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Vol.4 強さの意味 (5)
「どうだ、首尾は?」
部屋に入るなり、聞き覚えのある声が投げかけられた。
威勢のいい花火の音が、遠く聞こえる夏の夜。
地下から階段を使って2階へと移動した格と佐伯は、組員の詰め所として使われている部屋へ向かった。普段は必ず誰かしらいる事務所内はしんと静まり返っている。詰め所部屋に入った時も、真っ暗で人の気配がなかったため、突然掛けられた声に格は思わず足を止めてしまった。
佐伯の持ったライトが照らし出す声の主の姿に、ほっと息をつく。氷上だ。
「首尾は上々です。追って、若頭もこちらへ」
「そばにいるのは格か? 連れてきたのか」
「はい。若頭のご指示です」
佐伯が返事をしたところで、唐突に視界が明るくなった。闇に慣れた目に突然の点灯は刺激が強く、格は思わず手を翳して目を細めた。
そして、晴れた視界に驚愕する。そこには、いつものスーツ姿の氷上と和服の蒔麻、そして十数人の組員が思い思いの場所でくつろいでいた。
地下とこの場とのあまりに違う雰囲気の差に、格は訝しげに首をひねった。
神之倉は、停電した時にはすでに侵入者の存在を悟っていたように格には見えた。佐伯にも慌てた様子は一切なかった。氷上が気づいていないということはないだろう。それに、事務所内がやけに静かだったのは何故なのだろう。通常、事務所には20〜30人の組員がいるはずだ。
「格。佐伯の後ろから出るなよ。何があってもだ」
「…うん」
状況は掴み切れていなかったが、格は素直に頷いた。神之倉にも、氷上の言うとおりにしろと、佐伯のそばを離れるなと言われている。
「……御一行様のご到着だ」
不意に氷上が呟き、組員達が一斉に動いた。
ソファに座っている蒔麻を囲むように立ち、中でも強面の部類にはいる4〜5人が前面に立つ。氷上はゆっくりと立ち上がって、最前面に出た。
佐伯は、格を連れて居並ぶ組員の後方に立った。組員達の隙間から蒔麻を見ると、すぐに格の視線に気づいた蒔麻は、心配はいらないと目で告げて微笑んでくれた。
「……俺、ここにいてもいいの?」
佐伯のスーツの袖を引き、屈んでくれたその耳に内緒話を囁くようにして格は尋ねた。地下の様子、そして雰囲気が一変したこの場を見て、邪魔になるのではないかと思ったのだ。しかし佐伯は、笑みを浮かべて答えた。
「ここを離れるわけにはいかない俺に頼むと若頭は言われたんだから、ここにいてもいいということだよ」
たしかに、氷上もこの部屋から出ていくようにとは言わなかった。格は戸惑いながらも頷いて、部屋の扉へと意識を移した。廊下を走る、慌ただしい音が聞こえる。
さほど待つまでもなく扉は開き、そこから数人の男が転がり込んできた。
「わ、うわ…!」
最初にたたらを踏みながら入ってきたひとりが、待ちかまえていた強面集団に驚いて声を上げた。それにあとから続いた男が激突し、停滞した前の2人に怒鳴りかけた後続が部屋の中を見て絶句する。続いて背後を振り返りながら部屋に入ってきた2人は、前の3人より落ち着いた反応だったが、それでも見るからに表情が険しく歪んだ。
そして、それを追うようにしてゆっくりと神之倉が現れた。
「おう、お疲れ」
「…肩慣らしにもならん」
氷上のねぎらいの言葉に神之倉は嘆息して、両手に1人ずつ引きずるようにして連れてきていた2人を固まっている一団に向かって放り投げた。2人はバランスを崩して倒れ込む。
「……さて」
扉の前の神之倉、そして窓側の氷上が、異口同音に呟いた。
