【第2部】Vol.4 アンダー・ザ・ローズ


 冬の冷たい空気を、乾いた床板を蹴る音が割くように響く。
 まるで音楽のようにリズミカルな、だが決して予想通りには展開していかない即興演奏のような攻撃をやっとの思いで捌き、格は間合いを取って明と対峙した。
 格が武原の道場に通いだして、4ヶ月が経とうとしている。
 最初の1ヶ月はついていくのがやっとだったが、今では道場の門下生と組み手が出来るまでになった。
 明との組み手もだいぶ様になってきた。手合わせとなるとまだ何度やっても勝てないが、悔しいながらもキャリアの差は埋めがたいと納得はしている。
 だが、いつまでもこのままではでいるつもりもなかった。明と対等に仕合えるくらいまで、仁武流の空手を極めてみたい。
 強くなりたいという思いからここに辿り着いたが、それとは別に武道そのものへの意欲も生まれてきている。
 格に間合いを取られた明が、ふっと息を吐いた。
 はっとした次の瞬間、格の懐に明の体が飛び込んでくる。
 繰り出された肘打ちをかろうじて避け、すぐまた放たれた蹴りを咄嗟にブロックする。いつものことだが、そのスピードは相当速い。格は蹴りの威力を半減させるため、自ら床を蹴って後方に転がった。そして受け身を取った勢いのままさらに後転し、すぐに立ち上がろうと片膝をつく。
 その時、突如激痛が襲った。
 格は傷みに顔を歪めて動きを止める。
「格?」
 これまで蹴りの一発や二発で立てなくなるようなことはなく、今の一撃も決まってはいないことがわかっていたので、明は格の様子に驚いて思わず声を掛けた。
 別の門下生に技の入り込み方を教えていた武原も、すぐにそれに気付いて駆け寄ってくる。
「どうした? どこか怪我したか?」
「怪我、というか」
 自分でもわけがわからず、格は武原を見上げて首を捻った。
「どこが痛む?」
 怖いくらい真剣な目をした武原が、格の傍らに膝をついて尋ねた。格は戸惑いつつ、覗き込んでくるその目を見返す。
 怪我をした時の刺すような痛みやじんじんと響くような痛みはない。強いて言うなら、骨の奥が軋むような痛みだ。特に膝の下に痛みがある。
 ここ数日、時折この痛みに襲われていたが、ひどく痛んだのは今日が初めてだ。
 格はそれ武原へ説明した。
 全て聞き終わると、武原はひとつ頷いた。そして、見た目からイメージするよりも大きな手で労るように背中を撫でる。痛みへの不安が幾分和らいだ気がした。
「かーちゃん連れてきたぜ!」
 格の元へ駆け寄ってきた武原と入れ替わるようにして道場を駆け出して行った明が、母親の佐月の手を引き戻って来た。
 武原のためにスポーツ医科学を学んだという佐月は、武原はじめ仁武流の門人のメディカルチェックや怪我をした時の応急処置も行う。格が治療をしてもらったのは初対面の日に明に殴られた時の一度きりだが、明に言わせるとテーピングひとつとっても佐月が施すと違うらしい。
 佐月は、格を挟んで武原とは反対側に膝をついた。格が語ったことを簡単にまとめて説明する夫の声を聞きながら、佐月は格の肘や膝に触れてゆっくりと曲げたり伸ばしたりさせる。
「怪我ってわけじゃないと思うんだが」
「そうね」
 武原の言葉に佐月は頷いた。
 痛む膝を覆う、佐月のあたたかい手のひらが心地よい。
「成長痛、それとオスグットね」
 格と目を合わせ、佐月は柔らかくそう言った。
「おすぐっと…?」
 成長痛はよく耳にするが後者は聞いたことがなかったので、格はそれを繰り返して首を捻った。
「格くん、うちでの稽古の他に部活で柔道をやってるのよね? 他には何か運動している?」
 格の疑問に答えるより先に、佐月が格に問い掛ける。
「月に数回ですけど、合気道と――あと、運動…になるのかな? ジョギングしてます」
「毎日? どのくらい走るの?」
「最近は毎日です。距離はまちまちだけど、だいたい5キロくらい。走れるときはもっと」
 最近少し慣れてきて走るのも楽しくなってきた。もう少し毎日の距離を伸ばしてみようかと思っていたところだった。
