【第2部】ハニーホリデー


 閑静な住宅街の一画に、手入れの行き届いた木の塀がかなりの長さにわたって続いている。他の家々の3倍ほどの敷地には、高い建物の姿はない。
 東子は、大きなガレージの奥から庭へと出て、敷き詰められた玉砂利の上に続く踏み石の先にある家屋に視線をやった。
 平屋建てで純和風の母屋の重厚な屋根瓦が、夕刻の陽の光を反射してきらめいている。その左右に見える庭木もいかにも“和”の趣で、きれいに手入れされていた。
「東子?」
 門扉にあたる引き戸へと視線を移した東子の背中に声が掛かった。振り返ると、敷石の上に立った蒔麻が東子を手招きしている。
 東子は慌てて身を翻し、蒔麻へと駆け寄った。
「どしたの?」
「え、うん、ずいぶん立派な家だなって思って」
「私も初めて来た時は同じこと思ったわよ」
 先に立って歩き出しながら蒔麻が笑った。
「それってお嫁に来た時?」
「うん、正確には奥さんになるって決まったあとかな」
 母屋の玄関を引き開け、蒔麻は先に入って東子にスリッパを差し出した。広い玄関の先に、板張りの廊下が続いている。ちょっとした旅館並みの大きさだ。
 梅雨が明け気温もずいぶんと高くなったが、家の中は木造家屋特有の涼しさで、冷房は必要なさそうだ。
「12年前に初めて見た時は誰のお屋敷かってびっくりしたわ、そういえば」
「あたしもさっき同じこと思った。極道って儲るんだなあって」
 直裁な感想に同意した東子に蒔麻は声を上げて笑った。
 その声を聞き付けたのか、廊下の向こうから女性がひとり顔を出した。頭にだいぶ白い物が混じった初老のその人は、ぽっちゃりとした体を揺すって蒔麻の元に駆け付ける。見た目はとても穏やかそうだが、どことなく貫禄があった。
「あらあらお出迎えもしませんで申し訳ございません」
「いいのよ、夕飯の支度してたんでしょ? 手伝おうか?」
「いえいえ、大丈夫ですよ。後ほどお茶をお持ちしますね。お部屋ですか?」
「うん、お願い。喜代さん、こちら榎本東子さん」
「初めまして、田島と申します。お噂はかねがね伺っておりますよ」
「はじめまして。今日はお世話になります」
 にこにこと笑みを浮かべて会釈をした喜代に東子も深々と頭を下げた。
 今日の東子は単に遊びに来たわけではない。休日を利用して、古賀沢邸に泊まりに来たのだ。
 十代前半の頃は友達の家に泊まることが多かったが、それは宿を借りるという行為でしかなく、無邪気な楽しさとは程遠いものだった。
 和史と暮らし始めて帰る家が出来たが、和史の元に帰ることが幸せで誰かの家に泊まりに行こうとは思わなかった。
 “友達の家に遊びに来て泊まる”という初めての体験に、年甲斐もなくドキドキしている。
「田島さんて…?」
 喜代と別れて廊下を奥へと進みながら東子は尋ねた。
 蒔麻に対する喜代の態度は主人に対するそれに似ていたが、雇主にしては蒔麻はくだけていて親しげだった。喜代からも堅苦しい印象は受けない。
「喜代さんの旦那さんが古賀沢の組員だったのよ。旦那さんは若くして亡くなったんだけど、その頃はまだ息子さんが小さくて身寄りもない人だったから、竜彦さんが住み込みでうちの中のことをやってもらうようお願いしたんだって。もう30年くらいになるのかな」
 なるほどと思い東子は頷いた。見え隠れする貫禄があるのはそのせいか。
「じゃあそんなに寂しくない…?」
 この大きな邸宅の主は亡くなり、子供もいない。蒔麻ひとりでは寂しいだろうと思っていたが、この広さではなおさらだろう。
 蒔麻は、気遣う東子を振り返って笑ってみせる。
「竜彦さんがいなくなった直後はね、寂しかったけど。でも喜代さんは母屋に住み込みだし、離れには組員がいるし、氷上も月に何回かは帰って来てくれるから大丈夫」
「帰ってくるって?」
 氷上の住むマンションに行ったことがある東子は首をかしげて尋ねた。
「ああ、5年くらい前までね、氷上も神之倉もこの家にいたのよ。竜彦さんが手元に置きたがってね」
