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Vol.4 強さの意味 (2)
「…さて、神之倉から何か聞いてるか?」
組事務所ビルの地下に降りていくエレベーターの中で、氷上が格に尋ねた。
1日の中でもっとも気温の高い時間帯の夏の午後。
Tシャツにカーゴパンツ、スポーツタイプのデイバッグを背負った格は、かぶっていたバッグと同ブランドのキャップを脱ぎながら氷上を見上げた。
「小野田って人のこと?」
「――聞いたか」
「うん、ゆうべ」
格のねだったアイスをひと月分――何がいいのか判らなかったらしい――ほど持って帰ってきた神之倉は、合鍵で部屋に入った格が用意して待っていた夕食を、お手本のような箸遣いできれいに平らげてから、格に小野田俊雄という男の話をした。
話が全て終わったあと、氷上に武道を習いに行く行かないは格が決めていいと神之倉は言った。
格にはそれが意外だった。当然、そんな状況下で子供がうろちょろしていては邪魔になるだろうし、危ないからと止められるだろうと思っていたのだ。
しかし神之倉は、危険はあるかもしれないと前置きした上で、早いうちに実用的で護身用になる技を使えるようになったほうがいいと言った。
「たしかにな。町道場で習ったんじゃ不利な喧嘩で使えるようになるには時間がかかる」
「なんで?」
「そりゃお前、喧嘩するために教えてんじゃないからさ」
護身術を教えると謳っているところなら、最低限の護身用の技なら早い段階で使えるようになるだろう。けれどその対象は痴漢や酔っぱらいなどであってヤクザではない。正攻法で攻めてくるはずのないヤクザ相手に身を守るには、正攻法を身に付けるだけでは駄目だ。
それに、きちんとした流派の道場なら基礎習練に時間を掛け、カルチャースクールレベルの教室なら本格的に習得するには向かない。いまの格が求めていて必要としているのは、すぐにでも使える技を本格的に修得することだ。
そんな都合のいいものはないと氷上は思う。思うが、方法がないわけではない。
やってみたいという興味だけなら氷上も引き受けはしなかったが、教えて欲しいと切り出した格の目の奥にはある種の覚悟の色があった。
守られるだけは嫌だと言った強い瞳と同じだけ、この小さな色男は強くなれると氷上は確信した。ならば、それを育てるものの一部に自分がなるのも楽しそうだと思った。
おそらく神之倉は、氷上のそういう思いも判っているのだろう。判っていて格を託してくれるほどには信頼されているらしい。
地下1階に着くと、薄暗い廊下が伸びていた。
ほとんどが倉庫代わりの部屋で、道場に改造してあるのは一番奥の扉の中だった。道場への入口から向こうは、廊下側に窓が並んでいる。
ドアを開けて明かりをつけると、思いのほか広い空間が格の目に飛び込んできた。
道場の正面には、一段高く作られた場所があり、その奥の壁には神棚と額に入った書が掲げられていた。飾りなのか実用品なのかは格には判断つきかねたが、その下に黒い刀掛けが置いてあり、黒鞘の日本刀が乗っている。
――長く極道やってて肝の据わってるヤツはいいんだが、近頃は若いのでどうにも甘えたのが多くてな。拳の使い方もなっちゃいねえガキには厳しく武道をやらせんのも有効だろう――
古賀沢組先代組長・古賀沢竜彦のそんなひと言で道場が作られて、20年が経つ。組内の武道経験者が教える側に立ってきて、この10年は氷上が仕切っているという。
氷上の教え方はかなりスパルタらしいのだが、組に入りたてで教わり始め、数年経ってもなお氷上に教えを請う組員もいるそうなので、厳しくとも教え方は上手いようだ。
格は、あらかじめ神之倉から仕入れた予備知識を記憶から引っ張りだしながら、20年の歳月を物語る滑らかな床板や壁を見回した。
「そっちの壁は可動式になっていて、中に畳が入ってる。敷き詰めりゃ柔道場だ」
「よくわかんないけど、なんかけっこう――本格的?」
以前テレビで目にした武道場とさして変わらない造りのような気がして、格は尋ねた。
