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【第2部】Vol.2 ブルースカイ・ブルー (8)
着替えに行った明は誰にも見つかることなく道場に戻り、同じく着替えて待っていた格共々、数十分後には渋谷に着いていた。
到着してすぐ、格は1本の電話を掛けた。
どうすべきか電車の中でもさんざん悩んだが、やはり何かあろうとなかろうと「知らなかった」では済まされないのではないかと思ったからだ。
タイミングが良かったようで、掛けた電話には蒔麻が直接出た。
『……わかったわ。すぐに伊庭さんに連絡とるから。あの子のお目付役の2人と、あとうちからも何人か向かわせるわ』
蒔麻は軽く息をついたのみで、落ち着いた声でそう言った。
「ごめん、忙しいのに…」
『大丈夫よ。格くんが謝ることはないわ』
格に向けられる蒔麻の声は、いつものようにやさしかった。
いくら古賀沢の客人の娘だろうと、本来ここまで世話を焼いてやる義理はない。古賀沢が絡んでいるならともかく、ルリの自業自得といえなくもないのだ。
格はただ知らせておこうと連絡をしただけだったが、知らせを受けてどうするかを決めるのは蒔麻であって格ではない。だが――
「あの、さ……」
『…なあに?』
言いづらそうに口ごもった格を、蒔麻がやさしく促した。
格は一度ためらったのちに続きを口にした。
「勝手言うようだけど、ヤバそうだったらすぐ連絡するから、しばらく手ェ出さないでくれる?」
『――…ええ、そうね……。その方がいいかもしれないわね』
言葉の真意を蒔麻はすぐに察してくれたようで、格の生意気ともいえる物言いに頷いてくれた。
何もなければないにこしたことはない。だが万一何かあって、その何かがルリにとって不都合だった場合――それを知る者は少ない方がいいと、格は思ったのだ。
蒔麻は、居場所だけはちゃんと教えてちょうだいねと言って電話を切った。伊庭に連絡がついたらなんらかの方法で知らせてくれるだろう。
そして格は雑踏を掻き分けるようにして、離れて待っていた明のところへと戻った。
「待たせてごめん」
「ルリって子の親、来るって?」
「連絡取ってみてもらってる」
「で、詳しい場所はわかんねーんだよな? どっから探す?」
「とりあえず道玄坂かな。最後、そう言いかけてたから」
格は進む方向を指差し、明はそれに頷いてそちらへ足を向けた。
「そんじゃ…ひゃ!?」
「そんじゃひゃ?」
歩き出そうとしたところで急に放たれた明の裏返った声での意味不明のひと言に、格が訝しげに振り向く。
明は、大げさなほどに緊張した面持ちで己の携帯電話を見つめていた。
「……明?」
「……やっぱ来た」
雑踏の中での騒がしさで聞こえなかったが、近寄ってみると確かに明の携帯電話が震え、それと同時に着信メロディも鳴っている。
向けられた液晶画面に浮かぶ文字を確認すると“オヤジ”とあった。
「……って…これ――師範?」
念のために確認すると、明が黙って頷いた。
しばらく反省していろという言い付けに背き、何も告げずに出て来たのだ。電話をとらないわけにはいかないだろう。
予想される怒りへの恐怖のためか、意を決して応答ボタンに指を乗せた明の喉がごくりと鳴った。
「……もしもし…?」
『――いい根性してるじゃねえか、明』
聞こえて来た武原の低い声に、明の肩が大袈裟に震える。
拡声ボタンを押したらしく、そばにいる格にもその声は聞こえて来た。
『当然、納得のいく言い訳をしてくれるんだろうな?』
むしろ優しげといっていい口調で武原が尋ねてきた。だが、感情がコントロールされた冷静な声で、それが逆に恐ろしい。
『…? 後ろうるせえな。どこにいるんだ?』
「――渋谷」
『渋谷ァ!?』
「格も一緒。いま代わる」
「えっ!?」
突然振られて大袈裟に心臓が跳ね、格は思わず胸を押さえた。
だが確かに、説明すべきなのは明ではなく格の方だ。又聞きの弁解よりは幾分かましかもしれない。
格は明から携帯電話を受け取り、深呼吸をひとつして電話を耳に近付けた。
そして、事の経緯を掻い摘まんで話す。
事情を隠したままひたすら勝手を詫びることも考えたが、格は正直に話すことを選んだ。
会ったことはないようだったか、伊庭に娘がいることを武原は知っていた。話さなかったとしたら、おそらく彼は怒るだろう。
『それでその彼女は、お前にとってなんだ?』
