Vol.5 幸福論 (前編)


「だから、ね。おねがい」
 空は高く雲ひとつない爽快な秋晴れのある日の朝。
 蒔麻に両手を合わせて拝まれて、神之倉は眉間に深い皺を刻んでため息をついた。
「行きたいと言うなら止めませんが、どうして俺なんです? 氷上と行けばいいでしょうが」
「だって、神之倉を差し置いて行くわけにはいかないって言うんだもの」
「なら他の若い衆と――」
「ぞろぞろ連れてくわけにはいかないでしょ。それに氷上が、神之倉と一緒じゃなきゃ行っちゃ駄目だって」
「俺にも仕事があるんですが」
「今日は出かけても全く問題ないって氷上は言ってたわよ?」
「……」
 諦める気はないらしい蒔麻は、神之倉の提案をことごとく却下していく。
 氷上でなければ自分が蒔麻のそばにいるのが確かだとは神之倉も思う。仕事も急ぎのものはないし、会合や人と会う約束も今日はない。
 しかし、問題は蒔麻の目的地だ。
 こんな稼業で、ガラで、どの面さげて行けというのだ。小学校の運動会に。
 運動会。あまりに懐かしすぎる名称で、何故だか恥ずかしくすらある。
「ほら、着替えも氷上が用意してくれたから、一緒に行きましょ」
 言って、蒔麻はソファの上の大きな紙袋から取り出した服を広げて見せた。
 氷上の完全サポートでここまでお膳立てされては、もう断りようがない。
 神之倉はゆっくりと息を吐き出して眉間の険しさを緩め、蒔麻が差し出した服を受け取った。

 目的地から少し離れた場所で運転して来た佐伯ごと車を帰し、神之倉は蒔麻と連れ立って歩き出した。
 ゆるやかに波打つおろした髪に、体にフィットしたカットソーとジャケットにローライズのパンツ姿の蒔麻は、もともとすれたところがなかったこともあるが見事に堅気の女に見える。一見しただけでは誰ひとり、極道の女とは思わないだろう。
 氷上が神之倉に選んだのは、黒のコットンパンツに同じく黒い天竺編みのニットシャツ、上着はチャコールグレーのフード付きジャケットコートという、いつもの神之倉からは想像しにくいラフな服装だった。
 髪は手ぐしでかき上げる程度のスタイルにとどめて度の入っていない縁なしメガネを掛けているので、カジュアルな服装と相俟って普段より幾分柔らかく見えてはいる。
 しかし、それでも生徒の関係者には見えないだろう自信が神之倉にはあった。
「ねえ、ちょっと若作り過ぎかしら?」
 ふと、蒔麻が恥ずかしげに尋ねて来る。
「いいえ」
 神之倉は即答した。見た目に無理がまったくなければ若作りとは言えない。以前は和装が似合うことが意外なほどカジュアルな服を好んで着ていたのだ。違和感はまったくなかった。
「俺のほうこそおかしくないですか?」
 一方、この数年は極々たまの休日と寝るとき以外ほとんどスーツでいた神之倉は、久しぶりの私服が心許ない。
 だが蒔麻はすぐに首を横に振って微笑んだ。
「全然。氷上が選んだ服が神之倉に似合わなかったことないもの」
「しかし――部外者が校内に入ってもいいもんなんですか?」
 学校内と歩道を隔てるフェンスに目を遣り、神之倉は話題を変えた。
 近頃の学校は、関係者以外の侵入に神経質だ。入口近辺に監視カメラを付ける公立校も増えている。
「なんでも最近は行事を見に来る父兄も減ってるから、親類や父兄の友人ならどうぞいらして下さいって方針らしいわよ」
 答えはすぐに返って来た。格の母親の東子とはとても気が合うようで個人的なやり取りも頻繁に交わしているらしく、神之倉の知らない格の学校のことなどに蒔麻はずいぶんと詳しい。
「…それで蒔麻さんと俺の役柄は?」
「格くんには申し訳ないけど、東子ちゃんの友達カップルってとこかしら」
「カップルですか」
「ごめんね…?」
「大丈夫ですよ」
 すまなそうに見上げて来た蒔麻に、神之倉は笑い返した。
 一緒にいる程度の芝居で妬くような格ではない。むしろ、神之倉に向かってその役を替われと言い出しかねない。
 外出の多い神之倉とより、事務所にいる蒔麻とのほうが会っている時間も長く、仲も良いのだ。
