【第2部】Vol.3 ダーリン、ダーリン (2)


 夜も更け、街のネオンが輝きを増していた。
 人も街もギラギラとしている駅付近からは少し離れているこの一帯には、特定の目的と嗜好を持った人間が集まってくる。
 『クラブ・ティダ』という名のこのバーでは、店内に軽妙なジャズの調べが漂い、やってきた客が楽しそうに談笑していた。どちらも男性だが、肩を寄せ合って囁くように会話を交わしている姿もある。店の雰囲気は良く、客達の空気も穏やかだ。
「2人っきりでデートしたことが10回もない…? 出会って2年も経つのに…?」
 一枚板のカウンターの奥にある小さな倉庫兼休憩室の中で、大柄でたくましい男が信じられないという顔で目の前の少年に問い掛けた。
「うん」
 問われた格は素直に頷いた。
「――なんて不憫なの…ッ」
 絞り出すようなひと言とともに両目にじわりと涙が浮かび、マキは格の体を固く抱きしめる。
「――…ッくるひいって、まきひゃん」
「あ? ああごめんなさい」
 上腕をばしばしとタップされて、またも分厚い胸板で格の顔面を覆ってしまったことに気付いたマキは、慌てて格の体を離す。
 格は涙目のマキに向かって手近にあったティッシュボックスを差し出し、屈託なく笑って見せた。
「いいんだ。忙しい人だし、立場もあるし。そりゃあね、会いたいとか側にいたいとか思うよ。でも、一緒にいられなくても大事にしてくれてるから、心配しないでよ」
「でも、淋しいでしょう?」
「…マキちゃん、恋人とはいつも一緒にいたい人だもんね」
「そりゃそうよ――って、アタシのことに話を摺り替えるんじゃないの」
 つい会話に乗りかけたマキだがすぐに気付き、手のひらで格の額をぺちんと叩く。
 その手が宙で止まり、注意深い眼差しが格の顔を覗き込んだ。
「――待って。それじゃあ……あんたたち、体の関係は一切ない、の?」
「うん、不本意ながら」
 格は眉を寄せて頷いた。言葉通り“不本意さ”が声からも表情からもにじみ出ている。
「俺はしたいんだよ? でも士朗が、高校上がるまでダメだっつーんだもん」
 唇を尖らせ、手にしていたグラスに挿したストローを手慰みに回して、半分ほどに減ったコーラと氷を掻き混ぜる。
「たまに襲ってみたり誘ってみたりしてるけど、落ちないんだよなあ。めちゃくちゃ手強いんだよ。どうすれば俺に欲情してくれんのかなー…」
 深いため息をつき、格はパイプ椅子の背に体を預けた。
 マキは組んでいた足を組み替えて、頬に手を当てて首を少し傾げる。そして何か言いたげに唇を開いたが、思い直して口を噤み、表情から柔らかさを消した。
「とにかく、しばらくうちにいなさい。学校には送ってあげるから」
「マキちゃん? なに言ってんの?」
「うちにいてよく考えなさい。あなた今、盲目になってるのよ」
「そんなことないよ」
「ヤクザなんてカッコイイものじゃないのよ? 金と暴力にまみれたろくでもない奴らなんだから」
「それは――」
 吐き捨てるように言ったマキに、格は反論しようと身を乗り出した。
 だがそれは、店の方からのマキを呼ぶ声に遮られる。マキの元で働いている店員の声だ。
「いま行くわ! ――じゃあ格、これ部屋と裏口の鍵。あとでごはん持って行ってあげる。眠くなったらベッドで寝ちゃっていいからね」
 マキはそう言ってキーケースを格に手渡すと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
 格は眉間にシワを寄せて鍵に視線を落とし、小さくため息を吐いて奥にある扉に向かった。そこが、ビルの外へと通じる裏口なのだ。
 内鍵を開けて部屋から出て、また鍵を閉める。
 格は路地の隙間から通りを一瞥して、建物の脇の非常階段を上に進んだ。このビルは階上が住居利用も可能で、マキは現在そこに住んでいる。
 格は3階まで上り、記憶を探りながら素っ気なく並ぶ鉄のドアのひとつに鍵を差し込んだ。
 果たしてドアはすんなりと開き、格を迎え入れる。中に入って電気を点けると、まず大きな観葉植物が目に入った。
 以前訪れた時とはインテリアが変わっているが、20畳ほどの広さの部屋を衝立や植物で仕切り、リノリウムの床の一部にウッドカーペットを敷きつめているところは当時のままだ。
 廊下の寒々しさとは別世界のようなアースカラーを基調にした部屋の、マキのもつ包容力に似た腕に抱
(いだ)かれるようなあたたかさも変わっていない。
