|
Vol.3 週末の過ごし方 (後編)
ロータリーを移動するバスに隠れるようにして駆け、洋菓子店に飛び込んで別の出口から小町通りへと走り抜ける。人の波を縫って進み、背後にスーツの男達の姿がないのを確認すると、さらに路地裏へと走った。
幾度か角を曲がり、建物を抜け、大きな通りの手前で格はやっと立ち止まった。
「礼子さん、大丈夫?」
礼子は肩で息をしていたが、それほど苦しそうではない。格は、辺りを見回して短く息を吐き出した。
「うまくまけたかな?」
「どうして…?」
礼子はそれだけを尋ねた。
なぜ一緒に逃げたのか――たしかに格には関係のないことなのだが、礼子とは全くの無関係ではない。素性はよく知らなくても、礼子自身を好ましく思う気持ちは変わらない。
「女の人にはやさしくしろっていうのがうちの母親の教育方針第2条だから。困ってる女の人はなおさらほっとけないよ」
「参考までに第1条は?」
「“強くたくましくおおらかに”。ちなみに第3条は“目には目を”」
「気が合いそうだわ」
礼子は声を上げて笑った。格も、この人と東子は気が合いそうだと思う。
東子も親類がなく、亡くなった格の父親は東子より10歳以上年上だった。そういった境遇が似ているだけでなく、その他の価値観や好みも近そうなのだ。
「たしかに気が合いそうですね。価値観も好みも近そうですし」
出し抜けに背後から声がし、格の心中を代弁した。
格は咄嗟に礼子を背後にかばいながら、声の方向を振り返る。
「よう、格」
声の主は、笑みを浮かべて片手を軽く上げた。
「氷上!?」
驚きの声を上げた格に、いつものように仕立てのよいスリーピースを身に着けた氷上が歩み寄る。
氷上は格の肩を軽く叩くと、その後ろの礼子へと視線を向けた。
「もうそろそろ限界ですよ。最近の御大は気が短くていらっしゃるから」
「そうねえ…。デートも満喫したし、見つからないうちにそろそろ帰ろうかしらね」
「車を回しましょうか」
「あの!」
慣れた様子で会話を交わす2人に、格は待ったをかけた。同時に、ずっと感じていたものの正体に気付く。
誰かに似ていた、礼子がほのかに醸し出す空気と匂い――神之倉や氷上と同種のものだ。
「えーっと、礼子さんって…?」
「礼子? …苗字は高島ですか?」
「岩下だとバレちゃいそうじゃない?」
言って、礼子は悪戯っぽく笑った。そして、視線を氷上から格へと移し、
「黙っててごめんね、格くん。礼子って偽名なの。本当の名前は」
「蒔麻ちゃん発見!」
格に向けた礼子の声を、年経た男の声が唐突に遮った。
声の主は、いつの間にか現れた二台の乗用車のうち、黒いスポーツセダンの助手席の窓から身を乗り出し、礼子に向かって手を振っている。
「御大…」
礼子は呆れたように呟き、無言の氷上の口許には微苦笑が浮かんだ。
御大と呼ばれた老人は、もう1台の車から降りて来た黒いスーツの男が恭しく開けたドアから、杖とともに降り立った。
そして格は、同時に運転席から降りて来た長身の男に驚愕する。その驚きを言葉にしたのは礼子だった。
「御大! どうして神之倉がここにいるんですか!」
「わしが呼び付けたから」
「御大の運転手は別にいるでしょう?」
「ドラテクはうちのもんより上だからよ」
「ドラテクなんて言葉、どこで覚えたんですか」
「まんが」
礼子と会話を交わす老人は、どう見ても80歳は超えているように見えるというのに、テンションが著しく若い。杖をつき顔には皺が深く刻まれているが、肌艶は良く、声にも張りがある。
「神之倉だって暇じゃないんですよ?」
諫めるように礼子が言った。一家の若頭を張る男だ、暇なわけがない。