「趣味が高じて作ったもんだから本格的にもなるさ。凝り性だったしな」
「趣味…? 新人教育が?」
「いや、格闘技マニアだったんだ」
「は?」
「格闘技なら何でも好きでなあ。何度かプロレスやらボクシングやらにお供させられたぞ。国技館にも行ったな」
「……甘えた若いのに拳の使い方と肝の据え方を教えるために造ったって聞いたけど…?」
「あーそりゃ方便だ。確かに最初はそういう理由もあったのかもしれないけどな」
氷上は苦笑して返した。
結果的にそうなった面もあるが、そもそも先代は人を見る目に長けていたので、腕っ節が強く肝の太い組員は大勢いた。むしろ、昔取った杵柄にするなという意味合いの方が強かったのかもしれない。
暴力団という呼称どおりに喧嘩(でいり)や抗争に明け暮れたヤクザが、争いの場の重心を“金”に移して久しい。今では昔ながらのしのぎだけではなく、さらなる大金を動かす経済ヤクザも増えた。
力が必要なのは変わっていない。だが同じくらい頭も必要だ。たとえどんなに立派な腕があっても、頭だけ使っていれば鈍る。
どんな名刀も抜かなければナマクラと一緒だというのが三代目の持論だった。
「さて」
氷上は右手で自分の左肩をひと揉みして、興味深そうに氷上の話を聴いていた格を見やった。
「昔話はまた今度にしてそろそろ始めるか。4時前には出掛けなきゃならん」
「あ、うん」
腕時計を見た氷上に、格は姿勢を正した。
「えーと、言われたとおりタオルぐらいしか持ってきてないけどいいのかな?」
「ああ。…蒔麻さんからだ。開けてみな」
氷上は、地下に降りてくる前からずっと持っていた紙袋を格に差し出した。格はその場で中身を取り出し、広げてみる。
出て来たのは真新しい白い着衣。
「これ――」
「空手着だ。サイズはたぶん問題ないだろう」
「これを…蒔麻さんが俺に?」
「おまえがここに通うのが嬉しくて仕方ないらしい。帰り際にでも会ってやってくれ」
「うん、もちろん」
最大の目的は武道の習練だが、大好きな蒔麻に会うことに吝かではない。格は笑顔で即答した。
「着方はわかるか?」
「たぶん」
「じゃあ道場の隅ででも着替えて待ってろ。俺も着替えてくる」
「はーい」
格は踵を返した氷上を見送り、道場の隅を陣取るとさっそく空手着を広げた。同封されていた帯は当然白いが、一日でも早くこの帯が黒になるほど強くなりたいと思う。
神之倉や氷上は、武道を習得でき、格が知りたい極道の世界も垣間見られるかもしれない一石二鳥を狙っていると思っているようだが、正しくは違う。
神之倉の隣りに立つには氷上を納得させなくてはならない。それなら、強くなったと氷上を認めさせるには、直接手解きを受けるのが手っ取り早い。
格が狙っているのは一石三鳥なのである。
欲張りな企みを思い巡らしつつ何とか着替えて待っていると、やがて氷上が戻って来た。
「―――…びっくりした。そういう格好も似合うんだなあ」
たっぷり数秒間氷上の姿に見入ってから、感嘆のため息と共に格は言った。
道場に入ってきた氷上は、白い道着に黒い袴を着けていた。普段は三つ揃いのトラッドなスーツに隙なく身を固めていて、理知的で荒事とは関わりないように見えるのだが、道着姿にもまったく違和感がない。
「長年着てるからだろ。…帯、結び方が違う」
いつになく素っ気なく答えた氷上は、格が自分で締めた帯の端を指先ですくって指摘した。そして一度帯を解かせ、格の背後に回って帯を掴んでいる手を取った。
「ここからこう回すだろ。…で、ここに入れて、引く」
「えーと、こう?」
「そう。もう1回ひとりでやってみな」
氷上に促されて、格は再度帯を解き、教えられたとおりの手順を繰り返した。最初に着たときと違い、きゅっと形よく帯が締まる。
「――OK。似合うぞ、格」
氷上の手のひらが、ぽん、と軽く格の頭を叩いた。
そして氷上は、道場を壁際に回り込んで神棚の正面に立ち、一礼してから道場の中央へ歩みを進めた。格も慌てて同じ動作をなぞり、氷上へ続く。
