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【第2部】Vol.2 ブルースカイ・ブルー (5)
庭で鳴く蝉の声が、どこか遠くで聞こえる気がした。
道場内の温度は先ほどまでとはたいして変わらないはずだが、焦りと体温の上昇とで吹き出した汗が、顎を伝って落ちる。荒くなった呼吸は乱れる一方だ。
格は、襲ってきた蹴りをなんとか躱し、明との距離を空けて間合いを取った。
繰り出される明の攻撃は、1年弱の空手経験の中では味わったことのない早さで、一瞬たりとも気が抜けない。
「格。よけてばっかじゃなくて手を出せ、手を」
神棚の前に立って見ている武原から声が飛ぶが、そんな余裕はまったくない。明の体の動きに集中して、視線を切らさないようにするので精一杯だ。ただでさえ、通常の試合時間をとうに超えている。
格なりに攻撃も試みているのだが、明は攻撃だけでなく防御も巧く、なかなか打ち込める隙がなかった。
そして、動きの所々が武原に似ていて、つい見惚れてしまいそうになる。
これでは駄目だと気を引き締めなおした格に呼応したのか、左足を滑るように動かした明が格との距離をじわりと詰めた。
格は用心しながらゆっくりと左へ重心を移動させる。
すると、明の足が床を蹴り、一気に2人の間の距離を詰めにかかった。
格はすぐさま腰を落とし、防御のために身構えた。しかし、懐に飛び込んで来るだろうとの格の予想は大きく外れ、明は格に肉薄することはぜずに随分と手前で踏み切った。
「…え…? って、うわッ!」
次の瞬間、格は思わず声を上げて、咄嗟に右斜め前方へと回り受け身を取っていた。
大きく前へと跳んだ明の体が空中で独楽のようにくるりと1回転し、回し蹴りを放ったのだ。
ここがバスケットコートならフリースローラインとリンクほどはあるだろう距離を跳んだ明の左足が斜め上から振り下ろされ、格が元いた空間を袈裟掛けに切り裂く。
受け身を取って振り返った格は、そのバネの見事さに感嘆した。同時に、明の足が空を切る音の鋭さが耳の奥に蘇り、首筋が寒くなる。
「くっそーッこれでも決まんねえのかよっ」
「明! 派手にやりゃあいいってもんじゃねえぞ」
「わあってるよ!」
明は武原に向かって苛立ちを交えた返答をし、次の動きを読むために格の瞳に視線を向けた。
格は目を逸らさずに、極力感情を表に出さないよう努めながら考える。
武原にはまだ止める素振りはない。だからといって、止められるまで逃げ回ってはいられなかった。「手を出せ」と武原は言ったのだ。
だが明のスピードにはついて行くのがやっとで、明の攻撃を躱した上で有効な攻撃を返すにはまだ習練が必要だろう。
いま格にできる範囲で戦うにはどうしたらよいのか。
そこまで考えたところで、組み手を始める前の武原の言葉が脳裏を過ぎった。
――全部のスキルを出していい――
いま自分が持つすべての技を出しただろうか?
