【第2部】Vol.2 ブルースカイ・ブルー (4)


 格は、伊庭と共に古賀沢の用意した白いセダンで東京へと向かっていた。
 運転席と助手席には伊庭の部下、そして伊庭は後部座席の格の隣りに座っている。
 古賀沢の人間が1人もいないので緊張していた格だったが、それを察してか伊庭が話しかけてくれる。
「ボンは古賀沢の四代目の友達の息子なんやて?」
「はい」
 どこまで明かしてよいのか判断がつかなかったので、格は慎重に返事をした。
「だから“ボン”っていうのは正直慣れないです」
 “坊”という意味なのは分かっているし、坊主と呼ばれることとそう変わらないのかもしれないが、なんとなくご子息という意味の“坊ちゃん”と呼ばれているようで落ち着かない。
「わかった。なんて呼んだらええんや?」
「ええと……古賀沢の人達には“坊主”とか“格”って呼ばれてます」
「そうか。じゃ、坊主て呼ぶわ」
「はい。ありがとうございます」
 頷いて礼を述べると、伊庭笑みを浮かべてもっと力を抜けというように格の膝頭をポンと叩いた。
 隣りに座り話してみて感じる伊庭は、気安いとまではいかないが、組以外はどうでもいいという風ではなかった。
 関西最大会派の会長の片腕という肩書き通りの迫力と凄みがあり、底知れない部分もありそうだが、ルリの言う“ろくでなし”でも“ひとでなし”でもないように思う。
 伊庭がルリと距離を置くのは、格に対しての神之倉がそうであったように、極道の世界に近付けたくないからなのかもしれない。
 昨年末に伊庭の属する会派の会長が変わって、神之倉もそれに関して何度か関西方面に赴いている。ルリの母親が入院したという2年前も、何かその関連でごたついていたのかもしれなかった。
 もちろんそれは憶測にすぎないので断定はしない。
「古賀沢の四代目だけやなく神之倉とも親しいんか?」
「同じマンションなんです」
 少し調べれば判る事を隠すのはかえってマイナスだろうと思い、ここは正直に答える。
 伊庭は格の答えに呵々と笑った。
「その歳で古賀沢のトップ2と懇意か。物怖じもせんし、たいしたもんや。古賀沢の姐さんが気に入っとるはずやな」
「蒔麻さんが…?」
「褒めとったで。大物や言うて」
 なんと言っていたのか訊いてみたかったが、格はあえて尋ねなかった。
 まだまだ経験も知識も足りない子供である自分を、蒔麻は出会った頃から買ってくれている。今は嬉しさと共に恐縮する思いもあるが、いつかその言葉に見合う男になりたい。
「しかし、よう仁武流に目ぇつけたなあ。有名な流派ちゃうやろ?」
「知ったのは偶然なんです。道場の師範に貸してもらった空手の本に載ってて、面白そうな流派だったんで知ってるかどうか師範に訊いてみたら、たまたま仁武流宗家って人が出てた試合に師範も出てて――」
 それが、今年の初夏の話だ。
 強くなることに繋がるなら稽古量だけでなく知識も増やそうと、学校の授業より熱心に武道の本を借りては読んでいた。
 その中で目にした仁武流の技や稽古に、格はいたく興味を引かれた。元々は存在したが形骸化されている流派が多い投げ技や固め技が、基本形としてしっかりと残っているらしい。
 そして、師範の清水に見せてもらった試合のビデオで、単に面白そうだというだけではなくなった。
 試合の中で繰り出されていた技は打撃技と蹴り技だけだったが、いっぺんで憧れた。
 ただ単に道場や氷上の元に通っていただけなら彼の存在を知り得たかどうかわからず、こうして伊庭に連れて来てもらうことにはならなかっただろう。
 途端に跳ね上がった鼓動に、格は胸の辺りをぎゅっと握り締めた。緊張と期待に胃が収縮するような感覚がある。
 それにしても、伊庭はなぜ仁武流に伝があるのだろうか。
 どういう風にそれを尋ねたらよいのか思いあぐねているうちに、車は大きな通りから外れ、両脇に街路樹の立ち並ぶ道へと入っていった。
 通りの左右にはベーカリーや理髪店などの店舗がちらほらと並び、その奥はごく普通の住宅街のようで、マンションやアパート、一戸建てが並んでいる。
 閑静といっていいそこを途中で折れて住宅街の中へ入ると、もうすぐそこだと伊庭が教えてくれた。
 なるほど、だから白いセダンなのかと格は納得する。1台だけとはいえ、黒塗りの車で強面の男どもが乗りつけては目立って仕方ない。
 そして車は、一軒の日本家屋の前で止まった。
 2階建てで門扉から玄関までも近く、建物自体は古賀沢邸ほど広くはなさそうだが、なかなかに大きい。離れでもあるのか、奥に平屋の屋根が見える。
 左隣にはちょっとした木立があり、その奥に石の鳥居らしきものが見えるので、どうやら小規模な神社があるようだ。
 右隣りに洋風の邸宅が寄り添うように並んでいるのがミスマッチだが、真新しくはなく落ち着いている造りのためか、ひとつの風景として馴染んでいないこともない。似たような建物ばかりの新興住宅地ではないので、和洋様々なのは不思議でもなんでもなかった。
