート位置付近にスタンバイしている格に、期待に満ちた目を向ける。
神之倉も、“人参”という立場上よそ見をしているわけにもいかない。見届けるべく格へ目を遣ると、格の姿をじっと見ている渡瀬少年の姿が視界に入った。よほど激しい敵愾心を燃やしているのか、その目はかなり厳しい。
カメラのファインダー越しに格を追っている東子が気付かなければいいがと思いながら、神之倉は改めて渡瀬少年を観察する。
格の言うとおり、確かに速そうではあった。まだ子供の筋肉だが陸上競技向きの足をしている。負けず嫌いな性格も個人競技には向いているだろう。格も好戦的な質なので、なおさらぶつかるのかもしれない。
そうこうしているうちに、号砲一発、スタート合図のピストルが打ち鳴らされた。
最終競技で組別対抗リレーというだけあって、スタートと同時に湧き上がった声援のテンションは高い。
各組低学年生で固めたらしい第1走者はほぼ団子状態のまま第2走者にバトンが渡った。そこから各組に少しずつ差が出て来る。
正攻法で学年順にしているチームとあえて順番を入れ替えたチームとで抜きつ抜かれつ走者ごとに順位が変わる。そして、いよいよ第4走者が最後のコーナーを回った。
その時、腕を組んで眺めていた神之倉とトラックに立っていた格の目が、ふと合った。
神之倉を見ている格の目が細められ、口許に笑みが浮かぶ。それが自信の笑みなのか期待の笑みなのか判断する間もなく視線は逸らされ、やって来る走者に向けられた。
次々にバトンゾーンに近づいてくる走者に合わせて第5走者が走り出す中、格はバトンゾーンの入り口付近から動かない。渡瀬少年も同じで、2人はギリギリまで待って足を踏み出した。
ゾーンに入ったばかりのところでバトンを受け取り走り出す。足の速い走者に長く距離を走らせるための戦法だ。格と渡瀬はほぼ同着の3位。第3走者に上級生を組み込んだ赤組の1チームが先頭を走っている。
本気を出されたら勝てないと格が言うだけあり、渡瀬の足は滅法速かった。すぐに2位のチームを捉え、大外から抜いていく。数メートル離されて格が続き、単独3位に躍り出た。1位を走っている赤いハチマキの背中もすぐそこだ。
第5走者が2周目に突入した。ランナーの背中を押すように、各組の応援席からの盛大な歓声が投げかけられる。
1位の走者を射程圏内に捉えたところで、格と渡瀬の距離が詰まった。スパートをかけた渡瀬に格も続き一気に先頭を抜き去ると、応援席も父兄の観覧席も湧きに湧いた。
そして最後のコーナーを利用して、狭い内側を格がすり抜けた。
渡瀬の目が驚愕に見開かれる。神之倉の隣りで、息を飲んだ蒔麻が両手を胸の前で固く組んだ。
格が僅かにリードを保ったまま、リレーゾーンで待つ最終走者に向かってバックストレートを駆け抜ける。
渡瀬がまた追い上げ、格に並んだ。
その直後、白と青の応援席と蒔麻の唇から、悲鳴のような声が漏れた。
バトンゾーンの手前で格を躱した渡瀬がその差1メートルの距離を保って最終走者にバトンを渡す。僅かに遅れて白のバトンも第6走者へと渡った。10メートルほど遅れて赤いハチマキが飛び込んで来る。
「……抜かれちゃ…ッ」
蒔麻が小さく呟いた。
神之倉は、後続ランナーを避けるためトラックの中に入った格を探した。膝に手をついて肩で息をしている。渡瀬もその向こうで腰に手を当てて乱れた息を整えようとしていた。
その時、俯いた格の口許を笑みが掠めたような気が、神之倉にはした。確かめようと目を凝らすが、同時に湧いた歓声に、格は顔を上げて観覧席に背を向けてしまった。
トラックに目を戻すと、2位でバトンを受け取った白いハチマキが先頭に出たところだった。1位をひと息に抜き去ったかと思うと、ぐんぐんスピードを上げていく。
「蒔麻さん」
格が抜かれてしまったことに呆然としていた蒔麻の肩を揺すり、グラウンドへと注意を引き戻した。
まだ終わっていない。ゴール地点へと駆け出した格には笑顔がある。
秋晴れの午後に翻る白い布地は、2番手に10メートル以上の差をつけてゴールテープを切り、ゴールの先で待っていた5人の輪に飛び込んだ。
続いて青、そしていつの間にか赤を抜いていた白がゴールしたところで、白組の応援席のボルテージは最高潮に達した。
「最後惜しかったけど頑張ったよね。一緒に走ってた子、すごく速かったもの」
夕暮の歩道を歩きながら、蒔麻が神之倉に言った。
