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Vol.2 手強い相手
「……お前なあ…いちいち俺のところまで来て悩んでんじゃねえよ、鬱陶しい!」
氷上は、リビングのソファで溜め息をついている神之倉に向かって、手にしていた菜箸を突き付け邪険に言い放った。
神之倉の前のガラステーブルには何種類かの酒の肴と、神之倉が持参した地酒の瓶が置かれている。東北地方産のその酒は、氷上の好きな銘柄だ。2人とも、酒の好みは似ている。
氷上は作りたての蓮根のきんぴらを手にリビングに移動した。何をやらせてもそつなくこなす万事器用な氷上が料理も得意だということは、神之倉始めほんの数人しか知らない事実だ。
氷上の部屋は、稼働式の壁で部屋の一部を隔てることが出来る20畳ほどのワンルームで、華美ではないが一見して高価だと知れるシンプルで品のよい家具が違和感なく置かれている。
「ったく、久々にうちに来たと思ったら、どうして俺がお前の惚気話を聞かなきゃならねえんだ」
帰り際の氷上を呼び止めて、あとで行くと言って来たのは神之倉だ。飲みたいと言うから肴を用意して待っていてやったら、用件はこの男の小さな恋人の愚痴ときた。たしかに神之倉と格のその後には興味はあるが、埒もない愚痴を聞きたいわけではない。
人によっては薄情だというだろうが、氷上にはたとえ相手が神之倉であろうとも優しく愚痴を聞いてやる気は更々ない。
「惚気というわけじゃ…」
「立派な惚気だろうが。ディープキスの一度や二度で騒ぐな」
この男は、キスで舌を入れられたと愚痴を言いに来たのだ。全く馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
「そりゃあ相手がそこらのホステスだったらお前に相談したりはしないが」
「馬鹿野郎。そこらのホステスのほうが問題だろうが。お前、格を選んだんだろう?」
「ああ」
氷上の問いに、神之倉は即答した。
部屋の合い鍵を格に渡した時点で、神之倉は何もかもを覚悟して腹を括ったはずだと氷上は確信している。
傍に置いて安全な場合と危険な場合とがあるが、常に神之倉の傍近くにいるわけでない格は必ずしも安全とは言えない。
それでも合い鍵を渡したのは、なんとしてでも守る覚悟をしたからだ。そして、万が一格に何かあれば、地の果てまででも格に危害を加えた者を追うだろう。
格も、それなりの覚悟を見せたのかもしれない。
「なら何の問題がある? 自分のイロ相手だろうが」
「……あいつが12歳の小学生じゃなかったらこんなに悩まねえよ」
言って、神之倉は今夜何度目かの深い溜め息をついた。
やはりそこか、と半ば予期していた答えに氷上も軽く溜め息をついた。
格がその精神年齢に相応の外見と実年齢なら、神之倉もここまで思い悩むことはないだろう。せめて、少々大人びた見た目通りの年齢だったなら。
しかし実際は、先日12歳になったばかりの小学6年生の少年だ。
長年のヤクザ稼業で、法的にどうとか倫理的にどうとかいう面が緩くなっているのはたしかだが、だからといってその手の性癖でもない限り無理矢理の行為を好むわけではない。
ましてや格は、中身はとてつもなく大人でも体はまだ子供だ。無理矢理でなくとも無理を強いるのは明白で、神之倉が格を壊れ物のように扱うのもわからないではない。
だが、格の早熟さは付け焼き刃なものではなく年季が入っている。
「お前さ、それはもう諦めたらどうだ? マセてる奴が初(うぶ)なのに戻ることはねえんだから」
「精神的には仕方ないさ。しかし、それだけじゃ済まないから困ってるんだ」
