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【第2部】Vol.2 ブルースカイ・ブルー (7)
古賀沢邸は大きな数寄屋造りの邸宅で、閑静な住宅街の一角にある。
木の塀に囲まれた純和風の屋敷は一見したところただの住宅に見えるが、敷地内の離れには古賀沢組の組員が十数人寝起きしており、屋敷の趣には不似合いな最新のセキュリティ設備が整えられている。
氷上の運転する車を降りた格は、蒔麻の後について屋敷の中へと入った。
「おかえりなさいませ、奥様」
「ただいま、喜代さん。頼んでおいたもの買っておいてくれた?」
出迎えに出てきた老婦人に蒔麻が尋ねる。婦人はにっこりと微笑んで頷いた。
ぽっちゃりとしたこの婦人は、長年古賀沢邸で住み込みの家政婦として働いている。
「はいはい、買っておきましたよ。お勝手に用意してあります。下ごしらえも済ませてありますよ」
「ありがとね。着替えたらすぐ行くわ」
「いらっしゃいませ、格さん」
「こんにちは、喜代さん」
喜代に笑いかけられ、格もにこやかに返した。蒔麻の家を訪れた時しか会えないので数回しか顔を合わせたことがないのだが、このいつもにこにこと笑っている老婦人が格は好きだった。
「すぐご飯作るから、格くんは居間で待っててね」
「手伝うよ」
「ありがとう。でも今日は喜代さんと2人で大丈夫。お客様してて」
格の申し出にそう言って首を横に振った蒔麻は、氷上に格の相手をするよう告げた。
氷上は軽く請け負って格を促して歩き出そうとしたが、ふと足を止めて廊下の奥を見遣る。
お目つけ役としてルリについていた伊庭の部下のうちの1人が廊下の奥の角から小走りに現れて、こちらを見て声を上げた。
「坊ちゃん! 良かった!」
「ええと――倉橋、さん? どうかしたんですか?」
ルリが放っておけというのでこれまで話をすることもなかったが、名前だけは何とか記憶できていたようだ。
尋ねた格に、倉橋は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「それがその――お嬢が少し荒れとるんですわ。…組長(オヤジ)のことで」
慌てて駆けて来た様子なので言葉で言うほど“少し”ではないのかもしれない。
しばらくはルリひとりで考えるべきことを考えた方がいいと思っていた。だが、荒れるようなことになっているとしたら、たき付けた手前放ってはおけない。
格は蒔麻を振り返った。
目が合った蒔麻は、格の意図を計り取って頷いてみせる。
「部屋どっち?」
「あ、はい、こっちです」
格に問いかけられた倉橋は、元来た方向を指し示し、蒔麻と氷上に一礼していそいそと歩き出した。
「――ここで敵に塩を送っちまうところがあんたらしいよ」
格と倉橋が視界から消えてから、氷上がぽつりと呟く。
小さなその声をしっかり聞き取っていた蒔麻は何か言い返そうと口を開いたが、思い直してそれを飲み込んだ。
そして咳払いをひとつして涼しい顔で言い放つ。
「ムキになっても仕方がないでしょ。相手はお客人の娘さんなんだし」
「あの娘も“女”ですよ…って、そもそもあんたがそう言ったんじゃなかったでしたか?」
「そうよ。でも格くんが行くっていうものを駄目だって言う権利は、私にはないもの」
格は何かと蒔麻を特別扱いするが、別に付き合っているわけではない。だから、格に誰が近付こうと、それを受け入れるか否かは格次第だ。
唯一何かを言えるのは神之倉だけだが、当の神之倉が別段気にしている様子もないので、蒔麻には何も言うことはない。
だからといって、格を我がもののように扱うルリに腹が立たないわけではないのだが。
「……様子を見て来てあげましょうか?」
自室へと向かう蒔麻のあとについて歩き、その背中を見ていた氷上が、ふと口にした。
蒔麻の足がぴたりと止まる。
申し出に沈黙し、やがて振り返って困ったように微笑んだ蒔麻の視線を受け止めて、氷上は不敵な笑みを返した。
廊下の向こうから、言い争うような声が微かに聞こえて来た。舌戦という感じではなく、言葉と声の分量は圧倒的に1人の人物が勝っている。
ルリの声だ。
「あああ…酷くなってる……」
格の後ろで倉橋が情けない声で呟いた。
何をしているのかわからないが、ばたばたと動き回る音がしている。
とりあえず入ってみるしかない。
格は眉を八の字にして狼狽している背後の倉橋を振り返り、頷いてみせてから襖に手を掛けた。
そして、襖を開けた途端に視界に飛び込んで来たのは、部屋の様子でもルリの顔でもなかった。
それがなんであるかを認識する前に、飛んできたものを咄嗟に受け止める。
手のひらに感じた衝撃と質感で無事に掴み取れたことを理解し、格は手の中の物を見た。
「…さすがにこれはまずいんじゃねえ?」
手にした空のグラスを見えるように翳し、格はため息を吐く。
格を視認した瞬間に固まっていたルリの肩がびくりと震えた。
よくぞ取れたものだと思いながら、格は部屋の中に足を踏み入れた。もう一度やれと言われても、きっとできない。
室内の状況は、思ったよりは酷くはなかった。座布団やコースター、菓子盆が本来あるべき位置になく、個別包装された菓子が畳に散らばっているくらいで、障子や壁は無事のようだ。
「ご…ごめ……」
近付いて来た格に、蚊の鳴くような声でルリが謝る。
