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Vol.4 強さの意味 (1)
「神之倉があんな風に表情変えるの、初めて見たわ」
嘆息して、蒔麻が呟いた。
一向に涼しくなる気配のない夏の夕刻。
冷房の効いた室内が室温以上に冷えて感じるのは、数分前にこの部屋を出ていった神之倉のせいかもしれない。
「やっぱり軽率だったかしらね?」
悄然と肩を落として尋ねる蒔麻に、氷上は苦笑を返す。
「呼んじまったもんは仕方ないでしょう」
「…神之倉のお説教って怖い…?」
「あんた相手に怖い説教はしないと思いますよ、たぶん」
「やっぱり怖いんだ…。そうよねえ。怒ってたもんねえ」
蒔麻は自分の肩を抱いて身震いした。
神之倉は組員を叱る姿を蒔麻に見せない。怒りをあらわす時も、烈火のごとく怒ることは滅多になかった。それだけに、青白い炎のような静かな怒りが恐ろしいのだが。
しかし、その上を行く“本気”の怒りがある。10数年におよぶ付き合いの中で、蒔麻は何度か目にしていた。
そんな蒔麻の心中を察したのか、氷上はもう一度苦笑を浮かべて首を横に振る。
「いくらなんでもそこまで怒らないでしょうよ。ありゃ特別です」
神之倉がそれほど怒るようなことなら、氷上はどんなことをしてでもその原因となるものを隠蔽した。氷上とて、神之倉を本気で怒らすなど御免蒙りたい。
「一緒に怒られてあげますよ。俺も、怒られるような約束しちまいましたしね」
氷上はそう言って、指先に挟んでいた煙草を口に運んだ。
無言で車を走らせる神之倉を横目で見上げて、格は何度目かの開きかけた口を閉じた。
目の前の横顔はいたって静かなのだが、20分ほど前に見た光景が脳裏に焼き付いていて、どう声を掛けたらいいのかわからない。
3日のあいだ名古屋へ出向いていた神之倉を、格は古賀沢組の事務所で出迎えた。街中で偶然蒔麻と遭遇し、事務所に寄っていかないかと誘われたのだ。
初めは迷惑だろうと遠慮したが、蒔麻は構わないと言う。そして、神之倉を事務所で出迎えて驚かせてやれという蒔麻の言葉に、格は頷いてしまった。
たしかに神之倉は驚いた。今まで格が見たことのない驚きようだった。
そして、驚いただけでなく呆然とする神之倉を、格は初めて見たのだ。
神之倉はすぐさま我に返ったが、ゆっくりと蒔麻を見た瞳は強く険しい色をしていた。なぜ格がここにいるのかと蒔麻に尋ねた口調こそ静かだったが、有無を言わせぬ迫力があった。
蒔麻の説明を聞き、氷上を無言で見遣り、神之倉は格を連れて事務所を出た。
佐伯が裏口に回した車に乗り込み、自らハンドルを取って10分。事務所を出てから、神之倉はまだひと言も喋っていない。2人の住んでいるマンションはもうすぐそこだ。
格は、意を決して神之倉に視線を向けた。
「ご――ごめん、なさ…い…」
やっとのことで声を絞り出した。神之倉から返事はない。
「ごめんなさい…。士朗の邪魔するつもりは全然なかったんだけど、ただ、士朗のこと驚かしたくて――…」
必死に神之倉を見上げていた視線が段々と下がっていき、声が小さくなっていく。神之倉は無言でハンドルを切り、マンションの地下駐車場に入った。
定位置に、切り返しもなしに流れるように車を停める。見るのは2度目になるその滑らかなハンドル捌きに、格は感嘆のまなざしを注いだ。
そんな格に、車のエンジンを停めた神之倉が笑みを向ける。
てっきり怒っているとばかり思っていたので、驚きにぽかんと口を開けてしまった格のしていたシートベルトの金具を、伸びて来た神之倉の手が外した。
「事務所に来たかったのか?」
「え…うん……。俺みたいなガキが行ったら邪魔になると思ってたから、言ったことなかったけど…ごめん……」
「もう謝らなくていい」
「だって怒ってる」
