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Vol.4 強さの意味 (4)
「古賀沢組の事務所に投石をして逃げ切ったというのは君たちか?」
窮屈なほどに蒸し暑い、夏の熱帯夜。
薄暗い店内は、屋外の熱気など別世界のもののように、きつすぎるクーラーで寒いくらいに冷え切っている。
声を掛けてきた人物を胡散臭そうに見返して、青年は手にしていた煙草を口に運んだ。
「何の用?」
青年は20歳前後、声を掛けてきた男は50歳前後。青年の態度と口調は、横柄を通り越して無礼だったが、声の主は気にした風もなく薄く笑った。
「カトルという店で話していたろう? あそこは私の店でね」
その言葉に、青年と共にボックス席のテーブルを囲んでいた数人は視線を交わし合ったが、青年だけは動じる様子もなく椅子の上でふんぞり返った。
「あんたの店では、店員が盗み聞きすんのか?」
脅すように口にしたが、実際は、雑談の延長で話を聞いた者たちに煽てられ、この場にもいる数人が吹聴して回るように得意げに触れ回ったので、盗み聞く必要などなく耳には入ったろう。しかし男は軽く肩をすくめて、申し訳ないと詫びた。
その態度に少し気をよくした青年は、もう一度何の用かと繰り返す。
男が、口許に笑みを浮かべた。
「仕事を頼みたい。古賀沢の事務所を荒らす気はないか?」
「……どうやって?」
「“道”はある。事務所の地下の、非常口の鍵だ。ビルの裏から入れる」
男がテーブルに置いた金属片を、青年は目を細めて見下ろした。
「なんで事務所荒らしなんか」
「なに、意趣返しさ。ちょっとした恨みがあってね」
「ふうん」
指先で鍵をつまみ上げて、青年は気のない素振りで呟いた。
恨みがあるからという単純な理由は嫌いではない。青年自身も、腹立たしさから古賀沢組に固執している。
投石した後も縄張り内で遊び回っている自分たちを一向に見つけられないとは、ヤクザといえども大したことはない。また何か嫌がらせでもしてやろうかと思っていた矢先だ。乗ってみるのもいいかもしれない。そうでもしないと、毎日が退屈すぎる。
青年は、ちらりと男を見遣った。
「どうして自分でやらねえんだよ?」
「私だと知られると、少し厄介なことになるんでな」
「――見返りは?」
立ち尽くしたままの男に、青年は尊大な姿勢で座ったまま尋ねた。
「仕事なんだろ? ただでやる気はねえぞ」
「……手付けで20万、成功報酬が30万。組長に危害を加えることが出来たら100万上乗せしよう」
青年が口笛を吹き、青年を囲む幾人かが小さくどよめいた。
「危害ってどの程度?」
「傷を負わすことが出来ればいい」
「殺せたら?」
「――300」
「少ねえな。500」
「…わかった」
男は頷いて、懐から茶封筒を取り出し、青年の前のテーブルに無造作に投げた。口が開いて、中の札束が姿を見せる。
青年は、これまでのやりとりを口を出さずに見ていた仲間を一瞥し、封筒を手に取った。
「あんた、どこの組の人?」
男に問うてみたが、男は答えずに口の端を僅かにつり上げた。
「成功を確認したら、この店のバーテンの小島という男に駅のコインロッカーの鍵を預けておく。金はそこに」
そう言って男は踵を返し、そのまま店を出ていってしまった。
店の扉が閉まってから、青年は改めて自分を取り囲む顔を見回す。何人かは怯んでいる様子だが、面白そうな顔をしている者も多い。青年は口許を歪めて。手にしていた鍵を掲げて見せた。
「乗りたいヤツだけ乗ればいい。金は山分けだ。こんなゲームも面白い」
格が古賀沢組事務所の地下にある道場に通い出して、20日が過ぎていた。
すでに夏休みは残り半分を切っていたが、神之倉との約束はまだ叶えられていない。しかし、格の毎日は充実していた。
道場通いも楽しいが、なにより昼間に神之倉と会えることが新鮮で嬉しい。格が学校に行っている時間は当然会えず、神之倉がオフでない限り、大抵は夜に帰宅したところを掴まえて会うというのが通例だったからだ。
携帯メールか電話で確認し、氷上が組事務所にいて手が空いている時間に教わりに行くという流動的な方法ながら、この20日間で格はめきめきと上達した。
