【第2部】Vol.2 ブルースカイ・ブルー (2)


 真夏の強烈な陽光がビルの壁面に反射し、景色が揺らめいて見えそうだ。
 だが、駅から続くなだらかな坂には街路樹の影が出来ており、木陰に入るとほんの少しだけ暑さが緩和する。
 古賀沢組の事務所を出て2時間半が経過していた。格の前を行くルリは、初めて会った時とは服装を変えている。
 事務所を出て通りまで走り、つかまえたタクシーに乗り込んで横浜駅まで移動した。駅ビルのブランドショップのひとつで膝上丈のキャミソールワンピースとミュールとバッグを買い、それらをその場で身に着けて、元々着ていたものはコインロッカーに放り込んで横浜を離れたのだ。
 格が驚いたのは、その買い物の仕方の豪快さと物慣れた行動だった。
 駅ビルでは即決、現金で購入していた。ルリ曰く、カードでは支払いに手間と時間がかかるからだと言う。
 そして、口紅の色をローズピンクからパールピンクに、ヘアアクセサリーでサイドの髪を簡単にアップして髪型も変え、まるで違うとは言えないが見た目の印象も変えてみせた。
 買い物に時間をかけなかったのも、髪型や服を変えたのも、追ってくる者の目を眩ますために意識してのことのようだ。
「格、次あの店行こ!」
 ルリがくるりと振り返り、前方に見える店を指差した。
「また買うんですか」
「またって、まだまだこれからやん。それから敬語はあかんて何度言わせんの」
 立ち止まった格のところまで戻って来て強引に手を取ったルリに、格は頭を振って見せる。
「古賀沢の客分になる人のお嬢さんですから」
 事務所を出て来る直前、かかってきた電話に対応していた神之倉は確かに“伊庭”と言った。神之倉の丁寧な口調から、以前聞いたことのある関西最大組織の大幹部の“伊庭”をすぐに思い出した。
 ルリに確かめたところ、やはり格の予想通りルリはその娘で、3日後に伊庭が関東に来るのだという。
 ヤクザの勢力図の詳細はわからないが、関西最大組織の大幹部ということは、古賀沢にとっては敬意を払うべき相手ということは間違いないはずだ。その娘ならば、古賀沢に少しでもかかわりのある自分が失礼なことをするわけにはいかないと格は考えた。
「だーかーらー! パパはパパやって言ってるやん。そういうのイヤやから格と2人だけで出て来たのに。それに、格は古賀沢の誰かの息子とかじゃ孫じゃないんやろ?」
 息子や孫ではないが、情人
(イロ)ではある。しかも相手は、古賀沢にとって組長に次ぐ重要な位置にいる男だ。
 格は簡単に明かすわけにはいかないそれを飲み込んで、自分の手を掴むルリの手をやんわりと外した。
「違うけど、やっぱダメです。帰りましょう」
「イヤ」
「じゃあせめて連絡しませんか。今頃みんな探してます」
「探せなんて頼んでないもん、知らんわそんなん。探させてやればええやないの」
 ルリは興味なさそうに言って再度格の手を取ろうとした。
 だが格は半身を引くことでそれを躱した。
 神之倉に、そして古賀沢に迷惑の掛かるような真似は絶対にしたくない。
 万が一ルリに何かあったら、古賀沢が伊庭を敵に回す羽目になるかもしれないのだ。
 ルリはじっと見据える格に一瞬だけ怯む様子をみせたが、そこはさすがに伊庭の娘だ。視線を受け止めて、尊大に腕を組んだ。
「ここで強引にあたしを連れて帰っても、あたしの古賀沢に対する印象が悪くなるだけよ?」
「……」
 脅すようなルリの言葉に格は押し黙った。
 関西最大組織の大幹部ともあろう男が、自分の目で見ることなく年若い女の言うことだけを信じるとは思えない。
 だが、実の娘ならどうだろう。可愛い娘が嫌な思いをしたとしたら――。
 娘に甘い男なのか、それとも厳しいのか、格は知らない。そもそも、名前を聞いたことがあるくらいで伊庭がどういう男なのかもよくわからない。
 迷っていると、それを察したルリが先に口を開いた。
「連絡させてあげてもええよ」
 しまった――格は今のひと言で優位に立たれたことにすぐさま気付き、表情は変えずに胸の内で呟く。