伊庭より先にその娘と知り合ったこと、いろいろと相談を受けていたこと、助けてくれと電話があったこと――そんな大まかな説明を聞き終わると、武原が尋ねてきた。
「ともだち、です」
そうとしか言いようがない。
知人というには知りすぎている。同志めいた感情を覚えたのは格の方だけで、ルリはそうではない。
そして、ルリの気持ちには答えられない。
『優しいってのは時として罪なもんなんだぜ』
武原はそう言って苦く笑った。
心を読まれたかのようでどきりとしたが言い返せない。
内心盛大に狼狽えている格に気付いたのか、武原はすぐに「ほっとけない気持ちはわからんでもないけどな」と続けた。
『それに、他の誰でもなく自分を頼りにしてくれた奴を見捨てたとあっちゃあ、男が廃るってもんだ』
肯定してくれた武原に、格はほっと胸を撫で下ろす。
そうなのだ。恐れと動揺の中で助けを求めてきたルリを見捨てておけない。
すると、軽い調子で武原が言った。
『俺も行こう』
「えっ、あ――大丈夫です、伊庭さんにも連絡取りましたから」
『格?』
「大丈夫ですから」
来てくれると言ってくれたことは嬉しかった。だが、手を貸してくれとは言えなかった。
現況も、相手の人数も、確かな場所すらもわからないが、大阪には絶対に戻らないと言っていた武原をこれ以上伊庭と関わらせるべきではないと思うからだ。明がここにいるからには無関係とは言えないが、それでも武原を巻き込みたくはない。
明にしても、伊庭や古賀沢が極道として深く関わる事態になるようなら、怒らせることになっても帰れと言うつもりでいる。
『――馬鹿野郎。余計な気をつかうな』
格の心中を察したのか、武原は大きく息を吐いたあとにそう言った。声に怒りの色はない。
『わかったよ。他に借りる手があるのなら、お前の言う通りにしよう。だが少しは手伝わせろ』
「え?」
『そこで15分待ってな』
それだけを言って、武原は電話を切った。
問いかけるべき相手を失って、格はその息子の顔を代わりに見遣る。
「15分って…?」
まさか15分でここに来る気なのかと思ったが、渋谷にいるとは伝えても詳しい場所までは口にしていない。しかも武原の自宅からここまでは、車やバイクを飛ばしても15分では辿り着かないはずだ。
問いかけられた明は、肩をすくめて首を傾げた。
「わかんねえけど、無駄なことはやらせねえと思う」
正直なところ時間が惜しい。だが、武原が言う通りにするといい、明が無駄なことではないと言うなら、それを信じることにする。
とりあえず、じりじりと照りつける陽光とアスファルトからの照り返しを避けるため、待ち合わせのメッカである犬の銅像の周辺にある木陰に移動し、ちょうど空いていた場所に並んで腰を下した。
「痛ぇか?」
ゆっくりと息を吐いて足元に視線をやった格に向かって明が尋ねた。
格は首を横に振って笑って見せる。
「大丈夫。違和感は少しあるけど、たいしたことねえから」
「母ちゃんにテーピングしてもらえればよかったんだけどな」
「佐月さん? なんで?」
「母ちゃん、その手のことはプロ級だから。大学では今で言う…なんだっけな? ――ああそうだ、スポーツ医科学とかなんとかってのを専攻してたんだぜ」
予想していなかった答えに格は目を見張った。
初めて会った日のアクティブな服装も似合っていたが、受けた印象は“柔らかくあたたかい”だった。そして次に稽古に行った日には、たしかシンプルなデザインの真っ白なワンピースを着ていた。柔らかな印象と相俟ってなんとも美しかったことを思い出す。
どうやら初日に聴いたピアノは和が弾いていたらしく、佐月は和はじめ数人に自宅でピアノを教えているのだと、後に武原から聞いた。なるほどそれはあの白いワンピースの佐月とイメージが合致する、と思ったものだ。
初日以来まだ長く話したことがないのもあり、格の思い浮かべる佐月は“洋邸宅のお嬢様”といった風情なのだ。
「イメージじゃねえ?」
明の問いに、格は素直に頷いた。
「学生時代はなんかスポーツやってたとか?」
「全然。運動神経は悪くないけど、若い頃に護身術代わりにじいちゃんと親父に空手習ったことがあるくらいだって」
「じゃあなんで……」
「超がつく洋バカだからだと思う」
「よ…ば…って――」
皆まで言えずに格は口ごもった。
惚れているのも度が過ぎれば馬鹿が付くのかもしれないが、息子に言われるとは佐月も思っていないだろう。