「怒ってないよ。古賀沢のトップは蒔麻さんだ。あの人がいいと言ったならいいんだよ」
神之倉は微笑んで格の頭を撫でた。
「じゃあなんでひと言もしゃべってくんなかったんだよ。3日ぶりなのに――」
神之倉が組の用事で出掛ける時は、格からは電話をしない。どんなに掛けても構わないと言われても、格はそれを崩す気はなかった。
そういうわけでいつも神之倉の方から掛けてくれるのだが、立場上なかなか1人きりになる機会がないようで頻繁にというわけにはいかない。
今回は一度も電話はなかったので、声を聞くのは3日ぶりなのだ。
神之倉は、悄げ返って俯く格の頭を片手で引き寄せ、肩に押しつけるようにして抱いた。
「悪かった」
「謝ってほしいんじゃない」
「…ただいま」
「――お帰りなさい」
格は腕を伸ばして神之倉にしがみついた。運転席と助手席というこの距離がもどかしくて、背中に回した手に力を込める。
「もう少し待っててくれ」
「なにを?」
「夏休み中に、1日どこかに行きたいって、お前言ったろう?」
神之倉の言葉に、腕の力を緩めて体を離した格が心配そうに見上げてきた。
「言ったけど――無理しなくていいよ?」
格は、昨日から夏休みに入っている。格の休みは1ヶ月以上あるが、神之倉はそうはいかないだろう。1日でいいからずっと傍にいたいというのは本音だが、そのために無理をさせる気はない。
「いま佐伯に調整させているから大丈夫だ。8月に入ってからになるが、どこに行くか考えておけよ」
「…うん」
格はにっこり笑って身を乗り出し、神之倉の唇に触れるだけのキスをした。そして助手席のドアを開け、するりと車から降りる。続いて運転席から降りようとした神之倉を、車の中を覗き込んだ格が止めた。
「いいよ、ここまでで。すぐ組に戻るんだろ?」
「…ああ」
そして神之倉は、駆けてゆく格の背が地下のエレベータホールに消えるまで見送って、再びエンジンキーを回した。数秒、顔を動かさずに視線を巡らせ、周囲の様子を確認する。
やがて車は滑るように動き出したが、地上に出ても、眼差しの険しさは変わらなかった。
「名古屋で小野田俊雄を見掛けた」
組に戻った神之倉は、人払いをして蒔麻と氷上、そして自分との3人だけになった部屋で、そう切り出した。
「――名古屋にいたのか」
名を耳にした途端、濃灰色の瞳に冷たい光を湛えた氷上が、低く呟く。
「探りを入れてみたが、佐川会派の組員と盛んに会っているようだった。どこも小野田を相手にしていた節はないがな」
小野田俊雄は、かつて古賀沢の資金繰りの一端を担っていた経済ヤクザの典型のような男で、2年前に古賀沢で跡目相続争いが起きたときに、最後まで蒔麻の組長就任に反対した男だった。
先代組長の古賀沢竜彦の死が突然だったため、特に跡目として指名されている者がいなかった。
慣例通りなら当時の若頭だった瀬尾が候補の筆頭で、他にも数人の候補がおり、若頭補佐だった小野田にお鉢が回ってくるはずもなかった。
だが瀬尾は62歳という年齢を理由に跡目相続を辞退し、瀬尾以外の古参組も世代交代が進んできているとして組内の若返りを提案、跡目の対象者の中に小野田も含まれた。
そこから小野田の積極的な買収活動が始まり、組内は小野田派とあと2人の候補との3派に別れ、睨み合う形にまでなった。
小野田の動きは時にあからさまで時に巧妙だった。自分についた場合の利潤をちらつかせ、言葉巧みに誘う。その手の誘いに乗ってきそうもない者に対しては、組に対する忠節と想いを熱く語る。
もともと口が巧く外面のいいところがあった男で、傘下組織の者だけでなく幹部の半数がその口車に乗りかけた。
だが、小野田の利益優先に走りすぎるところをよくは思っていない者も多かった。若頭の瀬尾もその1人で常々小野田を窘め抑えてきたのだが、この時も徐々に本性を現し始めた小野田にすぐに気付いた。