「――拾って。片付けてから話聞くから」
あえて何の感情も乗せずに告げると、ルリはしゃがみ込み、黙って格の言葉に従った。
菓子盆を座卓の上に戻し、菓子を一個一個丁寧に拾っていく。倉橋と、お目付役のもう1人である伊藤がそれを手伝った。
格はじっと立ったままそれが済むのを待った。
幼い頃、遊んだままオモチャを放置したり悪戯をして散らかしたりした時には、母親の東子は決して片付けを手伝ってくれなかった。それと同じ態度で接した方が良いと思ったのだ。
全て元に戻るまで待って、格は座卓の上のコースターに、手にしていたグラスを置いた。
「――で? 何かあった?」
腰を下ろし、俯いているルリに問い掛ける。
ルリはぱっと顔を上げたが、すぐにまた俯いてしまって答えない。
「ここが自分の家じゃないのをわかっててこんな事したんだよな? 理由くらい言ったら?」
苛ついて反射的に語気を強めてしまい、口に出してからしまったと思った。
ルリは強引な性格ではあるが、気が強いだけではない。淋しさも屈託も抱えている。
この荒れようもそれが原因だとわかっているのに感情的になってしまったのは、ここが蒔麻の家だと言うことと、今日一日でいろいろあり過ぎて精神的な許容量を超えそうだからかもしれない。
「……夕方――」
俯いていたルリが、か細い声で言葉を吐き出した。
「夕方…?」
格はルリの顔を覗き込み、今度は極力穏やかに問い返してみる。
「……パパに電話してみたんよ」
「うん」
思いのほか早かったなと思いつつ格は頷いた。昼間の様子では、そう簡単には軟化しそうにないと思っていたのだ。
「会って話したいって言ってみた。そしたら――」
続きを話しかけて、ルリは座卓の上を見つめたまま眉間にしわを寄せた。明らかに怒りの表情である。
「そんな時間はない、って。大阪に戻ってからにしろって」
「そりゃあ遊びで来てるわけじゃないだろうし、仕方ないんじゃねえ?」
「愛人探しに来てるののどこが遊びやないんよ!?」
突然大きくなったルリの声が、格に向かって叩き付けられた。だがすぐにバツが悪そうに視線が逸らされる。
それが本当ならルリが怒るのもわからなくはない。
だが、関西極道の中でも極めて重要な位置にいるというのに、わざわざ本拠地を離れてまで自ら女の尻を追いかけるだろうか。
「それ、伊庭さんが言ったのか?」
「パパは人を探さなきゃならないから忙しいって言うだけで素っ気なかった。そやからこの二人に訊いたんよ。したら、探してるのは女やって言うから」
「それだけじゃ愛人かどうかはわかんねえじゃん」
「じゃあ何? 人に任せないで自分で探しに来るような女ってなんやと思う?」
「……恩人…とか?」
伊庭のあしらいようの悪さに首を捻りつつ格は答えた。
たとえ本当に愛人を探しに来たのだとしても、関西極道のトップの片腕というポジションいるほどの男ならば、もっとうまく誤魔化すことは可能なはずだ。
ルリの話を聞いていると、嘘が下手というイメージもない。
「……5分でも10分でもいいって言ったのに。なのにあんな言い方されたら――」
「でもさ、大阪に戻ってからならいいってことだろ? 待てばいいじゃんか」
「――…決心揺らぐやん」
「……ルリ……」
膨れっ面で視線を逸らしたルリに、格はため息をついた。
ルリ子の気持ちもわかる。いつになるかわからないその時を待つのは、精神的にとても疲れるだろう。
だからといって、ここで諦めては何も変わらない。
しかし何を言っても説教くさくなるような気がして、格はそれ以上何も言えなかった。
室内に、沈黙が訪れる。
「――…ういい…」
「え?」
やがて、俯いたままのルリが吐き捨てるように何事かを口にした。格は聞き返したが、ルリはそれには答えずに顔を上げた。
そして、初めて会った日のような挑戦的な笑みを浮かべて格の方へ身を乗り出した。意識してやっているのかいないのか、相変わらず露出率の高い胸元から柔らかそうな胸の谷間が覗く。
「ねえ、明日遊び行こ?」
「ごめん、明日は部活」
「1日中?」
「いや…でも午後は空手道場」
「部活見に行っていい?」
「対外試合とかならまだしも、普通に部活だし無理だよ」
部外者がただの部活動を見学するだけでも目立つだろうに、それが普通に歩いているだけでも人目を引くルリでは、余計に目立って仕方がない。
それに、ルリは所構わず密着してくる。その行為への嫌悪感はないが、学校ではさすがに困る。
「それじゃ空手のほうでもええよ」
「もっとダメ」
格は間髪入れずに即答した。
ただでさえ子供は滅多に入門させないという仁武流の道場に、入門希望者でもないルリを連れては行けない。
「なによぅ、じゃあいつならええの?」
にべもない格に途端にルリが不機嫌になる。
だが、そう言われても無理なものは無理なのだ。
武原からは、通えるなら毎日来てもよいと言われている。格としても、一日でも早く仁武流の空手に慣れたい。
そしてなにより、明に謝ってその誤解を解きたいのだ。
「それじゃ夜! 明日の夜付き合うてね。決定。で、明後日も部活あるん?」
「――…ルリ……あんまり無茶言うなよな」
一方的なルリに、格はついに深いため息をついた。
ルリの抱える淋しさはわからないでもないが、格の体は一つしかない。