答えは否、だ。
しかし、武原の言葉をそう解釈してよいのかどうか、格には判断がつかなかった。
もしかしたら格の思い違いで、叱られるかもしれないし入門を取り消されるかもしれない。
だが、このまま何も出来ないで終わるのは嫌だった。
格の目を探るように見ていた明の表情がわずかに変わった。
何か顔に出てしまったのかもしれないが、格は構わずに床を蹴った。こちらの手の内を明は知らないのだ。
積極的に拳を打ち込む。
明はそれをなんなく避けて逆に懐に入り込んで来た。
頭より先に体が反応し、ぞくりと戦慄が走った。繰り出された肘を咄嗟にブロックする。受け止めた腕に衝撃が走ったが、力任せに明を撥ね除けた。
ごろりと背中から転がってしまった明はそのまま後方に一回転し、体勢を整えるやいなや床を蹴った。
力づくで撥ね除けられるとは思わなかったのか、簡単に転がされて気に障ったのか、突きと蹴りの連打を放って来る。
格はそれを受けながら、ひとつの事に集中した。
拳。上段への突きを逃すな。
「…っの――」
押しても押しても決定打を打ち込めない苛立ちを明が声にする。
そして強烈なローキックを格が脛で受けた瞬間、明の右の拳が閃いた。
あらかじめそれを待っていなければ決まっていたかもしれない鋭い正拳を紙一重で躱し、格は明の右腕に手を伸ばした。
左手で明の右手首を掴み、突きの勢いを借りて、自分の体に巻き込むようにして思い切り手前に引く。
腕を捻って体勢を崩すと、小柄な明の体はいとも簡単にころりと床に転がった。
格は明の上に身を乗り出すようにして片膝をつき、右の拳を構える。
明の目が、大きく見開かれた。
刹那、手を打ち鳴らす小気味好い音が道場内に響いた。そして、
「そこまで」
張り上げなくともよく通る武原の声が、終了を宣言した。
格は明から離れて立ち上がり、転がったままの明に手を貸そうとしたが、明はその手は取らずに腹筋だけで体を起こして武原の方を見た。
「――親父!」
「ん?」
「今日からウチに入門したヤツがなんで投げ技使えんだよ!?」
「そりゃ使えるさ。合気道と柔道もやってんだから」
「……な……ッ」
明は一瞬きょとんとしてから、やっと言葉の意味が脳に達したかのように一拍遅れて声を上げた。
「きったねえ〜! 先に言えよなあ!」
「アホ。いちいち流派やら得意技が事前にわかるのは“試合”だけだ」
明の抗議をにべもなく退けて、武原は肩で息をしている格に向かって笑いかけた。
「いい投げだったぞ。右の正拳を狙ってたな」
「はい、あの……よかったんですか?」
「何がだ?」
「空手技じゃない技、使っちゃって…」
「最初に言ったろ? 全部出していいって。だいたいな、明」
武原はさも当然だといった調子で答えると、軽く息を吐いて明を振り返った。
「投げ技も固め技も、その返し方も教えてるだろうが。不意打ちだろうが空手じゃなかろうが、対処できなけりゃ稽古の意味がねえぞ」
「う……はい…」
もっともな指摘に言葉に詰まった明は、今度は不承不承頷いた。
言葉の解釈が間違っていなかったことに、格はほっと胸をなで下ろす。しかし、武原は褒めてくれたが、不意をつけたから決まっただけで、そうでなければ完全に格が負けていた。
肩で息をしている格に対して、明は呼吸が少々乱れている程度だ。しかも明は、いずこからか走ってここへやって来た。スタミナの違いは明白で、投げが決まらなければ、いずれ躱しきれなくなっていたに違いない。
氷上には筋がいいと、空手道場の師範には上達が早いと、柔道部の顧問には飲み込みがいいと言われた。
だからといって強いというわけではない。上には上がいるのだ。
だが不思議と、悔しさよりは清々しさの方が大きかった。明の空手は武原が教えたものだ。それに敵わなかったのなら仕方がない。
これで終わりというわけではないのだ。現在の己を知って、また上を目指せばいい。
武原の元でなら、今よりもっと強くなれるという確信めいたものが格の胸にあった。
「さて、そんじゃあ少し稽古つけるかな」
そう言って身を翻し、武原は奥の小部屋へと向かった。
「稽古って…え? 空手の…?」
「他に何の稽古すんだよ」