しかし老人は、悪びれずに、立てた人差し指をわざとらしく左右に振る。
「蒔麻ちゃんには氷上がセコンドに付いてるんだから、わしにも相応の付き添いが必要だろうが?」
「神之倉が断れないと思って〜」
「最近こいつも顔出さんかったからの。丁度よかった」
「んもう!」
一見するとだだっこジジイに孫娘といった光景だが、スーツの男達の畏まり様と神之倉や氷上の立ち位置から、老人がただの老爺でないことは格にも判った。
しかし、その人種が解らない。老人はどこから見ても好好爺で、隙だらけのようにも全く隙がないようにも見える。場の面子からして極道関係者なのだろうが、老人個人からはそんな匂いは全くと言っていいほどしない。
「じゃ、晩メシ食いに行こうか、蒔麻ちゃん」
「いっつもそうやって勝手に決めちゃうんですから…。ご自宅で待ってらしてください。用を済ませたら追って伺いますから」
「え〜…。絶対来る?」
老人を先に帰そうとする礼子に、老人は子供のような膨れっ面を見せた。礼子はそれを宥めるように優しく尋ねる。
「私が御大に嘘ついたことありますか?」
「ねえけど、蒔麻ちゃんイケズだからなあ。今日もとっとと帰っちゃうしよ」
「指定された日時にお伺いしたのに、六本木のアケミちゃんて方とお出かけになられててご不在だったのはどこのどなたです…?」
微笑む礼子に辛辣に問い返されて、ついに老人は口を閉じた。
スーツの男達が笑いを噛み殺し、氷上も神之倉も苦笑を浮かべている。
「…わかった。じゃあこいつ人質につれてくから」
老人はそう言って神之倉の腕を取った。しかしその手を礼子が奪い返し、神之倉を自分の元へと引き戻す。
「神之倉は横浜に戻します。それに人質なんて取られなくても行きますってば」
老人は無言で神之倉を見上げて目で問い掛ける。神之倉はその視線を受け止めて微笑んだ。
「近々あらめてご挨拶に伺いますよ、御大」
「…1週間以内に来い」
「はい」
「よし。戻るぞ」
頷いて、老人は杖を一閃させて踵を返した。その直後、
「あ」
背を向けた老人が呟き、くるりと体を返す。ちょうど華麗にターンしたような形になって、格は思わず吹き出した。
その格に向かって、老人がついと距離を詰める。
「ふむ」
面食らって立ち尽くした格の顔を老人が覗き込む。何が何だかわからなかったが、格は目を逸らさずにその無遠慮な視線を受け止めた。やがて老人は、納得したように頷き、ニヤリと笑った。
「相変わらず目が高ぇな、蒔麻ちゃん」
「自信あります」
「いいツラしてやがる。気に入ったぜ。特に目」
老人はにっこりと笑って格の頬をぴたぴたと叩き、再び身を翻した。そして今度こそ車に乗り込み、その車が去っていくと、数人のスーツの男達も礼子に向かって会釈をして姿を消し、神之倉が運転してきた黒いスポーツセダンだけが残された。
「――初見で御大の御墨付きが出たぜ。目が高いってよ、神之倉」
しばしの沈黙を破ったのは氷上だ。
「気に入ったなんて、滅多に口にしないのにねぇ」
氷上の言葉に、感心したように礼子が頷く。
「訊きたいことがいくつかあるんですが――」
礼子に向かって問い掛けたのは神之倉だ。
「ちょっと待って。ワケわかんないんだけど」
格は思い切って会話を遮って、並んで立つ3人を見上げた。
聞き取れた限りの会話の流れや口調から判断するなら、礼子は神之倉や氷上の“上”だ。そして老人はそのさらに“上”らしい。
神之倉は古賀沢組のナンバー2。氷上は役職上はそのすぐ下だが、組内では神之倉と同格だ。その二人より立場が上というと、古賀沢には1人しかいない。
格の視線を受けて、礼子が申し訳なさそうな笑みを浮かべて1歩進み出た。
