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【第2部】Vol.2 ブルースカイ・ブルー
(3)
よく晴れた夏空の下、わずかばかりのBGMと笑い声と悲鳴、そして金属レールの音や機械音が入り交じり、老若男女問わずたくさんの人間が行き交っている。
格は胸の内で、何故ここにいるのだろうと自問自答した。
たしか、朝にはそんな予定ではなかったはずなのだ。
ここに連れて来た張本人であるルリは、格の左腕にしっかりと己の腕を絡めて寄り添い、人込みを避けつつ歩いている。
昨日も午前中から元町だ中華街だとあちこち買い物に付き合わされ、今日も強引に誘われた。しかし、買い物だと言いつつやって来たのは遊園地だ。
ルリのお目付役として一昨日の夕刻に横浜にやってきた倉橋と伊藤という2人の男は、中にはついてくるなというルリの強い言い付けで、遊園地の外で待っている。
「ね、次はあれ乗ろ!」
立ち並ぶアトラクションの向こうに見える大きな観覧車を指差してルリがせがんだ。
だが格はそれには応じずに、今日何度目かの周囲からの視線を感じたのを期に、同じく今日何度目かの言葉を口にした。
「ルリ、もう少し離れて歩いてくんないかな」
「だって人多くてはぐれそうなんやもん」
「服にでも掴まっとけば大丈夫だろ?」
たしかに人は多いが、ぴったり引っ付いていなくてはならないほどではなかった。むしろ、距離が近過ぎて少々歩き辛い。
「ええやん、腕組むくらい〜。それとも照れてるん?」
「あー…」
問い掛けに答えずに視線を逸らして鼻の頭を掻いた格に、ルリが嬉しげな笑みを浮かべる。
「格ったらカワイイ。大丈夫、あたしがリードしたげる」
「なんのリードだよ。そうじゃなくて、頼むからもうちょっと服の布地増やしてくんない?」
「なんで? 可愛くない?」
「そうじゃないけど、ちょっと見せすぎ」
今日のルリは小降りのバックを持ち、一昨日に購入した青い花のピアスとリングをつけ、ウエストの浅いデニムのミニスカートに、治り掛けの靴擦れを考慮してかスポーツブランドのスニーカーを履いている。トップスは3分丈袖のカットソーだが、襟ぐりが大きく開いているデザインで、胸元から下着が、ボタンを下まで留めていない裾からはピアスをしている臍がチラチラと見えていた。
ルリはきょとんとした顔をしてから己の胸に視線を落とした。
「もしかしてこれのこと言ってるん? これ見せブラやから見えても全然平気なんよ」
「そういう問題じゃなくてさ…」
「一応パンツも見せパンやけど、見たい?」
「見ません」
格は答えたが、見たいという男は今この場に幾人もいるだろうと思う。
朝から何度も視線を感じている。視線の主のほとんどが男で、見られているのは格ではなくルリだ。ちょっと屈んだ拍子に胸元やスカートの中が見えてしまいそうな姿では無理もない。
格へ向けた視線もあるが、それは人目を引くルリがぴったりとくっついて歩いていることへの羨望ややっかみなどネガティブな意味合いのものだった。
「ひどーい。即答しなくてもええやんかあ」
「あんたホントそういう服好きだよな」
一昨日から買い物に付き合ってきて感じていたが、とにかくルリは露出の多い服を好む。フェミニンなものならまた雰囲気は違うだろうが、どちらかというと攻撃的なものの方が多い。
「うん、好き。目立つし」
「目立つの好きなのか?」
「見られると快感」
なるほど、それならこの露出もわからなくもない。望み通り十分すぎるほど注目を浴びている。
「そんなに特殊な格好やないと思うけど、格はこういう服キライなん?」
「嫌いってわけじゃないよ」
TPOを考慮に入れなければならない時はもちろんあるが、ふだん何を着ようが本人の自由だと格は思っていた。
たしかに流行りの路線のひとつで、露出が多いのも目の保養の場合もある。ルリにこの手の服はよく似合っていた。
「じゃあ苦手? 女の子の扱い慣れて見えるのに意外」
「苦手っていうか、あんたそんな格好でひっついて来るから回りの視線が痛ぇの」
「人目がなければええの?」
「そういうことは彼氏相手にしろよ」
「いまフリーやもん」
「じゃあ好きな人相手にしなさい」
「格、オッサンくさいわ」
ルリは声を上げて笑うと、格の手を取って観覧車に向かって歩き出した。腕は組まずに手をつなぐことに変えたのはルリなりの譲歩らしい。
