【第2部】Vol.3 ダーリン、ダーリン (1)


「人間ってさあ、欲深い生き物だよな……」
 突如放たれたひと言に、神之倉はちょうど口に含んだところだったコーヒーを危うく噴き出しそうになった。
 すっかり秋めいてきた、ある週末の朝のことである。
 言った本人はリビングの床に直接座ってテーブルに肘を乗せ、物憂げに頬杖をついている。その様子に、神之倉は手にしていたコーヒーカップをテーブルに置いて身を乗り出した。
「格?」
 疑問形で声を掛けつつくしゃくしゃと頭を撫ぜると、振り返った格はソファの神之倉へとにじり寄り、大腿部に頬を乗せてスーツの脚に腕を絡めた。
 その甘えるような仕草に、乱れた髪を指で梳いて直してやりながら、神之倉は再度短く尋ねる。
「どうした?」
「ん……欲って尽きないんだなって――それ気持ちいい。もっと」
 乱してしまった分は元に戻ったので手を離そうとすると、すかさず催促された。
 神之倉はわずかに笑みを浮かべて同じ動作を繰り返した。
 何をしたいか、してもらいたいか、体の接触に関しては格はわりと率直に口にする。
 キスより先への進展については格の望みどおりにはさせていない神之倉だが、こうやって甘えてくることに関しては出来る限り格の求めるとおりにしてきた。
「欲って?」
「…うん――たとえばさ」
 改めて問われ、格は顔を上げた。
 上体を倒した神之倉の首に腕を回した格の腰を、神之倉の大きな手が支える。
 格は首にすがったまま立ち上がり、そのまま神之倉の膝の上に乗り上げた。そして片膝に腰を下ろし、唇を寄せて来る。
 神之倉はそれを避けず、仕掛けられたキスを受け止めた。
 格の唇が何かを確かめるかのようにそっと触れ、次に角度を変えて深く重ねられて、遠慮がちに舌が滑り込んで来る。それに応じると、格の肩がぴくりと動いて、首に回した手に力が込められた。
 今はまだ自分からキスを仕掛けても容易く神之倉に主導権を奪われてしまう格だが、このところずいぶんと上手くなった。時に巧みさの片鱗を見せることすらあって、13歳という年齢からすると早熟といっていいだろう。
 もっとも神之倉は、それを格に言ったことはない。
「ん……」
 重ねた唇の奥で格が小さく呻き、両手の指がもどかしそうに神之倉の襟元の布地を手繰る。神之倉はそっと格の肩を押した。
 離した唇の隙間から切なげな吐息が零れ、肩口に頭を抱き込む神之倉の手に逆らうことなく、格の腕も広い背に回される。
「……こうやってさ…」
「うん?」
「ちゅーとかぎゅーとか、2年前には想像もできなくて、1年前は一緒にいるだけですげえ幸せで――それは今もかわんないけどさ、こんなに幸せなのに、もっとずっとくっついてたいし、もっともっといろんなコトしたいと思うんだよ。だから」
 欲深い生き物。
「なるほど。…で、具体的に何をしたいんだ?」
 まさかそういう質問がくるとは思わなかったのか、顔を上げた格は驚いたように瞬きをして、首を傾げた。
 だがそのまま目が細められ、上げられた口角が不敵な笑みを形作る。
「たとえば――ベッドでモーニングコーヒー、とか?」
 神之倉の両肩に乗せた腕に体重を掛けてもたれかかり、鼻先が触れそうな距離で格は囁いた。
 どんな答えが返って来るのか予測がつかず緊張で震えそうになるのを堪え、強い瞳で神之倉の顔を覗き込む。
 神之倉はさほど間を置かず、テーブルに置いたカップを手にした。
「そろそろ出なくちゃならんが、5分くらいならいいぞ。移動するか?」
「……ドケチ」
 あまりに揺らがないので淡泊そうに見えるが、こういうことに疎いわけでも、鈍いわけでもない。当然今のもわかっていて言ったのだ。
 そのはぐらかしようを、格は唇を尖らせて非難した。
 だがすぐに軽く息を吐いて、ふっと笑ってみせる。
「いーけどね。今に見てろよ」