 車を降りた伊庭は、前の座席の2人に何事かを告げる。すると車は伊庭と格を残したまま動きだし、何処かへと走り去った。
「家の前にずっと停めとくわけにもいかんしな」
 伊庭は格を振り返ってそう説明しつつ、開け放たれたままの門扉をくぐった。格もそれに従い、伊庭の後に続く。
 玄関ドアの脇の呼び鈴を鳴らし、しばらく待った。
『――はい?』
 やがて、インターフォンから男の声がした。成人男性の声だが、張りからしてそれほど年を取ってはいないようだ。
「伊庭いいますが、ようさんはいはりますか?」
『……伊庭、さん?』
 ドアホンのモニターで玄関先の映像を見ながら応対しているだろう男が訝しげに呟いた。そしてぷつりと音がして応答がなくなり、数秒後にドアの鍵が開けられる音がした。
「どうしたんですか、突然!」
 扉が開くなり、インターフォンの声の主が言った。
 三十路半ばから後半に見えるその男の驚く顔を目にして伊庭は笑い、男の上腕を手荒く叩く。
「久しぶりやな、洋さん」
「ほんとに――20年ぶりぐらいじゃないですか?」
「そないになるか?」
「そうですよ。俺が高校3年の時ですから」
 伊庭の背後に控えていた格は、2人の様子をじっと見守った。
 “ようさん”とは何だろうと思ったが、どうやらこの男の名前らしい。そして、ずいぶんと古い知り合いのようだ。
「で、どうしたんです? わざわざ俺の顔を見に東京に来たわけじゃないでしょ?」
「まあな。だがずっとあんたに会いたいと思てたんやで」
「相変わらず嘘つきだなァ」
 男は朗らかに笑って片足を引き、半身をひらいて伊庭を招き入れる姿勢を示した。
 奥二重でどちらかといえばさっぱりとした涼しげな顔をしているが、笑うと目尻に笑いじわが寄ってあたたかい表情になる。
 そんな男の視線が格へと移り、男は伊庭に問い掛けた。
「娘さんがいるとは聞いてましたけど、息子さんもいたんですか?」
「いや、この子は横浜の古賀沢組懇意の子でな、娘が世話になった子や」
「はじめまして。榎本です」
 とりあえず挨拶は必要だろうと思い、格は頭を下げた。
「あんたのファンなんやて」
「俺の?」
「あんたの空手が好きらしいで」
 そう言って伊庭は格を引き寄せ、自分の前へと出した。
「…え…っ? ようさんって、じゃあ――」
 格は呆然と目の前の男を見上げた。
 背丈は伊庭と同じくらいか僅かに高いかといったところで、日本人としては長身の部類ではある。
 格闘家らしいがっしりとした筋骨隆々の体格ではなく、ゆったりとしたデザインのTシャツの上から見た限りでは細くも太くもない。一流派の宗家という厳つい威圧感は感じなかった。
 だが、唯一見たことがある試合の映像はハンドビデオで客席から撮影されていたため顔は定かではないものの、体つきは似ている気がしなくもない。
 そして、鷹揚に見えて隙がない。いま拳や蹴りを放っても、絶対に届かないという確信さえある。
「なんや坊主、ファンやのに顔も名前も知らんかったんか?」
「ズームなしで撮ったビデオしか見たことなくて…。雑誌でも顔が出てるのは見つからなくて、それにその…名前が……」
「俺あんまり顔出してないんで、知らなくても不思議じゃないですよ。最近記事が出た雑誌では名前のふりがな間違ってたし」
「失礼な雑誌やな」
「まあ間違える人は多いですよ。もしかしてその雑誌見たのかな?」
 尋ねられて、格は小さく頷いた。
 男の言うようにあまり露出のない人物のようで、わずかに載っていた雑誌や過去大会の記録でも名前に振り仮名などなかった。だから、最近買った雑誌に唯一あった振り仮名をそのまま信じていた。格にビデオを貸してくれた清水も名字しか口にしなかったため、雑誌の記述が間違っているとは思わなかったのだ。
 男の名は“武原洋”という。
「すっすみません! 俺、ずっと“たけはらひろし”さんだと思ってましたっ」
 伊庭の言う通り、会いたいと切望する程の人の顔も名前もあやふやだったことが恥ずかしくて、格は頭を下げて謝った。
「よくそう間違えられるんだ。気にすることはねえよ」
 男――武原はくだけた口調で笑って、下げられた格の頭の上に慰めるように手を置いた。
 大きな手のひらは、笑顔と同じくらい温かかった。

 奥に通されると、座敷の縁側にジャーマンシェパードが寝ており、耳をピンと立てて伊庭と格に視線を寄越した。
 武原が手を翳して立ち上がりかけたシェパードをとめる。
「アーノルド。お客さんだ」
 その言葉を理解したのか、シェパードは再び体を伏せて前足に顔を乗せた。
「もう相当なじいさんなもんで、耳もだいぶ遠いんですよ」
「もしかして、前に来た時にいた奴の子か?」
「そうなんですよ。よく覚えてますね」
「あいつには散々吠えられたからな」
「伊庭さんがギラギラしてたからでしょう。物騒な気を放ってない人間には吠えませんよ」
 武原は話をしながら座卓の上の丸い茶櫃の中から茶碗や急須を出して並べ、茶を入れにかかった。
「カミさんがいりゃあもっとちゃんとした茶が出せるんですけどね、いま出かけてんですよ」