実のところ、格は触られることも露出の多い服に関しても苦手ではなかった。
横浜に来るまで暮らしていたアパートには、母親である東子の同僚をはじめ水商売の女が多く住んでおり、東子以外の女にも挨拶代わりに抱きしめられることは間々あった。
出勤前後の彼女たちは布地の少ないドレス姿であることも多く、朝には寝起きにほとんど下着姿でゴミ出しをするような女もよく見掛けたものだ。
全裸ならまた別だが、露出が多い姿は見慣れている。
だからなのか、きっちりと着込んでいる方がかえって色気があると思うに至っている。
年齢からするとたしかにオヤジ臭いといえるかもしれない。
手の中の携帯電話を見つめ、蒔麻は眉間にしわを寄せた。
昨日から、古賀沢の客人――正確にはその娘だが――ということを考慮してか、事務所を出入りすることが多い神之倉にではなく蒔麻に宛てて格からの報告メールが来ている。
蒔麻がいま見ているのは、数分前に届いた最新のメールだ。
「顔、怖いですよ」
コーヒーを差し出しながら氷上が蒔麻に指摘した。
蒔麻は携帯電話をデスクの上に置き、表情の険しさを和らげるように己の眉間をさする。
「あんたがそんなに気を揉んでも仕方ないでしょう」
「神之倉が平気な顔してるから、代わりにやってるの」
「――だとさ」
氷上は小さく笑みを浮かべてソファに座している神之倉を振り返った。
神之倉は苦笑を返すのみで、反論も弁解も口にしない。
「いま遊園地ですって」
「あの娘(こ)今朝は赤レンガに行きたいって言ってませんでしたか?」
「にっこり笑って行き方まで訊かれたわよ」
蒔麻はため息をついて革張りの椅子に背をもたせ掛けた。
ルリは、初めて事務所を訪れた時に見せた傍若無人さを、蒔麻や氷上の前では見せようとしなかった。蒔麻に対しては一応敬語も使っている。
少々わざとらしいので偽っていることは判るのだが、見せないものを理由に態度を変えるわけにもいかない。
普段の蒔麻であれば、その程度のことは笑って受け流すくらいの余裕はある。やはり、格が絡んでいるというのがネックのようだ。
「気になって仕方ないなら、いっそ報告を受けなきゃいいでしょうに」
「それはそれで余計に気になっちゃうじゃない。あの娘、ものすごいラブラブ光線出してるんだもの」
デスクに突っ伏すようにして重ねた腕に顔を伏せた蒔麻は、やがて顔を上げてソファの神之倉を見やった。
「ねえ神之倉、本当に心配じゃないの?」
「――心配ですか?」
「あたりまえでしょう。積極的で行動力のある女の子にあんなに気に入られて…。一昨日とは状況が違うわよ? あの娘、格くんのことかなり本気だわ」
「そのようですね」
初めて会った時、格のことを若くていい男だとルリは言った。その態度から、ひと目で気に入ったようだということは神之倉にも判った。
そして、格を連れ去って戻って来てからのルリの格を見る目は、出ていく前とは明らかに変わっていた。どことなく甘いのだ。現に昨日も格にべったりで、今日も当然のように連れ出していった。
「格くんて女の子に優しいから、本気で向かってこられたら…」
「そこまで意志が弱くはないですよ」
「わかってるわ。でも女は、本当にモノにしたいならなんだって武器にするわよ」
それは神之倉にも分からなくはない。過去、そんな女もいた。
だが、どうやら格はルリを放っておけないらしい。その理由が、ルリの無意識の何かなのか、それともルリが意識的に図った何かなのはわからない。
けれど、格が気になるというのなら思うとおりにさせてやりたいと神之倉は思う。
蒔麻からすれば甘いと見えるかもしれない。
たしかに、いかに精神的に大人でも、形振り構わずぶつかってくる女を相手にしたことはさすがにないだろう。そんなケースで格がどう出るのか、しかとは見当がつかなかった。
だが、根拠のある理由と本能的な勘とが半々ではあるが、格のルリに対する気持ちは恋情ではないという、そして恋情に変わることもないという確信が神之倉にはある。
そして、己の中にある確信はまた別にして、体当たりで思いのすべてを神之倉へとぶつけて来たこの2年近い格の日々を信じてやりたかった。
観覧車の前には列が伸びていて、乗れたのは並び始めてから40分後だった。
行列に並ぶなど見るからに苦手そうで、そのとおり遅いまだかと口には出していたルリだが、やめようとは言い出さなかった。
ルリは身を乗り出すようにガラス越しの景色を眺め、目立つ場所を指差してはあれは何なのかと格に尋ねる。