 何をどうするという具体的なことは一切口にしない不敵な宣言に、神之倉は苦笑して肩をすくめた。
 格はそれ以上は引きずらずに、神之倉のワイシャツの喉元に手を伸ばし、ひとつ開けられていたボタンを留める。そして、緩めに締められていたネクタイの結び目を引き上げ、位置を調節した。
「――ん。男前」
「…それはどうも」
 立ち上がって2、3歩下がりしかつめらしい顔で頷いた格に苦笑混じりに応え、神之倉も腰を上げる。すかさずソファの背もたれに無造作に掛けてあった上着を手渡す格の頭をくしゃくしゃと撫でて、神之倉は玄関へと向かった。
「遅くなんの?」
 上着を羽織りながら歩く神之倉の背中に格が問い掛ける。
「たぶんな。早く帰れそうなら連絡するから、なければ待ってないでちゃんと寝ろよ?」
「うん、わかった。――あ、忘れ物!」
「え?」
 玄関を出たところで、後を追った格から呼び止められ、神之倉は振り向いた。その胸倉にすかさず手を伸ばした格が、力任せに神之倉の上体を引き寄せる。
 そして、神之倉の唇に啄むように口づけた。
 部屋の外では、車の中など人目に触れにくい場所でしかキスはしない。そもそも、出掛けのキスなどいつもはしない事だ。
「――格…」
「ちょっとはドキッとした?」
 ゆっくりと息を吐いた神之倉に、不敵な笑みを浮かべて格が尋ねる。
 誘いをあっさりと躱されたことへの軽い意趣返しだ。
「だいじょーぶ、大丈夫! うちのマンション夜型の住人が多いし、特にこのフロアは今の時間はあんまし人が出てこないから誰にも見られやしねえって。エレベーターの方からは死角だしさ」
 スーツの襟元を直しながら格が笑う。
 たしかにエレベーターホールからは開いたドアが目隠しになっている。ドアの内側が見えるサイドには部屋がひとつあるだけで、その部屋の住人はいつも昼頃に起き出すことを格も神之倉も知っていた。
 さらに向こうは非常口と階段で、このマンションで階段を使う住人は滅多にいない。ここは5階なのでなおさらだ。
「ごめん。もうしない」
 神之倉が懸念しているのは、この関係を誰かに知られることではなく、知られることで古賀沢組若頭と縁のある者として格が危険な目に遭うことだと、格は知っている。襟元を直し終わると素直に謝った。
 神之倉は黙って格の頬をぽんぽんとやわく叩き、口の端に少しだけ笑みを浮かべると、表情を窺うように見上げてくる格の耳たぶを指先で軽くくすぐって踵を返した。
 去って行く背中に怒りや戸惑いの空気はまるでない。
 玄関から完全に廊下に出てその背を見送りつつ、格は小さく笑みを浮かべた。ハグやキスではないけれど、ちょっとした甘い仕草が照れくさくも嬉しかった。

 だが格は、そして神之倉も気付いてはいなかった。
 いつもなら誰もいないはずの階段に、一人の男がいたことを。
 そして彼が、格を見知っていたことも。


 格は高まる鼓動を鎮めるために、両手のひらで口をふさいで細く長くゆっくりと深呼吸を繰り返した。
 目の前の神之倉は、そんな格に気付くことなく規則正しい寝息を立てている。
 婉曲にキスより先の行為をねだってあっさり躱されてしまってから、5日が経過していた。
 格が学校から帰ってくる時間に神之倉が自宅にいるのは珍しい。ましてや寝ていることなどこれまでなかった。
 神之倉の寝顔を目にするのは、これで2度目だ。前回は初めてのことで必要以上に動揺したが、今回はそれほど狼狽えていない。
 だが、興奮の度合いはあまり変わらなかった。
 眉間に深いしわを刻んでいないことには安心したが、無防備に目を閉じているのも、くつろげられたシャツの胸元も、なんだか妙にそそられる。
 前回は白のワイシャツで今日は黒いシャツだが、黒と肌の色とのコントラストがまた、たまらなかった。白の侵し難さもいいが、黒だとその向こうが秘密めいて感じる。
――なんか俺ってすげえスケベ…?
