【第2部】Vol.2 ブルースカイ・ブルー (6)


「あれ? シゲじいだ」
「おう」
 すっかり暗くなってから古賀沢組の組事務所に戻ってきて、神之倉の部屋に通されるなり声を上げた格に、神宮寺は片手を上げて応えた。
 薄い鼠色の着物に同色の羽織り姿だが、素材が夏物のようでずいぶんと涼しげに見える。
 部屋の中には、神之倉と神宮寺の2人だけしかいなかった。
 神宮寺は格と神之倉との関係を知っているので、格は遠慮なく神之倉へと駆け寄った。
「ただいま、士朗」
「おかえり」
 神之倉は勢い良く飛び付いてきた格を抱き留めてその頭を撫でる。
 もっと触ってほしいと思ったが、マンションに戻るまでの我慢だと自分に言い聞かせて、格は神之倉から離れた。
「伊庭さんから電話をもらったが、見学させてもらえたんだってな。どうだった?」
「うん、入門させてもらった!」
 話を聞いてほしくて堪らなかったので、格は勢い込んで答えた。
「入門? 流派にか?」
「ん。今日も少し組手見てもらったけど、明日から稽古に通うことになったよ」
「――で、その組手でやったのか?」
「え? あ」
 頬に触れられて、格はやっと神之倉が何を言いたいのかに気付いた。
 痛みがなく煩わしくもないので忘れていたが、頬にはしっかりと手当ての跡がある。
「ああ――うん」
 格は少しだけ首を捻ってそう答えた。殴られたと言うと語弊があるような気がする。
 神之倉は何か言いたそうに口を開きかけたが、思い直したのか一度口を閉じた。そして格の顎に手を掛けて上向かせ、顔の右側と左側を順に見た。
「…少し腫れてるな」
「マジで? 痛くはないんだけど」
「うちに帰ったら湿布替えておけよ」
「うん」
「しかしお前、これまで通ってた道場や柔道部はどうするんだ?」
 神之倉からもっともな疑問が放たれる。
 その質問は予測していた。そして格も、どうしたものかと思っていたのも確かだ。
 だがそれは、武原がすべて解決してくれた。
「柔道をやるのもプラスになるだろうから、続けたい気持ちがあるなら続けてもいいって言われた。本気で集中して稽古できるなら部活のない時に来るんでもかまわないって。いままで行ってた道場には、さっき一緒に行ってきた」
 武原が出掛けようと言い出した時、格にはその行き先の見当が全くつかなかった。着替えてきた武原がスーツ姿だったのだからなおさらだ。
 佐月と和に見送られて車に乗り、道場の場所を確認されてやっと行先が分かった。
 早い方がいいだろうと武原は言ったが、入門を許されてからのあまりの展開の早さに格はかえって不安になった。
 どんな厳しい稽古にもついていく覚悟はしたが、子供は入門させないという仁武流でやっていけるだけの力があるのかどうかはわからない。
 その不安を察したのか、四輪駆動車のハンドルを切りながら武原が言った。
「とりあえずは俺と、強くなりたいっていう自分の気持ちの強さを信じてみろ」
 何の気負いもなく事も無げに言ってのけた武原に、格は「はい」と即答していた。
 道場に着くと、武原は道場の師範である清水に対してきちんと礼をもって接し、格を門下に譲り受けたいと告げた。
 清水は突然のことに驚いたものの、反対はしなかった。以前から格が仁武流に興味を持っていることを知っていたためか、淋しくなると言いつつも快く送り出してくれた。
 1年近く通っていたこともあって、格にも道場への愛着がある。淋しいと清水が言ってくれたことは、ありがたかった。
 様々な流派があり、流派の中にも派閥の存在するものもある中で、清水はおおらかな部類の道場主だと武原は言っていた。道場によっては、すんなりと別の流派に移りにくい場合もあるようだ。
 大流派ではないということもあるが、清水自身が格闘技好きということもあるのだろう。仁武流という流派を知らないかと尋ねた格に宗家の出ている試合のビデオを持っていると言った嬉しそうな笑顔が思い出される。
 武原とは、古賀沢組の事務所近くで別れた。これからどうするか問われて、報告したい人がいると言うと送ってくれたのだ。
