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【第2部】Vol.3 ダーリン、ダーリン
(4)
「どこから探そう?」
クラブ・ティダを出てひとまず駅の方角へと向かいながら、格は神之倉に問い掛けた。
神之倉は数瞬考える素振りを見せて、格に対して逆に尋ねる。
「ヒロキって奴の家にいて、そこから逃げ出したんだな?」
「みたいだね」
「家の周辺はそのヒロキが探してるだろうからサトルが行きそうな所から探そう」
「うん。えーと、さっきマキちゃんが教えてくれた心当たりで一番近いとこは――」
「いや、違う」
「え?」
何ヶ所か聞いた心当たりのある場所の名を思い浮かべたところで、神之倉が首を振った。そのきっぱりとした口調に、格は驚いて神之倉を仰ぎ見る。
「マキさんはサトルのヤク中を治そうとしてたんだな?」
「うん…」
「閉じ込められてヤク断ちしてたなら、禁断症状を起こしてる可能性が高い。中毒が重度なら――」
「……売人のとこってことか。マキちゃんに訊けばわかるかな?」
「――格」
「ダメ。聞かない。いまさら言うなよな」
皆まで言うより早く格は宣言し、視線を背けた。
ここで帰れと言われても聞けるわけがない。
「…わかってるよ」
神之倉は苦笑し、そう言って格の樹上に手を置いた。
「だが俺が下がれと言ったら下がれ。むやみに突っ込んでいくなよ」
「…約束する」
子供扱いをしているのではなく、心配してくれているのだと解った格は、神之倉を振り返って深く頷いた。
知らなくていい世界は当然あるだろう。マキが格を遠ざけようとしたのもそのためだ。かつては神之倉も、古賀沢の事務所に格を近付けさせまいとしていた。
だが、何も知らなければそれで済むが、格は知ってしまった。そこに踏み込んででも守りたいものや貫きたい思いがあった。そのためなら躊躇はしない。
考えようによっては愚かな行為なのかもしれないが、格はそれでもいいと思っている。
神之倉は格の目を見つめ返し、口許に小さな笑みを浮かべて、格の帽子のつばをくっと引き下げた。
そして上着の内ポケットから携帯電話を取り出す。
何処かの番号を打ち込み、待つこと数秒。
電話に出たらしき相手に「俺だ」とだけ神之倉は言った。
「ここ1年でヤクの売人(ディーラー)がよく現われる場所が知りたい」
相手が何らかの答えを返すのを待って尋ねる。ややあって、神之倉が小さくため息をついた。
「それがお前の仕事だろう。貸しがあるのを忘れたか?」
穏やかな声だったが、目はまるで笑っていない。
それに対する返信は短かったようで、神之倉は大麻をはじめいくつかの薬物の俗称を口にする。どうやら了承したようだ。
「面倒な手順を踏まずに済む奴だ。電話一本で呼べる程度の」
最後に付け足したそれが一番重要な条件だったようで、神之倉の口調がやや強まった。
その後数秒間、神之倉は聞こえて来る声に耳を傾けていた。そして、
「わかった。……ああ、チャラにしてやるよ」
それを最後に通話を終える。
「行くぞ。歌舞伎町だ」
迷わず歩き出した神之倉に、格は慌ててついて行く。すぐに追いついて上着の裾を掴まえた格は、神之倉と歩調を合わせながら尋ねた。
「いまの――ヤクザの人…じゃないよな?」
「ああ」
「貸しって?」
「……ずいぶん知りたがるな」
すぐに答えずに視線を寄越した神之倉に一瞬怯んだ格だが、さきほどの電話の最中と違って目の奥は穏やかだ。大丈夫だと確信して、格はもう一歩踏み込んだ。
「無理言って来てもらったのに貸しとか借りとか作ることになったんなら、俺……」
ここから先は一人で――続くその言葉は、神之倉の大きな手のひらに阻まれて格の口から出ることはなかった。立ち止まり、口を塞がれたまま視線だけを神之倉に向ける格に、同じく立ち止まった神之倉が笑ってみせる。
「いまのはこの界隈を根城にしてる情報屋だ。少しばかり貸しがあってな、俺が望む時に望む通りに情報を寄越すことで返してもらうことになってたのさ」
格は目を見張った。
そんな、有事の時ほど有効だろう手札をいま切ってしまっていいのだろうか。しかも今回の件には格経由で巻き込まれただけなのだ。
神之倉は、格がそれを告げる前に言わんとすることを察したようで、眉根を寄せた格に向かって小さく笑う。
「後生大事に取っておいて結局使えないよりいいだろう。気にするな」
あまりにあっさりとした返答に、格は拍子抜けしてそれ以上何も言えなかった。
神之倉が選択した道は裏通りだったが、それに間違いはなかったようで、数分で目的地へと到着した。
宵の口のためか、街はまだ人で溢れ、行き交う人々の職業や年齢も様々だ。もう少し夜が更けてくると、また変わってくる。
格は神之倉が聞いた情報の内容を耳にしていないので、ただその背を追った。神之倉の歩みには迷いはない。
そうこうしているうちに、ばったりヒロキと出会った。格があっと思った時にはヒロキはすでに格に気付いていたようで、こちらに向かって寄ってくる最中だった。
「見つかりましたか?」
近付いてきたヒロキに、格は早速問い掛ける。
「サッパリ」
ヒロキは肩をすくめて答えた。
どこかのんびりとして見える男だが、額に汗が浮いている。彼なりに走り回っていたようだ。
そして格は、彼の顔に青痣があることに気付いた。外から見える部分に目を走らせると、手の甲に引っ掻き傷もある。