生徒は後片付けがあるのですぐには帰れず、父兄は閉会とともに学校を出て三三五五に散っていった。すぐに仕事に行くという東子とも校門の前で別れ、いまは蒔麻と神之倉の2人きりだ。
「陸上やってて大会にも何度も出てるって奴と走ると以前聞いた覚えがありますよ」
「それがあの子? フォームがきれいだと思ったけど、やっぱり経験者だったのね。じゃあすごく頑張ったんじゃない、格くん」
「そうですね」
聞いたのは数時間前だがいつ頃とは言わずに話した神之倉に、蒔麻は微笑んだ。そして、組んだ両手を逆さにして前方へ腕を突き出し、大きく伸びをした。
「――さて、極道の女の顔に戻らなくっちゃね」
「……蒔麻さん」
「今日はありがとうね、一緒に来てくれて」
「――蒔麻さ…」
言いかけた神之倉の唇を蒔麻の指先がそっと押さえて黙らせる。蒔麻はじっと神之倉を見つめて口を開いた。
「今の生活が嫌だと思ったことも、違う人生を歩みたいと思ったこともないわ。あなたや氷上が側にいてくれて、組の皆が慕ってくれて、こうやって休日を楽しむ友達がいて…格くんがいて。しあわせよ、私」
言って、蒔麻の指先が神之倉から離れた。
「そうですか」
「そうよ」
蒔麻は笑って神之倉の腕に自分の腕を絡める。夕日の作る影が重なって長く伸びた。
「今日は特別。ただ見てみたかっただけなのよ。人の数だけ幸せの定義は違って、私もあなたも少しずつ違う。でも、それでいいんじゃない?」
「…そうですね」
自分にとって何が幸いかを決めるのは、自分自身であって他人ではない。
「今度東子ちゃん作の秘蔵アルバム見せてもらわなくっちゃね」
そう言って笑った蒔麻の顔は、今朝事務所で目にしたいつもの“古賀沢蒔麻”の顔に戻っていた。
その夜。
落ち込んでいるかと思いきや、格はいつもと変わりない明るさで神之倉の部屋にやって来た。
用意しておいた夕飯は、帰りがけに東子に頼まれて蒔麻が選んだデパートの地下食品売り場の惣菜だが、専門店であれこれ買い揃えたので豪華な品揃えになっている。
格とこうやって自宅で夕餉を囲むのはずいぶんと久し振りだった。東子に頼まれなければ食事をしに連れ出そうかと思っていたが、部屋でのんびりというのもいい。
動き回って腹を空かせていたのか、格は神之倉の倍の早さで箸を動かして、多すぎたかと思われた料理はすべて2人の腹に収まってしまった。
「よく食ったなあ」
「成長期だもん」
ペットボトルから茶を注ぎながら格は笑った。たしかに、食が細いタイプでなければ山のように食らう年代だ。
そして、片付けてソファに落ち着くなり、格は当たり前のように神之倉の隣に移動し、昼間交わした“約束”を口にした。
「勝ったら、じゃなかったのか?」
決して逃げ口上ではないが、条件が変わってしまっているような気がして神之倉は尋ねた。それに対して、格はけろっとして返す。
「だから、リレーは1位で総合優勝、完全勝利じゃん」
神之倉は沈黙し、眉間に皺を寄せて慎重に尋ねた。
「……お前、もしかして全部計算ずくか…?」
まさかと思ったが、この屈託のなさは開き直りとは思えなかった。すべて計算の上だとしたら、走る前後に見せた格の笑みにも説明がつく。
果たして、神之倉の問い掛けに格はにやりと笑った。
「渡瀬のヤツが5番手に入ったからあっちのアンカーが遅くなったんだよ。ウチのアンカーはあっちより断然速いから、俺がそんなに離されないでバトン渡せば絶対勝てる。…って作戦だったわけ」
格は澱みなくそう説明した。
「俺は3メートル以内で繋げばよかったんだ。だからあれでめちゃくちゃ上出来」
――やられた…。
神之倉は嘆息して落ちて来た前髪をかき上げた。つまり格は、ギャンブルどころかかなりの確率で戦利品の人参を得る自信があったわけだ。
たしかに“格が渡瀬に勝ったら”という厳密な条件付けはしていない。
「まったくお前は……」
「…怒った?」
「いや」
「じゃあ呆れた?」
「いや……悔しかったろう?」
にじり寄って来た格の髪をくしゃくしゃと掻き乱して神之倉は尋ねた。案の定、格は肩をすくめて苦笑した。
「そりゃさ、やるからには勝ちたいと思ってたから悔しいけど――でも今日の渡瀬は最初から本気全開だったし、俺もやれるだけはやったから…少しはマシかな?」
悔しさを滲ませながらも、格の顔には達成感がある。
神之倉は格と向かい合うように体勢を変えて片膝をソファの上に引き上げると、今度は優しく髪を梳くようにして格の頭を撫で、その小さくて形のよい後頭部を引き寄せた。
「頑張ったな」
「……うん」