 そうこうしていると、
「蒔麻さーん、士朗さーん」
 若い女の声が神之倉と蒔麻を呼んだ。
 顔を上げ声の主を探すと、校門を目指して歩む2人に向かって手を振っている女がいた。
 淡いスカイブルーのパーカーにロールアップジーンズ、大きなトートバッグを肩に掛けて駆け寄って来る姿は、いつもより派手さはないがいつも通りに若々しい。
 2人の元に辿り着いた東子は、破顔して神之倉と蒔麻の腕を取った。
「おはよう士朗さん、蒔麻さん」
「おはよ、東子ちゃん。もう始まってる?」
「いま開会式やってるとこ」
「おっきなバッグねえ。何が入ってるの?」
 蒔麻が東子のバッグに興味を示して問い掛けた。東子は笑って、バッグの中から望遠仕様のデジタル一眼レフカメラを取り出した。
「いつもは小さいデジカメなんだけど、今日は近くから撮れないからおっきいのにしたの」
 何だか意外な気が神之倉にはした。確かに東子は溺愛といってもいいほど格を可愛がっているが、行事となれば相好を崩してやたらめったら写真を撮りまくるタイプには見えない。
「ダンナ様仕込みだから結構上手いのよ、あたし。マニュアルの一眼レフも使えるし」
 格が生まれる前に亡くなっている東子の夫はカメラマンだった。なるほど、本格的に撮るのが好きだとなれば解る。格によると、凝り性なのだそうだ。いまはアロマオイルに凝りまくっているらしい。
「ずっと撮り溜めてるの?」
「秘蔵アルバムもあるよー」
「…格くんの、だよね?」
「もちろん」
「――見たい!」
 笑って頷いた東子に、蒔麻が目を輝かせて胸の前で両手を組んだ。
「肖像権は格にあるから、格がいいって言ったらいいよ」
「絶対OKもらうわっ」
 近くを通り過ぎた通行人が振り向くほどの勢いで、蒔麻は力強く宣誓した。すっかりテンションの上がっているその両肩を、落ち着けと叩いた神之倉を蒔麻が振り返る。
「もう始まってるんでしょう。アルバムより先に動いてるのを見たらどうです」
「あっそうだ、そうよね! 急がなきゃ」
 蒔麻は手を打って、東子とともに足早に歩き出した。
 先に立って進む背中を見ながら、神之倉もゆったりと後を追う。
 しかし、校庭に足を踏み入れるなり、神之倉は蒔麻を促したことをいささか後悔した。
 白い体操服の群れ、手足の細い子供たち、翻るハチマキ――そんな光景を眺めている、ひどく場違いな自分。
 現代ヤクザらしく見た目だけは繕ってみたところで、泥水に浸かっていることに変わりはない。堅気の、それも子供の世界は最も遠い場所だ。
 蒔麻も多少は浮いているが、それは子持ちに見えないからだ。それでも生み育てることが可能な女性ゆえに男ほど子供が遠くないものだからだろうか、場違いというほど場にそぐわなくはない。
「あ。いた」
 蒔麻が小さく声を上げて神之倉の袖を引いた。
 前後して、格のほうも神之倉らに気付き目を見張った。
 今朝になって連れ出された神之倉だけでなく、蒔麻も見に来ることを伝えていない。なおかつ、一家の組長と若頭がお忍びで運動会見物だ。さすがに格も驚きを隠せないようだった。
 その格が、移動とともに視線を逸らした時、神之倉は微かな違和感をおぼえた。なにか、怒っているような拗ねているような雰囲気だったのだが、東子も蒔麻も何も言わなかったので気のせいかもしれない。
 ごく一部の見物人の居心地の悪さを置き去りにして、さっそく競技が始まった。
 玉入れ、綱引き、棒倒し――さほどやる事に変化はないようで、神之倉の遠い記憶の中の運動会と似たようなものが目の前で展開されている。違う事といえば、昔より生徒の数が少ないことくらいだ。
 ハチマキの色が3色あり、格は白を巻いていた。クラスごと縦割りで色別で競う形らしいが、生徒の待機位置は学年ごとになっている。6年生は保護者用の観覧席から一番遠い。
 同じ年の子供と一緒にいる格を、神之倉は初めて見た。盛り上がって騒ぐ姿もはしゃぐ様子も年相応のものだ。そして同時に、年齢より早熟なことも再認識した。