 否と撥ね付けてしまえば連絡する機会が得られないどころか、完全にルリの機嫌を損ねてしまうかもしれない。
 ルリと別れて1人で帰ってしまうのは簡単だ。一銭も持っていないが、いざとなれば財布を落としたとでも言って派出所で電車賃を借りることも出来る。
 しかし、伊庭と古賀沢組との関係に詳しくない格には、ルリをひとり放り出してしまって良いのか悪いのかの判断がつかない。
 どこかで電話を借り連絡を取って判断を仰ぐとしても、ルリの姿を見失ってしまっては意味がない。
 格は腹を決めて口を開いた。
「どうすりゃいいんですか?」
「条件その1」
 問い掛けた格に勝利の笑みを浮かべて、ルリが右の人差し指を立てた。
「敬語はやめること」
「…それから?」
 人差し指に続いて中指が立てられる。
「その2。名前もサン付けしないこと」
「あとは?」
 薬指が上がり、3本の指が立った。
「その3。このあとも買い物に付き合うこと」
 思っていたよりも無茶な条件は出されなかった。格は幾分ほっとして頷いた。
「――わかった。その条件全部飲む。だから連絡させろよ?」
「ええよ。じゃ、そこのカフェでお昼食べよか」
 ルリは3軒先に見えるオープンカフェを指差して歩き出した。
 格は慌てて後を追い、ルリの隣りに並ぶ。
「ルリさん! その前に連絡入れ…」
「サン付けしちゃあかんって言うたやろ」
「じゃあ――ルリちゃん?」
「ん〜…なんかしっくりこないー」
「…ルリ」
 今日が初対面で、明らかに自分より年上のルリを呼び捨てるのは気が引けるが、条件を飲むと言ってしまったからには仕方がない。格は名前だけ改めて言い直した。
 それを聞いたルリはにっこりと微笑み、格の腕に両手を絡めてぴたりと寄り添う。笑うと思いのほか少女めいた可愛らしさがあった。
「それでいこ。ほら、入るで」
 格は、今度は手を避けることなく為すがままルリの導きに従い、カフェの扉を開けた。

 最初に後を追った組員は早々に2人を見失ったが、引き続き捜索は続けられていた。しかし、ルリを目にしていた組員達が近隣の駅とその周辺を探さしているが、未だ見つかっていない。
「――まあ、予想の内だな」
 蒔麻の部屋で彼らからの報告を受けた氷上がそう呟いた。同じく捜索結果を予想していた神之倉も氷上の言葉に頷く。
 最寄りの駅がひとつだけなら探しようもあるが、そうではない。複数あっても全てが小さな駅で単線ならともかく、いくつもの路線が乗り入れる巨大ターミナルは捜索の困難は何倍にも増す。だが伊庭の上京を極力知らしめないためにも人海戦術は使えない。
 神之倉が伊庭から訊いたところによると、これまでルリが関東に来たのは一度きりで、行きそうな場所も見当がつかないという。だが、大方買い物だろうとは言っていた。
「まだ横浜にいるってことはないですかね?」
「いや」
 佐伯の言葉に、氷上は首を横に振り煙草を銜えた。側にいた佐伯に差し出されたジッポで火をつけてひと吸いし、紫煙を宙に吐く。
「追ってったうちのもんを振り切って出て行ったってことは、お供はいらねえ、むしろ来てくれるなってことだ。見つかりたくなけりゃここから離れるだろうよ。縄張り内にとどまりゃ見つかる確率が高いことくらいわかってるだろうさ」
「格くんからの連絡を待つしかないんでしょうか」
「そうさなあ…――」
 氷上は銜え煙草で腕を組んで考え込んだ。そして1分も経たないうちに視線を上げ、ふと蒔麻を振り返った。
 デスクの向こうの革張りのイスに腰を下ろして何やら物憂げな顔をしていた蒔麻が、氷上に呼ばれるとともに顔を上げる。
「駅の中に、十代後半の女の子が着そうなブランドっていくつありますかね?」
「駅ビル? ……そうねえ……若い子の好みは詳しくないけど、十代後半の子向けなら――」
 蒔麻は少し考えて、有名な海外ブランドから新進ブランドまでいくつかのブランド名を口にした。数は少なくはないが、そう多くもない。