 来られるなら明日も来いと言う武原に、格は頷いた。柔道部は午前中のみなので、午後からでも武原に不都合がないのなら行きたいと思っていたのだ。
 稽古をつけてもらいたいというのもあるが、なにより、明にきちんと謝りたかった。
 だがこれに触れると顔の傷が稽古中の傷ではないことが神之倉に知られてしまうので、事務所の近くまで送ってもらったというところまで話した。
「そうか――ずいぶんと面倒見のいい人なんだな」
「うん。でも誰にでもって感じでもないんだよ。なんつーか……」
 誰に対しても当たりも印象も良い“いいひと”という風ではない。
 伊庭との会話中に見せた不敵な笑みやビデオで見た試合運びからすると、おそらく“敵”に対しては至極冷静かつ攻撃的だ。
「懐に入れた人間に対しては寛容で手間を惜しまねえっつうことか」
「そう、そんな感じ!」
 上手い表現はないかと宙を仰いだ格の後を引き取るように言った神宮寺に、格は手を打って応じた。
「仁武流宗家ってなァ武原って男だろ? 噂通りの男らしいな」
「シゲじい知ってんの?」
「大阪の武原組の跡目だった子だろう? って、こっちのこたァお前は知らねえか」
「ううん、それは聞いたから知ってる。関東でも名が知られてるくらい有名な組だった?」
「名前だけはな。だが、組がなくなってもう20年だか30年だか経ってってから、いまでも覚えてる奴ァ関東
(こっち)にゃ少ねえだろうなあ」
 神宮寺は懐手で顎を撫でながらそう答えた。
「――…なんで組がなくなったのか、シゲじいは知ってる…?」
 聞いていいものかどうかという葛藤の末に、格は神宮寺に尋ねた。明が格に対して激怒した原因が、そこにあるような気がしたからだ。
「おおまかなとこはな。簡単に言うと、抗争で潰されたんだよ」
「抗争……」
「武原は元を辿れば侠客の集団で後に香具師の元締めっつう古いタイプの極道でな、縄張り内の堅気衆ともまあまあ巧くやってたんだそうだ。だがある時、武原の縄張り一体に土地開発計画が持ち上がった」
 新興住宅地、そして商業地域やレジャー施設など大規模な開発が計画されていたという。それには莫大な金が動くが、武原組にはその利権に手を出す気はあまりなかったようだ。
 だが、武原がそれをいらないというならば縄張りごと奪ってやろうと動き出した組が現れた。
 武原組は当初それを相手にしなかったが、彼らは諦めるどころか激しい攻勢に出始め、やがて小競り合いどころでは済まなくなった。
 ある日、何をしても巧くかわし続ける武原組にしびれを切らした相手の組の若い者が暴走して均衡を破り、あっという間に本格的な抗争に突入した。
 相手は必要以上に血の気の多い若い組で突進力もあったが、それなりにうまくやっていたがゆえに地域の堅気衆へと飛び火することを避けようとしていた武原組の方が逆に身動きが取りづらく、後手に回ってしまった。
「そんで、しまいにゃ組の本部に殴り込まれて流血沙汰だ。しかも火までつけられた」
「火って……古賀沢もそうだけど、組の本部って山ん中とかにあるわけじゃないんだろ?」
「武原もそうさ。だから、結局は半焼程度で類焼もしねえで済んだらしいが、大騒ぎになっちまった」
「その相手の組って……馬鹿?」
 格は呆れ果てて呟いた。長く地域の人間と巧くやっていた組と成り代わろうというのに、あからさまに火事や流血沙汰を起こしては敵を増やすだけだ。そればかりでなく、派手にやればやるほど警察の介入の確率も高くなるということは、格にだって判る。
「だな。その騒ぎで手打ちどころじゃなくなって、自分のとこも潰れるはめになっちまったそうだし」
 神宮寺は格の言葉に頷いて、武原と敵対していた組の末路を話した。
 抗争で動ける組員が減り、首謀者として幹部が逮捕され、組員も多数検挙された。そして組としての力もなくなり、関西の裏社会からも弾き出されて、組は自滅したようだ。
 一方、一連の騒動で警察の目も地域の目も厳しくなるとはいっても、武原組は長くその地に根付いていた組だ。やり過ごす手もあっただろうが、それをしなかった。