 元は離れに部屋があったが、組での地位が上がるにつれ同じ離れで暮らす若い組員たちが恐縮するようになったので母屋に移ったのだ、と蒔麻は続けた。
 広い家で特に支障はないので、二人の部屋はそのまま残してあるらしい。
 やがて蒔麻が立ち止まり、襖を開けて東子を振り返った。
「はい、ここが私の部屋」
 先に入れてもらった東子は、興味深げに部屋の中を見渡した。
 和室に合わせた低いベッドはラタン製。そのカバーや敷き物は柔らかいクリームとモスグリーンがメインで、落ち着いた色合いだが沈んだ暗さはない。観葉植物も渋めの緑で揃えてある。家具はベッドのラタンと同じ色合いの籐や木製で、畳の部屋の風合いを活かした、シンプルだがあたたかな部屋だった。
「和室嫌いじゃない?」
「ううん、大丈夫。こういう雰囲気もすごく好き」
 可愛らしすぎず、女性的すぎず、かといって堅くも味気無くもないのが蒔麻らしい。
「布団、ここに敷いていいよね?」
「もちろん! そういうのが楽しみだったんだもの」
 荷物を下ろしてベッドの隣りを指差した蒔麻に、東子は力説した。布団を並べて敷いて横になり、たわいない話をしたいのだ。
 そうして喜代が持って来た紅茶と茶菓子でひと息ついてから、東子は部屋に入る時に中断された話題に会話を戻した。
「ね、士朗さんは帰ってこないの?」
「2、3ヶ月に1回かな」
「そうなんだ。少ない…よね?」
 神之倉のマンション――つまり東子と格の住むマンション――はここから車で20分ほどだ。組事務所からは10分といったところなので、やって来るのが大変とまではいかない。
 氷上が月に何度か来ているというのに、神之倉はなぜ数か月に一度なのだろう。
 東子のそんな疑問に、蒔麻は気にした風もなく答えた。
「私が呼ばないだけ。若頭になってここ何年か忙しかったから、余計な負担かけたくなくて。でも来てほしいって言えば、どんなに遅い時間でも来てくれるわよ」
「へえ…やっぱり優しいんだねえ」
「優しいわよ」
 断言する蒔麻に東子は頷いた。
 そう、彼は優しいのだ。
 若頭という肩書きと常に愛想よくにこやかに笑っているタイプではないので一見怖そうに見えるのだが、内側に入れた者に対しては言葉少なであってもさりげない優しさを見せてくれる。
 格が神之倉の部屋に入れてもらえるようになった頃だから1年以上前になるが、格が学校に向かったあと東子がゴミを捨てに出たところ、ちょうど出かけるところだった神之倉が階下までゴミ袋を持ってくれたことがあった。
 あまりにも似つかわしくない姿で唖然としてしまったが、神之倉本人は気にした様子はまるでなく、ゴミ袋を片手に下げたまま佐伯の出迎えを受けていた。
 まるっきり赤の他人だったならそこまではしてくれないだろう。だが格と共に、東子は神之倉の内側にいるらしい。
「氷上さんのことはよく呼ぶの?」
「呼ぶこともあるけど、大抵は氷上の方がマメに顔を出してくれる感じね。私の補佐をしてくれることが多いから神之倉よりはうちに寄る時間をとれるっていうのもあるし、神之倉が来れない分も来てくれてるのもあるのかな」
 悪い意味ではなく、互いの出来ないことを補い合うという役割分担があるのだろうと蒔麻は思っている。その証拠に、氷上が神之倉からだと言って差し入れを持参することも多い。
「家族みたいだけど部下ってやりにくくはないの?」
「境界線が曖昧ならやりにくいかもね。でもあの2人、そのへんはきっちり分けてくれるから」
 蒔麻は柔らかく微笑んだ。
 組長として蒔麻を扱う際の2人は時として厳しいこともある。だがそれがあるからこそ、蒔麻は組長として立っていられるのだ。
「前に格から聞いたけど、2人のことスカウトしたのが蒔麻さんの旦那様だったんだよね?」
「うん。すぐに声掛けたみたいね」
 ひと言で言えば“強くて美形”が竜彦の好みだった。だが、腕っ節の強さと見目良さだけでは竜彦の好みとは言えない。重要なのはその精神
(なかみ)だった。