 気持ちだけでなく体も高揚して来た自分に気付き、格は困ったように宙を仰いだ。
――でも、めちゃくちゃ好きだし。やらしいこともしたいし。おあずけ長いし。
 胸の内で理由を並べ連ねて、格は小さくため息を吐いた。
 一般的な例にもれず二次性徴を経ており、耳年増なのもあってさほどうぶでもないので、快感を得る方法はわかっている。
 だが、日々の武道の稽古の影響か非常に寝付きがよく眠りが深いことと、格の想像が追いつかないために、性的な夢に悩まされることはまだなかった。
――2、3回だもんなあ…。しかも上半身だけ。
 格は不満そうな顔で唇を尖らせた。
 生活リズムが違うことも原因のひとつだろうが、格が目にする神之倉は何故か露出が少ないのだ。大抵スーツを着ており、たまのオフでもあまり薄着をしない。
 最近はバスローブ姿を目にすることがあるが、あまりだらしのない着方はしないので、うっかりはだけることもない。裸身に至っては、上半身を数回しか見たことがなかった。
 神之倉の腰から下は、格にとってシークレットゾーンなのだ。
 だからなのか、格が思い描く神之倉はほとんどの場合、普段見慣れているスーツを着ていた。スーツ姿の神之倉を邪な妄想の糧にするのは、なんとなく躊躇われる。
 しばし考えて、格は細心の注意を払い物音を立てぬように、そっと神之倉のそばにしゃがみ込んだ。息を詰めて様子を伺ったが、横たわる神之倉に目覚めた様子はない。
 合い鍵は持っている。部屋も隣で、思い立ったらすぐに行ける。
 神之倉が人の気配に聡いとはいえ、格にはどこか気を許しているようなので、時を見計らって寝込みを襲えないこともないだろう。
 しかし格は、それをしたくはなかった。起床する頃に部屋を訪れたり、普通に顔を合わせている時には隙あらば誘い偶さか襲ってみたりもするが、多忙な神之倉の貴重な睡眠時間は奪いたくない。氷上は押しまくれと格に言ったが、仕事に支障が出るのは喜ばしくないだろう。
 だが、このところ遅くとも自宅に戻って寝ているようだし、今日はそれほど疲れているようには見えなかった。
 目が覚めて疲れていると言うならやめればいい。
 方針を決めて納得したところでひとつ頷き、格は身を乗り出して神之倉の唇にキスをした。
 そっと離すと、瞼と指先がぴくりと動く。
 格は構わずのし掛かって、シャツのボタンを外しながら今度は瞼に口づけた。
「……格…?」
 羽毛が触れるような柔らかなキスが瞼から頬に移ったところで、神之倉が問い掛けるように格の名を呼んだ。
「うん」
 応えた格は、頬から顎の先へと唇を移動させる。
「眠い? 疲れてる?」
「いや――お前…」
「ん?」
 ボタンを外して寛げた胸元から素肌に手を滑らせながら、格は神之倉の顔を見た。
「なに?」
「…お前いま、片手でボタン外してなかったか?」
「上手いだろ? 練習した」
 どこかずれている質問ににっこり笑って答えを返し、格は神之倉の胸に顔を伏せ、鎖骨のすぐ下あたりにキスを落として強く吸い付いた。
「…っ、こら…!」
「あ、痛かった? ごめん」 
 思いのほか強い調子で言われ慌てて唇を離し、赤い痕のついたそこを撫でつつ謝る。神之倉は、仕方がないなというような苦笑を浮かべて格の額を拳で小突きつつ体を起こした。
 それに抵抗して下肢の上に乗り上げた格は、まだダメだというように首に腕を絡ませる。
「……こら」
「疲れてんなら止めるよ。でもさっき平気だって言ったよな?」
 低い声での制止に、強い瞳で挑発する。
 実は内心はわたわたと落ち着かないのだが、慌てた様子を見せない神之倉に対抗するために精一杯虚勢を張った。
 さあ、ここからどうする?