 しかし佐月は、格の膝を労るように撫でながら首を横に振る。
「ちょっとオーバーワークかもしれないわ。しばらく安静にして様子を見ましょう」
「……稽古しちゃダメってことですか……?」
 告げられた言葉に思いのほかショックを受けた格は、不安げな表情を隠しきれないまま佐月を見上げた。
 佐月は柔らかく笑って「大丈夫」と断言する。
「オスグットは成長痛の一種とも言われるんだけど、10歳から15歳くらいのスポーツをしてる男の子に多いのよ。膝を曲げたり伸ばしたりするときに使うのがね、ここなの。大腿四頭筋」
 佐月は説明しながら格の大腿部の前面を指し示す。
「で、ここの筋肉はこのあたりに繋がってるのね」
 すっと指が下ろされ、膝の皿のすぐ下へと移動した。
「走ったり飛んだりすると当然腿の筋肉が収縮するから膝の部分も引っ張られるんだけど、そこの軟骨が成長期でまだ柔らかいと、過度の運動に耐えきれなくなって炎症を起こしたり剥がれたりしてしまうの。――ここ、痛いでしょう?」
 膝下3センチ程のところに触れつつ訊ねる佐月に格は頷いた。確かにそこが一番痛い。
「でも、見たところ少し腫れている程度だし、ひどく痛んだのは今日が初めてなら、それほど重くはないと思うわ。大丈夫よ」
 大丈夫。力強く繰り返されたその言葉に、未知の症状への不安がふっと和らいだ。
「でもね、無理をするともっと症状が重くなって、空手をやめなくちゃならなくなってしまうかもしれない。それは嫌でしょう?」
「嫌です」
「痛いのに無理して稽古をしても怪我の元になるだけよ。そうしたら、もっと遠回りになると思わない?」
「……思います」
 怪我の程度にもよるが、捻挫でも完全に治すまでは時間がかかる。1週間休んで済むのならその方がいい。
「じゃあまずは1週間、部活も稽古も控えて安静にね」
「はい」
 諭すように話しかける佐月に、格は素直に頷いた。わかりやすい説明に、不安だけでなく痛みまで緩和された気がする。佐月の優しくきれいな笑顔そのものにも何か癒しの効果があるかのようだった。
 そんな彼女の背後から、その息子がひょいと顔を出す。
「たいしたことねえなら良かったよ。これってよくあることなのか?」
「サッカーやバスケットなんかの走り回るスポーツでは多いわね。格くんの場合は、背が伸びたのも大きいと思うわよ」
「え? 伸びてますか? 測ってないから気付かなかった」
 春先の身体測定の時期以外、身長を測る機会はあまりない。一晩で10センチ伸びればさすがに視界が変わって気付くだろうが、徐々に伸びたのなら自覚しづらい。
 しかし、周囲は気付いていたようだ。
「なんだ、自覚なかったのか」
「伸びてるよな。最近、組手ん時の目線の高さが違うもん」
 武原父子が相次いでそう言った。
「見てわかるくらい伸びてますか?」
「お前ら二人並べてみりゃあな。こいつが伸びてないのは知ってるから」
 武原は、そう言って親指で息子を指し示した。明はそれに対して膨れっ面を見せたが、自覚があるのか食ってかかりはしなかった。しかし、
「……いいなあ」
 露骨に羨ましそうな声で明が格に視線を向ける。格は苦笑で受け止めて、首をかしげた。
「いてぇよ?」
「でも身長伸びたンだろ? 成長痛なんて、オレは気配すらねえもん」
「これから伸びるよ。明、師範似だし」
 武原は180センチをいくらか超えていて、母親である佐月も蒔麻とあまり変わらない身長だと格は思う。ということは、成人女性の平均身長より高めだということだ。この二人から生まれたのなら、それなりに伸びそうである。
「焦るこたァねえよ。俺も175超えたのは高校入ってからだし」
 洋はそう言って、明の頭を押し下げるようにしてぐりぐりと撫でた。
「押すなよ! 縮む!」
「ははは」
 なんとか父親の手を外そうともがく明にかまわず、武原は片手でがっしりと頭を押さえて鷹揚に笑う。
 それを見てクスクス笑っていた佐月が、格に視線を移してやさしく微笑んだ。
