【第2部】Vol.2 ブルースカイ・ブルー (9)


「あ…――」
 ダークスーツを身にまとった中年の男を目にするなり、格は思わず声を上げた。ルリからも驚きの気配が伝わってくる。
 伊庭はポケットに手を突っ込んだまま、真っ直ぐに堂々と歩いてきた。
 男達は、誰だこいつは?という顔をしながらも、伊庭の醸し出す迫力に気圧されて道をあける。
 だが、わざと虚勢を張っているのか、それとも飲まれかけている自分に気付いていないのか、数人が口々に伊庭を威嚇し始めた。
 遠くから吠え立てる野良犬のようなそれに、伊庭が小さくため息をつく。そして、左右の男達に視線を走らせた。
 伊庭に見られた男達がびくりと身体を震わせて一斉に口を噤む。
 震えている者さえいることに気付き、格は心の中で感嘆の声を上げた。これが関西極道のトップの片腕たる男の持つ凄味なのか、と。
 ひと睨みで完全に上位に立ち、逆転しようにも不可能のように見えたが、伊庭はさらに口を開いた。
「殴るなり刺すなり好きにせえ。…道頓堀が棺桶になってもかまわんならな」
 ドスの利いた低い声に、もはや言い返す者も言葉通りに掛かっていく者もいなかった。
 そして、格たちの元まで歩み寄った伊庭が、格と明の間に手を伸ばし、後ろにいたルリを強引に引きずり出す。
「このドアホ!」
 伊庭の厚い手のひらがルリの頬で重い音をたて、空気を震わすような大喝が放たれた。
 その声に背中を押されたか、男達の中の一人が身を翻して泳ぐように逃げ出す。それに引きずられるようにして男達が後退り、我先にと出入り口に殺到した。
 数十秒後には、立っていた男達はすべて店の中から消え、倒れ伏した者、立ち上がれない者、そして格たちだけが店内に残された。
 横っ面を思い切り張られたルリは、頬を押さえて呆然としている。
 そのルリの体を、伊庭が抱き寄せた。
 先ほどの怒声と平手打ちが嘘のように柔らかい抱擁に、見ていた格も、なによりルリ自身が驚愕に目を見開く。
「無事か?」
 短い問いだった。
 甘い声ではない。だが、どこか優しい。
「――うん……どこも何ともない…」
 ルリは呆然としたまま、答えを口にする。
「そんならええ」
「……うん」
 返されたひと言は同じく素っ気ない短さだったが、格はそれに安堵の響きを聞いた気がした。
 同じことを思ったのだろうか。
 おずおずと伊庭の背中に手を回し、スーツをぎゅっと握りしめたルリの目には涙が浮かんでいた。

 出入り口を塞いでいた男達がいなくなってしまったため、難なく店から出ることができた。
 格と明に打ちのめされた男達も伊庭の迫力に飲まれたのか、怨嗟の声どころか負け惜しみの言葉ひとつなく、出て行く格たちをあっさりと見送った。
 伊庭は終始堂々としていて、その揺るぎなさには、ただいきがっているだけの者では毛ほどの傷も付けられそうにない。
 店を出ると、通りの向こうに数台の黒塗りのセダンが停まっていた。
 その中の一番手前にいた車の運転席のドアが開き、長身の男が下り立つ。
「え…?」
――士朗…っ!