 神之倉の静かな瞳を覗き込んだまま、格は自らに問い掛けた。
 どういう風に誘えば、この人は落ちてくれる?
 どうすれば、欲しいと言ってくれるのだろうか?
 キスをしたら返り討ちにあいそうな気がする。甘えても、泣いて縋ってもうまく宥められるだけかもしれない。それなら、怒ってみるか?――
 めまぐるしく脳内シミュレーションを繰り返し、とりあえず名を呼んでみることにして、格は唇を開いた。
「しろ――」
 だが、それは果たせなかった。
「おお!?」
 制服の尻ポケットに入れていて携帯電話が突然震えると同時に大きな音を立て始めたのだ。
 驚いてつい声を上げてしまった格は、慌ててポケットに手を伸ばした。
 メールの受信を知らせる短い着信音ではなく、いつまでも鳴り続けている。電話だ。
 小さくささやかでオーソドックスな電子音だったら切れるまで放置するのも手だったが、あいにく賑やかなアクション映画のテーマ音楽だった。どうにも気が散って無視できない。しかも、一向に鳴りやまない。
 電源を切っておくか自宅に置いてこなかったことを激しく後悔しつつ、格は取りだした携帯電話のフリップを開けた。
「――え! あれっ!?」
 そこに思いがけない人物の名が表示されていたことに、またも驚きの声を上げる。
 咄嗟に神之倉を見遣り、また携帯電話の液晶画面に視線を移し、格は通話ボタンを押した。
「もしもし? びっくりした――どうしたの? 何かあった?」
 話し始めた格に、今度は神之倉が驚いた。
 あまり聴いたことがない類の口調だったのだ。
 やさしく、少し幼い。どこか甘えるような響きもある。
 神之倉が知る限り格が幼さを見せるのは母親の東子にだけだったが、東子であれば電話が来たこと自体にこれほど驚きはしないだろう。
 格を膝に乗せたまま、神之倉は注意深く格の表情を見守った。
「うん、帰っては来てるけど、ちょっと近所に――え? なに? 今どこにいんの?」
 会話を続けていた格の眉が訝しげに寄せられ、そしてすぐその目が見開かれる。
「ウチの前!?」
 驚いた顔が神之倉にも向けられた。
「でも――ああ、うん、近所なんだけど……ええと、え? 違うよ。せっかく来てくれたのにそんなこと言うわけないじゃん。えっ、ちょっ、ま――?」
 ふいに、沈黙が訪れる。
 格の開きかけた口が、言葉を最後まで口にすることなく閉じられた。そして携帯電話をもったまま、乗り上げていた神之倉の体から降りる。
「……どうした?」
「うん、お客さん――というか……いまウチの前にいるって」
「知り合いか?」
「うん。ちょっと待ってて」
 格はひとこと言い置いて、身を翻した。
 よく考えたら、2年以上会っていない人物だ。神之倉との甘い時間――になったかもしれない――を邪魔されはしたが、格にとって特別な人間のうちの一人である。無下になど出来ない。
 格は玄関に続く廊下を小走りで駆け抜け、履いてきた靴を引っ掛けると、勢いよく玄関ドアを開けた。
「マキちゃん!?」
「格っ!!」
 格の部屋の前に立っていたその人物は、格が飛び出して来るなりぱっと喜色を浮かべて両手を広げ、廊下に出た格の体を両腕に納めた。
 そしてそのまま抱き上げてくるくると2回転ほどし、下ろした格の顔を確かめると、もう一度胸に固く抱いた。
「久し振りねえ! ちょっと見ないうちにイイ男になって!」
「……るし…っ」
「いたる?」
「…ッ苦ひーってマキひゃん!」
 アメリカンフットボールの選手のような大柄な体にすっぽりと抱え込まれた格は、分厚い胸に押しつけられたままくぐもった声を上げた。同時に丸太のような腕をパンパンと手のひらで叩く。
「あらまあごめんなさい」
 そこまでされてやっと気付いたようで、頭上からの逞しい体には不似合いな口調での詫びとともに、格は抱擁から開放された。