「覚えたか?」
「はい」
 氷上の問いに佐伯は頷いた。氷上はそれらの店を当たるよう指示を出す。
「まず買い物……しますかね?」
「買った服を着ていったかどうかを訊くのを忘れるなと言っておけ」
「――服を変えて行ったと?」
「抜け出しっぷりからして狙ってたんだろう。伊庭さんはなんて言ってた?」
 氷上が確認を取るように神之倉を見遣る。
「ここに来ることを予測していたようだった。あまりうろつかせないでほしいと言われたが、呆れたような口振りだったな。慣れているんだと感じたが…」
 すぐに答えて寄越した神之倉に頷いて、氷上は佐伯に向き直った。そして親指で背後の神之倉を指差して言う。
「この馬鹿に面と向かってあんたは好みじゃないと言える娘だ。恐いもの知らずだとしてもそうでないとしても、一筋縄じゃいかないのは変わりねえ」
「…はあ……」
 後半はともかく前半部分に「はい」とは言えない佐伯は曖昧な返事しか出来なかった。
 馬鹿呼ばわりされた当の神之倉は反論をせず、口元に僅かに苦笑を浮かべている。
「追っ手をまいて移動するなら選択肢の多い駅――とすれば、でかい駅だろう。着替えが済めばとっと離れたほうがいいからな、買い物と着替えでロスしたぶんを取り返すなら、乗る電車までは小細工しないと思うが…」
「わかりました」
 佐伯は氷上の言葉に頷いてから一礼し、すぐさま踵を返した。
 その折り目正しい所作だけなら一流企業の社員のようだが、若い組員の中では最も頼りになる。任せておいて問題はない。
「……2時間半か……」
 佐伯が出ていってしばし訪れた静寂を破り、氷上が呟いた。そして、腕時計に落とした視線を神之倉に移す。
「落ち着いてんじゃねえか」
「慌てていてほしいか?」
「いいや。だが、お嬢さんがマジで格に惚れちまったらどうする?」
「どうもしねえよ」
「神之倉? 本気で言ってるの?」
 神之倉の短い返答に、横から蒔麻が会話に割り込んだ。デスクの上に身を乗り出すようにしている蒔麻の目は、真剣そのものだ。
「何もしないで見てるつもり?」
 詰問調の蒔麻に、神之倉は微苦笑を向けて口を開く。
 だが、何か言葉を発する前に電話の内線が鳴り、神之倉宛てだという電話を受けた組員の声がスピーカーから流れた。
 神之倉は片手を顔の前に上げて蒔麻に拝むようにして会話を中断する詫びを入れつつ、テーブルの上の子機へと手を伸ばす。
 そして、二言三言ことばを交わして腕時計で時刻を確認し、受話器を置いた。
「すまん氷上、30分ばかり外す」
「客か?」
「いや…しのぎの件で直接指示を出さなきゃならんところがあったんで、支部の連中を2、3人呼んであってな」
「わかった。携帯持っていけよ。格から連絡が来るなら、たぶんお前のところだ」
「ああ。四代目、すみませんが――」
 腰を上げた神之倉は蒔麻に頭を下げた。
 話の途中だが、組のことで動いている神之倉をこの場に留めて話を続けるには、ごく個人的な内容だった。大事なことではあるが、組事務所にいて組長と若頭である限り、私的なことは二の次だ。
 蒔麻は軽く頷くことで神之倉を促した。
 部屋を出ていく神之倉の背中を目で追った蒔麻のため息が、遠ざかる微かな足音をかき消すように放たれる。
 氷上は苦笑と共に蒔麻のデスクの前に立った。
「気持ちはわかりますけど、あんたがやきもきしてどうすんですか」
「……ホントよね……。でも、なんだかこう…複雑な心境なのよ」
 蒔麻は大きなため息をついて、困ったように両頬を手のひらで覆った。
 親しい友人の愛息で、自分にとっても甥のような、弟のような存在だった。
 そして、格が神之倉を好きなことも、神之倉が格を大切にしていることも知っている。
 2人とも蒔麻にとって大事な存在だ。心の底からしあわせであってほしいと思う。
 だから、それを邪魔する者が現れたなら心穏やかではいられない。
「ルックスは気に入られたみたいだし、格くんて基本的に女の子に優しいから、氷上が言うように本気になってもおかしくないんじゃないかなって……」