次に神棚に背を向けて腰を下ろした氷上に促され、向かい合って正座をする。
「よし、始めるか。よろしくお願いします」
「あ、はい、よろしくおねがいします!」
端座したまま頭を下げた氷上に倣い、格も頭を下げた。これはたぶん、格の方から先にするべきだったんだろうと気付き、次はそうしようと胸に留めておく。
「さて。まずは受け身の練習からいくか」
「受け身? 空手って受け身の練習すんの?」
「誰が空手を教えると言った?」
「え? あれ?」
蒔麻がくれたのも空手着で、空手・柔道・合気道で合わせて十段――てっきり、氷上の専門は空手なのだと思っていたが、違ったのか。
「わかってるよ。実戦武道が習いたいんだろう?」
「…うん」
「たしかに喧嘩をするなら空手だな。おまえの体格なら、2つ3つ年上相手でも有効的だろう。だが、それまでだ。今はまだ、筋力も腕力も足りない。相手が大人や有段者だった場合は、半年や1年習ったところで奇襲程度の役にしか立たない」
「――うん、はい」
悔しいけれど、氷上の言わんとしていることはよくわかる。格は素直に頷いた。
強くなりたい。自分の力で戦える人間でありたい。
せめて神之倉のお荷物にならないように、万が一なにかあったときには、最低限、自分で自分の身を守れるように――自分で望んで踏み込んだのだ。守られることに甘えてばかりはいられない。
だから、武道を修得したかった。
「まずは合気から教えるから」
「合気……って合気道?」
「はっきり言って、実戦向きではあまりない。自分から仕掛ける技がほとんどないからだ。だが、相手の動きや攻撃に自分の力を合わせることで、最小限の力で相手を投げたり関節を極めたりするものだから、力はさほど必要ない。その分、技術とスピードが必要だがな」
「護身術ってよく言われるけど、護身にしか使えないってこと?」
「攻撃力を逸らして抑えたり、無力化したりするのが主で、相手にダメージを食らわせるわけじゃないからなあ。だが、ある程度のレベルになれば、3、4人に囲まれても自分の身は確実に守れるだろうよ」
「…守って――どうすんの?」
「逃げる」
「……悔しくない?」
「まあなあ」
不本意そうに尋ねた格に、氷上は一応の肯定はしたが、あまり悔しそうには見えない。
「引くときは引くってのも策のうちだぞ」
「三十六計…なんとかってヤツ?」
「そう、逃げるに如かず。あとで倍返ししてやりゃいいのさ」
あっさりとそう言ってのけて立ち上がった氷上に、続けて腰を上げた格は訝しげな表情を浮かべた。
虚構と現実の差はあるのだろうし多くの凡例を知るわけではないが、格がこれまで自分で見て聞いてきたヤクザというのもは、“男”に拘るもののような気がしていた。
“逃げる”というと、なんとなく男らしくない情けない響きだ。見た目はいかにも頭脳派な氷上だが、逃げ出すような男には見えない。
そんな格の頭を乱暴に掻き乱して、氷上は笑った。
「“逃げるが勝ち”ってのとはニュアンスが少し違うぞ、格。逃げっぱなしでいるんじゃなくて、引いた後に勝つために立て直せってことだ」
格は、くしゃくしゃになった髪を直しながら氷上を見上げた。口許に浮かぶのはこれまで見たことのない不敵な笑みで、格は自分の思い違いを悟った。
「男は意地を張る生き物だからな、逃げるのを良しとしないこともあるさ。それにヤクザなんてモンは厄介なもので、逃げようが卑怯だろうが最後に残ったモン勝ちっていう風潮もあれば、メンツにかかわるから逃げるわけにはいかないって時もある。ケースバイケースだよ、格」
こうでなくてはいけない、というものはないのかもしれない。格は黙って頷いた。
氷上は小さく笑って、いまだ乱れている格の髪を直してやってから頭頂に手を置いた。
「基本が身についたら、平行して空手も教えてやる。それでいいな?」
「はい。よろしくお願いします!」
格は威勢良く言い放って、ぺこりと頭を下げた。
左右の受け身から始めて基本動作と初歩的な技を1時間半ほど教わっただけで、息が上がり汗が流れた。拭いながら氷上を見ると、涼しい顔をしている。やはりキャリアの差は大きい。