挟まれた形の侵入者たちは、双方に視線を動かしながら身構えた。だが、2〜3人は完全に戦意を失っている。
「組長? いかがです?」
「…間違いないわ。この中の3人が、先月私の前でひったくりした子達よ」
いつの間にか氷上の傍らに出てきていた蒔麻が、ため息を洩らしつつ頷いた。
それを聞いて、格もやっと思い出す。そういえば、見た覚えのある顔がある。
驚いたのは、一団の若さだ。格はてっきり、他の組の殴り込みか、以前聞いた小野田という男に関係する者かと思っていたのだが、全員若い。どう見ても10代にしか見えない者もいる。
「……で? 意趣返し?」
「…っのアマ…ッ」
「ふざけるな小僧!」
「四代目の質問に答えんかッ」
一団の中で唯一余裕がうかがえる男が、蒔麻に険しい顔を向けた。その彼に、組員から怒号が飛ぶ。しかしそれで逆に腹が据わったのか、男はふてぶてしい態度で鼻で笑った。
「女が組長かよ。ダッセェ」
「なんだとぉ!?」
「このガキがァ!」
組員達が表情をさらに険しくして、数人が足を踏み出した。神之倉と氷上、そして佐伯は眉ひとすじ動かさず、その様子を見守っている。
蒔麻は、殺気立った組員達を片手を軽く掲げるのみで制し、氷上の影から一歩踏み出した。
これまで見たことのない古賀沢組四代目組長である蒔麻の姿に、格は見蕩れてしまう。
柔らかく微笑む顔も、格の肩を借りて眠っていた顔も蒔麻のものに違いはないのだが、一家を背負って立つ迫力を身にまとった蒔麻もまた艶やかで美しい。
「名前は?」
「……」
「名前は?」
「――――」
「名前、は?」
「…ッうるせえな! 答える必要あんのかよ!」
「なまえは?」
声の高さも調子もほとんど変えずに同じ問いを繰り返した蒔麻に、男が言葉に詰まった。後退もせず媚びもせずにいまだ虚勢を張っているが、気持ちが飲まれかけている。
果たして男は、シニカルな笑いを絶やさず面倒くさそうな口調のままだが、「武田」と名を告げてしまった。
「後ろの子は?」
続けて蒔麻は問い掛けたが、全員場の雰囲気と蒔麻に飲まれてしまっていて、声もない。
辛うじて1人だけが「有藤」と小さな声で答えた。
「武田くんと有藤くんね…。ま、いいわ。それで? ひったくりを一度阻止されたくらいで仕返し? 執念深いのね」
「…ふん」
武田はまたも鼻で笑って答えない。その態度に再び踏み出しかけた者が数人いたが、蒔麻が一度制したからか、皆一様に踏みとどまって沈黙を守る。
見るからに血の気の多そうな男達が蒔麻の命令には逆らわない姿に、格は感嘆のため息をもらした。そして、動じる姿を一切見せない神之倉や氷上にも。
「ひったくりなんてやめなさいな」
「うるせえな。ヤクザに言われる筋合いねえよ」
「どうしてああいうことをするの?」
「ヒマだから」
武田は、すっかり蒔麻のペースに乗ってしまい、尋ねられるまま答えてしまっている。だが、自分でそれに気づいていないのか、口元には笑みを浮かべたままだ。
「働けなんて真っ当な説得をする気はないけど、お年寄りや女子供を襲うことはないんじゃない?」
「そのほうが手っ取り早く簡単に金が手に入るだろうが。馬鹿かオマエ?」
「ここへ来たのもお金のため?」
「なんでオマエにそんなこと答えなきゃならねえんだよ」
「それもそうね。でも、500万円の身としては聞く権利はあるんじゃない?」
蒔麻の言葉に、それまで不遜な態度を崩さず物怖じせずにいた武田の表情が変わった。
「――なんで、それ――」
「手付けで20万、成功報酬が30万、組長に危害を加えることが出来たら100万上乗せ――でしょ?」
「てめえ…ッどうしてそれを…!」
武田の動揺が、彼の仲間達にも広まった。戦意を失っていた数人は不安げに顔を見合わせ、まだ立っている数人も青ざめた顔をしている。