 辛うじて名前は飲み込んだが、見慣れたその姿に格は驚きを隠せなかった。
 そして、助手席側に回り込んだ神之倉が開けたドアから現れた人物にさらに驚いた。
 きりりとした色合いの絽の着物をすっきりとまとった蒔麻が、格の姿を認めて小さく微笑みを浮かべる。
 それだけ伊庭が重要な客人ということもあるのだろうが、まさか神之倉と蒔麻が揃って来ているとは思ってもみなかった。
 神之倉を見た途端に湧き上がった安堵や嬉しさで胸が満たされ、吐息となってあふれ出る。
 自分で思っていた以上に気を張っていたらしい。すぐそこに神之倉がいるという安心感で肩の力がすうっと抜けた。
 いまだ涙の止まりそうにないルリは伊庭の導くまま停まっていた車の後部座席におさまり、伊庭はその場で蒔麻と立ち話を始める。
「大阪のヤクザかあ。なるほどなー」
「え、あ……」
 ふいに放たれた明のひと言に、格は慌てて隣りに立っていた明を見た。
「なんでオヤジがお前に余計な気ィ使うなって言ったのか不思議だったんだ。そっか……お前をウチに連れてきたのって、もしかしてあのド迫力のオッサンだったりする?」
「明……知ってたんだ?」
「ウチが昔ヤクザだったって? 知ってたよ。オヤジが背中にあの怪我した後に廃業したって、前にじいちゃんに聞いた。今でも付き合いあったんだな」
「いや、20年ぶりに会ったって言ってたよ」
「へえ。お前んちもそっち関係なの?」
「え? いや、違うけど――でも…全然関係ないってわけじゃない。すごくお世話になってる人がいるから」
 厭な顔をされるだろうかと思いながらも格は正直に答えた。
 父親が死ぬような目にあった傷を負ったのは、極道の息子だったからだ。傷に対して不用意なことを言った格をあれだけ怒ったのだ、ヤクザに対してもいい印象はないかもしれない。
 だが明は「そっか」とひと言口にしただけだった。そのあまりにあっさりとした態度が逆に不思議で、いいのかと格は問い掛けた。
「何が?」
「何がって……」
「そりゃまあ普通はいい顔されないかもしんねえけど、オレんちが昔ヤクザだったのは事実でじいちゃんはそれは後悔してないって言うし、オヤジも背中の傷のことは大したことじゃないって言うんだから、オレには嫌う理由ねえじゃん?」
 戻る気はないが、過去を否定しても、厭わしく思ってもいない。
 過去は過去のことと区切りをつけて、今を生きている。
 そして――
「お前はお前だし。それでいいよ」
 空手も人付き合いも人間と人間ですることだと武原は言った。
 その時の顔と、今の明の笑顔はよく似ている気がする。
 明は大きく伸びをすると、まだ話をしている伊庭と蒔麻をちらりと見て言った。
「じゃ、俺帰るわ」
「え? あっ、送るよ」
「いいって、女の子じゃねえんだし。駅もすぐそこだもんよ」
 明は片手で格を制し、その手を軽く振って歩き出す。
 格に対して怒っていたときは頑固そのものだったが、一度わだかまりが溶けてしまうとさっぱりしたものだ。
「明!」
 格は明の背中に向かって呼びかけた。
「ありがとな!」
「足、早く直せよ」
 振り返った明から向けられた笑みは、優しいものでも柔らかいものでもなく不敵なものだったが、それがかえって嬉しかった。
 どこか清々しい思いが格の胸を満たす。
 雑踏の向こうへ消えるまで明の背中を見送って、格は神之倉の方へと歩き出した。

 伊庭とどうにも泣き止まなかったルリは蒔麻と共に古賀沢邸に直行し、格は神之倉と共にマンションまで帰ってきた。
 武原には、車の中から電話をかけて報告を済ませてある。
 地下の駐車場から格の家まで背負ってくれた神之倉はそのまま留まり、格が風呂から出ると足の手当をしてくれた。
「まったく、お前も無茶をする」
 リビングの床に座った格の腫れた足首を冷湿布で覆い、神之倉が苦笑する。責めるような口調ではなかったので、格も肩をすくめて苦笑を返した。
「でも明がいたから」
