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【第2部】Vol.3 ダーリン、ダーリン
(3)
度々視線を落として腕時計に目をやりつつ、地下街を行き交う人の波を眺めながら、格はじっと待っていた。
待ち人はすぐに行くと言ってくれたが、20分や30分で着く距離ではない。
だが、待ち合わせ場所に移動して1時間も経たないうちに、待ち人はやってきた。
雑踏を器用に抜けて近付いてくる長身に、半ば驚き、半ば嬉しさを滲ませて、格は背伸びをして手を振った。
それに気付いた神之倉は軽く左手を挙げることで応え、前を歩いていた3人をするりと追い抜かして格の元に辿り着いた。
「びっくりした〜横浜から車でこんなに早く着くもん?」
「いや、電車で来た。新宿じゃあ車を停める場所がないしな」
「電車!?」
予想外の答えに格は思わず声を上げる。
神之倉は苦笑を返して、掛けていたサングラスを取った。
「新幹線は時々使うが、在来線は久し振りに乗ったな」
遠出をする時は空路か鉄道で、前者ならば空港まで、後者ならば駅まで送迎車がある。電車を乗り継いで移動することがほとんどないのだ。
「あ、外しちゃうんだ。もったいない」
「悪目立ちするしな。日が暮れてから掛けてるのもおかしいだろうが」
滅多に目にしたことのないサングラス姿を見ることが出来たのがほんの数十秒だったことに格が不満げな様子を見せると、神之倉は苦笑を返して代わりに眼鏡を掛ける。
昨年2人で服を買いに行った時に掛けていたものだと、格はすぐに気がついた。元は氷上が神之倉宅に忘れていったものだが、どうやらそのまま拝借し続けているようだ。
ダークスーツのままだが、ネクタイを外し黒いワイシャツの前ボタンを2つ開けている。それだけで、眼鏡と相俟ってだいぶ印象が変わる。
じっと見つめる格の髪を、神之倉の手がなだめるように撫でた。
「……ストップ!」
すぐに離れようとした手を、格の両手がしっかと掴んで引き止める。
「どうした?」
「もうちょい充電さして」
本当はいますぐ抱きついてキスをしたいほどなのだが、それはまずいだろうとぐっと耐えた。地下の連絡通路とはいえ地下鉄の改札が程近く、場所柄もあって人が絶えることがない。
しかも、日本有数の歓楽街が近いとなれば、いつどこで極道関係者に見つかるか知れない。
格はゆっくり5秒数えて手を放した。
「待ち合わせ場所、ここじゃまずかったかな?」
「まあ大丈夫だろう。ここいらを縄張りにしてる組は荻生の傘下だし、うちと揉める理由はないんだ。中の勢力争いで精一杯で、外と喧嘩なんざしてる場合でもないしな」
「そんなにごたごたしてんの?」
「新義安やら竹連幇やらの動きがあるからな。警察の思惑もある。最近少し状況は変わってきてるが、ひと言で説明は出来ないくらい色々と入り乱れてる街でな」
「しんぎあん……ちくれんぱん?」
「中国マフィアの組織のひとつ」
短い言葉で説明してくれた神之倉に、格は一瞬息を飲む。
古賀沢の幹部として表に立つ時の神之倉は、蒔麻や氷上や格といる時よりも表情の変化が少ない。
いまもそうだ。
変化がないからこそ、かえって迫力がある。
遠く感じることもあるが、古賀沢組の若頭の顔をした神之倉のことも、格はとても好きだった。
そんな張り詰めた顔も、すぐに隠されてしまった。
一瞬走らせた冴えた刀身のような光を消した、いつものように静かな目で穏やかに格を見下ろし、格の肩を手のひらで柔らかく叩く。
「…で? 俺は何をすればいいんだ?」
「あ、うん。歩きながら話そ」
格はそう言って神之倉を促した。
屋外に出た方がいいと判断して地下道の外れの階段から地上に出ると、夜なお明るく賑わう駅とは逆方向へと向かう。
人通りは少なくなるが、絶えるということはない。
「なあ、大麻ってどんな麻薬?」
今夜の天気予報を聞くような何気なさで格は尋ねた。
古賀沢組では薬物を扱うことは御法度だ。先代組長の可愛がっていた組員が薬物で良くない死に方をしたのが原因というが、禁じているからこそ逆に詳しいのではないかと格は踏んだ。何も知らないのでは徹底できないからだ。
神之倉は黙ってただ格に視線を向ける。
「大丈夫。やっちゃったとか、試してみたいとかじゃないから」
慌てて否定してみせると、神之倉は「わかってるよ」と返してしばし虚空を見つめ、やがてゆっくりと格へと視線を戻した。