もともと運動神経が良い上に、目と勘がいい。氷上も、スポンジが水を吸うように教えたことを吸収していく格に教え甲斐を見出だしていて、格さえ来られるならたとえ空き時間が30分しかなくても稽古をつけた。
今日も、2時間ほど空きそうだという連絡をもらい、格は喜々として自転車を飛ばして事務所に駆けつけた。
「――で、応用としては」
大抵の道場で基本技として教えるという四方投げのバリエーションを、組員を敵役に立てて説明しながら氷上が実演する。
「相手が右手で横っ面を叩きに来た場合、左手で捌きながら右手で相手の顎をアッパー気味に掌打。打たれると、脳が揺れて目眩を起こす」
この頃では、最近は減っていたという組員への指導も兼ねるようになっていた。格が道場にやってくると、手の空いている組員も集まってくる。氷上としても二度手間にならず、格にも組み手の相手が出来るので一石二鳥だった。
「で、顎に入れた右手で、相手の左手を封じて、捌いた左肘で巻き込むようにして相手の肘を右側に押す」
「巻き込むように――右」
今日はひとりしか組員がいないので、格は空組み手で氷上の動きをなぞっていく。相手の体勢が崩れたところで、氷上は手首を取って相手の肘を上げながら懐に潜り込んだ。
「姿勢は低くな。膝曲げて」
「膝曲げて、低く……」
「潜り抜けたら自分の体勢を戻して、相手の腕を折り曲げたまま投げる」
言葉での説明も加えながらゆっくりと動いていたのに、どこにどう力を入れたのか、氷上が僅かに腕を引くと、組員の体が簡単に崩れて床に転がった。
「相手が受け身を取れなきゃ、この時点で頭を打ってすぐには立ち上がれないだろうが、気は抜くなよ。やってみな」
氷上は組員から手を離し、格へ場所を譲った。
ぺこりと頭を下げ、組員と対峙する。今日の相手は少々横幅のある体格で一見投げられそうにないのだが、格は物怖じせず身構えた。
一呼吸置いて打ち込んできた男の腕を捌きながら掌底を打ち込んだ。目測を誤ったのか顎に当たらなかったが、相手の姿勢は崩れたので、それに乗じて肘を巻き込んで手首を取る。格が膝を曲げて潜り込むと、相手の体勢はさらに崩れ、ごろりと転がった。
「よし、OK」
投げてから、相手の脇に足を入れて手首をさらに極めたのを見て、氷上は2度3度と頷いた。
「掌底、入んなかった」
「問題ない。技に入る前に一発かますのは、牽制や目眩ましのためだ。相手が避けたことで体勢が崩れて牽制になったんだから、気にする必要はない」
「はい」
「体捌きでかわして、さらに相手を一瞬でも怯ませれば技に入りやすい。有効なのは、特別鍛えなくても強い部分――たとえば掌底、肘、膝。拳は鍛えなきゃ強くはならんから使うな」
「はい」
氷上は技を見せるだけでなく、その原理や効果、時には人体の仕組みまで解説してくれるので、“どうしてそうなるのか、何故だめなのか”が納得できて格には解りやすかった。そして、実際に相手が避けた場合、逆らった場合なども想定して組み手をするので、応用力がつく。
まだ技は5つほどしか教わっていない格だが、それぞれいろいろな局面での応用を教わっているので飽きることは全くなかった。
「よし、じゃあ今日はここまで。正面に向かって礼」
氷上に促され、格は姿勢を正し、黙って道場正面の神棚に向かって深々と一礼した。
そして、格の前に移動した氷上にもう一度頭を下げ、
「ありがとうございました」
はっきりとした発声でそう言った。
正式な流派の道場ではないにも関わらず、稽古前と稽古後の挨拶はいの一番に叩き込まれた。氷上はそれを、集中力のスイッチを入れるのにちょうどいいと言う。たしかになんとなく始めるよりは気合いも入って集中も出来、気も引き締まる。
「それじゃあ、オレは戻ります」
組み手の相手をしてくれた組員が、氷上に頭を下げた。
「おう。上に戻ったら、神之倉にここに来るよう伝えてくれ。帰ってるはずだ」
「ハイ。…そんじゃあな、坊主」
「うん」
気安げに手を振ってくれた組員に、格も手を振り返した。
当初は“格さん”などと呼ばれて閉口したものだが、激しく嫌がっていたら蒔麻や氷上が助け船を出してくれた。いまでは、大抵の組員は名前で呼ぶかボウズと呼ぶ。
「士朗、帰ってんの?」