「俺も袴はきたいなあ」
氷上の黒袴を羨ましそうに見つめて格が呟いた。格の攻撃を難なく躱しひらりと翻る黒いそれが、いかにも有段者といった風情で憬れる。
だが氷上は格の要望に首を横に振った。
「正規の道場なら、男は初段以上じゃないと袴をつけられないのが一応の決まりだ。ここは単なる個人的趣味から造った道場だからそんな決まり事は関係ないが、ある程度実力つけてからじゃないと袴は向かないぞ」
「向かないから駄目なの? 動きにくいとか?」
「いや。合気道ってのは膝の動きが重要なんだよ。だから、その肝心の膝を袴で隠して自分も教える側も見えないんじゃ、稽古にならんだろうが」
「ふうん。初段かあ…。どうやったら取れんの?」
「町道場に通うか、中学上がって部活にでも入るかだな」
「氷上が教えてくれるのに?」
「おまえ、黒帯ほしいんだろ?」
「うん」
格は素直に頷いた。武道を習うなら、黒帯は当然の夢だ。やはり、白と黒とでは見た目の強さも違う気がする。
「武道場はあっても、うちは流派に属した道場じゃないからな。昇段審査なんて受けられないぞ」
「そうなの?」
「空手はいろいろと流派があって流派ごとに審査基準が違うが、合気道や柔道は年齢制限や稽古日数なんてのも昇段条件に入ってるからな」
どうやら、別の道場にも通わなくてはならないようだ。とりあえずは中学で何かの部に入って、あとは近くの道場を探すか、それとも――あれこれ考えていた格の頭を、氷上の手のひらが背後から柔く叩いた。
「そんなに袴がはきたいんなら剣道にするか?」
「氷上、剣道もやってたの?」
「いや、俺じゃなくて神之倉がな」
「マジ? 初耳! 士朗も段持ち?」
返って来た答えに、格は体の向きを変えて問い質した。
腕力の強さは身をもって知っている。格の手を振りほどくのも、格を抱き上げるのも、悔しいくらい実に軽々とやってのける。加えて、古賀沢の“力”が神之倉だと何度も耳にしていたので、強いのだろうとは思っていた。だが、本人からはその手の話は聞いたことがない。
「高校の頃は剣道部にいたから持ってるんじゃないか? だがあいつの専門はスポーツ剣道じゃねえからなあ」
「どういうこと?」
「演武でも見せてもらえ」
言って、氷上は道場の入り口に視線を移した。それを追って振り返ったそこに認めた人影に、格の表情が明るく輝く。
「士朗!」
格はぱっと身を翻して神之倉に駆け寄った。
今朝は会うことがなく、格が事務所にやって来た時間には蒔麻と出掛けていて留守だったので、神之倉の顔を見るのは半日以上ぶりだ。普段なら十分我慢出来る長さだが、出入りを許されてから初めて事務所内で会うので、何やら新鮮な気がして気分が弾んでしまう。
「なあなあ、剣道やってたってホント?」
「ああ、少しな」
「えんぶ? 見せてもらえって氷上が」
「今度な」
早々に断られて肩を落とした格の頭を、神之倉の大きな手が撫でた。
「似合うな、それ」
「蒔麻さんがくれたんだ」
「知ってる。気に入ってくれたかどうか気にしていたから、顔を出しておいで」
「うん」
「時間があるようなら、次の予定までお茶でもどうかと言ってる」
「わかった。すぐ着替えるから」
格は頷きつつ即答すると、道場の隅に置いてあった自分の荷物に向かって走って行った。
「ちゃんと汗ふいとけよ?」
「わかったー」
氷上から投げ掛けられた声を背中で受けて返事を寄越す格を一瞥し、氷上は神之倉へと歩み寄った。目顔で促し、連れだって戸口まで向かう。
「空き時間とはいえ、すまないな」
「引き受けたのは俺だぜ。気にするな」
氷上の答えに神之倉は頷いた。本心を巧妙に隠すが、気が向かないことをやる男ではない。
「素質はありそうか?」
「大ありだ。予想以上に運動神経がいい。動体視力も相当いいぞ」
「友達とサッカーくらいはやるらしいが…」
格と交わした会話を思い浮かべて神之倉は言った。
放課後に校庭でサッカーや野球などをして遊ぶこともなくはないそうだが、必須だというクラブ活動では運動部には入っていないのだと言っていた。稽古事の経験もないらしい。