信じられない思いで呟いた格の真後ろから不意に声がして、格は慌てて振り返った。
そこには、不機嫌そうな顔をしている明が立っていた。視線は格からは逸らされている。
「や、あの、入門できるなんて思ってもみなかったし、まさか今日稽古つけてもらえるなんて思わなかったからびっくりして」
「……お前、親父のファンなの?」
「うん」
問い掛けられ、格は迷うことなく即答した。
「――そっか」
明はぶっきらぼうに返して頭を掻き、咳払いをひとつする。そしてやっと格の顔を見て、笑みを浮かべた。人好きのするその笑顔は、やはり武原とよく似ている。
「合気と柔道だけじゃねえよな? 空手もやってんだろ?」
「来月で1年かな」
「合気は長えの?」
「空手よりも少しだけ長いくらいだよ。柔道はガッコの部活でやってるだけだからまだまだだけど」
「…はー……親父が気に入るはずだぜ」
独白めいた呟きを耳にして疑問を表情に乗せた格に、明は笑ってみせる。
「うちの流派は投げも関節もありだけど、修行の一環で若い頃はいろんな武術やってたんだよ、親父。んで、技を見切る目ってのをかなり重要視してっからさ」
もう一方の道場で「いい目だ」と言われたことを格は思い出した。以前氷上にも言われたことがあるが、それがこの思いがけない入門に繋がったのなら嬉しい。
「空手歴1年でおれの攻撃をあんだけ躱した奴はいねえよ。ムカつくけど、やるじゃんお前」
「俺もびっくりした。空手始めてから経験したことないスピードだったよ。それなのに打撃は重くて」
格はそう言いながら、明の蹴りを受けた腕に触れた。いまだに少し痺れているような気がする。
タイミングなのか、バネなのか、軽そうな体からは想像しがたい重い蹴りだった。油断していたら吹っ飛ばされていてもおかしくはなかったろう。
明は嬉しげな笑みを口許に浮かべた。
「おれのことは明でいいから。親父と同じだと呼びにくいだろ? おれも格って呼ぶからさ」
「うん、サンキュ」
なんと呼べばよいのか迷っていたところだったので、格は笑顔で快諾した。
“武原くん”とも、“武原”とも呼び難い。
そこで、明がひょいと格の背後を見た。振り返ると、武原が上半身裸でこちらへやって来るところだった。脱いだシャツは手に持っている。
服の上から見た限りでは格闘家然とはしていない体格だと思っていたが、着痩せするのか想像以上に逞しかった。
しっかりと引き締まり、肩や胸の厚みもあり、腹筋はきれいに割れている。どこも“形”として作り上げられた筋肉ではなく、鍛練の果てに自然に出来上がった筋肉だ。
「なに半端なカッコしてんだよ。空手着は?」
「こっちにあると思って上脱いだらなかったんだよ。着て来るからちょっと待ってろ」
「はいよ」
もしかして武原の予備を自分が着てしまったのではないかと格は慌てて道着に視線を落とした。しかし、格には大きかったが邪魔になるほどではないので、武原のものにしては少々小さいような気もする。
そんな格の頭を、すれちがいざまに武原の手がごく軽く叩いて行く。
優しい感触のそれに、格は顔を上げて武原を見やった。
そして、視界に飛び込んできた武原の背中に目を奪われる。
その背には、右の肩甲骨の内側あたりから左腰にかけて、一本の傷跡が残されていた。
間近で見なくともくっきりと見えることで、浅くない傷だと判る。
余裕にあふれた鷹揚な背中に刻まれたそれに何か不似合いなものを感じ、だが強く惹きつけられて、格はじっと武原の背を見送った。
「……どーした?」
武原の姿が見えなくなってから、明が声を掛けてきた。
格ははっとして何でもないと言いかけたが、その瞬間かつて目にした神之倉の背中が思い浮かび、武原の背中に感じた違和感の正体に気付いた。
“背中に傷がある”というのが似つかわしくない気がしたのだ。
「うん…背中――」
問われるまま答えかけて、格は続く言葉を飲み込んだ。踏み込んで尋ねてよいのか判断しかねたからなのだが、明はあっけらかんと返す。
「あー、あれ? ずいぶん古い傷だよ」
「そうなんだ。武原さんて背中に傷負いそうにないからなんか不思議な感じしてさ」