格が事務所に来たときは、朝から出掛けているとかで、事務所に神之倉の姿はなかった。このところ忙しいようで、マンションでも会えないことがある。時折電話をくれるので淋しくはないが、やはり顔を見て話したい。
「佐伯から連絡がないからな」
言いながら、氷上は眼鏡を外して前髪を掻き上げた。何気なくその様を見ていた格は、氷上の眼鏡なしの顔を初めて見ることに気付く。
稽古をつけてもらうようになった当初は基礎練習が主で、技を習い始めた頃は格の攻撃などかすりもせず、組み手をやるようになってからは組員の誰かが相手をしてくれていたので、これまでずっと氷上は眼鏡を外すことがなかった。
眼鏡がないと、いつもの頭脳派然とした印象よりも、整った容姿の印象のほうが強まる。
そして、眼鏡がないことにより、漆黒でも濃茶でもない青みがかった濃灰色の瞳の色が、普段より際立って見えた。
「…お前の目ってほんと正直だな」
食い入るように見つめている格を見下ろして、氷上はふっと苦笑した。言われて初めて氷上の顔を凝視していた自分に気付き、格は慌てて謝った。
「かまわねえよ。神之倉が来るまでなら質問に答えてやる。言ってみな」
「えーと、じゃあ……その目、カラコン?」
「自前だよ」
「生まれつき?」
「そう、生まれつき。俺は純血種の日本人じゃないからな」
「……えぇッ!?」
3秒ほどの沈黙の後、言葉の意味が脳に浸透した格が声を上げた。
「だって日本語べらべら――」
「阿呆。外国人でも日本語が流暢なのはいくらでもいるだろが」
「名前は偽名?」
「本名」
格は首を傾げて氷上を見た。帰化したなどという理由でもなさそうだ。格が渋面で考え込んでいたからか、氷上は指先で格の眉間をぴんと弾いて自ら答えを口にした。
「父方のじいさんが、ロシアとスウェーデンのハーフだったんだよ。母親は日本人」
氷上の回答に格はぽかんと口を開けて、数秒後に大きく息をついた。たしかに氷上の瞳の色は人工的ではないが、思ってもみなかった答えだ。
「生まれたのも育ったのも日本なんだか、昔はもっと色素が薄くてな」
言いながら、氷上は自分の前髪を引っ張った。
髪はともかく、瞳の色がいまより薄かったのなら、容姿が整っていることもありさぞかし目立ったろうと格は思う。
「両親が事故で死んで、母親の実家に引き取られたあと、まあ…ありがちなんだが髪と目の色で悪目立ちしてな。見られるのも喧嘩を吹っ掛けられるのも面倒なんで、眼鏡をかけるようになった」
「……え? じゃあそれって――」
「そう、伊達眼鏡」
そう言うなり、氷上は手にしていた眼鏡を格に掛けた。
「ホントだ……」
掛ける前と後で、全く視界が変わらない。目眩も一切なしだ。つまり、度が入っていない。
視力が悪いわけでもないのに、いまだに伊達眼鏡をかけ続けているのは何故なのだろうか。それを考えた格は申し訳ない気持ちになって、掛けられた眼鏡を外して氷上に返した。
「……ごめんなさい…」
「なんで謝るんだ?」
「だってさ――」
「俺がまだ気にしてるんじゃないかとでも思ったか?」
問われて、格は躊躇いがちに頷いた。そんな格の頭髪をくしゃくしゃに掻き回し、氷上は笑う。
「30越えていつまでもそんなこと気にしちゃいねえよ。もともと目立つのが面倒で掛けてただけで、嫌だと思ってたわけじゃないしな。いまでも掛けてんのは単に眼鏡が好きなのと、四代目のご要望」
「蒔麻さんの?」
「眼鏡を掛けてる男が好きなんだと。俺の持ってる眼鏡の半数はあの人のセレクトだ」
言われてみれば、縁なしなのは同じでレンズの形や大きさが微妙に違うだけなのだが、眼鏡の型が時折変わっていたような気がするァ。
「謎は解けたか?」
氷上の問いに、格は頷いた。
口許に笑みを浮かべたまま、氷上は眼鏡をかけ直す。目に慣れているせいもあるだろうが、やはり眼鏡を掛けているほうがしっくりくるし、何より氷上に似合っている。
そこへ、地下へ降りてきた神之倉が顔を出した。
「おかえり、士朗!」
格はさっそく神之倉に駆け寄った。顔を見るのは2日ぶりだ。
氷上は格の後をゆっくりと追いかけて、戸口の神之倉の元までやってくる。そして、親指で背後の道場を指し示した。
「次の予定まで1時間以上空きがあるだろ? ちょっと体動かしてけよ」
「……予定が変更になったのは3時間前なんだが――何故知ってる?」