「わざと泳がせてたっていうんじゃねえだろうな…?」
「……彼、見覚えあるでしょ?」
長いまつげが縁取る蒔麻の瞳が扉のほうを見た。いつの間に来たのか、神之倉の隣にそれまでこの部屋にはいなかった五十がらみの男が立っていた。
「……ッ!」
男を目にした武田の顔色が初めて変わる。青ざめた顔で蒔麻を振り向いたその顔は、怒りにも染まっていた。
「罠か…ッ」
蒔麻の唇が、魅惑的な笑みを形作る。
勝負あったな、と格は思った。
「やりようはいくらでもあったんだけどね、生憎こちらも忙しいのよ。それで、わざわざお越し願ったというわけ」
「…の野郎……ッ」
「私、野郎(おとこ)に見える?」
獰猛に唸る武田をあっさりと無視して組員に問い掛けた蒔麻に、組員一同がどっとわいた。
顔を真っ赤にした武田がギリギリと歯ぎしりをする。その右手が、手にしていた鉄パイプを氷上に向かって投げつけ、同時に床を蹴った。
「タケ!」
「四代目!」
武田の意図をいち早く察したらしい有藤と、武田の行為を目にした組員たちが声を上げた。
氷上が鉄パイプを受け止めた隙に蒔麻の元に駆け寄った武田は、蒔麻を捕まえてその体にナイフを突き付けていた。
「動くな。大事な組長サンをぶっ殺されてもいいのか?」
形勢逆転に、武田の唇にシニカルな笑みが蘇る。
格は慌てて佐伯を見上げ、氷上と神之倉に順に目を遣った。
佐伯は緊張を表に出していたが、神之倉も氷上も表情を変えていない。冷静さを装っているのか、本当に冷静なのか、格には判別がつかなかった。ただ、蒔麻が心配で気が焦る。
「タケ、やめよう。もう無理だ」
「うるせえ! 早くそこらの奴から銃取ってこい!」
有藤の言葉を、武田は聞こうとしなかった。有藤は神之倉を見て、氷上に視線を移した。氷上は武田の投げつけた鉄パイプを持ち、神之倉はどこかで木刀を捨てたのか素手だ。
有藤は迷った末に、神之倉のほうへ足を踏み出した。
「刺してみろ」
ふいに、神之倉が言った。
そして、ゆっくりと蒔麻を抱えた武田に歩み寄っていく。気圧された有藤が後退った。
「やってみろ。…出来るならな」
格の見たことのない不敵な笑みを浮かべた神之倉の言葉に驚いて氷上を見るが、氷上の表情は変わらないままだ。表情を変えたのは、武田のほうだった。
「…ちくしょう……ちくしょう…ッ!」
低く繰り返した武田の手に力が籠もった。そして、反動をつけるように手にしたナイフを引く。
刹那、氷上の足が武田の手に向かって飛んだ。強かに蹴り上げられた手からナイフが飛び、武田が腕を緩める。その瞬間、緩んだ腕を蒔麻が肩越しに抱え込んだ。
武田の体はきれいに弧を描いて宙を舞い、蒔麻によって床に叩き付けられた。
見事な一本背追いに、格の表情が安堵に緩み、笑みが浮かんだ。
氷上が飛んだナイフに歩み寄り、足先で器用に蹴り上げて手で受け止める。そして、うずくまる武田を振り返った。
「ナイフを突きつけたら引くんじゃなくて押し込むもんだぜ、坊や」
痛烈な皮肉に、武田の体がぶるぶると震えた。
「……ッじゃあやってやるよ…!」
叫んで体を起こした武田の手には、さらに隠し持っていたらしい新たなナイフが握られていた。唸り声を発して駆け出し、走りながらナイフを振り上げる。
不意を突かれて立ち竦んでいる蒔麻は動けない。格は声も上げられず息を飲んだ。
次の瞬間、格の視界に神之倉の姿が飛び込んで来た。そして、赤い霧状ものが飛散した。
全員が驚き、その場に立ち尽くす。
蒔麻と武田との間に飛び込んだ神之倉の顔の左半分が血にまみれ、その血がぽたりと床に落ちた。
「若頭!」
組員たちが、口々に神之倉を呼んだ。