答えの明瞭さに触れてはならないものではないようだと判断し、格は思ったことをそのまま口にした。
しかし、格の言葉を聞いた明の顔から表情が消えた。そして再び浮かんで来たのが怒りの表情だったことで格は己の失言を悟ったが、何が明の気に触ったのか判らない。
「あ…あの――め、明…?」
「あれが後ろ傷だって言いたいのか?」
「そんなことは」
格は首を横に振った。
あの傷が誰かにつけられたのか事故によるものなのか、格は知らない。
たしかに、後ろ傷の一切ない神之倉の背中を思い浮かべはしたが、ただ単純に武原にそぐわない傷だと思っただけなのだ。
試合を収めたビデオでも、実際会ってみても、敵に背中を向けることがあるようには見えなかったからだ。
格はそれらを述べて明の理解を求めようとしたが、格より先に明が口を開いた。
「あの傷がなんなのか知らねえヤツに何が解る!」
格はすぐには返事ができなかった。鋭く斬りつけるようなその声より早く、その場に尻餅をついていたからだ。言葉より先に繰り出された左の裏拳を全く捉えることができなかった。
顔の左側面に生じた衝撃をやっと脳で理解した格が顔を上げると、険しい表情の明が格を見下ろしていた。
「――ご、め…」
喩えるなら赤い炎のような鮮やかな怒気に飲まれかけながら、格は謝罪の言葉を口にしようとした。しかし、明の気迫に圧倒されているのか、殴られた衝撃からなのか、うまく唇が動かない。
明は、格の言葉を待たずに身を翻した。
無言で去り行く背中に呼び止める声を掛けることもできずに、格は呆然と見送るしかなかった。
やがてすぐに武原が戻って来た。母屋で着てきたのか空手着姿だ。汗の始末用だろうタオルを片手に提げている。
そして武原は、座り込んでいる格に驚いて駆け寄って来た。
「明がやったのか。どこに行った?」
どうやら明は母屋の方へは行かなかったようで、行き合わなかったらしい。
尋ねながら、武原は持っていたタオルで格の顔の中央を押さえた。
殴られたのは左側だったはずなのに何故真ん中なのかと訝しく思った格だが、その真意はすぐに知れた。
格の着ていた道着や床に、点々と赤いものが散っている。どうやら、明の拳は鼻先もかすめていたらしい。
「すっすみませ…っ」
鼻を押さえられたまま格はすぐさま謝った。借り物の道着や床を汚してしまったことに青くなる。血の染みはなかなか取れないのだ。
武原は格がそれを口にしなくても察したようで、気にするなと返した。
「鼻つまんで少し下向いてろ。喉に回ってたら飲み込むなよ」
出された指示に頷いてから口の中で血の味がすることに気付いて、タオルの中に吐き出す。鼻から回ったような感覚はなかったので、殴られたときに口の中が切れたのだろう。
そして、武原の両腕が格の体を抱き上げた。小さな子供のように軽々と横抱きにされる。俗にいう“お姫様だっこ”というやつだ。
簡単に持ち上げられたことと、幼い頃に母親に抱き上げられて以来だったことに驚きを感じる。大人の男に抱いて運ばれた経験がないので、なんだか無性に気恥ずかしい。
「あ、あのっ、自分で歩けますから」
「いいからじっとしとけ」
武原は格の訴えをひと言で退けて、道場から出た。
大股で、しかし腕の中の格には振動を与えずに庭を突っ切り、玄関へと向かう。
だが武原は母家の中へは入らずに、玄関前を素通りして直進した。そして隣りに建つ洋風の邸宅の庭との堺にある瀟洒な造りの鉄の門扉を足で蹴り開け、なんの断りも入れずに庭に入り込む。
どこに連れて行かれるのかわからず混乱しかけた格の耳に、ふいに穏やかな音色が届いた。ピアノの音だ。視線を巡らし耳を澄ますと、どうやら邸宅の中から聞こえてくるようだ。
ピアノに詳しくはない格が聴いてもさほど難しくはなさそうな楽曲で、ことさら巧いというわけではないがミスタッチもなく、ゆったりとしてあたたかい音だった。
武原の足が、ピアノの音のする方へと向いた。そして、
「佐月! 開けてくれ!」
庭に面した大きなガラス窓の前で、誰かを呼んだ。
するとピアノの音がやみ、ややあってカーテンが引き開けられ、窓が開かれた。
現れたのは三十路は超えているが四十路にはまだ遠そうに見える女で、たいそうな美人だった。腕にすやすやとよく眠っている赤ん坊を抱いている。