「お前のスケジュールを把握してんのが佐伯だけだと思うなよ?」
言って、氷上はにやりと笑った。
どうやら、神之倉のスケジュールは分刻みで氷上に報告されて入るらしい。
「……裏で結託しやがって」
「失礼な。仕事だ、仕事」
氷上は憮然とした顔を見せて言い返し、軽く上体を屈めて神之倉の腰をひっぱたいた。
「おら、演武なんざ30分もありゃ出来るだろうが。ケチケチすんな」
どうやら氷上は、格が稽古を始めた日に神之倉が言った「演武は今度」というひと言を覚えていたらしい。
思い出した途端に輝いた格の顔を見て苦笑を洩らし、着替えてくると言い置いて神之倉は道場から出ていった。
再び現れた神之倉を見るなり、格はその場にぼうっと立ち尽くしてしまった。
黒い道着に黒袴と黒ずくめのその姿は、スーツ姿よりも数段研ぎ澄まされた印象を受ける。それが全く違和感なく馴染んでいて、着慣れているのだと一目で判った。
「かっ……」
「蚊?」
小さくひと声発して続く言葉が出てこない格を振り返って聞き返した氷上は、格の顔を一瞥したのみでそれ以上尋ねることはしなかった。陶然とした目を見ればもはや訊くまでもない。
氷上は右正面の壇上に上がり、書の前にどっしりと置かれた刀掛けから黒鞘の日本刀を取り上げた。そして踵を返し、段から降りながら神之倉に投げて寄越す。
「これでやるのか?」
なんなく鞘を掴んで受け取った神之倉が氷上に尋ねた。
「それが専門だろ?」
氷上は口角を上げて当然だというように答える。
神之倉は小さく息をついて、刀を鞘ごと左腰に差し込んだ。
「こら、格。本番はここからだぞ」
「え? あ」
「よく見とけ。奴は滅多に人前で型見せたりしないからな、レアだぞ」
言われて、格はふるふると頭を振って意識を覚醒させた。そんな貴重なものを見逃すわけにはいかない。
神之倉は、道場の真ん中にゆったりと立っている。それでいて、一分の隙もない。半眼の瞳は、波のない水面のように静かだ。
固唾を飲んで見守る中――すっと神之倉の腰が沈んだ。
一閃。
いつ柄に手を掛けたのか、どうやって抜いたのか判別のつかない速さで白刃が閃いた。
慌てて眼で追った時にはすでに、空に弧を描いた刀は黒鞘に半ば以上飲み込まれていて、かちんと小気味良い音とともに鞘に納められてしまった。
もう終わりなのかと落胆しかけた格の肩を、氷上の手のひらが捉えた。これからだ――と耳元に囁きが落ちて来る。
刹那、一旦納められた刀身が再び宙を切り裂いた。
踏み込むとともに横凪ぎに。
左足を滑らすとともに袈裟掛けに。
受ける、流す、斬る――簡単なようでいて複雑な動きは、踊りの所作にも似て滑らかで瑕疵がない。
そして、容易に踏み込めない何かがあった。
不用意に間合いに入ろうものなら、簡単に真っ二つにされそうな緊張感がある。
なのに、静謐ともいえる落ち着きを感じるのは何故なのだろう。
静まり返った道場には、青白く光を跳ね返す刀身が空気を裂く音と、神之倉の足が床板を踏みしめる音だけが響いている。
不思議と神之倉からは微かな呼吸音すら聞こえず、自分の鼓動がひどく耳障りなもののようにすら、格には感じられた。
下段から逆袈裟、受け止めて、掬い上げ、大上段から振り下ろす。
ひとつとして同じ組み合わせの動作を繰り返さず、神之倉は突き出した刀をそっと引いた。
正眼に構えたまま、ゆっくりと息を吐き出す。
そして、刀はゆっくりと鞘に収まった。
「…おい? 格?」
訪れた静寂を破った氷上の声に格を振り返った神之倉が目を見張り、当の格も驚いて自分のまなじりに触れた。
濡れた指先を見て、格は改めて自分が泣いていたことを認識する。
哀しいわけではない。辛くもない。けれど、胸が熱い。
「格? どうした?」
「……なんかこう――このへんがきゅうっと来た…」
格は胸のあたりの布地を握り締めて、氷上の問いに答えた。
何かに、感情を揺さぶられた。けれどもそれは、狂おしいまでの奔流ではない。清水のように湧き出して、いつの間にか胸を満たして溢れ出ていた。
「…初めてかも」
格はそばに立っている氷上も聞き取れないくらい小さく呟いて、歩み寄って来た神之倉を見上げた。