 そう言って武原が差し出した茶はきちんと茶托に乗っていて、言うほどちゃんとしていなくはない。
「…犬、家の中で飼ってるんですか?」
 顔と名前が定かでなかったことで恐縮しきっていた格だが、思い切って話しかけてみた。武原は気にしている素振りもなく笑顔で答える。
「ああ、犬はヤツともう一匹な。猫も1匹――ああ、そこにいた」
 武原が指差す方向を見た格は、その先にグレーのトラ柄の猫を発見した。いわゆるサバトラというやつだ。
 猫は格の視線を受け流し、悠然と縁側のシェパードの横に丸くなる。
「あの子はなんていう名前なんですか?」
「アンジー。あいつがうちの子らン中で一番強いんだ。動物が好きか?」
「はい。うちはマンションなんで飼えないんですけど」
 幼い頃住んでいたアパートでは半野良状態の猫が一匹いた。一応はペット禁止のアパートだったが、他にも猫を飼っている住人がいたものだ。
 犬も好きで、東子とはいつか犬の飼える家に引っ越そうと話していたこともある。
「もう一匹デカいのが隣りにいるから、あとで時間があったら会って行くといい」
「はい。ありがとうございます」
 格は笑顔で答えた。大きな犬は大好きだし、何より武原が気安く接してくれるのが嬉しい。
「――で? 俺に何の用なんですか、伊庭さん?」
 茶をすすってひと息つき、場の空気も落ち着いたところで、武原が伊庭に問い掛けた。
 伊庭は茶碗に口をつけたままちらりと武原を見やり、ゆっくりとそれを茶托に戻して居住まいを正し、武原と向き合った。
「大阪に帰って来んか?」
 ちょっとそこまで出ないかと誘うような軽い口調だったが、目は真剣そのものだ。
 武原は困ったような微苦笑を浮かべ、小さくため息を吐いた。
「まったくその気はないんか?」
「伊庭さん……もう30年ですよ? いまさら俺が戻ったところでなんになるんです。親父が戻ったとしても同じですよ」
 ゆっくりと首を横に振りながら武原が答える。
「俺には経験も実績もない。武原真の息子だってだけだ。それだって、いまさらなんの意味もないでしょう」
「そうでもない。会長はまだ真さんを忘れてへんし、あんたが跡目だったことも覚えとる」
 いささか強い口調で言い切った武原に、伊庭はあっさりと首を横に振って反論する。
 武原な呆れたように息を吐いて前髪をかき上げた。
「正式に跡目に決まってたわけじゃないですよ」
「わしらの間ではいずれあんたが継ぐだろうと言われとった。だいたい、あんな強烈な事しといて忘れろいう方が無理やぞ」
「忘れてくださいよ。30年も前のことなんですから」
 武原はまた“30年”という言葉を口にした。
 格には2人が何について話しているのかわからなかった。
 だがこの2年で、格なりにいろいろと知識を増やしてきた。出て来た単語とそれを発する人間から考えれば明らかに極道の世界の話だ。
 30年前、武原の父親は大阪で一家を構えており、武原は跡目として周知されていた。だが、なんらかの理由で足を洗い、東京に出て来た――ということだろう。
 しかし、正確な年齢はわからないが、武原はせいぜい30代後半から40代前半といったところだ。10歳前後の子供が、伊庭をして強烈と言わしめる何をしたというのだろうか。
「20年前にお会いした時も同じようなお話を頂いて断りましたけどね、いまでも答えは変わりませんよ。戻る気は一切ない。親父にもないでしょう」
 武原はきっぱりと宣言した。
 怒るでもない、笑うでもない、悲しむでもない静かな表情と声が、ことさらに決意の固さを感じさせる。
 伊庭は深くため息を吐いて両腕を組んだ。
「……惜しいことをしたと会長は言っとる。俺も同意見や」
「たしかに組はなくなりましたけど、克にい…いや、副島さんが組員の半分を組み込んで新たに一家を興したでしょう。いまじゃ30年前以上の規模になってるじゃないですか」
「そうやって大阪の極道の動向を知っとるくせに戻る気はこれっぽっちもないんか?」
「ないですよ。ただ、生きてるかぎり完全には縁は切れないもんですからね。たとえ30年以上前のことでもつけなきゃならないケジメがありゃあつけるし、ちょっかい出されたら叩き返すつもりなんで。それには多少は現状を知っていないと、余計な事を背負い込みかねない」
 武原の浮かべた笑みに不敵なものが混じった。
 その瞬間、比較的穏やかだった武原のまとう空気が格のよく知るものと似たものに変わる。
 蒔麻や神之倉の持つ潔さや覚悟や強さを思い起こし、格は伊庭の言う事の正しさを実感した。
 この男は、極道のままであったなら一家の柱として生きていただろう。
「しかし伊庭さん、どうして突然? ――…まさか、副島組に何か…?」
「いや、副島はよくやってくれてるし、何の問題もないんや。ただ…関東
(こっち)に来ることになって真さんのことが思い出されてなあ。会長も、いまどうしてるのかと言い出したもんやから」
「思い付きでこんなことを言い出すなんて伊庭さんらしくもない」