「稽古が終わったら洋から腿のストレッチの仕方を教わって帰るといいわ。とりあえずアイシングしときましょう。そのあとテーピングしてあげるわね」
「はい、お願いします」
 笑顔を返し、格は頭を下げた。
 この親子の醸し出す空気は、格にとってあたたくてやさしい。
 足の痛みよりもそちらの方が大きく胸を満たした。


「大丈夫か?」
 稽古が終わった後、わざわざ門の外までついてきた明が格に問い掛けた。
 日はすっかり暮れて、外灯が地面に影を造っている。
 そろそろマフラーが必要かという気温だが、明は空手着の上にスカジャンを1枚羽織っているだけだ。
「…大丈夫。佐月さんのテーピングすごいな。全然痛くない」
 格はダッフルコートの前をしめながら自分の足に視線を落とし、トンと軽く地面を蹴ってみてから返事をした。本当に、佐月にテーピングをしてもらってからじわりとも痛まない。ここ数日の痛みも、稽古中に鋭く走った痛みも、まるで消えていた。
「でもあんま無理すんなよ? テーピングひとつで治るもんじゃねえんだし」
「ん、わかってるよ」
「ならいいけどよ……って隠れろ格!」
「え?」
 唐突に腕を引かれてたたらを踏んだ格を明が抱き留め、ぐいぐいと背を押して門扉の中へと押し込もうとする。何がなんだかわからない格が訝しげに振り返ったとき、武原家の前で足を止めた少女と目が合った。
「なにやってんの、武原?」
 不思議そうに問い掛けた少女が首を傾げると、短い髪がさらりと揺れた。
「……中嶋」
 声を掛けられた明が、渋々声の主を振り向いた。しまった、と顔に書いてある。
 少女もそれに気付いたようで、何よその顔?と言い咎めた。
「なんでもねえよ」
 明はふいっと視線を逸らして幾分乱暴に言い返した。
 愛想はいい方なのにと明の素っ気ない態度を不思議に思いつつ、格はあらためて少女に視線を向ける。
 かなりの長身だ。格とさほど目線が変わらないかもしれない。
 ハーフコートの上からでもわかる、手足が長くすらりとしたスレンダーな肢体。切れ長の目に長い睫毛、形の良い薄めの唇。柔らかく可愛らしいタイプではないが、クールで凛とした風情がある。
「武原の友達?」
 小首を傾げて少女が尋ねて来た。ものを訊ねるときに首を傾げるのは彼女の癖らしい。
 明は頷いて、立てた親指で背後を指差した。
「それと、ウチの門下生」
「へえ! 年の近い門下生なんて初めてなんじゃない?」
 どうやら仁武流の入門基準を知っているらしい少女は、驚いてみせてから浮かべた笑顔を明へと向ける。
 明はちらりと格へ視線を送り、少女の笑顔を受け止めて言った。
「近いどころかオレらとタメだ。……格、これはオレのクラスメート」
「中嶋杏子です。武原とは幼稚園から一緒なの」
 少女――杏子はすっと手を差し出した。
「榎本格です。よろしく」
 少女の自己紹介を受けて、格も名を名乗り手を握り返した。
 初対面で握手を求めて来る同年代にはこれまで出会ったことがなかったが、杏子のそれはとても自然でスマートだ。
「同い年とは思わなかった。榎本くん、おとなっぽいね!」
「君も。かっこいいね」
「ほんと? 嬉しいな」
 見て感じたままを素直に口にすると、杏子は本当に嬉しそうな顔をした。
 それと比例するかのように、明がわずかに眉を寄せる。
「お前こそ、こんなとこで何してんだよ」
「おつかい。うち豆腐は喜久屋さんだから」
 何故か不機嫌そうな明の問い掛けに、杏子は気にもせず提げていた白いビニール袋を掲げて見せた。
 仁武流本部道場のある通りにはたしかに豆腐屋があった。格も、道場に通う道すがら何度も目にしている。
 すると杏子は、ハッとして掲げた手首にはまる腕時計に視線を向けた。
「やば。早く帰らなきゃ」
 どうやら急ぎの買い物のようで、杏子は慌てて身を翻した。だが踏み出し掛けてすぐに止まると、明の方へ向き直る。
「じゃあね、武原。また明日学校で」
「…おう」
「バイバイ、榎本くん」
「もう暗いから、気をつけて」