「…それ……」
「ん? うん」
ヒロキは苦笑しただけだったが、それがサトルによるものだということは判った。
「マキちゃんもだけどさ、なんで?」
「あの子がいい子だっていうのは知ってるからさ。悪い男にコロッと引っ掛かっちゃったのは困ったところだし、今はあんなだけど、まだ若いしね。やり直せるならやり直してほしいなって」
どうやらマキの情が深いからというだけではないようだ。彼のように案じている人間は他にもいるのだろう。
どうやったらそれらの思いがサトルに届くのだろうかと宙を仰いだ格が、通りの向こうに目を止めてぴたりと固まった。
すぐに気付いた神之倉がその視線の先を追う。
ひとり何がなんだかわからずに首をひねったヒロキは、何気なくない格と同じ方向を見やって「あっ」と声を上げた。
それが聞こえていたわけでは恐らくない。ただタイミング悪く、振り返ったサトルとそれを発見したヒロキの目が合った。
次の瞬間、サトルが身を翻して走り出した。
「マキちゃん呼んで!」
格は誰より早くサトルを追って駆け出しながら、ヒロキに告げる。
サトルとはまともに顔を合わせたことはない自分の方が後を追いやすいだろうという咄嗟の判断からだ。
器用に人の波をすり抜けて街の奥へ奥へと逃げて行くサトルの足は意外に早い。どんどん人通りのない方へと逃げていくので多少追いやすくはあったが、街に不慣れなこともあって追いつけそうで追いつけない。
だが格は、人とぶつかりかけても行く手を阻まれてもサトルから視線を外さずに、なんとかサトルが駆け込んだ雑居ビルに飛び込んだ。
階上から足音が響くのを聞き取って、迷わずそれを追う。
足音は盛大に乱れ、時折何かを蹴り倒したか大きな物音を立てながらも上へ上へと向かってゆく。階段に散らばる物を避けながら、格はひたすら上を目指した。
下から一瞥した限りだが、このまま上に逃げてもそれ以降の逃げ場はない。どうするつもりなのだろうと思わぬでもなかったが、それを考えている余裕はなかった。
一段飛ばしに駆け上がり、格は躊躇なく開け放たれたままの屋外への扉をくぐった。
強いビル風に吹き荒らされる前髪を大雑把にかき上げて、サトルの姿を探す。
見つけるのに、さしたる苦労は必要なかった。
吹きっ晒しの屋上の隅。灰色のコンクリートに蹲り、ぜえぜえと荒い息を吐いている。ネオンの明かりだけが頼りなのではっきりとは見えないが、周囲には白い粉らしきものが入った小袋がいくつか散乱していた。
乏しい知識しかないが、どう見ても大麻ではなくもっと危険なものに見える。格は静かに歩み寄り、小袋を拾いあげて自分のジーンズのポケットに捩じ込んだ。
すると、サトルがパッと顔を上げ、血走った目を格へ向けると両手で掴み掛かって来た。
「返せ…!」
「ダメだよ。あんたがまたクスリに手ぇ出したらマキちゃんが悲しむ」
「うるさい! 返せッ!」
格はサトルの手から逃れて距離を取ろうとしたが、窶れた外見からは予想しがたい強い力で格の腕を掴まえてポケットの中の小袋を奪い返そうとした。
相手が大柄で膂力があったり武道経験者だったりしなければ、上手くいなせるだけのものは身についている。稽古の成果か、腕力もだいぶ増した。予想以上の力だとはいっても元々細身のサトル相手なら、そう簡単に不覚をとったりはしない。
このまま連れて行こうとしても、当然サトルは抵抗するだろう。また当て身を食らわせるべきかと格が思ったところで、背後のドアが開いた。
「サトル!」
走り出てきたマキが、荒い呼吸の隙間を縫って呼ばわる。
その姿を目にしたサトルの体がびくりと震えた。相対している人間が誰なのかを判断することは、まだ出来るようだ。
格はサトルの腕を掴み返し、マキの方へと押し出した。
「……帰りましょう、サトル」
「……どこに?」
静かに促したマキに、唇を歪めて笑ったサトルが問い返す。
「帰るところなんてない。どこにもない。誰もいない」
「うちに来ればいいわ」
「あんたの部屋に、あの人はいるの?」
ふいに笑いを納めて真顔になったサトルが訊ねた。
マキが言葉に詰まる。
あの人とは、サトルにドラッグを教えた死んだ恋人のことだろう。この話に関して格は部外者でしかないので、数歩離れた場所で黙って成り行きを見守る。
「……もう、どこにもいないのよ」
「うそつき」
「サトル」
「ウソ。うそつきだね、あんた。だって会えるもん。飛んだら、会える」
くすくすと笑いながら嘘だと繰り返すサトルが、うつろな目を虚空に向けて微笑んだ。
格は、痛ましさと同時に背筋に冷たいものを感じて、サトルから取り上げた小袋を押し込んだポケットを無意識のうちに上から押さえていた。
物理的に「飛ぶ」のではなく、ドラッグによる解放感を指して「飛ぶ」という。
サトルはおそらく、ドラッグでトリップしている際に幻覚の中で死んだ恋人を見ている。
これではやめられない、と格は思った。
マキが語ったように、現実からの逃避か恋人を懐かしんで手を出したのがきっかけだったのだとしても、幻覚であっても恋人の姿が見える。サトルの中では、会話も出来ているのかもしれない。いまはまだ現実と非現実とが入り交じっているようだが、サトルにとって楽なのは非現実の世界の方だ。
「サトル。あいつは死んだのよ。もう、どこにもいないの。あんたが何度飛んだって、あんたに見えてるのはあいつじゃないのよ」