「ねえ、隣り座っていい?」
それではあれは何だと続いて尋ねるようにして、ルリが何気なく訊いた。観覧車はまだ頂上にも差し掛かっていない。
「なんだよ急に」
「はい、詰めて詰めて」
ルリは返事も聞かずに立ち上がり、格に端に寄るよう促す。
「ちょっ、危ねえって」
途端にゴンドラがゆらゆらと動き、よろめいたルリに格が手を伸ばした。
ルリは格の手に縋ったが、前に傾いた体を止められずにそのまま格に向かって突っ込んだ。
受け止めた衝撃がゴンドラに伝わり、ぎしりと軋む。その音が思いのほか大きかったことにひやりとする。
「…っ危ねえって言ってんのに!」
勢い余って膝に乗り上げる形になったルリに向かって、格はいささか語気を強めて言った。ルリは反省しているのか、殊勝な顔をして「ごめん」と謝る。
「怪我してねえ?」
「ん、平気」
「ゆっくり戻れよ」
格は立ち上がるルリを支えようと手を差し出した。またも揺らしては、下にいる係員も不審に思うだろう。
しかしルリは、差し出された手に自分の手を乗せたものの、格の膝の上から退こうとしなかった。
「――ルリ?」
「なに?」
「……退いてくんない?」
「退いたら隣りに座らせてくれる?」
にこやかにそうのたまうルリに、格はわずかに目を細めた。
やられた、という思いが脳裏をかすめる。
「最初からそのつもりだったのか?」
「あたしは別にこの体勢でもええけど、格はどうしたい?」
ルリに問い掛けられ、格は軽く息を吐いて楽しそうに見下ろして来る顔を見上げた。
「観覧車って普通は向かい合って乗るもんだろ」
「上も下もそうやないみたいよ」
言われて視線をやると、真上のゴンドラの中は見えなかったが、観覧車の天辺付近のゴンドラの窓から乗客の頭らしきものが片方の座席に寄って見えた。
膝に乗られているため下が見えないので対角線上のゴンドラに目を凝らすと、いまの格とルリと同じ体勢らしき男女がちょうどキスをしている最中だった。
そういえばカップルで並んでいる客が多かったと思い出して納得しつつ、格は挑発するような笑みを浮かべているルリに視線を戻した。
「……隣りに座っていいから、移動はゆっくりな」
「はーい」
ルリはにっこり笑って、格の手を借りて慎重に立ち上がり、言われた通りにゆっくりと格の左隣りに移動した。
そして、格の体と左腕の隙間にねじ込むようにして腕を絡める。ぴたりと寄り添われ、上腕に柔らかな胸が押しつけられた。
「…だからさ、そういうのは好きなヤツ相手にやれって」
「やってるやん」
「え?」
「スキ」
「――は?」
「好きや」
「…俺を?」
「なんで面と向かってわざわざ他の男を好きやって言わなあかんの」
「ああ…そっか」
格は半ば呆然と返した。
気に入られているのはわかっていたが、父親の部下以外で引っ張り回せる相手としてだと思っていた。
どんなに甘えてきても密着されても、それはルリなりのスキンシップか諾々と従うだけではない格への意趣返しのような揶揄的行為で、恋心からだとは思いもしなかったのだ。
「…まだ会って3日目なんだけど」
「時間は関係ないやん」
一瞬で好きになることもある。それはわかっている。
だが何が決め手だったのか、格には見当がつかなかった。昨日も一昨日も、ルリには同じ態度で接していたつもりだが、何がルリの琴線に触れたというのか。
「格のルックスは好みやし、一緒にいて楽しいし。あとはもう理屈じゃないねん。こっちにいる間だけやなくて、もっと一緒にいたいんよ」
ルリは濡れたようなまなざしでじっと格を見つめて囁く。
「ね、付き合お」
「ごめん」
「ちょっと……そこで即答する?」
ためらいもなく間髪入れずに返された言葉に、ルリが眉を寄せて非難した。下着を見せる、いや見ないといったやり取りの時と比べて、表情が真剣だ。
格はもう一度ごめんと繰り返しながら頭を下げ、逃げることなく率直に答える。
「気持ちは嬉しいけど、時間を置いたって返事引き伸ばしたって、答えは変わんねえから…」
「彼女いるん?」
「…いや……」
格は一瞬ためらって否定した。
“彼女”ではないのはともかく、どこの誰だと問われてもルリには答えられない相手だ。だからといって彼女を演じて口裏を合わせてくれるような相手も咄嗟には思い浮かばず、イエスとは言えなかった。
いっそ女より男が好きなのだとでも言ってみようかと思ったが、下手をすると藪蛇になりそうな気がして飲み込む。