 格よりもさらに大きな生徒も数人いるが、全体の中では長身の部類だ。まだ手足は細く少年のものだが、ふとした瞬間にひどく大人びた表情を浮かべ、身にまとう空気が周囲から浮き上がることがある。
 ほんの僅か、それも長い時間ではないので、周囲も本人も気付いていないかもしれない。しかし、何か違うものを見て感じている時があるようだ。
「神之倉? どこ見てるの?」
「――え?」
 突然問い掛けられて我に返り、神之倉は顔を上げた。それほど長時間ではなかったが、ぼうっと考え込んでいたらしい。
「格くん、次だよ」
 見ると、何の競技だか分からないがスタート待機列のいちばん前に格がいる。
 どこか違うところを見ていたのは自分のほうだったようだ。神之倉は苦笑しつつ、いつの間にか組んでいた腕を解いた。
 前の組の結果を見ながら、格がスタートラインに移動した。学校行事の常なのか、次の組のスタートまで間がない。神之倉が格に目をやって1分と経たずに競技用ピストルが鳴った。
 さほど力を入れているように見えない伸びやかなストライドで目の前を格が走り抜ける。そして、トラックの中ほどに置いてある折り畳みテーブルの前で立ち止まり、何かを取り上げた。
「徒競走じゃなかったのか?」
「ホントにぼーっとしてたのね。大丈夫? 疲れてる?」
「大丈夫です。すいません」
「借り物競争よ、士朗さん」
 カメラを手にした東子が振り返って教えてくれた。その向こうから、格が真っ直ぐに駆けて来る。それに気付いた東子が首を傾げた。
「あれ? カメラとか書いてあったのかな?」
 東子の疑問に誰かが答えるより先に、格は観覧席の前まで辿り着いた。そして蒔麻に向かって手を差し延べる。
「蒔麻さん!」
「私?」
「早く」
 促され、蒔麻が格の手を取った。
 手を引かれ、蒔麻がグラウンドと観覧席の境界線であるロープを飛び越える。
 そして2人は、手を繋いだまま駆け出した。
 コースを引き返す形で観覧席までやって来た格が不利かと思われたが、ほぼ同時に目的の物を探し出した生徒にすぐに追いつき、抜き去っていく。後続を10メートル近く引き離し、2人は余裕でゴールに飛び込んだ。
「蒔麻さんて、もしかして走るの得意?」
 構えていたカメラを下ろした東子が、神之倉を振り返った。
「格、けっこう早いほうなのよ。でもそんなに足ゆるめてた感じしなかったけど」
「中学、高校と陸上部だったそうですよ」
 昔から、性格も動作も小気味好い女だった。古賀沢に来たばかりの頃、氷上が教えた護身術をそれほど時間をかけずマスターしたくらい、運動神経はいい。
「見て見て士朗さん、良い画撮れたよ」
 東子が、神之倉にカメラの液晶画面を見せた。走り出したときの後ろ姿と、ゴールの直前の楽しげな2人の表情が写っている。
「…格、背が伸びました?」
 2人並んでいる画を見て神之倉は尋ねた。今日は踵の低い靴を履いている身長165センチの蒔麻とほとんど変わらない。春の時点で161センチだと言っていた記憶がある。
「先月、165センチ超えたって言ってたよ。あの子の父親がおっきい人だったから、中学上がってからまだまだ伸びるんじゃないかなあ」
 そういう東子は150センチ台後半だ。格と東子が親子に見えないのは、そのあたりにも要因がある。
 まだまだ少年の細さを残していても、比較対象物が同年代の子供や女性だと背丈の印象のほうが当然強まる。そして中身はずいぶんと大人びていて、蒔麻の手を引く様も力強い。
 ことさら子供扱いはしていないつもりだったが、週に何度か顔を合わせていて、神之倉を見れば嬉しげに抱きついてくる無邪気さに、日々成長していくということを失念していたのかもしれない。
 いまはまだ、力では圧倒的に神之倉のほうが上なので余裕もあるが、この先ずっとその力関係のままだという保証はどこにもない。
「油断ならねえなあ…」
 神之倉は小さく呟いて苦笑した。