「――仲良くなれたか?」
「え?」
「これ。稽古でやったんじゃないだろう?」
 神之倉の片手が伸びてきて、格の左頬に触れた。人差し指が頬骨を、親指が唇の端をそっと撫でる。
 ほとんど治っている5日前の傷跡の上だと気付き、格は目を見開いた。
「……なんでわかった?」
「歯切れが悪かったからな」
 自分では極力普通に話しているつもりだった格だが、どうやら傷を負って帰った日にはすでに察知されていたようだ。
 お見通しだったことに悔しさもあるがそれはほんのわずかで、わかっていて黙って見守っていてくれたことは逆にありがたかった。
 明のことは、どうしても自分で何とかしたかった。何故かはわからないが、そうすべきだと感じたのだ。
 神之倉は手を引き戻し、湿布を貼った患部を包帯で覆い始めた。格は足を神之倉に委ねたまま、ぽつりぽつりと話を続ける。
「…今日さ、打ち合わせなんてほとんどしてなかったのに、なんかすごく動きやすかったんだ。何をしたいのか目を見てわかったし、どこにいるのかも空気でわかった。不思議だよな。普通に話せるようになったのは今日で、知らないこともたくさんあんのに」
 そう、なんとなくこういう奴だということはわかったが、知っていることを挙げた方が早いくらい、まだ知らないことだらけだ。
「なんかさ……上手く言えないけど、俺は俺のまんまでそこにいていいって認められたっていうか、許されたっていうか――それが、すごく嬉しかった」
「ああ……わかるよ」
「わかる?」
「ああ。昔、似たようなことを思ったことがある」
「もしかして――氷上…?」
 格の問い掛けに、神之倉はわずかに唇に笑みを浮かべただけで答えなかった。
 だが、おそらくそうなのだろう。
 十数年に及ぶという付き合いの、ごく始めの頃。元々赤の他人なのだから、お互いを把握するまでに長かれ短かれ時間は掛かったはずだ。
 特別な言葉などなくてもあたりまえのように並んで立っている現在の神之倉と氷上が、過去に今の自分のような思いをしていたのだと思うと、自分と明もいつかそんな風になれるのかもしれないというほのかな期待感が湧き上がる。
 なろうとしてなるのではなく、結果としてそこに辿り着くものなのだろうから、無理にどうこうしようという気はない。
 ただ、そう思える相手と会えたことが嬉しかった。
「よし」
 神之倉が短く宣言して、包帯を巻き終えた足をゆるく叩いた。
 格が礼を言って足を引き戻そうとすると、それより早くひょいと持ち上げられ、おもむろに身を屈めた神之倉が包帯に覆われた足首にキスを落とす。
「んなっ、な、なに…っ!?」
 これまでされたことのないシチュエーションでのキスに、格の顔がぼっと赤く染まり、声が上擦った。
「頑張ったからな」
「……頑張ったらキスしてくれんならこっちにもしてよ」
 照れもしない神之倉に悔しさを感じながらも、唇を指差して言い返してみる。
 小さく笑って、片膝を立てて座っている神之倉が格に右手を差し伸べた。
 四つん這いでにじり寄った格の前髪を伝う雫を指先ですくい取り、格が肩に掛けていたバスタオルを手に取って髪を拭う。いささか大雑把な拭き方に目を閉じたところで手が離れ、その手は次に頬を包んだ。
 手のひらの心地よさに目を閉じたままほっと吐息を漏らすと、わずかに開いた唇に乾いたものが触れた。
 神之倉の唇だと認識した瞬間、体が熱を持つ。
 思わず手を伸ばし、腕から肩へ、肩から首筋へと探るように手のひらを滑らせて、神之倉の首に腕を巻きつけた。
 それに応えるように神之倉の手が格の背に回され、舌が唇を割る。
 口腔を弄うそれはやさしく、激しさはない。だが、決して不躾に暴れ回らないそれが逆にもどかしく、また同じくらい甘くて、脳がとろけそうな恍惚に襲われた。
「…ふ…――」
 やがて、数秒にも数十秒にも思えたキスは熱い吐息とともに終わり、格は弛緩した体を委ねるようにして神之倉にもたれかかった。