「――そうだな……毒性が低くて昔は簡単に手を出せる軽いドラッグだったが、今は改良されたものが出回ってるから、イメージほど軽くはない」
「パッと見わかる? ニオイとか」
「嗅ぐ側に個人差はあるが、香辛料のような独特の臭いだな」
「使った人に出る特徴は?」
「精神的にはリラックス、多幸感。肉体的には頻脈、不整脈、血圧の変化、目の充血、食欲増加、 幻覚――そんなところだ」
「長く使い続けるとどうなんの?」
「長期間常用すればもちろん中毒だ。精神疾患を発症することが多いが、物足りなくなってシャ…覚醒剤やヘロインに手を出す奴も少なくない」
「……わかった」
格は確信をもって頷いた。
あの青年は大麻以外のドラッグに手を出している。そしてマキはそのことを知っていて、それを止めようとしているのだろう。
格はボディバックに入れていたキャップを取り出して目深にかぶった。
「……格?」
「こっから先は後で話す。来て」
訝しげな神之倉を制し、格は先に立って足を早めた。
久々に2人で歩くのだから手でも繋ぎたいところだが、格が成長したため今では親子にも兄弟にも見えそうにないので、無駄に人目を引いてしまうだろう。これから行く場所では別の意味でも目立ちそうだ。
怪しまれない程度に足早に、比較的人通りの少ない道から回り込んで、2人はマキの店の前に立った。
今の時間ならば店はまだ準備中のはずだ。今日はアルバイトのバーテンダーが休みの日なのでマキ1人しかいない。
「士朗」
「ん?」
「俺に合わせて」
じっと目を見て告げた格に、神之倉は何も問わずに頷いた。
格は頷き返し、深呼吸をひとつしてドアに手を伸ばす。
そして神之倉の腕を取って店の中へと足を踏み入れた。
「アラごめんなさい、まだ準備ちゅ……」
ドアの開く音に気付きモップを片手に振り返ったマキが、愛想よく発しかけた言葉を不自然に止めて顔を強張らせる。
格は店内にマキ以外誰もいないことを一瞥して確認すると、つばをはね飛ばすようにして帽子を投げ捨てた。続いて、神之倉の胸倉を引っ掴んで上体を無理やり下げさせる。
そしてその勢いのまま、強引に唇を重ねた。
「――…ッ!?」
マキが両頬を手のひらで覆い、大口を開けて声にならない声を上げて息を飲む。
さすがに予期していなかったのか、神之倉の手が咄嗟に格の肩に触れようとした。だか格はそれを察知し、襟を掴んでいた両手を首へと回す。
合わせてくれ――そう願いながら一度角度を変えて口づけを深くし、背伸びをして頭部を掻き抱いた。
すると格の意を察したのか、神之倉の手は肩ではなく格の腰にゆるく回された。深くなった口付けも、抗われることなく受け入れられる。
――…ああ、士朗だ…
格はすがりついた腕に力を込めながら、胸の内でしみじみと呟いた。
腕に、唇に、舌に、たしかに神之倉の存在を感じる。その実感と、久方振りのキスにくらくらして、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
ここのままこの喜びと幸せに酔ってしまっては、神之倉を呼び出してまでここに連れて来た意味がない。
したくてたまらなかったキスだが、いまここであえてキスをしたのは、マキに格の覚悟を見せるためだ。
強引でもなんでも、正面きって懐に飛び込んで渾身の一撃を叩き込む――明の言葉通り、格は真っ正面からマキに体当たりすることを選択したのだ。
格は腕の力を緩めて、息が続くぎりぎりまで重ねていた唇を離した。
喘ぐように酸素を補給し、呼吸を整える。
そして、神之倉を背中で庇うようにして立ち、マキと対峙した。
突然のことに呆然としていたマキはやっと我に返り、挑むようなまなざしの格に向かって戸惑いと怒りの入り交じった声を上げる。
「いいい格! アンタどこでそんなキス覚え…っ」
「…俺はッ!」
叩き付けるような声がマキの言葉を遮った。
その声にマキのたくましい肩がびくりと震え、声を発した格自身がその音量と鋭さに動揺を顕にする。
だが格はすぐに気を取り直し、もう一度、強い瞳でマキを見つめた。
「…俺は、この人が好きだ。好きなんだよ」
「だからそれは…」
「気のせいでも勢いでも流されたんでもねえってば!」
神之倉への思いを口にした格に、マキの表情が曇る。そして何度となく口にしたことを再度繰り返そうとしたマキを、格が先回りして遮った。
握り締めた拳が微かに震える。そんな格の背を、背後の神之倉の手が2度柔く叩いて離れた。
制止でも慰めでも助勢でもないそれが、格の背筋を自然と伸ばさせる。