その瀬尾が対小野田として担ぎ出したのが蒔麻だった。
もとより蒔麻は、若いながらも古賀沢内で慕われていて“姐さん”としても不足はなかった。そして蒔麻の両脇に、当時すでに古賀沢竜彦の懐刀との声も高くそれなりの地位にもいて、組内の若返り方針が決定した当初は若年ながら組長候補にまで名前が挙がっていた神之倉と氷上を据える。2人なら、蒔麻を支えるに不足はない。数年は自分たち古参組員がそれを補助する。
その案に鎌倉の御大・神宮寺成生が全面的に賛同して、蒔麻の四代目就任が決まった。
関東に一家を構える者にとって、神宮寺の名と存在は絶大な力を持つ。その神宮寺が強く推し、そして跡目に推されたあとの蒔麻のお飾りではない強さを目にした者は、多少様子見の姿勢であったとしても蒔麻を跡目と認めた。
しかし、それで小野田が納得するはずもなかった。
巧妙な襲撃が数度。古賀沢で小野田の受け持っていたルートとは別の資金源も、小野田の手回しで打撃を受けた。蒔麻も、その補佐に就いた神之倉と氷上も、まったく気を抜けない日々が3ヶ月続いた。
小野田の無理な票集めでバランスの取れなくなった財政面での立て直しに奔走しながらも、氷上と神之倉は、小野田の資金源をひとつひとつ潰していった。もともと人望は薄い男だ。金が回らなくなれば動きも取れなくなる。
結局、瀬尾が幹部達を取り纏め、小野田の破門が決まった。関連全組織に赤字の破門回状が届けられ、小野田は姿を消した。
だが、危なげなく安定していた組をさんざん掻き回していった小野田が残した傷は、深く大きかった。最近になってやっと、先代の晩年に近い安定感を取り戻しつつある。
「潜伏して資金源を作っていたのか――」
「佐川会はうちの属する荻生会とはそれほど関係が深くないから、末端の組織には回状の回っていないところもあるはずだ。そことなら商売も出来なくはないが…」
「民間企業にもパイプを持っていたな。復活することがあり得るかどうか」
裏社会絡みの資金源も、すべてを完全に潰せたわけではない。若頭補佐にまでなった男だから直接使える人間の20や30はいて、そのうち小野田と共に姿を消した者が10数名いる。
「昔はあんなじゃなかったって、竜彦さん言ってたわ」
ぽつりと蒔麻が呟いた。
「才気走ったところはあったけれど、分を弁えられる奴だったって。何とかしてやらなきゃなあって。いま思えば、いつか暴走するかもしれないことを何となく予想してたのかもね」
蒔麻の指先が、うなじの後れ毛を掬い上げた。
竜彦が生きていた頃は何かの行事や改まった場でしか見られなかった和服姿だが、四代目を襲名してからは和服でいることのほうが多い。竜彦の女房になるまでは和服とはまるっきり無縁の暮らしをしていたのに、今ではすっかり板に付いている。
「2人は、小野田がああなった理由は知らないの?」
「…俺らが古賀沢に入った頃にはもう、ああいう人でしたから」
「理由がわかったところで、奴はもう戻れませんよ。この世界でなくした信用は戻ることのほうが稀です」
絶縁や除名と違って、破門は相当期間の後に復縁できる余地はあるが、小野田の場合は幹部の誰もが復縁を良しとはしないだろう。
神之倉と氷上の相次ぐ返答に、蒔麻は肩をすくめて見せた。
「竜彦さんが気にしていたから私も気になっただけ。戻すつもりはないわよ。たとえその“理由”がどんなに同情すべきものでも」
いつもはどちらかといえば柔らかく笑っている蒔麻の眼の光が険しさを増し、古賀沢を背負う顔が現れた。
「昔はどうあれ、古賀沢に噛み付くつもりなら野放しにしておくわけにはいかないわ。竜彦さんだってそうしたはずよ」
「そう仰るだろうと思って追尾を付けておきました」