「部屋は変わってないのにな」
 ぽつりと呟いて、格はリビングスペースのカウチソファに腰を下ろした。柔らかな生地が格の体を受け止め、わずかに沈み込む。
 以前のマキには、格の言い分を何ひとつ聞かないような頑なさはなかった。
 諸手を挙げて大賛成されるとは思っていなかったが、それでもきちんと話せばわかってもらえると思っていたのに、理解を示すどころか話を聞いてももらえない。
 いま外へ出るのは簡単だ。ビルの入口へも非常階段から出るのも、店を通らずに行ける。財布はないが携帯電話は持っているので、神之倉にも東子にも連絡できる。
 だがマキはそれについてなんの牽制もしなかった。
 格はポケットから携帯電話を取り出し、足をソファの上に引き上げて膝を抱えた。
 東子に対する格は、東子の助けとなる存在でいたいと、自分に可能な範囲で強くあろうとしている。
 神之倉といると、己の限界ぎりぎりまで背伸びをしてしまう。
 マキは、唯一格が庇護される子供として扱われる相手だ。
 言うと恐られそうな気がするので口にしたことはないが、まさしく“肝っ玉母さん”という言葉にぴったりの人なのだ。子供であることに甘えさせようとはしないが、それだけに頭が上がらない。
 いま簡単に放っておかれているのもそうで、ひとり出て行くことも出来ない子供だと思われているわけではなく、ただ格への信頼が揺らいでいないだけなのかもしれない。
 それならばやはり、きちんと伝えなければいけない。
 格は小さく息をついて、膝を抱えたままコロンと転がった。
「……そうだ、電話」
 呟いた格は、体を丸めたまま手の中の携帯電話の表面をひと撫でし、フリップを開く。夕方から出かけると言っていたので電話には出られないかもしれないが、留守電になっていたならメッセージを残すだけでもいい。
 だが、3コール目で応答があった。聞こえてきたのは、携帯電話の持ち主本人の声だ。
「士朗」
『ああ。……大丈夫か?』
「うん、だいじょうぶ。ごめんな、急に」
『俺のことは気にするな。――で、ケリがついたなら迎えにいくか?』
 ああ、わかっていてくれた。
 ふっと体中をあたたかく満たした思いに、知らず笑みが浮かぶ。
 マキに連れて行かれた時、その場で名を呼び手を伸ばせば神之倉は格を連れ戻してくれただろう。
 後で電話をすると言った意味を、神之倉は正しく汲み取ってくれて、それを待っていてくれた。
 もし立場が逆であったなら、いくら神之倉に自分の育ての親だと紹介されたところで、無理矢理連れて行かれたことに不安になり、焦り、本当に大丈夫なのかと氷上や蒔麻に訊ねてまわったかもしれないと格は思う。
「まだなんだけど――でも、ちゃんと話して帰るよ。士朗のことも、自分の気持ちのことも」
 最初はたしかに憧れからだった。だが、今でも憧れと好きを勘違いしているわけではない。
 ヤクザであることがカッコイイと思って好きになったたわけじゃない。
 だからといって、ヤクザである神之倉はどうでもいいわけでもない。
 そういうことを、ちゃんとマキに話さなくてはならない。
「話して、改めてちゃんと紹介するから。だから待ってて」
『――わかった』
「……士朗」
『ん?』
「好きだよ」
『――ああ』
 想いと共に溢れ出た言葉を、神之倉の低い声が受け止める。
 同時に体ごと受け止められたように感じて、格は小さく微笑んだ。



 部屋に掛かっているカレンダーを見る。
 一度目を逸らし、もう一度。
 だが、何度見ても変わりはない。
 格がマキのところに来て、2週間が経過していた。
「もーダメ。充電切れる……。足んない……」
 格は唸るように呟いて、すっかり定位置になっているソファの上でじたばたと身悶えた。
 何度か電話で話したが、この2週間一度も神之倉の顔を見ていない。
 神之倉が仕事で遠くにいるのなら我慢も出来るが、いまは横浜にいるのだ。格が自宅にいたなら毎日だって顔が見られる。
 しかし、以前近所に住んでいた時はひとりで店を切り盛りしていたマキだが、今は信頼のおける従業員がいるようで、格の学校や道場の送迎も休みなくこなしている。おかげで、神之倉と会う隙がない。
 体の厚みも手ひらの大きさも吐息の温かさも覚えてはいるが、絶対的に足りない。
「うー……触りてえ……」
 ゴロゴロと転がりながら欲求を口に出すことでなんとか紛らわせようとするが、言葉にすればするほど恋しさが募っていき、同時にやるせなさとイライラも増していく。