マキは言い聞かせるようにゆっくりと告げた。
宙を見上げていたサトルの視線がマキへと戻る。
「うそだ」
「本当よ」
きっぱりと言い切ったマキの言葉を耳にしたサトルの瞳が揺らぎ、なんらかの感情が過ぎった。
サトルの首が弱々しく左右に動く。震える手が両のこめかみを覆った。
「…うそだ」
「嘘じゃないわ」
「……うそだ……ッ!!」
絞り出した声を風が攫う。
涙声で嘘だ嘘だと繰り返しながら、サトルがマキの厚い胸板を拳で叩いた。
感情が堰を切ったように溢れだした。
いまサトルは“こちら側”にいる。マキの声が届いている。
マキは殴られるまま立ちつくし、サトルを見下ろしていた。慰めるでもなく、励ますでもなく、ただ嵐のような激情を受け止めている。
このままなんとか話ができれば――固唾を呑んで見守っていた格がそう思った時、事態は予想からも希望からも違う方向に進んだ。
慰めるように抱きしめようとしたマキの胸を力いっぱい突いて距離を取ったサトルが、泣きながらズボンの尻ポケットから出したものをマキに突きつける。
鈍くきらめくそれに、マキも格も息を呑んだ。
「……オレのヤクだ。早く返せ」
マキに突きつけたものをそのままに、サトルは格に向かって言った。
手にしているのは小振りのフォールディングナイフだが、先端は鋭利に尖っている。殺傷能力は低くはない。
格はマキに視線を送った。
マキは今のやり取りで格がサトルの持っていたドラッグを取り上げたことを悟ったようで、迷わず首を横に振った。
「ダメよ、格。そこにいて」
「でも」
少し離れて見ていた格より、サトルの方がマキに近い。格がナイフをどうにかするより、サトルがマキを斬りつけるほうが早いかもしれない。
マキはサトルを素直ないい子だと言ったが、今のサトルはその頃のサトルとは違う。ヒロキの部屋に閉じこめてドラッグを断たせていたようだが、断ち切れていない。禁断症状とドラッグによる幻覚がもたらすものへの執着が相俟って、さらに強い麻薬を欲している。こんな状態の男を相手に、マキが無事でいられる保証はどこにもない。
「泣いても叫んでもいいわ。恋しがるななんて言えない。でも現実を受け入れなさい、サトル。じゃないとどこへも進めないわ」
「…るさい! うるさいうるさいうるさい!! あの人のいない世界になんかいたくない!!」
「サトル。一人じゃないのよ。あんたを思ってる人は沢山いるのよ」
「うるさい…ッ!」
止まらぬ涙を流したまま、サトルが激しく首を振った。
格はそれを契機と見て、マキ達との距離を詰める。
しかし、その判断はほんの一瞬遅かった。
格が二人の元に辿り着くより早く、ぐらりと揺れたサトルの体をマキが咄嗟に抱き留めた。そしてその目が大きく見開かれる。
サトルが、涙を拭うことなく呆然とした顔でマキを見上げ、そして自分の手元に視線を落とす。
悲鳴のようなものを上げたサトルがマキから慌てて離れ、その足元に手にしていたホールディングナイフが落ちた。
そしてナイフを追うようにして、赤い雫がぽたぽたとコンクリートの床に落ちる。
「マキちゃん!!」
腹を押さえて膝を折ったマキの名を呼び、格はすぐさま傍らに駆けつけた。やや青ざめたマキの視線は己の腹に向けられ、そこを押さえた大きな手の下には血が滲んでいた。
「マキちゃん…っ」
格はすぐに上着を脱いでマキの傷を押さえにかかった。そして切られたのか刺されたのかを訊ねようとしたが、格の発しかけた言葉はサトルの悲鳴に掻き消された。
「あ……あああ……」
ガクガクと震えながら頭を抱えるようにして呻くサトルに目を遣ったマキの顔が強張る。格はサトルとマキを交互に見遣って訝しげな表情を浮かべた。
「あああああ!!」
「格! 追って!」
大きく叫んで身を翻したサトルに、マキが慌てて声を上げる。格はすぐに立ち上がって後を追ったが、サトルが屋上の柵に辿り着くほうが早かった。
柵の高さは申し訳程度しかなく、サトルは躊躇なくその柵を乗り越えた。
「待……っ」
格は走りながら懸命に手を伸ばした。しかし、サトルの背中まであと数センチというところで指先は空を切り、サトルの体が柵の向こうへと消える。
格は突っ込むようにして柵に取りすがり、地上へと視線を転じた。
だがそこに思いがけない光景を見て、格は目を見張った。驚きや安堵や様々な感情が入り乱れて、膝から崩れ落ちそうになる。
そこには、ビルとビルの隙間や路地は存在しなかった。
1階下には狭いもののマンションでいうルーフバルコニーのような空間があり、神之倉とヒロキがそこにいた。サトルはコンクリートの床に叩きつけられることもなく、神之倉に受け止められたらしい。だが気は失っているようで、ぴくりともせずぐったりとしている。
「……なんで……」
「知らん人間が何人も行っても興奮や不安をあおるだけだと思ってな。様子を見つつそこから上がるつもりだった」
抱えていたヒロキを足元に横たえてから指し示された方向を見てみると、壁に備えられた屋上へと続く短い梯子があった。非常用のものだろう。
サトルを追うのに必死で気付かなかったが、神之倉がここにいてくれて僥倖だった。サトルを死なせずにすんだ。
ホッとしたと同時にマキのことが気に掛かり、格は背後を振り返った。
「士朗! マキちゃんが…!」
一度視線を戻してそれだけを伝え、格はマキの元まで駆け戻る。