とは言っても本拠を構える関東ならいざ知らず、名古屋では自由がきかない。連れていった組員の1人を残し、先代の時分から関係の深い組の信頼をおける人物に、深追いの必要はないが動向だけ把握できればと、それだけを頼んで来た。
「十分だわ。ありがとう、神之倉」
全幅の信頼をおいた眼差しに、神之倉はただ黙礼した。
年齢が近いこともあり、蒔麻が古賀沢に来た時から神之倉と氷上は蒔麻のそば近くにいた。三代目は己の側近として2人を常に伴ったが、それは蒔麻のためでもあったのかもしれない。
「新横浜から事務所まで、それからさっきこの近辺を見てきた限りでは、特に異常はないようだ。名古屋でもいまのところは目立った動きはないが、気をつけていてくれ、氷上」
「それで、格が事務所にいたのに必要以上に過剰に反応したわけか」
神之倉の言葉への返答としてはずれていることを氷上が口にした。虚をつかれ一瞬だけ訝しげな顔をした後、神之倉は眉間に皺を寄せ、氷上の視線を受け止める。
「――…出来るだけ、ここに近寄らせるのは先のことにしたかったんだがな」
「無理だ。お前は自分ひとりで守ろうと思ってるんだろうが、お前の体がお前ひとりのものじゃない限り、どうしたって限界はある」
若頭である神之倉は古賀沢の“顔”である。そして、四代目組長である蒔麻の手足でもあった。組を再び安定させるのに不可欠な存在で、他の者に任せておけない仕事も多い。
たとえ体がふたつあっても、氷上の言うとおり限界はあった。側近の佐伯にすら何も明かしていない上、格を守るためにそれとなく舎弟を使うといったこともしていないのだ。
「幸いお前にはお稚児趣味の噂も男の噂もないからな、当分の間は今の状態でも問題ないだろう。だがあいつがお前のイロであることに変わりはない」
「…そうだな」
神之倉は苦笑して、あえて軽い調子で放たれた氷上の言葉を認めた。
「だが、あいつは堅気の人間だから――」
「耄碌するには何十年も早いぜ、神之倉。お前があいつのことを受け入れた時点で、あいつはもう完全なる堅気じゃねえんだよ。違うか?」
「……違わないな」
「外からじゃあ極道の全貌は見えない。知識じゃなく、中に入った者が肌で感じてみないことにはわからん世界だからな。だから知りたいとあいつは思ってる。ここがお前の生きてる場所だからだ。…気付いているんだろう?」
「ああ」
とうに気付いていた。神之倉の言動のすべてを洩らさぬよう、格は体中を、髪の先までもアンテナのように敏感に、知識以外の何かを得ようとしている。感じたすべてを体で記憶しようとしているかのように。
「この世界から遠ざけておきたいお前の気持ちもわかるがな、あいつの腹はとうに決まってるぞ。だったら、目の届くところにいた方が守りやすいだろうが」
「……そう、だな」
それなりに年齢がいっているなら自ら選んだ道なのだからかまわないと思えるのだが、弱冠12歳となると、本来なんの関わりもなかった世界に無理矢理に引き込んでしまったかのように思えてしまう。
もちろん格は自ら望み、選んで、神之倉の懐に飛び込んできた。神之倉もそれは承知している。わかっていて、格を受け入れたのだ。そのことについて後悔はない。
だが、中身がどうあれ世間的にはまだ小学生だ。普段はあまり意識しないが――というより忘れてしまうが、だからこそ格が小学生だと思い出したときの衝撃が大きい。
神之倉が堅気の人間だったなら、これほど迷いはしなかっただろう。だが神之倉がヤクザである限り、神之倉に近づけば近づくほど、格は極道の世界にも近づいていく。神之倉自身には、この道に踏み込んだことへの後悔など僅かほどもないのだが、それが格のこととなると話は別だ。
何かの拍子に思い出しては、自問自答せざるを得ない。わかっているのに、最後にはこれでいいのだろうと結論を出すのに、もう何度も同じ問いを投げかけ続けている。いつまでも、これは繰り返されるのかもしれない。
「ま、そういうわけで明日からここに通うから、あいつ」