額を肩に押しつけるようにして抱いて労うと、格が嬉しげに首に腕を回して抱き付いて来た。
神之倉は苦笑して、格の肩に手を置いた。そして、がっちりとしがみついている格を少しだけ引き離す。
「士朗?」
神之倉を見上げて瞬きをした瞼に唇を落とすと、格がパッと顔を赤らめた。いつも積極的に迫り倒して来る格にしては可愛らしいその反応に、神之倉はつい吹き出してしまう。
「どうした、このくらいで」
「だってまぶたは初めてだったから――って、まさか今のがすっごいキスとか言う?」
「まさか」
いくらなんでもそんな言い逃れをする気はない。
「…目、閉じろ」
「ん」
素直に従って目を伏せた格に、神之倉はゆっくりと顔を近づけた。
若く滑らかな頬を撫でてその手を首筋に滑らし、唇を重ねる。
舌で口唇を割り、滑り込ませた舌先で上顎を探った。弄うようにして舌を絡めると、たまりかねたように格の両腕が神之倉の首に回される。
いつもは軽く触れるか重ねるだけのキスがほとんどで、奥深くを探るような口づけは実に半年ぶりだ。
「ん…っぅ、ん――」
息苦しそうな、けれど甘く切なげな声が格の喉奥から溢れてくる。
もどかしいのか、交差された格の両手が神之倉の肩のあたりのシャツの布地をたぐり寄せた。
――…ここまでか――?
十数秒後、身を捩った格の肺活量の限界を察知して、神之倉はそっと唇を離した。
「…は…ッ…ぁ――」
酸素を求めて喘いだ格が、深く呼吸を繰り返しながらくたくたと神之倉の胸にしなだれかかった。
己と比べると数段細く華奢な体を両腕の中にすっぽりと収めて、その髪を撫でながら神之倉は問い掛ける。
「…注文通りだったか?」
「……ある意味すごかった……川の向こうに花畑が見えるかと思ったよ…?」
「はは…っ」
格の物言いに、神之倉は弾かれたように笑い声をあげた。
「くらくらして、ふわ〜っとして……すげー気持ちいー……」
格は完全に脱力して神之倉に体を委ね、うっとりと呟く。力が入らないせいか、満足してしまったのか、いつものようにこの先をしようとは言い出さず目を閉じている。
神之倉は格を胸に抱いたまま、ソファの肘掛けと背中の間にクッションを押し込み、それに背を預けた。
しばらくそうしていたが、ふとあることを思い出し、神之倉は格の顔を覗き込んだ。
「そういえば最初に目が合ったあと、お前むくれてなかったか?」
問い掛けられ、格は伏せていた目蓋を明けて考え込む。
「朝? なんかあったっけ…――あ」
「ん?」
「いや、あれはそのー…」
思い当たる節はあったらしく身を起こした格だが、促した神之倉から目を逸らし、ばつが悪そうに俯いて言い淀んだ。
「どうした?」
格に続いて体を起こし、座り直した神之倉が尋ねると、格はそろそろと視線を戻して、
「……服……」
「ふく?」
「…今日、士朗が着てた服。選んだの氷上だろ?」
「ああ」
「――そうあっさり答えられるとムカツク…」
神之倉の端的な返事に、格は不満げにため息をつく。
「どうして」
「だって全然違和感なく似合ってたもん。俺はさあ、半日ウロウロして一着も見つけられなかったのに、きっと氷上はあっさり決めたんだろうなーと思ったらさ……」
だんだんと声が小さくなっていく格の答えに、神之倉は唖然として口惜しげな格の顔を見つめた。
一着も見つけられなかったとは、夏のデートの時のことを言っているのだろう。だがそれは、格が悪いわけではない。ラフな夏服が似合わない神之倉に問題があるのだ。
秋冬物ならいくらかましで、氷上が他人の服のセレクトが上手いのはもはや特殊技能に近い。今日の蒔麻の服とて、おそらく氷上の見立てだ。
神之倉は服ごときでと思うが、格には重要なことなのだろう。だがそれで、渡瀬に負けたことより悔しげな表情を見せる格が、可愛くて仕方がない。
そんな風に思ってしまう自分への照れ隠しに、神之倉は格の体を引き寄せた。
「士朗?」
「冬のコートを買い換えようと思っているんだが――お前が選んでくれないか?」
「俺? 氷上じゃなくていいの?」
耳元で頼むと、驚いた顔をして神之倉を見上げてくる。
「ああ」
しっかりと頷くと、格の顔が嬉しげに笑み崩れた。そして、勢いよく首筋に抱きついてくる。
大人びた顔と、あどけない顔。油断ならない、愛しい存在。
神之倉は、その重みと温もりを確かめるように格の体を抱きしめて、小さく笑みを浮かべた。
−終−
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