「だってさ、高校ン時は親父の空手部のマネージャーだったし、大学だって将来親父のサポートするために選んだっつーし。ピアノ歴すげえ長いから、そっち方面にも行けたのにさ。親父もそうするもんだと思ってたらしいし。べたべたイチャイチャする親じゃねえけど、そういうのより余計あてられると思わねえ?」
明は呆れたようにため息を吐いたが、その口許には笑みがある。
「でもさ、自分の親がすげー惚れ合ってるのって、子供としちゃ幸せだと俺は思うけどな」
「ま…な」
照れくさそうに視線をそらしたが、明は格の言葉を否定しなかった。
そんな明を微笑ましく見守って、武原と佐月が並んで立つ姿を初めて見た時のことを思い浮かべる。
守られるだけではない強さが佐月にはあり、武原もそれをわかっているように見えた。
強い信頼と愛情で互いを認めて寄り添っている、その何ともいえない侵しがたい空気を思い出す度、自分もそんな風になりたいと思う。
いますぐには無理でも、いつか対等に、神之倉の隣りに在りたい。
「なあ……ルリって子はお前の彼女じゃねえって言ったよな?」
「え? ああ」
「じゃ、他に好きな子いる?」
「……うん、まあ…」
「どんな子?」
「…何だよ突然」
ちょうど神之倉のことを考えていたので、格は一瞬答えに詰まった。もしや自分でも気づかないうちににやけた顔でもしていたのかと思わず顔に手をやる。
明は照れたように顎を掻いた。
「親父と母ちゃん見てっとさ、好きな人がいるってうらやましいなーとか思ったりもしてさ」
「明はいねえの?」
「ん〜…まだそういうのはなあ――だから参考にお前の話聞きたいなって」
「……」
「なんだよ、どんなコかってのも聞いたらまずい相手?」
「いや、そういうわけじゃ」
――あるけど。
格は言葉を切って明を見つめた。
話してしまおうか、という思いがよぎる。
気味悪がられても、蔑まれても、誤魔化したり嘘をついたりするほうが辛い。
なぜだろうか、明には常に正面から向き合っていたいと思ってしまう。
これ以上長い沈黙はあまりに意味深だろうかと、一度視線を逸らして再度明を見た。見られた明は、不思議そうな顔で瞬きをする。
何を言おうか考えるより先に唇を開きかけたところで、明の手の中の電話が震えた。
「親父からメールだ」
「え? あ」
明がフリップを開いたところで己のズボンの尻ポケットも振動していることに気付き、格はあわてて自分の携帯電話を取り出した。
こちらも電話ではなくメールで、差出人は蒔麻だった。
伊庭は千葉から東京に向かっている――とあった。
この文面からでは、ルリの話していた“女”を探すために移動しているのか、ここに来てくれるつもりなのかはわからない。
来てくれと祈るしかなかった。ルリのために。
「なんだこれ?」
隣の明が首を傾げて呟いた。
携帯電話をポケットに戻して明の方を見ると、液晶画面を格へと向けて見せてくれる。
何らかの名称が、10個ほど羅列してあった。
「これ、師範から?」
「そう。でも何だ、これ?」
明が尋ねたが、格にもなんだかわからない。
2人で首を捻ったところで、明の携帯電話がもう一度震えた。今度は電話だったようで、明はすぐに応答ボタンと拡声ボタンを押した。
『メール見たか?』
開口一番、武原はそう言った。
「見たけど、何これ?」
『知り合いに、渋谷道玄坂近辺でビリヤード台があってその手のガキどもが屯ってそうな場所をピックアップしてもらった。最新情報ってわけじゃねえからなくなってる店もあるだろうが、闇雲に探し回るよかマシだろ』
どうやらそれを、明の携帯に転送してくれたようだ。確かにそれならばだいぶ探しやすくなる。
それが個人の住居でなければ、店舗であれ会社であれ、どこかしらに看板は出ているはずだ。名を尋ねれば知っている人間もいるだろう。
「サンキュー、オヤジ。これで結構楽だよな、格?」
「ああ。ありがとうございます、師範」
話を振られた格は頷き、明の差し出す携帯電話に顔を近付けて武原に礼を言った。
“その手のガキども”の根城になりそうな場所など、普通に暮らしている人間に訊いてもわからないだろう。それを15分という短い時間で調べてくれた迅速さと武原の交友関係に感謝する。
明が何も尋ねなかったところをみると、神宮寺曰く武原が“ヤンチャなガキども”だった頃の話を聞いていたのかもしれない。
『お前たち』
武原に呼ばれ、2人ともはっとして耳を澄ませた。何気ない口調だったが、心して聞かなくてはならない何かが込められているように感じられたのだ。
『状況に応じた多少の無茶はかまわん。だが、無理だと感じたらよせ。無謀なことはするな。いいな?』