 自ら組を解散してしまったのだ。
「なんでも、組長が跡目を誰かに譲って自分
(てめえ)は廃業ってのを決めると、幹部連中から若いのまで結構な数が組長に続いちまったらしい」
「…そういうことってよくあんの?」
「ごっそり抜けるってなァなかなかねえよ。武原にしても半分は足洗わねえで残ったようだしな。その残ったのをまとめて組を興して武原組の縄張りを引き継いだのが、武原最後の組長の一番若い弟分で副島克也って男だ」
 そういうことか――格は、伊庭と武原の会話の中で副島の名が出て来たことを思い出した。あのとき武原は「かつにい」と言いかけたが、兄のように思っていた男だったのだろうか。
 古賀沢もそうだが、“一家”というだけあって組員の結束は堅い。擬制の血縁関係とはいえ、組の解散は一家離散のような感覚なのかもしれない。
「……なんでやめちゃったのかな」
「面識がねえから本当のところはわからんが、自分の首で責任を取るってぇのと、やっぱり妻子が死にかけたってのが大きかったのかもしれねえな」
「死にかけた?」
「本部に殴り込まれた時にな、武原の息子が大怪我してんだよ」
「大怪我って…」
 もしかして――
「聞いた話じゃァ背中をざっくりやられたらしいな。襲われた母親を庇って切られたそうだ」
 やはりそうだった。
 武原の背中に残る大きな古い傷跡が、格の脳裏に甦る。
「抗争ってなァ終わらせ方が肝要なのさ。逆上して冷静さをなくしちゃ分が悪ィ。組長の女房が殺られても、息子が死んでも、誰かしらブチキレてたろうからな、守った上で生き残ったってェのは大きかった」
 極道には極道なりの不文律がある。仮に抗争に発展しても、後々の手打ちの場で極力事を平穏に運ぶには、手を出してはならない領域を避けておくのが無難だ。
 力と力のぶつかり合いならばなおさらその世界での格付けや後々の力関係まで影響するため、手打ちでは五分以上の条件に持ち込みたいものだが、筋を通さず道から外れては五分も何もない。
「なんでも息子は、意識が戻っていの一番に母親と組員と本部の安否を尋ねたそうだ。姐さんも本部も無事ならここでもう手打ちだと理解してたらしい。最初に聞いた時ァ信じ難かったが、何人かの関西の奴から武原の跡目は安泰だと聞いたから、どうも確かなようだな」
 武原家の居間で伊庭も跡目の話をしていたので、本当なのだろうと格は思う。
 30年前なら、武原はまだほんの子供だ。だが、母親を死なせたくなかったというのが行動の理由の大部分だったとしても、組員を家族のように思って心配していたのだとしても、組の本部が焼失することの意味をわかっていたのなら、たしかに次の跡目だと目されるのもわかる。
 傷について大層なものではないと武原は格に言ったが、そんなことはなかった。そして、自分からは明に話そうとしない理由もなんとなく判るような気がする。
 過去を疎んでいるわけではないがもう戻らないと決めている武原には、いまさら話す必要のないことなのかもしれない。
「…で、足を洗った後は関東に移ったらしいってのは小耳に挟んでたんだが、それから10年くらいしてから息子の方の名前を聞いた」
「え?」
 神宮寺の知る武原の“うわさ”は30年前のことだけだと思っていた格は、続いた神宮寺の言葉に思わず問い返した。
「東京のやんちゃなガキどもから一目置かれてる毛色の変わったのがいる。どこかに属してるわけでも何かを率いてるわけでもねえが、顔が広くて大層強ェ…ってな」
「それが……洋さん?」
「本来ならガキどもの喧嘩なんぞは放っておくんだが、大阪のヤクザが絡んでるって噂があってな。大まかなとこを探らせてた中で名前が出て来た。武原洋って名前だったぜ。年頃も名前も武原の息子と同じだ。そうよくある名前でもねえし、別人ってこたァねえだろうよ。その噂を聞いた頃に伊庭が関東に来ていたが、もしかしたら目的は武原の息子だったのかもしれんな」
 なんだか意外な気がした。おおらかで気さくな武原には世を拗ねていたような面影はない。