「大丈夫?」
「……うん」
 ケホンと軽く咳をしてから格は笑みを浮かべ、心配そうに見下ろして来る顔を見上げた。
「元気にしてた?」
「元気だよ。こないだ電話で話したじゃん」
「面と向かって話すのと電話とじゃ違うものよ。あんたといい東子といい、たまには顔を出しなさいな」
 太く低い声で柔らかく窘められる。格はそれに素直に頷いた。
 いつだって格と東子を案じてくれているマキは、口うるさいこともあるが何があっても味方をしてくれる存在だと格は信じている。
 マキは腰を屈めて大きな手で格の頬を包んだ。
「もっとよく顔を見せて。……すっかり男っぽくなったわねえ」
「3ヶ月くらい前に写メ送ったじゃん」
「だから直接見るのと写真とじゃ違うでしょ? 背とか体つきとか」
 んもう!と拳を握って憤慨するマキを、格はじっと見つめて真顔で「ごめんね」と謝る。
 するとマキの顔がみるみる笑み崩れて、またしても格は逞しい両腕に閉じ込められてしまった。だが今度は力が加減されたようで、呼吸も身動きも出来る。
「そういうところは小さい頃から変わらないわねえ。可愛いこと」
「ありがと。マキちゃんも昔と変わんないよね、あんまり老けないし」
「あらそう? 嬉しいわあ。でも最近、昔ほどトキメキがないのよねえ。そういう時は老けたなあって思うわよ」
 そう言ってマキは格を離し、悩ましげに頬に手を当ててため息をついた。
 堂々たる体躯で声も低く、身につけている海外ブランドのカジュアルな衣服もさりげなく洒落ていてしっくりとくる落ち着いた四十路の男なのだが、やわらかな女性のような口調は流暢でわざとらしさはない。
 マキは、格が生まれた頃に東子が住んでいたマンション――つまり、格の亡父の部屋――の斜向かいの部屋の住人で、若くして夫を亡くした東子を何かと気に掛けてくれていた。
 東子が昼間アルバイトに出ている間は、新宿二丁目にあるゲイバーのオーナー兼バーテンで日中は時間のあるマキが格の世話をしてくれたので、育ての親と言ってもいい存在だ。
 格たちが別のアパートに引っ越してからも交流があったのだが、東京から横浜に移ってからはなかなか会いに行く機会がなかった。
「ところで格、さっき誰の部屋から出てきたの? あんた達の家は隣よね?」
「うん、だからお隣さんちだよ」
「そのお隣さんって、30半ばから40歳くらいでスーツの似合う背の高い男?」
「え? なんで?」
 確認するかのように問われて、格は思わず問い返してしまった。
 なぜ、名前でも格との関係でもなく、年齢や容姿を確かめられるのだろうか。そもそも、このマンションに初めて来たはずのマキが、どうして神之倉を知っているのか。
 マキは小さくため息を吐いて腕を組み、真剣なまなざしを格へと向けた。
「――ウチの店の常連客が、先週このマンションに住んでる情夫のところから朝帰りする時に見たって言うのよ。あんたが30半ばから40歳くらいでスーツの男と玄関先でキスしてるとこ」
「…でも俺、マキちゃんの店にはすげえ小さい時にしか行ったことないよ?」
「だから3ヶ月前に送ってくれた写真。そいつ、それを見たことがあるの」
「――」
 格の背に冷や汗が流れた。大丈夫だと豪語したのに、偶然とはいえ見られていたのだ。
 マキの知り合いでよかった。これが極道関係者だったなら、神之倉にとって良くない噂が立っていたかもしれない。
 自分が神之倉を好きだということは、誰に対しても自信をもって言えると格は思っている。その気持ちは揺るがない。
 だが、誰彼構わず宣言することが、思いの大きさを量るものでも証しをたてるものでもないということが解らないほど子供ではなかった。
 マキは格の数瞬の沈黙にあえて何かを尋ねることなく言葉を続ける。