しかし神之倉は、駆けつけようとする組員を手を翳して止め、右目だけで武田を見つめた。
「あ…うわ……ッ」
武田が譫言のように呟いて、初めて後退った。顔には怯えの色がありありと浮かび、見るからに動揺している。
一方神之倉は、流れる血を意に介さず、何事もなかったかのように立っている。
「…血を見たのが初めてというわけでもないだろう? 何を怯える?」
問い掛けられた武田はカタカタと震え、答えることも出来ない。神之倉は、ことさらゆっくりと武田との距離を詰めた。
「ああ…明るいところで見たのは初めてか?」
「く、来るな…」
武田の訴えにも、神之倉の足は止まらない。歩みがゆったりしているだけに、靴音と共にじわじわと恐ろしさが募っていく。
「やめ…ッ」
後退り続ける武田に向かって、神之倉は無造作に右手を振り上げた。左肩の上方から、緩く握った拳を武田の顔へと振り下ろす。
右頬に叩き付けられた裏拳に、武田の体が大きく揺らいだ。
胸倉を引っ掴んでその体を無理やり立たせた神之倉の口許に薄く笑みが浮かんだが、右目は全く笑っていない。
「一家の頭を狙ったんだ。当然、覚悟はできてるな?」
淡々とした恫喝に、武田の顔が青さを通り越して白くなる。
そして、誰ひとり動かず声も上げない中、たった1人だけが動いた。
「や…ッやめてください…!」
叫ぶように嘆願しながら、神之倉に縋ったのは有藤だった。
「すいませんでした! もうしませんから、そいつにもよく言って聞かせますから、だから…ッ」
「やかましい!!」
部屋の壁が震え、その場の全員が首を縮めるほどの大喝を発し、神之倉は有藤の必死の訴えをその体ごと退けた。振り払われた有藤は、殴られたに等しい衝撃と共に飛ばされ、床に尻餅をつく。
「なんの覚悟もできないなら、極道に喧嘩なぞ売るな」
低く、むしろ静かともいえる口調であるのに、その声を浴びた侵入者たちはがっくりとうなだれ、武田はへなへなとその場に崩れ落ちた。
「そこまでよ」
数秒間の沈黙ののち、いつの間にか氷上の傍らに戻っていた蒔麻が、手を軽く2回打ち鳴らして終了の合図を出した。
「もういいわ」
蒔麻が言うまでもなく、神之倉はあっさりと武田の前を離れていた。
氷上の指図で武田らに向かって行く組員たちとすれ違うようにして、真っ直ぐに歩いて来て蒔麻の前に立つ。
「怪我は?」
「なんともないわ。神之倉こそ目は――」
「大丈夫、眉の上ですから」
そう言って神之倉は笑った。
佐伯のそばで不安を押し隠して様子を伺っていた格は、平然としている神之倉にほっと息をつく。知らず握り締めていた手は、汗ばんでいるがひんやりと冷たい。
傷の具合を確かめた氷上が、蒔麻に向かって頷いて苦笑を浮かべ、張り詰めた蒔麻の表情が緩んだ。そして帯の隙間からからハンカチを取り出し、神之倉の傷に手を伸ばす。
「汚れますよ」
「あなたの血だもの。汚れなんかじゃないわ」
きっぱりと言い切られて、神之倉はおとなしく蒔麻のするに任せた。蒔麻は、白いシルクのハンカチで躊躇いもなく血の滲む傷口を押さえる。
「演技派ね、神之倉。ちょっと脅かし過ぎじゃない?」
「いいんですよ、あれくらいで」
小声で問い掛ける蒔麻に、神之倉は微笑んで見せた。氷上も頷いて、
「足りないくらいですよ。近頃のガキはガツンとやられなきゃわからんでしょう」
「トラウマになっちゃわないかしら?」
「もうこの世界には近寄りたくないと思うようになったほうが、ある意味幸せだと思いますがね」
どうやら、大方が計算尽くの展開だったらしい。ひそひそと交わされる3人の会話に、格は脱力した。
力が抜けてやっと、指先にぬくもりが戻って来る。動けるなら出来ることをしなくてはと、格は顔を上げた。