物心ついてから、泣いた記憶がほとんどない。どんなに悲しくても、苦しくても、こんなふうに涙を流したことは一度もなかった。
神之倉だけが、格の中の奥深いところを動かす。
「大丈夫か…?」
神之倉の右手が伸びて来て、親指が流れ落ちる滴をすくい取った。そしてその手のひらが頬を包む。
大きな手の心地よい温もりに頬を擦り付けるようにして、格はにっこりと笑った。
「平気。あんまりかっこよくて感動しちゃったよ」
「泣くほどか?」
「うん」
言葉通りに受け取ったのか、それとも何かを感じ取ったのか分からないが、神之倉はそれ以上何も言わず、右手は格の髪を掻き回すようにして頭を撫でて離れた。
格は少し名残惜しげにその手を目で追ったが、組事務所の地下でこれ以上の行為をせがむわけにもいかない。
諦めて右手から視線を逸らした格の視界に、神之倉の左手が飛び込んだ。その手に握られていた黒光りする鞘に視線が奪われる。
格にも、一般的な少年と同じくチャンバラごっこをした記憶がある。幼い頃には、母親にオモチャの刀を買ってもらったこともあった。だが、本物を見るのはこれが初めてだ。
「なあ、それ持たせてもらっていい?」
「ん? ああ」
神之倉はためらいもせず鞘を掴んでいた左手を格へ差し出した。
両手でそれを受けとると、腕にずしりと重量がかかった。
「重っ! 刀ってこんなに重いのか」
「本身だからな」
「ほんみ?」
「練習用の模造刀じゃなくて、本物の、刃引きをしていない日本刀」
格の問いに、氷上が答えてくれた。そして、柄を自分の方に向けさせそのまま持っていろと言うと鞘から刀を引き抜いた。
ほんの少しの抵抗を見せて鞘から姿を表した刀身は、冴え冴えとした光を放っている。
「……すげ…きれいだ…」
「普通はこんなところには置かないほどのいい刀らしいからな。俺には銘柄なんぞよう分からんが」
「備前長船。先代が鎌倉の御大にいただいたものだそうだ」
言って、格から鞘を、氷上から刀を取り上げた神之倉は、慣れた手つきで刀を鞘に納め、元あった刀掛けへと戻しに向かった。
「それにしてもびっくりした。剣道じゃないよな?」
真剣を使う剣道など聞いたことがない。戻ってきた神之倉は、尋ねた格に頷いた。
「高校の頃に剣道をやっていたこともあるが、もともとは剣術道場に通っていた」
「どれくらい?」
「…物心ついたときからだから――10年くらい、か」
「古流の流れを汲む流派だよな。俺と初めて会った時にはもう皆伝をもらってたろ?」
「いや、お前と会った後だ。古流は古流だが、分派だし師匠は亡くなって弟子もいない。皆伝と言っても今となっては大した意味もない」
「そんなことねえよ! すごいじゃん」
皆伝というのは、免許皆伝のことだろう。流派によって違いがあるようだが、その下に目録やら印可やらがあると何かで見たことがある。
憧れが黒帯だ初段だというレベルの格には想像も出来ない境地で、すごいと言うより他ない。
「すげえかっこよかったよ。近付いたらスパッと斬られそうなんだけど、どっか静かで、それがよけいに凄みがあって、そんで、えっと」
「わかったわかった。ありがとう」
うまく言葉に出来ないでいる格に苦笑を向けて、神之倉ぽんぽんと格の頭頂部を緩く叩いた。
「今日はこれで終わりでいいな、氷上?」
「ああ」
「送ってやるから着替えて部屋においで、格」
もう少し神之倉の道着姿を見ていたかったが、次の予定があるようなのでそうもいかない。
格は、網膜に焼き付けるかのようにその姿をじっと見つめて頷いた。
身支度を済ませた格が神之倉の部屋を訪れると、小用でもあったらしくまだ着替え途中で上半身裸の神之倉が格を迎えた。
「何か飲むか?」
「ううん、いい」
手にしていたワイシャツをふわりと背後に回しながら尋ねた神之倉に、格は首を振る。
「少しここで待っていてくれ。行き掛けに送っていくか、ら!?」
言葉尻が疑問符で終わり、神之倉は背後を顧みた。着ようとしていたワイシャツの裾を格の両手がしっかりと掴んでいる。
「格。手を離してくれないと着られないんだが」
神之倉は訴えたが、格はシャツを掴んだまま神之倉との距離を詰めた。
格は、神之倉の背中と胸をじっくりと観察するように眺めた。厚みがあり、弛みはない。実にバランスよく筋肉がついていて、しっかりと引き締まっている。