「じゃあ、好きな人がいるん?」
「…いるよ。だから――」
「それならあたしにもチャンスがあるいうことやね」
「なんでそうなんの」
「だって、付き合ってるわけやないんやったら、その人よりあたしの方を好きになる可能性だってあるやん」
「や、でも俺は――」
「格の好きな人ってどんな子なん? 可愛い? 美人?」
「ちょっ、待っ」
「カラダは少しは自信あるんやけど、その子とどっちがイイ?」
ぴったりと体を寄せるどころかむしろぐいぐいと押しながら畳みかけるようにしてルリが訊ねる。勢いに押されて後退った格はゴンドラの隅に追いつめられてしまった。
ちらりと窓の外を見遣ると、真下にあったゴンドラがいつの間にやら上に来ている。どうやら半分を過ぎたところのようだ。
一周が15分の観覧車なので、あと7分といったところか。
「ルリ、ちょっと離れて」
「なんで? 人目はないやん?」
「そういう問題じゃなくってさ」
「付き合ってる人がいないんやったら浮気にもならないし、なんなら試してみて考えてくれてもええよ」
「何をだよ」
「言わせたいん? それともわからない?」
ルリの艶やかに光る唇が蠱惑的な笑みを形作った。
格の腕を捉えていた手が解かれ、右手が肩に乗ってしなだれかかるように体が寄せられる。そして左手が、膝の上にそっと乗った。
これまでの押しまくる様とは違い、明らかに誘いを掛けているその仕草は慣れていて、はったりではなく本気だと感じさせる。
ルリが何を言わんとしているか、格は解っていた。解っているが、言わせたいわけではない。むしろ、言われても困る。
わがままでも、押しが強くても、ルリを嫌いではない。可愛いと思うところもある。しかしそれは、恋愛感情ではないのだ。
だが、露出の多い女に慣れていても、一般的な日本人からすればスキンシップ過多な家庭で育っても、年齢よりませてはいても、明らかな肉体的誘惑を平気な顔をして退けられるほどの経験はまだない。
露骨に表情には出さなかったが、どうやってルリを諦めさせたらよいのか見当がつかず、格は狼狽した。
「流されてみるのもええと思うんやけど」
格の沈黙をなんと思ったか、ルリが耳元で甘く囁いた。
一瞬、それでもいいかという気になりかけたが、すぐに我に返り格は首を横に振った。そしてその拍子に断る名目を思い付く。
「…ルリさ、10歳以上年上は好みじゃないって言ってたけど、年下は平気なわけ?」
「年下? …ん〜好みじゃないっていうより範疇外? ガキばっかやもん。好きなのは5〜6歳上だけど、同じくらいの年なら条件によってはOK」
「じゃあ俺はダメじゃん」
「なんで?」
「だってルリっていくつ? 17? 18?」
「あたし? 15。秋に16になるけど」
ということは高校1年生だ。
最初に古賀沢の組員が高校生くらいだと言っていたが、初めて会った時から幼い印象はなかった。我が侭を言われても甘えられても子供っぽいというよりは“女”のそれで、まさか15歳だとは思わなかった。
だが、どうやらルリの方も思い違いをしているらしい。
「ね? 同じくらいやろ」
「俺、13」
だから大丈夫とばかりに抱きつこうとしたルリが、格の言葉を聞いた途端ぴたりと固まった。
「え?」
「だから、俺まだ13歳。今年の春に中学に上がったばっかだよ」
「――じゅうさんーっ!?」
格以上の驚きを見せて、ルリが声を上げた。
2つ3つ上に見られることは間々あることなのでこういうやり取りに慣れている格だが、今回は少しばかりルリに同情した。色仕掛けまでして迫った相手が中学1年生だと知ったら、驚きもするし脱力もするだろう。
ルリの手が格の両頬を挟み、じっと顔に見入る。
「たしかにタメの男どもに比べて肌もキレイやけど……ホントに?」
「いま持ってないけど、ガッコの生徒手帳でも見せようか?」
互いに10歳ほども年が上なら珍しくもない年齢差だろう。ルリが18で格が16でも、十分あり得る組み合わせだ。もちろん15歳と13歳のカップルもなくはない。
だが大抵は女の方が成熟は早い。女子高生で、しかも見た目も中身も年齢より大人びていて多少の場数も踏んでいるルリからすると、やはり13歳は“男”の範疇ではなかった。
「……サギやわ……」
「俺は別に嘘とか言ってねえよ?」
「そうだけど! そうだけど、でも、一昨日も昨日も…今日だって、同じくらいの歳にしては女の扱いに慣れてるなって思ってたのに…っ――わかった!