「もしそうなったとしても、格と神之倉の問題でしょう」
「そうなのよ。それもわかってるの。でも――」
 蒔麻は言い淀み、その先は口にしなかった。
 だが氷上は、言葉の続きを耳にせずとも理解していた。
 まだ13歳だということも、友人の息子であることも心得た上で、蒔麻は格を男として認めている。
 格も、神之倉を別格とした上で、蒔麻のことを女性として好きだと言う。
 だから、横から奪われてしまうような気持ちになるのだろう。
「……罪作りなヤツだな」
 呆れたような、面白がるような、そのどちらでもあってどちらでもないような声で呟いて、氷上は微苦笑を浮かべた。

 午後になってもルリは、飽くことなく店から店へと移動を続けた。あまり深く考えずに直感で購入することもしばしばで、荷物は瞬く間に増えていく。
 見かねた格は、その腕や肩に掛かった紙袋の一部を手に取った。
「持つよ」
「ええよ別に」
「いいから半分寄越しなって」
「…じゃあ――」
 少し考える素振りを見せて、ルリは格が手にした袋の手提げから腕を抜いた。
 この数時間、ルリは買った荷物を格に持たせようとしなかった。
 あちらこちらと強引に連れ回し、脅し文句もわがままも度々発するルリなので、当然自分は荷物持ちだと思っていた格は不思議に思う。
 バランスが悪かったりで持ち直す時には一時的に格の手を借りることもあり、いまもあっさりといくつかの袋を渡したので、自分の物を人に託したくないというわけではなさそうだ。
「ねえ、ホントに買わないでええの? あの服、めっちゃ似合ってたんやけどなあ」
 唐突にルリが言い出し、格を見遣った。
 カフェで昼食をとったあと裏原宿界隈をぶらぶらと歩き始めた時に入った店で売っていた服のことだ。着せ替え人形のように格にあれこれと試着させたうちの一着を、似合うから買ってあげるとルリは言い出した。
 だが、財布を持っていない今、交通費や飲食代を出してもらうのはともかく、そして連れ回した詫びというならまだしも、単に似合うからといって服まで買ってもらう理由はまるでない。
「こんなに買ってどうすんだ?」
「だって着替えとか持って来てないし」
「だからって俺にまで買う必要ねえだろ」
「似合ってたんやもん」
「小遣い大丈夫なのか?」
「――お金くらいしかあたしにくれてやるものがないんよ、うちのパパは」
 一瞬顔を強張らせたルリの口許を、皮肉めいた笑みがかすめた。
 今の今まで相対してきたルリからは想像できないような憂いのある表情に格は返す言葉に詰まったが、ルリはその笑みをすぐに消し、また別の店へと向かう。
「ちょっ、おい」
「ちゃんとあたしが使えるお金から使ってるから心配いらんよ」
 ルリは振り返らずにそう告げて、店の中に入った。その背中が心なしか淋しげに見え、少しだけ声が震えているような気がした。
 それほど広くはない店の中は、壁からショーケースから一面アクセサリーだった。貴石の宝飾品は見当たらず、ビーズや天然石のアクセサリーがほとんどだ。
「これどお? 似合う?」
 赤い石をあしらったネックレスとブレスレットを試着して、ルリがくるりと振り返った。
「着けてくのか?」
「ん〜…そうしよっかな」
「じゃあこっちの方がいいんじゃねえ?」
 格はショーケースに視線を落とし、シルバーと青い石を使って小さな花を象ったネックレスを指差した。
 赤い石はルリに似合うが、いま着ている黒と白のワンピースは裾にある柄に青い色が入っているので、青い石のほうが合うだろう。
「可愛すぎちゃうん?」
「似合うよ。ほら」
 格はルリの背後に回ってネックレスを着けてみせた。ルリは鏡を覗き込み、元々着けていた赤い石のほうを手で隠してみる。
「ほんまやわ。結構ええね」
「揃えて買うならこれとか」
 ネックレスの他にも同じ花を象った揃いのブレスレットやピアスがあったが、格はそれらではなく小さな指輪を手に取った。ルリは首を傾げて指輪に視線を落とす。