 神之倉は小揺るぎもせずに受け止めて、立てた両足の間に格の体を収める。
 すっぽりと抱きしめられ、その腕の優しさに甘えるように額を肩口に押し付けて、白いワイシャツをぎゅっと掴んだ。
「……ずるいよなー……」
「何がだ?」
 ぽつりと漏らされた非難に、神之倉は不思議そうに問い掛ける。
「俺ばっかメロメロにされてる気がする……」
「今のは駄目か?」
「――気持ちよかった…」
「そうか」
「うん…。でも…そのうちリベン、ジ……」
「…格? 眠いのか?」
 半ばうっとりとしていた口調がだんだんゆるやかになってきて、語尾が曖昧になった格の顔を神之倉が覗き込んだ。
「ん……ちょっと疲れたかな…」
 格は落ちかけていた目蓋をこじ開け、神之倉を見て答える。風呂から上がるまではさほど感じていなかった眠気と疲労に急激に襲われていた。
「短い間にいろいろあったからだろう」
「ああ…うん、そうかも――」
 思えば、ルリと初めて会ったのが8日前だ。
 そして5日前に、以前から憧れていた武原洋と会うことができ、仁武流に入門した。同じ日に出会った明とはいきなりすれ違い、今日やっと、正面から向き合うことが出来た。
 たしかに短い間にいろいろとあった。
「おやすみ。ゆっくり眠りな」
 神之倉の低い声が耳元で響き、手のひらがあやすようにゆるやかに背中を叩く。
 その心地よさに、格は体の欲するままに目を閉じた。
 ひどく疲れてはいたが、それほど悪くはない疲れだと、薄れゆく意識の中で思った。


 夢も見ないほどぐっすりと眠り、唐突に目が覚めた。
 昨夜の疲れが嘘のように抜け、心身ともにすっきりとしている。
 全て夢だったのではないかとまで思い、仰臥して見慣れた自室の天井を見上げたまま、左足で右足首に触れてみた。
 確かに包帯が巻かれている。どうやら現実だったようだ。
 そこでふと、枕の堅さがいつもと違うことに気付いた。もう少し柔らかかったはずだよなと、視線を右に向けてみる。
 すると、そこに見覚えのある手が見えた。
――え…?
 格からは、白い袖口から伸びた手首から手のひら、そしてその先に続く指が見える。つまり、手首より上――腕の部分は格の方にあるということだ。
 格はそろそろと視線を巡らせ、今度は左側を見てみた。
 白いシャツの肩、くつろげた襟。上目遣いで見上げると、喉元、短く髭の生えた顎、薄く開いた唇、閉じた瞼――神之倉の顔。
――…えええ!?
 親鳥の運ぶ餌を待つ雛鳥よろしく口がぽかっと開いたが、驚きのあまり声が出なかった。
――えーと、えーと、これって、この体勢って、腕枕? マジで? なんで!?
 最近は寝起きに突撃することもあるが、まだ一度も神之倉の部屋に泊まったことはない。
 神之倉がいる時はうまいこと帰されてしまい、いない時には「いい時間に帰れ」と言われていることもありなんとなく気が引けて、うたた寝程度ならしたことはあっても朝まで寝てしまうことはなかった。
 格がどんなにねだっても、襲っても、神之倉にはキスから先に進ませてくれるような隙はなく、同じベッドで横になったこともない。
 だいたい、神之倉の寝顔を初めて見たのもほんの最近なのだ。
 こんな、腕枕で目覚めるなどという状況は妄想の範囲内でしかなかった。
 気配に敏いので氷上ですら滅多に見たことがないという神之倉の寝顔が、すぐ目の前にある。
 据膳、という言葉が頭の中を駆け巡った。
 一晩気付かずに寝こけていたとは、なんともったいないことをしたのだろう。
――どうしよう……
 触りたい。ものすごく触りたい。けれど、もったいなくて動けない。
 渦巻く葛藤に雁字搦めになって、指一本動かすことも出来ずに寝顔を見つめ続ける。
 するとふいに、すっと神之倉の瞼が開かれた。
「…おはよう」
「あ、おっおはよ…っ」
 本当に眠っていたのかと疑いたくなるほどすんなりと目を覚ました神之倉の朝の挨拶に対して、呪縛が解かれたかのように硬直の解けた格が慌てて体を起こす。