「飲み込みもいいから、上達も早いだろう。あれだけ教え甲斐がある奴は久し振りだ。楽しかったよ」
氷上がこれほど褒めるとは思ってもみなかった神之倉は、わずかに目を見張った。教え方は上手いが、基本的に辛口なので、滅多なことでは誉め言葉など口にしない。
道場の中に視線を戻し、神之倉は格を探した。ちょうど、着替え終わって身支度を済ませた格が、デイバッグを肩に担いだところだ。
氷上が入れ込んでいて、格にもやる気と素質がある。教える方と教わる方が噛み合っているときの上達は、相当早い。
どこまで強くなるつもりなのか――自ら戦うことを選んだ格に、神之倉は目を細めた。
格が組長室に入って行くと、涼しげな絽の着物を着た蒔麻が満面の笑顔で出迎えてくれた。
氷上は着替えと出掛ける支度のために自室へと戻り、格を連れて来た神之倉は仕事があると言ってすぐに出て行ってしまったので、室内には格と蒔麻の2人だけだ。
一見した姿はそうは見えなくても、蒔麻はれっきとした古賀沢組四代目組長で、このビルは本部事務所だ。組長室と聞いてどんな部屋なのかと思っていたが、観葉植物が置かれ、壁にはリトグラフが掛かっていて、企業のオフィスと見紛うばかりにシンプルで品がいい。
「神之倉がいられなくてゴメンね。忙しい人だから」
革張りのソファの上で、蒔麻が格に詫びた。格はあっさりと首を振る。
「マンションで会えるから平気。それに俺、ここへは蒔麻さんに会いに来たんだよ?」
「相変わらずうまいなあ」
嬉しげに微笑んで蒔麻は言ったが、今のは格の本心だ。
「道着ありがとう。すげえ嬉しかった」
「サイズは大丈夫だった?」
「うん、ぴったり」
「これから背も伸びるし体も大きくなるだろうから、すぐ小さくなっちゃうわね。そしたらまた買ったげるね」
「そんなの気にしないでいいよ」
格は慌てて首を振った。事務所に出入りさせてもらって、仕事の合間を縫って稽古までつけてもらっているというのに、これ以上古賀沢の人たちの好意に甘えていられない。
だが蒔麻は楽しそうにうふふと笑って、
「いい男に投資してると思えば全然たいしたことじゃないわ。なんだか、竜彦さんの気持ちがようやく解った感じ」
「旦那さん…の気持ち?」
「いい男が大好きだったのよ、竜彦さんって。人材発掘が趣味でね、好みのタイプは“強くて美形”なんて欲張りな人だったわ」
「格闘技マニアだって氷上に聞いたけど」
「うん、だから身も心も強い人が好きなのよ。それに品格があれば言うことなしなんですって。神之倉と氷上が古賀沢に入ったとき私はまだいなかったんだけど、ものすごい喜んだらしいわ」
神之倉は、苦み走った端正な顔をしている。氷上も整った顔立ちで、グレーがかった色彩が目を引く。強さについては、身心共に2人とも文句なしだ。
強さに見目良さが兼ね備わっていることはなくはないが、品格もあり、それが2人同時にとなるとなかなか難しいかもしれない。
「旦那さんって、どんな人だった?」
「そうねえ。豪放磊落なんだけど、意外と気配り上手だったわね」
「10年間そばにいたって前に言ってたけど、もしかしてお嫁に来たのって10代…?」
「18の時よ」
「若ッ!」
「東子ちゃんには負けるわよー」
「あ、そっか」
格の母の東子は、17歳で格を産んでいる。亡くなった格の父親と籍を入れたのは16歳の時だ。
蒔麻も洋装の時は年より若く見えるが、東子も相当見た目が若い。格が少し大人びているので、年の離れた姉弟といっても通じるほどだ。
蒔麻はその当時を思い出したのか、懐かしげな瞳をした。
「私、施設で育ってね。その施設を取り壊しに来たのが竜彦さんだったのよ」
「――ひょっとして、いい出会いじゃなかった?」
「最悪ね」
言葉とは裏腹に、明るく笑って蒔麻は断言する。
「いい施設でね…園長先生もすごくいい人で。施設を出てからもちょくちょく顔を出してたんだけど、ある時ね、ヤクザに立ち退けって言われてるっていうじゃない?