「これ小さくない? ピンキーリング?」
「そうですよ。ウチの店のは全部一点物ですから、ぜひセットでどうぞ」
 2人の様子を見ていた若い女性店員が寄ってきてにこやかに勧める。セットで買ってもそれほど値は張らない。
「優しいカレシさんでいいですねー」
「カレシに見える?」
「え、違うんですか?」
 問い返したルリに慌てて店員が尋ねたが、ルリは答えず左手を上げて指先を格へと向けた。
「はめて」
 小首を傾げてわざと可愛らしくねだったルリに、格はためらった。今ここで彼氏ではないと否定するのはおかしいし、彼氏だと強調する必要もない。
「薬指やないんやからケチケチせんでええやん。ほら」
 小声で囁かれて促され、それもそうだと思い直した格は反論せずに指輪を小指に嵌めた。
「あ、サイズぴったり」
「すごくお似合いですよー。カレシさん、センスいいですねえ」
「じゃ、この青いのを全部。こっちは包んで、これは着けてくわ」
 ルリは赤い石のネックレスとブレスレットだけを外して、青い花のブレスレットとピアスを店員に差し出した。
 全点セットでの購入に、店員は愛想よくブレスレットとピアスを受け取ってレジへと向った。
「うふふ」
「――なに?」
「んー? うん」
 店を出たルリは、手をかざすように上げ指輪を眺めて笑みを漏らした。そして格を振り返り、指輪をした左手の甲を格に見せる。
「どお? 似合ってる?」
「似合ってるよ」
 もっとナチュラルなメイクならなお似合うと思ったが、それは口にせずに格は頷いた。
 初めて会った時はその尊大な態度や外見からかなりスレて見えたが、はっきりとした目鼻立ちなのでおそらくメイクなしでも可愛らしい華やかさがあるだろう。
 余程気に入ったのか、ルリは機嫌の良さそうな笑みを浮かべて再度指輪を眺めた。
「…なあ、そろそろ連絡だけでも入れようぜ」
 のらりくらりと引き伸ばされていた約束を実行しないかと格は促した。横浜を出て5時間が過ぎている。
 だがルリは格の声が聞こえなかったかのように、通りを見渡した。
「次は何を買おっかな〜」
「まだ買うのかよ?」
 ここまでかなりの金額を使っているルリに、格は思わず問い掛けた。正確に計算しているわけではないが、五桁では済まないのは確かだ。
「だからぁ、あたしが使えってええお金やから大丈夫やって」
「だからって、ちょっと買い過ぎじゃねえのか?」
「余計なお世話」
 一転して不機嫌になり、ルリはつんと顔を背ける。
 しかし格は、それで会話を終わらせられなかった。余計な口を出したくはなかったが、ルリの買い物の仕方と先ほど目にした憂い顔に何かつながりがあるような気がしてならない。
「いくらあんたが自由に使える金ったって、限度があるんじゃねえの?」
「…じゃあ、あたしがウリでもやって稼いだ金ならいくら使ってもいいわけ?」
「自分で稼げって話じゃねえだろ。なんでそう極論に飛ぶんだよ」
「使ってやんなきゃ気が済まないんよ!」
 急激にルリの声のトーンが高まり、手にしていた袋を格に向かって投げ付けた。ビニール製の袋は、格の左頬に当たってアスファルトの上に落ちる。
 通りかかった幾人かが、遠巻きに好奇の視線を寄越して去っていった。
「あんたは黙ってついてくればええの! 説教してなんて頼んだ覚えない!」
 格は身を屈めて袋を拾いあげた。柔らかい材質で中身も衣類なので、顔には傷も痛みもない。
 怒声を発したルリは、肩で息をしながら格を睨み付けた。
 その怒りを受け流すようにして、格はもう一度静かに問い掛けた。
「…無理やり使って楽しいか?」
「……楽しいとか楽しくないとかいう問題やないねん」
「親父さんのこと、嫌いなのか?」
「――わかんない」
 不躾なのは承知で思い切って尋ねた格に、ルリはぽつりと答えた。
 父親に対する鬱屈したものから浪費に走っているのは確かなようだ。だが「わからない」というのも本心だと格は感じた。