 だが、ここで挫けて帰るのはいやだった。
 意地になっているのだと思わなくもないが、もはや引けない。
 ジレンマに歯噛みして携帯電話を握りしめる。
 その時ふと、それが鳴った。
 格は液晶画面も見ずに電話にでた。
『もしもし? いたる?』
「……東子――」
 着信メロディで相手が誰だかはわかっていたが、実際に声を聞くと張りつめていた気が緩む。自分でも驚くような情けない声が零れた。
『…その声は、苦戦してるわね』
「……うん……」
 たった一声で現状を察知した母親のいきなりの指摘に、格はため息をつきながら正直に頷いた。マキとは未だに神之倉のことについて話せていないのだ。
 そして促されるまま、最近の状況を掻い摘んで話す。
「明け方まで仕事してんのに、なんであんなに元気なんだろ」
『格が夜泣きしてた頃、あたしが昼間のバイトをしてたからマキちゃんが夜中みててくれたけど、それでもすごく元気だったわよ』
 感嘆と苦笑の入り交じった声が返ってくる。
 そして東子は、申し訳なさそうに「ごめんね」と謝った。
『助けてあげたいのは山々だけど、あたしどうしてもマキちゃんには叶わないのよ』
「うん、わかってる」
 連れてこられた夜に、マキのところにいると連絡した格から事情を聞くと東子はすぐに来てくれたが、逆にこれまでの無沙汰や格と神之倉のことについてマキから説教される羽目になった。
 その後も度々電話を入れてくれているが、マキが軟化する様子はない。
 東子にも格にも、マキは苦しい時代を助けてくれた恩人であり、肉親のように側で見守ってくれた存在でもある。しかも、意志が固く弁も立つ。
 格が神之倉とのことを話そうとしても巧くかわされて、まるで釈迦の掌の上の孫悟空のようになってしまうのも、無理もなかった。
『士朗さんに会いたいなら協力するわよ? あたしに会うのは、マキちゃんだって反対しないだろうし』
「うん……」
 心が揺らいだ。
 ほんの少しだけでいい。会いたい。
 だがそれを口に出す前に、どこからか人の声が聞こえた。
 話し声ではない。歌声などでもない。強いて言うなら、叫び声や怒鳴り声に近い。
『いたる? どうかした?』
「や、なんでも――もう少し頑張ってみるよ」
『…わかった。必要な物があったら届けてあげるから連絡しなさいね』
「うん、ありがと」
 仕事頑張って、と続けて格は電話を切った。
 そしてすぐさま玄関まで移動し、ドアを細く開ける。
 やはり気のせいではなかったらしい。何か、言い争う声が聞こえる。
 そのうち一人の声がマキの声だと気付き、格は部屋を飛び出した。
 非常階段までたどり着くと、怒声に加えて何かが崩れ落ちる音も聞こえた。ただ事ではない。格は迷わず階段を駆け降りる。
 そして2階と1階の間に差し掛かった時に、階段に座って下を見ていた20代後半と思しき男が格を仰ぎ見て言った。
「――あ、渋い感じの兄さんとチューしてた子だ」
「え?」
「横浜のマンション」
 ニカッと笑みを浮かべられて、格はすぐに察した。この男が、マキに格と神之倉のことをリークしたという男だ。
 だが今は、それについて話している場合ではない。
 マキは何事かを喚きながら暴れている若い男を懸命に宥めつつ押さえ込もうとしている。足元には、壁際に積んであった段ボールが崩れ落ちて中身が散乱していた。酒瓶が何本か転がっていて、かなり足元が危うい。
 男はまだ少年といってもいい容姿と声なのだが、とてもマキの制止を聞き入れそうには見えなかった。それどころか、何を言っているのか聞き取れないほど興奮している。
「何があったんですか?」
 格は状況を見守りつつ、目の前の男に早口で尋ねた。
「うーん…まあ色々」
「止めないんですか?」
 男ののんびりとした返答にもう一度問うと、男は僅かに眉宇を寄せた。
「手ぇ出すなってマキさんが言うし、下手すると邪魔になるし」
 体格も良く膂力もあるマキだが、非常階段下の狭い路地で足場も悪い上に、興奮状態で暴れている人間はそう簡単には止められるものではない。
 たしかに手を貸そうにも動きにくい状況ではある。
 しかし、それじゃあと部屋に戻る気にはなれなかった。
「マキちゃん!」
 たまりかねて、階上から声を掛ける。
「……っ、部屋にいなさい!」
 格の声に気付いたマキが、振り返りもせずに叱咤した。