 竜彦にとっての“見目”は顔形が整っているというだけでなく面構えや男振りの良さのことなので、世間一般の美醜とは少し違う。問題は中身と強さの質だ。単に腕っ節が強いだけでは駄目なのだ。
 強さに加えて見目も中身もなど、ずいぶんと贅沢な好みだが、それに従って直感的にこれはものになると思ったという神之倉と氷上がいまや古賀沢の中核なのだから、竜彦の見る目は確かだったということか。
 そして竜彦の存在があったとはいえ、その滅多にいない男達が自分を支えてくれているとはなんと贅沢なことだろうと蒔麻は思う。
「ね、この人が旦那さん?」
 ベッドサイドの棚の上にフォトフレームを見つけてにじり寄った東子が尋ねた。
「そうよ。オジサンでしょ」
「でも親子には全然見えないよ」
 東子が微笑んで振り返った。
 見た目の年齢だけで判断するなら父娘だが、蒔麻の肩を抱く竜彦も体を寄せる蒔麻も、相手をきちんと異性として認識しているように見える。
 一般的な女性の平均からすれば長身の部類に入る蒔麻をすっぽりと胸に抱けそうな大柄な竜彦からは、鷹揚でおおらかな印象を受けた。蒔麻の口からこの人の話をもっと聞いてみたい。
「他にも写真あるの?」
「たくさんはないけど――そんなことよりさっきから質問ばっかりよ? 東子の話も聞かせてよ」
「あたしの何?」
「聞いてもいいなら……格くんのお父さんの話が聞きたいわ」
「全然かまわないけど――そんな、改めて何を話せば」
 格抜きでもふたりで何度も会っていて、いろいろな話をしてきた。
 蒔麻と竜彦との馴れ初めやら、格の小さい頃の話やら、仕事の愚痴やら、ファッションや雑貨や食べ物の話やらと多岐にわたる。
 東子と亡くなった格の父親とのことも、エピソードのいくつかを話したことはあった。
「拾われたって言ってたよね?」
「うん、そう。泊まり歩くのも限界で、もうどこにも行くところがなくてぼーっとしてたら、来いって言われて」
 両親を亡くした後に引き取ってはくれたものの著しく折り合いの悪かった叔父の家を14歳で飛び出し、半年間は友人や知人の家を転々としていた。同じ年代で同性の友人の元が最も居やすかったが長期間世話になるわけにも行かず、どうしたものかと途方に暮れていた時に出会ったのが、榎本和史だ。
「よくついていったわねえ? ナンパか何かだとは思わなかったの?」
「ん〜……なんとなくこの人はあたしに悪いことはしなさそうかなっていうのがあったんだけど、それを自覚したのは後からで、声を掛けられた時はもうどうなってもいいやっていう――破れかぶれ?」
 たった14歳でそういう状況と心境に陥らざるを得なかった当時の東子を思い、蒔麻は視線を落とした。二親を亡くしているのは蒔麻も同じだが、自暴自棄になって自分を投げ出すような状況にはならなかった。
「やだ、そんな顔しないでよ。もうあんなことはしないから」
「させないわよ」
 明るく笑った東子に、蒔麻は自分でも驚くほど強い声できっぱりと言い切った。
 その短い答えに東子は一瞬目を見開き、そして破顔した。ぱっと花咲くようなそれは、格の笑顔とよく似ている。
 東子は身を乗り出し、少女のような笑顔をいたずらっぽい笑みに変えて蒔麻に問い掛ける。
「和史ったらおかしいのよ。自分のうちに連れて帰って、シャワー貸してくれて、ご飯食べさせてくれたあとに何したと思う?」
「……なに?」
「お説教」
 よほどこってりとしぼられたのか、東子の眉間に皺が寄る。
「知らない男にほいほいついて来るんじゃない、相手がケダモノだったらどうすんだって怒るの。自分で呼んだくせによ?」
 言った本人の真似なのか声色を変えて説教を再現した東子に、蒔麻は吹き出した。有無を言わさず連れて帰ったようなのに、その言い様は確かにおかしい。
「それで? どうしたの?」
「逆ギレした」
「……東子らしいわ」
 何故か胸を張って答えた東子に蒔麻はもう一度小さく吹き出して、一度も会ったことのない男と目の前の友人とのやり取りを思い浮かべる。
 たしかに、もうどこにも行き場がないという状態では差し出された手に縋りたくもなるだろうし、いきなり赤の他人に説教されては腹も立つ。