 軽く掲げられた手と別れの挨拶に応えるように格が手を上げると、杏子は一瞬驚いたような顔をしたあと笑みを返し、緩やかに走り出した。
「――早いね、彼女」
 徐々にスピードを上げあっという間に小さくなった背中が通りのカーブの向こうに消えるまで見送って、格は明に視線を移した。
 だが、明からは返事はなく、怒っているのか困っているのか判断しがたい表情で格を見ている。
「明?」
「……なんでわかった?」
「何が?」
「あいつ、可愛いとかキレイとか言われるより、かっこいいって言われる方が喜ぶんだよ」
「そうなんだ? さっぱりしてそうで、見た感じもかっこいい子だなって思ったから」
「――お前てナチュラルにタラシだよなあ」
 ため息混じりに吐き出した明の言葉に、格は心持ち目を丸くして首を捻った。杏子をたらそうと思って発した言葉などひとつもない。だいたい、そんなことは思いもしなかった。
「好きな人がいんのに、他の誰かをたらそうなんて思うわけないだろ。それに明が」
「オレ?」
「身長を気にしてんのは、あの子のことが好きだから?」
「え?」
 格が直截に問い掛けると、明はきょとんとして聞き返し、それから、格が何か答えるより早く笑い出した。
「ないない! 単なる幼馴染みだって!」
 その反応に、格は自分の勘が正しかったことを確信した。
 女の子に対する態度はルリに対してのものしか知らないが、さして苦手にしているようには見えなかった。それなのに杏子には無愛想だったのは何故なのか。
 だが、その謎はいま解けた。
 耳たぶまで真っ赤だ。
 格は、明に気付かれないように小さく吹き出した。
 その照れっぷりが好ましくてつい少し意地悪な心持ちになり、わざとにっこりと笑って問い掛ける。
「そうなんだ?」
「……そ…うだよ?」
「ふうん?」
「……んだよ」
「なにが?」
 笑顔のまましらっとして聞き返してみる。
 明はじっと格を睨み付けた。
 赤い顔のまま睨む明と、笑顔を顔に張り付けたままの格は、そのまましばらく視線を合わせてじっと固まっていた。
 先に折れたのは明の方だった。
 大雑把に格との距離を詰め、その胸を拳で乱暴に――だが十分に加減をして――叩き、胸の上にその拳を押し当てる。
「……言うなよ?」
「誰に?」
「誰にも!」
「……いいよ」
「……その間が気になる」
「言わねえよ。大丈夫」
 少しだけ返答に時間が掛かったことを指摘された格は、今度は真面目な顔をしてすぐさま返した。
 間が空いてしまったのは、ふいに嬉しさがこみ上げてきたからだ。
 「忘れろ」ではなく「言うな」だったことが、秘密を共有することを許されたかのようで嬉しい。
 露呈してはいたが、あくまで否定し続けることも出来たのにそれをしなかったことも嬉しい。
 仲の良い友達はこれまでもいたが、明との距離感はどこか違った。どこがどう違うとはっきりとは言えないのだが。
「夏には好きな人いないって言ってたよな? いつから好きだったんだ?」
 かつて交わした会話を思い出し、格が問い掛ける。黙秘されるかと思いきや、明は少しだけ沈黙してから口を開いた。
「……最近気付いた。ホント、つい最近」
「突然?」
「うん、びびった。だってオレ、胸はデカイ方が好きだし」
「…明、セクハラ」
 いきなり何を言うのだ、こいつは。
 少々呆れながら言い返すと、明はハッとして慌てて首を横に振る。
「面と向かっては言わねえよ!」
「それならいいけど」
 好みのタイプではなかったということを言いたかったのだろうが、本人に言うのは失礼だし確実に怒らせるだろう。明自身もそれはわかっているのかものすごい勢いで首を振るので、格は肩をすくめるのみで済ませた。
「お前はどうなんだよ?」
「俺?」
 急に切り返されて、格の片眉が上がる。
「女のコ嫌いじゃないんだろ?」
 たしかに嫌いではない。以前明に訊ねられたときと同じく、どちらかといえば好きだと思う。
 格は少し考えて、出てきた答えをそのまま口にした。
「俺はうなじと足首のきれいな人が好み」
「……お前エロくさい」