さすがに無理を言っているという自覚があったのか、格が思うよりもその声が苛立って聞こえたのか、ルリはびくりと肩を震わせて乗り出した体を元に戻した。
「……ごめん」
「怒ってるわけじゃねえよ」
あまりに悄然とした様子に、格はつい偽りを口にしてしまう。だが苛立ちよりも、華奢な肩を落としてうなだれる様が可哀相だという思いの方が勝ってしまった。
「ええと…5日後。5日後は部活ないからさ。そしたら半日は空くから」
「……じゃあ電話とメールは? それならしてもいい?」
「いいよ。携帯貸して」
格はルリから携帯電話を借り受け、アドレス帳に自分の電話番号とメールアドレスを打ち込んだ。
ここで駄目だと撥ね除けるのはさすがに厳しすぎるだろうと格は思った。好きだと言われても応えられないし、少しわがままだとも思うが、電話もメールも受けたくないなどという疎ましさはない。
だが格は知らなかった。
これが、後々ひとつの騒動と誤解を生むことを。
そして、気配を殺して廊下に面した襖越しに室内の会話を聞いていた氷上が、口の端に微苦笑を浮かべて肩を竦め、その場を離れつつ小さなため息を吐いたことも。
「どうした? 元気ねえな?」
稽古がひと段落つき、そのあまりのきつさに座り込んで呼吸を整えていると、息ひとつ乱していない武原が格に向かって問い掛けた。
格は何でもないですと首を横に振ったが、そうではないことは武原にはお見通しだろう。
「ごめんな」
腰を屈めて申し訳なさそうに謝りくしゃくしゃと頭を撫でてくれる武原に、格はもう一度首を振った。
気の晴れない原因のひとつは明のことだったが、武原のせいではない。
格が武原の元に通い始めて今日で4日目になるのだが、この4日間一度も明の姿を見ていなかった。
つまり、初めてここに来た日以来会っていないのだ。
ちゃんと謝って、話して――と心に描いていたのに、それが一度も果たせていない。
稽古は想像以上にハードで濃密できつくはあるが、毎日新たな発見と喜びがあってとても楽しい。けれど明のことがどうしても頭の隅から離れていかず、それを押し込めて稽古に集中しようとすればするほど、精神的な消耗は激しくなる。
そして、怒らせたことを謝りたいという気持ちに、今日あたりから早く謝って楽になりたいという思いが混ざり始めていることへの自己嫌悪が、格からいつもの快活さを削いでいた。
「逃げてねえでちゃんと話せって言ってんだけどなあ」
武原は腕を組んで小さく嘆息した。
「いいんです。明が話したいと思ってくれなきゃ意味ないと思うし」
格は武原を見上げて笑顔を作る。
どうやら明は、午前中はいつも通り稽古をし、午後に格が来る頃になると走ってくると言って出ていったり、約束があると出掛けてしまうらしい。
夏休みには午前か午後に一定時間稽古をするということにしていたそうで、稽古をさぼっているわけではないので叱る理由はない。
また、明が意識的に格を避け続けているこの状況下で武原の口から同じ時間に稽古するように言うことは、形として武原が格の味方につくことになり明は余計に頑なになってしまうだろう。
「誰に似たんだか頑固でなあ。すまんが根気強く付き合ってやってくれな」
「大丈夫です。俺けっこう諦め悪いんで」
そう、大丈夫だ。格は自分自身に言い聞かせた。
神之倉を好きになって、普通に考えれば叶う可能性などまるでない想いを半年間諦めずにいられたのだ。それを思えばなんということはない。
明の気さくさや、武原によく似ているがコピーになることなく十分な個性をもっている空手を好ましく思うのは今でも変わらない。うまくやっていきたいし、親しくなりたいとも思う。
「稽古がしんどい時は早めに言えよ?」
しゃがんだ武原が、格の顔を覗き込んだ。
「きついけど楽しいし、全然平気です」
「そうか? 疲れた顔してるぞ。寝不足か?」
「……すいません…」
「責めてるわけじゃねえよ」
謝った格の頭を、再度武原の手がくしゃりと撫でる。
たしかに寝不足だった。ここ数日、毎日日付が変わる頃にかかってくるルリからの電話が長引くためだ。メールの数も徐々に増えてきた。
電話に出られないことや返信する前に新たなメールが来ることもあるので全てに応答返信しているわけではないが、それでも部活と武原の元での稽古時間以外は携帯電話を見ていることが多い気がする。
一日数十通ものメールのやり取りや数時間に及ぶ長電話をするというクラスメートもいるので、まだルリは程度が軽い方なのだろう。しかし、武原の元に通い始めて一日の肉体的な疲労が増している上にまだ完全には稽古に慣れていないため、両手の指で足りるほどのメールや数回の電話でも少々堪える。
加えて、このところ忙しいらしい神之倉の顔をここ3日ほど一度も顔を見ておらず、それどころか電話もしていないので、会えばたちまち吹き飛ぶような小さな疲れと淋しさがじわじわと蓄積されつつあった。
これが、明のこととあわせて格の気持ちを重くしている。
だが、それらは全て格の中の問題だ。稽古は稽古として集中すべきなのに、目に見えるほど顔に出ているのかと思うと申し訳ない気持ちになる。
「気にすんなってのに。疲れてようが眠かろうが、手抜きも油断もなきゃかまわねえさ」
格の思いを見透かしたのか、武原は笑って両手で格の髪を掻き乱した。思い切りぐしゃぐしゃにされて、乱暴ながらも温かい大きな手のひらに気持ちが少し和らぐ。