「救急箱、あるかな?」
そばの佐伯を見上げて問い掛けた。格の意図を察したのか、佐伯は微笑んで頷く。
「隣の部屋にあるよ。俺も一緒に行こう」
答えた佐伯に頷き返し、格は先に立って駆け出した。
そこに、ヒステリックな叫び声が響いた。
組員に腕を取られた10代後半と思しき1人が、これまでの放心状態から一変して暴れ出す。
「離せぇ! 死にたくねえッ死にたくねえよ!」
「おいおい、殺しゃしねえよ」
「離せ…ッお前のせいだぞ、タケ! お前が」
「お前ら殺してもなんの――コラ、暴れんな!」
「うわああぁ」
組員は必死に押さえていたが、半狂乱で暴れられては手に余る。押しとどめる組員の言うことを聞こうとせず、男は手を振りほどいて走り出した。
「待てコラ…ッ」
「あ!」
止めようとする組員の怒声に、別の組員の驚きの声が混ざった。走り出した男の行く先に、隣りの部屋へ向かおうとした格の姿がある。
振り返った格が目を見開いた。
「格! そこで四方投げ」
「え? あ、っと――」
突然飛んだ氷上の指示に面食らう。しかし、格の体は記憶の通りに自然に動いた。
格に向かって突き出された右手首を軽く取って、引き上げつつ一歩踏み出す。懐に潜り込み、肩越しに相手の腕を捻り上げるようにして大きく振りかぶって切り下ろすように思い切り投げると、バランスを崩していた相手は簡単に仰向けに転がった。
体勢を立て直す隙を与えず、取った腕を軸にして俯せにし、腕と肩を手と膝で固めて極める。男は苦痛の呻き声を上げてじたばたと体を動かすが、格から逃れられなかった。
「よし、合格」
声を掛けられて見上げると、いつの間にか氷上がすぐそばまで来ていた。
「今のでもうひと呼吸早く懐に入り込んで真下に落とすように崩せば、大の大人も投げられるぜ」
「もうひと呼吸…」
格は、頭の中でいま掛けた技の動きを繰り返した。
いちばん実戦的だろう空手を教えてくれると思っていた格の予想に反して合気道を教えてくれた氷上の真意が、やっと解った気がした。
この20日間、何度も繰り返した技だったとはいえ、体格差や腕力の差があっても相手の力や体の構造を利用して技を掛けられる合気は、いま現在の格にはたしかに向いている。
「基本、だろ?」
氷上が、そばまで歩み寄ってきた神之倉に視線を遣って言った。
「…だな」
神之倉は苦笑を浮かべて頷いた。そして、格が押さえていた男を立たせて、慌てて近寄って来た組員に委ねる。
「全員まとめて別の部屋に連れて行け。俺もあとで行く」
「はい、若頭」
出された指示に返答し、組員たちは武田らを引き起こした。だが、氷上が神之倉の肩に手を置いて首を振る。
「このあとは下のモンで十分だ。なぁ、佐伯」
「はい。お任せください」
これ以上は神之倉が直々に関わる必要はない小者だと暗に言った氷上に、佐伯も即座に頷いた。
恐怖の楔は十分すぎるほど打ち込んだ。あとは、佐伯がうまく言いくるめて情報を引き出し、今後古賀沢に関わらないよう釘を刺せばいい。
「小島ァ。お前はあとで説教だ」
「は、はい! すいませんっした!」
ひとりを逃した組員は、氷上の言葉に直立不動で答え、恐縮しながら放心状態の武田らを引き連れて部屋を出て入った。ただ1人、最後尾の有藤だけが、部屋を出て行く前に振り返った。
「俺らがいつ来るのか、わかってたんですか…?」
「いや?」
問い掛けに、氷上が答えてやる。
「でも、待ち伏せしてたんじゃなきゃ、こんな――」
「各自の持ち場と役割を決めておけば、いつ来ようと何の問題もない。裏をかいたつもりなんだろうが――まだまだだな」
「……ッ――そうっすね…」