「何がどういうわけでそうなるんだ」
脈絡もなく突然宣言した氷上に、神之倉は困惑気味に顔をしかめた。“極道”というものから遠ざけないにしても、事務所に通うとはどういうことなのか。
「俺は一緒じゃなかったんだが、昼間、この人がまたやらかしたらしくてな」
「……今度は何を?」
苦笑と共に氷上が親指で蒔麻を指し示し、神之倉は蒔麻に向かって尋ねた。蒔麻は、革張りの立派な椅子の上で身を縮めて、素知らぬ顔をして視線を逸らす。
蒔麻の代わりに、氷上がそれに答えた。
「街中で、真っ昼間にばーさんのハンドバッグをひったくったガキどもがいたんだと。で、そいつらの乗った自転車を無理矢理止めて、殴りかかってきたところを」
「逆にやり返した、と」
氷上の後を引き取った神之倉に、氷上はしかつめらしく頷いてみせた。
「だ、だってね、杖ついたおばあちゃんだったのよ?」
たまりかねたように、蒔麻が弁解の声を上げた。
極道の女だ。正義感が強いというわけではない。ただ、子供や老人などに弱く、そんな非力な存在に対しての力任せの横暴を許せない質だった。義侠心に篤いのだ。
相手が抵抗しうる力を持っている場合には容赦しない。神之倉と氷上が知る限り、先代組長の横っ面を腫れあがるほどひっぱたいた女は、蒔麻ただ1人だ。
「で、まあ、それを偶然通りかかった格が目撃して、会話の流れで俺が段持ちだと蒔麻さんに聞いたらしくてな。教えてくれってさ」
過剰なまでに厳格で古風な祖父に育てられた氷上は、インテリな見た目とは裏腹に、空手・柔道・合気道で合わせて十段の段位を持っている。しかも、高校卒業後に古賀沢入りする前までに得た段位なので、実力は段位以上だ。
蒔麻が古賀沢に来てから身につけた護身術は、すべて氷上が教えたものだった。
――崖にぶら下がってても、海で溺れてても、士朗が来てくれるまで頑張る。何があっても。でもいつか、自力で這い上がって士朗のところへ行けるくらいになりたい――
そんな格の言葉が、神之倉の脳裏を過ぎる。有言実行を目指しているのが格らしい。
「たしかにここには先代の作った道場があるが……習えるところは他にいくらでもあるだろう。それにお前、そうそう教えてもいられないだろうが」
「だから、俺の時間の空いている時だけな。だが、ここでなら町道場では教えてくれないことも教えてやれるし、目も届くし、一石二鳥だろう?」
氷上はそう言って、不敵な笑みを浮かべた。言葉の意味を瞬時に理解した神之倉は苦笑した。
「……あんまりえげつないことばかり教えてやってくれるなよ?」
たいていの町道場は、スポーツや護身術として武道を教える。しかし、ここは道場はあっても看板を掲げて生徒を募っている教室などではない。
「わかってるよ。基本はきちんと教えるさ」
氷上は真意の読めない微笑を神之倉へと向けた。
そして、ひと言弁解した以外は黙って2人の話を聞いていた蒔麻が、長く深い溜め息をつく。
「…蒔麻さん?」
「――…神之倉、ものすごく怒ってると思ってたから、肩に力はいっちゃってたわ」
蒔麻は苦笑を浮かべて椅子の背もたれに身を預け、肩から腕にかけてを揉みほぐしながら言った。神之倉は即座に頭を下げる。
「すみません。小野田のことで気が張っていたところで、思いがけない顔を見たもので――」
己の未熟さを恥じて謝る神之倉に、蒔麻は慌てて首を横に振った。
「謝まらなくていいわよ。他のことならともかく、小野田が関わってるなら当然だわ。2人には苦労かけたものね。私の方こそ、勝手に格くんを呼んだりしてごめんなさい」
「あんたがいいと言って、格が望んだのならいいんですよ。謝らんでください」
「……ありがと、ふたりとも」
泣き笑いにも似た表情の蒔麻が唐突に洩らしたひと言に、神之倉と氷上が顔を見合わせた。
「…何がです?」