「稽古に熱心なのは嬉しいし教え甲斐もある。けどな、心配事とかやらなきゃならねえ事があるならそっちを優先したっていいんだぞ?」
「……」
これまた見透かされたかのような言葉に、格は考えた。
いま一番やりたいこと。望むもの。
「――俺……」
友達と遊ぶより、部活に励むより、ルリの話を聞くより、神之倉と会うより――
「明と空手がしたい、です」
ごめん。
後回しにしてもいいと思ってしまった全てに、特に神之倉には心の中で土下座せんばかりの勢いで謝った。
神之倉のことは誰より大事だと今すぐ大声で叫んでもいいほど好きだし、今も会いたくてたまらないのだが、明と擦れ違ったままでは必ず後悔するという確信がある。それなら、一日も早く蟠りを消したい。
“それはそれ、これはこれ”と言えば聞こえが悪いが、同じ土俵で比べられる思いでもない。神之倉もこれくらいで怒ったりはしないだろう。
「惚れ込んでくれたもんだな。あれじゃあ第一印象は良くはないだろうに」
「そんなことないです。だって、ぶん殴られたのが第一印象ってわけじゃないですもん」
殴られたことはもちろん強烈な記憶だが、道場に入って来た時の明の印象や組み手をした時に感じたものの方が強く心に残っている。殴られたのも、理由もなく理不尽な仕打ちだったわけではない。
「あの時は必死でいっぱいいっぱいだったけど、またやりたいなって思うんです。明との組み手。何でかわかんないんですけど」
「そうか」
武原はそれだけを口にして笑みを浮かべ、立ち上がった。それはとても優しい笑みで、何故か懐かしさと安堵感を生む。
同じような笑みを知っているような気がした。
「格、明日の予定は?」
「部活ないんでいつでも来れます」
口に出してしまってから、あっと思った。先日ルリに、5日後には半日空くからと言ったのだ。だが、時間を限定したわけではないので夜にでも埋め合わせしようと思い直し、撤回はせずにおく。
「それじゃあ10時前に来な。明も呼んでおく」
「え…でも」
「俺も無関係じゃないわけだしな。それに、長引かせるよか早いとこ思ってることぶつけ合っちまった方がいいだろう。まあ、そこんとこは手出ししねえよ」
顔を合わせるきっかけ以外は手を貸さないということだ。
武原の言葉に、格は深く頷いた。
家に帰り着くと、東子はすでに出勤したあとだった。
ダイニングテーブルに「温めて食べてね」という書き置きがあったので冷蔵庫を覗いてみると、格の好きなものばかりが作り置きしてあった。
おそらく格が沈んでいることに気づいていたのだろう。こういう時には改めて、やはり自分は東子の息子なのだなと思う。
風呂に入り夕飯を平らげ、さてどうしようかとふとたたずんだ時、今度は携帯電話が鳴った。
取り上げてみると、液晶画面には数字の羅列だけが並んでいる。見ただけですぐにわかった。神之倉の番号だ。
神之倉の携帯番号は、あえて登録していない。
『格? まだ外か?』
通話ボタンを押して「はい」と応答すると、格の好きな低い声が耳に飛び込んで来た。
「ううん、家だよ」
『おかえり』
「…うん」
ほんの少しの短い言葉だが、この3日顔を見ていないぶん恋しさが募っていて、耳に残る声の余韻が嬉しい。
神之倉と会うより明と空手がしたいと思ったくせに、ひと声聴いただけでどうしようもなく会いたくなるのだから、現金なものだ。
「士朗は? いま事務所?」
『移動中の車内だよ』
「今夜は戻って来れんの?」
『いや、今夜は無理だな』
返って来た答えは素っ気ないひと言だった。
仕事の内容は詳しくは聞いていないが、夜でないと出来ないことなのか、ここ数日の神之倉の帰宅は夜間ではなく日中だった。格は部活と稽古とで出たり戻ったりなので、どうしてもすれ違ってしまう。
「そっか。体、気を付けてよ?」
格は、なるべく落胆が声に顕れぬよう平静を装って答えた。氷上や佐伯が側についていれば大丈夫だろうが、自分の体に無頓着のきらいがある神之倉なので少し心配だ。
『ああ。少し遅くなるかもしれんが明日の夜は戻れるから、晩飯でも食いに行こう』
「ん。電話して」
隠したはずの“淋しい”という思いはやはり伝わってしまったらしい。神之倉の声がいつもよりやさしく響いた。
答える格の声も、ついつい甘くなってしまう。
気に掛けてくれるのは嬉しいが、無理をさせているなら心苦しい。だが、こういうところで嘘をつく神之倉ではないので、本当に明日は帰れる予定なのだろう。
短い会話だったが、良い気分で電話を切ることが出来た。
格はそのまま携帯電話の文字盤を操作して、アドレス帳からルリの名を探し出す。5日後にはと言い出したのは格なので、連絡しておくべきだろうと思ったのだ。
明日は午前中に稽古、夜は神之倉と食事。
武原曰く「長くやりゃあいいってもんじゃない」そうで3時間以上の稽古はしたことはないので、午前から始めて午後になっても終わらないことはないだろう。
明日の午後、日暮れまでなら時間がある。そう、短いメールを送った。
それからしばらくの間、まだ終わっていない夏休みの宿題に渋々取り組んだが、ルリからの返信は来なかった。
キリのよいところまで解いた問題集を閉じ、どうしたものかとしばし思案する。
結局、返事は待たずに寝てしまうことにしてベッドに潜り込んだ。疲れと寝不足で強力な睡魔に襲われていたのと、神之倉との会話で穏やかに落ち着いた気分のまま眠りについたら、ぐっすり眠れそうだと思ったからだ。