有藤は自嘲の笑みを浮かべて呟き、深々と頭を下げた。
静寂を取り戻した室内に、花火の音が遠く聞こえてきた。
氷上の治療の手際が実に良いことに、少し離れて見ていた格は驚きを隠せなかった。洗浄して消毒した傷をひと目見ただけで、救急箱の中から必要な物を迷わず取り出し、テキパキと手当てをしていく。
「これでOK。縫う必要もなし」
ひと通りの治療を終えて氷上は言った。神之倉の左眉の端を白いガーゼが覆っている。
「増血剤飲んどけよ」
「ああ。――氷上、ちょっと外してくれ」
自分の部屋に戻り、氷上の手当てを受ける間ひと言も口をきかなかった神之倉が、ふいに言った。
氷上は一瞬訝しげな目をしたが、あっさりと頷いて立ち上がった。
「四代目の部屋にいる。あとで来い」
「わかった」
神之倉の返事を背中で受け、氷上は部屋から出ていった。その足音が遠ざかるのを待ってから、神之倉は格に視線を移した。
「もういいぞ、格」
「…なにが?」
「こっちに来い、ほら」
手を差し伸べる神之倉に、格はゆっくりと歩み寄る。差し出された手を取った自分の指先が震えていることに、格はその時初めて気がついた。
その途端、全身の力が抜けて、ソファに座っている神之倉の前にへたり込んでしまった。
「大丈夫か?」
「それはこっちのセリフだろ! 血が、あんな――」
泣き出しそうなのをこらえて、格は神之倉を見上げた。足腰に力が入らず立ち上がれない。神之倉の眉尻を覆うガーゼを目にすると、切りつけられた瞬間の光景が蘇り、胸が苦しくなる。
「もう止まったよ。場所が場所だから出血は多いが、たいした傷じゃない」
格は無理矢理膝を立たせて、まるでなかったことのように平然と返す神之倉の首に腕を回して縋りついた。
「目、ダメになってたらどうしようかと……」
「こら、汚れるぞ」
流れた血液はほとんどスーツが受け止めたが、ワイシャツにも少し染みてしまっている。神之倉は、肩を震わせている格を右側の肩に抱いた。
「……大丈夫か?」
「ビックリしただけ……すぐ治まる…」
「本当に大丈夫か? この先たぶん、同じことは必ずあるぞ」
断定的に言われ、格は顔を上げて神之倉の顔を凝視した。
まだはっきりと思い出せる、神之倉の体に残るいくつもの傷痕。古賀沢の力の象徴である限り、神之倉が傷を負うことはこの先もある。
けれど格には、それを嫌だと言う権利も止める権利もない。
格は腕をほどいて神之倉から身を離し、深呼吸をひとつすると、両手の平で思いっきり自分の頬を叩いた。
バチン!という盛大な音と共にもたらされる衝撃に、しばし目を瞑って耐える。
震えが止まった。
「……大丈夫」
呟いて、格は笑ってみせた。
微笑み返した神之倉は、格の頬を両手で包んでその眼を覗き込む。
「頑丈に出来てるからな、そう簡単にはくたばらないさ。信じろ」
「…ん、信じる」
格は力強く頷いて、もう一度神之倉の首に腕を回した。今度は足にも腰にも力が入り、立ち上がった格を神之倉の腕が己の右膝の上に導く。
「来週末、空けられるか?」
「…うん? どうして?」
「どこに行きたいか、決まったか?」
叶わなくてもいいと思っていたデートの約束を、神之倉はちゃんと覚えていてくれたらしい。
格は満面の笑みを浮かべて、嬉しさを両腕にこめて神之倉を抱きしめた。
――翌日。
古賀沢組事務所は、昨夜の騒ぎの余韻を毛ほども残さす、いつも通りの朝を迎えた。日中もいつも通りに過ぎ、夕方近くなって数人の若い男達が事務所を出て行ったほかは、特別変わったこともなかった。
前日に潰れてしまった予定をこなして事務所に戻って来た神之倉は、氷上の部屋で昨夜からこれまでの報告を聞いていた。
「力だけの関係ほど脆いものはないな」