「なんだとコラ」
 訊かれたから答えたというのになんだその言い様は。
 格は明の首に腕をかけて引き寄せると、その頭を脇でがっちりと固め、わざとらしく凄んでみせる。
 もちろん本気で締め落とす気はないので、ギブギブ!と喚いて腕をタップする明をしばらくしてから解放した。
 そして格は、にこりともせずに訊ねる。
「――それでもあの子が好きなんだ?」
「……」
 明は答えなかった。
 答えなかったがしかし、否定は一切しなかった。
「……そっか」
 格はそれだけを呟いて、小さく微笑んだ。
 理屈じゃない恋はある。
 格が神之倉を好きになったこともそうだ。
 性別も年の差も関係なしに、その背中に、声に、佇まいに、ただただ焦がれた。
 だから、ある日突然気づく恋があっても不思議なことでも何でもない。
「じゃ、俺帰るわ」
 格はそう言って、肩に引っ掛けていたリュックをひと揺すりして担ぎ直した。そして駅の方向に体を向けながら、明の肩をぽんと叩く。
 そんな格の腕を、明の腕が掴んで引き留めた。
「やっぱ足心配だから駅まで送る。チャリ持ってくっから待ってろ」
 言い置いて、明は格の返事も聞かずに小走りに門の中へと戻った。
 そうすることが当然だとでもいうようなさらりとした優しさに感謝しつつ、苦笑と共に格は呟いた。
「……明こそ、けっこうなタラシだと思うけどなあ」


 湯船に湯を張り終わり、さて入るかと着替えを用意しているところで、隣室への出入りの気配に気付いた格は、電話をかけて神之倉の在宅を確認すると、すぐに神之倉の部屋へと向かった。
 このところゆっくりと話す時間がなかったので、この機会は逃せない。
「それで、足は大丈夫なのか?」
 稽古のことや近況についてなど、格があれこれ語り終えるのを待ってから、テーブルを挟んで向かい側のソファから神之倉が尋ねた。
 格はたったいま思い出したとでもいうような顔でソファに投げ出した足に目をやる。
「忘れてた。佐月さんテーピング上手いからぜんぜん痛くないんだよ」
「そうか。だが無理するなよ」
「ん。早く直したいし、気をつける。――いっ」
「格?」
 突然顔をしかめた格に、神之倉が腰を浮かせた。
 格は思わず出てしまった言葉を誤魔化すように、笑みを浮かべながら大丈夫だと答える。
 しかし、神之倉は受け流すことなく格の隣に移動してきて腰を下ろした。
「痛いんだろう? どこだ?」
 顔をのぞき込まれながら優しく尋ねられて、格は躊躇いがちに腕を上げた。
「膝か?」
「……うん」
 格の返答に頷いた神之倉の大きな手のひらが膝を覆う。
 じんわりと伝わる温もりと心地よさに、格は小さく息をついた。出来ることなら、服の上からではなく直接触れてほしいと思ったが、それは口にしないでおく。
「…俺もあったな、お前くらいの時に」
「成長痛?」
 神之倉の口から過去のことについて聞く機会はほとんどないので、格は身を乗り出すようにして問いかけた。
「たしか、俺くらいの時から3〜4年で25センチくらい伸びたって言ってたよな。その頃?」
「よく覚えてるな」
「士朗が言ったことは忘れねえもん、俺」
 驚いた神之倉に、格は自信を持って答えた。神之倉は苦笑して、格の膝から手を離す。
 ふいに遠ざかった温もりに名残惜しさを覚え腕に視線を落としたが、神之倉のその手は俯いた格の頭に移動してきた。そして、格の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「下手なこと言えんなあ」
 笑みを含んだ低い声と、髪を梳くように撫でる指の感触が気持ちいい。格が期待を込めて顔を上げると、期待通りにその手は頬に降りてきた。
 あやすような、なだめるようなそれに、子供扱いを感じなくもなかったが、すぐに快さの方が勝るようになる。両腕に包まれて緩く抱きしめられるのも好きだが、時にそれ以上に、頬に触れられるのが好きだ。
 長らく刀を握っていたからだろうか、その手のひらは少し堅めだ。だが大きく、力強く、あたたかい。