そんな見惚れてしまうほどの体に、いくつもの傷痕がうっすらと残っていた。
「前にシャツ脱がしたときはよく見れなかったから気が付かなかったけど……」
神之倉の宣言通りいまだキス以上の行為はなく、春以降、神之倉には押し倒して服を脱がせられるような隙はない。思えば、じっくりと体を見るのはこれが初めてなのだ。
不思議なのは、その傷痕の位置である。大小さまざまな傷があるが、1箇所をのぞいて、背中側にはひとつも傷がない。格はそっと、その唯一の傷痕に触れた。
「……この傷…?」
「ん? ああ、それはここから入った弾が抜けた痕」
神之倉が指し示したのは、左の鎖骨の下にある銃創だった。貫通銃創だったらしい。
「こんなとこ撃たれて大丈夫なのか?」
「うまいこと抜けてくれたからな」
「背中の傷、これだけ?」
「ああ」
事も無げに頷いた神之倉の背中を、格は感嘆の思いで眺めた。
背後にある傷を後ろ傷といい逃げ傷ともいうと、最近読んだ本に書いてあったことを思い出す。
体の前面に傷があるのは、背中を見せて逃げないからだ。唯一の傷痕も、前から入った弾が後ろに抜けた痕だということは、神之倉には一切の後ろ傷がないことになる。逃げはしなくとも、油断があれば背後から襲われることもあるが、それもないのだ。
改めて、神之倉が古賀沢の“力”だと言われる理由がわかった気がした。
そこまで考えて、格はあることに思い至る。たったひとつの傷痕しかない背中は、ヤクザというとまず連想してしまう象徴的なものもない。
「…実際は刺青って入れないもの?」
「ファッションタトゥーを入れている若い奴は多いが、昔ながらのものは最近は少ないな」
「士朗は?」
「昔、入れようと思ったこともあったが――」
「やめたの? なんで?」
「先代に止められた。お前はそのままでいいと言われたよ。そういう先代の背には、それは見事な竜がいたがな」
「…気持ちわかるなあ。もったいないもん」
背後に回り、改めて神之倉の背中を眺める。傷痕があってもなお、その背中をきれいだと思った。これを刺青で埋めてしまうのは惜しい。それは見事に仕上がるだろうが、やはりこの背は自然なままであってほしい。きっと古賀沢の先代も同じだったのだろうと、格は勝手に思った。
再度、片手でそっと傷痕に触れて、その下の肩胛骨へと指を滑らせる。もう片方の手で背筋を辿っても、神之倉は怒りも振り払いもしなかった。
傷痕の1つ1つが神之倉の人生を形づくってきた。そしてそれらすべてが、あの演武にあった。
迷いのない闘気。静謐で揺るぎない精神。
踏み出した足から、空気を裂く刀身から、迸るように伝わってくる神之倉の本質に、感情を鷲掴みにされて揺さぶられ、涙が出た。
格は、神之倉の裸の背に頬を押し付けるようにして抱きついた。
傷ついても、血を流しても、それらを乗り越えて、いま神之倉はここにいる。そして出会えた。
触れた肌からぬくもりが伝わる。鼓動が聞こえる。
生きている。
嬉しさに、涙が溢れた。
「……格? 泣いてるのか…?」
格のしたいようにさせていた神之倉が、そっと尋ねる。
格は涙を拭ってから神之倉の前へと回り込んで抱きつき直し、神之倉の顔を見上げて微笑んだ。
「生きててよかったなあって思って」
「? 誰が?」
「俺が。…士朗も」
言って、神之倉の体を抱きしめる両腕に力を込めた。
「…好きだ。すげー好き」
「どうした、突然?」
「突然じゃねーよ。いっつも思ってるもん」
「そうか」
格を見下ろしていた神之倉は、照れくささを滲ませて小さく笑った。こんな顔も、とても好きだと思う。
「…いまの顔、もう1回」
唇との距離を測りながら格は呟いた。つま先立ちで首を引き寄せれば届く。しかし、踏ん張りきれないので簡単に振り払われそうだ。
事務所ではやめておこうと思っていたが、我慢できない。体の表面だけでなく、もっと深く触れ合いたい。
「どんな顔だ?」
「そーゆー顔」
答えながら、別の場所が無防備に晒されていることに気が付いた。こちらの方が、成功率は高そうだ。いや、成功させたい。
格は、神之倉の背中に回した手を握り合わせ、指をしっかりと組んで少しだけ踵を上げた。そして、目の前に晒されていた鎖骨の下の傷痕の傍に、唇を押し当てた。