「改めて自己紹介するわね。古賀沢組四代目組長、古賀沢蒔麻です」
「――組長さんて、男の人だと思ってた……」
格は呆然として呟いた。
考えてみれば、神之倉からも氷上からも、“組長”という単語は出てきても組長自身がどんな人かという話は聞いたことがない。“組長は男”という先入観から、礼子のことを堅気ではなさそうだとも神之倉や氷上と同種だと感じていても、組長という発想は出てこなかった。
そしてなるほど、と思った。高島も岩下も“極妻”だ。しかし本名の「しま」ではすぐに岩下が浮かんできて、簡単にかの役柄を連想できてしまいそうなほど印象が強い。
「偽名使ってごめんなさいね。格くんが私の名前を知ってるかどうかわからなかったから…。騙そうと思ってたわけじゃないのよ。古賀沢の組長としてじゃなくて、素の私で格くんと話してみたかったの。本当にごめんなさい」
礼子――蒔麻は真摯に告げて、格に向かって深々と頭を下げた。
「そんなに謝ってもらわなくても……俺、別に怒ってないし」
これは本当のことだ。驚きはしたが、腹は立っていない。
何か下心があったり謀ろうと思ってのことだったら、それとなく感じ取れただろう。けれど、デートは心底楽しかった。だから、それでいい。
「ええと、それじゃあ、組長さんって呼んだらいい? それとも、蒔麻さんって呼んでもいいのかな?」
「蒔麻、がいいわ」
答えた蒔麻の顔が笑み崩れる。そしてその手が格の体をぎゅっと抱き締めた。
「もう! もうもうもうこの色男!」
「なに、急に」
「私、格くんのこと好きだわ」
「俺も蒔麻さん好き」
格は笑って、蒔麻の背をぽんぽんと緩く叩いた。
古賀沢の組長だと知ってからも――否、組長だと知ってからなおさら、格は蒔麻が好きになった。
神之倉や氷上には、この人に命を預けることへの躊躇いはない。同時刻に違う場所で命の危険に晒されていたら、格より組長の元へ行くと神之倉は言った。それほどの人を、どこの誰だか知らないまま自分もとても好きだと思った。それが、格には嬉しかった。
「俺と話してみたかったって、どうして?」
蒔麻に抱き締めさせたまま格は尋ねた。
「佐伯と宮川のことがあったし、しかも神之倉がとっても大事にしてるって言うじゃない? 古賀沢の“親”としても、私個人としても、会わないわけにはいかないと思って」
「俺みたいなガキでびっくりした?」
格の問いに、腕を緩め、至近距離で格の顔を覗き込みながら蒔麻は微笑んだ。
「もちろん初めて聞いた時は年齢にも驚いたけど、いちばん驚いたのは男っぷりの良さね。こんなにいい男だと思わなかったわ」
「全然、まだまだだと思うけどなあ?」
年齢も経験もまだ全然足りていない。そんな自分にこの賛辞は、嬉しいけれどこそばゆい。
「も〜先が楽しみすぎ! 御大の御墨付きまで出ちゃうし、さすが神之倉、ほんと目が高いわ」
「御大ってさっきのじーちゃん?」
「そうよ。今日、御大に顔見せに来て良かったわ。六本木のアケミちゃんにも感謝ね。おかげで格くんに会えたんだもの。ね、氷上」
「そうですね。御大がご在宅だったら会えたかどうか」
それから蒔麻は、事の次第を格に明かしてくれた。
“御大”と呼ばれる老人は神宮寺成生(じんぐうじしげお)という名で、いまはもう引退しているが、かつては関東ヤクザのトップに立っていたこともあるという。
古賀沢の初代組長と懇意で、以来、古賀沢の跡目相続にも発言権を持っている。先代組長を見いだし、跡目に推したのも神宮寺で、先代の代で古賀沢の名は全国区になった。
神之倉と氷上も神宮寺とは関わり合いが深く、顔見せの席で神宮寺に認められたのが名が知れるきっかけとなったのだそうだ。蒔麻が組長に就任するときも神宮寺の鶴の一声で組内がまとまったらしい。