「まだ早いと思うならお前がセーブするしかないだろう」
「してる」
氷上が神之倉と敵対する組織にいたとしても、女の色仕掛けで籠絡させることだけは決して選ばない。やるだけ無駄だからだ。
男は本能に忠実な生き物だが、神之倉の精神力は時に本能を超える。こうと決めたら梃子でも動かない、筋金入りの頑固さなのだ。
その神之倉が、たかだかキスで舌を入れられたくらいでこの狼狽えようというのは著しく彼らしくない。
何かあったな――氷上はそう察して、酒を開封すると神之倉の前の冷えたグラスに注いだ。
「で? 何があったんだ?」
同情半分、興味半分に氷上は問い掛けた。
「だから――格から、その」
「舌入れられたってんだろ? 何度目で?」
「2度目」
「2度目ぇ?」
早いような早くないはような――もの慣れた同士ならともかく、格の年齢ならやはり早いのか。何やら混乱してきた。
「それで? それだけじゃないんだろう?」
「――この間の、格の誕生日――」
「うん?」
「……裸に剥かれかけた……」
「……お前が? 格に?」
確認を取るように問い返した氷上に、困惑を重ねた渋面で神之倉は頷いた。
格に合い鍵を渡して1ヶ月が過ぎた4月の初め。
珍しく神之倉の部屋で待っていた格が、遅くに帰宅した神之倉を嬉しげに出迎えた。
鍵を持っていても、格はあまり神之倉の部屋に入ってこようとしなかった。遠慮をしているのかと思ったが、どうやら自分で線引きをしているらしい。
神之倉が気付いた、格が神之倉の不在中に部屋に入る基準は3つ。
自宅に母親の恋人が来ている時、事前に部屋に行っても良いかどうかを訊いて神之倉が良いと答えた時、神之倉の仕事が忙しくない時――だ。
それらに当てはまらない時は、必ず自宅で待っていて、神之倉が帰宅したことを確かめてから訪ねてくる。それも、帰りが遅かったり多忙で疲れている時は、かつてのように惣菜を一皿置いて帰ってしまう。
以前と違うのは、自宅へ帰る際に何かを確かめるように抱きついてくることくらいだ。
格なりに懸命に考えた結果なのだろう。しかし、そうまで我慢させるつもりは神之倉にはないのだ。普段あまり一緒にいられない分、多少のわがままはきいてやりたいし、傍にいてやりたい。
それなのに、これではまるで手の掛からず都合のいい慎ましやかな待つ身の愛人のようで、いっそ不憫だ。
だから、帰ってきた神之倉に飛びつくようにして抱きついてきた格に嬉しさすら感じていた。
――この時は、まだ。
「おかえり」
神之倉のワイシャツの胸に頬を押し付けて格が言った。神之倉は身を屈め、背広を抱えた腕で格の華奢な体をゆるく抱きしめてそれに応じる。
「日付が変わる前に帰ってきてくれてよかったー」
「どうした?」
珍しく甘えてくる格に、つい神之倉の声も穏やかになる。
「どうしても会いたかったんだ、今日中に」
「今日、何かの日だったか?」
電話の横に置いてある卓上カレンダーを見遣って神之倉は訊いた。
「誕生日」
「え?」
カレンダーから格へと視線を戻すと、格がにっこりと笑った。
「誕生日だよ、俺の」
「……っ、どうして早く言わないんだ!」
初めて耳にした事実に驚いて、神之倉はしがみつく格を引き剥がした。
「早くって、なんで?」
「前もって知っていれば早く帰ってきたし、プレゼントだって――」
全くの初耳なので、当然、誕生日プレゼントなど用意していない。事前にこの日だとわかっていて時間を空けてくれと言えば、佐伯が上手く調整してくれただろうから、早い時間での帰宅も可能だったはずだ。
「でも士朗、ここんとこ忙しそうだったし」
「…まったくお前は――」
神之倉は、眉根を寄せて格の頬を両手で包んだ。格の印象的な瞳が、神之倉を映す。