 そんなことが出来るわけないだろうと胸の内で返して立ち去れずにいると、ヒステリックに離せだとか寄越せだとか喚いていた男がついにマキの手を振り払った。
 あっと思ったその時には、男の手には足元に転がっていた酒瓶の破片が握られていた。落ちた際に割れたらしきその鋭利な先端をマキへと向ける。
 その瞬間、格は足を踏み出した。
 階段を駆け降り、あと数段というところで踏み切ると同時に手摺に手をつき、反動をつけて男の手を思い切り蹴り上げた。
 男の手が跳ね上がり、蹴り飛ばされた酒瓶の破片が壁に激突する。
 衝撃で砕け散ったガラスの欠片が、わずかな光をキラキラと弾き返して降りおりた。
 格は呆然としている男の腕を取って引き寄せ、さらされた首筋に慎重に手刀を打ち込んだ。
 急所の打ち方は武原から教わった。打つ場所や力加減によって与えるダメージが大きく違うので、今のように昏倒させる場合と攻撃的に使う場合といった使い分けも教えてくれた。
 安易に使うなという注意も受けたが、今回の場合は構わないだろう。
 意識を手放して崩れ落ちた男を支え、格はマキを見た。
「大丈夫? 怪我してない?」
「――ええ、ありがと……」
 数秒の沈黙を経て、半ば呆然としたままマキが答える。
 だが、その表情はみるみる堅くなり、眉間には深いしわが刻まれた。
「…なんて無茶するの…!」
「大丈夫だよ。この人完全にマキちゃんしか見えてなかったから隙だらけだったし」
 自分が相手にされていたなら、どうにかして広いところに誘い出す手を考えただろう。
 だが、まったく注意を払われておらず相手に攻撃を避ける余裕はないということを、きちんと把握した上で取った行動だ。
「……こっちに」
「ん? うん」
 少し表情を和らげたマキに促され、格は腕の中の男をマキの腕に託す。
 その際、甘いような、香辛料のような、独特の香りが鼻孔を掠めた。男のつけている香水のにおいなのだろうが、どこかで嗅いだことのあるにおいのような気もする。
 だがそれがなんなのか思い出せぬまま、男の体はマキに引き取られた。
 マキの男の扱いは丁重で、どうやら煩わしく迷惑な客などではないらしい。
「手伝うよ」
 弛緩した体をどう担ごうか思案している様子のマキを見兼ねて、手伝おうと手を伸ばしつつ格は答えた。
 しかし、マキは格の助けはいらないと、伸ばした手に自分の手の平を翳すようにして押しとどめる。
「大丈夫よ」
「どこに運ぶの?」
「いいから」
「でもさ」
 何故か頑なに格を遠ざけようとするマキに、格も引っ込みがつかなくなって食い下がる。
 だがマキは譲る様子を見せず、ついには苛立ちを一瞬表情に上せて、
「いいから部屋に戻っていなさい!」
 そう強く言い放って格の手を払いのけた。
 瞬間、その場がシンと静まり返る。
 そして、マキが自分の行為にハッとして慌てて格を見たのと、いつになく強く撥ね付けられた驚きで呆然としていた格の表情が曇るのは、ほぼ同時だった。
「……んだよ、それ……」
 怒りか悲しみかよくわからない感情で震えかかる声を抑えて、格は小さく呟く。
「ごめんなさい、強く言い過ぎたわ。助けてもらって感謝してる。もう大丈夫だから」
「……マキちゃん、なに隠してんの?」
「隠してなんかいないわよ」
「じゃあなんでそんなに変わっちゃったんだよ? 昔のマキちゃんは、理不尽なことは言わなかったのに」
「理不尽って――」
「理不尽じゃんか! 無理矢理連れてこられて、頭ごなしに反対されて、話も聞いてくれなくて、これが理不尽じゃないならなんだってんだよ!」
 思うようにいかない状況への苛立ちも手伝って、言い募る語調が尻上がりに強まってゆく。
「……無理矢理連れて来たのは認めるわ。でも誰だって反対するでしょう? 相手はヤクザよ?」
「ヤクザだよ。でも、マキちゃんが思ってるような人じゃねえよ」
「だから頭を冷やしなさいと言ってるの。ヤクザなんてろくでもないモノに甘い夢を見たって幸せになんかなれないわ」
「ろくでもなくなんかないって」
「あるわよ。クスリ、暴力、詐欺……十分ろくでもないじゃない」
「そんなことねえ!」
 指折り数えて冷淡に言い放つマキに、格は声を大きくして言い返した。
 たしかにキレイな世界ではない。
 極道という道は、平坦でも穏やかでも明るくもない。道を埋めているのは、血と金と暴力――かつて氷上に告げられた、そんな言葉が脳裏をよぎる。