そんな御大・神宮寺成生は、引退したいまもなお関東一円の組織に絶大な影響力を持つ。隠居した北鎌倉の邸宅には、挨拶と称していくつもの組のトップクラスが顔を見せる。蒔麻と氷上が神宮寺の元を訪れたのも、その挨拶のためだった。
午前中、早い時間に神宮寺邸に到着した蒔麻と氷上は、在宅しているはずの神宮寺が出掛けていたためにしばらく待っていた。しかし神宮寺が戻らないので、改めて出直すことにして神宮寺邸を出た。その帰り道、ひとりぶらぶらと歩く格を氷上が発見し、蒔麻が声を掛けたのだという。
もし神宮寺が在宅していたら、あるいは待っているあいだに帰宅したなら、間違いなく引き留められて早くても午後にならねば帰れなかったそうで、そうなったら格を見掛けることもなかったかもしれない。
「どうやって声を掛けようかと思ってたところで格くんも見た通りぶつかられちゃってね、これ幸いと思ってナンパしたというわけ」
「もしかして氷上、ずっと俺と蒔麻さんの後つけてた?」
「ああ」
「全然気付かなかった……」
格は小さく呟いた。いかにスーツが似合うとはいっても、氷上もサラリーマンには見えない。黒スーツの男達はあれほど悪目立ちして見えたのに、氷上のことはまったく気付かなかったとは、本当にまだまだ足りないことだらけだ。
悔しさと己の未熟さに唇を噛んだ格の額に氷上の手が伸び、中指の先が小気味よい勢いで額の中央を弾いた。
「馬鹿野郎、そう簡単に気付かれてたまるか。俺を誰だと思ってるんだ」
「……氷上様」
たしかに、古賀沢組の屋台骨を支える男が、一介の小学生に簡単に尾行を察知されてしまうようでは問題だ。
「さて、と。そろそろ行かなきゃかしらね?」
蒔麻が残念そうに空を仰いだ。あたりは大分に暗くなっている。
「そうですね。あまり待たせると、また何を言われて引き留められるか」
氷上が答えて、携帯電話を手に取った。
先ほどのやり取りからして、蒔麻は神宮寺に相当気に入られているようだ。古賀沢組の先代組長といい、神宮寺といい、ずいぶんと年の離れた男に好かれるものだ。
「蒔麻さん、じーちゃんのお気に入りなんだ?」
「私より神之倉の方が好かれてるわよ。先代にも何度も言ってたもの。神之倉くれ〜俺にくれ〜って」
どうやら格にとってはライバルらしい。蒔麻を気に入っていることといい、好みが似ているのかもしれない。格は、自分を見つめてにっこりと微笑んだ神宮寺の顔を思い浮かべた。
「車呼びました。すぐに来ますから」
少し離れた場所で電話をしていた氷上が、携帯電話を折りたたみながら戻ってきた。来るときに乗ってきた車を、どこかに待機させていたようだ。
「神之倉、事務所は?」
格を緩く抱きしめたまま、蒔麻が神之倉に尋ねる。
「佐伯に任せてきました。すぐに戻ります」
「いいわ、戻らなくて」
「組長?」
横浜に戻すと言って神宮寺の手から奪い返したはずの蒔麻に、神之倉が訝しげな視線を送る。
蒔麻はその神之倉に向かって、腕の中の格の体を押し出した。
2、3歩たたらを踏んだ格を神之倉が抱き留める。
格が振り返ると、蒔麻はにっこりと笑って、
「神之倉はこのあとはオフよ」
「組長? 何を言って――」
「組長命令。ちゃんと格くんを送ってあげること」
蒔麻は片手で神之倉を制して黙らせ、きっぱりと言い切ると、格に向かって笑いかけた。
「またデートしてくれる?」
「うん、いいよ」
即答した格に蒔麻は嬉しげに笑って、すでに通りの方向へ体を向けている氷上に向かって歩き出した。