 それに続いて上体を起こした神之倉の首筋から襟の開かれた胸元にかけてが、やけに色気を放っているような気がして、格は跳ねる心臓に静まるよう懇願した。
「携帯か何かが鳴ってなかったか?」
「な…なんで腕枕?」
「え? …ああ――眠っちまったお前をベッドに運んで帰ろうとしたんだが、ワイシャツを掴んで離してくれなくてな」
 言われて目を凝らすと、腹の上あたりの布地に不自然に皺が寄っている。相当強く握り締めていたようだ。
「シャツだけ脱いで帰ってもよかったんだが、お前が掴んでたのがちょうどボタンの上だったんだよ。手を開かせようとしたんだが、よく眠ってたから起こしたら可哀相だと思ってな」
「ご、ごめん……」
 ベッドに運んでもらった時に目を覚ましていれば色っぽい展開に持ち込めたかもしれないのにと自分を責めるべきか、腕枕をせしめてグッジョブ俺!と褒めるべきか。
 狭いベッドで神之倉に窮屈な思いをさせてしまっただろう申し訳なさと複雑な思いを胸に謝った格の頭を、神之倉の大きな手が撫でる。
「謝らなくていい。それより、携帯鳴ってただろう」
「携帯? 携帯どこだっけ?」
「ダイニングテーブルの上にあったぞ」
 そういえば帰宅してそこに置いてそのままだったような気がする。しかし、マナーモードにしていたはずなのにこの部屋から聞こえるものだろうかと不思議に思いながら、格はベッドを降りてダイニングへと向かった。
 すると神之倉の言う通り、格の携帯電話はダイニングテーブルの上に置いてあった。そして確かに数分前に着信もしている。
 起きていた格は全く気付かなかった微かなバイブレーター音を聞き取って目覚めるとは、気配に敏いにも程がある。
 常にものすごく眠りが浅いのではないかと心配になってきて、続いてダイニングにやってきた神之倉を振り返ったが、眠そうな様子もなく顔色も通常だ。
「どうした?」
「…なんでもない」
 問い掛けた神之倉に首を横に振って、格は携帯電話の文字盤を操作した。
 留守電に、電話を掛けて来た相手からのメッセージが入っていた。

 見送り用の入場切符を買って改札を通り、階段を一段飛ばしに駆け上がる。
 ホームの端から進行方向へと視線を巡らせながら小走りに移動すると、ホームのやや前よりの位置に目的の人物を見つけた。
「ルリ!」
 手前から呼ばわると、それに気付いて振り向いたルリは驚いた顔をした。
「見送りに来てくれたん?」
 留守電に入っていたメッセージはルリからのもので、これから大阪に帰るということと謝罪と感謝の言葉だけが残されていた。
 神之倉が駅まで送ってくれたおかげで、どうやら間に合ったらしい。
 気を利かせたのか、すぐ近くに立っていた伊藤と倉橋が少し離れたところに移動した。
「昨日は来てくれてありがと。それからごめんね。昨日だけじゃなくて、いろいろ…」
 ルリは俯き加減で謝った。
 昨夜はかなりの時間涙が止まらなかったのか、まだ少々目が赤い。
「無事で良かった。でもさ…もうちょっと自衛してもいいと思うぞ」
「それは――うん、反省してる。だからこれ」
 ルリは決まり悪そうに答えて、スカートの裾を少し広げてみせた。
 今日のルリは、襟ぐりと袖にギャザーの入った白地に小花柄の膝丈ワンピースを着ていて、これまで見た中で一番露出度が低い。
 化粧も控えめで、初めて会った時の挑戦的な雰囲気は薄れている。
「すごく似合ってるよ。可愛い」
「…ありがと」
 素直に誉めた格に、ルリはこの日初めての笑顔を見せた。
「伊庭さんは?」
「パパは挨拶回りしてから帰るって。……ゆうべ話せたよ。1時間くらいやったけど、いままでで一番話したかも」
「そっか。よかったな」
「自然に話せるようになるにはまだ時間は掛かると思うけど、愛人疑惑はとりあえず晴れたわ」
 ルリは苦笑し、伊庭の探していた女は山陽会会長の昔の恋人らしいと告げた。