 撃たれた人間を目にしたことも、流血を伴う暴力沙汰に居合わせたことも、目的のために狂気を宿した人間と対峙したこともある。
 たしかに真っ当な世界とは言えない。
 だが、格は知っている。
 親しげに声を掛けてくれるのも、自分を盾にしても誰かを守ろうとしているのも、心の中に譲れない何かを持つのもまた、彼らだということを。
「……頼むよ。話聞いてよ、マキちゃん」
 格は祈るような思いで、マキをひたと見つめて訴えた。
 マキは、そんな格の視線を受け流し、堅い声で告げる。
「――聞く必要はないと思うわ」
 それを聞いた格の表情が強張り、なおも何かを言い募ろうと唇を開いたが、結局何の言葉も出てはこなかった。
「…ヒロキ。手伝ってちょうだい」
 マキは階段で事の成り行きを見守っていた男を呼び寄せると、立ち尽くす格をそのままに、気を失ったままの男を連れて店の方へと戻って行く。
 格は途方に暮れた表情のまま、しばらくの間そこにとどまっていた。


「なんかあったのか?」
 一通りの稽古を終えて、武原が出掛けると言って道場を出ていくと、するすると格の背後に近付いた明がそう問い掛けた。
 あまりに突然で面食らった格は、かわす間もなく明に腕を捉えられてしまう。
「何かあったろ?」
 今度は幾分断定的に訊ねられ、格は苦笑を浮かべる。
「いきなり何だよ?」
「だってお前ときたら、来たときには眉間にシワが寄ってるわ、稽古中も動きは冴えねえわ、技のキレはないわ、休憩中は考え事してるわ――」
「俺、そんなだった?」
「だった」
 きっぱりと言い切って頷いた明の瞳が、しっかりと格を捕獲している。
「なんかあったんなら、愚痴でもなんでも吐いちまえ。聞くから」
「……なんで?」
「お前の浮かない顔とか眉間のシワとか見たくねーんだよ」
 明は軽い調子で言って肩をすくめる。言葉は素っ気ないが声色には気遣いが滲んでいた。
 見つめる眼差しは強いが、その目は責めているわけでも面白がっているわけでもない。
 これは誤魔化しはきかない――そう悟り、格は腹を括った。
 東子以外の誰かに愚痴を聞いてほしかった気持ちもあったので、明の気遣いにありがたく乗じることにする。
 でないと、心にもない暴言をマキに対して投げつけてしまいそうだった。
 出会ってすぐのわだかまりが溶けて以降、格と明との距離は急速に縮まって、稽古の前後によく話をするようになっていた。
 これといった用事がなくとも電話で話をしたり、何度か2人だけで遊びに出掛けてもいる。
 小学校からの友達も中学に上がってからの友達もいるが、他の誰より顔を合わせる機会が多かった。
 格自身、明といる時には“ひらいている”と感じる。感情も、本心も、晒してもかまわないと思うのだ。
 ただ、神之倉のことだけは簡単に口にするわけにはいかないので、慎重に話し始める。
「夏に――さ」
「うん」
 話し始めた格に頷いて、明は格の腕を放して腰を下ろした。じっくり聞こうという姿勢が態度に表れている。
 格もそれに倣って座り、開け放たれた板戸から見える武原家の庭に目を遣る。
 よく手入れをされた庭には、秋の草花がちらほらと見えた。
「夏にさ、好きな人がいるって言ったろ?」
「ん、聞いた」
「その人のことをさ、親代わりみたいな人に、すっげー反対されててさ」
「それって、先週お前を送り迎えしてた……真木さんっていったっけ?」
 格は頷くことでそれに答えた。
 初めて道場まで送ってもらった日、マキが武原にひと言挨拶をしたいと言うので、武原と明に引き合わせていた。
 今日も学校と道場との送り迎えをするとマキは言ったが、格はそれを断ってマキの部屋を出てきていた。
 飛び出すのは簡単だったが逃げるようで嫌だったので、マキには自宅には帰らずに戻ってくるとは言ってある。マキも1人で出ていく格を止めようとはしなかった。
 いまだかつて味わったことのない気まずい空気を思い出すと憂鬱になるが、神之倉のことだけは簡単に諦めるわけにはいかない。
 ただ、どうすればいいのかわからない。
「なんで反対されてんの? 男だから? それともヤクザだから?」
「それは――…って、え……?」
「男だから反対ってのは変か。お前を迎えに来てた人もオネエな人っぽかったもんな」
「ちょ…っと待っ――明?」
 次々に疑問を口にのぼせながら、明が首をひねる。
 しかし格は、それに答える余裕をきれいさっぱりなくしていた。
 いま、彼はなんと言った?