そこへ、タイミング良く黒塗りの車が滑り込んでくる。運転席と助手席に乗っていた組員らしき男達がそれぞれ降りてきて、蒔麻と氷上、そして神之倉に一礼した。
「帰宅時間は好きにしていいわよ」
蒔麻は乗り込む寸前にそう口にして、ひらひらと手を振った。
そして格は、神之倉と2人きりになった。
今朝家を出たときは、まさか半日後に神之倉が隣に立っているとは思いもよらなかった。しかし隣にいる神之倉は間違いなく本物で、蒔麻曰くこれからの彼はオフらしい。
何やら不思議な気分で格は神之倉を見上げた。思えば、自宅かその周辺以外で神之倉と会うのは、撃たれた佐伯が運び込まれた病院以来まだ2度目だ。そして、オフの神之倉と屋外で会うのは初めてだった。
「……帰るか」
「うん……」
頷いたその時、格の脳裏に蒔麻の姿が過ぎった。
正直に一緒にいたいって言ってごらんなさい――甘やかな声が蘇る。
格は車に向かって歩き出した神之倉の背中を見つめて逡巡した。
蒔麻はああ言ってくれたが、家まで送ってくれたあとは、もしかしたらそのまま組事務所に戻ってしまうかもしれない。
一緒にいたい。
そばにいたい。
離れたくない――
「格?」
不意に、驚いたような声が頭上から降って来た。
我に返って見上げると、肩越しに振り返って格を見下ろす神之倉と目が合った。格の手はしっかりと神之倉の胴に回され、体は広い背中に貝のようにへばり付いている。
どうやら、思考するより先に体が動いてしまったらしい。
「あ…――」
「どうした?」
神之倉の大きな手のひらがしがみついている格の手をゆるく叩き、低い声がやさしく問い掛ける。
格の好きな背中、手のひら、声――少しでも長く、神之倉を独占したい。
「帰りたくない」
願望が、言葉になって唇から溢れ出た。
「ドライブでいいからさ、デートしよ、士朗」
呆れられるかもしれないし、鬱陶しがられるかもしれない。
しかし格は、蒔麻の言葉に賭けた。蒔麻はあの時すでに、格の相手が神之倉だと知っていてああ言ったのだ。
神之倉の手が、格の手の上に重ねられ、柔く力が込められた。
「…少し遠回りして帰るか」
そう言って微笑んでくれた神之倉がどことなく嬉しそうに見えたのは、格の気のせいだろうか。
神宮寺が言った通り、神之倉は運転が上手かった。程々に飛ばしつつも安定した走りで無駄に揺れず、ハンドル捌きにも余裕がある。
格は、乗り込む時に買ってもらった500mlの緑茶のペットボトルを弄びながら、運転する神之倉を飽きる事なく眺め続けた。
「……格」
「ん?」
「そう見られ続けると…」
「あ。ごめん」
苦笑した神之倉に、格は潔く目を離してフロントウィンドウに視線を移した。
「しっかり見とこうと思って、つい」
「俺が運転するのはそんなに珍しいか?」
「そーじゃないけど、やっぱり初めてのデートだからさ、嬉しくて」
初めてデートした日を毎年祝いたいわけではないが、忘れないでいたいとは思う。夕闇をゆく対向車線の車のヘッドライトが照らし出す横顔も、ハンドルを切る大きな手も、しっかりと覚えていたい。
「…格……」
「なに?」
「――蒔麻さんの事だけどな」
「うん」
「すまなかったな。お前に相談もなしに勝手に話して」
「なんで? 隠されるより嬉しいよ」
それも、単なる隣家の子供だというだけではなく、正直に話してくれたらしい。それが、他の誰でもない蒔麻だったことが嬉しかった。
「本当はな、お前の身の安全のためにも、なるべく組には近づけさせないでおこうと思っていたんだが――」
「気が変わった?」
「いや……氷上に脅されてな」
神之倉はその時のやり取りを思い出したのか苦笑を浮かべた。
「なんて?」