「そうやな。だが、言うたんは本心からやで。いまでもあんたんとこが在ってくれたら組織の厚みが相当変わる。それにわしだけやない、副島は今も真さんやあんたを忘れてへんぞ」
「あの人は帰って来いとは言いませんよ。たとえ思っていても、腹の内に納めたまま口には出さんでしょう」
「――そこんとこは今でも真さんの弟分ってことか」
「…そういう人です」
 武原は小さく笑みを浮かべた。少しだけ淋しげに見えたのは、副島という人物に対する感情の現れだろうか。
 なんにせよ、極道に戻る気はないが、極道を忌み嫌って厭わしく思っているわけではないようだと格は感じた。
 武原は湯飲みの茶を飲み干し、表情を伊庭が話し出す前の穏やかなものに戻して格を見やった。
「道場の稽古でも見ていくか?」
「いいんですか!? ――あ、すいませんっ」
 突然の申し出に喜色を浮かべて問い返した格は、直後にはっとして伊庭に謝った。
 そもそも伊庭が武原に会いに来るのに便乗してついて来させてもらったのだ。本題が終わらぬうちにしゃしゃり出るわけにはいかない。
 しかし伊庭は笑みを浮かべ、格の謝罪を遮るように手を振った。
「気にせんでええ。わしの話は今ので終いや」
 それが終了の合図であるかのように、伊庭も残りの茶を飲み干した。そして、胡座をかいていた足を崩して片膝を立て、腰を浮かせる。
「すまんが洋さん、わしは行かなあかんところがあるんでな、3〜4時間この子を頼んでええか? あとで迎えに寄る」
「構いませんよ」
 事前にアポイントも取らず突然やって来た挙句さらなる一方的な要望に、武原はあっさりと頷いた。
 格は慌てて会話に割って入る。
「あ、あの! 駅って遠いですか?」
「徒歩10分圏内に2駅あるぞ」
 武原は駅名と路線を格に教えてくれた。そのうちのひとつは横浜まで帰るには都合のいい路線だ。
「俺、電車で帰ります」
「ええんか?」
「はい、そんなに遠くないですから」
 何か目的があって関東にやって来たはずの伊庭にわざわざ迎えに来てもらうのは気が引ける。
 3時間も4時間も掛かる遠い場所に来たわけでなし、電車で帰ることは大して苦ではなかった。ルリに連れ出された時と違って財布も持っている。
「そうか……すまんなあ、中途半端で」
「大丈夫です。連れて来ていただいてありがとうございました」
 済まなさそうな伊庭に、格は丁寧に礼を言って頭を下げた。こうして武原に会わせてもらっただけでも十分だ。
 伊庭は格の上腕を2度ほど叩き、ゆっくりと立ち上がった。

 携帯電話で呼び寄せた車で去った伊庭を見送ってから、武原は格を連れて家の中を突っ切り、サンダルをつっかけて勝手口から家の裏へと出た。
 裏庭の向こうには3階建ての建物があり、武原邸とその建物を仕切る塀には門扉がついていた。
 武原はそれをくぐり、建物の裏口らしき金属のドアを開ける。
「あの…もしかして――」
「そう、ここが道場」
 つまり、背中合わせに建っているふたつの建物はどちらも武原のものらしい。
 扉を開けるとそこには木製のデスクやキャビネット、そしてちょっとした応接セットが置いてあった。部屋はそれほど広くはない。
 隣りの部屋には事務机や資料棚が並べられていた。こちらは8畳ほどの大きさで、事務机のひとつに30歳前後と思しき男が座っていた。
「あれ、こっちにいたんですか、館長」
「いま来たばっかだよ。ちょっとこの子を案内してくるから、何かあったら道場に来るか携帯で呼んでくれ」
「はい」
 歩きながら男の返事を聞いた武原は、格を連れて部屋を横切り、正面に見えるドアを開けた。
 ドアは、誰もいない受付らしきカウンターの内側に通じていた。カウンターの上に呼び出し用のブザーが置いてあるので、普段からここに誰かが座ってることはないのだろう。
 カウンターの正面にはガラスのドアがあり、通りへと続いている。
「こっちがロッカーで、上が道場な」
 武原はカウンターの脇の部屋と奥の階段を指差して説明し、格を階上へと導いた。
 カウンターへの扉を開けた時から気合いの声や床を踏み鳴らす音が聞こえていた。階段を一段上るごとにその音が明確になってきて、期待に胸が高鳴る。
 2階にたどり着くと向かいの壁まで廊下が伸びていて、片側には窓、もう片側も腰高の窓になっていて、中の道場が見えるようになっていた。
 稽古の真っ最中だったが、道場内にいるのは5人と意外に少ない。
 そして道場自体も思いのほか小さかった。古賀沢組事務所の地下にある道場と同じくらいだろうか。一流派の本部道場というにはこぢんまりしている。
「小さくてびっくりしたか?」
「えっ? や、そんなことは――」
 図星を指された格は、慌てて首を横に振った。
 武原は笑って格の頭をかいぐり撫でる。
「真っ当な感想だと思うぞ。大抵のヤツは、本当にここが本部なのかって言うからなあ」
「本部で稽古してる門弟さんってどのくらいいるんですか?」