 だが、格の知らない過去のことを断言は出来なかったし、伊庭が20年前に武原を尋ねているのは二人の会話からも明らかだ。
 たしかに、どこかに属さなくとも何かを率いなくとも、彼の度量の広さは人を惹きつけたろう。
 堅気かそうではないかで弟子は選ばないと武原は言った。人と人が付き合っていくのにそんなものは関係ないと。
「面倒見がよくて度量がでかい男ってのは、性別やら年齢やらを超えた魅力があるもんだからな」
「うん…そうだね。わかるよ」
 神宮寺の言葉に格は深く頷いた。
 最初に憬れたのは彼の空手だが、実際に会ってみてそのひととなりに強く惹きつけられた。
 そして人柄に惹かれただけでなく信頼するに足る人だと感じたからこそ、彼の元で強くなりたいと思ったのだ。
「まあよかったじゃねえか。いい男でよ」
「うん」
 笑って促した神宮寺に、格も笑みを返した。
 そこへ、会話が途切れるのを見計らったかのように内線が鳴った。黙って格と神宮寺の会話を聞いていた神之倉が立ち上がり、受話器を取り上げる。
 神之倉は言葉を2、3交わしたのみで受話器を戻し、神宮寺を振り返って蒔麻が戻ったと告げた。
「おお、そうか。そんじゃあちょっと顔見て帰るかな」
 神宮寺はすぐに腰を上げた。どうやら蒔麻の帰りを待つためにここにいたらしい。
 神之倉は先に立ち、神宮寺のために部屋のドアを開ける。
 しかし、部屋を出た神宮寺に続こうとした神之倉を、神宮寺は部屋の中に追い返すようにして押しとどめた。
「部屋の場所がわからねえわけじゃなし、一人でかまわねえよ」
「しかし」
「いいからほっとけ。そんで少し格をかまってやれ」
「は?」
「そんじゃあな、格」
「うん」
 囁かれた最後のひと言に神之倉は思わず問い返したが、神宮寺はそれを無視して格に声を掛け、神之倉の胸に拳を軽く打ち付けてひとり出て行った。
「シゲじい、なんだって?」
「ああ……」
 軽く息をついて戻ってきた神之倉に首をかしげて格が尋ねた。神之倉は曖昧に答え、格へと手を伸ばす。
 そして、髪を梳くようにして頭を撫でた。
「なに?」
「いや……よかったな、入門」
「うん! めちゃくちゃ嬉しい」
 格が満面の笑みを返した。その心底嬉しそうな表情に小さく笑みを返して、神之倉は格の座っているソファの肘掛けに腰を下ろす。
「士朗は武原組のこと知ってた?」
「いいや。30年前の大阪のこととなるとさすがにな。驚いたよ」
「俺も。でも会ってみると納得っていうか……いろんなこと経験してるからあんなにあったかい人なのかもしんない」
「そうなのか」
「話してみるとすっげえあったかくて、かっこよかったよ。稽古は甘くはないしこれからもっと厳しくなるだろうけど、洋さんが教えてくれるなら頑張れると思う」
「洋さんっていうのか」
「うん。武原洋さ――…あ」
 答えかけてはっとし、格は己の口を手で覆った。顔を覗き込むようにしてどうしたのかと目で問われ、格は手を下ろして苦笑する。
「そう呼んでいいって言われた時は無理だと思ったけど、本人がいないと言えちゃうもんだね」
「本人の前ではなんて呼んでるんだ?」
「師範、かな。それからね、思わず見惚れちゃうくらい美人の奥さんがいんの。柔らかい感じの人なんだけど、実際はすんごく強い人なのかも。洋さんの奥さんだし」
 背中の傷についての武原と妻との会話を反芻し、格はひとり頷いた。
 武原は、息子の明よりも妻の佐月に傷の話を聞かせたくないようだった。思い出させて辛い顔や哀しい顔をさせたくないという理由からすると、傷を負ったその時にはもう2人は知り合っていたのだろうか。
 大阪に戻る気はないと伊庭に言った武原の表情が思い出される。
 家や家族やペットなど、目に見えるものは豊かで幸せな光景だった。しかし、それを得るまでの道程は、なだらかなものではなかったのかもしれない。
「格?」
「あ、うん。あと、奥さんに似てるすっげー可愛い娘さんが5歳くらいで、その弟がまだ赤ちゃんで――…長男が俺と同い年で、空手やってる」