 どうやら、今の競技で午前の部は最後だったらしい。アナウンスと共に、生徒達はぞろぞろと校舎へと移動して行く。
 そんな中、上機嫌で蒔麻が帰って来た。
「ただいまー。気持ちよかったあ。久しぶりに走ったわ」
「大丈夫? 疲れてない?」
 蒔麻を送ってきた格が、隣りの蒔麻を見遣る。
「ありがと。大丈夫よ」
 格の気遣いに、蒔麻は柔らかく微笑んで首を振った。そして、神之倉の差し出した手を借りてロープを越え、観覧席へと戻る。
 格はそれを見届けて踵を返した。
「じゃあな。午後一で応援合戦やっから見逃すなよ」
「応援合戦? 格くんも出るの?」
「出るよ」
 答えを返して、格は歩き出した。
「あ、そうだ! ねえ、さっきの借り物競争、なんで私だったの? なんて書いてあったの?」
 どうやら、わからないまま走らされていたらしい。しかし失格にはなっていないようなので、指示通りのものを選んだのは確かだ。
 数歩進んだところで呼び止められた格は、蒔麻を振り返って微笑んだ。そして、
「“美人”って書いてあったんだ」
 さらりと言い置いて、校舎に向かって走っていった。
 呆然と見送った蒔麻が、ややあって深いため息をつく。
「……あれで小学生ってある意味サギよ、東子ちゃん…」
「ん〜…あたしも幾つであの子を生んだんだか判らなくなるときがたまにあるわ」
 手のひらで両頬を抑えて訴えた蒔麻に、東子は笑ってそう返した。
 本当に、油断ならない。
 神之倉は苦笑を噛みしめて、格の背を見送った。

 東子が昼食を用意してきたというので、学校の近くの大きな公園に移動してレジャーシートを広げた。
 晴れ渡った穏やかな日曜日の公園で弁当を広げるなどこれまた場違いなことこの上ないのだが、この期に及んでいまさらかと状況を受け入れて神之倉は腰を下ろした。場違いすぎて、同業者が通りかかっても、誰も古賀沢の組長と若頭だと気付かないだろう。
「これ全部東子ちゃんが作ったの?」
 東子がバッグの中から取り出した、おにぎりやら鶏の唐揚げやら卵焼きやらといったオーソドックスな“お弁当”に舌鼓を打ちながら、蒔麻が尋ねた。
「うん、あたし。格のお弁当と中身同じだから大人向けじゃなくってゴメンねー」
「美味しいよ。家庭のお弁当って仕出しのお弁当にはないあったかさがあるわよね」
 幼い頃から施設で育った蒔麻は家庭というものと馴染みが薄いだけに、一層あたたかく感じるのだろう。神之倉にしても、親が我が子のために作った弁当というものを久しく食べていない。
「よかったー。寝ないで作った甲斐があったわ」
「え? 一晩中作ってた――わけじゃないわよね? ひょっとして昨日も仕事だったの?」
「うん。今日も遅番で入るよ」
「どっちか休めなかったの?」
「昨日も今日も、大事なお客さんの予約が入ってたから」
 銀座のクラブの売れっ子ホステスである東子は、夜間働いて朝帰宅するという生活を何年も続けている。
 基本的に土日祝日は休みだが、休日であっても何らかの理由で常連客が店を貸し切ったりすることはある。その際、どうしても東子をという客を蔑ろには絶対にしない。だからこそ客と店からの信頼が篤く、店側も学校行事や面談などで臨時の休みが欲しいという時には快く応じてくれるのだ。
「大丈夫! 心配しないで、体力には自信あるのよ」
 蒔麻の表情が曇ったのを見て、東子は明るく言った。そして、これが鮭、これが昆布と、ラップに包んだおにぎりを勧める。
「明日は格もあたしも休みだから、明日家に帰ってから格にマッサージしてもらう約束してるの。朝からゆっくり好きな入浴剤をいれたお風呂に入って、お気に入りのアロマオイルの香りの中でマッサージしてもらって――優雅でしょ?」
 そう言って、東子は朗らかな笑顔を見せた。
 いまの仕事を天職だという東子は、仕事自体を厭うことはない。もちろん腹の立つ嫌な客もいるのが客商売の常で愚痴を洩らすこともあるが、それでも辞めようとはしなかった。
「……ずっと聞いてみたかったんだけど」
 ふと呟いて、蒔麻が東子を見た。