付き合った人数多いでしょ?」
「だから13だっての」
「お姉ちゃんいる?」
「一人っ子だよ」
「それじゃあオトナな関係のある年上の彼女が…」
「残念ながら」
最後だけは、ほんの少しだけ嘘だ。だが神之倉は男なので、女の扱いがどうこうということとは関係ない。
ルリの言う“オトナな経験”に含めていいのかどうか判らないが、大人のキスなら神之倉にしてもらったことがある。触れるだけでも重ねるだけでもないキスも交わしている。
神之倉に隙があれば、さらにその先に進みたい気持ちはいつだってあった。
「だからさ、ルリ。俺じゃダメだろ?」
「……ダメやない、かも」
「え?」
てっきり引くだろうと思っていたルリの答えに、格は思わず問い返した。そして、真意を訊こうとルリの顔を覗き込む。
視線を落としていたルリが顔を上げ、格を見た。
その刹那、ルリの携帯電話が鳴った。
流行りの歌の着信音は、しばらく放っておいても鳴りやむ気配を見せない。
「――ッもう! 誰!? 掛けてくるなって言うておいたのに!」
ついてくるな離れていろと言って遊園地の外に置いてきたお目付役達からだと思ったルリは、声を荒げながら忌々しそうに携帯電話を取り出す。
そして、外側の小さな液晶画面を見たルリの表情が瞬時に固まった。
「…パパ…っ!?」
強張った顔で携帯電話を見つめるルリは、鳴り続ける電話から一旦格へと視線を移した。
そしてまた戻すと、意を決するかのようにひとつ息を吐いて通話ボタンを押した。
初めて目にする伊庭康隆は、関西の極道の頂点を支えるに相応しい、いかにも極道といった風情の男だった。
身長こそ神之倉や氷上のほうが高いが体格は威風堂々、面構えも迫力があり、こめかみに一筋の傷がある。
声は意外にも静かなバリトンだったが、それも時と場合によって一変するのだろう。
現に、娘のルリに向けた不機嫌な声には凄味がある。
「まったくお前ときたら、大人しくするっちゅうことがこれっぽっちも出来んのか」
かかって来た電話で「すぐに戻れ」と有無を言わせない調子で言いつけられ、観覧車を降りてすぐに遊園地を出た。遊園地の近くで車を止めて待っていたお目付役の2人と共に古賀沢組の事務所まで戻ると、応接室で伊庭が待っていたのだ。
「…で…でも、ショッピングとちょっとした観光くらいで、遊び回ってたわけやない…」
「同じや、阿呆。挙げ句こちらのボンを連れ廻して、世話になってる身で我が侭にもほどがあんねん」
「あの、俺が自分で行くって決めたんですからいいんです。それに俺はそんな偉いもんじゃないし」
叱られて小さくなっているルリが可哀想になってきて、格は後ろから口を出した。
伊庭の目が格を捉え、じっと見返してくる。格はそれに怯まず言葉を続けた。
「本当に嫌だったら断ってますから、俺のことでは怒らないであげてください」
2日前に神之倉にも言われたが、嫌だと思えば氷上に頼んででも回避することは出来た。
それでもルリの強引な誘いに応じたのは格自身だ。困惑することもあったが、いまここにいることに後悔はない。
格に向けた伊庭の目の鋭さがわずかに和らいだ。
「……そうか、すまんなあ。ボンに感謝しろよ、ルリ子」
「その呼び方やめてよ…ッ」
これまで縮こまっていたルリが、弾かれたように顔を上げて声を荒げた。対する伊庭の眉間に、深い縦じわが刻まれる。
「俺が付けた名前にいつまでケチつけるんや、お前は」
「だってダサイやんかっ“こ”だけ漢字なんて昭和テイストな字面で!」
「子ぉ取って呼んだところで大して変わらへんわ。お前の名前は世間的にも戸籍上もがっつりルリ子じゃ、あほんだら」
「変わるもん!」
「とにかく、遊びに行きたいなら倉橋と伊藤を連れて行け。一人でふらふらほっつき歩くんやない」
「あんなヤクザ面連れてたらフツーに遊べるわけないやろっ」
「ほんなら大阪に帰れ」
ある意味ではもっともな反論をしたルリを、伊庭はあっさりと突き放した。
ぐっと言葉に詰まったルリは、言い返せずに俯く。
伊庭はそんなルリを数秒見つめ、これ以上話すことはないと言った風に背を向けて部屋を出て行った。
ドアが閉じられ、廊下を足音が遠ざかっていく。格とルリの二人きりになった室内に沈黙が満ちた。
しばらくして、項垂れていたルリの肩が小刻みに震え始めた。そして格に背を向けたまま声を絞り出す。
「……も…いやや…っ」
泣くまいとしているのか、その声は震えていた。
華奢な肩が一昨日と同じ淋しさを感じさせ、格は黙ってルリに近付いた。
「何をやっても、どこにいても、大人しくしてろってそればっかり…。ガキやからって信用されへんのは仕方ないけど、閉じこめたってほったらかしなくせに…っ」
「――言いたいことは口に出した方がいい」
そばに来て声を掛けた格に、涙目のルリが振り返った。
「俺でいいなら聞くし、ひとりになりたいなら出てくよ」
強くは促さずに格は言う。
ルリは口を開きかけては躊躇って閉じるということを2度ほど繰り返し、格から目を逸らす。そして深く呼吸をし、3度目で口を開いた。
「……あたし……これでも中学2年までは成績も素行も良かったんよ」