その声はさほど深刻でもなく、稽古の最中にちょっとしたアドバイスをするような調子であったが、言葉の意味するところはそれほど簡単なことではなかった。
「わかってる。オレらだけじゃねえしな」
武原に応じて格に視線を送った明に、格は頷いてみせた。
ルリを無事に連れ帰るのが第一だ。
武原は、それ以上はくどくどと言い募ろうとはしなかった。
あとはただひと言、「何かあったらいつでも呼べ」とだけ言い、それを最後に電話は切れた。
武原は一度も、やはり行くとは言い出さなかった。大丈夫だと言った自分を信じてくれたということが、格は嬉しかった。同時に、それに応えなくてはとも思う。
明が改めて店の名前の列記されたメールを表示させ、格に携帯電話ごと手渡した。そして格の肩を拳で軽く小突く。
「行くか」
「ああ、行こう」
答えた格は歩き出しながら明の背をぽんと叩いた。
そして2人は、スクランブル交差点の雑踏の中へと足を踏み入れた。
まず道玄坂に向かった格と明は、足で探すことを選択した。
つまり、歩き回って該当する店の看板を自ら見つけようというのだ。
最初は近隣の店の店員に尋ねようとしたが、この近くに屯しているのなら店員と顔見知りという可能性もあり、そこらを行く通行人に聞いて回るにも、それが男達の仲間だったらまずいことになる。だが、男達とは関係なさそうな人間に尋ねても、知らない分からないという答えが返って来るだけだった。
いくつかの看板はすぐに見つかった。だが、人気がなかったり、開店前で鍵が閉まっていたりと、何人もの男達が中にいるような気配はない。
渋谷に着いてそろそろ2時間になる。徐々に焦る気持ちも大きくなっていた。
そんな頃だった。
すれ違った3人の若い男達が交わしていた会話の中に「ビリヤード」「勝ち抜き戦」「女が」などという単語か混じっていた。
格と明は咄嗟に男達の後を追った。通行人に紛れ、少し距離を取り、無防備な背中を追尾する。
男達は声を顰めることもせず、女は1人だけだがなかなか上玉らしいなどと話している。
やがて3人は、人通りの多い通りから路地へと入っていき、1軒の店の中に入っていった。
額を付き合わせて武原から送られてきたメールを確認すると、確かに表に出ている看板と同じ名がメールの中にも記されていた。
「ここ…かな」
「だな」
頷き合って少し離れた所から観察すると、どうやら酒場でもあるらしく、看板に19時オープンだと書いてあった。
営業時間内なら客として入ってルリを探すという手も使えるが、いま正面から入っては強行突破しか道はない。入ってすぐそこにルリがいるならばいいが、そうでないならただ無謀なだけだ。
周囲をそれとなく窺ってみることにし、裏手に回ってみる。150センチほどの高さの塀の向こうに裏口らしきドアが見えたが、塀自体に出入口はなかった。
だが裏に面した道は、多くはないが人通りが絶えない。
裏通りには夜から営業と思しき飲み屋やライブハウスらしき店が数件並んでいるので、忍び込むなら客足のない昼間のうちだろう。
「少し様子を見よう」
「ああ。人通りが絶えた時がチャンスだな。30秒もありゃ越えられる」
格の意見に明も頷き、2人は通りが見える場所でしばらく待つことにした。
ただ突っ立っているだけでは怪しまれるので、近くの自動販売機で缶ジュースを買って、並んで植え込みに座り込む。
格は、伊庭に伝えてくれと書き添えて、店の名前と場所を記したメールを蒔麻に送った。
建物の影で陽射しは遮られているが、熱せられたアスファルトが体感気温を上げている。流れる汗を手の甲で拭い、腕時計に視線を落とす。
電話を寄越してからルリはどうしていただろうかと思いをめぐらし、格は中身をひと口あおったアルミ缶の縁を軽く噛んだ。
怖い思いをしていないといい。それが誰であれ、年下だろうが年上だろうが、格は女に泣かれることに少々弱い。
「――明」
ふと気付き、格は明の肩を叩いた。
人通りが絶えている。
「先行け。塀に背中つけて手ェ組んで、手のひらは上な。軽く上げてくれりゃいいから」
頷いた明にそう言われて押し出され、格は明を残して走り出した。
明の次の行動をなんとなくイメージしながら、たどり着いた塀に背を向け、手のひらを上にして指を組んで中腰になる。
視線を向けると明はすでに走り出しており、格が壁に背を向けた数秒後には地を蹴っていた。
組んだ手のひらの上に明の片足が乗ると同時に、ほんの少しだけ上方へと力を入れる。