蹲ってしまっていたマキの背中に手を添えると、弱々しく顔が上がった。意識はある。顔色は良くない。
抱き起こすべきかどうか迷っていると、すぐに上がってきた神之倉が傍らに膝をついた。
「刺されたのか? 切られたのか?」
床に転がるナイフと血痕ですぐに事態を把握した神之倉は、ナイフを拾い上げて折り畳みながら格に訊ねる。それに関しては格にも定かではないので、首を振ることしかできない。
神之倉は、マキが格の上着越しに傷口を押さえていることを目視すると、すぐに行動に出た。
マキの上体を少し起こさせるとその肩に自分の上着を掛け、背と膝の裏に手を回し巨体を抱き上げる。
身長はマキの方が低いが、体格はマキの方がいい。それをあまりに軽々と抱き上げたことに、格も、そして当のマキも驚いてぽかんと口を開けた。
「格。ドア」
短く指示されて、格は慌ててドアを開けに行く。神之倉はマキを抱きかかえたまま器用にドアをくぐり、一度も休憩もマキを抱え直すこともせずに1階まで降りた。
しかしそのまま通りに出ることはせず、ビルの裏口へと回る。示し合わせていたようで、裏口ではサトルを背負ったヒロキが待っていた。
街の外れではあったが幾人かの通行人がいた通りと違い、裏通りには人気がない。
先に立って早足で歩きだした神之倉を、格は黙って追った。
土地勘があるのか、神之倉の歩みに迷いはない。こういう場合の判断も、格が下すよりずっと確実なはずだ。ただでさえ場違いな自分が率先して動くより、ここは神之倉に任せた方がいい。格はそう思い定めた。
歩き出して数分が経ったところで、神之倉は歩を緩めた。その間何人かの人間と遭遇したが、視線が向けられた瞬間こそ訝しげだが、それ以上注視してくることもなかった。
神之倉は大層築年数の古そうな雑居ビルの入口をくぐり、格を先頭にして2階まで上がると、一番端の部屋の前で立ち止まり格にドアをノックさせて開けさせる。
そして、部屋の奥に向かって声を掛けた。
「先生! いますか?」
殺風景でやや狭い事務所のような風情とは結び付かない神之倉の言葉に格が首を捻ったところで、部屋の奥にあった扉が開き、初老の男が現れた。
「おーう、いるぞー……っと。マキじゃねえか」
神之倉の腕に抱かれたマキに目を留め、男は大袈裟に驚いてみせる。頭髪も蓄えた口髭も白髪交じりで顔には深い皺も刻まれているが、肌の張りと眼光はそれほど老いてはいない。
「仙北センセ…」
男を目にしたマキの青ざめた顔が、ふっと安堵に緩んだ。
「なんだなんだ、どうした? お前がお姫様抱っこされて現れるたァ思わなかったぜ」
軽い口調だったが、視線はマキの顔から腹に移り、事態を察したようだ。仙北と呼ばれたその男は、全員を奥の部屋へと手招いた。
最後に扉をくぐった格は、手前の部屋の印象との違いに驚く。
そこは、紛う事なき診察室だった。
普通の病院とは異なるが、薬品の並んだ棚があり、診察台があり、医療器具もある。
神之倉は診察台の上にそっとマキの体を下ろし、ヒロキを振り返ってサトルを部屋の隅にあった簡易ベッドに寝かせるよう指示した。
仙北は器具の乗ったワゴンを引き寄せ、マキの腹を覆った格の上着を除ける。そしてハサミで血に染まったシャツを切り裂いた。
「……センセ……」
「ああ…大丈夫だ、安心しな。ちょっと抉れちゃあいるが深くはねえし、刺さってもいねえよ。これならキレイに治る」
血の気のなかったマキの表情が少々和らぎ、格もホッと胸を撫で下ろした。かつて佐伯が撃たれた現場に居合わせた時より出血は少なかったのだが、腹を刺された人間を見たことはない。大事に至らねばいいがと気が気ではなかった。
会話をしながらも治療の手は休めず、仙北はあっという間にマキの傷口を洗い、消毒をした。
「少し縫うが、すぐ終わらせてやるから我慢しろ」
さらりとそんなことを言った男に、マキは逆らわない。
格は神之倉に促されて慌てて診察台に駆け寄り、マキの手を握った。
仙北はまるでちょっと綻びてしまった衣服を繕うかのようにひょいひょいと手を動かし、数針ではあったが本当にあっという間に縫合を終わらせてしまった。マキは顔をしかめこそしたが、麻酔もないのにことさら痛がることもしない。
格が知る限りマキはかなり我慢強い方だが、仙北の腕も相当良いのかもしれない。先程から処置にまるで澱みがなく素早い。
仙北はマキの傷口をガーゼやテープで覆うと、次に気を失ったままのサトルの方へと歩み寄った。
「こいつは?」
誰にともなく問い掛けた男に、サトルが気を失うに至った状況を神之倉が端的に説明する。薬物摂取に関しては、死んだ恋人のことも含めてマキとヒロキが補足をした。
簡単に喋ってしまっていいのだろうかと格は思ったが、マキにもヒロキにもその辺りにためらいは見受けられない。医師であるらしいとしか格にはわからないが、信頼に足る人物なのは確かなようだ。
「なるほどな…」
仙北は呟いて、サトルの脈を取り首筋に触れて簡単に体温を測ると、体に毛布を掛け点滴を用意した。
そしてサトルの腕に点滴針を刺すと、マキの元へと戻る。
「…センセ……」
「ん?」
「あの子……私を刺したあと、悲鳴を上げてビルから飛び下りようとしたのよ。何故かしら…」
「さあな。お前が死ぬかもしれんと思ったら恋人の死に様でも思い出したのか……ナイフは向けたが刺す気はなかったから動転したのかもな」
仙北の推察を聞いて、マキはサトルに目を遣った。