 そんなことを軽々しく話してよいのかと格は止めたが、首を横に振って、
「誰に話すもお前に任せるって言われてたんやけど、格には聞く権利があると思う」
 ときっぱりと言い切って、ルリは話し出した。
 ずいぶんと若い頃に別れた女だったが、彼女にどうしても渡さなくてはならないものがあり、長らく探していたのだという。
 最近になって、その女が余命幾ばくもなくどうやら東京近郊にいるらしいと判明した。しかし、関西最大会派の会長が何日も私用で動くことはできない。
 そこで、最も信頼している片腕にそれを託した。
 だが伊庭が関東に赴き、どこの組に働きかけるでもなく少人数で動き回っていてはどうにも怪しい。そのことで余計な憶測を呼ばないよう、山陽会会長自ら荻生会会長に斡旋を頼んだ滞在先が古賀沢組だったのだそうだ。
「会長さんがそこまでして頼んできたことやし、今日死んじゃうかもしれないような人を探してたんなら、この通りぴんぴんしてて大阪に帰ってから話す時間のあるあたしを後回しにするのも仕方ないっていうか、わからなくもないっていうか――」
 納得はできた、とルリは続けた。
 格が蒔麻に頼んでルリの危機を知らせてもらった時に伊庭は千葉方面にいたが、探し人に会いに行っていたのだろう。
「それ以上詳しいことは聞かなかったけど、それは知らないままでいいかなって」
「…だな。そう思うよ」
 関西最大会派の会長にまで上り詰めた男から、そうまでして頼まれた。しかも“親”と定めた男からの頼み事なのだ、動く理由はそれだけで十分だ。
 そして、伊庭でなければならなかったのは、武原のことがあったからかもしれない。
「新幹線……何時?」
「……あと7分」
 格の問いに、ホームの電光掲示板を仰ぎ見たルリが答える。
 たった8日前のことがすでに懐かしく感じるほど様々なことがあり、ルリの表情も8日前に比べて穏やかだ。だが、少し沈んでもいる。
 どう声を掛けたらいいのか躊躇していると、ルリは格の顔をじっと見つめて真顔で言った。
「――あたし、やっぱり格のこと好きやわ」
「…ありがとう。だけどゴメン、駄目なんだ」
 寄せてくれた気持ちに対する嬉しさを礼の言葉にこめる。けれど、きっぱりと拒絶もした。
 時を経ればどうにかなるものではないのに、曖昧に濁しでも意味がない。
 ルリが俯いた。肩を滑り落ちた髪で顔が隠れ、手にしていたバックを持つ手に力が入る。
 泣かれてしまうかと思ったが、顔を上げたルリは笑みを浮かべてみせた。
「うん、わかってる。……わかっちゃった、格の好きな人」
――え…?
 無理矢理作った笑顔とともに放たれた言葉に、格は呆然と立ち尽くす。
 急激に心拍数が跳ね上がった。
「年の差はあるけど、3年くらい頑張ればバッチリ守備範囲なんやないかな」
 表面上は変化のない格の胸の内の混乱には気付かず、顔に笑みを張り付けたルリは続ける。
 高校に入学したら――という神之倉の出した条件を知っているかのようなセリフに、どっと冷や汗が吹き出た。
「なん…で…?」
 辛うじてそれだけが乾いた喉から漏れる。
「昨日…あの店から出たとき来てたやろ、あのひと。それ見た格の顔でわかっちゃった」
 たしかに神之倉の姿を見た途端、驚きとともに嬉しさと安堵が溢れた。表情に出てしまっていてもおかしくない程に強く。
 だがそれを、泣いていたルリに見られていたとは思ってもみなかった。
「悔しいけど、気持ちは解らんでもないわ。背とか高くてかっこええし、迫力もあるし――」
「ルリ」
「なん?」
「頼む……黙っててくれないかな、この事。誰にも言わないでいてくれると助かる」
 格は頭を下げ、出来うる限り真摯に心を込めてルリに頼んだ。
 今すぐ公言しても構わないのなら、自信を持ってこれが自分の好きな人だと言えるほど惚れている。
 けれども神之倉の立場を考えれば、ろくでもない噂を立てられたり、自分の存在がアキレス腱になってしまうようなことは喜ばしくはない。