「で、東子に電話したら、格にカレシが出来たって言うじゃない! まさか男に走るとは思わなかったからびっくりしたけど、あんたイイ男だから男もほっとかないわねって納得したのに、相手がヤクザですって!? なんてこと!」
「マ、マキちゃん!」
 昼間はあまり住人の出入りがないマンションとはいえ、物陰でのキスとは違い、話し声は通りがかっただけでも聞こえてしまう。
 ヤクザだということをひた隠しにしているわけではないのだが、触れ回ってもプラスになることはない。
 格は慌ててマキの手を引き、背後のドアを開けてマキを部屋の中へと押し込んだ。
 そして、ドアを閉めてからここが自分の家ではなく神之倉の部屋だったことに気付いたが、もう遅い。
 マキは怖い顔をして周囲を見回し、格に尋ねる。
「ここが例の男の部屋なのね? どこよ、アタシの可愛い可愛い格を誑かしたヤクザもんは?」
「誑かされてなんかないってば」
 格はすぐに否定した。
 思い切り同意の上だし、むしろ押し切られたのは神之倉の方なのだ。
 マキは自分のことを恋多き人間だと言い、格にも人を好きになれと言っていた。だからこれまで、格が誰を好きになろうと反対されたことはなかったし、むしろ格の恋人になるのはどんな子か楽しみだと言っていたくらいなのだ。
 マキ自身の嗜好からいっても、男が相手なのは問題ではないだろう。どうもヤクザだということが問題のようだ。
 しかしマキの店の業態と場所柄、地元のヤクザとまるで面識がないとも思えず、彼らについてマキから否定的な言葉を聞いたことも特にない。
 もちろん、一般的には反対される相手だろうことは格にもわかっている。
 だが、東子に問い質したのなら、東子が反対していないことは聞いたはずだ。それなのに何故こうも露骨に敵意を顕すのか。
 戸惑いとともにほんの少しの腹立たしさも感じる。
 それでも、怒るより先にとにかく一から経緯を話し自分の思いを知ってもらおうと、格はマキを自宅へ導こうとした。
 だがそこへ、一向に戻ってこない格を気にしてか、玄関先で物音がしたためか、奥から神之倉が顔を出した。
「格? どうした?」
「……っあんた達、何をしてたのよ」
「え?」
 格が呼びかけに応えるより早く唸るような低い声で呟くマキに、神之倉を振り返った格は「あ」と声を上げた。
 先ほど、格が悪戯を仕掛けたままの姿の神之倉がそこにいた。
 いつもよりボタンを多めに開けた黒いシャツの胸元から、格が鎖骨の際(きわ)に残した付けたての所有印が覗いている。
 乱れて落ちてきている前髪を掻き上げる仕草と男くさい色気に数瞬見惚れた格だが、すぐに我に返って神之倉の元に駆け寄ると大急ぎで黒シャツの合わせを閉じた。
「格?」
「俺以外に見せんなよな」
 小さく囁いて胸のボタンを留めていく。
 正直なところ、自分のものだという印を見せびらかしたい気持ちがないわけではなく、格が知る限り神之倉はマキの好みのタイプではないので惚れられはしないだろうが、神之倉のもつ色気については独り占めしていたい。
「格? 彼は……」
「え? あ」
 慌てて振り返ると、不機嫌さが顔に出ているマキと目が合う。“彼”という単語がさらに拍車を掛けたようだ。
 普段はそんなことにいちいち腹を立てるようなことはないのだが、最初からマイナスイメージしか抱いていないからか単語ひとつも気になるらしい。
「うん、あの――育てのハハ、だよ」
「ああ」
 それだけの説明で、すぐに短い答えが返ってきた。
 神之倉は、どこからどう見ても立派な成人男性であるマキが「母」と呼ばれたことはまるで気にならないかのように、軽く会釈して話しかける。
「はじめまして、神之倉といいます。ええと――」
「マキちゃんだよ」
「マキさん?」
「あんたに呼ばれたくないわ」
 すかさす横から教えられた名前を繰り返した神之倉の言葉を、マキがあっさりとはねのける。