「黙っていると後が怖いぞってな。佐伯の件があってからずっとお前に会いたいとは言われていたし、お前は明らかにあの人の好みのタイプだからな。ばれたら爆発必至だ」
凛然としたところはたしかにあったが、朗らかに優しく笑っているイメージが強かったので、格は首を傾げた。
「蒔麻さんてやさしかったけど、怖いとこあるんだ?」
「まあなぁ。伊達に若くして姐さんと呼ばれる立場になって、あの年で組長を張ってるわけじゃないからな。好き好んで怒らせたくはない」
神之倉は笑いながらハンドルを切った。
たしかに、女の身で一家の頂点に立っているからには胆力も相当なものなのだろう。神宮寺に対する物怖じしない態度からも、単なるお飾りとしての組長だとは思えない。それに、神之倉も氷上も、仮の組長を立てて裏で実権を握るタイプではない。
「怖い、怖くないは別として、古賀沢にとってだけでなく、俺にとって大事な人だからな。あの人には、この先何年もずっとお前のことを隠し続けておくわけにはいかないと思った」
真っ直ぐ前を見つめて話す神之倉の横顔を、格は黙って見つめた。
かつて、古賀沢の組長が羨ましかった。神之倉の中で、その人と同じ位置にいたいと思った事もある。けれど格は格でしかなく、同じものにはなれない。格が神之倉を好きになったその時には、すでに蒔麻はそこにいたのだ。
蒔麻に命を預けることを厭わない神之倉を、格は好きになった。蒔麻という存在ごと格の好きな神之倉なのだ。だからいいと、今では思っている。
そして、神之倉が変わらず蒔麻の傍らにいるだろうその何年後かにも、格は神之倉のそばにいるらしい。格から離れる気などなかったが、たとえ朧げでも神之倉から先のことを口にされて、格は嬉しかった。
「俺、今日蒔麻さんに会えてよかったと思ってるよ」
「そうか。だが――言わなければよかったと思わないでもないんだ」
「なんで?」
意味深な台詞に問い返したが、神之倉は答えない。じっと答えを待っていると、やがて車は路地に入り込んで停車した。
「士朗?」
神之倉はエンジンを止めて、軽く溜め息をつく。そして、上げていた前髪が崩れるのも構わずに乱暴に掻き上げ、格を見遣って口の端に苦笑を浮かべた。
「――いくら相手がよく知っている人だといっても、他の誰かに先を越されたかと思うとな……複雑な気分だ」
「……それって――」
格は無意識にペットボトルを持つ手の力を強め、神之倉の視線を受け止めた。
「お前にはなんでもないことなのかもしれんが」
「…デートっていっても、そんなに深い意味は――下心丸見えだったり、相手に好きとか付き合いたいとかいう気持ちがあるなら、自分にもその気がなきゃデートしようなんて思わないし」
「今回は?」
「ほんの1〜2時間お茶するだけのつもりだったんだってば」
着物を汚された蒔麻に手を貸したお礼にと食事に誘われたこと、午後から東子と待ち合わせていたのでそれまでならと誘いを受けたこと、話しているうちに意気投合したこと、東子が仕事で来られなくなったので昼以降も蒔麻といたこと――格は、会話の内容以外の事のあらましを洗いざらい語った。
「そりゃ蒔麻さんて美人で話しやすくて一緒にいてすげー楽しいけど、はっきり言って好みだけど、でも」
格は言葉を切って、神之倉に手を伸ばした。助手席から身を乗り出し、首に縋りつく。
「士朗がいちばんなんだってば」
格が誰より好きなのは神之倉なのだ。そして蒔麻にも、誰より大事な人がいる。格にも蒔麻にも揺るがないものがちゃんとあるのを、お互いにわかっていて一緒にいたのだ。後ろめたいものは何もない。
腕の力を強めた格を、神之倉は緩く抱き締めて小さく笑った。
「わかってる。…ちょっと拗ねてみただけだ。忘れてくれ」