「格くんのこと、どういう風に育ててきたの?」
「どうって?」
「あんな子、そうはいないもの。私にも格くんみたいな息子がいたらなあって思うわ」
 蒔麻が女房になって10年で、古賀沢組三代目組長・古賀沢竜彦は他界した。竜彦と蒔麻との間には、1人も子がいない。
 生ききって死んでいった男だが、子供が出来なかったことが竜彦の唯一の心残りかもしれないと、神之倉は思っていた。組員をさしてこんなにたくさん息子がいて大変だと笑う蒔麻にしても同じだろう。
「……どうって…何も特別なことはしてないと思うんだけど――」
 東子は顎に指先を当て、宙を見上げて考え込んだ。
「そうだなあ……和史からもらったものを全部伝えたいとは思ってるけど」
「かずし?」
「あたしのダンナさんで、格のおとうさん」
 フリーカメラマンだった、格が生まれる前に死んだ父親。神之倉も蒔麻も、格から聞いていてその存在は知っている。
「格には全部話してあるから少しは聞いてるかもしれないけど、あたしの両親ね、あたしが子供の頃に病気で死んじゃってるのね」
 親戚がいないという話は格から聞いていた神之倉だが、その理由までは聞いていない。蒔麻も同様だったらしく、驚いた顔をしていた。
 東子は淡々と話し続ける。
 母親が6歳の時、父親が8歳の時に相次いで病死し、唯一の親戚だった父方の叔父の家に引き取られた。しかし、そもそも父と叔父とはほとんど音信不通状態だったらしく、叔父一家とは折り合いが悪いという言葉では片づけられないほど、東子は常に孤立していた。
 中学校に進学して1年ほど経ってからは、知人の家を泊まり歩き家に戻ることも少なくなった。学校には時折行くこともあったが、教師は東子が叔父宅に帰っていないことを知らず、叔父夫婦も東子を連れ戻そうとはしなかった。
 そしてまったく叔父宅に戻らなくなって半年後。ひと回り年上のカメラマン、榎本和史と出会った。
「最初はね、野良猫拾うみたいにあたしを拾ってくれて、家の隅においてくれて」
 人間不信から警戒を露わにする東子を、和史は放っておいた。そして、かまいも突き放しもせず、ただ無防備に背中を見せた。
 その背を見ているうちに警戒心は少しずつ薄れ、言葉を交わすようになり、やがて打ち解けて、居候生活が共同生活に変わった。
 勉強を見てもらい、共に家事をし、仕事を手伝い、植物や生き物を育てる。劇的なこともない繰り返しの日々。
 そして数ヶ月を経た時、同情は愛情に変わっていた。
「単なる日常生活があたしには新鮮で、とても大切な時間だったの。そんなあったかさがあることなんて、ずっと忘れてた」
 物心ついた頃にはもう母親は入院していて、父親は仕事と看病で忙しく、あたたかい記憶があまりない。だがそれを、和史と暮らすことで東子は思い出した。そして、一人きりだった数年間を埋めてあまりあるものを得た。
 現在の東子に、荒んだ孤独の影はない。事細かには語られなかったが、13、4歳で帰るべき家を持たなかった生活は、真っ当なものではなかっただろう。
 神之倉にも蒔麻にも、かつての東子の孤独が理解できた。
 2人とも東子と同じく、帰る場所はあったが、その場所は他人がいて屋根があるだけのものだった。
 だから、擬制であっても竜彦という“親”を得た神之倉は地に足が着いたように思った。そして蒔麻も、竜彦という伴侶と彼を“親”とする“大家族”を得たとき、心から嬉しく思った。
「特別な人じゃない、普通の人。仕事道具以外は呆れるくらい散らかしっ放しで、気にいった被写体見つけるとすぐふらふら脇道に逸れるし、思い立ったら事後連絡で泊まりがけの撮影旅行に行っちゃうし、ピーマン大ッ嫌いで、細かくしてこっそり混ぜてもすごく怒られたし。ただ、当たり前の幸せを教えてくれて、いっぱい愛してくれた。格も遺してくれた。和史と会えなかったら、人間が嫌いで、信じられなくて、誰も愛せないまま生きてたと思うから、すごく感謝してる」
「――――」