 結局のところ和史は東子の言い分も認め、その上でもっと自分を大事にしろとありきたりなセリフを吐き、その夜は泊めてくれたのだ、と東子は続けた。
 東子にとって、和史のそばは不思議と居心地が良かった。友人でも知人でもない行きずりの男だというのに、だ。
 当初は警戒してもいたがやがてそれも消え、和史も出ていけと言うことなく、東子は和史の元に留まり続けた。
「よく置いてくれたわねえ」
「頑固親父っぽいところがあるわりに、大雑把なとこがあったから。女扱いされてなかったし」
「どういう扱い?」
「拾った猫って感じかなあ? 近所の人とか友達には親戚の子って言って誤魔化してたし」
 和史にしてみれば、東子は一回りも年下の子供で、庇護すべき存在だった。東子が転がり込んでしばらくして別れたが、妙齢の彼女もいた。女扱いされないのも当然である。
「よく猫から女に扱いが変わったわね」
「和史が彼女と別れてから冗談で代わりにしていいよーなんて言ってたんだけど、そのうち本気で好きになっちゃって……で、オトしたの」
 東子は少しはにかむように俯いて、それから誇らしげに笑った。
 ああ――紛れもなく親子だ。蒔麻はそう胸の内で呟く。格の積極性は明らかに東子からの遺伝のようだ。
「頼りになるとこも、意外と子供みたいなとこも全部好きだった。で、ある日ね、この人しかいないってふと思ったのね。絶対に手に入れなくちゃって。それで、押して押して押しまくって奥さんになれて、格も生まれて――あれは一世一代の大勝負だったって、今では思ってる」
「…そうね。東子がその勝負に勝ってくれて良かったと心から思うわ」
 蒔麻は握り拳で力説する東子に微笑んで頷いた。
 東子が和史をものにしなければ格は生まれず、格が神之倉と出会わなければ蒔麻と知り合うこともなく、蒔麻がこうやって東子を自宅に招くこともなかった。
 古賀沢の頭
(かしら)でいることに迷いやためらいはないが、“古賀沢組”を抜きにした蒔麻という一個人を受け入れてくれる存在を得たことでより強くいられるような気がしている。
「蒔麻ちゃんは?」
「え?」
「旦那さんを選んだ決め手とか」
「え……」
「迷わず即断?」
「まさか! 迷ったわよー。年上趣味でもなかったし…」
 はじめは何の冗談だと思った。相手はヤクザの組長で、父親ほどの年齢で、死別したとはいえ過去に結婚歴もあるという。そう簡単に本気だと思えるはずがない。
 何度も何度も屈託なくお前に惚れたと告白され、その気持ちは信じてみようかと思い始めても、気持ちに応えようという気にはなかなかなれなかった。
 ただ、戸惑いに満ちていた当初以外、迷惑だと感じたことがなかったのは、竜彦が蒔麻の都合も慮ってくれたからだろう。
 会いに来ても、蒔麻が仕事をしている時や友人といる時には堅気に見える部下に伝言のメモを託したりと、誰かに竜彦のことを問われて言い訳に困るようなことは決してしてこなかったのだ。
 それでいて、蒔麻の抱えていた淋しさや不安を感じ取ってくれ、その時に一番欲しいひと言をくれた。
「うーん、それはクラッときちゃうよねえ」
「またいいのよ、タイミングが。好きだ惚れたっていうのは何度も言われたけど、そういうトドメのひと言はさらっと出て来るの。……そういえば格くんて、そういうとこちょっと竜彦さんに似てるかも」
「嬉しいけど褒めすぎじゃない?」
「そんなことないわよ」
 蒔麻を嬉しがらせたり気持ちを和ませたりするひと言を、格は何気なく口にする。特別な言葉ではないのだが、あまりにもタイミングが良いので自然と胸に浸透するのだ。
 察しの良さも、似ているところのひとつと言えた。
 例えば蒔麻が体調の悪さを隠していたとして、竜彦はいま具合が悪いだろうと断定的な物言いをしたが、格は体調が良くないのかと確認してくる。そして2人とも、無理はするなと蒔麻を労ってくれるが、蒔麻がどうしたいかを最優先にしてくれた。
 アプローチの違いはあるが、看破されていることに変わりはない。