その視線の動きを追うようにしてサトルを見遣った仙北は、視線をそのままにマキに問い掛ける。
「見たところ完全に戻れねえところまでは踏み込んじゃいねえようだが、ヤクに手ェ出した理由が理由だ。時間が掛かるかもしれん。それなりの施設か病院にも入れなきゃならんぞ。どうする?」
「戻れるなら戻してやりたいわ」
「そっか。……わかった。一筆書いてやる」
「……っありがとうセンセ…!」
請負ってくれた男の言葉に、マキが体を起こした。咄嗟に格が手を貸したが、起きあがるときに腹に力を入れたため案の定傷の痛みに顔を歪める羽目になる。
仙北は手近の椅子に腰を下ろすと、煙草に火を点けた。そしてニヤリと笑みを浮かべた。
「しかしまあ念願叶って良かったな、マキ。前に姫抱っこされたいって言ってたじゃねえか 」
「……無効よ! 好みじゃないもの」
マキは言葉に詰まったものの、つんと顔を背ける。まだ神之倉を許容する気はないようだ。
「そりゃ残念だったな。じゃあそいつが本命か? いい男だが、お前にしちゃあずいぶんと若い彼氏じゃねえか」
「違うわよ。この子は私の友人の子で、私にとっても息子みたいな子なの」
マキの言葉を受けて、格は姿勢を正して仙北に向かって一礼した。仙北は好意的な笑顔を格へと向ける。ずいぶんとくだけた性格のようだが、初対面で夜間のこの街にはあまりそぐわないだろう格に対しても訝しげな表情は見せなかった。
「ま、礼は言っとけよ。古賀沢組のもんがヤク絡みの案件に首突っ込むなんざよほどのことだぜ?」
「え…?」
「…覚えてらしたんですか」
思わせぶりな物言いにマキが逸らした視線を戻したが、言葉の詳細を問う前に神之倉が声を発した。少しだけ細められた目には懐かしげな色がある。
仙北はその言葉を受けて、神之倉へと視線を移して笑みを浮かべる。
「覚えてるぜ。すっかりいい面構えになったが、15年前の面影も残ってるしな。氷上は元気か?」
「相変わらずですよ」
「組長(オヤジ)のことは残念だったが、うまく代替わり出来たようだな」
「はい」
ナイフの傷に動じないのも薬物に詳しそうなのもこの街の医者だからだと格は思っていたが、どうやら極道世界とも浅からぬ繋がりがあるらしい。
15年前といえば、神之倉はまだ十代だ。そこまで前の話は詳しく聞いたことはなかったので、古賀沢の縄張りではないこの街に何故神之倉と氷上がいたのか格にはわからない。
とてつもなく気になるが、それを訊ける状況ではないのでぐっと我慢する。だが、何か当時の話題は出ないものかと聞き耳を立てたところで、神之倉の携帯電話が鳴った。
出ろと仙北が促したこともあり、神之倉はすみませんと断りを入れて隣室へと消えた。
「――センセ……さっきの、どういうこと…?」
神之倉が出て行ってしばらくして、マキがぽつりと尋ねた。
「さっきの? …ああ、古賀沢組とヤクの話か」
仙北は紫煙をゆっくりと吐き出して、近くのデスクに載っていた灰皿を引き寄せて煙草の灰をその中へと落とす。
「古賀沢ってのは面白い極道でさ。経済ヤクザっぽいシノギをしてるかと思えば、組の体質は昔ながらのヤクザに近くてな。先代組長が出した薬物禁止令を今でもしっかり守ってんだよ」
「……ドラッグはやるなってこと?」
「やるな、持ち込むな、手を出すな、ってとこだったかな。先代の可愛がってた組員がヤクで酷い死に方をしたのが理由らしい。率先してルートを潰したり、他の組のヤク関係のシノギを邪魔したりするわけじゃねえが、自分のとこの組員に関しちゃあ、やるのは当然、シノギとして扱うのも故意に入手するのも御法度だそうだ」
「でも……ドラッグと関わり合いのないヤクザなんて」
「たしかに特定のものに関しちゃ堅気よりは手に入れやすいな。だが、商売するとなるとそう簡単にはいかんもんだ。本格的なルートの確保なんてのはそれなりの規模やツテがねえとできねえもんだしな。古賀沢は、縄張りの立地はヤクで商売するのに適した場所だがそれで稼ぐ気がないもんだから、アホ扱いする同業者もいる」
格は、仙北の言い様にムッとして異を唱えようとしたが、すぐに我に返って口を噤んだ。
仙北の言う通り、極道において“麻薬イコール金になる代物”だという考え方が通常ならば、港にほど近いところを本拠地にしている古賀沢が全く手を出さないことは愚行以外の何物でもないのだろう。
逆に、明らかに金になるとわかっているものに手を出さずに組を維持している古賀沢の経済力や運営力が優れているともいえる。属している荻生会にも縄張りを任されたままということは、組の姿勢に問題はないのだ。
「まあともかく、そんだけ徹底してる組の若頭ともあろう男が自分から禁を破ったんだから、好みじゃなくても礼くらい言っていいだろうよ。出血が大したことなくて済んだのも、ヤツがお前を抱いて運んだからだぜ」
仙北は短くなった煙草をもみ消して続けてもう一本取り出そうとしたが、空になっていることに気付き袋を握りつぶした。そして、すれ違いざまにマキの頭を子供にするようにぽんぽんと叩き、煙草を買ってくると言い置いて部屋を出ていった。
マキは難しい顔をして黙り込んでいたが、静けさに耐えかねたように口を開いた。
「……格」
「ん?」
「あの人、若頭なの…?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