この強い心に惹かれたのは確かだが、歳の割に物分かりがよすぎる。それが諦観ではなく理解からなのが、格のすごいところなのだが。
「少しくらいわがまま言ってもいいんだぞ?」
「あんまり甘やかされると、俺きっと調子に乗っちゃうから」
「そうじゃない」
「え?」
「俺が、甘えてほしいんだ」
言って、神之倉は再び格を抱きしめた。
格を全てにおいての“一番”に出来ないことに対する、神之倉の自己満足だと言われれば否定出来ない。
けれども、それと同じくらい、わがままを言われても許してしまえそうなほどかわいいと思っているのも確かだ。
ただ、愛しいのだ。
神之倉よりはるかに小さな体いっぱいに辛さも怖さも閉じ込めて、前を向きしっかりと立つ強さが。
精一杯の理解と敬意をくれて、神之倉のすべてを受け入れようとする心が。
腕の中の格が身を捩り、腕に力を込めて神之倉を押し返す。神之倉は押されるまま身を離し、格は名残惜しげに神之倉の胸に額を擦り付けて離れた。そして顔を上げて笑顔を見せる。
「ちょっとの間でも士朗とひとつ歳が縮まるってだけで嬉しいんだ。だから、プレゼントがなくてもすごく幸せなんだよ。それに、士朗が手ぇ伸ばせば届く場所にいるし」
「……」
「でも、ワガママきいてくれるなら、ひとつだけ欲しいものがあるんだけど…」
格が視線を落とし、そしてチラリと上目遣いに見て寄越した。恥じらいとためらいが混ざった歳相応のはにかんだ表情に、神之倉は微笑みを浮かべて頷いた。
「いいぞ。言ってみろ」
「――こっち来て」
神之倉の手を、格が引いた。
格の導くままに居間のソファまで移動し、神之倉は腰を下ろす。
「あ、足こっち」
ごく普通に座った神之倉の足を、格がソファの上へと移動させた。格の意図が読めぬまま、神之倉はおとなしく格の指示に従う。
「そんで、体倒しちゃっていいよ。うん、肘掛け枕にして」
格の言う通りに体を動かした神之倉は、ソファに仰臥する格好になってさすがに訝しく思い、格に目で問い掛けた。格はそれを受けてにっこりと微笑む。そして、
「…ッ!?」
腹の上に勢いよく伸し掛かられたかと思うと、抵抗する間もなく両手でがっしりと顔を固定され唇を奪われた。
「……っん…」
上半身に体重を掛けられ押さえ付けられているため、仰け反る形になっていて簡単には起き上がれない。そうこうしているうちに、後ろ首に回された格の手がしっかりと抱き込むようにワイシャツを鷲掴み、もう片方の手がネクタイの結び目に掛かった。
神之倉は腹に力を入れて体を捻り、上に乗っている格のバランスを崩して拘束から逃れると、格の手を振りほどいて上体を起こす。
しかし、いまだ神之倉の下肢に馬乗りになったままの格は、なおも神之倉のシャツに手を伸ばしてボタンを外しにかかった。
「こら、格」
「ワガママ言っていいって言ったじゃん」
呆れたような、諫めるような神之倉の声と遮る手を払い除けて、格はひとつひとつボタンを外していく。
「プレゼントもらえるんなら、士朗がいい」
伏し目がちの格がポツリと呟いた。そして、神之倉の鎖骨のあたりに伸ばされた指先が素肌をかすめ、するりとシャツの中に入り込む。
格の瞳が、神之倉をひたと見据えた。
「――しようよ」
見つめあった二人の間に沈黙が落ちて――
「そこまで」
神之倉に触れていた格の双手が、神之倉の終了の宣言と同時に遠ざけられた。いつの間にか忍び寄っていた神之倉の両手が、格の手首を捕らえている。
瞬時きょとんとした格の瞼が伏せられ、落胆の吐息がこぼれた。
「やっぱ倒してる間にシャツのボタンまで外せないとだな〜。まだ経験値も腕力も足んなかったか…」