 竜彦は有無を言わさず甘えさせてくれ、すべてを抱えてくれて、なおかつそれを後ろめたく思わせなかった。
 格は強がりを言ってもそれを見抜き、そばに寄り添っていてくれる。
 竜彦と同じほどの年数を格が生きた時、格の器は今よりもっと大きくなっているのではないか。
 少々年寄り臭いとは思うが、格の今後の成長が楽しみで仕方がない。
「そうそう、アルバムありがとね」
 成長という言葉で思い出し、蒔麻は胸の前で両手を打ち鳴らした。そして、ローチェストの上のアルバムの山を持って来る。
 以前東子に借りた、格の幼い頃のものだ。
「長いこと借りちゃっててごめんね」
「ご期待に添えた?」
「そりゃもう」
 蒔麻は深く頷いた。期待通りどころか期待以上で、大層和んで気持ちが柔らかくなった。
 どう表面を取り繕ったところで殺伐として血腥さが漂う世界にいる蒔麻には、アルバムに収められているあたたかな光景が新鮮で、とてもいとおしいものに感じられた。
 羨ましいのではない。いまさら同じものを望むこともない。
 ただ、自分が好ましく思っている人間が、このあたたかいものを持って近くに在ってくれることにほっとする。
 蒔麻は見納めのつもりでアルバムをめくり、若い東子と幼い格の姿を眺めた。
「この頃って16才? 17?」
「17かな」
「あんまり変わらないよね」
「そんなことないよー。やっぱり老けたよ」
「でも中学生になる息子がいるようには全然見えないし、服装とメイク次第では――」
 幼い息子を抱く様には確かな母性が見えるのだが、やはりその風貌は若々しい。当時の面影を十分残している東子を見つめて、蒔麻は突如思い起こされた記憶にふっと笑った。
「なに?」
「うん、着てみてほしいなと思って」
「なにを?」
「セーラー服」
「……あたしもう29だよ?」
「着たかったって言ってたじゃない」
 確かに言った。それは東子も覚えている。格の学校に、蒔麻と共に運動会を見に行った時だ。
 いまでも着てみたかったという思いはあるが、さすがにいい年をしてという気恥ずかしさの方が強い。
「いいじゃない、外に着て出て女子高生を騙るわけじゃなし。着てみてー。見たーい」
 蒔麻は甘くねだるようにかわいこぶって東子を促した。
 東子はちらりと上目遣いで蒔麻を見やる。
「……蒔麻ちゃんて実は制服フェチ?」
「見るのは好きよ。前にも言ったと思うけど」
「あたしも嫌いじゃないけど…っていうかむしろ好き、かも……」
 互いの嗜好を明かしあった2人の間にしばしの沈黙が訪れた。
 そして唇に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。


「あーん」
 横から伸びて来た手と甘い声に、神之倉は口へ運ぼうとしていた箸を止めた。
 差し出された自分のものではない箸の先には、氷上が作った鯛のカルパッチョ。
「――格」
「別のがいい?」
 箸をそのままに、隣りに座っていた格が小首を傾げて尋ねる。
「…いや、自分で食えるから」
「こんくらいさせてくれてもいーじゃんか。氷上がお酌すんのは良くて、なんで俺のあーんが駄目なんだよ?」
 格は箸を戻して取り皿に鯛を置き、唇を尖らせて神之倉を非難した。
 氷上が神之倉の部屋に酒を飲みにやって来ると大抵何品か肴を作るのだが、それに遭遇すると、格は決まって氷上と張り合おうとする。
 神之倉にとって格と氷上のポジションは全く違う。格が妬く必要は全くないのだが、料理をする時の鮮やかといっていい手際の良さや、飲んでいる最中当たり前のことのように差し出される銚子に、どうにも対抗心を煽り立てられるらしい。
「俺も奴に注いでるぞ? 一緒に酒を飲むならおかしなことじゃないだろうが」
「付き合ってんならあーんもおかしくはないんじゃねえの?」
「……」
「なんでそこで黙るんだよー」
 咄嗟に返事が出来なかった神之倉に、眉間にしわを寄せた格が縋った腕を揺さぶる。
「いや……その、な」
「それじゃわかんねーってば」