 しかし格は、自分からはそれ以上深く聞こうとはしなかった。そこは簡単に踏み込んではいけないところだ。
「帰ろう。電話かけさせて」
「…イヤ……」
「ルリ」
「イヤやって…っ!?」
「ルリ?」
 一歩近付いた格から逃げるように後退さったルリが、ふいによろめいた。突然何かに躓いたような様子に作為的なものはないと感じて、格はルリの元に歩み寄って俯いている顔を覗き込む。
「どうした?」
「……なんでもな――っつ…」
「足か?」
 足元に視線を落とし顔を歪めたルリに、格はその場にしゃがみこんだ。白い足のどこにも異変はないように見える。
「ちょっとそこ座って」
「…なんやの?」
「いいから早く」
 傍らのビルの壁面の植え込みを示して座るよう強く促す格に、ルリは渋々従って植え込みを囲むレンガの縁に腰を下ろした。
「ミュール脱いで」
「え?」
「脱いで、両方」
 短い指示に逆らえぬままルリはミュールから足を抜く。そこに予想通りのものを見つけて、格は小さく息をついた。
「――やっぱりな。いままで痛くなかったのか?」
「え…? あ」
 問い掛けられて足先に視線を落とし、ルリは小さく声を上げた。右足の親指の付け根が赤く腫れ、皮が剥けて血が滲んでいる。左足も皮膚こそ無事だが明らかに赤くなっていた。靴擦れだ。
「買ったばっかのミュールであちこち歩き回るから…」
「…っしょーがないやん…」
「絆創膏持ってるか?」
「持ってない…」
「じゃあ2、3千円貸してくれる?」
 格は立ち上がり、バツが悪そうに俯くルリに言った。
「薬局探して買ってくる。このまんまじゃ歩くのキツイだろ」
 気付かないうちならいいが、確かにこのままでは歩き辛い。ルリは格の言うことももっともだと納得し、千円札を3枚手渡した。
「すぐ戻るから、ここで待ってて。座ってろよ」
 金をジーンズの尻ポケットにしまってルリにそう告げると、格は駅の方角に向かって駆け出した。足取りも軽やかなその姿はすぐに雑踏の中に消える。
 ひとり残されたルリは、しばらく格の去った先をぼんやりと眺めていたが、行き交う人々の視線を感じて我に返り、無造作に地面に置かれていた足元の袋類をそばに引き寄せた。
 不審そうにちらちらと送られる視線を散らすために、一番大きな紙袋に荷物をまとめにかかる。だがひとつにはまとめきれず、結局5つほどの荷物になってしまった。
 携帯電話で時間を確かめる。格がいなくなって5分は過ぎただろうか。ルリの記憶には薬局の姿はないので、この付近には見当たらずに探し歩いているのだろうと思う。
 しかし、それから10分経っても15分経っても、格は戻って来なかった。
 何度目かの時間の確認をしたルリはハッとして携帯電話を握りしめる。
「もしかして――」
 薬局に行くと言っておいて、電話を掛けに行ったのだろうか。
 走り去った先には駅がある。3千円あれば横浜までの交通費には十分だ。
「…あ…――」
 急激に不安に襲われてルリは立ち上がった。再びミュールを履き、荷物を肩に掛ける。
「…っ重…!」
 先ほどまで意識していなかった荷物の重みが突然両肩にのし掛かり、思わず声が漏れた。
 おいていかれた――そのショックに呆然と立ち尽くす。
 右を見ても左を見ても、見知った人間はいない。見慣れた街の景色でもない。
 それが、ルリの不安を倍増させた。
「…やだ……」
 呟いてみても、答えは返って来ない。
 まんまと欺かれた自分と欺いた格に腹が立つ。だが同じくらいの心細さに、じわりと涙が滲んだ。
「格のアホ…っ」
 ――いや、そうではない。
 ルリは涙を隠すように俯いて、思考を明瞭にしようと首を振った。
 怒らせたのは、怒るべきなのは――
「ルリ!」
 その時、近くはないが遠いともいえない距離から名を呼ばれ、ルリは弾かれたように顔を上げた。
 声の方を向くと、走ってくる少年の姿が見える。
 格は一度も足を止めることなくルリの元までたどり着き、荒い呼吸のまま手にしていた半透明のビニール袋を掲げて見せた。