「格……お前、こんなことどこで覚えるんだ……」
「東子直伝」
神之倉に両手首を引っ掴まれたまま、格は悪びれずに笑った。
「……まったくあの人は……」
神之倉は、脱力して溜め息をついた。
母親が、まだ小学生の息子に教えることではない。
格と東子の突飛さにはだいぶ慣れたつもりだったが、この分ではまだまだ引き出しがありそうだ。まったく油断がならない。
「東子はこれでイチコロだって言ってたんだけどなー。やっぱり色気がないせい?」
「そんなものなくてもいい…」
勘弁してくれ……神之倉は、口には出さずに心の内で懇願した。これで性的な色香にまで溢れていたら始末に負えない。
「でもさ、多少こう、そそるもんがないと、士朗だってする気になんないだろ?」
「ばか。まだ早い」
「俺は別にいいのに」
「駄目だ」
「なんでさ?」
格が不服そうに尋ねた。拗ねたようにふくれて小首を傾げる様が可愛くて抱きしめたい衝動に駆られた自分を、神之倉は懸命に押さえ込む。
「お前が歳より大人なのはわかっている。だが、お前の体はまだ骨も筋肉も成長しきってないだろう。いまはまだ、お前の体に負担が掛かるだけだ。だから駄目」
同級生の中では大きなほうらしい格だが、それでも華奢な中学生といったところで、大柄な神之倉からすれば、加減を忘れずに掴んだら折れてしまいそうなほどだ。触れる時でさえこれなのだ。抱けるわけがない。
「……いつになったらいいわけ?」
「え? そうだな――は」
「ハタチとか言ったら殴るぞ」
「えーと、高校卒業――」
「冗談だろ?」
「……。高校入学したら…」
「――4年も先じゃん」
格は不機嫌丸出しの顔で神之倉を睨み付けた。
いつならなどと明言できないのが正直なところだ。いまでさえ思いもかけないことをしでかす格が、1年後、5年後、10年後とどうなっているのか予測がつかない。凛々しく整った顔立ちをしているから、きっと男前になっているだろうとは思うが、体の成長まではわからない。
「…やっぱ待つのヤダ」
「え? こ、こら! おい、格!」
低く呟いて神之倉に掴まれたままの手を伸ばした格が、無理矢理ワイシャツを脱がせにかかった。力を加減していたために、格の手はあっさりと神之倉のシャツに辿り着き、掴んだ布地が神之倉の肩を滑り落ちる。
そして、手首を捻って神之倉の手から逃れることが出来た左手が、神之倉のベルトに掛かった。
「いい加減に――ッ」
たまりかねた神之倉は、まだ格の手首を掴んだままだった左手を手前に引いた。のめり込んだ格を抱き留め、後頭部に手を添えて顔を上向かせる。
そして、唇をキスで塞いた。
深く重ね、歯列をなぞった舌を口腔に滑り込ませる。かつてない深さの口づけに、格の肩が震えて背中が強張った。
神之倉は、緊張を解きほぐすように格の舌をやさしく絡め取った。神之倉のワイシャツを握りしめた格の手に力が籠もる。格が、喉奥で甘く呻いた。
やがて、微かな濡れた音と共に唇は離れ、よろめいた格の体を神之倉の腕が受け留める。格はくたりとして神之倉に体を預けた。
「…なんか、チカラ入んない……」
「……しばらくはここまで。いいな、格?」
「うん……」
ぼんやりと頷いた格に、神之倉はそっと溜め息をついた。
「……なるほど」
頭を抱えている神之倉を眺めて、氷上は呟いた。
「で、ついつい本気のキスまでかましちまって、自己嫌悪に陥っているわけだ」
笑いを噛み殺し揶揄するような声の氷上を、顔を上げた神之倉が恨めしそうな目で見遣る。
「突然本気出して力技で言うこときかせちまうあたり、やり口の汚いオトナだなぁ」
「他人事だと思って……」
「笑ってもいいか?」
「…もう笑ってんだろ」