ふざけんな!って怒鳴り込んだのよ、私」
「……組長さんに、直接……?」
「そう、直接」
平然と笑った蒔麻を、格は感嘆の眼差しで見つめた。
今でこそ蒔麻とこうやって気軽に話せるが、それは組長だと知る前に出会ったのと、蒔麻の人柄のせいもある。
古賀沢の組長が蒔麻だと知らなかった頃は、やはり組長はそれなりに強面で、迫力ある人物なのだろうと漠然と思っていたものだ。ヤクザというものへの先入観もあるし、先代は武闘派の組長だったと神之倉から聞いていたせいもある。
若い女性がよくもひとりで乗り込んだものだ。
「怖くなかった?」
「怖かったけど、許せない思いの方が強くて。しかもその時、思いっきりひっぱたいちゃったのよねー、竜彦さんを」
「うわ…」
「いまでは怖いもの知らずだったなあと思うわよ」
蒔麻は苦笑した。相当興奮していたのか先代組長以外のことはあまり覚えていないが、顔色を変えて数人が踏み出したのを先代が片手で制したのは覚えているという。
ドラマや映画なら、あえなく捕らえられてしまうか放り出されてしまうところだが、ここからの展開がひと味もふた味も違った。
威勢のいい啖呵を切って自分をひっぱたいた18歳の蒔麻に、古賀沢竜彦は本気で惚れてしまったらしい。
「も〜、プレゼントやら口説き文句やら大攻勢よ。あれは恥ずかしかったわ」
「え、でも、施設の取り壊しを反対して乗り込んできた人がOKすると思ってたのかな?」
「神之倉や氷上に言わせると、思ってたらしいわよ?」
豪放磊落で自信家で――聞いた限りの竜彦の性格を並べ立ててみた格は、なるほどと思う。
かつて34歳の年の差と聞いた時は何が決め手だったのかと思ったが、52歳の男が自分をひっぱたいた18歳の女に惚れたといっても、年下趣味や被虐趣味ではなく、蒔麻が“強くて美形”という好みのタイプにぴたりとはまっていたからだったのだ。
だから口説いた。ある意味、非常に解りやすい。度量が大きく快活で、小さなことにこだわらない――まさに豪放磊落だ。
「で、結局立ち退きの話はどうなったの?」
「詳しい話を聞いたらね、施設の運営で借金があって、土地建物が抵当に入ってたの。借金を返せなくて土地を売っちゃって、それを買ったのが古賀沢だったから――」
立ち退きの勧告にあたって、ヤクザゆえに多少怖がらせたのは事実だが、怒鳴り込まれた上に力いっぱいひっぱたかれるほどのことではなかったのだ。
「それなのに、私が怒るのに付き合ってくれてたのよ。それを知ったとき、参ったなあ…って」
困ったように笑う蒔麻の頬がほんのりと赤らんだ。10年連れ添っても、死別しても、想いは当時と変わらないらしい。
「なんてプロポーズされたの?」
「お前はなんの心配もしなくていい、ただ俺を信じていればいい、だから俺んとこに来いって。すっごい自信満々よねえ」
実際その通り、蒔麻が行く先を心配していた施設は取り壊されたが、竜彦が代替地に新しい建物を自ら建てさせ、閉鎖を免れた。蒔麻の実家に等しいのなら、夫になる自分にとっても実家のようなものだというのが、竜彦の言い分だった。
「なんというか……でっかい人だね」
格は嘆息してそこまでの感想を口にした。
神之倉にせがんで聞き出した限りでは、古賀沢の全盛期に頭に立っていただけあって、その迫力も武勇伝の数々も図抜けていたようだ。
けれども、素顔を垣間見ると人間的魅力も十分で、蒔麻を好きなぶん親しみも深く感じる。
若い頃の神之倉や氷上のことも含めてもっといろいろとエピソードを聞こうと身を乗り出した格だったが、そこに至ってあることに気が付いた。
訝しげに眉を寄せ、蒔麻の顔を凝視する。
「格くん?」
「…ちょっと顔色悪いよ、蒔麻さん。具合悪い?」