目で譲り合ってから神之倉が問い返したが、蒔麻は小さく首を振っただけで問いには答えなかった。
「…お見通しだったみたいだな」
組長室を出て2人並んで廊下を歩きながら、氷上がぽつりと呟いた。続きを促した神之倉に、氷上は微苦笑を返して立ち止まる。
「あの人は強い。器もでかい。先代が女房にして、御大が選んだだけある、古賀沢の頭に立つに足る人だ」
「ああ」
「だがあの人にだって、寂しいとか、辛いとか、口にはしないがそんな思いもあるはずだ。泣き言は口にしない人だから、溜め込んでやしないかと心配になる」
「…そうだな」
先代が亡くなる前の状態に組を戻すために気を張っている今はそれほど感じていないだろうが、ほんの少し疲れが見えてきていると神之倉も思っていた。
「だから、格に来てほしかった」
「…何故だ?」
「蒔麻さんがあいつを気に入ってるからさ」
口に出さなくとも肌で感じる蒔麻の寂しさや苦しさを、神之倉や氷上は立場上慰めることが出来ない。
だが、格にならそれができる。言葉や行動ではない。その存在が、蒔麻の救いになる。
「こんな道具のような使われ方をしてほしくはないか」
「……いや、実は俺も考えた」
「――は…っ」
目を見張った氷上が、弾かれたように笑った。
「極道だな、お前も俺も」
何者も越えられない人が在る。その存在を守るためなら、どんなエゴも通す。
杯ひとつで結ばれているこの“縁”は、時としてひどく打算的で外側の殻でしかないこともあるが、そうでない場合はこれほど強固なものはない。
「だが、あいつをこの世界に近づけることについて、どうしても迷わずにはいられない。何度も迷って、同じ結論を出して、また同じことで迷うんだ。――情けないな」
「お前ほど物事に迷わない奴もいねえからなあ。ひとつくらい迷いまくるもんがあってもいいんじゃないか? 格もいろいろ迷ったりもがいたりしてることだし、フェアでいいさ」
「フェア、か」
繰り返して、神之倉は苦笑した。
これまで、神之倉には迷いがなさすぎた。その潔さが、氷上の懸念でもあった。
常に“古賀沢”が第一にある。そして、己の血肉すべてを古賀沢のために使う覚悟がある。
それは氷上も同じだが、神之倉のそれは潔すぎるのだ。必要とあれば、今この瞬間にも死地に飛び込むだろう。
もちろん、初めから死ぬために動くような男ではない。氷上の知っている神之倉なら、自ら死を選ぶことは絶対にない。
だが、死に対して妙に悟りきったところがあり、泥にまみれても、生き恥をさらしても生に縋りつこうとするような泥臭さがなかった。後を氷上に託し、最後の最後まで戦って、屈することなく戦いながら死ぬだろう。
だが格の存在が、それを変えつつある。何度も迷い悩むほど、格は神之倉の中で重要な位置にいる。
血と死の世界から、格の元へ帰ろうと神之倉が思ってくれればいい。そう、氷上は思う。
そうすれば、筋金入りの頑固者の神之倉のことだ。傷を負っても、死神に抱き留められても、ほんの僅かでも可能性がある限り、生きようとするだろう。
「氷上?」
ふいに押し黙ってしまった氷上を覗き込むようにして、神之倉が声をかけた。
氷上は無言で手を翳してなんでもないという意思表示をすると、スーツの内ポケットから煙草を取り出した。タイミング良く差し出されたジッポーの火に、銜えた煙草を寄せて火を点ける。
「どうした?」
紫煙越しにじっと見つめてくる氷上に、自分の煙草にも火を点けてから神之倉が問い掛けた。
「……」
見事なまでの潔さが、いろいろな意味で憎らしい。
氷上は、感情の赴くまま、手のひらで神之倉の頭をはたいた。
「何するんだ、突然?」
「うるせえ」
神之倉の非難をひと言で撥ね付けて、氷上は背を向けた。そして、2、3歩進んで肩越しに振り返る。
「手が回らない時は言えよ。――あいつのことは、俺も気に入ってるんだ」