「うん」
「パパの立場上、あたしが派手なコトして目ェつけられたらまずいと思って、地味に大人しくしてた。でも、成績良くたって大人しくたって、あの人は滅多に家に帰ってこなくて、お金だけは無駄に送ってきて…」
俯き加減でぽつぽつと語るルリを、格はただ見守った。吐き出させた方がいいと思ったからだ。
「学校行事には来られないのは理解してたけど、中2の頃ママが入院した時も、命に関わる病気やなかったけどあの人お金しか寄越さんかった。ママはかまわないって言うてたけど、あたしは理解できなくて、許せなくて――そこでタガがぶっ飛んじゃった」
ぼんやりと床に目を遣ったまま話し続けていたルリが顔を上げ、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「親父さんを困らせてやりたかったのか?」
「それもあったけど、どうせならぱーっと楽しんじゃえって、やりたいことやってしたい格好してたらこんなんなってん。だから今の自分に違和感はないんやけど」
「地味で大人しかったんなら180度方向転換だな。そりゃ驚かれたろ」
「うん、久々に会った時は絶句してた。そのへんはしてやったりやね」
ルリは勝ち誇るように尊大に腕を組んだ。
だが、そんなことでは空虚さは満たされなかったのだろう。初めて会った日のルリは、買い物を楽しんでいるように見え実際に楽しくもあったのだろうが、買っても買ってもまだ足りないというような空気を醸し出していた。
最も足りないのは、ルリが一番求めているのは、物ではなく伊庭の関心なのだろう。
しかし格には、伊庭がルリに無関心でいるようには思えなかった。
物言いはきつかったが、話しているときはルリから目を離そうとしなかった。伊庭を良く知らない格には確信はなく、根拠といえばこの一点のみだったが、不思議と外れている気がしない。
それに、出歩くなら連れて行けと伊庭が言う倉橋と伊藤も、嫌々ルリについている風ではない。伊庭が目を離すなと命じているなら今日もルリには逆らって遊園地の中までついてきたはずだが、そうはしなかった。
昨日も、あまり近くに寄るなというルリの要望を聞いて、少し離れたところをついてきていて、格には見張っているというより見守っているのだと見えた。
全ては格が感じたことでしかないので、それをルリに話そうとは思わなかった。ルリが自分の目で見て、確かめて、納得できなくては意味がないだろうからだ。
「親父さんのこと、もっとよく見てみなよ。知らなかったことが判るかもしれないし、見えなかったことが見えるかもしれない」
「……嫌や。怖いもん」
「何が怖い?」
「ほんまもんのろくでなしのひとでなしで、組のこと以外どうでもいい男やったら――あたしってなんやの…?」
「それはねえよ」
ルリのもっともな不安に、格は断言した。さらにもう一度「それはない」ときっぱりと繰り返す。
「どうでもよかったら放っておくだろ。金だって送らねえし、口も出さない。どこで何してようが勝手だって、人を寄越したりもしないと思う」
「……そうかも…しれへんけど……」
ルリは迷いを顕わに視線を下げて言葉を濁す。そして数秒間考え込んで顔を上げ、格を見やった。
「なんでそんなに気にしてくれるん…?」
「――背中がさ、すげえ淋しそうだったから」
「せなか?」
「あんだけ買い物しまくっても、楽しそうに街歩いてても、背中だけはずっと淋しそうだったから。原因が親父さんみたいだから、よけいに気になった」
「なんでパパが原因だと気になるの?」
「生きて、会いに行けるところにいる父親とわだかまりがあるのはもったいないなー…なんて、結局は俺の自己満足だな。ごめん」
自分の行為がなんなのかに思い当たり、格は頭を下げた。突然のそれにルリが首を捻る。
「自己満足…?」
「父親いないからさ、俺。生まれる前に死んじゃったから、写真とかビデオでしか顔知らないし、声も直接聞いたことない」
「……」
淋しいと思ったことが全くないといえば嘘になるが、東子には十二分に愛されている。だから、父親がいないことを気にやんだことはない。
しかし、ふと見せることがある淋しげな東子の後ろ姿に、自分では埋めきれない空隙を感じてもどかしく思うことがあった。
蒔麻にしてもそうだ。格がそばにいる時の蒔麻は誰に対するより柔らかな笑顔をくれるが、蒔麻の心の奥の奥にある淋しさや辛さをすっかり取り払える人間は一人しかいない。だが、彼はもうこの世にいない。
そんな女達を見ているせいだろうか。生きて手を伸ばせる距離に在るのなら、背負っている淋しさが取り返しのつかないものでないのなら、なんとかしたいと思ってしまったのだ。
だが、誰にでもそう思うわけではない。知り合ったばかりのルリの淋しさに反応したのは、ルリが極道の娘だったからだろう。
抱いている思いの種類は違うが、明日同じ場所で同じように生きている保証などない世界にいる男の心を求めている。
まさしく自己満足だと改めて自覚し、格は決まり悪げに頬を掻いた。
「ほんとゴメン。余計なお世話だよな。ルリが嫌なら別に押し付けるつもりはねえから」