「…格? なに固まってんの?」
 明が不思議そうに格を見遣る。
 格は呆然と明を見つめた。
「――明、俺の好きな人、知っ……」
「あの人だろ? 渋谷でさ、あのルリって女の親父と話してた着物美人と一緒にいた、背の高い渋めのオッサン」
「――――」
 まさかと思いつつ訊ねた格へ明が答えたのは、たしかに神之倉以外の何者でもない。
「あ、オッサンって年でもないのかな? ワリィ」
「――明!」
「ん?」
「なん――で」
 かろうじてそこまでを口にしたところで、格は言葉に詰まってしまう。
 今まで、ただの一度も、ほんの欠片でも、神之倉を好きなのだと明に話したことはない。
 いつだったか古武術の話になった時に、古流の剣術の型を見たことがあるという話はしたが、神之倉の名を出してはいなかった。
 いま明に好きな相手がいないからか、恋だの愛だのの話になったのは夏のあの一日だけだ。
 それなのに何故、神之倉を好きだと知られている?
「なんでわかったか、って?」
 狼狽しきっている格の心を読んだかのように、明が格の胸中を声にする。
「お前の顔がさ、似てたんだよ。ウチの母ちゃんと」
「……佐月、さん?」
「うん。親父が年に何回か海外の支部道場に行くんだけど、ウチの道場ってあんまり治安のよくないところにもあったりするもんだから、平気な顔してっけどやっぱり心配はしてるみたいでさ」
 明は何かを思い出すかのように宙を見上げて、ふっと笑った。
 ちょっと照れくさそうな、それでいて愛しい何かを思い出すかのような笑みに惹きつけられて、格の動揺が少しだけ鎮まる。
「2年前かな、親父が半年くらい南米の方に行ってたことがあったんだ。ちょうど帰国の頃に親父のいた国でちょっとゴタゴタがあって連絡が取れなくなって、でも一応帰国予定の日に成田まで行ったらさ、エンジントラブルがあったとかでひとつ後の便で帰ってきたんだよ」
 過去のこととはいえ、聞いているだけで心配になるような状況だ。乗っているはずの便に乗っていなかったとわかった時の心配と不安はいかばかりか。
 明も相当心配したのだろうと格は思ったが、過ぎたことだからなのか、今はあっけらかんとしている。
「そん時さ、空港で親父に抱きついたんだよ、母ちゃん。いつもはそんなにベタベタしねえのにさ。で、帰ってきた親父を見っけた時の母ちゃんの顔と、渋谷であのにーさんを見た時のお前の表情が、どっか似てたんだよ。安心とか、嬉しいのとかが混じってて、なんかすげえ大事なもんを見てるような目でさ」
 明が、にっと笑って格を見た。見透かすような瞳にどきりとする。
「これが“なんで?”の答え。当たってた?」
 あの時、たしかに格は安堵して、同時に強く愛しさを覚えた。神之倉がそこにいてくれることが嬉しくてたまらなかった。
 だがそれを見られていて、しかも見られただけでなく看破されていたとは思いもよらなかった。
「……ひとつ、聞いていいか?」
「いーぜ。なに?」
「明の中では“有り”なのか?」
 そう問われて、明は少し首を傾げて宙を仰ぐ。質問の内容を計りかねたようだ。
 だがすぐに格の言葉の真意に気付き、緊張した面持ちの格に向き直った。
「オレは男に惚れた経験はないから、共感はできねえな」
 容赦なくはっきりと、正直に明は言い切った。格はそれに頷いて返す。あいまいに口を濁されたり綺麗事を口にするより、明らしい答えだ。
 明は言葉ほど突き放した表情は見せず、かといって茶化しも笑いもせず、真顔で続ける。
「見たいものだけを見るな、目の前にあるものだけが全てじゃない」
「え?」
「親父がよく言うんだ。空手のことでも、それ以外のことでも。――だからさ、オレの知らねえことはいっぱいあるし、知らねえからって、そこに在るからには在るんだよな。だから“有り”だよ。それにお前、本気なんだろ?」
「ああ」
 明の問いに、格はしっかりと頷いた。
 本気で、21歳も年上の男を好きになった。その想いが気の迷いや間違いではないということは、胸を張って言える。
「じゃ、いいじゃん。オレはお前の本気を信じるよ」
 真っ直ぐな眼差しで射抜かれて、格はすぐには返事ができなかった。
 しかし明の言葉は素通りすることなく格の中にすとんと落ち着いて、強張った肩の力を抜いてゆく。
 ふいに笑いが込み上げて、格は慌てて口許を隠した。
「ん?」
「うん――」
 俺ってラッキーだな。そう、胸の内で呟く。声にはしなかった。
 共感されなくとも否定や拒絶はされなかった。ただそのまま在ればいいのだと受け入れてくれた。
 それだけで十分過ぎるほど嬉しい。そして、それが明であったことがなおさら嬉しい。