「常時ここに通って来るのはそんなにいねえよ。親父がいないと俺と師範代が2人だからな、大人数は見れねえし。支部の方が人数は多いな」
 格が読んだ雑誌によると、名前のふりがな以外の情報が確かなら、仁武流の門弟は他の流派に比べてかなり少ない。国内の支部数は5支部、国外には8つの支部があった。
「中に入るか」
 武原が格に声をかけて道場内へと入った。格は逡巡したが、誘われるまま武原の背中に続く。
 稽古をしている門弟たちが宗家である武原に挨拶もしないことに、格は驚いた。腕を組んで稽古を見ていた師範代らしき男だけが軽く会釈をする。
 道場の隅に端座して見ていると、やがて奥のサンドバックに蹴りを放っていた1人と突きの稽古を終えたらしい1人が呼吸を整えてから武原に向かって礼をした。
 いま存在を認めたというのではなく最初からここにいた人間に対するかのような様子に、武原が入ってきたことは察知していたのだと判る。
 格が不思議そうな視線を送ってきたことに気付いた武原は、それを受け止めて口を開いた。
「うちでは稽古の最中に誰かが道場に入ってきても、いちいち挨拶しなくていいことになってるんだよ。いま繰り返してる突きや蹴り、取ってる型や組み手にまず集中って方針でな」
 答えを聞いて格は納得した。たしかに突きひとつ、蹴りひとつでも集中していなくては怪我の元であり、実戦では途中で集中力を切らしては敗北に繋がる。
「空手やってるんだよな? 流派は?」
 尋ねられて流派名を答えると、武原は頷いて「フルコンだな」と言った。大流派というわけではないが、知っているらしい。
「それでうちに興味を持ったのか?」
「それもあります。投げ技や固め技があって、ものすごく実戦的だっていうし――でも一番は、うちの師範に見せてもらった試合のビデオなんです」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたな」
「正拳突きで1本とった試合があったんですけど、めちゃくちゃキレイだって思って……。形が正確だとかそういうんじゃなくて、なんかこう――空気が」
 殺気も闘気も放出するのはさほど難しくない。
 そう格に教えてくれたのは氷上だ。
 裏を返せば、内に籠めるのは難しいということだ。
 格が見たビデオの中の武原は、泰然自若とし、殺気も闘気もなく澄んで見えた。それに対戦相手はうろたえ、むやみやたらと猛々しく攻め立て、武原は涼しい顔でそれらを受け流して正拳を放った。
「それから蹴りが居合い斬りみたいに速くて鋭くて。俺は足技好きなんで、理想の蹴りだって思いました」
「そこまで持ち上げられるとこそばゆいな」
 讚辞を並べ立てる格に武原は咳払いをし、照れくさそうに笑った。
 その笑い声を、裂帛の気合いがかき消す。いつの間にか組み手での稽古が始まっていた。
 途端に、格はそれに引き込まれた。
 組み手をしているのは小柄な青年と長身で壮年の男だ。寸止めではなく、直接肉体が打ち当たる音が同場内に響く。
 本気で倒すつもりで仕合っているのではないかと思わせるほどの激しさに、格は傍らの武原に目を遣った。だが、武原は動じる様子もなく眺めている。
 どうやらこれが当たり前の光景らしい。
 格は再び組み手に視線を戻した。
 長身の男の足がしなるように蹴りを放ち、小柄な男がミリ単位でそれを避ける。
 体勢を整えようとした長身の懐に飛び込んで顎に向かって繰り出された小柄な男の拳をのけ反って躱し、長身の男が左後方に逃れた。
 さらに迫って距離を詰めた小柄な男の拳を受け流し、躱した体の回転を利用して長身の男が回し蹴りを放った。
 その踵が延髄にヒットし、小柄な男は前方に吹っ飛ぶ。
「…あ……ッ!」
 身を乗り出すようにして見ていた格が声を上げた。
 だが小柄な男は体勢を崩しながらも前方へ回り受け身をとり、すぐさま長身の男に向き直る。
 そこで師範代が組み手を止めた。近寄って来た2人に身振り手振りで今の組み手を初手から再現し、指導を始める。
 小柄な男は首筋を手で揉んでいるくらいでさほどダメージはなさそうだ。だが、長身の男の蹴りのタイミングは完璧だった。
「……確かに急所に入ったのに――自分から前に飛んだ…?」
 蹴りを食らった瞬間、小柄な男が自ら床を蹴ったように格には見えた。
「その通りだ」
「えっ? は、はいっ」
 独り言のつもりだったが武原から返答があり、格は慌てて言葉を返す。
 視線を向けると、武原が口の端に笑みを浮かべて面白そうに格を見ていた。
「空手は何年やってるんだ?」
「えっあ…っと、空手は10ヶ月くらいです」
「10ヶ月――他には?」
「合気道を1年と…あと中学では柔道部に入ったんで、それが3ヶ月」
「ってことは中1か。それにしちゃあ身長あるんだな」
「あ、はい。一番じゃないけど後ろのほうです」
 バレーボールやバスケットボール、リトルリーグなどの経験者は背の高い者が多かった。学年で十数人は格よりも長身の者がいるだろう。
「しかし、ずいぶん手広くやってるんだなァ。格闘技が好きなのか?」