ルリからは、メールなり留守電にメッセージなりが入るだろう。
神之倉から最後に掛けてもらった「おやすみ」という声を思い出しながら、格は目を閉じた。
数日ぶりにぐっすりと眠ったら寝過ごしてしまった。目覚ましをかけ忘れ、東子には午前中から稽古だと伝えていなかったので、目覚めたのはぎりぎりの時間だった。
寝ている東子を起こさないよう急いで支度をし、稽古に行って来るとメモを残して家を出る。
ルリからは、明日稽古が終わったら連絡してというメールと数件の着信が入っていたが、電話はかける余裕がなかったのでそのままにして道場に急いだ。
なんとか間に合い武原邸の庭の道場に飛び込むと、武原の宣言通り、そこには明がいた。
明の反応は予想通りのものだった。
格の姿に驚いて目を見張り、続いて憮然として黙り込む。
だが何か言いたげに視線を寄越す息子に、父親はけろりとして言った。
「格の稽古が午後からだとは言わなかったぜ?」
「……そーだけど」
「ここでだけ稽古してんじゃねえんだ。お前の時間にばかり合わせてやれねえよ」
冷たい物言いにも聞こえるが正論だ。本部道場にも稽古をつけるべき門下生は何人もおり、その他に一流派の宗家としての仕事もあるだろう。
それはわかっているようで、明も文句は言わなかった。
「それじゃあ稽古始めるぞ。集中しろ」
急いで着替えた格と明のストレッチが終わる頃を見計らって二度打ち鳴らされた手の音が、小気味よく道場に響き渡る。
それを合図に、武原の顔つきがすっと変わった。
いつもながら鮮やかだと格は思う。一秒前までくだけた様子で穏やかに軽口を叩いていても、瞬時に切り換えられるのだ。
稽古は、まずそれぞれ別の事をすることから始まった。
明はウォーミングアップを兼ねて突きと蹴りの反復と基本の型を、格は昨日まで教わった基本姿勢と動作を武原のチェック付きで繰り返した。
最初の頃は足の位置、腰の高さ、手の角度など細かい指導が入ったが、徐々にそれも減ってきて「よし」というひと言が出るようになっていた。
実戦では“形”にこだわってなどいられないものだが、技が最大の威力を発揮する“正しい形”を知らなくていいわけではないと武原は言う。
もっとも自然で無理のない基本的な“型”が身に付いていれば、どんな崩れた体勢からでも、最も威力のある攻撃の放てる体勢を体がつくろうとする。それはわずかな差ではあるが、相対する者を倒すために技を繰り出すのなら、その“わずかな差”が勝敗を分けることになるのだ。
“かたやぶり”というのはしっかりと型(きほん)があって成り立つもので、それがなければ“かたなし”になってしまう――という、ある役者の言葉を武原は教えてくれた。武道でもそれは同じだ、と。
なるほど、確かに基礎を理解していないと応用問題は解けない。基礎からバリエーションが生まれるのだとかつて氷上からも聞いたことを、その時格は思い出した。
やがて、ひと汗かいて体も十分に動くようになった頃、武原が格と明を呼び寄せた。
「組み手やるぞ」
そのひと言に、体がぶるりと震えるのを格は感じた。武者震い、なのだろうか。緊張からかもしれない。
手の内は5日前に知られてしまっている。この5日で繰り返し習練してきた型は仁武流のものなので、明にとって馴染みのないものではない。
今の時点で明について行けるのかどうかという心配と、試してみたいという思いが交互に去来する。
とにかく、稽古の相手として不足に思われたくはなかった。
武原の手が一回打ち鳴らされ、格と明は同時に腰を落として構えた。
次の瞬間、明は無造作に踏み込んで来た。
中段への蹴りを間一髪で躱し、間合いを取るべくバックステップする。
しかし明はさらに踏み込んで、正拳を放ってきた。
咄嗟に突きの軌道を測って避けた格だが、こめかみのすぐ脇を風を切るように通り過ぎる拳にぞくりとする。髪を掠った、マッチを擦るするような音が、微かだが確かに聞こえた。
肌が粟立ったのを自覚すると同時に、格は横に飛んで明との距離をとる。背中を冷たい汗が伝った。
前回の組み手でも押されてはいたが、今ほど身の危険を感じる一撃はなかった。
明から受ける印象がまるで違う。
守りに入らずに攻めて来るところは変わらないが、技を繰り出すことが楽しそうだった前回に比べて纏う空気が硬質だ。それでいてどこか雑で、雑ゆえに破壊力が増しているような気がする。
一瞬でも油断したなら、明の攻撃は確実に格を捉えるだろう。
格は生唾を飲み込んで、慎重に身構えた。実力差は明白だが、簡単に負けたくはない。
無表情に格に視線を向けていた明が、じわりと格との距離を詰める。
それを見ていた武原が、組んでいた腕を解いた。
「おい…――」
武原のその声を合図にして、明の右足が床を蹴った。
腰を落とした格は、この数日間で受けた手ほどきの成果を武原に見せようと、矢継ぎ早に繰り出される明の突きや蹴りを捌いていく。
数手を経て格の攻撃の捌き方が上達していることに気付いたのか、明の技の手数とスピードが増した。
「……ッ!」
格は顔色を変えた。
武原とは基本的な稽古しかしていないので、格が今まで体感した最も速い攻撃は前回組み手をした時の明のものだ。その時よりもさらに速い。
捌ききれない――!?