 人間に対する直感には自信がある。兄弟子だからという理由だけでなく明と話したいと思ったのは間違いではなかった。
「ま、最初はちょっと驚いたけどな。お前、女キライじゃなさそうだったから」
「嫌いじゃねえよ」
「そうなのか?」
「むしろ好きかな」
 神之倉を好きになる以前、何度か淡い思いを抱いたことがあったが、それはすべて女性だった。今でも、神之倉と出会うことがなかったら蒔麻のことが一番好きだったかもしれないと思う。
 そして、神之倉にはほとんど一目惚れだったことから、格にとっては性別というものはそもそも大きな問題ではなかったのかもしれない。
「でもあのにーさんがいいのか。もったいねえな、お前女にモテそうなのに」
「モテねーよ?」
「うそつけ。お前って女にすげー優しいじゃん。強ぇし。和もメロメロだぜ?」
 明の小さな妹、和
(あい)には確かに好かれていた。会う度ににっこり笑って格に駆け寄り「いたるくん、いたるくん」と懐いてくる。
「可愛いよな、和ちゃん。好きだって思ってもらえるのは嬉しいよ。でもさ、優しくすんのは特別なことじゃなくねえ?」
「………この天然タラシめ」
 首を傾げた格の言葉の後に、数秒の間。
 すっと目を細めた明の手が伸びてきて拳を作り、右腕が格の首筋を引き寄せた。そしてこめかみに左の拳がぐりぐりと押し付けられる。
「いてえ! いてえって!」
 逃げる間もなく食らってしまい、格は痛みを訴えながら明の膝を手のひらで叩く。
 その容赦のない攻撃は、結構痛い。
 これは話を逸らさねばと、少し気になっていたことを訊ねてみることにした。
「あ、あのさ、明、マキちゃんがそっちの人だってのも気付いてたんだな」
 マキには東子の代わりに授業参観に来てもらったこともある。しかしそういう時のマキは“男性”を演じてくれ、一度も露見したことはない。
 武原に引き合わせた時もそうで、本当にただ挨拶をした程度だったのだが、何故見抜かれたのだろうか。
 明は格の疑問を耳にして簡単に手を離した。そしてけろっとして答える。
「あー、それな。ウチの門弟にもいるんだよ、そっちの人。やっぱ雰囲気似てんだよな。親父に惚れたって言って突然道場に来たんだけどさ、すっげえ勢いで面白かったぜ」
 返ってきた答えに驚いた格は、2、3度目を瞬いた。
 武原や明は柔剛併せ持っているが、やはり“戦う人”という印象が強い。
 マキのような人間は強い。だがそれは腕っ節ではなく精神に顕著なイメージなので、仁武流の門下生というのは少々意外だ。
「俺、会ったことある?」
「ないな。関西の支部道場にいっから。見た目すげえゴツいけど、喋るとモロにオネエ言葉なんだよ。でも強ェよ。話上手で楽しい人でさ」
「へえ〜会ってみたいな」
「たまにこっちに来るから、そのうち会えると思うぜ」
 格からすると、これまで見たことのある仁武流の門下生は皆ため息が出るくらい強い。その中でも明が強いと断言するほどの人物なら、是非会ってみたい。
 入門を許したということは、色恋云々は関係なしに武原自身が認めたからでもある。
「それにしてもさ、ああいう人ってお固いイメージはないけど、真木さんは厳しい人なわけ?」
「そりゃ人によるさ。でもマキちゃんは元々アタマ柔らかい人だよ。だけど今回はひたすら猛反対で、話すら聞いてもらえねえの」
「ふーん……そんで煮詰まってンのか」
「そうなんだよー…」
 格は長いため息をついて、頭を抱えた。
「どうしたら勝てるのかわかんねえ相手との仕合いみてえだな」
「ん……ちょっと似てるかも」
 明の言葉に格は賛同した。確かに似ている。
 相手の意図がはかれない。予測も出来ないので、どう向かって行ったらいいのかわからない。
「一度引いてみるとか――は、したくねえのか」
「このことに関しては引きたくない」
「お前もけっこう頑固だなあ。んじゃ、ちょっと揺さぶってみるとか」
「ちゃんと話せればそれも出来るかもだけど、躱されまくりだからなあ」
「強くてガードの固い相手に対して引いて様子見んのも揺さぶんのもできねーんじゃ、駆け引きのしようがねえな。んじゃ、やるこたひとつだ」
「なに?」
 格の話を聞いて少し首を傾げた明は、腕を組んでひとつ頷いた。
 その確信を持った口調に、格は身を乗り出して尋ねる。
 明は好戦的な笑みを浮かべ、握った拳を格の胸に軽く打ち当てた。
「強引でもなんでも、正面きって懐に飛び込んで渾身の一撃を叩き込む」
「――ああ……」
 そうか。
 視界一面を埋め尽くしていた霧が晴れるように、胸の内のもやもやが吹き飛んで、先へと続く道が見えたような気がして、格は感嘆の声を洩らした。
 とにかく話をしなくては、自分1人でどうにかして認めてもらわなくてはと思い込んでいたが、それだけが唯一の道ではなかったのだ。