「え? そう?」
蒔麻は頬に手を当てて首を傾げた。顔色が悪いなどと思っても見なかったというその様子に、格はじっと考える。
東子もたまにこういう時があった。格に言われてやっと具合の悪さを自覚する。仕事のことなどで気が張っている時が多い。
格は立ち上がり、蒔麻の座っているソファに近寄った。
「座っていい?」
蒔麻の隣を指さして、格が尋ねる。蒔麻は頷きながら格の座る場所を空けるためにソファの上を移動した。
腰を下ろした格は、おもむろに蒔麻の手を取って、軽く握った。
指先が、ひんやりと冷たい。
「冷え性とか、ある?」
「ええ、少し――」
格は指先から蒔麻の顔へと視線を移した。
変わらず美しく魅力的な蒔麻の笑顔が、少し陰って見える。
「疲れてるだろ、蒔麻さん。無理しちゃダメだよ?」
「…平気よ。ありがとう」
蒔麻は微笑んだが、それならいいと引き下がる気は格にはなかった。
蒔麻の冷たい手を手のひらですくい上げるようにして握り、じっと目を覗き込む。
「あったかくなるまでこうしてるからさ、ちょっと寝たら? 寄っかかっていいから」
その申し出に目を見張った蒔麻が、ふにゃりと笑み崩れた。化粧と隙のない和服に隠された蒔麻の弱い部分が垣間見られたような気が、格にはした。
蒔麻は肩の力を抜いてソファの背もたれに体を預ける。
「じゃあ、少しだけ肩貸してもらっていい?」
「いいよ」
格の返事を待ってから、蒔麻はその肩にそっと頭を乗せた。まだ華奢な肩なのに、ひどく心が落ち着くのは何故なのだろうと思いながら。
「ほんと、いい男よね。参るわ…」
小さく呟いたのを最後に、蒔麻は口を噤み、目を伏せた。
やがて規則正しい微かな寝息が聞こえて来て、格はほっと息をついた。
ずっと母親の東子を見続けてきたせいか、強くいようと覚悟を決めて生きている女性に弱い。傍にいて、守りたいと思ってしまう。
けれども格は、誰より傍にいたい人に出会ってしまった。
心も体も強い神之倉の傍らにいるために、自分も強くなりたかった。
とりあえずは体の強さを手に入れようと一歩踏み出してみたが、時折ふと考える。武道を修得すれば強いと言えるのだろうか。
強さとはなんなのだろう――ぼんやりと宙を見つめて、格は思った。
その時ふいに、ドアをノックする音がした。
慌ただしさのない静かで落ち着いた音に、蒔麻は目を覚ます気配がない。格は座ったままドアの方へと視線を動かした。
扉を開けて顔を出したのは神之倉だ。
格は、唇の前に人差し指を翳して見せた。ちらりと動かした格の視線を追うように蒔麻を見た神之倉は、すぐに状況を把握したらしく小さく頷いた。
そっと元通りに扉を閉め、ドアに背を向けて立った神之倉は、その場で煙草を銜える。
1分でも長く寝かせてやりたいのは神之倉も同じだ。まだもう少し、出掛ける時間までには間がある。蒔麻は寝起きはいいので、ギリギリになったら起こそうと、この場で待つことにした。
西日が射し込む廊下で、ゆったりと煙草を燻らせて待つ。
半分ほど吸い終わったところで、廊下の向こうに見慣れた姿が現れた。
神之倉を視認した佐伯は、小走りに、しかし足音を荒げることなく近づいてきた。
「どうした?」
佐伯の顔に緊張を見て取って、低く小さな声で神之倉は尋ねる。
「いま連絡が入りまして――」
小野田が動いた、と佐伯は言った。
神之倉の顔から表情が消えた。佐伯は息をのみ、その横顔を見つめて知り得た情報を口にする。
黙ってそれを聞いていた神之倉は、最後にひとつ頷いて、背にしていたドアのノブに手を掛けた。
−続−
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