 過去形で語られるいまはもうこの世にいない男の話に、竜彦を亡くしたときのことを思い出したのか、蒔麻が自分の肩を抱いた。
 耐え難い悲しみと絶望――神之倉と氷上は、竜彦を亡くした時の蒔麻をすぐそばで見ていた。それを10代で、しかも妊娠中に体験した東子の悲嘆はいかばかりだろう。
「あの日、雪が降ってたのを覚えてる。眼球が溶けるんじゃないかってくらい泣いたけど」
 沈黙している蒔麻の表情で察したのか、東子はことさら明るく言って空を見上げた。
「泣き疲れてぼうっとしてたらこう…お腹の中の赤ちゃんがもぞもぞ動いてるのが判って――それでね、後ろ向きなこと考えるより先に、もう開き直るっきゃないじゃんって思ったの。あたしが不安な気持ちでいたら、きっとこの子も不安になる。あたしが強くいられたら、この子も強くなれる。この子と、あたしの中に残ってる和史のくれた大事なものがあれば大丈夫だって、本気で信じたらここまで来れた」
 神之倉と蒔麻に視線を戻した東子の明るい笑顔に嘘はない。
 年齢こそ若いが、自分の足で立って生きてきて、守るべきものを守ってきた自信がその瞳にはあった。
「18歳になるまでなかなか働き口がなかったのは大変だったけど、助けてくれる友達もいたし、いまの仕事はじめてからは余裕もあるし。なにより格がいるから、全然辛くなんてないの。だから深刻に考えないでね?」
 笑いかけた東子につられて、蒔麻の口元も少しほころんだ。
「ごめんなさい、話逸れちゃった。ええっと、だからね、あたしが和史にもらった幸せや愛情をぜんぶ格に伝えたいと思って。一緒にいろんな事やって、いろんな場所に行って、めいいっぱい抱きしめて、あの子にはいないおじいちゃんやおばあちゃんや兄弟や――和史の分まで愛してるって言って」
 神之倉は、なぜ格と東子が欧米人並みにスキンシップ過多なのか、やっと心底理解した。
 東子が照れもせず愛情表現の一環としてずっと繰り返してきたので、そう育てられた格もストレートに愛情を表すことに慣れている。
 そして格が不安も恐れも乗り越えて神之倉に想いを伝えてきたのは、大切な近しい人を失うことを知っていて、想いは伝えられる時に伝えるべきだと東子を見ていて思っていたからだろう。
「あとは――痛いこととか苦しいこととかを、隠したり遠ざけたりしないようにしてるかな。辛いことを知らないで済むように守るより、辛くても転んでも自力で立ち上がれる子でいてほしいから。やっぱり、自分で経験してないと解らない事ってあると思うし」
 東子の言葉に、神之倉と蒔麻は頷いた。
 痛みと苦しみを知っている人間は強くも弱くもなりえるが、知らないでいるよりはずっといい。経験することで得たものは、いずれ何かの役に立つ。
 もっとも、色事に関しては教え過ぎだと思わぬでもない。
「手探りで無我夢中だったけど、いまのところは結果オーライ…かな?」
「上出来だわよ、東子ちゃん」
「そうかな? たぶんこれが絶対に正しいっていうのはないと思うし、誰も褒めてくれる人いなかったから――褒められたくて格を育てて来たわけじゃないけど、やっぱり嬉しいわ」
「私でよければいくらでも褒めちゃうわよ?」
「ありがと蒔麻さん」
 礼と共に、東子はにっこりと笑った。
 ありがとうと言いたいのは蒔麻の方かもしれないと、微笑む横顔を見ながら神之倉は思う。格の存在は、蒔麻の心を和らげる。蒔麻もそれを自覚している。
「そろそろ戻らなきゃね。応援合戦始まっちゃう」
 東子は携帯電話で時刻を確認し、広げた荷物を片付け始めた。
 格が見逃すなと言っていたが、何をするのだろうか。
 片付けを手伝いつつ思い浮かべた神之倉の疑問に気付いたのか偶然か、目が合った東子がにっと笑った。
「テーマは“硬派”なんですって」
 硬派な小学生?
 ますます予測のつかないキーワードに首を捻ったが、ともかく実際に見てみるのが早いと結論づけて神之倉は立ち上がった。


−続−


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