「考えたよ、ちゃんと! 俺なりに悩んだり迷ったりしたんだよ!」
それでも――
「…それでもッどうしても! 士朗が好きで、好きで、好きで…っ!」
格は、はあ…とひと息つき、胸を張って真っ直ぐマキを見た。
思う様喚いてしまうと不思議と気持ちが落ち着いて、丹伝に力が漲る。
自然と、唇に笑みが浮かんだ。
「――後悔なんかしない。間違いだとも思わない。だから、たとえマキちゃんでも……それが東子だったとしても、これだけは譲らねえ。俺は、士朗を選んだ自分を信じてる」
根拠のない自信だと言われようと、格は確かにそう思っている。これまで一度だって、神之倉を好きになったことを後悔したことはないし、これからもないだろう。
あまりに自信満々に言い切った格に毒気を抜かれたのか、マキは黙り込んでしまった。
それを見た格は、少し淋しげに微笑んで見せる。
「いいよ、マキちゃん」
「…え?」
「いますぐ認めてくれなんて言わない。ただ、俺の気持ちを知っててくれればいいよ」
「……格…」
マキは眉を寄せて困惑気味に呟いた。
やや気まずい空気が流れ、沈黙が店内を満たす。
だが格がそれを蹴散らすように、神之倉から離れてつかつかとマキへと歩み寄った。そして、マキの服の袖をぐっと掴む。
「い…格…?」
「俺の気持ちはいま全部ぶっちゃけたよ。今度はマキちゃんの番だ」
「え?」
「いますごく困ってるだろ? 最近ため息多いし、お店の営業中にもちょくちょく出かけてるよな?」
「…何を急に」
僅かな間を置いて、マキが笑みを浮かべた。だが、まるで自然ではない。明らかに、笑おうと意識して浮かべた笑みだ。
ここへ来るまではどうにか誘導尋問に持ち込むつもりだった格だが、ストレートに切り込むことにした。
先の格の真っ向勝負を受けて戸惑っている今なら、はぐらかしも誤魔化しも出来なさそうだ。
「ゆうべのあの人――大麻吸ってるよね、それも頻繁に」
「な――何を言ってるの」
「香辛料みたいな臭いしたし、目付きとか言動とかおかしかったし」
「だからって」
「そのくせ店から遠ざけようとかはしないし。昔、店の前で喧嘩騒ぎ起こした集団の半分を病院送りにしたマキちゃんなら、あんな細い男の1人や2人はひと捻りだろ」
「あっあの時はウチの店のお客さんも通行人も巻き込まれてたから手加減してる場合じゃ……ってなんでアンタがそれを知ってるのよ!」
「リアルタイムで見てた語り部がいるから」
「ンもう! 東子ね!?」
マキ本人からすると武勇伝の数々は恥かしいネタらしく、赤くなった顔を大きな手で覆って身悶え出した。そんなマキにかまわず、格はさらに続ける。
「なのにずいぶん手を焼いてる風だったからさ、ああ見えてすげえ強いのかと思ったらそうでもないし」
格の手刀で簡単に昏倒した様を思い出しつつ、格は大袈裟に首をかしげた。
「庇う理由があるんだろうけど、最近マキちゃん疲れて見えるし、こないだみたいな事がまたないとは言えないし。ほっとけないよ」
「……大丈夫よ。ちゃんと見張りもつけてるから、もうあんな風に暴れたりは――」
マキは困ったように目を逸らし、一拍遅れてハッとして口を右の手のひらで隠した。
格はマキとの距離をさらに詰め、その太い左の手首にそっと触れる。そしてすくい取るようにして握り締め、マキの横顔を見つめた。
「…マキちゃんが元気ないと淋しい。危ない目に遭ってたら心配だよ。俺はここにいるし、マキちゃんが何かに困ってるのも知ってる。俺は、マキちゃんの力になりたい」
マキはしばらく黙りこくって固まっていたが、やがてちらりと格の方を見やり、じっと己を見つめる格と目が合うと、手のひらで顔を覆ってため息とともに俯いてしまった。
「……この子ったらもう…っ――」
「マキちゃん?」
「そんな風にそんなこと言われたらグッときちゃうじゃないのよ〜う」
マキは片手で顔を覆ったままイヤイヤと首を左右に振る。その耳が赤くなっていることに気付いた格は、マキの名を呼ばわりながら下から覗き込んだ。
そんな格の体をマキの腕が引き寄せる。
「ねえ、マキちゃん。俺は温室育ちのお坊ちゃんでも、純真無垢な天使ちゃんでもないんだよ?」
腕の中にすっぽり収められて、今度は辛うじて埋もれずに顔を横に向けることができた格が、苦笑とともに言った。
可愛がってくれるのは嬉しい。いわゆる“裏”の世界を見せたくないというのも格のためだと解っている。だが、汚れないものとして扱われるのは本意ではない。