「……ッこら!」
神之倉の両手が格の肩を押したが、がっちりと組まれた手が軽い力では押し退けられることを許さない。それだけの間があれば十分で、肩にかかった手に力が込められる前に、格は自分から唇を離した。
「マーキング」
にっこりと笑って告げられ、視線を落としたそこに赤い印を発見した神之倉はため息をつく。
「…狙ってたな?」
「うん」
格は悪びれずに笑って組んでいた指を解き、身を離した。
「まったく……」
神之倉はほろ苦く笑って、中途半端に腕に引っ掛かっていたワイシャツを引き上げた。今度は引き止めなかった格だが、残念そうに肩をすくめる。
「着ちゃうの? もったいない」
「裸で歩けって言うのか?」
「見るのが俺だけならむしろ嬉しいんだけど」
「ばかもの」
喋りながらも、神之倉の体はどんどん布地に覆われていく。
ワイシャツの背も、ネクタイを締める指先も、上着を羽織る仕草も好きだが、裸の背中の風情がたまらなく恋しい。こうなりたいと格が思い描く、強い背中が。
「…背中につければよかったな…」
ぬくもりの名残惜しさを振り切るように神之倉に背を向けて、格は小さく呟いた。
「――格」
ふいに、すぐ近くで名を呼ばれた。近付いた気配に気付かなかった格は、驚いて背後を振り返る。
神之倉の大きな手のひらが、格の肩を抱いて胸に引き寄せた。
「印があろうがなかろうが、お前のだ」
耳元で低く囁かれ、快さと嬉しさに体が震えた。顔に血が上って火照ってくる。相当赤くなっているだろうことは、自分でも容易に想像できるくらい頬が熱い。
「士朗、ずるい…」
「何がだ?」
何気ない返事さえも低く響いて、膝が萎える。格はスーツの襟にしがみついた。
わざとらしい仕草と台詞なら、これほど動揺はしないだろう。あまりにもさらりと告げられるのは、饒舌に口説かれるより始末に負えない。
蒔麻のために死ぬとあっさりと口にする男が、同じくらいあっさりと、体をくれると言う。
嬉しくて、どうにかなってしまいそうだ。
「――俺のだって言うなら、キス以上の事しようよ」
「…まだ駄目だ」
格の押しに振り回されてくれる余裕が神之倉にはある。初めから撥ね付けたりせず、中まで踏み込ませてくれる。それでいて、こうと決めたことは容易には越えさせてくれない。
憎らしいが、そんなところも好きでたまらない。
「ケチ」
格は小さく呟いて、神之倉の胸を拳で叩いた。
次の瞬間、ふいに明かりが消えた。唐突に、室内に闇が満ちる。
「あれ? …停電?」
「…いや」
格の問いに、神之倉は首を振った。
窓から差し込む光はある。周囲の街灯やビルの明かりだ。点いていないのはこのビルだけらしい。
そこへ、足音が近付いて来た。格を背後にかばい、息をひそめて待つ。やがて扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
「若頭、いますか?」
「…ああ」
低く返答すると、暗闇と化した廊下から、ライトを手にした佐伯が現れた。
「来ました」
それだけを告げた佐伯に、神之倉は頷いて見せる。
これを待っていたのだ。魚は上手く“穴”に入ってくれたらしい。
しかし、思っていたよりも時間が早かった。深夜だろうと踏んでいたが、いまはまだ午後7時半を少し回ったところで、人通りもある。
「……早いな」
「あえてこの時間にしたのかもしれません。今夜は、港で花火大会をやってるんですよ」
佐伯に言われて、神之倉は窓外に視線をやった。かすかにドオンという低い音が聞こえて来る。
早い時間では人に見られるリスクはあるが、花火見物の人込みは紛れて逃げるにはもってこいだ。人の流れる祭りと違い、最中に動く人間は少なく、終了すれば一斉に動く。
「なるほど。少しは頭が回るらしい。――だが、甘い」
「はい」
あっさり切り捨てた神之倉に、佐伯は小さく微笑んだ。
「この停電は配電室か?」
「おそらく。3人向かわせました」
氷上の仕込みだけあって、佐伯の処理能力は高い。一を言えば十を理解し、理解しきれなくても独断に走る事はないので、任せておいて心配なかった。
問題は格だ。抜け出すのは容易だが、神之倉も佐伯も他の組員たちも、持ち場と段取りがある。突発事項はあって然るべきものだが、この場を離れるわけにはいかない。