「良かったじゃないか。気は合いそうか?」
「…うん」
 答えに、ほんの僅かだが間が開いた。しまったと思ったが、もう遅い。
 だが、神之倉は何も言わなかった。
 体を捻って上体を格の方へ向けると、何も言わずにただ格の側頭部をぽんぽんと柔く叩く。そして髪を梳くようにして手を後頭部へと滑らせて、格の頭を軽く胸に抱いた。
 我ながら現金なものだと格は思ったが、謝れば明が許してくれるのか、今後うまくやっていけるのかといった不安が、神之倉に抱き寄せられただけでふっと和らいだ。
 首筋を包む手のひらのあたたかさに、うっとりと目を閉じる。
 すると、神之倉の空いていた右手が格の頬に触れた。
「……士朗?」
 顎下を持ち上げられて上向かされた格が、目を瞬かせて問い掛ける。
「…痛むか?」
「え? ああ、大丈夫だってば。すぐ湿布してもらったし、もう全然――!?」
 言葉尻が飲み込まれ、格の目が驚きに見開かれた。
 身を屈ませて格の唇の端に舌を這わせた神之倉は、そっと傷を舐めて「少し苦いな」と呟いた。
「く…薬塗ってあんだから美味くなんてないってば」
 唇を重ねられたわけではない。舌先が割って入ったわけでも、口腔を弄われたわけでもない。
 それなのにやけに気恥ずかしく感じて、格は頬を赤らめた。当の神之倉は平然としている。
 格は神之倉の表情を窺うように見上げていたが、やがて立ち上がり、肘掛けに座る神之倉の正面に回り込んだ。神之倉は捻っていた上体を元に戻し、格へと視線を向ける。
 今度は目線より低い位置になった男の顔を見下ろして、格は躊躇いがちに切り出した。
「…あの、さ…」
「ん?」
「あの……ここが事務所だってのはわかってるんだけどさ」
「ああ」
「――キスしていい?」
 昼間髪にキスされたことを思い出し、ほんの少しの期待を込めて、駄目で元々と思い切って尋ねてみる。
 唇を掠めた舌先だけでは足りない。もっとちゃんと触れたいと、跳ねる鼓動と熱を帯びた体が求めている。
 それでも、巧くかわされるだろうと思っていた。だが予測していた反応はなく、代わりに神之倉は軽く両腕を拡げた。
 その仕草に導かれるようにして体を寄せ、座った神之倉の脚の間に入り込む形になった格は、両手を神之倉の首に回す。
 神之倉に、避ける気配はない。
 格は上体を屈めて、そっと顔を近付けた。
 ここが組事務所だからか、妙にドキドキする。思えば神之倉の自宅でのキスは、誰かに見られる心配をすることがない。
 唇は重ねるだけにとどめて離し、格は神之倉の首に回す腕に力を込めてしがみついた。
 軽く抱き返してくれる神之倉の腕の中は、なんとも心地よい。だが、ずっとこのままでいるわけにはいかなかった。
 あと5秒だけ、と心に決める。
 声には出さずに幾分ゆっくり5つ数えて、腕をゆるめた。
 じんわりと体の中に満ちるものがある。嬉しい言葉や楽しい一日より、ただ触れるだけの行為が力になる。
 大丈夫。
 明日は自分から明に話しかけてみよう。
「格?」
「充電完了」
「そうか」
 やはり神之倉は多くを聞かずに、そう答えただけだった。
 すると、ふいに神之倉が立ち上がった。そして真っ直ぐにドアへ向かって歩いて行く。
 足音を立てていないことにすぐに気付いた格が不思議そうに見守る中、神之倉はドアノブに手を掛けて間髪いれずに開け放った。
 扉の向こうにいた、今まさにドアを叩こうとしていた男が、自動ドアのように開いた扉に驚いた顔を見せる。
「氷上」
 格は現れた男の名を口にした。
 氷上は部屋の中の格を目に留め、口の端に笑みを浮かべる。
「格、四代目がな」
「蒔麻さん? なに?」
「今夜自宅に遊びにこないか、だと。手料理を振る舞ってくれるってさ」
「ホント? 行く行く! ――士朗と氷上は?」
 格は立ち上がって神之倉の傍らまで駆け寄り、出入り口を挟んで立ち尽くしたままの二人に尋ねた。
 神之倉は微苦笑を浮かべて首を横に振る。
「残念ながら食事は無理だな。1、2時間で済むんだが、このあと出掛けなきゃならん」