「拗ね――って、士朗が!?」
信じられない言葉が飛び出して、格は思わず顔を上げ体を離した。らしくない言葉を吐いた張本人は動じもせずに苦く笑って、
「いつの間にか知り合っていて、しかも随分と仲良さげで、お前もあの人を好きだと言うし――少し妬けるだろうが、やっぱり」
「――…」
思いがけない言葉に体が熱くなる。自分の気持ちには自信はあっても、どれだけ思われいるのかについては、まだ自信などない。だから、少しでも嫉妬してくれたということが、そしてそれを口に出してくれたということが嬉しくてたまらない。
しかし、ほんの少し意地の悪い欲張りな自分が顔を出す。
格は真っ正面からじっと神之倉を見つめて問い掛けた。
「……妬けたのは少しだけ?」
「……いいや」
僅かに目を見張った神之倉は、やがて目を細めて問いに答えると、笑いながら格を抱き寄せた。格の腰と膝裏に腕を回し、助手席から引き抜くように器用に抱き上げて上腿に座らせる。
答えに満足して、格は神之倉にしがみついて肩に顔を埋めた。仄かな煙草の苦い匂いにほっとする。それと同時に、しあわせで、せつなくて、鼓動が少し早くなる。
しばらくして、格を抱き締めていた神之倉が手のひらであやすように背中を叩いた。
「すまんな、大人気なくて」
「ううん。嬉しい」
「そうか」
耳元で、苦笑する気配がする。
「――放っておいてすまない。おまえがいつでも待っていてくれるから、少し甘えすぎていた」
「そんなことないよ。忙しいのに電話くれたり、家にいるときはそばにいさせてもらえるし……」
「だから」
ほんの少し語気を強めた神之倉が、格の体を引き剥がして顔を上向かせた。両頬を包む大きな手があたたかい。
「だから、もっとわがまま言ってくれ」
「……こないだワガママ言ったら拒んだくせにー」
わがままをきいてくれるという神之倉を押し倒したらうまく逃げられてしまったのはつい先月の話だ。
「あれはあれだ」
この件に関しては、神之倉は厳しい。この断固たる態度は容易に崩せそうになかった。氷上をしてあんな頑固者は他にいないと半ば両手を上げている形なのだから、焦っても仕方がない。
格はそれについてはひとまず諦めて、両手を神之倉の首に回した。
「でも、キスまでならいいんだよな?」
笑ってそう尋ねて目を閉じる。
頬を包んでいた神之倉の手が格の背に回された。
はぐらかしも避けもせず、神之倉の唇がゆっくりと格のそれへと重なった。
緩く抱きしめていてくれる神之倉の腕の中で目を閉じていた格は、ふと昼間のことを思い出して顔を上げた。知らなかったとはいえ、こんなに大事にしてくれる神之倉に著しく不利なことをしてしまったかもしれない。
「そうだ。あの――俺のほうこそ謝んないと…」
「なにがだ?」
「いや、その――堅気の人じゃないなって思ってはいたんだけど、まさか組長さんだとは思わなかったからさ、つい――いろいろと相談を…」
「……」
格の告白を聞いた神之倉は微妙な表情で沈黙した。
「酒の肴の大盤振る舞い、かな…」
しばらくしてからそう小さく呟く。しかしすぐに軽く息をついて、
「まあいいか。――さて、どこに行こうか、格」
「士朗と一緒なら、どこまででも」
「――ったく、どこで覚えるんだ」
考える間もなくさらりと出てきた格の返答に今夜何度目かの苦笑を洩らして、神之倉は再びエンジンをかけた。
艶やかな黒い車体が、宵闇の中にするりと滑り出した。
−終−
Series index ←前/Vol.4→
アンケェトフォーム→ 
Copyright(c)2004.07.27- Haruka
Sumeragi Rights Reserved.
|