「…強くなりたいんです」
 雑談だとわかっていたが、格は真剣に答えた。
 本心を知ってもらいたいと思ったのだ。遊びや興味本位であれこれ手を出していると思われたくない。
 武原も格の真剣さをすぐに察したようで、口許の笑みを消して格の真っ直ぐな視線を受け止める。
「何故強くなりたい?」
「大切なものを守りたいんです」
 足手まといになりたくない。
 安全な場所で、ただ守られるだけの存在ではいたくない。
 大事な人が傷を負うのを、見てるだけでいたくない。
 一日も早く、助け手になれるくらいになりたい。
 いつか、傍らに立てる男になりたい――。
 そんな思いを抱くようになった要因である、焦がれてやまない彼の人の姿が脳裏に浮かぶ。
「だから強くなりたい。そのためなら――俺はなんだってする」
 最後のくだりは自分に言い聞かせるように強く言い放った。
 格はすぐに、単なる雑談に対して変に真面目に答えを返してしまったと気恥ずかしく思って俯いたが、武原はそうは受け取らなかったようだ。
 真剣に格の言葉を聞いていた表情が柔らかく緩み、破顔一笑する。そして、立ち上がりつつ「おいで」と格の手を引いた。
 格は何がなんだかわからぬままその手に従って立ち上がり、道場を出ようとする武原についていく。
 道場を出かけたところで、武原が立ち止まった。
「尾原ァ」
「はい!」
 投げ掛けられた声に、小柄な男がぱっと振り返る。
「突きの時のモーションがでかすぎだ。気をつけろ」
「はい!ありがとうございますっ」
「それから北垣」
「はい」
「左半身をもうちょい強化したほうがいい。バランス悪いぞ」
「はい、わかりました」
 壮年の男は、素直に頷いて頭を下げた。
 雑談を交わしながらもしっかりと組み手を見ていたことに格は驚く。
 武原はそれ以上は何も言わずに道場を出た。
 足早に前を行く背中について歩きながら、もう少し稽古を見ていたかったと思ったが、好意で見せてもらっている立場上わがままは言えない。
 黙ってついて行くと、自宅の裏庭まで戻った武原は、勝手口を開けずに家屋の壁沿いに右手に進んだ。
 前方には大きなイチョウの樹があり、その脇に木製の壁が見える。
 壁伝いに回り込むと、それは庭の一角に完全に独立した形で建っていた。
 平屋造りで屋根は瓦葺き。プレハブではなく木造で、きちんと基礎から建ててあるようだ。
 武原は引き戸を開け、中へと入った。
 後に続いた格は、中の様子に息を飲む。
 表から見たときは離れだと思ったが、そうではなかった。
 作られてからの歳月を想像させる艶を帯びた床に、高い位置にある窓から光が差し込んでいる。
 奥には神棚が設えてあり、皿には真新しい米と塩がきちんと盛られ、両脇には青々とした榊が挿してあった。
 古賀沢の道場よりもさらに古く、そしてより厳粛な空気が漂っている。
「……ここは――」
「ここがうちの本当の本部道場さ」
 そう答えて、武原は神棚に向かって一礼してからサンダルを脱いだ。
 格もそれに倣って武原に続く。
 試合場を1面取る余裕は十分あるが、先ほどまでいた道場よりも小さかった。
 誰もいなかったが、使い込まれた床には埃ひとつ落ちていない。放置されているわけではないようだ。
 灯りをつけなくても、高い窓と足元の窓から光が入るのでそれほど暗くない。夏の最中だが、通気が良くなかなか涼しかった。
「俺から数えて4代前――俺の親父のひい祖父さんにあたる人が、自分が体得した古流の技を体系立てたり理念を整理したりして興した流派が仁武流でな」
 武原は何の前触れもなく道場の真ん中でそう語り出した。
 格は向けられた武原の視線を受けて頷いた。その目に興味の色を見て取ったか、小さく笑みを浮かべて武原は先を続ける。
 流派は一粒種が継いだが、それが何年かして香具師の元締めの娘と夫婦になった。彼は舅にいたく気に入られ、婿入りしたわけではないのだが、やがて乞われて妻の実家の家業を継ぐことになる。
 それ以来ヤクザ稼業が主になり、30年前まで道場で門人を得るという流派としての活動自体は絶えていた。だが、空手そのものは代々伝えられており、教えを乞う者もなくはなく――
「極道から足を洗った親父が流派として再始動して、生業にしたってわけだ」
 簡単な説明だったが、前身がヤクザだった理由はよく解った。
 以前氷上や蒔麻に血縁の継承はそれほど多くはないと聞いたことがあるが、武原は代々血縁者が継いできたようだ。
 何故組がなくなったのかは格にはわからない。しかし、今でも伊庭や関西最大会派のトップにまで惜しまれているということは、それだけ力のある組だったということだ。
 だが武原自身には組が無くなったことを惜しんでいる様子はない。また戻らないと断言出来るからには、30年前に組長であった武原の父も踏ん切りがついているのだろう。
「ここは俺のじいさんの建てた道場でな。生まれた時から極道の家の子で極道のまま死んだ人で、どうして道場を建てようと思ったんだかわからないが……じいさんがここを建ててなきゃ俺はまだ大阪にいたかもしれないな」