そういえば、東子が詳しく話したものと思って、自分の口からはなんの説明もしていなかった。躱されてばかりでろくに話が出来なかったせいもある。
チャンスだ。格はそう思った。今ならマキと、神之倉の話が出来る。
「マキちゃんと士朗に共通の知り合いがいるとは思わなかったよ」
「……私もよ」
「ここって病院…なんだよね?」
「そうよ。二丁目にも往診もしてくれるから、世話になってる人はけっこういるわ。この界隈は庭のようなものね」
「へえ〜」
場所柄医者が必要なことも多いだろうとは思っていたが、こういう町医者が本当に存在し、その医者に会うことになろうとは思っても見なかった。
格はここからどうやって神之倉の話に発展させていこうか考える。
神之倉から仙北の話は当然聞いたことがないので、とっかかりには難しい。
「士朗も先生に看てもらったりしたのかな」
「もう30年以上この街で診療所をやってる人だから、以前この街にいたのならその可能性もあると思うわ」
格は、神之倉が古賀沢に入る以前のことはほとんど知らない。無理に急いで知ることはないと思っていたが、仙北には氷上共々知られているようなので、途端に気になり出した。氷上や蒔麻が格の知らない神之倉を知っていることは仕方のないことだが、仙北は突然現れた存在なだけによけいに気に掛かる。
「……そんなに好き?」
ふとマキが問い掛けた。顔を上げると、マキがじっと格を見ていた。
質問についての対象は神之倉のことだろう。
「好きだよ」
格はすぐに答えた。迷うことなど何もない。
「どうしても?」
「どうしても」
続けて問うマキの目を真っ直ぐ見て格は言いきった。
これだけは譲れない。マキの店で宣言したとおり、たとえ母親の東子が駄目だと言ったとしても聞く気はない。
マキの目には、格がサトルと同じように映っているのかもしれないと格は思い至った。サトルも、誰になんと言われようと譲りたくなかったのだろう。マキやヒロキの言い様からはろくでもない男の像しか浮かばないが、サトルにとっては違ったのかもしれない。
ヤクザは良くて売人なら駄目だという理屈はない。それはわかっている。
だが神之倉は当初、格を古賀沢へは近付けさせまいとしていた。結果的に浅くはない関わりを持つことになり、春先には蒔麻と共に捕らわれもしたが、あのあと蒔麻や氷上は頭を下げて格に謝ってくれた。
そういう誠意まで否定されたくはない。
「……わかったわ」
マキは眉間に皺を寄せた渋い顔で深いため息をつくと、小さな声でそう言った。
あまりに小さな声だったので何を言われたのか理解できなかった格が、目を瞬かせてマキの顔を覗き込む。
そんな格を、マキが真っ直ぐに見た。
「帰りなさい、格」
マキは突然そう言い、自分の肩にかけられたままだった神之倉の上着を格に手渡す。
「え? でも……」
格は上着とマキとを交互に見遣って言い淀んだ。
「私は大丈夫。仙北センセの腕は確かだし、サトルのことで話すこともあるし」
マキの顔には幾分血の気が戻っており、特別痛そうな素振りも苦しそうな素振りもない。それならば……と、格は店で待っていると告げた。
しかしマキはゆっくりと首を横に振る。
「……横浜に帰りなさい」
「マキちゃん?」
予想外のひと言に、格は目を見開いた。
だが、改めてマキの真意を問う前に、部屋の扉が開き神之倉が姿を現す。
マキは無言で神之倉を手招いた。
逆らわずにその手に従い戸惑う格の隣に立った神之倉を、マキはさらに指先で招く。
そして、少し屈んでみせた神之倉の胸倉を、診察台に座ったままだったマキの大きな手が引っ掴み、ぐいっと引き寄せた。
「この子を不幸にしたら許さないわ」
半眼で神之倉を睨み付け、押し殺すような声でマキが告げる。そして、
「もしこの子に何かあったら――麻縄で芸術的に縛り上げてガチムチ好きのゲイの群に放り込んでやる」
凄味をきかせた低い声で囁くように恫喝し、マキはいくぶん乱暴に手を放した。
それによろめきもしなかった神之倉だが、珍しく戸惑うような眼差しを格へと向けた。
「……真木鉄雄、よ」
神之倉が視線を外すのを図ったかのように、マキがぽつりと言う。
明らかに自分の方に向けられた言葉だとすぐに気付き、「え?」と視線を戻した神之倉をマキが睨み付けた。だが、表情の割には頬が赤い。
「アタシの名前。二度と言わないし、呼んだら承知しないわよ。もし口にしたら、裸ネクタイに靴下だけ履かせて二丁目を一周させてやるんだから」
言うだけ言って、マキはぷいっとそっぽを向いてしまった。
困惑気味の神之倉の横で、格の顔にぱっと喜色があふれる。
「……ホラ、もう遅いわよ! 宿題たくさんあるんじゃないの?」
マキは嬉しげな格に気付くと、母親のようなことを言いつつその肩を押しやった。
格はそれには逆らわず、神之倉をドアの方へと向かわせる。そして、マキを振り返った。
「電話するよ。傷の様子も見に来るからな。お店無理すんなよ? お酒はすぐには駄目だかんな」
「わかったわよ」
畳みかける格に、マキは苦笑を返す。
じゃあね、と手を振って格は踵を返した。
「……どうもありがとう」
閉まりかけたドアの向こうで、マキが穏やかな声で言った。
格はドアを振り返ったが、ドアはすでに半分以上綴じており、マキの顔は見えなかった。
それでも確かに声が聞こえた。
格は閉じたドアに微笑みを返して神之倉を追った。