「――うん……」
頷きながらもどこか上の空でルリが返答し、また何秒かの沈黙が続いた。
見せたことのない自分を見せたせいか、話したことのない心中を明かしたせいか、互いに何とはなしに気まずい。
先に動いたのはルリだった。応接用のソファに歩み寄り、置いていたバックを手に取る。
そして、指先で目尻を軽く拭って格に向き直った。
「今日はもう帰る」
「ああ」
「……少し考えてみる。格が言ったこと」
「そっか」
余計な事は口にせず、格はただルリの言葉を受け止めた。あまりに素っ気ないと自分でも思ったが、ルリからは攻める言葉はない。
ルリはそのまま背を向けて、ドアへと向かって歩き出した。
背中はまだ、淋しげなままだ。
「ルリ」
ドアノブに手を伸ばしたルリを、格が呼び止めた。
「…なに?」
「可愛いと思うけどな、“ルリ子”って」
なんの脈絡もない突然のひと言に、瞬間ルリがぽかんとする。
やがて表情は苦笑に変わり、苦笑は笑顔に変わった。
「――やっぱりダメやないわ、格」
ルリは一度部屋の中に向き直ってそう返すと、ドアをぐぐり抜けざま、いつもの挑発的な笑みを口の端に浮かべてその向こうへ消えた。
蒔麻や氷上に黙って帰るのは気が引けるのでひと声掛けていこうと、格は廊下を通り掛かった組員に2人の所在を尋ねた。
だが2人とも伊庭と共に組長室にいるらしく、顔を出して声をかけるのは憚られる。仕方がないので応接室に戻り、格はしばらくそこにいた。
所在なげに窓から通りを眺めていたら、やがて黒塗りのセダンが事務所の前に横付けされた。中から見慣れた姿が降り立つ。
「士朗」
格はその名を呟き、通りを見下ろした。神之倉の側には佐伯と数名の組員がいる。
すると、声が聞こえるはずもないのに神之倉が視線を上げ、窓際の格を発見した。格を見上げた神之倉の目がわずかに笑い、下方へと戻される。
神之倉たちはすぐに事務所の中へと入り、通りから消えた。
今日の午後は出掛けていて事務所にはいないと昨夜聞いていたので、ここで姿が見られるとは思っていなかった。しかも自分に気付いてくれた嬉しさに、自然に顔が緩む。
おそらくすぐにまた出掛けてしまうか伊庭の元に向かうのだろうからいまはゆっくり会えはしないが、今夜はそれほど遅くはならないはずだと言っていたので夜には会える。
蒔麻にはメールでもしてこれで帰ろうと決め、格は応接室を出た。
すると、廊下の向こうから佐伯がやってくるのに行き会った。格に気付いた佐伯は片手を上げて格の注意を引いて呼びかける。
「格くん、よかった」
「え?」
「応接室にいるはずだから呼んできてくれと、若頭が」
「俺を?」
「ああ。ご自分の部屋にいらっしゃるから」
それだけを告げて、佐伯は神之倉の部屋とは反対方向へと向かった。どうやら何か別に用事があるらしい。
格は佐伯がやってきた廊下の先にある階段へ向かい、階上の神之倉の部屋を目指した。
ドアをノックすると聞き慣れた声が応答し、そっとドアを開けると部屋の主がスーツの上着を脱いでいるところだった。
汗をかいている様子はなく室内は冷房が効いているが、スーツのままではやはり暑いのだろう。
「伊庭さんに呼び戻されたんだってな」
「もう知ってんの?」
部屋に入るなりそう言われて格は驚いた。出掛けていていま戻ったばかりではないのか。
「伊庭さんが事務所に着いたと氷上から連絡をもらってな。その時に聞いた」
「午後は出ずっぱりじゃなかったのか?」
「その予定だったんだが、変更になった」
「じゃあ今夜は遅いんだ?」
「いや、明日に延びたからかえって早く帰れるかもしれん。伊庭さん次第だがな」
「そっか……。――なあ、側に行ってもいい?」
重要な客人なので、接待や酒宴があるだろうということはわかる。ただ、伊庭は3日後に来るとルリが来た日に聞いていたので、今夜のところは2人でいられる時間がそれなりにありそうだと勝手に思っていた。
だからなのか、思いのほか落胆している。ほんの少しでいいから、すぐそばに行きたかった。
だが2人きりとはいえ組事務所内なので遠慮がちに訊ねたのだが、神之倉は少し笑うと格に向かって片手を差し伸べた。
駆けるようにして近寄り、伸ばされた腕と胸との間に入り込む。
目の前の肩に額を付けると、微かにコロンの香りがした。ごく近くにいる時に仄かに香る程度にしかつけないものだ。
神之倉の匂いだと思うと、すうっと気持ちが穏やかになる。ルリから伝染した淋しさが霧が晴れるようにして和らいだ。
「どうした、何かあったのか? それとも疲れたか」
「ん? ううん…大丈夫。今日も惜しげもなく露出しまくってたから周りの視線が痛かったけど」
隙を見て蒔麻にメールを送ってもいたが、神之倉に対してもどこに行って何をしてどうだったかという一応の報告はしていた。ほとんどが買い物か観光だったのだが、伊庭の立場が立場だけに、何らかの不穏な動きを見落としていては問題だからだ。
「そんで観覧車に乗って――あ」
「あ?」
「…観覧車の中で好きだって言われた」
「そうか」
「驚かねえの?」
あっさり返ってきた言葉に、格は拍子抜けして顔を上げた。神之倉は格の視線を受け止めて小さく微笑む。