「明!」
格の焦りを察知したのか、武原が声を掛ける。
しかし明は、躊躇せずに踏み込んだ。
捌くことも流すこともできず、攻撃を受けながら格は後退した。
腰を落とし肘や脛で受けて直接的なダメージがないようガードはしているが、このままでは保たない。いずれ、明の攻撃は格のガードを掻い潜るだろう。
「明! よせ!」
武原の声が飛ぶが、明が止まる気配はない。
明がやめないのなら、格も構えを解くわけにはいかない。
そして左上段への蹴りを両腕でブロックした瞬間、額を伝う汗が目に流れ込んだ。
あ、と思った時には右の蹴りが放たれ、咄嗟に顔の前でクロスさせた手に明の右足が叩き付けられる。
堪え切れなかった体が大きく揺れ、倒れまいと思い踏ん張った足に痛みが走った。
それと同時に、武原の声が放たれる。
「そこまでッ!」
道場の壁を揺るがすような大喝だった。
そして、格が床に転がるのと同時に明がはっとして立ち尽くす。
先ほどまでの勢いが嘘のように道場内がしんと静まり返った。
「格。右足見せてみろ」
静かに、だが素早く歩み寄った武原が、格のそばに膝をつく。
幸い転がった時のダメージは特になかったのですぐに体を起こしていた格は、武原に促されるまま右足を前方に回した。
「……っ!?」
動かした途端に足首を襲った痛みについつい顔が歪む。
目で見て何箇所かを指先で押してみて格の様子を窺い、武原が小さく息を吐いた。
「骨には異常はないな。捻挫だろう」
少し不安だった格だが、その落ち着いた声にふっと安堵のため息をついた。捻挫ならばそれほど待たずに稽古が再開できる。
そんな格を見届けて、武原がすっと立ち上がった。そして、茫然と突っ立ったままの明に歩み寄る。
次の瞬間、大した予備動作もなしに武原の手が振られ、乾いた音が道場に響き渡った。
それはひっぱたくというような生温いものではなく、張り倒すという言葉通りの強烈な張り手だった。
明の体は蹴りでも食らったかのように簡単に吹っ飛び、道場の床板に叩き付けられる。
「…組み手や仕合いに雑念は持ち込むなと教えたはずだ。それとも、取り返しのつかない怪我をさせた場合の覚悟をした上でやったとでも言うか?」
息子に対するものとは思えない冷ややかな声とまなざしを向ける武原に、何とか上体を起こした明の顔が青ざめる。
「師範! 今のは俺が未熟だったからで――」
格は痛む足を引きずるように身を乗り出して、武原に言った。
「ああ、その通りだ。お前は流す防御は上手いが受ける防御はまだそれほどでもない。真っ正直に受けるとバランスを崩して、そこが付け入られる隙になる」
「――はい」
明に対するものとは違う静かな指摘に、格は思わず頷いてしまう。武原の言う通り、重くて早い打撃を受けて堪え切ることが出来ないのだ。
「それをわかっていて攻めるのは戦略としては正しい。だけどな、いまやってんのは仕合いでも殺し合いでもねえんだよ。俺はやめろと言った。それでも続けやがった馬鹿をぶん殴って何が悪い」
容赦のない武原の言葉に、格も明も何も言えなかった。特に明は顔面蒼白になっている。
「しばらく反省してろ」
武原は、格が初めて耳にした硬質的な声で言い捨てて踵を返した。
去って行く背中は、呼び止めることを拒絶している。
すぐに追って謝るべきなのか、言われた通りじっと反省しているべきなのか判断がつかず、格は困惑した顔を明へと向けた。
明は茫然としたまま床を見つめていたが、見られている気配を感じたのか、のろのろと顔を上げて格の方に視線を向けた。どこか虚ろに見えるが、目が合うのは初めて会った日以来だ。
やがて、明の目がカメラのオートフォーカスのようにふっと焦点を結んだかと思うと、突然立ち上がって道場の奥に向かって走り出した。
明が飛び込んだ奥の間でガタゴトと音がする。ややあって、入った時と同じような勢いで飛び出てきた明の手は、取っ手付きの箱を抱えていた。
「足!」
「へ? うわっ!?」
格の前に膝をついた明が、突然のことにリアクションが取れなかった格の足の脛あたりを引っ掴む。そして、自分の片膝に格の足を乗せた。
「痛むのは内? 外?」
「え…っと、外側。踝のあたり」
「ここか」
明は頷いて、少し腫れてきている箇所に湿布を貼り付けた。そして伸縮性の包帯でその上を覆っていく。スピードのわりに丁寧で、ゆるくもなくきつくもない仕上がりに、格は素直に感嘆した。
包帯止めで巻き終わりを処理するのを待って、明に礼を述べようと格は背を伸ばした。
だがそれよりも、格の足をおろして端座した明が床に両手をつくほうが早かった。
「ごめん!!」
「え?」
風を切るような勢いで頭を下げられて面食らい、思わず問い返してしまう。
だが明はそれには構わず、そのままの姿勢でさらに続けた。
「怪我させるつもりはなかったんだ! ただ、ちょっとイラついて、ブレーキが壊れたっていうか…っ」
「や…」
「親父がオレと年の近い直弟子をとるのって初めてだったし、かなりお前のこと気に入ってるみたいだし、稽古でもすげー構うし」
「そ…」
「親父だけじゃなくて母ちゃんも和もお前のことめっちゃ気に入ってるし、しかもお前けっこう強いし、だからムカついて、シカトしちまって、つーかぶっちゃけヤキモチ妬いてブチキレた!