階段を下りきったところで、ビニール袋に煙草の箱を3カートンほど詰めた仙北が戻ってきた。
「お、なんだもう帰るのか」
銜えた煙草を指先に移し、片眉を上げて仙北が訊ねる。
「遅くならないうちにこいつを送り届けなくては……また改めて来ますよ」
「どういう繋がりなのかと思ったら、お前がこの子と知り合いなのか」
「隣人です」
「なるほど」
仙北は深くは訊かずに、短い神之倉の返答に頷く。
そこで少し会話に間が空いたので、格は思い切って神之倉の背後から顔を出した。
「あの、先生」
「おう?」
「マキちゃんのこと、よろしくお願いします」
格は深々と頭を下げ、事後を頼んだ。いまマキに対して格が出来ることは他にはない。店の手伝いをしようと思ったが、未成年でしかもまだ中学生の格が手伝っては逆に迷惑になることもある。
「おう。任せな」
仙北はそう言って格の肩をポンと叩いた。
不敵な笑みを見せたその表情には、これまでの経験で得てきただろう自信がしっかりと刻まれている。声にも揺らぎはない。
この人は信頼できる――格はそう確信し、もう一度頭を下げた。
「年食ったせいか、近頃昔話をしたい心境でよ。忙しいだろうが、時間が空いたらそのうち顔見せに来いや」
「はい」
片手を上げて階段を上りつつ言って寄越す仙北に神之倉が頷き返し、二人は揃って表へ出た。
夜もだいぶ更けているが、どこからか車の音がする。やはりこの街は眠らない。
神之倉は、格が手にしていた自分の上着を格の肩に掛けてやり、車が拾えるところまで意向と肩を抱くようにして促した。
格は導かれるまま2、3歩小走りに進み、神之倉の脇腹に突進する。
「どうした?」
「士朗、すげえ!」
「は?」
「マキちゃんが他人に本名教えるなんて滅多にねえんだよ。自分から教えたってことは士朗のこと認めてくれたんだよ」
「そうなのか…?」
「そーだよ!」
微妙な表情の神之倉に格は拳を握って力説した。マキの本名を知る者は何人かいるが、本名で呼ばれてマキが怒らなかったことを格は見たことがない。
「しかし、何が理由だ? 俺がヤクザなのは変えようのないことだしな…」
「いろいろ、だと思うけど」
格に対する態度、飛び降りた(つもりでいた)サトルを助けたこと、己のことにはまるで頓着せずマキの怪我に早急に対処したこと、仙北に聞いたこと。
どれか一つが理由というわけではないのだろう。
諸手をあげて大賛成とはいかないが、だがそれでいい。あとは格が、神之倉に惚れたことは間違いなどではないと自ら体現すればいい。
自宅に戻り、風呂に入って布団に潜り込んでも、どうにも目が冴えてしまう。
しきりに神之倉の声が聞きたかった。出来ることなら、声だけでなく感触も確かめたい。
会えない時間を強制的に作られたせいだろうか。
格は目覚まし時計を見上げて時刻を確認し、起き上がって学習机の上で充電中の携帯電話を手にした。
時刻は午前1時。恐らく起きてはいる。
ためらいはあったが、格は思い切って神之倉の携帯電話宛に電話を掛けた。
『格? どうした?』
予想通りまだ起きていたようで、2回半のコールを経て神之倉が応答する。
「……そっち行っていい? ちょっと話したい」
『…いいぞ。おいで』
遅いから駄目だと言われるかと思ったが、神之倉はそうは言わなかった。それどころかやさしく促されて、格は通話をオフにするとすぐに椅子の上に引っ掛けてあったパーカーを羽織って部屋を出た。
戸締まりをして、隣の部屋のドアを合い鍵で開ける。
灯りのついているリビングに向かうと、神之倉がソファから立ち上がって格を迎えた。その服装は、別れたときと変わっていない。
「まだ着替えてなかったんだ?」
「ああ、ちょっとな」
曖昧に誤魔化されて気になったのでリビングのテーブルへと視線を向けると、そこには電話の子機と大量の資料らしきものが散逸していた。
「……もしかして仕事してた…?」
「ん? 佐伯から電話が来たんで、そのついでに少しな」
「ごめん…! 邪魔なら帰るから」
「急ぎの仕事というわけじゃない。だいたい飲みながらだしな、気にするな」
慌てて謝った格に神之倉は笑って見せ、格の頭をぐりぐりと撫でた。
言われてみれば、確かにテーブルには琥珀色の液体の入ったグラスがおいてある。氷も大分溶けていた。
「で? どうしたんだ?」
「うん…なんか、いろいろ考えてたら眠れなくなっちゃってさ」
顔を覗き込まれての問いに、格は素直に話し出す。
「どんなことを?」
「もしも……もしも、だけどさ。士朗が死んだら後を追えるかな、とか」
「――…格」
「怖い顔すんなよ。追わないから」
神之倉からすっと表情が消えたことに気付いて、格は慌てて首を振って否定した。
ただサトルを見ていて、自分ならどうするだろうと思っただけなのだ。最愛の人がこの世からいなくなった時どうするだろうか、と。
そうして出てきた答えを、なんとなく神之倉に伝えたくなった。
「…っていうか追えない。東子や蒔麻さん泣かせたくないし。士朗だって嬉しくないだろ?」
「全くな」
本当に嬉しくなさそうに神之倉が頷いた。「貴方が死んだら自分も死ぬ」というのはある意味では感動的な言葉にもなることもあるが、格の予想通り神之倉にとってはまったくそうではないようだ。
「それにさ、もし士朗が死にかけてたとしたら、俺たぶん、一緒にいくこと考えるより引き戻すだろうなと思って」
「引き戻す?」