 話を聞きながら、格は縁というものを考えた。
 この道場がなければ、そして極道から足を洗わなければ、仁武流という流派は地に潜ったままだった。
 だが武原の家が代々ヤクザでなければ伊庭と知り合うこともなく、格が神之倉を好きにならなければ伊庭と出会うこともなく、いまここに立つこともなかったろう。
「…で、だな。うちは見ての通りの稽古だから、本来なら子供や興味本位の奴は入門させない。だけど例外もある」
「……え…?」
 突然話が変わり、格は訝しげに武原を見た。
 左半身を格に向けていた武原は体の向きを変え、格の視線を真っ正面から受け止める。
 武原の唇が笑みを形作った。
「損得抜きで誰かのために強くなりたいって奴は好きだぜ。目もいい。あとはやる気次第だ」
「……っ! 入門させてもらえるんですか…?」
「それを本気で望むならな」
 格は思いがけない展開に鼓動が早まるのを感じながら武原の目を見つめた。
 その瞳に偽りの色はなく、また嘘を吐く理由もない。
 ひと目で憧れた強さに近付くチャンスがいまここにある。今の格に、こんなに嬉しい申し出はない。だが――
「…俺は……組員の誰かの息子だとか孫だとかいう立場じゃないですけど、古賀沢組とは無関係じゃなくて、それはこの先変わることはなくて――それでもいいですか?」
 絶対に戻ることはないと言い切る武原と極道との接点を作ってしまうかもしれない自分が、門下にいてもいいものなのか。
 格はそれを懸念して尋ねた。
 だが武原は格の問いに柔らかく笑った。
「堅気かそうじゃないかなんて物差しで弟子を選んだことはねえよ。空手も人付き合いも、人間と人間ですることだ」
 深くあたたかな、しみじみと胸に溶け込むような笑みだった。
 その笑みに、そして、知り合ったばかりの格を単なる子供としてではなく一個の存在として受け入れてくれた度量に痺れた。
 大切なもののために強くなりたいという言葉も、本気だと受け止めてくれた。
 憧れの人に認められたということが、嬉しくて仕方がない。
 もう、迷ってなどいられなかった。
「入門させて下さい。お願いします」
「空手歴が短かくても甘くはしないぞ?」
「はい」
 先ほどの組み手を見ては、甘く優しく稽古をつけてもらえるなどとは思わない。
「生傷も絶えないかもしれないが」
「大丈夫です」
 体の傷はいずれ治る。痛みを知らないままで強くなれるわけがないのだ。
 武原は格の中の本気を探し出すかのように目を覗き込み、やがて頷いた。
「――わかった。入門を許可しよう」
「はい! ありがとうございます!」
 格は万感を込めて、13年間生きてきてこれ以上深く頭を下げたことはないのではないかと思うほど深々と礼をした。
 武原はぽんとひとつ格の背を叩き、腕を引いて頭を上げさせる。
「必要以上の堅苦しさはいらないからな。榎本――下の名前は?」
「いたる、です。性格の格の字で」
「格な。俺のことも名前でいいぞ」
 名前というと、伊庭が呼んでいた――
「それは…出来ないです。師範とか先生じゃダメなんですか?」
「その呼ばれ方はどうにもくすぐったいんだが――ま、仕方ねえか」
 武原は軽く息を吐いて宙を仰ぎ、頭を掻いた。
 試合以上に激しい組み手を行う稽古と、試合のビデオの中での静謐でいて触れたら切れてしまいそうな鋭さと、いま目の前の武原から感じる鷹揚さとのギャップに格の肩から余分な力が抜けた。
 武原洋という男は、戦う姿だけでなく人柄そのものも格を惹きつける。
「格、このあとは帰るだけか?」
「? はい」
「じゃあ少し動いていけ」
「でも道着とか持ってきてないです」
「貸してやるって。ちょっと待ってろ」
 武原は手を翳して格をその場に止どめおき、ジーンズの尻ポケットから携帯電話を取り出した。
 そして、わずかな操作の後に電話を耳に当てる。
「――めいか?」
 数秒待って武原が電話の向こうの相手に問い掛けた。
「いまどこだ? ――そうか。5分で戻って道場に来い。……お前の足で無理なら言わねえよ。それとも自信がないか?」
 挑発するような口調で尋ねた武原は、少し耳を離して相手の返事を聞くと、通話を終わらせて携帯電話を尻ポケットに戻した。
 そして道場の奥に向かい、用具入れにしているらしい小部屋からひと揃いの道着を取り出して格へと手渡した。
「ちょっとでかいだろうけど、小さくてケツでも破くよりましだろう」
 格は小さく吹き出して道着を受け取った。たしかにそれは、たとえ誰も見ていなくても恥ずかしい。
 何をさせられるのか不安がなくもなかったが、やれと言うからには意味があることなのだろう。
 格は古賀沢組事務所の地下道場で稽古をする時と同じように、道場の隅に移動して着替えを始めた。
 夏なので着ている枚数が少ないため、手間はまったく掛からない。手早く道着を着込み借りた帯に手を伸ばした。
「どうした? どっか破れてたか?」