明の体はボールのようにぽーんと飛び上がり、塀の上に着いた手を支点にしてその脇にふわりと着地した。
そしてすぐに伸ばされた手を掴み、格も壁に足を掛ける。引っ張られる力を借りて天辺まで上ると、明は先に飛び下りて、格に向かって手を差し延べた。
女の子のような扱いだと思ったが、捻挫した足を気遣ってくれてのことだとわかるので、ありがたく手を借りる。おかげで片足で着地することが出来、痛めた足には一切負荷はかからなかった。
「猫みたいだな、明」
「ああ、それだとカッコイイかも。親父は猿だって言うからなあ」
小声で軽口を交わしながら、最初に覗いたときに目星をつけていた裏口らしきドアへと向かう。
ここが開かなければまた仕切直しだ。
格は鉄の扉のドアノブを握った。
開いてくれ!と祈りながら、そっとノブを回す。
回しきって手前に引くと、ギッと微かな音を立てて扉が開いた。
明が親指を立てて頷き、身を屈めて先に滑り込む。どうやら食品の貯蔵室に続いているらしい。
後に続いた格はそっとドアを閉め、貯蔵室の入り口まで進んでその向こうの様子を窺っていた明の合図を待った。
振り返った明は手のひらを下に向けて“低く”というジェスチャーをしてから、指先で格を手招いた。
床を這って近付くと、話し声が聞こえてきた。明に近付くほどにそれは大きくなり、並んだときには会話の内容も聞き取れるほどになる。若い声が多いようだ。
体を低くしたまま、そっと貯蔵室からでると、幅が1mちょっとの空間が伸びていた。どうやらバーカウンターらしい。
貯蔵室からバーカウンターに出ることが出来、声の近さからしてバーカウンターの向こうの空間にビリヤード台が並んでいるらしかった。
室内は酒の臭いと煙草の煙で満ちている。
「準決勝終了〜」
一人がそう宣言し、やったと喜ぶ声とちくしょうと悔しがる声が混じった。
とりあえず間に合ったことは間に合った、らしい。
格が頭上を見上げると、カウンターの後ろにある棚に一部ガラス戸があり、そこに鮮明とはいかなかったが室内の様子が映っていた。
声の若さと服装から判断すると、比較的若い男達の集団のようだ。二十歳前後だろうか。
「どーする? ルリちゃん連れてくるー?」
「決勝終わってからでもいいんじゃね?」
「逃げようとされてもウザいしなー」
会話の合間に楽しそうな笑い声が響いた。
不用意にカウンターの向こうを覗くことも出来ず、振り向いた明が囁き声で尋ねる。
「どーする? ルリってのがここに連れてこられた時に飛び出すか?」
「いや……強いか弱いかはともかく人数は結構いそうだし、誰かがここに酒でも取りに来たらアウトだ。先にルリを探そう」
「探すつったって、どこを?」
眉を寄せる明に、格はカウンターの左斜め前を指差した。
「そっちに入り口があった。ルリを連れて来ようかって言ったヤツがそこに行こうとしてたから、そっちにいるはず」
「どっから見えたんだよ、そんなん」
明の疑問に、格は頭上を指差してガラス戸の存在を教えた。
ガラス戸に映る室内を確認した明の唇がにやりと笑みを刻む。
格はガラス戸を睨むように見つめながら明に問い掛けた。
「飛び込み受け身、出来るか?」
「もちろん」
すぐさま返ってきた答えに頷いて、格はカウンターの出入口へと進んだ。
最後の一勝負なら、皆エキサイトして熱中するはずだ。勝負が始まった時がチャンスだろう。
じゃあ始めるかと誰かが宣言し、ざわめきが一箇所に集まった。
どうやら敗退組で新たな賭けが始まったらしく、どちらにいくらだなどという声がする。
ギャラリーが思い思いの声援を上げ始めた。
ガラス戸に映るビリヤード台に2人の男が並んで立ち、それぞれキューを構えた。バンキングで先攻か後攻かを決めるのだろう。
合図の声と共に玉が突かれ、彼らの勝敗に賭けた男達が罵倒や奇声を上げ始める。
その声と共に格は体を起こし、前方に飛んで回り受け身を取りつつ無人のビリヤード台の下に滑り込むと、ガラス戸越しに見た出入口を探した。幸いドアではなくアーチ状に抜かれただけのもので、格は迷うことなくその場所へ転がるようにして飛び込んだ。
間髪入れずに明が続き、勢い余ってくるりともう1回転する。
どうやら誰にも気付かれなかったようで、男達の様子は変わりはない。
掃除しろよなーと埃だらけになった服を見てごちる明に、格の口許もつい緩んだ。
緊張感はしっかりあるのだが、2人だという心強さからか、いい意味での余裕が生まれている気がする。