 手首に手を添えて、神之倉の手のひらの方へ顔を傾けるようにして押しつけ、格は目を閉じた。
 恋をしている明に触発されたのか、やたらと神之倉が恋しかった。好きな人に触れていたい。触れてほしい。
 大きな手のひらに甘えるように頬を擦りつけて、格は神之倉の手首に唇を寄せた。
 だが、神之倉のもう片方の手が伸びてきて格の頬をつまみ、目的を果たす前に阻止された。
 神之倉は左手首に時計をつけるので、右手首の内側――手を伸ばすとワイシャツの袖口から見えるか見えないかというギリギリの場所に、キスマークをつけてやろうと思ったのだ。
「……こら」
 いなすように掛けられた声で、自分の企みが露見していたことを知った格は、わざとらしく息を吐いてソファに横向きに倒れ伏した。
 肘掛けに立ててあったクッションが、ぼすん、と音を立てて格の頭を受け止める。
 失敗したことに関しては仕方がないと思える。行動を読まれる自分が、まだまだ未熟なのだ。
 しかし、ガードの堅さを忌々しく思わないわけではない。格は押し黙って、クッションに顔を埋めた。
 ややあって、神之倉の方から格に声を掛けてきた。
「……格」
「……なに」
 いかにも不機嫌そうな声で、格は返事だけを寄越す。
 顔すら見ないことで、神之倉が少し焦ってくれればいいと思った。
 だが神之倉はそれほど簡単な男ではなかった。格の態度に全く動じず、格の大腿部をぽんぽんと柔らかく叩く。
「そんなところで寝たら風邪ひくぞ? 寝るなら自分の部屋でゆっくり寝な」
「……泊まる」
「体痛いんだろうが」
「士朗がいてくれたら痛くないし」
「そんなわけがあるか」
 少しだけかわいこぶってみたものの、にべもない答えが返ってきただけだった。
 まったく、なんて手強い。
「……ケチ」
 格は恨みがましく神之倉に視線を遣って呟いて、大儀そうにのそのそと身を捩った。
 ああもう。こんなにも憎らしいのに、その何十倍、何百倍も好きでたまらないなんて。
 だが、このままこの部屋に留まっても神之倉に負担を掛けてしまうかもしれないとも思ってはいたのだ。
 神之倉は格に対して基本的に優しい。きっと、痛みはないかと気遣ってそばにいてくれる。それがただでさえ浅い神之倉の眠りをさらに浅くしてしまうかもしれない。
 そんなのは、格の本意ではない。だから、家に戻る。
 そう心を決めて、格は一度うつ伏せに体勢を変えてから体を起こした。
 刹那、首の後ろに何かが触れた。
「んぁ…っ!?」
 うなじの下。俯くと出っ張る骨の、ちょうどその上。
 そっと触れて離れたのは、あたたかくて少し乾いた――唇?
「な――…んか、変な声でちゃっ…たよ」
 自分でも一度も聞いたことがないような、鼻に掛かった上擦った声が出てしまったことが妙に気恥ずかしくて、無意味に髪や服を触りながら半笑いで言い訳をする。
 格の目の前の神之倉は普段と変わらぬ表情で、今の行為が何を意味するものなのか判断がつかない。
 その時、部屋のどこかから、電子音が聞こえてきた。
 携帯電話の着信音――おそらくデフォルトのまま変えていない――だと気付いたときには、立ち上がった神之倉がすでにそれを取っていた。
「――氷上」
 耳に慣れた名前を聞いて、格の肩から力が抜ける。残念なような、ホッとしたような、妙な心持ちだ。
「ああ……わかった。すぐ行く」
 しばらく耳を傾けていた神之倉は、それだけを言って電話を切った。
「……仕事?」
「ああ。すまないな」
「いいよ、大丈夫」
 眉を寄せて謝ってきた神之倉に、格はぶんぶんと首を振った。
 仕事の邪魔だけはしたくない。好きになってからずっと思ってきたことだ。神之倉の立場も、忙しさも、わかっているつもりだった。
 表立っての仕事ではないようで、神之倉はネクタイを締めなかった。襟元はくつろげたまま上着を羽織る。玄関まで見送るために立ち上がろうとした格に気付いた神之倉は、手のひらを向けて格を制した。
「おやすみ、格」
「――おやすみ。行ってらっしゃい」