ほんっっっとごめんッ!!」
怒濤の謝罪に言葉を挟む間も与えられず、格はぽかんと口を開けて固まってしまった。
なんとも潔い、そして正直な謝りっぷりである。
格は正座は出来ないまでも極力居住いを正し、同じく床に手をついて頭を下げた。
「俺こそごめん」
「――なんでお前が謝んだよ?」
明が顔を上げて訝しげに問う。
「師範の背中のこと――よく知りもしないのに偉そうなこと言っちゃったから。考えなしだった。ごめん」
神宮寺から聞いた武原の背中の傷にまつわる話を明が知っているのなら、軽々しく後ろ傷などと言われたくないだろう。あの傷が数ミリ深いかずれるかしたなら、明は今ここにいなかったかもしれないのだ。
格に悪気はなかったが、なければいいわけではない。
「いや…あれもオレが悪いよ。殴ったのはやり過ぎだったと思う。親父にも目茶苦茶怒られた」
よほどきつく言われたのだろう。明は悄然と肩を落とした。
「カッとなるとダメなんだ、オレ。考えるより先に手が出んの」
「俺は力加減が出来なくなるよ。でもそれってまずいよな、やっぱり」
春に起きた上級生との喧嘩沙汰を思い出し、格は眉間に縦じわを刻んだ。
あれ以来揉め事は起こしていないが、やはりまだ学年主任や生徒指導の担当教師からは時々声を掛けられる。それとなく注意してみているつもりのようだが、何気ない風を装っているのがかえってわざとらしい。
格の様子を見ていた明が、目を瞬いて呟いた。
「……なんか意外」
「なにが?」
「お前ってもっと優等生タイプかと思ってた」
「なんでそんな」
「礼儀正しいし、普通に敬語とか使うじゃん」
「稽古つけてもらってるんだから礼儀正しくするのは当たり前じゃねえ? それに、初めて会ってから1週間も経ってないし、憧れの人だしさ。でも大人でもタメ口で話す相手もいるし、ガッコでも成績は普通だし、騒ぐ時ゃ騒ぐし、優等生なんかじゃないよ」
そんな風に思われていたのかと驚きつつ格は答えた。
年の割りにはませていると言われ続けてきた。生意気だと思われこそすれ、優等生だと思われたことはないはずだ。
「うん、組み手やってみてわかった。負けず嫌いで気ィ強くて、守るより攻める方が断然好きだろ?」
「…俺、今回防御ばっかだったけど」
「結構客観的に自分を見られてるんじゃねえ? そん時出せる最良の手が防御なら、そっから展開させようと思ったろ?」
「……思った」
「やっぱりな!」
「明は前の時の方が楽しそうだったよ。今日はイライラしてる感じで、スピードは前より早かったけど力が入ってるぶん少し大雑把だった」
ずばり言い当てられ、動きも思考も全て読まれていたかのようで少々悔しかったので自分の感じたことを口にすると、明がぐっと言葉に詰まった。
反論の言葉も肯定の言葉も返って来ないので、また気分を害したかと格は焦ったが、そういう雰囲気ではない。困ったような表情からすると、どうやら格も言い当てていたようだ。
そして、そのまま二人して黙り込んでしまった。
出会って5日目で、まともに会話を交わしたのは初日の数分だけだ。人となりは何となく捉えたものの、お互いのことはほとんど知らない。
いま会話になるとすれば、共通言語はやはり“空手”だろうか。
沈黙はそれほど居心地が悪くはなかったが、とにかく今は話をしてみたい。
格はとりあえず空手の話題を足掛かりにしようと明の方を向いた。
だが、先に口を開いたのは格ではなく明だった。
「……電話?」
「え?」
「お前の?」
「え…っ…あ!」
ひょいと荷物の置いてある方を見て尋ねられ、格は背負って来たボディバッグを振り返った。
何かが振動する低い音がかすかに聞こえる。
遅刻しそうで慌てていたので、マナーモードにしたままで電源を落とすのを忘れていたのだ。
「わっ…と、いてて」
「ちょ…っおい!」
とりあえず電源を切るか電話に出るかしようと立ち上がった格が大きくよろめいて、それに咄嗟に膝を立てた明が手を伸ばす。
肘のあたりを掴まれて踏み止どまった格は、ほっとして振り返った。
「…サンキュ」
「足首やってんだから無理すんなよな。取って来てやるよ。どこ?」
「え…あっと、外の右側のポケット」
「オッケ」
少々素っ気なくはあったが明は軽く請け負って腰を上げ、駆け足で格の荷物の元へと向かった。なんともフットワークが軽い。
すぐに見つけて戻って来た明が差し出した携帯電話はまだ低い振動音を発していた。
外側の小さな液晶画面には“ルリ”と表示されている。
「カノジョ?」
「違うよ」
格は苦笑を返しつつフリップを開いた。そして、通話ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし?」
『…格…ッ!? よかった通じた!』
「ルリ? どうかした?」
顰めた声。安堵と緊張の入り交じった口調。焦りの滲む息遣い。
どうも様子がおかしい。
『どおしよ格…。やばいかも……』
「やばいって何が」
『景品にされちゃう…どうしたらええの?』
「そんだけじゃわかんねえよ。今どこで何やってんの?」
『え…ええと……クラブで会った人らとカラオケ行ったんよ。朝まで歌って……気が付いたらなんか男の数が増えてて、さっき賭けビリヤードが始まって、勝った奴はあたしのコト好きにしていいってことになってて――』