だが、いつまでもここでのんびりしてはいられない。ビリヤード台の並ぶ部屋からは、丸見えとまではいかないがこの場所を見ることは可能だ。
短い通路になっているこの空間の突き当たりは、どうやらトイレらしい。
そして奥に向かって左側に、スタッフルームと書かれたプレートの貼ってあるドアがあった。
同じ所に目を付けたらしい明と頷き合い、明が出入口に、格は部屋の中に神経を集中させ、一気にドアを開けた。
「――あ…っ」
部屋の中にいた少女がびくりと体を震わせて顔を上げ、その顔がぱっと輝く。
明がドアを閉めると同時に、先に部屋の中へと入った格に飛びつくようにして彼女は抱きついた。
「いたる…!」
「――ルリ」
格は首にすがりつくルリの体を引き剥がし、静かにするよう唇の前に人差し指を立てた。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。まだ何もされてない」
そっと尋ねた格に、ルリは眦の涙を拭いながら頷いた。嘘をついている様子はないので、格はほっと胸を撫で下ろす。
そして、その時初めてルリの全身が視界に入った。
「……ルリ。昨日からずっと、その格好?」
「え? うん」
格の質問に、ルリは小首を傾げて答えた。
ローウエストのぴったりとしたショートパンツに蝶のモチーフのベルト、上着は五分袖に腰までの丈とルリにしては体を覆っているが、素材がシースルー生地のためビキニタイプのチューブトップがしっかり透けている。胸のあたりを一箇所リボンで結んで留めるだけの構造なので、当然腹部は晒され放題だ。
足は素足で、履いているのは華奢なミュールだった。
「なあに? 服がどうしたん? どっか変?」
心底不思議そうに尋ねるルリに、格は大きく深いため息をついた。予想はしていたが、あまりに予想通り過ぎる。
狙って露出の多い服を着ているのは確かなのだが、その反面男の目に対して無防備だ。
わざとだと思っていたが、どうやら半分は天然らしい。
格は着ていた袖なしのパーカーを脱いでルリに手渡した。
「汗臭いかもしんないけどこれ着てて」
「タンクトップ1枚の格もなかなかワイルドで目の保養やけど、なんで? 外寒いん?」
言われたとおりに袖を通しながらもまったく自覚症状のないルリに、どう言ったものかと格は宙を仰ぐ。
だが、格が何か言うより先に明が口を開いた。
「お前、バカだろ」
「バカぁ!?」
突然投げかけられた言葉にルリがカッとして声を荒げる。
「バカじゃん。そんな、足でも上げりゃあなんかはみ出そうなカッコして夜1人でフラフラしてたなんて、襲ってくれって言ってるようなもんだろーが」
「なんでいきなりそんなこと言われなあかんの! っていうかあんた誰!?」
格の思っていたことを端的にずけずけと言ってみせた明に、敵対心丸出しでルリが噛み付いた。
「だいたい初対面で人のことバカ呼ば…っむ、ぐ」
バカと連呼されたのが気に障ったようでさらに言い募ろうとしたのを慌てて引き寄せて、格はルリの口を手のひらで塞いだ。
もがく体を力で押さえ込み、すっとドアに身を寄せた明に目を遣る。
「――大丈夫。近くに人の気配はねえよ」
ドアの向こうを窺った明が小声で答え、格は詰めていた息を吐いた。
そのやり取りで、はっと我に返ったルリが大人しくなる。
気付いた格が手を離すと、掴まれていた手首をさするようにしながら悄然と肩を落とした。
「悪い、痛かったか?」
「平気。…ごめん」
己の非を認めて俯いたルリの肩を労るように柔く叩いて、格は謝罪の言葉を受け入れた。
ルリの無防備さを怒りたい気持ちは格にもあったが、数時間ひとりで不安の中にいたルリを殊更に責めるのは可哀相にも思う。
「俺の兄弟子なんだよ。ルリを探すのに手を貸してくれたんだ」
「あにでし…?」
「うん。同い年だけど、キャリアは俺よりずっと上」
ルリは明を一瞥したが、気まずそうに口を噤んだ。納得はしたようだが、初っ端の印象を拭い去るところまではいかないようだ。
明は気にした様子もなく格に尋ねた。
「で、どうするよ?」
「うん…」
格はしばし考え込んだ。
おそらく、蒔麻が向かわせてくれた古賀沢の組員の誰かが、この店の近くにいるはずだ。電話をかければすぐに来てくれるだろう。
ちらりと見た限りではビリヤード台に群がっていた男達には古賀沢と同業のバックなどはついているように見えなかったが、だからといって他の組の縄張り内で騒ぎを起こすことは本意ではないはずだ。
「行きと逆ルートで出よう」
格はそう結論を出した。男達がまだ勝負の最中なら、忍び出ることも可能だ。