口許に笑みを浮かべていた氷上は、諦めきった神之倉のひと言に、これまでこらえていたものを開放するように吹き出した。
若い頃からひどく落ち着いていて揺るがない男だった。銃弾が飛び交う中でも顔色ひとつ変えないような神之倉が、こんなに動揺している姿は滅多に見られるものではない――氷上は肩を震わせて腹を抱え、声もなく笑った。
「……いい加減に止めろ」
しばらくの間、氷上に好きなようにさせていた神之倉だが、いつまでたっても止まらないそれに、さすがに苦々しい顔と声で言った。
「そうだな。いつまでも待たせるわけにはいかんしな」
氷上は笑いを飲み込むように軽く咳払いをして立ち上がった。意味深な台詞に訝しげな視線を送る神之倉をその場に残し、氷上は稼働式の壁の前に向かい、壁の一部に手を掛けて横に引いた。
そして、開けられた壁の向こうから髪の長い女がひょいと顔を出した。
「――東子さん?」
予想だにしなかった人物の登場に、神之倉は思わずソファから腰を浮かせる。顔も体も若々しい――実際、神之倉や氷上よりも彼女の方が年下だ――格の母親は、魅力的なローズピンクの唇に笑みを浮かべた。
「コンバンハ、士朗さん」
「どうしてここに?」
「今夜はもともと、彼女との約束の方が先だったんだ」
「約束って――いや、それよりいつから面識があったんだ?」
2人が顔見知りだと、神之倉はまったく知らなかった。格の口からも聞いていない。
「半月くらい前に格の携帯に連絡した時に、格が風呂に入ってたか何かで彼女が出てな」
「で、その時ちょっとお話しして、2〜3日後に氷上さんがウチのお店に来てくれて意気投合♪」
東子がにっこりと笑う。その顔が、格とどこか似ている。
氷上は、キッチンから東子用のグラスや取り皿を持ってきてソファに戻り、立っている東子を手招いた。
「お店が休みの日に飲みに行きましょうってお誘いしてたの。そしたら、士朗さんも来るからウチで飲もうって氷上さんが呼んでくれたのよ」
東子は、空いているソファに腰を下ろしてそう説明した。
「氷上さんって、古くからの友達みたいに話しやすいからお酒飲むの楽しくって」
「俺も、東子ちゃんと飲むの楽しいよ」
「……どこから……」
東子に現在恋人がいることも、氷上が惚れている女のことも知っている神之倉は、2人の関係についてはさしたる勘繰りはしなかった。それより問題は、東子がどこから話を聞いていたのか、だ。
東子は、神之倉の呟くようなひと言のみで言わんとしていることを察し、
「ああ、それは最初からよ。だって私、士朗さんが来る前からここにいたんだもの」
あっさりと言った。
神之倉はゆっくりと視線を巡らせて氷上を見る。氷上は、不敵な笑みを浮かべて神之倉の視線を受け止めた。
選択肢が幾つかあるなら一番面白いものを選ぶような氷上が、無条件に神之倉の味方をするわけがない。誰に対しても、たとえ神之倉相手でも甘い優しさなどみせない。しかも氷上は、格を気に入っている。
神之倉は、己の不覚を悟った。
「…お前、格には」
「そういうことはフェアにな。自分らでなんとかしな」
情け容赦ない氷上だが、わざわざ首を突っ込んで口を出すこともしない。格にも、味方をしてやるが手は貸さないと言ってある。訊かれなければ教えてやるつもりはなかった。
氷上に酒を注いでもらったグラスを手にして、東子が神之倉の顔を覗き込んだ。
「盗み聞きなんてしてごめんね、士朗さん。…怒ってる?」
「――怒ってないですよ」
怒るより、困惑している。東子とは、隣人としては気安く話が出来るが、こんなケースではどうしていいのかわからない。しかも、真っ直ぐに神之倉の表情を伺う仕草が格と似ていて、なおさら困ってしまう。