「洋? どうしたの?」
「救急箱と濡れタオル。あと氷嚢か保冷剤を用意してくれ、佐月」
そう言いながら、武原は家の中に上がり込んだ。佐月と呼ばれた女は抗う様子はまったく見せずに、ベビーベッドに赤ん坊を寝かせて部屋から出ていく。
ベビーベッドの脇にあるクリーム色の革張りのソファの上に格を下ろした武原がそばを離れると、ふいに格の膝に小さな手が置かれた。驚いて手の主に視線を向けると、肩より長く伸ばした髪の両サイドを耳の上あたりで結んでいる4、5歳と思しき女の子がじっと格を見ていた。
「おにいちゃん、お顔いたいの?」
小首を傾げてあどけなく尋ねる仕草は文句なしに可愛らしく、見た目も相当な美少女だ。先ほど部屋を出ていった佐月と面差しがよく似ている。
「俺の娘だよ。平和の和の字で“あい”っての。そこに寝てんのが次男の侑」
部屋のどここからかティッシュボックスを持ってきた武原が、格が尋ねるより先に少女と赤ん坊の正体を教えてくた。
武原は足にまとわりついてくる娘をそのままに、格の顔を覗き込んだ。
「とまったか?」
「…はい、たぶん」
尋ねられて顔からタオルを離し、鼻をひとすすりしてみたが、溢れてくる感触はない。
「あの、ここは――?」
部屋の中を見回して格は訊ねた。広いのでリビングかと思ったが、そうではないようだ。部屋の中央にグランドピアノが威風堂々と陣取っている。
「カミさんの実家。生活してんのはうちなんだけどな、留守番とか娘のビアノの稽古とかでこっちにいることもあるんだよ。さっきのが俺のカミさんな」
娘だという和と似ているのでそうだろうと思っていたが、やはり武原の妻だったようだ。
武原家の庭にある道場の来歴からすると、武原が大阪にいた時分から武原所有の土地だったのだろう。いつの時点で武原の妻の実家が隣家になったのかはわからないが、夫婦の実家が隣り同士というのを格は初めて見た。
肉親が母親の東子しかいない格には、すぐそばに祖父母までいるというこの環境はとても新鮮だ。
「ったくあの馬鹿、どこに逃げたんだか…」
「俺が悪いんです。俺が怒らせるようなことを言ったから」
「自分にこれっぽっちも非が無けりゃ、いなくなる必要はねえだろうよ」
「明がやったの?」
戻ってきた佐月が2人の会話を聞きつけて眉をひそめた。
そして武原の隣に両膝を着き、持ってきた濡れタオルで格の顔を押さえるようにしてそっと拭う。救急箱の中から治療に必要なものを探す手つきが手慣れていた。
佐月は格の左の頬骨のあたりから顎にかけてを指先で押し、格の反応を見る。痛みの度合いをきかれたが、我慢できないほどではない。
続いて鼻も触れられたが、こちらには痛みはなかった。
「良かった…折れてはいないみたいね」
ほっと息を吐き、佐月はハサミで湿布をカットして格が一番痛みを感じた頬骨付近に貼り付けた。続いて粘着性のガーゼを湿布よりひと回り大きく切り、湿布の上に重ねる。
鏡でもなければ自分の顔は見えないのでわからなかったが、どうやら唇の端も切れていたようで、消毒をしてから軟膏を塗ってくれた。
そして、小さな保冷剤をガーゼのハンドタオルで包み、しばらく鼻に当てて冷やすよう手渡される。
治療を済ませた佐月の手が、そっと格の左頬を覆った。
「ごめんなさいね、あの子ったら…」
「あ、いえ…」
答えた声が思わず声がうわずった。ひと目見て美人だと思ったが、間近で見てもそれは変わらない。
格と同じ年の息子を頭に3人の子供がいるようには見えないスタイルの良い体にフィットしたTシャツにジーンズと軽装で、長い髪を後ろでひとつに束ねていて行動的に見える。
だが、笑顔といい声といい触れる指先といい、印象はどこまでも柔らかい。
しかし、柔らかさをそのままに、声の調子が変わった。
「それで、明はどこなの?」
「俺が道場に戻った時にはいなかった」
「そう……」
「あっあの!」
険しい表情の2人に、格は慌てて声を掛けた。このままでは明ひとりが悪者になってしまう。
「俺が余計なことを言ったからいけないんです。だから」
「さっきもそんなことを言ってたが、何が原因なんだ?」