「氷上も?」
「俺はひと仕事済ませて行くから、四代目の部屋で待ってな」
「ん、わかった」
 頷いた格は少し残念そうな顔をした。
 神之倉と離れ難かったのだ。話をするだけでいいので、もう少しそばにいたかった。
 それを察してか、神之倉の手のひらが格の背に添えられ、「あとで迎えに行く」という声が降って来た。
「…うん」
 格は笑顔に戻って、一度荷物を取りにソファまで戻ると、ひとりで蒔麻の部屋へと向かった。
「――まったく、お前は格に甘いんだか辛いんだか」
 格を見送って踵を返した神之倉を追うように部屋に入った氷上が、ドアを閉めながらそう言った。
 神之倉は肩越しにちらりと視線を寄越したがその言葉には答えず、デスクの上にあった煙草に手を伸ばす。
 氷上は答えなど最初から期待していなかったといった風情で、先ほどまで格が座っていたソファに腰を下ろした。
「…ひと仕事済ますんじゃなかったのか?」
「ああ」
 答えはしたが、出て行く素振りは見せない。
 神之倉は未見の書類の束を手にソファへと戻って来たが、両膝に肘を乗せ組んだ指に口許を埋めた氷上と目が合うと、ぴたりと足を止めた。
「――…どこから見てたんだ?」
 しばしの沈黙の後、低い静かな声で、神之倉が氷上に尋ねた。
 氷上は顔を上げ、少し肩をすくめて見せる。そして、さらりと答えた。
「すぐそこで御大と行き合ったぜ」
 再び沈黙が訪れ、神之倉はソファに腰を下ろして書類をめくり始めた。
 だが、それも長くは続かなかった。
 観察するような氷上の視線に手を止めた神之倉が、深いため息を吐く。
「――我慢しないで笑ったらどうだ」
「何を?」
「とぼけるんじゃねえ。さっきから堪えてんのはわかってんだよ」
 静かだった神之倉の口調が伝法なものに変わる。
 それが合図であったかのように、氷上が吹き出した。
 それでもなお咳払いをして誤魔化そうとした氷上だったが、努力は儚く散った。
 肩を震わせて笑い出し、やがて笑い声が洩れる。
「……遠慮のかけらもねえな」
「だ…って、お前…ッは…ははは…っ」
 爆笑するのは辛うじて堪えているといった様に、神之倉はまたもため息を吐いた。しかし、眉間にしわを寄せて苦虫を噛み潰したような表情をしているが、笑う氷上を止めようとはしない。
 やがて、ひとしきり笑ってからやっと氷上が言った。
「お前も妬くことがあるんだな」
「…妬く、というか――」
「妬けたんだろ? 格の新しい師匠へのベタボレっぷりに。いや…師匠夫婦に、か? えらい誉めようだったな」
 神之倉は氷上の言葉を否定せず、ふっと息を吐いて前髪を掻き上げた。
 氷上は意地の悪いまなざしで興味深げに神之倉を見遣る。
「だけどお前、ルリにはそんなんじゃなかったろうが」
 伊庭の娘であるルリ子が格に執心していたこの3日間は、最も気が気でない様子だったのは蒔麻で、神之倉はどっしりと落ち着いていた。
 今も慌てた素振りは見せないが、いつもの神之倉なら組事務所でキスなどさせないはずだと氷上は思う。
 格もそれをわかっているのか、神之倉との関係を知っていてプライベートで顔を合わすこともある氷上や蒔麻の前でも、抱きつく以上のことをしようとしない。
「……あの娘は格のタイプではなかったからな」
「…って、好みのタイプのことか?」
 返って来た神之倉の答えに氷上は首を捻って問い掛けた。神之倉は頷いて先を続ける。
「人懐こいしあたりもいいが、あれで好みのタイプははっきりしてるんだよ。好みでも好みじゃなくても接する態度はそれほど変わらないが、入れ込み度が変わる」
「タイプってどんな?」
 思えば氷上は、格がどんなタイプが好みなのか知らない。初めて会った時から、格は神之倉しか見ていなかったからだ。
「…簡単に言えば、芯の強い年上の人――だな。四代目がど真ん中だ」
 格が“これまで好きになった人”について神之倉に話してくれたことがある。
 保育園の保母から近所の女子高生に至るまで、皆一様に格よりも10歳以上年上の女ばかりだった。