神之倉は格を引き寄せて、僅かな明かりを頼りに格の目を覗き込んだ。
「俺か氷上の言う通りにしろ。いいと言うまでは、佐伯のそばから離れるな。いいな?」
この部屋から動かぬように言い含めて残していってもよかったが、いまはいっそ傍らにおいた方が安全だろう。
投石があったという事実は話してあるが、その後の古賀沢の動きについては明かしていない。だが神之倉の視線に何かを感じたのか、格は真剣な目で深く頷いた。
「こいつを頼む」
「はい」
神之倉の手がそっと押しやった格の両肩を、佐伯の手のひらが丁重に受け止める。
そのまま神之倉は2人の横をすり抜け、闇に滑り込むように廊下へと出た。佐伯が格の背を軽く押して促し、その背中を追う。
神之倉は迷わず階下へ向かった。
地下へ降りると、甲高い破裂音が廊下の先で響いていた。闇に慣れつつある目を凝らすまでもなく、ハンドライトの明かりに照らされた数人の男が、廊下に面した道場の窓に棒状のものを叩き付けている。振り下ろされる度に、砕けたガラスがライトの光を弾いてきらめいた。
道場の入口には鍵が、武器になりそうなものは地下から移動させていたので問題はないが、だからといって荒らされるのを放っておく気もなかった。
「そのくらいにしておけよ」
言いながら、神之倉は侵入者との距離を詰めた。
彼らは一様に驚き、一斉に振り向いた。足音を消し、気配を殺していたのだから無理もない。
「誰だてめえ?」
「それはこちらのセリフだろう?」
不法侵入者に誰何される筋合いはない。神之倉は、向けられたハンドライトの光を浴びたまま、何の小細工もなしに彼らの中に無造作に踏み込んだ。
男達は一瞬怯んだが、すぐに攻撃に転じてきた。
振り下ろされた鉄パイプを僅かに体を反らすのみで避け、続いて襲ってきた木刀を掌で受け止める。突っ込んできた勢いを利用して掴んだそれを引き寄せて振り回し、木刀の主を力任せに放り飛ばした。完全にバランスを失って床にもんどり打つ姿に見向きもせず、奪い取った木刀で鉄パイプを握る数人の手を打ち、別の木刀を跳ね上げる。
次々と、武器を取り落とす音が響いた。
「……すごい……」
廊下の隅の闇に潜み、佐伯と共に神之倉の動向を見守っていた格が吐息だけで呟いた。
侵入者のライトに照らされているため、明かりの絶えた地下でも神之倉の動きを見ることが出来た。
無造作で、大胆で、そして早い。それなのに、片手で操る木刀の切っ先は正確に相手の手元を打つ。
侵入者の脅威など露ほども感じていない堂々たる立ち回りに、格はただただ感嘆した。
格が数えた限りでは、相手は7人。いくら事務所内とはいえ、この暗闇の中でたったひとりで、それも何も持たずに素手で踏み込めるのは、それだけの自信があるからだ。
「格くん、こっちへ」
じっと見入っていた格の腕を、佐伯の手が引いた。
「え、でも」
囁き声で返して、佐伯の顔と神之倉の姿に交互に目を遣る。いくら神之倉が強いといっても、ひとり残して去ってしまっていいのだろうか。
「若頭なら心配ないよ。ここでは片付けない手筈になってるから、場所を移動しよう」
「……片付けないてはず…?」
佐伯は口許に不敵な笑みを浮かべて、訝しげな顔で首をひねった格の腕をもう一度引き、階上へと続く階段に向かった。
姿を消した2人の去った方向から目を逸らすかのように、ひときわ甲高い音を立てて鉄パイプが廊下の奥に転がった。
「……ッてめぇ…」
「…お前がリーダーか?」
低く呻った1人に向けて、神之倉が問い掛けた。
その1人だけが、神之倉に向かってこようとせずに1歩引いていた。臆しているのではなく状況を見ているのだとすぐに悟った神之倉は、リーダー格はこの男だと目星をつけていた。しかし答えは返っては来ず、代わりに床に唾が吐き捨てられる。
神之倉は軽く嘆息し、掌を上に軽く握った拳を掲げて、人差し指で男を招いた。
「相手をしてやろう。お前らもだ。武器(えもの)拾って、全員まとめて掛かってこい」
大胆不敵な物言いに、リーダー格らしき男の歯がギリギリと音を立てた。
神之倉の唇に、うっすらと笑みが浮かんだ。
−続−
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