 己のことには驚くほど大雑把な神之倉のことなので、それくらいたいしたことじゃないと言うかもしれないが、神之倉の名に傷が付くのも足手まといになるのも、避けられるならば避けたかった。
 誰もがルリのように思ってくれるわけではない。
 ルリは驚いた様子で目を瞬いたが、軽く息を吐いて真顔で頷いた。
「…ええよ。相手、組長さんやもんね。変な噂とか立てられたら組長さんの方が困るし」
「え?」
「え? って?」
「あ、うん…そうなんだ。迷惑かけたくないから――」
 格は咄嗟に肯定した。
 たしかにあの時、神之倉の隣には蒔麻がいた。間違えられても不思議ではない。
 ルリの勘違いに乗じて嘘をついたことと、身代わりにしてしまった蒔麻への罪悪感に、ちりちりと胸が痛む。
 だがルリが格の様子を訝しがるより早く、頭上にあったスピーカーから駅員のアナウンスが流れ、新幹線がホームに滑り込んできた。
 停車時間はあまりないようで、ホームで待っていた乗客達がいそいそと乗り込んでいく。
 ルリも、倉橋と伊藤が乗り込んだ乗車口から後に続き、ホームに立つ格を振り返る。そして、少し逡巡してから言った。
「あの……明っていったっけ? あいつにも一応お礼言っといて」
「うん、わかった」
 初対面の印象は良くないだろうが、素直にとは言えなくとも感謝の意を表したルリに、格は笑顔で了承する。
 少しの沈黙。
 それを割くように発車を告げるベルが鳴る。
「格……」
「ん?」
「餞別もらっていい?」
 そう言うなり、ルリの両手がおもむろに伸ばされ、その手が格の頬を挟んだ。
「え? な…!?」
 包むというより掴むと言った方が正しい乱暴なそれに面食らっていると、ふいにルリの顔が近付いた。
 そして、避けるまもなく唇を奪われる。
 完全に油断していた格は上手く避けるどころか、軽く触れるだけでも啄む程度でもなくしっかりと唇を重ねられてしまった。
 時間にしてほんの数秒。発車ベルが鳴り終わると共に唇と手は離れ、ルリがにっこりと笑う。
「ごちそーさま」
 そのひと言で我に返った格が何かを言い返す間もなく扉が閉まる。
 ドアのガラス窓の向こうのルリが、ひらひらと手を振った。
 その目が涙目のように見えたのが気のせいなのかどうかはっきりと判らないまま、白い車体は徐々にスピードを上げ西へと走り去っていった。
 ホームに残った格は、しばらく線路の先を見つめていたが、やがて思い出したように唇に触れた。
 しっとりとして柔らかかった。甘やかな、いい匂いがした気もする。
 ルリを嫌っているわけではなく、女性に対する嫌悪感も全くない。潔癖性の気もないので、当然と言えば当然なのかもしれないが、嫌な気持ちはまるでなくむしろ心地よかったと思う。
 だが、神之倉との体の芯に火がつくような熱さに満ちたキスとは違い、家族や親しい友人とハグをした時の感覚と似たものしか感じないのは、やはり抱く想いの差だろうか。
 唇から離した手で、Tシャツの胸のあたりを掴んだ。
 寄せてくれた思いを受け止めるだけで応えられないのは、少し辛い。いつか再会した時には、このほろ苦さも薄れているのだろうか。
 ふと強い陽射しを感じて顔を上げると、線路の上の開いた屋根の間から青い夏空が見えた。
 眩しさに目を細め、手をかざす。
 どこまでも続く、高く広い青さに吸い込まれるように目を閉じ、深呼吸をひとつ。
「――さて、と。一旦家に帰って、部活行って、道場行くか」
 乱取りや組み手は無理だとしても、見取り稽古はさせてもらえるだろう。
 大きく伸びをして、格は踵を返した。


−終−



Series index ←前次→
 
アンケェトフォーム→

Copyright(c)2007.07.13- Haruka Sumeragi Rights Reserved.



広告 [PR] ネットスーパー お取り寄せ お試しセット 無料レンタルサーバー ブログ blog