自分が悪いと言う格に、武原が首をひねって問い掛けた。
明があれほど激昂したことを再度口にするのは気が引けたが、格が言わずにいれば明に尋ねるだろう。
自分に非があることで知らぬふりは出来ない。これから先も付き合っていかねばならないのなら尚更だ。
「あ…あの…――武原…師範の、背中のことで」
「俺の背中? もしかして傷のことか?」
「はい…」
格は、武原は背中に傷を負うようには見えないという自分の個人的な感想に対して、よく知りもしないでと明が怒ったことを話した。
「たしかに俺、何も知らないのに簡単に口にしちゃって――だから俺が悪いんです」
気になることをそのままにしておけないのは格の長所であり短所でもある。格なりに口にすべきかどうかは考えるのだが、今回は完全に読み違えた。
「後ろ傷をつくるようには見えないってなァ格闘家には褒め言葉でもあるんだがな」
武原は苦笑して頭を掻いた。
「ごめんな。大層なもんじゃねえのに、俺からはあんまり話さねえから誰かに聞いた誇張した話を丸々信じてるんだよ、あいつ」
そう言って謝った武原だが、大層なものではないというのは謙遜だろうと格は思った。どう見ても浅くはない傷跡なのだ。
「あなたから話してあげればいいのに」
佐月が微苦笑を浮かべて武原に言った。
武原はそれに肩を竦めてみせる。
「あんまり思い出したくないだろ?」
「私に遠慮してたの?」
「遠慮っつーか…」
妻の問い掛けに、武原は宙を見上げ頬を掻いて言い淀み、やがて苦笑を浮かべた。
「お前にゃ二度と辛い顔や哀しい顔はさせねえって、結婚したとき決めたからな」
「しないわよ。あなたは今ここにいるんだもの」
夫の言葉にふわりと微笑んだその表情の優しさと美しさに、黙って二人の会話を聞いていた格は目を奪われた。
武原に対する深い愛情と信頼と慈しみに満ちた、甘く柔らかな笑顔だった。
それでいて、ひょっとしたら武原よりも強く、彼すら包んでしまえるのではないかと思わせる何かがある。母性、だろうか。
強くおおらかな器の大きさを感じさせる武原と、あたたかとやさしさに強さも併せ持つ佐月とが並んで立った時の何ともいえない雰囲気の良さに、格はそっと感嘆のため息を洩らした。
神之倉と氷上が蒔麻を囲んでいる時も侵しがたい良い雰囲気を醸し出しているが、夫婦となるとまた違う。
見惚れていると、指先をちょいちょいと引く者があった。視線を落とすと、幼く可愛らしい顔が格を見上げている。
「だいじょうぶ?」
心配そうな表情で見上げてくる和に、格は笑って頷いて見せた。
「大丈夫だよ」
「あい、いたいのとんでけしてあげる? ピアノひく? あいのピアノはおちつくっておにいちゃん言うのよ」
「うん、ありがとう」
初めて会ったというのになんて人見知りをしない子だろうと感心しながら、格は懸命に背伸びして格の顔に手を伸ばしている和のために身をかがめた。
和の小さな手が、そっと格の鼻先に触れて撫でていく。
「ずいぶん気に入ったのねえ」
「こいつけっこう色男好きだからな」
ふたりの様子を見ていた佐月と武原が口々に言った。
「俺、こんなザマなんですけど…?」
意外な言葉に格は思わず疑わしげに問い掛けた。
鼻血を出し、唇を切り、頬には湿布をし、しかも武原に子供のように抱えて連れてこられては、格好いい男とは言えないだろう。
だが武原は笑って首を横に振った。
「うちじゃあ青タンやら擦り傷やらはしょっちゅうだからな、たいしたマイナス点にはならねえよ」
「はあ…」
「格」
「はい?」
「もう大丈夫か?」
鼻血もマイナス点にはならないのだろうかと思って首を捻った格に、武原が唐突に尋ねた。
突然殴られた動揺も痛みも和らいでいる。鼻の中もすっきりとしているので、もう出血もないだろう。
「はい、大丈夫です」
「よし。じゃあシャワー使って汗流して来い。出掛けるぞ」
「……え?」
突然の外出宣言に武原の意図が読めずに、格はぽかんとして返した。
武原はどこに行くとは告げずに、着替えて来ると言い置いて部屋から出て行った。
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