そして3人は早速行動を開始した。長居する余裕も必要もない。
部屋を出て、足を忍ばせてビリヤード台の並ぶ部屋の入口まで進む。
いまだ勝負に熱中している男達に気付かれないように物陰を移動し、まず明がカウンターの中に飛び込んだ。
次に、体を低くして明の元まで行くよう格がルリに促す。誰も注目していないとはいえ、人間大の動くものが視界の隅に入れば気付く者も出て来る。3人いっぺんに動くよりも1人ずつのほうがいい。
先ほどのバカ連呼の余韻が残っているのかあまり良い顔をしなかったルリだが、再度強く促すと渋々足を踏み出した。
最も近いビリヤード台からカウンターまで隠れるところは何もないが、ほんの数メートルだ。
だが、手を伸ばせばカウンターに届くという場所で、男達が突然大声を上げた。
ルリがびくりとして立ち止まり、思わず男達のほうを見る。
しまったと格が思ったと時にはもう遅かった。
「ルーリちゃーん。なにやってんのー?」
ルリを見つけた1人がニヤニヤと笑いながら近付いてくる。
「優勝こいつに決まったぜ。約束覚えてるよな?」
どうやら決勝で負けたらしい男が、キューを肩に担いでルリに問い掛けた。
続いて、優勝者だという男が笑いながらビリヤード台を撫でる。
「場所も決めていいって言ったよね。どうせならこの上でしねえ? ギャラリーたくさんいて燃えるよー?」
「知らないわよ、そないな約束!」
立ち竦んだままのルリは、それでも男達をきつく睨んで言い放った。
「ひっでー。勝ったら好きにさせてくれるって言ったじゃーん。こんなにいっぱいヒト集めたのに、いまさらそれはないんじゃね?」
「知らないって言うてるやんか! あたし帰る。そこどいて」
怒りがそうさせるのか、関西最大組織の中核を担う男の娘としてのプライドか、助けに来てくれた人間がすぐ近くにいるという心強さのためか、ルリは僅かに表情を強張らせながらも背筋を伸ばして立ち、毅然として宣言した。
その姿に、男達の笑みが嗜虐的なものに変わり、場のざわめきのトーンが低くなった。1人の女を何人もの男で取り囲んでいるという余裕からか、怒りの色はそれほどでもない。
慣れた素振りからすると、こういうことをするのは初めてではないのだろう。
格はその場にいる男達の数を数えた。
目に見える限りでは23人。
近付いて来ている男を牽制してルリを先に裏口へ逃がすとして、ルリ共々塀を越えて逃げられるかどうか。
表に出ることを第一と考えれば、入り口からのほうがいいのかもしれない。
ひとりでルリを連れてこの人数を相手にするのは無謀だが、2人なら――?
そこまで考えて、格はカウンターの中に身を潜めている明を見遣った。
ちょうど格の方へと視線をやった明と目が合う。
明の口許が、笑みを形作った。
それで格の肚は決まった。
目を見て察したのか、明がそっと棚に手を伸ばし酒瓶を掴む。そしてそれを、カウンターの前に向かってひょいと投げた。
瓶の割れる音。飛び散る液体と、ガラスの欠片。
それらに男達の視線が一斉に集中した瞬間、格は物陰から飛び出した。
ルリに近付いていた男に体当たりを食らわせ、男が派手に吹っ飛んだ隙にルリを引き寄せて背後に庇う。
男の後に続いていた数人が色めき立ったが、カウンターを飛び越えた明が割って入り、あっという間に2人を床に沈めた。
「えーと……あと20人?」
人差し指で男達の人数をカウントした明が呑気に言い放ち、その余裕の態度に男達が殺気立つ。
だが明は慌てた様子も見せず、背後の格を振り返ってにっと笑った。
「じゃ、行くか」
「いつでも」
格も笑い返して軽く頷く。
相手は20人。だが、不思議と負ける気がしなかった。
「余所見してんじゃねえ! このチビが!」
視線を外した明に、激昂した男が怒鳴りつけつつ歩み寄った。
明の目がすっと細められ、距離を詰めた男が右肩に手をかけた瞬間、明の右手が閃き、男の頬に炸裂する。
強烈な裏拳に、男がもんどり打って倒れた。
「チビで悪かったな、ゲス野郎」
男に向かって明が中指を立てたが、完全にダウンしてしまった男からはなんのリアクションもない。
そして、それを合図にするかのように男達が襲いかかってきた。
ある者は素手で、ある者は手近にあったものを武器に、思い思いの方向から殴りかかってくる。
まさしく文字通り乱闘状態に陥った。
「格! 背中!」
声と共に振り向くと、明が格めがけて走ってくる。視界の右隅に2人の男を認めた格は、さっと身を屈めて頭を下げた。