そう言って再び歩き出した氷上は、今度は一度も振り返らずに廊下の向こうへと消えた。
ひとり残された神之倉は、叩かれて乱れた髪を掻き上げて、口の端に小さな笑みを浮かべた。
神之倉がやっと一息ついたのは、それから2時間後だった。
事務所内の自分の部屋へと移動し、落ち着く間もなく佐伯を呼んだ。
3日の間に溜まった神之倉が目を通さなくてはならない書類を手にやって来た佐伯に、それとなく事務所周辺と縄張り内に目を配ることと、名古屋からの連絡は動きがあってもなくても全て自分に伝えるよう指示を出す。
さっそく見回りの手配をするべく出て行った佐伯を見送ると、書類の束を手に取った。書類は佐伯の手で、神之倉が見やすいように重要度の高いものから順に纏められている。
しばらくの間、脇目もふらずに書類に目を通し続けた。事務的な書類はたいてい氷上が処理するが、若頭という立場上、目を通しておかなくてはならないものもある。特に、2年前に弱体化しかけた部分を急ピッチで以前の状態に戻しつつある今は、あらゆる動きがめまぐるしく、神之倉の仕事も山とあった。
煙草の煙を深く吸い込み、腕時計へ目を遣った。午後9時を少し回ったところだ。
こうしている間も、小野田の動きが気になった。今は大きな動きを起こせる状態ではないとは思うのだが、どうしても気が張り詰める。
小野田のことを考えると、ざわざわと胸の中に波立つものがあって落ち着かない。2年前に嫌というほど味わった粘着質の嫌がらせと打つ手もなく足元を荒らされた屈辱を思い出すたびに、言い様のない怒りと悔しさが体を満たす。
神之倉も氷上も、そして蒔麻も、あの日々を乗り切った自信が強さに繋がったが、やはり苦い思いは消えることがない。
だが冷静さを失ったほうの負けだ。遺恨はいろいろとあるが、それを晴らすより古賀沢を守ることの方が遥かに大切なことだ。借りは、守りきってから返せばいい。
神之倉は銜え煙草でネクタイを緩めながら、ソファの背もたれに無造作に投げ掛けてあった上着を探った。探し当てた携帯電話を取り出し、液晶画面に目的の番号を表示させて通話ボタンを押す。
1回、2回――目を閉じてコール音を数えていると、5回目のコールで電話が繋がった。
『士朗?』
格の声が、耳に飛び込んでくる。
ささくれ立った胸の内が、海が凪ぐように落ち着いた。
「寝てたか?」
尋ねると、まだ9時だよと笑いを含んだ声が返ってくる。
「あと1時間もすれば帰れると思うが、うちで待ってるか?」
下手をすると格との約束の日までオフがなさそうなので会えるときに会っておこうと思ったのと、昼間の詫びの意味も込めて訊いてみる。すると、すぐさま嬉しさを隠しもしない返事が戻ってきた。
感情を内に閉じ込めることに慣れた神之倉には、格の正直さと素直さが眩しく、そしてかわいくて仕方がない。もちろん、こんなことが氷上に知られたらどう揶揄われるか分かったものではないので、口にしたことは一度もないが。
「え? 晩飯? いや、まだ――いいって、あるもので。ああ、それで十分だ」
夕飯は食べたか、何か食べたいものはあるか――そんな、ありふれた日常で交わされる会話が妙にくすぐったい。こんな穏やかな会話を交わすのはあまりにも久しぶり過ぎて、初めて問われた時はどういう顔をしていいのか判らなかったことを思い出す。
続けて他愛ない話を少しして、土産のアイスを約束させられて、神之倉は電話を切った。
そして、携帯電話をテーブルに置いて指に挟んでいた煙草を銜え、自分の両手のひらをじっと見つめた。
古賀沢を、蒔麻を――そして光を注ぐ太陽のような、傍らに在るあたたかいものを守りたい。
神之倉は、見つめた手のひらを固く握りしめた。
−続−
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