「予想はしてたからな」
「マジで? 俺、言われるまで全然気付かなかったんだけど」
「それで、お前はどうしたんだ?」
「断ったよ。士朗がいるもん。もちろん相手が誰かは言わなかったけどさ。でも――」
格はルリと交わした会話の内容を頭の中で反芻し、困ったように眉根を寄せた。
伊庭に呼び戻されたことで有耶無耶になってしまったが、終わったわけではなかったのだ。
「でも?」
「俺は13歳だから守備範囲じゃないだろって言ったらルリも驚いてて……でもさっき――」
自分では駄目だろうと格が言ったときのルリの答えは、「ダメではないかも」だった。そして先ほど別れ際に、ルリは「ダメじゃない」と言い切って出ていった。
「今度きちんと断らなくちゃな…」
呟く格に見えないように神之倉は苦笑を浮かべた。これも予想通りであったからだ。
格のことなので、付き合っている相手や好きな相手を訊ねられたら、神之倉を慮って本当のことは言わずに躱すだろうと思っていた。そして、格が相手なら13歳でもかまわないとルリが思うかもしれないとも予想はしていた。
「でもちょっとびっくりした。抱きつかれるのとか露出度の高いカッコとか慣れてるけど、女の子の色仕掛けってすげえのな」
「そんなにすごかったか」
「柔らかいし、いい匂いするし……士朗がいなかったら流されてたかも。人に告られたの初めてだったし」
「――…はじめて?」
「へ? ああ、うん。面と向かってマジで言われたのは初めて」
予想外だ――神之倉はどうにか表情を変えずに驚きを押し隠した。
色仕掛けが初体験というのは予想の内だが、告白されることも初めてとは思ってもみなかった。
過去好きになった相手は何人かいたようだし、11歳という年齢で神之倉に告白してきたことからも、蒔麻に対する接し方を見ても、同級生や同じ学校の女子生徒に告白の1度や2度はされていると思っていたのだ。
少し暢気すぎたかもしれないと思いつつ、神之倉は格を見下ろした。
格は真面目な顔で神之倉を見上げ、その背中に手を回してシャツを掴む。
「浮気なんかしねえからな」
「わかってるよ」
神之倉は小さく笑って見せて格の肩を抱き、その髪に軽く唇を押しあてた。
仕草と感触から何をされたのかを察し、格が驚きと喜びを顕わに顔を上げる。
その時ふいに、ノックの音が聞こえてきた。
格が背後を振り返ると同時に神之倉が格の肩から手を離し、ノックの主に対して応答する。
ドアを開けて入ってきたのは、伊庭だった。
「お久しぶりです、伊庭さん」
「おう、冬以来だな」
歩み寄った神之倉の上腕を叩き、伊庭が笑った。
ルリに対してとは違う凄味と余裕に満ちあふれていて、ひと目でただ者ではないと思える貫禄がある。
神之倉が畏まる相手は蒔麻と神宮寺くらいしか見たことがない格には新鮮な光景だった。
「着替えてから伺おうと思ってましたが、何か急用でも?」
「いや、急用というか、ボンがまだいるいうから」
「…俺、ですか?」
よもや自分に用があるとは思いもしなかった格は思わず体を硬くした。
それに気付いた伊庭は、格に向かって笑いかけつつ手招いた。
「ボンに、娘が世話になった礼をしよう思ってな」
「えっ、や、いいですそんな!」
「まあわしの気持ちや。喜んでもらえるかわからんけどな」
「あの……何を…?」
「ボンは空手をやってるんやて?」
「はい、あの、誰から?」
「氷上から聞いた。で、古流の流派にも興味があるんやってな」
格は頷いた。
空手を始めてから少しでも早く上達したいと専門書籍を読むようになり、春先から古流が気になっていたのは確かだ。氷上にもそんな話をして、いろいろと教えてもらいもした。
「仁武流って流派は知ってるか?」
「…っはい、知ってます!」
驚きのあまり勢い込んで格は答えた。その名が出てくるとは思わなかったのだ。
古流の流派の中でも知る人ぞ知るという存在で、その宗家は相当に強いらしい。通っている空手道場の師範に尋ねるとその仁武流宗家の出ている試合のビデオを借してくれ、それを見るなり一発でファンになってしまった。
圧倒的な強さもだが、その速さと鋭さに憧れた。速くて鋭いというと“ナイフのようだ”という形容のされ方があるが、格が連想したのは日本刀だった。
かつて神之倉に見せてもらった演武のように、速さも鋭さもあるのにむしろ静かで、それに一層の凄味を感じた。
ちょうど最近買った雑誌で取り上げられてもいた。載っていた戦績は派手なものではなかったが、師範によると大会にはあまり興味を示さない人らしい。流派への入門も難しいとの噂もあるという。
「これからその仁武流の本部まで行くんやけどな、ボンも一緒に行くか?」
「本部って……本部道場ですか?」
「おう。興味があるなら、見学させてもらえるよう頼んでみるが」
「…はい! お願いします!」
何故伊庭がそこに用があるのかという疑問はあったが、格は考えるより早くそう答えて頭を下げていた。
−続−
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