 もちろん顔立ちやスタイルなどの見た目にも目は行くようだが、心惹かれるのは凛と背筋を伸ばしている姿らしい。
 格の年頃では、概ね男より女の方が精神年齢が高いが、そのさらに上を行く格には、いまはまだ同年代より年上の方が好みに合うのだろう。
「なるほど……たしかに蒔麻さんには入れ込んでるな。しかしお前、牽制の仕方が巧妙っつうか力業っつうか――わざと格から仕掛けるようにし向けたろう、このむっつりスケベ」
「うるせえ」
 にやりと笑って口撃してくる氷上に、神之倉はひと言だけ返した。舌戦になったところで勝ち目はない。
 だが、今回は一応弁解しておこうと口を開く。
「…別に牽制しようと思ってしたわけじゃない」
 格が誰に入れ込もうと、阻止しようという気は神之倉にはなかった。格が傷つかなければそれでいい。それすらも構わないと格が言うのなら、自分はただ見守るだけだ。
 面識のない誰かの下の名を呼び目を輝かせて語る様には、それが憧憬や尊敬でなんの他意はなくとも、心に掛かる複雑なものが何もないわけではなかった。
 だが、格を雁字搦めに縛り付けて自分だけを見させておこうとは、まったく思っていない。
 実際に会えば、格の気持ちも解るのだろう。格の“人を見る目”は確かだ。
「じゃあなんだ、単にむっつりなだけか」
「少し沈んでたんだよ、あいつ。だから気分が変わればと――」
 憧れの人に会えて心底嬉しそうではあったが、どこが元気がなかった。顔の傷に関連してのことだと、その態度からすぐにわかった。
 誘導して聞き出すことも考えたが、触れてほしくなさそうだったので、あえて聞くことはしなかった。しかし、屈託を抱えたまま放ってはおけない。
 だから、少し気分を高揚させようと思ったのだ。
 それなりに効き目はあったようだが、氷上に見られるとは思いもしなかった。
 途中までまるで気配が無かった。部屋の近くで神宮寺と擦れ違ったのなら、その時点で足音を消し気配を殺して部屋の前まで来たのだろうか。
 気付かなかった己の不覚としか言い様がないが、氷上も意地が悪い。
「そういうことなら、早々に邪魔が入らなくて良かったじゃないか。お前にとっても、格にとっても」
 神之倉の声にはしない非難を読みとったかのようにしらっと言い放ち、氷上は煙草を銜えた。マッチを擦る音が小気味好く響き、ロングピースの先端から細く長い煙が立ち上ぼる。
「さっさと仕事を済ませて四代目のところに行け」
 一度紫煙を吐き出すまで待って、神之倉は言った。つい声が低くなり、脅すような口調になる。
「そうだな。ぼちぼち行くか」
「仕事は?」
「いま済ませた」
 そう言って立ち上がった氷上を目で追って、神之倉は氷上の言う“ひと仕事”が何のことかを悟る。
「まったく…四代目を優先しろよ」
「してるさ。だから格を先に行かせたんだろうが」
 神宮寺は蒔麻の顔を見てすぐに帰ると言っていた。
 それなら、氷上が蒔麻の元に戻るまでの束の間だが、組長室には蒔麻と格の2人だけだ。
 蒔麻の自宅にはルリがいるので、いつものように2人で語らうことは難しい。
 ルリの強引さを良くは思っていない蒔麻だが、だからといってあからさまに張り合うほど子供ではない。加えてルリは古賀沢の客分の娘だ。気に入らなかろうがなんだろうが、組長としての蒔麻は、客分の娘を無下に扱いはしない。
 ルリとのことで気を揉んでいた蒔麻だが、直接格と話せば心も晴れるだろう。
「四代目はともかく、積極的な若い娘やら憧れの年上の男やら――次から次へと大変だな、お前も」
「そう思うなら少しはいたわってくれ」
「俺はいつでもお前にやさしいだろうが」
「ぬかせ」
 白々しい氷上の言葉に、神之倉は素っ気なく吐き捨てた。
 時に容赦がないのは互いを許容している証なので、こんなやり取りも殺伐とはしない。
 氷上は気にもせず、笑いながら神之倉に背を向けた。


−続−



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