「…ちょ…っと待て、それって勝手にそんな話になってたわけ?」
『あたりまえやん! 男なら誰でもええわけやないもん!』
きっとあの露出の多い格好で夜遊びしていたんだろう。誘ってくる男がいてもおかしくない。
だが、ルリが承諾したわけでもないのに賭の対象になったりするのは尋常ではない。
「その賭けビリヤードって、すぐに決着つきそうか?」
『わかんない。でも人数多いからけっこう時間かかると思う』
「親父さんには電話した?」
『――してない』
「なんで?」
『……来てくれるわけないもん。あの人のことはもういい』
「……ルリ――早くそこ出ろ」
格はため息をつきたくなるのをこらえ、低い声で促した。
状況が把握できない部分も多いが、良い状況でないことは確かだ。しかし、電話をしているということは1人になれる状況にはあるということだ。
『無理かも…。見張られてるみたいなんよ。トイレ言うて出てきたけど……』
「場所は? どこだ?」
怯えたような声に嘘はないと判断して、格は押し殺した声で尋ねた。
だがルリの答えが返って来るより早くドンドンと何度もドアを叩く音が響き、男の声が小さく聞こえた。
『ルーリーちゃーん! まーだー?』
笑いを含んだその声は楽しげで、遊んでいるようにもからかっているようにも聞こえた。酒が入っているのかもしれない。
ルリが小さく息を呑む気配がする。
「場所だけ言ってすぐ電話切れ。これから行くから」
『あ、ちょっと待って、充電切れそう――』
「ルリ」
『場所は渋谷、どうげんざ』
電話の声は、そこで唐突に途切れた。
格は唇を噛んで携帯電話を握りしめる。詳しい場所はともかく、店の名前までは聞いておきたかった。
――さあ、どうする?
胸の内で自問自答した。
すぐに伊庭に連絡を取るか、自分ひとりで行くか。
古賀沢の客分の娘で、その客分が関西最大組織の幹部ときては、大事には出来ないのではないか。
だが、自分ひとりで行って何か面倒なことになった時は、かけなくてもいい迷惑をかけてしまうかもしれない。
すぐには判断がつきかねて、格は苛立たしげに前髪を掻き上げた。
勝負が始まったばかりというならまだ猶予はあるかもしれないが、どういった男が何人くらいいるのか今の電話だけでは全く判らない。
それに、本当に言葉通りに最終的に勝った1人がルリをどうこうするとは限らなかった。全員結託される可能性だってなくはない。
「…どうした?」
手の中の携帯電話を睨むようにして俯く格の背に、明が声を掛けた。
振り向くと、じっと格を見つめている。
「なんかあったのか?」
「…何も――」
ない、とは言えなかった。
格の発した言葉と電話の最中の様子だけでも、何かトラブルがあったとわかるだろう。
明にはなんの関係もないことだが、関係ないから放っておけとは言い捨て難い真っ直ぐな瞳に、格は口ごもってしまう。
「…あの、俺、急いで行かなきゃならないとこが出来て――ああでも反省中なんだっけ。師範に断らなきゃ」
「なんかトラブった? 手、貸すか?」
「いや、明とは面識ない人のことだし」
「そりゃわかってんよ。オレ、お前の親にも友達にも会ったことねえんだし」
明はあっさりと返して、それがどうしたと言わんばかりに腕を組む。
「じゃあなんで」
「くわしくはわかんねえけどさ、そのルリって女がお前に助けを求めてきたんだろ? で、お前は助けに行く気なんだろ?」
その通りだが、格はあえて首肯しなかった。明を引き摺り込むのはやはり気が引ける。
だが明は、格の沈黙を気にした風もなく確信を持って続ける。
「オレはそのコのことは知らねえけど、お前のことは知ってるし。で、お前が足痛めてんのも知ってるし。見たとこ簡単に済みそうな雰囲気じゃねえのに、怪我してんの知っててほっとけねえだろ。その怪我、オレが原因なんだしさ」
「だけど、言い方悪いかもしんないけど、ホントに明は関係ないから」
「うん、だから、お前に付き合うってことで。それなら一応関係なくはねえじゃん?」
小首を傾げた明が屈託なく問い掛けた。
つい数十分前までのかたくなさがすっかり消えてなくなって、本来彼が持っていた親しみやすさが戻っている。
「――でも、俺らだって会ったばっかで」
「まあ、トモダチとは言えねえし、知らねえことはいっぱいあるけどさ。同門で兄弟弟子なのは確かじゃん。お前がオレのこと嫌いで一緒にいたくねえってんなら話は別だけど」
「俺は明のこと嫌いじゃない」
格はすぐさま言い返した。
それだけは揺るがない。最初に感じた好ましさはずっと変わっていないのだ。嫌っていると思われたくはなかった。
明はその答えに一瞬驚いてから小さく笑みを浮かべると、格の肩を拳で軽く小突き、道場の入り口に向かって歩き出した。
そして、振り返りつつ格に告げる。
「着替えてくっからお前も着替えとけ。いいか? ひとりで行くなよ!」
面倒なことに巻き込みたくないという思いはあったが、格は明の言葉に頷いていた。
駆けていく後ろ姿は、実際の体格よりも大きく頼もしく見えた。
−続−
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