「わるい、遅くなった」
 ドラッグストアのロゴの入った袋の中には、確かに絆創膏が透けて見える。
「……ホントに薬局に行っただけ…?」
「ん? ああ、駅の方にあったんだけど、思ったより遠くてさ。待たせてごめん」
 格は答えながらルリの持っていた荷物を取り上げて下ろし、元の植え込みの前にルリを座らせた。
 そしてその前にしゃがんで、かしずくように片膝を高くしてルリを見上げた。
「ミュール脱いで、足ここに乗せて」
 高くした足の大腿部を手のひらで叩いて促す格に、ルリが躊躇する。
 露出の多い大胆な服も、人前で腕を組むのも手を繋ぐものキスすらも恥ずかしいと思ったことがないのに、このシチュエーションは何故だか猛烈に恥ずかしい。
 だがそれを悟られるのは癪だったので、ルリは言われたとおりにミュールを脱いで素足を格の膝に乗せた。
 格は袋の中から500ミリリットルのペットボトルの水とタオルとを取り出し、傷口を洗うようにルリの足に水を掛けて、タオルで丁寧に水気を拭った。
 それからスプレータイプの消毒液を吹き付けて、乾いたところを見計らって絆創膏を貼り付ける。
「次、左足」
 そっと右足を下ろしてもう一度ルリを促し、格は消毒以外の工程を繰り返した。その様が妙に恭しく見えてわけもなく照れ臭く、ルリは赤らんだ頬を隠すように顔を背ける。
「ちょっとだけ足こっちに乗っけてて」
 手当がすむと、格は足を拭うのに使ったタオルを水で湿らせ、ルリの足を左側のミュールにまとめて乗せさせた。そして右足のミュールを手にとって、ちょうど親指が当たる部分を濡らしたタオルで拭う。
「――ん、血はあんまり付いてなかったみたいだな」
 タオルとミュールとを確認して頷き、格はミュールを元の位置に戻した。そして、
「はい、終了」
 そう言ってタオルや絆創膏を袋に戻して立ち上がり、格はジーンズの膝を軽く払った。
「………」
「ルリ?」
 なんのリアクションもなく黙っているルリを格が覗き込む。
 俯いたルリの目には、今にもこぼれ落ちそうなほど涙がたまっていた。
「どうした? 足、痛い?」
「……ちが…」
 首を横に振ったルリの目から、その勢いでほろほろと涙が流れ落ちる。ふにゃりと泣き崩れそうになり、ルリは慌てて顔を覆った。
 どうして泣けてくるのか、ルリにもわからなかった。だから、どうしたのだと訊ねられても答えることが出来ない。
 強いて言うなら、ほっとしたのだ。
「……なん…で、そのまま帰っちゃわなかったん…?」
 新たな涙をこらえ溢れた分をハンカチで拭って、逆にルリが尋ねた。
「なんでって、なんで?」
 格は首を捻り、不思議そうに問い返す。
「電話だって出来たやろ」
「あ〜…それは考えなかったな」
 格はいま初めてそれに気付き、思い至らなかった自分に驚いた。薬局に行って帰ってくるあいだ電話のことをすっかり忘れていたのだ。
 ルリはそんな格をじっと見上げて、バッグの中から携帯電話を取り出した。そしてそれを格へと差し出す。
「電話。かけてええよ」
 素っ気ない仕草と決まり悪そうな横顔のルリに驚いたように目を瞬いた格は、ふっと笑みを浮かべて差し出された携帯電話を手に取った。
 そして、何を見ずともしっかりと記憶している神之倉の携帯電話の番号を打ち込む。
「……怒鳴ったり袋投げたりして……ごめん――」
 耳元で聞こえる呼び出し音よりも小さな声でのルリの謝罪の言葉に、格は微笑みを返した。

「……はー…――」
 格は深いため息とともに身を投げ出すようにして腰を下ろした。ぼすん、という音とともにソファのクッションが格の体を受け止める。
 神之倉の部屋のリビングの、格の定位置だ。
「お疲れさん」
 放心したようにぼうっと天井を見上げていた格の額に、声と共にコツンとグラスの底が当てられる。冷たい烏龍茶で満たされているそれはひんやりとしていて気持ちがいい。
 神之倉は、目と閉じて冷たさを楽しんでいる格の額からグラスを上げて、額に付いた水滴を手で拭き取ってやり、格にグラスを手渡した。