マキは返事をしなかった。
だが、やがてそっと格の体を開放すると、声のトーンを落として話し始めた。
「……あの子――サトルっていうんだけど、素直ないい子なのよ。二丁目に来て初めて入った店がウチでね。その時はまだ高校生で、帰すことも出来たけどあんまり必死だったから、その日は朝まであの子の話に付き合って――」
マキやクラブ・ティダの常連からその世界のいろいろなことを教わり、やがて街にも慣れ、友人や恋人も出来、彼は一常連として店に通っていた。
しかし、2年ほど前から付き合い始めた男がよくない噂の多い男で、マキがもっとも懸念していたのは男がドラッグの売人をしていることだった。
「クスリ漬けにされた子がいるなんて噂もあったから、それとなく忠告はしたのよ。でもあの子、俺には優しいからって言ってきかなくって。実際、あの子も軽いやつを試したことはあってもハマることはなかったようなんだけど」
しかし、その状況が一変する。
サトルの恋人が死んだのだ。
「原因は?」
「オーバードーズ……つまりクスリの多量摂取ね」
マキは答えとともに深いため息をつく。その苦々しい表情から、サトルの死んだ恋人にもクスリそのものにも良い印象など欠片も持っていないことが明らかだ。
「泣いて泣いて、死んだことも信じたくないって感じで……それからよ。あの子がマリファナに手を出し始めたのは。現実逃避だったのか、あの男を懐かしんでだったのかはわからないけれど」
「マリファナだけじゃないよね?」
「……腕には注射針の跡はないけど……」
格の問いにマキは歯切れの悪い答えを返した。注射器を使用する以外にも接種方法はいくつもある。ドラッグの種類も様々だ。
恋人が生きてる時はお遊び程度でしか使ったことはなかったとしても、売人仲間と顔を合わせたことがあったようで、手に入れるのはさほど難しくないだろうとマキは続けた。
そっと視線を遣ると、神之倉の表情が心なしか険しい。格は、己の推測が誤りでない可能性が高いだろうことに眉を寄せた。
マキが店の客を大事に思っていることを、格は良く知っている。元来面倒見がよいので、若い客の相談にもよくのっている。だから常連客も多い。
事情を聞く前は、マキがサトルを助けたいと思っているなら、小さな事でもいいからマキの手助けをしたいと格は思っていた。いまでもその気持ちは変わらないが、果たしてサトルは戻れるのだろうか?
いつもはあまり感情を顔に出さない神之倉の表情の変化に、格は拳を握りしめた。
その瞬間、店の電話が鳴り響く。
マキが格から離れ、小走りに電話の方へと向かい、受話器を取った。
「はい、もしも――ヒロキ? どうしたの?」
相手の声を耳にしたマキの顔に緊張の色が走る。
その名を聞いて、神之倉とのキスを目撃し、どうやらサトルの事情も知っているらしいあの男だと察した格は、見張りというのもヒロキのことだろうと見当を付け、注意深くマキを窺った。
そのマキの表情が強張り、凝固する。
「逃げられたって……ッおバカ! 探しなさいすぐに!」
受話器に向かって怒鳴りつけた声は、空間をびりびりと揺らすような激しいものだった。
マキは自分も行くからと言って受話器を置き、身に着けていたエプロンを剥ぎ取るようにして脱ぎ捨てる。
足早にドアへと向かうマキに、当然格もついていった。
「格」
「一緒に探すよ。顔見たことあるし、それくらい出来る」
「子供が一人で歩ける場所でも時間でもないわ」
「たしかに俺はまだガキだけど、これなら中学生には見えないんじゃん?」
格は落ちたままだったキャップを拾い上げて目深にかぶった。
年齢のわりには背が高く、空手を始めてから徐々にたくましくもなっている。服装もジーンズにパーカーだが、特に子供っぽくはなくこの街を訪れる年若い青年達とさほど変わらないので、誤魔化せなくはない。
「士朗がいるから一人じゃないし、大丈夫」
マキは一瞬だけ露骨に嫌そうな顔をして神之倉を見たが、それどころではないと思ったのか、すばやく首を横に振ってわかったわと言った。
「見つけたらすぐに携帯に連絡して。サトルがドラッグをやろうとしてたらアタシを待たなくてもいいわ、止めてちょうだい」
「わかった」
格は深く頷いて、サトルが先程までいた場所と行き場所の心当たりをざっと聞く。
そして、神之倉とともに店を飛び出した。
−続−
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