「何言ってんだよ。それ以外の呼び方するとめちゃくちゃ怒るくせに」
「うっさいわね! 名前のことには触れないでちょうだい!」
 耳を塞いでそっぽを向くマキが自分の本名を泣くほど嫌がっていることを知っている格は、マキの要望どおり名前のことには触れないでおくことにし、傍らに立つ神之倉を見上げて話し出す。
「マキちゃんはね、昔住んでたマンションのご近所さんで、東子も俺もたっくさんお世話になってるんだよ。俺のこと、生まれた時から知ってる人」
「…そうか」
「うん」
 神之倉の口許に浮かんだ柔らかい笑みに、格は嬉しくなってその腕に抱き付いた。
 短いひと言と浮かべた笑みだけで、マキが格にとって大事な存在だと受け入れてくれたと判ったからだ。
 だが、マキの反応は格とは違うものだった。
「……そうよ。東子のおなかの中にいる時から知ってるわ。ミルクもあげたし、おしめも換えた。掴まり立ちしたところを初めて目撃したのはアタシだし、添い寝もしたしお風呂も一緒に入ったわよ。それを……それを……こんな男に奪われるなんてー!!」
 マキは顔を覆ってイヤイヤと首を振りながら嘆いた。泣き崩れるのではないかと思うほど悲嘆に暮れている。
「こんなって言うけど、すげえイイ男だよ」
 あまりの嘆きっぷりに困惑しつつも、格はきっぱりと言い切った。
 憧れて、焦がれて、好きで好きでどうしようもなくて、ようやく手が届いた男だ。格にとって、神之倉以上にいい男はいない。
 知ってほしかった。
 マキにだからこそ、男としても一個の人間としても、神之倉を認めてほしい。
「このあと出かけんの?」
 格は神之倉を振り仰いでそう尋ねた。
「ああ、夜にな。日が暮れるまではいるぞ」
「じゃあさ、ちょっと話――」
「その必要はないわ、格」
 口にし掛けた言葉が背後に近付いた気配と声にかき消される。それと同時に、格は足元から床の存在が消えたことに気付いた。
「え? あれ、ちょ…っ」
 いとも簡単に軽々と持ち上げられ、肩に抱えあげられる。慌てて上半身をひねったが、マキの手はしっかりと格の腰を掴まえていて降りることもできない。
「お邪魔しました。突然ごめんなさいね。おいとまするわ」
「マキちゃん?」
 慇懃に謝罪し、マキは軽く会釈をすると踵を返した。もちろん肩には格を担いだままである。
「ちょっ…、どこ行くんだよ?」
 さっさと靴を履いて出て行こうとするマキに尋ねたが、マキから返事はない。
 そういえばあの時もそうだった――格はふと十年近く前のことを思い出す。
 片親であることをからかわれ、保育園で取っ組み合いの喧嘩になったことがあった。
 東子の代わりに迎えに来てくれたマキは、保母に喧嘩の理由を聞くと、やり過ぎてはいけないと諭しはしたが喧嘩をしたことについては怒らなかった。
 そして、格のことを乱暴だと非難する喧嘩相手の保護者達に、喧嘩の理由をよく考えてはどうかとだけ返し、格を抱き上げてさっさと帰ってしまった。
 意志が固い。そして強い。
 そんなマキが格は大好きだったが、さすがに今回はマキの考えることがよくわからない。
 わからないから、抵抗する前に理由を知りたい。
 我に返った格は慌てて神之倉に目をやったが、その時にはすでにマキの体は玄関から出ており、扉も閉まろうとしているところだった。
「…っ電話! あとで電話するから…!」
 扉が完全に閉じるまでに、かろうじてそれだけは口にすることが出来た。


−続−



Series index ←前次→
 
アンケェトフォーム→

Copyright(c)2008.01.27- Haruka Sumeragi Rights Reserved.



広告 [PR] 小説 ブックマーケット お見合い 無料レンタルサーバー ブログ blog