「うん。怒鳴りつけてでもぶん殴ってでも、目ェ覚ませ戻って来い死ぬんじゃねえってさ」
拳をつくって殴る真似をした格の拳を受け止めて「力技だな」と神之倉が笑う。
「だって俺、生きてる士朗と一緒にいたい」
格は真っ直ぐに神之倉を見上げた。
神之倉は蒔麻のためなら命も投げ出す覚悟をしている。そうでなくとも、天命というものは誰にだってある。
だが、簡単に諦めたくもない。
格を見下ろす神之倉の瞳が、ふっとおだやかな光を帯びた。
そして、少し腰を屈めた神之倉の両手のひらが格の頬を柔らかく包む。
「その時は、多少は手加減してくれよ?」
「うん。俺が100歳くらいのじーさんだったら力技はちょっと難しいかもしんないけど」
「……ちょっと待て。お前が100歳のじいさんなら俺は121歳じゃねえか」
「大丈夫。人間125歳くらいまでなら生きられるらしいよ?」
「何が大丈夫なんだ」
格の冗談にわざと呆れた声で返した神之倉の首に、格は笑いながら抱きついた。
力任せに飛びついたわけではなかったが、神之倉はあえてしっかりと受け止めずに、格を抱えたまま背後のソファに腰を下ろした。
神之倉の大腿部に乗り上げる形になった格は、そのまま大人しく神之倉に抱きついたままその肩に顔を埋める。
「士朗…」
「ん?」
「ありがとう。それからゴメン…」
マキのことについての礼と謝罪だった。
神之倉に対しては、初対面の時から辛辣な言葉ばかりだ。マキは基本的に常識的で礼儀正しい人間なのだが、今回は明らかに熱くなり過ぎていた。
「気にするな」
悄気ている格を抱き締めたまま、神之倉はあやすようにその背中をポンポンと叩いた。
神之倉からしてみれば、ヤクザだということで悪し様に言われることはいまさら痛くも痒くもない。世間にとってヤクザというものがどういう位置にいるかは自覚している。誰であっても、我が子や近しい人間がヤクザ者と親しくしていたら遠ざけたいと思うだろう。
格は神之倉の背中に回した腕に力を込めて、シャツの布地を手繰り寄せるようにぎゅっと掴んだ。
「ありがと」
「気にするなって」
「これは別のお礼。あの時、よくキスしてくれたなって思って」
「…ああ」
どのことなのか理解した神之倉がふっと笑みを浮かべる。
「合わせろって言ったのはお前だろう?」
「そうだけどさ、部屋ン中とか車ン中とか誰もいないとこでしかキスしたことないしさ。見られんのはやっぱ困るかなって思わなくもなかったし――」
「困るというか……」
宙を仰いで神之倉が言い淀んだ。
続く言葉が気になって、顔を上げようと格が腕を緩める。
その頭上に、ふいに神之倉がキスを落とした。
つむじの上という予想外のところに降って来たキスに驚いて、格が顔を上げる。
すると今度は鼻の頭に軽くキスをされた。
もう終わりなのかとちょっと残念そうに神之倉を見た格の頬を、大きな手が撫でる。
気持ち良さにうっとりと目を閉じると、唇にあたたかいものが触れた。
享受するように唇を開くと、角度を変えて重ねられ、キスがより一層深くなる。激しい口づけではないが、格の息を上げてしまうには十分な深さと長さだった。
「困るというか、な」
唇を離した神之倉がもう一度繰り返す。
「そういう眼を見るのは、俺だけでいいとは思うぞ」
小さく笑った神之倉の親指が、格の眦をすっと撫でて離れた。
一体どんな眼をしているというのか。
格は首を捻ったが、神之倉は答えずに格の前髪をくしゃくしゃと掻きまわして、何か温かいものでも飲むかと言ってキッチンへ向かってしまった。
神之倉について、知らないことも知りたいこともたくさんある。
だが、ひとつひとつ知ればいい。その“眼”とやらについてもいつか聞き出してやる。
格は決意も新たにひとつ頷いて、神之倉を手伝うためにその背中を追った。
格が横浜に戻った翌日、神之倉は蒔麻に前夜の出来事を報告した。
全てを聞き終わった上で、蒔麻は咎め立てする必要はないと答えた。
稼業柄全く関わらないでいることは無理だと先代も言っていたこと、今回の件に関しては先代の言い付けに背くようなものではないこと、すぐに蒔麻に報告したことの3点が理由だった。
それから3日。神之倉は今日も佐伯を従えて、忙しく動き回っている。
格も神之倉が蒔麻に報告したのと同じ日に、約束通り明に事のあらましを電話で報告した。
今日は、学校の授業が終わってすぐに電車に飛び乗った。これからマキの店へと向かう予定だ。
マキは入院することもなく翌日からは店を開けている。だがまだ仙北の元へは通っており、抜糸までにはまだ時間がかかるようだった。
サトルは仙北の計らいで治療を受ける先が決まったという。マキを傷つけたことで何かが変わったのか、今は素直に周囲の人間の言うことを聞くらしい。
――ケーキ……は食ってもいいのかな? 腹に穴が開いたわけじゃないんだから大丈夫だよな?
見舞いに何を持参しようかあれこれ考えながら、格は車窓から見える夕景に目をやった。
今夜こそマキに神之倉のことを話して聞かせるつもりだ。一応の容認はしてくれたようだが、まだ、もう少し、神之倉のことを知ってほしい。
格は意気揚々と駅に降り立ち、まずはマキの好物のチョコレートケーキを買い求めるべく歩き出した。
ちなみにこの後、結局惚気になってマキに呆れられることになる。
−終−
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