無謀にも事務所に侵入して来た若者達は、放免となると武田を置いて逃げるように出て行ったという。神之倉は嘆息して呟いた。
「まったくだ。だが有藤って奴だけは、小僧と一緒に出て行ったぜ」
氷上は、事の説明に武田の名を一切口にせず、終始“小僧”で通している。
「有藤か……あいつだけは、少しは見所がありそうだったな」
「ツレの暴走を止められればな。小僧とは小学生の頃からつるんでたらしい」
言って、氷上は煙草に火を点けた。少し不機嫌そうなのは、2階の窓ガラスに加えて地下道場のガラス窓の修復代のためだろう。ケチな男ではないが、無謀な遊びに興じる奴等がいなければなかった出費だ。
ガラスが散っていて危ないという理由で、今日は格の稽古はない。昨日の今日で忙しいだろうからと、格もすんなり了承した。
「ガキども相手に大仰に過ぎたと思ったが、思わぬ魚が釣れたぞ」
「小野田の名前でも出て来たか?」
「いや。だが内海って名前には反応があった」
「内海――小野田の片腕だった内海か?」
「長身で40歳前後だというから、たぶんそうだろう」
古賀沢にいる時分から小野田の片腕だった内海は、190cmを超える長身で、2年前には39歳だった。
「小僧どもがよく出入りしていた店に、半年くらい前にふらりと現れてその店の常連客と話していたそうだ。えらく背が高かったのが目を引いて、常連客が内海と名前を呼んだのを覚えていたらしい」
昨夜は佐伯が、今日になって氷上も尋問に立ち会ったが、神之倉の脅しの成果か、彼らの口は一様に軽かった。
蒔麻を狙ったのはひったくりが阻止された逆恨みと遊び半分のゲーム感覚だと全員が口を揃えた。それに関しては小野田の影はないと判断した佐伯は、小野田に関わる人名を挙げ、聞き覚えがあるかどうかを尋ねた。
取るに足らない小者の集団でも、出入りしている場所は裏社会にごく近い場所だ。何かしらの情報がある可能性がある。
「20日前、同じ店でその常連客が内海らしき人物と携帯電話で話していたそうだ。聞き取れたのは“うつみ”という名と、いつたつんだ――のひと言だとさ」
立つ、発つ、断つ――可能性のある言葉は幾つかあるが、行動を起こすという意味の“立つ”はないと神宮寺が断言している。海外に飛んだという仮定が正しければ“発つ”が当てはまっておかしくない。
「で、そいつの特徴を聞いて裏を取った」
「もう見つけたのか。早いな」
「うちの縄張(しま)ん中だしな。あまり極道とは関わらない若い情報屋なんだが――偽造屋も兼業してる」
「! そうか」
“偽造屋”のひと言に、神之倉がわずかに表情を変えた。神宮寺が古賀沢を訪れた日から、小野田に関わり合いがありそうな偽造屋をあたってはいたのだが、どれも外れだったのだ。
氷上はどこからか手に入れた乗客名簿を広げ、膨大な数のリストの中の1ヶ所を指し示す。
「該当するのはこの2ヶ所だ。その偽造屋が用意したものが小野田本人のものかどうかは判らんが、内海は先陣をきって動くより常にそばで補佐するタイプの側近だったからな、一緒にいる確率は高い。行き先はマニラだ」
「……あまり意外性はない行き先だな」
極道とフィリピンとは、比較的繋がりやすい場所だ。小野田が選んだ潜伏先にしては安易に思える。
「目的地は別で、単なる中継地だった可能性もある。一応あちらの情報は集めさせてはいるが、どうする?」
「…これ以上追っても仕方ないかもしれないな」
腕を組み、宙を仰いで神之倉は言った。
小野田の動向を掴んでおきたいのは山々だが、荻生会のような大組織ではない古賀沢では、それにばかり人手を割くわけにもいかない。