 膝の痛みを慮っての制止だと察した格はそれに甘えることにし、僅かに笑顔を浮かべた神之倉を見送った。


「――馬鹿かお前は」
 氷上の手にしたグラスの中で、微かな音を立てて氷が崩れた。琥珀色の液体が揺れ、小さく波打つ。
「……言うな」
 ため息混じりに返して、神之倉は額を押さえた。
 視線を落とした手の中には、氷上と同じグラス。芳醇に香る琥珀色のそれに、ぼんやりと己の顔が映っている。
 眉間の皺が深い。
 氷上からの電話を咄嗟に利用してしまったことに対しての少しの自己嫌悪と、ついしてしまった行為についての困惑とが、眉間に刻まれたそれをいっそう深くしている。
 ちょっとした用事で電話を掛けたら来いとも言っていないのにすぐに行くと返され、20分後に自分の部屋にやってきた神之倉の顔を見るなり何かを察した氷上は、神之倉からすべてを聞き出した。
 そして、呆れ声でさらに言葉を投げる。
「……もうやっちまったらどうだ?」
 俯いていた顔を上げた神之倉は、僅かに眉を寄せて氷上を凝視した。
「格の方はとうにその気なんだから、あとはお前の胸三寸じゃねえか。この先ずっとキス以上はナシだなんて化石みてえなことを言うなよ?」
「そうは言わんが――」
 すぐに返ってきた答えに、氷上はそれならいいというような顔で頷く。
「前に聞いた時も思ったんだけどな、あいつがセックスにのめり込んだ時はお前がうまく冷ましてやりゃいいだろうが。それくらい出来る場数踏んでるだろう?」
 何ヶ月か前に話したことをしっかりと覚えていた氷上に苦笑を返した神之倉は、質問への返事の代わりに肩をすくめた。
 それなりの年齢なので、これまで幾人か馴染みの女がいたことは確かだ。
 ヤクザ稼業にまで首を突っ込むような女は元より選んだことはなかったが、結婚やそれに準ずるものを望んだ女はいた。
 だが、所帯を持つ気はなかったので、それは最初に告げるようにしていたし、意識して深入りをさせないようにもしていた。客観的にみると、まったくひどい男だと自分でも思う。
 可能か不可能かといえば、氷上の言うことは可能ではある。
 だが神之倉は、格に対してそれをしたくなかった。
 神之倉の沈黙をどう思ったのか、氷上は小さくため息をついて、尊大に腕を組んだ。
「たしかにそこらのガキに比べて育ってるとはいえまだ大人ってわけじゃねえ。お前の気持ちも分からんでもないさ。でもそんな半端に手ェ出されちゃァ、格にとっちゃ生殺しだろうよ」
「わかってる」
「わかってても行動が伴わなきゃ意味ねぇだろうが」
「……」
 間髪入れない容赦ない指摘に、神之倉はぐっと言葉に詰まった。
「そんなにそそられたか?」
「え?」
「くびすじ」
「……」
 返答に困るのをわかっててわざと訊いているのは、にやりと浮かべた笑みでわかる。
「俯いた時のうなじか。 たしかにぐっとくるとこだけどな」
 情欲ではなかった。――と、思う。
 ただ、晒された無防備なそこに、触れたいと思った。
 しかし格にしてみれば、そんなふとした思いつきだけで触られて、その後それについて何のリアクションもないというのは、不可解の極みだったろう。
 氷上の言うとおり、生殺しもいいところだ。
「……お前さ、ひょっとして――誰かに操立ててたりするか?」
「――は?」
 唐突に訊ねられて、神之倉は彼としては珍しくぽかんとして氷上に聞き返した。まるで予想もしていなかった質問だったからだ。
「だから、格と寝るのを躊躇う理由、だよ」
「ああ――」
 珍しく、少し言い辛そうに氷上が告げる。神之倉は前髪を掻き上げ、先の言葉の意味を考えた。
 そしてすぐに、氷上が何を言いたいのか察した神之倉は、唇の端に微苦笑を刻む。
「それはねえよ、まったく」
「…そうだよな。お前、あの後も何人か女いたしな」
 自分から言い出しておいてあらためて否定し、氷上は新しい煙草を1本手にした。
「覚えてたのか」
 煙草に火を点ける氷上に向かって問い掛ける神之倉の目の奥に、懐かしげな光がある。
「覚えてるさ」