「格ったら、士朗さんにはわがまま言えるのね。頼もしい子だからついついこっちが甘えちゃうばっかりで、格に甘えさせてあげられないのよ。ダメな母親ね」
「駄目ではないですよ。格があなたに甘えないのは、自分から甘えなくても充分なくらい可愛がられているからでしょう」
「だってめちゃくちゃ可愛いもの」
当然のことだというように東子は言い切った。
端から見ていても格を溺愛していると判る。だが、過保護に育てているわけではない。惜しみない愛情を注ぎながらも、強くたくましくが信条のようだ。東子が働きに出ているせいもあるのだろうが、格は大抵のことは自力でこなせる。
しかも、この母子は大層仲がいい。12歳という年齢なら、男の子は特に女親に反発したがる年齢だろうが、格にはそれがなかった。
「親バカだって思われるだろうけど、自慢の息子なの。あの子は絶対、最高の男になるからね、士朗さん」
たしかに何も知らない他人が耳にしたら親バカ以外の何ものでもないが、その点は神之倉も氷上も否やはない。格と会って、滅多にないたいした玉だと氷上は神之倉に言ったし、神之倉もそれに同感だ。
「いいんですか?」
神之倉は東子に短く尋ねた。自分でいいのか、という意味だ。
「あたしはね、格が幸せでいてくれたらそれでいいのよ。だから、士朗さんといて格が幸せなら、反対する理由なんて何にもないの」
東子は心底嬉しげに言って笑った。そして、居ずまいを正して体を神之倉の方に向け、ぺこりと頭を下げる。
「というわけで、今後ともよろしくお願いします」
「……お手柔らかに――」
格ひとりでも手強いというのに、それに東子と氷上もついている。神之倉は一抹の不安を胸に、微苦笑を浮かべてそう答えた。
そんな神之倉を意地悪く笑って氷上が見ている。
「……なんだよ」
「別に何も?」
しれっと言い返して、氷上は酒の瓶口を差し向けた。神之倉は無言でグラスを差し出し、注がれる酒を受ける。そして、氷上がテーブルに戻した酒瓶を取り上げて、氷上のグラスへと酒を注ぎ返した。
「そういや、蒔麻さんが格に会いたいって言ってたぞ、神之倉」
思い出したように口にした氷上のひと言に、神之倉が手にした瓶の口とグラスが音を立ててぶつかり合って酒の雫が跳ねた。
「な、なんで格のことを知ってるんだ!?」
「宮川から聞いたんだろうさ。あいつ、佐伯が撃たれたとき一部始終見てたし。佐伯は、お前が話していいと言わない限りは話さないだろうからな」
指先に飛んだ雫を舐め取って、氷上は答えた。
「腹括ったんなら、蒔麻さんには早めに言っておいたほうがいいと思うぜ? あの人、格みたいなヤツ好きだからな、隠しておいて後で知られたら絶対怒るぞ」
「蒔麻さんってどなた?」
「うちの組長。東子ちゃんとは気が合うかもな」
「ホント? 会ってみたいなー。機会があったら一緒にお店に来てね」
「わかった」
神之倉は、盛り上がっている2人の会話を黙って聞いていた。
氷上の言うとおり、おそらく蒔麻は格を気に入るはずだし、東子とも合いそうだ。度量の大きな人なので、格のことを明かしても、驚きはするだろうが受け入れてくれるだろう。
そうなったら、確実に格の方につく。神之倉を肴に、氷上や東子と3人で飲み交わす様が明瞭に浮かぶほど、たしかな予感だった。
味方がほしいわけではないが、だからといってセコンド陣が強力すぎる。
ふと、格の笑顔が脳裏に浮かんだ。最も手強い相手だが、無性に恋しい。
神之倉は、溜め息を酒と共に飲み込んだ。
−終−
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