すぐ近くで暗躍されているならまだしも、相手は海外だ。神宮寺が言ったとおり、過敏になっている面は少なからずある。先手必勝とは言うが、じっと腰を据えるのもまたひとつの手だろう。
「情報には常に網を張っておくとして、あとはこちらの体制を整えて迎え撃つ方針がいいと俺は思う」
しばし考えた末に、神之倉はそう結論を出した。
「わかった。じゃあ、その線で四代目の判断を仰ごう」
「任せた」
神之倉と氷上が同意見ならば、よほどのことがない限り蒔麻は反対はしない。あとは、2人が腹を据えればいい。
「結局、佐川会への接触は、俺らの目を国内に向けさせるためのものか」
「そのようだな…」
忌々しげに言った氷上に頷き、話がひと段落ついたところで神之倉は煙草を取り出した。
「神之倉」
「ん?」
「お前、わざとやったろ、ここ」
自分の額の、神之倉の傷と同じ位置を指で辿って氷上が唐突に訊ねる。
「何故そう思う?」
「あの程度の相手に、お前が簡単に傷をつけられるわけがないからな」
氷上の言葉に、神之倉は苦笑を浮かべて見せた。
ひったくりだけでなく、狩りと称して他人を襲うような行為もしたことがあるだろう連中だったが、総じてそういう行為は昼日中には行わない。
何かを奪うことが目的なら、奪ってしまえばあとは捨て置くだけだ。サディストでもなければ、襲った相手の怪我の具合などじっくり見ることなどないだろうし、暗い中では流れた血の程度など判らない。
血に慣れている者なら別だが、慣れていない者は出血に怯み、混乱する。その数秒間が勝負だ。
神之倉は、彼らはそれほど慣れていないと判断して、わざと血が流れるのがよく見える場所を切らせ、かつ平然として見せて、彼等の戦意を削いだのだ。どんなに意気がって見せても、ヤクザに傷を負わせたとあっては、あとの報復が恐ろしくもなるだろう。
腕を切らせるという手もあったが、生憎ダークカラーのスーツを着ていた。それではよほど深く切らせないと血が目立たない。しかし、額なら浅い傷でも出血が多く見える。
間合いは取りにくいが、これで失敗したことは未だかつてない。
「あんまり無茶するなよ」
「お前がいるから無茶も出来る」
「ばかやろう」
氷上は吐き捨てるように言って、短くなった煙草を灰皿で揉み消した。
「お前は少し自分に無頓着すぎる」
「…すまない。だが向こう傷だから、それほどでもないだろう?」
組の顔である若頭が素人に傷を負わされたとなるとマイナスイメージにはなるが、組長を庇っての向こう傷ならば話は別だ。氷上は呆れ顔でため息をついた。
「俺はお前の体の心配をしてやってるんだが――意外に計算高いよな、お前って」
「お前ほどじゃない」
計算高いことに掛けては足元にも及ばないと、神之倉は氷上に瞬時に返す。
「ぬかせ。お前のことだから考える前に動いたんだろうが、お前、一石二鳥を狙ったろ?」
「……」
氷上の切り返しに、神之倉は沈黙した。氷上はそれを肯定と受け取って先を続ける。
「佐伯や宮川とお前の血とじゃあ話は別だろうからな。だが、一度経験させりゃあ度胸がつく。だけどお前、もし格が怯んじまったらどうするつもりだったんだ?」
「そんなに弱い奴じゃないさ」
血を流すことは侵入した連中に対してだけでなく格へ見せるためでもあったと断定する氷上に一切反論はせず、それだけを言って神之倉は微笑んだ。
格を疑ってもいないその物言いに、氷上はわずかに目を見張って驚き、嘆息した。
「――あーそう。ハイハイごちそうさま」
苦笑して、神之倉が手にしていた煙草を奪い取って銜え、氷上は神之倉の顎を拳で小突いた。
−終−
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