「――改めてそういうのはどうも、その……照れ臭いだろう?」
 食い下がる格から視線を外した神之倉は、言い淀んでから再度視線を戻し、照れを滲ませた苦笑と共にそう答えた。
 聞いた瞬間ぽかんとした格は、一拍置いて神之倉の首に腕を回して抱き付く。
 神之倉は、いつもどこかに余裕がある。格が押し倒そうがのし掛かろうが、キスひとつで骨抜きにされ、結局はうまく躱されてしまうのだ。
 それなのに、こんな風に照れる姿は珍しい。
 もっと照れ臭いことを平然としてのけるくせに何を言うのだと思いつつ、照れる神之倉というのも新鮮でいい。
――言ったら怒られるかもしれないけどカワイイかも……あ。なんかムラムラして来た……
「格」
「な、なに?」
「冷めるぞ。温かいうちに食いな」
「――…」
「…どうした?」
 拍子抜けして腕を解きまじまじと見つめてくる格に、神之倉が問い掛ける。
 格は答えずに座り直し、神之倉の肩にこてんと頭を落とした。
 わざと気付かないふりをしているのか、本当に何も気付いていないのか、判別がつかない。だが、おそらく前者だ。
――手強いよなあ
 格は心の中で嘆いた。
「格? 眠いのか?」
「んーん…大丈夫」
 気を取り直して顔を上げ、格は箸を手に取った。そして小鉢に手を伸ばす。初めて見るメニューだ。
 氷上と知り合ってから1年半近く経つが、そう機会はないとはいえ同じ料理を作るのを見たことがない。それなのに、どれも味にぶれがなく完成されている。それだけレパートリーが広いということか。
「美味い…。これ湯葉?」
「ああ、いい味だな」
「氷上、やっぱ戻って来ないのかな?」
 どうやら神之倉好みのようなのでレシピを聞いておかねばと思いつつ、格は尋ねた。
 神之倉と差し向かいで飲んでいた氷上が、蒔麻からの突然の電話で出て行ってしまってから数十分が過ぎている。飲み始めてそれほど経っていなかったのだが、実にあっさりしたものだった。神之倉も慣れているのか、軽く挨拶を交わしたのみで見送ろうともしなかった。
 電話でソックスがどうのと話していたが、なんの用なのか神之倉は聞かず、氷上も話さなかった。
「戻るなら出て行く時にひと言あるだろうからな、今夜はもう来ないだろう」
「…そっか」
 ということは、今夜は完全に2人きりだ。
 母親の東子は蒔麻の家に泊まりに行っており、明日は日曜日だ。神之倉も明日はオフだという。憚ることは何もなかった。
 このチャンスを逃す手はない。
――でもどうやってその気にさせようか…。風呂にでも入れて襲っちゃうか?
「――格」
「ひゃいっ!?」
 様子を横目で窺いながら邪な算段を立てていた格にふいに視線を寄越して呼び掛けた神之倉に、応じた格の声が不自然にうわずった。
 だが神之倉は気にした様子もなく、ソファの上を指差す。
「電話。震えてたぞ」
「え? あ」
 指し示す先に自分の携帯電話を見つけて、格は慌てて手に取った。昼間、部活の最中にマナーモードに切り換えたままだったのだ。
 電話ではなくメールだったので、そのままチェックしてみる。
 『かわいい?』というタイトルのそれには、3枚の写真が添付されていた。
 1枚目は夏物のセーラー服を着た東子、2枚目は冬物セーラー服姿の蒔麻、そして3枚目には蒔麻と共に何故か白衣を着ている氷上の姿があった。
 格は茫然として、しばし送られて来た写真を見つめた。
 東子は髪の両サイドを捻り上げて後頭部でまとめ蒔麻はゆるく編んで適度に崩した三つ編みという髪型のせいか、2人とも化粧が薄いからなのか、女子高生には見えないが実年齢どおりにも見えない。
 コスプレとしては十分ありだ。可愛いかと問われれば可愛いと即答できる。
 黒いセーラー襟の制服は安物の生地ではないようだ。それぞれ夏服と冬服を着ているということは蒔麻のものだろう。
 そして“ソックス”の謎が解けた。
 膝を抱えてしゃがんでいる東子の足を包む濃紺のハイソックス。これは蒔麻の私物ではないはずだ。
 つまり氷上は、ハイソックス(おそらく白衣も)を買って来させられたということか。