「すまなかったな、止められなくて」
 向かい側のソファに腰を下ろした神之倉は、ネクタイをゆるめて襟元をくつろげた。脱いだ上着はカウンターの前のダイニングチェアに掛かっている。
「しょうがないよ、士朗は電話中だったんだし。振り切って逃げらんなかった俺も悪いし」
 格はグラスのお茶を一気に飲み干して、人心地がついたというようにふっと息を吐いた。
「でも買い物に付き合わされて引っ張り回されたくらいだから大丈夫だよ」
「だがお前、明日もなんだろう?」
「うん…」
 問われた格はあきらめ顔で宙を仰いで腕を組んだ。
 ルリの携帯電話で神之倉と連絡を取ったところ、30分も経たないうちに迎えの車が来た。横浜駅で服を替えたことと乗った電車までを特定し、その路線で行ける範囲でいる可能性の高そうな場所を絞って人を出していたという。迎えに来た車はちょうど格たちのいる方面に向かっていたらしい。
 そこまで読まれてしまったことに腹が立ったのか、はたまた最初からそのつもりだったのか、ルリは格に明日も付き合えと言い出した。
 電話で連絡を取るための交換条件は期限をきっていないのだから明日以降も有効だというのがルリの主張だ。
 そんなことは聞いていなかったし、明日は部活もある。だから駄目だときっぱりと断った格に、それなら部活を見に行くとルリは言った。
 脅しではなく、本気で来る気だろうと思った。だが、夕刻に横浜に着いた伊庭の部下2人はどう見ても堅気の人間ではなく、彼らがルリについてきたら単なるギャラリーだとは誤魔化せない。
 黙って見ていろと言ったところでルリは聞き入れそうもないので無関係を貫けるはずもなく、顧問や部員に関係を問われた場合の上手い言い訳は考えつかなかった。
 行動を共にしてルリの強情さを把握できていた格は、学校にまで押し掛けられて騒ぎや噂になるよりはと、ルリの強引な誘いを受けることにしたのだ。
 そのルリは、古賀沢邸に泊まっている。
「古賀沢としては、ルリをあんまり放っておくワケにはいかないんだろ?」
「そりゃあぞんざいな扱いは出来ないが、お前が無理をする必要はないんだぞ。氷上なら巧く言いくるめられるだろうしな」
「うん……」
 たしかに氷上ならば、古賀沢に都合のいいようにルリを言いくめることも可能だろう。わがままも労せずあしらえそうだ。格にとってはその方が楽でもある。
 しかし、明日も1日付き合えと言ったルリが執拗に食い下がったのが引っ掛かった。そして、昼間のルリの様子が思い起こされる。
 気も、我も、押しも強いが、思いのほか可愛げもある。明るくて陰湿なところがないからかもしれない。
 それでいて淋しげな、華奢な背中が気に掛かる。
「氷上に任せるか?」
「んー……いいや、行くよ。一度はOKしたんだし、東子の買い物に付き合うことあるから女の買い物には慣れてるし。わがままは言うけど、悪い人間じゃねえと思うしさ」
「……そうか」
「うん。部活に出らんないのは痛いけど。明日の夜、打ち込み稽古すんのに事務所の道場貸してもらってもいい?」
「ああ」
「サンキュ」
 格は笑顔で礼を言って立ち上がった。
 視線を送られて格の意図を察した神之倉は、座る位置をずらしてソファの右半分を空ける。格は歩み寄り、神之倉の隣りに腰を下ろして嬉しげに微笑んだ。
 格が武道を始めて1年が経っている。体つきがしっかりし、声も低くなったが、こういうところは以前と変わらない。
 蒔麻は気が気ではないようだが、神之倉にはある種の確信があった。相手がルリならばそれほど心配はいらないはずだ。
 格の人を見る目は信用できる。ルリといることが苦痛でないならそれでいい。
 神之倉は背中側から回した腕で格の頭を抱き寄せた。
 格は一瞬驚いてから笑顔に変わり、安心したように目と閉じて体を寄り掛かからせた。


−続−



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