 使い込んだ黒帯を手にした途端ぴたりと動きを止めた格に、武原が声を掛けて歩み寄る。格は武原を振り返り、照れたように笑った。
「――俺、まだ段持ちじゃないんで、黒帯しめるの初めてで……なんか感動だなって…」
 強くなることと段位を得ることは決してイコールではないが、それでもまだ経験の浅い格にとっては黒帯は憧れの品だ。
 少々くたびれていても黒帯は黒帯で、むしろ使い込まれている分だけ長くこの帯を使っていたような気分になる。
 格の答えに驚いた顔をしていた武原の顔がふっと笑み崩れて、その手が格の頭に伸びた。
「わ…っ」
 首に回された腕で引き寄せられて抱え込まれ、格は思わず声を上げた。
 武原は笑いながら、もう片方の手で格の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「長いことそういう気持ちを忘れてたよ。かわいいなァ、格は」
「…かわ……」
「うちの息子からはそういうセリフは聞けなかったからな」
「…は…?」
 初めて耳にした“息子”の存在に、格は乱れた髪のまま顔を上げた。思えば“かみさん”という単語は出て来たのだし、子供がいてもおかしくない。
 その時、半開きになっていた道場の扉が、がたがたと音を立てて全開にされた。
 咄嗟に振り返ると、10代前半と思しき空手着姿の少年が扉にすがって立っていた。
「…っみろ……5分切った――」
 ぜえはあと荒い呼吸を繰り返す少年の視線が格と武原へと向けられ、その眉が不審そうに寄せられる。
 少年は肩で息をしつつ探るようなまなざしを向け、
「浮気相手としてそれはどうかと思うんだけど」
と言った。
 なんでそうなるのだと思った格だったが、髪は乱れ、帯を締めておらず、道着ははだけたままで抱き寄せられているという状況にはたと気付き、手にしていた帯を腰に回した。何も後ろめたいものはないのだが、なんとなく気恥ずかしい。
 武原は格から手を離し、平然として腕を組んだ。
「俺が浮気なんぞするわけねえだろうが」
「うん、わかってっけどさ」
 武原の答えを予想していたのか、少年もあっさりと返して履いていた靴と靴下を脱いだ。
 そして入口に正座をして神棚に向かって一礼し、武原と格に向かって歩み寄る。
「お前、その格好で走ってたのか」
「走り終わったら稽古だろ。洗濯物増やすことないじゃん」
「大雑把なんだか気が回るんだか…」
「――こいつ、新入り?」
 側までやってきた少年は、きょとんとした顔で格を指差して尋ねた。荒かった呼吸はすでにだいぶ穏やかになっている。
 背丈は格よりも10センチほど低い。身にまとっている道着の上から見る限りでは体つきもまだ華奢だ。
「人を指差すんじゃない」
 武原は諭すように言い少年の手をぴしゃりと叩いて下げさせ、帯を締め終わった格の両肩に手を添えて体を少年の方へと向けた。
「今日から俺の弟子だ」
「あ…っあの、榎本格です。よろしくお願いします」
「――俺のって……直弟子…?」
 格の言葉には応じずに、訝しげな顔で少年は呟いた。そんな彼に、武原が挨拶を促す。
 少年は何かを言いかけたがすぐに口を噤んで、格に向かって軽く頭を下げた。
「武原明、です」
 “たけはらめい”という名を聞いて、先ほど武原が電話を掛けたのが彼だと格は知った。
 そして武原は、彼が自分の息子であること、そして格と同じ年齢だということを教えてくれた。小柄ではあるが、たしかに面立ちは武原とよく似ている。
「呼吸は落ち着いたな?」
 武原は息子に向かってそう尋ねた。
 頷く明の肩は上下することもなく、呼吸はすっかり正常だ。
「よし。じゃあ組み手とってみろ」
「えっ!?」
 左右の手で格と明の肩を叩いた武原を、格は思わず見上げた。
 “稽古”という言葉を口にしたように、空手着を着ていて黒帯を締めている明にはそれなりの年数の経験があり、武原からも指導を受けているのだろう。
 だが格は、空手を始めてまだ1年も経っておらず、段位もない。そして、ほんの数分前に入門を許してもらったばかりだ。
 先ほど見たような組み手をしろと言われても、てんで形にならないのではないか。
 そんな格の懸念を見透かしたかのように、武原が格の耳に口を寄せて言った。
「持ってるスキルを全部出していいぞ。そのかわり、俺が止めるまで1本取られんよう頑張りな」
「そ…っ――」
 そんな無茶な、と言おうとした格の声は「さあ、いこう」と言って二度打ち鳴らされた武原の手の音にかき消された。
 それと共に明が道場の中央へと向かう。
 格は観念し、同じく中央に歩み寄って明と向かい合った。
 明の唇に、武原とよく似た不敵な笑みが浮かんだ。


−続−



Series index ←前次→
 
アンケェトフォーム→

Copyright(c)2006.11.27- Haruka Sumeragi Rights Reserved.



広告 [PR] ネットスーパー お取り寄せ お試しセット 無料レンタルサーバー ブログ blog