 一体どこでどんな顔をして買うのだろうと考えたが、氷上ならどこであっても平然と買っていきそうだ。
 現に、付き合わされただろう写真の氷上は結構楽しそうである。ワイシャツの上に羽織ったと思しき白衣の着方も、妙に様になっていた。どこかの研究室か医大の教授でもしていそうだ。
「どうかしたのか?」
 携帯電話を見つめたまま動かない格を不審に思ったのか、神之倉が声を掛けた。
 格はすぐに振り返ってなんでもないと言おうとしたが、視界に入ったあるものに気を取られ、言いかけた言葉を飲み込む。
 誰も座っていないソファの背もたれに、神之倉の上着とネクタイが無造作に掛けられていた。
 格はしばし考えて、ワイシャツの襟元をゆるめただけでまだ着替えていない神之倉に視線を向けた。
「格…?」
「これ着てネクタイ締めといて」
「え?」
 立ち上がった格はソファの上の上着とネクタイを神之倉に手渡し、玄関へと続く廊下へ向かって足早に歩き出す。
「出掛けるのか?」
「すぐ戻るから着といてよ!」
「おい?」
 神之倉の手が呼び止めようと上げられたが、格は立ち止まることなく部屋から出て行った。
「なんなんだ、一体…」
 訝しげに呟き、神之倉は手にしたネクタイに視線をやった。唐突で訳が分からない。
 だが、格が思い立ってすぐに動き出すことはままあることなので、とりあえず言われたとおりにしておくかとネクタイを首へと回した。
 そして格は宣言どおり、神之倉がネクタイを締めて上着を羽織り煙草に火を点けてひと吸いしたところで戻って来た。
「おう、早いな――…どこに行く気だ?」
 部屋に入ってきた格を振り返ってその姿を視界に収めた神之倉は、一瞬の間の後に眉間にしわを刻んで怪訝そうに問い掛ける。
「どこにも行かねえよ」
 学生服を着た格は、そう答えてすたすたと歩み寄った。
 そして、ソファに腰を下ろしている神之倉の大腿部に横向きに腰を下ろす。
「格? 一体なにを…」
「うん」
 目線が少し下になった神之倉の顔を見下ろして答えになっていない返事をし、格は神之倉のネクタイの結び目に手を伸ばした。指を掛けて下方に引いてゆるめながら、もう片方の手を耳元から首筋のあたりに添えて顔を近付ける。
 寄せられた唇を、神之倉は避けなかった。
 格は両腕を神之倉の肩に掛け、顔をさらに傾けて深く唇を重ねる。
 だが口づけはそれほど長くは続かず、重ねるだけのキスにとどめて数秒後に格が離れた。
 離れ際に、挑発するように神之倉の下唇をぺろりと軽く舐め上げていく。
「――何がしたいんだ、一体?」
 神之倉は動じた様子もなく、己の顔を覗き込む格に尋ねる。
 身支度しても出掛けないと言われ、締めろと言われたネクタイも解かれてしまった。
 意味が分からない。
「うん、だから、キスしたいからしたんだよ」
「着替える必要はあったのか?」
「ちょっとスーツ脱がせてみたいなって思って」
「お前がこの季節に学ランなのは?」
「ん? 制服プレイ」
 格はにっこりと微笑み、さらりと答えた。
 それから、神之倉の首に腕を回したまま腰を上げて体勢を変え、両脚を跨いで押し倒すようにしてのし掛かる。
 神之倉は、片腕をソファの背もたれに掛けることで傾ぐ上体が倒れることを防いだが、格はそんなことはお構いなしに体を寄せ、白いワイシャツの襟元に触れた。
 いつの間に習得したのか、片手はしっかりと神之倉の体に回されたまま、もう片方の指で器用にボタンを外してゆく。柔道部に入って寝技が上達したのだろうか。
「いつもとシチュエーションが違って、なんだか新鮮」
「何言ってんだ」
 神之倉は呆れたため息と共に言葉を返したが、考えてみれば互いにスーツと制服をかっちりと着込んでこれほど密着するのは初めてかもしれない。
 格が中学校に入学して2ヶ月ほどだが、制服姿の格と会うのは大抵長い時間ゆっくりとは出来ない時で、自宅で会う時は神之倉の帰宅が遅いため格は私服でいることがほとんどだ。
「興奮しない?」
「…してほしいのか」
「もちろん。襲ってよ、士朗」