 返り討ちにあう可能性もなくはない。だが、やってみなくてはわからない。やってみる価値はある。
「しかしさ、話も聞いてくれないって相当じゃねえ?」
「だよなあ……」
「よく、自分みたいな苦労をさせたくないってなこと言う親がいっけどさ、そんな感じじゃないんだろ?」
 それは格も考えた。おおらかで朗らかなマキだが、辛い体験やや悲しい思いも当然してきただろう。
 しかし、それらなそうと言えばいいのだし、以前のマキならばそうしたはずだ。あまりにも頑なな様子からして真意はそこにはない気がする。
「性別よりはヤクザだってのに特に引っ掛かってるみたいではあるけど……」
「他にお前から見ておかしいとことか変わった事とかねえの?」
「おかしいところ――」
 基本的には変わっていない。肝っ玉母さんなところも、世話好きなところも、おおらかなところも、優しいところも、昔のままだ。
 ではどこが違うのか。頑なな態度の他に、変わった事はなかったか。
 この2週間でなら、強いて言えば昨夜の出来事が変わった事といえた。
 マキならば簡単に動きを封じられそうな若くて細身の男相手に、なにかを持て余すような戸惑いを格は感じた。
 気を失った青年を格から引き離そうとしたのも、なんだか妙に慌てている様子であったかもしれない。
 そういえば、抱き留めた青年の体からは、甘いような、香辛料のような、独特のにおいがした。今にして思えば、どこかで嗅いだことのあるにおいだ。
 格は記憶を辿った。目で見たものの記憶なら比較的思い出しやすいが、匂いの記憶はなかなか出てこない。
 しかし、記憶をたどる際に付随して感じるのが不快感だと気付いた時、いくつかの情景が連続して脳裏に閃いた。
 薄暗く寒々とした倉庫。
 身を呈して格を守ろうとしてくれた女の後ろ姿。
 焦点の合わない視線と、怒声と、においと――
「……あ…っ」
 思い出した。
 格は、完全に繋がった映像をもう一度思い浮かべ、それが間違いではなかったことを確認する。
 約半年前、蒔麻と共に連れ去られ河岸の倉庫に捕らえられた時に、蒔麻を襲おうとした男。
 大麻を使っていたのだろうと、後になって蒔麻が言っていた。
 昨夜の青年が身にまとっていたのは、あの男と同じにおいだ。
 もしかしたらそれだけではないのかもしれない。叫んでいても何を言っているのか解らない支離滅裂さだったので、他のもっと強いクスリを併用していた可能性もある。
 ともあれ、薬物を使用していたのだとすれば、正気とは思えない暴れようも、マキが格を遠ざけようとしたのも納得がいかなくもない。
 あの青年だけのことなのか、それとも、マキも共に何か良くないことに巻き込まれているのか――
「格? どした?」
 黙り込んでしまった格の顔を明が覗き込んだ。
 格は緊張した面持ちで明へと視線を向けて、しばし考える。
 今の今までマキの部屋に戻るつもりでおり、実際そう言って出て来たが、気まずさが消えたわけではない。
 自宅に帰ることを止める者もいないが、戻ると言って出て来た手前気が引ける。
 明に頼めば泊めてもくれるだろうが、また昨晩のような事が起きたらと思うと、マキの身が案じられて仕方がない。
 しかもそれは、仮定の話と言うよりは予感に近かった。
 また何か起こりそうな気がする。
「――悪い、明。俺帰る」
「なんだよ急に?」
「うん……ちょっと気になることがあって」
 格は道着を脱ぎながら立ち上がり、すぐに着替え始めた。
 本部道場で稽古をする時は更衣室を使うが、武原家の庭の道場では道場の隅で着替えてしまう。明や武原相手なら特に憚ることもない。
「大丈夫か?」
 着替え終わってボディバックを担いだところで明が問い掛けた。中途半端に会話が途切れてしまっていたが、引き止める気配はない。
「ごめん。カタがついたらちゃんと報告する」
 格は明を振り返り、目を見て謝った。
「手が必要な時は言えよ」
「ん。サンキュ」
 素直にその言葉を受け取って、格は差し出された明の拳に自分の拳を打ち当てた。 
 表に出ると、空はすっかり夜色に埋め尽くされていた。
 格は、武原家を出て駅の方角へ向かって走りながら、電話を1本かける。
『――格? どうした?』
 5回目のコールの途中で、男の低い声が応じた。
 格は一旦足を止め、電話に集中する。
「士朗、今夜時間ある?」
『ああ。いま事務所を出たところだ』
「来てほしいんだ、今すぐ」
 これまで言ったことのないわがままを、格はあえて言った。


−続−



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