 漂う紫煙越しに言って返した氷上の声には、それを訊くか?とでもいうような呆れたような響きがあった。
「そうか」
 それだけ言って、神之倉は目を伏せる。
 おそらく氷上には、なんとなく察せられているのかもしれなかった。しかし氷上は、必要以上にはそれを自ら掘り出そうとしてこない。
 いつでも聞く用意はある。だが、触れない。
 それが、神之倉と氷上との暗黙のルールだった。


 湯船にためた湯は少しぬるくなってしまっていた。
 追い焚きをしてあたためなおしたのでいつもより少々熱かったが、格はそろそろと肩まで湯につかり、ゆっくりと息を吐く。
「はー……きもちー…」
 湯の中の膝に触れてみたが、今はまるで痛みがない。だからといってケアを怠って稽古への復帰が延びるのはごめんだ。
 武原に教えてもらったストレッチの手順を思い浮かべながら、格は宙を見上げた。
 そしてふと、膝を覆った神之倉の手の感触を思いだし、続けてその後にあったことも雪崩のように思い出される。
 いつもこうして反芻しては、神之倉の発した何気ないひと言まで記憶に焼き付ける。
 だが、その最中に挙動不審になってしまう瞬間がある。
 今夜もあった。
「……っ!」
 誰も見ていないのだが、格は思わず周囲を見回してしまった。そして、口を両手で覆って湯船に沈み込む。
 神之倉が不意に格の予想を越えることをしてくるのは、なにも初めてのことではない。
 格の経験値が足りないために予想がつかないこともあるが、そう来るか!と思うことも多かった。
 不意打ちのキス、しかも首、それも後ろ側というのは、これまで想像したこともなかった。
 どんなに誘っても迫ってもいつも上手くいなされてしまうので、いっそ首にでもキスしてやろうかと思ったことがある。その隙を見いだせないので果たされていなかったが、あっさりとやられてしまった。
 悔しい。でも、嬉しい。
 そして、同じくらいの恥ずかしさに襲われる。
「気付かれたよなあ、絶対…」
 動揺も、気恥ずかしさも、嬉しさも、神之倉にはすっかり露見しているに違いない。
 神之倉を落とすまで基本的に攻める姿勢でいるつもりなので、もっと平然と受けて立ちたいのだが、なかなか間々ならないのはやはり経験の差か。
「なんか……夢に見そう……」
 確実に赤いだろう顔を覆ったまま、格は小さく呟いた。


「――まあ…なんにしても、もう少し上手くやれ。お前らしくもねえ」
 そう言って締めくくり、氷上は追及するのをやめた。
「今日のは貸し、な」
「わかった」
 たまたまかかってきた氷上からの電話を利用した形になったので、氷上が自主的に協力したわけではないのだが、神之倉は頷いて同意し、手付かずだったグラスをやっと手に取った。
 無表情というわけではないが喜怒哀楽がわからないと言われることがある静かで平らかな横顔を、氷上は黙って見つめた。
 不機嫌ではない。悲しそうでも、嬉しそうでもない。
 強いて言うなら、ただそこにある事実だけを受け止めている顔。
 誰しも、大なり小なり胸の奥に何かを隠している。氷上にも、それはある。だから神之倉にそれがあったとしても、何ら問題はない。暴こうとも思わない。
 氷上はかつて格に言った通り、格の味方をしてやりたいと思っている。格を気に入ったこともあるし、神之倉にとってプラスになりうると思ったからでもあった。今でもそれは変わらないが、それがラインを踏み越えることになるなら話は別だ。
 目に見えるわけでも取り決めを交わしたわけでもないが、昔から氷上と神之倉の間には互いに踏み込むことをしない境界線がある。
 そこに何があるかわかっていても、たとえばそれが心身を苛む苦しみであっても、互いに望まない限りはそこには触れない。
 許せよ、格。
 氷上は胸の中で格に詫びた。
 でもたぶん、お前になら越えられる。
 根拠はないが確かな自信と共に、そんな思いが去来した。



−終−



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