 格は至近距離で甘えるようにそう囁いてから、押し広げたワイシャツから現れた鎖骨に唇を押し当てた。
「ちょ…っと待てコラ! 襲ってんのはどっちだ!」
「乱れたスーツってエロいよな」
「格っ!」
 うっとりとしたまなざしを向けつつ言い放った格に、さすがに叱咤するような声を放った神之倉だったが、当然、そんなもので格が怯むはずもなかった。


「…ねえ、この“ありがとう”ってどういう意味かな?」
 格からの返信メールを見つめて東子が誰にともなく尋ねた。
 ちょっと遊びで着てみるだけのつもりだったが、どうせならと氷上に頼んでハイソックスを仕入れ、髪もいじって写真を撮ってみた。
 撮ったら見せてみたくなったので、添付して格の携帯電話宛てに送ったのだ。
 比較的早く来た返信には、「ふたりともかわいい!ありがとう!」とあった。
 東子が気になったのは、その短さと漢字変換のなさだ。
 いつもの格なら、もう少し具体的な褒め方をしてくれる。変換に関しては、なくてもおかしくはない文面なのだが、格のメールでは大抵“可愛い”と表記されている。
「ひょっとして邪魔しちゃったかなあ?」
 氷上に聞いて、格が神之倉の部屋にいることは判っていた。もしかして、二人きりのところにとんでもなく気の利かないことをしてしまったのだろうか。
 息子の幸せ第一で格の神之倉攻略を全面的に応援している東子としては、水をさすようなことは避けたいところだ。
「あの頑固者はそう簡単に折れやしねえよ、東子ちゃん。いちゃついてたとしても、メールを返信する程度で格が挫けるとは思えないけどな」
 東子の言わんとしたことを汲み取った氷上がそう言って肩をすくめる。白衣はすでに纏っておらず、いつものスーツ姿だ。
 “頑固者”とは神之倉のことだろう。
 そして氷上は、何かを思案するように宙を見上げた。
「そうだな…――格のことだから、制服プレイでも思い立ったんじゃないか?」
 少し考えてからさらりと出て来た言葉に、蒔麻と東子は一瞬きょとんとしたが、次に顔を見合わせて納得したように頷いた。
 やりかねない。
「格くんてスーツ姿の神之倉が好きみたいだから、スーツ着せてたりして」
「着替えもしないでネクタイ外しただけで飲んでたから、それは有り得る」
「…落ちてくれるかしら、士朗さん」
「制服好きとは聞いたことはないが…。それで落とせたら大したもんだ」
 氷上は面白そうに笑って腰を上げた。そして蒔麻に視線をやって言う。
「一杯やりますか」
「そうね。この間おいしい白ワインもらったから、それ開けましょ」
「つまみは何でも?」
「まかせるわ」
「了解」
 すぐに応じて頷いた蒔麻の言葉に軽く請け負って、氷上はそのまま部屋を出て行った。行き先は台所だろう。
 東子が以前氷上の家に飲みに行った時に出されたものは全て氷上の手料理だったが、この家で飲む時でもそうらしい。かつてここで暮らしていた時からの習慣なのかもしれない。
「じゃあ今のうちに着替えちゃおうか。さすがに冬服は暑いわ」
 蒔麻は苦笑を浮かべつつそう言って髪をほどき、後ろ髪をかき上げた。
 東子もそれに続いて制服のファスナーに手を掛ける。
 その手がふと止まった。
「蒔麻ちゃん」
「ん?」
「ありがとね」
 束の間だが、ほんの少し女子高生気分を味わえた。高校に行かなかったことに後悔はないが、やはり嬉しい。
 東子は礼の言葉しか口にしなかったが、蒔麻には伝わったようだ。
 唇に、柔らかな笑みが浮かんでいた。
 東子は笑い返し、難攻不落の頑固男の懐に飛び込んで見事受け入れられた息子に感謝するとともに、今夜の彼の健闘を祈った。

 祈りが届くのは、もう少し先の話。


−終−



Series index ←前次→
 
アンケェトフォーム→

Copyright(c)2007.03.27- Haruka Sumeragi Rights Reserved.



広告 [PR] 小説 ブックマーケット お見合い 無料レンタルサーバー ブログ blog