明はスピードを緩めずに走り寄って格の背に手をつき、飛び越えた反動を使って2人の男に鮮やかに蹴りを放つ。
蹴りは見事に決まり、相次いで倒れた男達はすぐには起きあがれそうにない。
一方、着地もきれいに決めた明はすぐに立ち上がり、また走り出す。
すれ違いざま差し出された明の左の拳に、格が右の拳を軽く打ち当てると、明は楽しげな笑顔を浮かべた。
この状況で大した余裕だと感嘆したが、格の頬も自然と緩んでいた。
特別喧嘩が好きなわけでも、人を傷つけるのが楽しいわけでもないが、明と共に闘うことに違和感を感じないどころか、なんとも動きやすい。それが、笑みを浮かべる余裕を生む。
格は放り出されたキューが足元にあることに気付き、それを拾い上げた。
軽く腰を落として右下段に構え、殴りかかってきた男に突き出す。十分間合いを空けての牽制に、素手の男は怯んで立ち止まった。
その隙を逃さず、摺り足で間合いを詰めて、短く持ち替えたキューを男の腹に突き出す。男が体を折って腹を抱えたところで、キューをくるりと回してその遠心力で顎下の急所を打った。
「お前、杖術も出来んの!?」
また2人を片付けて、格と背中合わせに立った明が尋ねてきた。
「合気の稽古のついでに型を習っただけ。実戦は初めてだけど、結構使えるもんだな」
「っとに、どんだけ引き出しあんだよ」
唇を尖らせた明だが、その声は笑っていた。
とん、と背中に軽い衝撃を残して明が離れていく。
格も逆方向に足を踏み出し、ルリの手を取って場所を移した。
数的には圧倒的に不利ではあったが連携が取れていないので、多人数を相手にしないように立ち回った格たちは、着実に相手方の人数を減らしていった。
入り口へもじりじりと近付いている。
そして、格が5人目を投げ飛ばし、ルリの手を引いてさらに入り口方向へ進んだ時だった。
背後に忍び寄った男が、2人に向かって椅子を投げつけた。
格は咄嗟にルリを突き飛ばし、自分は横に飛んで受け身を取る。
しかし、きれいにくるりと1回転したものの、着いた右足が床に転がっていた瓶に乗ってしまった。
「……っ」
踏ん張った足に痛みが走り、格の表情が露骨に歪んだ。
椅子を投げた男はそれを見逃さず、すぐ側のテーブルの上にあったビール瓶を引っ掴んで振り上げる。
けれどもそれは、格の頭に振り下ろされることはなかった。
格の手放したキューを手にしたルリに、思い切り殴られたからだ。
「て…っめえ……」
男が満面を怒りに染めて振り返った。
ルリはキューを構えたまま男を睨み返す。
格が知る限りルリに武道の心得はないはずで、キューを構える様もまったく板に付いていない。
「ルリ…!」
男の敵意が完全にルリに移ったことに気付いた格は、立ち上がろうと腰を浮かせた。しかし、右足に走った衝撃はまだ和らいでおらず、立ち上がるのに少々手間取ってしまった。
だが、男はルリに触れることすらなくその場に崩れ落ちた。
駆けつけてきた明は、男の首筋に叩き込んだ足を下ろし、格が立ち上がるのに手を貸す。
そして、片手で格の腕を支えたままルリを背中にして立ち、振り返って声を掛けた。
「やるじゃん」
「惚れた男のピンチになあんも出来へんかったら女が廃るわ」
きっぱりと言い切ったルリに、明が笑みを浮かべる。
素直な賞賛を込めた笑みにルリは困ったような、驚いたような顔で目を瞬いた。
「明」
正面からじりじりと距離を詰めてくる男達に目を遣ったまま格が呼ばわる。明も同じ方へ視線を戻して頷いた。
「奴ら固まって掛かってくるようになってきたな。ばらけてない方がいい」
「あと8人か」
「どうだ? 動けるか?」
問われた格は下方に視線を移し右足を2、3度軽く床に着いてみた。瞬間的な痛みはあったが、我慢できない痛みではない。
落とした視線を上げて「大丈夫だ」と答えかけた格は、言葉を途中で切って目の前の男達を睨むように見据えた。
男のうちの1人が、酒瓶をテーブルの縁で叩き割る。もちろん、凶器にするためだろう。
ポケットを探り折り畳み式のナイフを取り出した者もいた。
数的有利から保っていた余裕がついになくなったようだ。
支えてくれていた明の手から放れ、かつて氷上が教えてくれた刃物相手の戦い方を思い浮かべながら、格はルリに手を差し伸べて彼女の手を取った。
その時。
視界の奥、入り口と思しきドアから1人の男が現れた。
−続−
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